十和田市帰省報告
8月11日より16日まで、十和田市の実家に行きました。家族3人で帰るのは2年ぶりです。ちょうどお盆ともかさなり、ほとんど家に居ました。それでも大阪との違いを実感せずにはいられませんでした。今回はその報告です。
大阪と十和田市を行き来してまず感じたのは、その天候、とくに気温の違いです。いつもだいたい10度くらいは違っていました。例えば、8月16日の三沢空港での掲示だと、午後1時時点で、三沢21度、大阪(伊丹)35度となっていました。伊丹空港に降り立った時の感じは、熱気ないし排気の塊に押し潰されそう、といったものでした。
大阪と十和田市は距離にして千キロくらい、緯度でも6度弱しか違わないのに、平年にもまして、どうしてこんなにも温度が違うのかと思います。
単純に言えば、大阪の暑過ぎ、十和田の寒過ぎということになるのでしょう。大阪の暑過ぎの原因については、天気予報のおじさんたちの言にしたがえば、太平洋高気圧の居座り、ヒートアイランド現象、生駒山越えの東風によってしばしば起るフェーン現象などといったことになるのでしょうが、とにかく今年の暑さは異常と言いたくなります。テレビでは、8月になってからこれまでに、最高気温が35度を超えた日が大阪ではすでに11日になったと言っていましたし、私がよく聞いているラジオ深夜便の世界の主要都市の最低・最高気温でも、大阪はこのところニューデリーやシンガポール等の熱帯の都市の値を上回っています。
いっぽう、十和田の寒過ぎの原因については、よく言われる山背を私はこの帰省中に実感しました。山背は、太平洋上のオホーツク海高気圧から吹き出す冷たく湿気を多量に含んだ北東風のことで、その影響で三陸地方にしばしば 冷害がもたらされました。帰省していたのは1週間たらずでしたが、それでも、毎日朝晩は霧か霧雨、昼間はいつも曇りでほとんど陽は差さず、これは山背の影響だと納得しました。これでも、土地の人の話だと、いままでよりは温かくなったとのことで、すこし前までは最高気温でも20度を超える程度だったということです。8月15日には日本原燃見学のため六ヶ所村に行きましたが、太平洋岸演いにあるためでしょう、一定縫向に吹く冷たく湿った強い風を肌で感じ、これが山背そのものだと実感しました。
地元の人たちは、今のままの天候だと稲の実がほとんど入らず凶作になるのではとか、天候が持ち直したとしても半作が良いところではなどと心配していました。私はそんな話を聞くと、すぐ宮沢顕治の『雨ニモマケズ』や『グスコーブドリの伝記』を思い出したり、十年ほど前(1993年)の大冷害のことが頭をよぎったりします。当時十和田の実家では平年ならたぶん5、6百俵は穫れていたのに、自分の家で食べる米でさえ買っていました。また大阪の私たちもタイ米を買ったりしてけっこう美味しく食べていました。
大阪の暑さには、クーラーの使い方、建物や都市の構造、緑化面積等、かなり人間側の要因もはたらいているでしょうが、十和田の寒さはいわば自然現象でどうしようもありません。たしかに、冷害に強い品種の開発や稲の育て方の工夫などの対策はとれますが、それにも限界があります。
でも幸いなことに、最近では、昭和の初めまでのような、冷害から凶作そして大飢饉というような惨状に至る可能性はほとんどなくなりました。青森県や岩手県など一部で冷害になっても、全国的には平年作ということも多いですし、またたとえ全国的に不作でも貿易により食料を外国から買い入れることができます。農家にしても、冷害に見舞われて半作ないしそれ以下になっても、共済制度によってある程度は補償されますし、今は減反政策のため青刈りしてもかなりお金が出ます。そういうこともあってか、凶作が危惧されるような状態にありながら、以前ほどのせっぱ詰まった感じはそんなに受けませんでした。現状の善し悪しは別としても、農民的心性の変化を感じざるをえませんでした。
十和田の実家のある集落は「熊の沢」という名前で、しばしばクマとの関連をきかれます。地名の由来はわかりませんが、たしかに小さいころ(今から3、4十年前)は時々クマが出没していました。3歳違いの妹の記憶でも、小学校の時クマが出たということで集団で登下校したそうです。
さて、今回の帰省中、何十年ぶりかで「クマが出た」ことが話題の一つになっていました。それも、兄夫婦が初めに目撃したそうです。
熊の沢から熊の沢川沿いに1キロ弱さかのぼった所に、生徒数数人の小さな小さな小学校・柏小学校があります。そこからすこし行った所を自動車で走行中、兄夫婦は山側から下りてきて道をわたって行くかなり大きなクマを見、すぐ警察に通報しました。調べてみると足跡も見つかり、さらにその後柏小学校の校庭を歩いているクマを見たという人も現れました。娘の話だと、学校の入口には「クマに注意!音を出して歩くように」と書いてあったそうです。
今年に限ってどうしてクマが出たのでしょうか。単純な素人考えで、天候不順のため山の食べ物が不足しているからでは、とつい想像したくなります。それを傍証するかのように、トーモロコシ等の作物をだいぶキツネに食い荒らされたとか、台所までキツネが入って来たとか、何かわからないがキツネやタヌキよりももっと大きな物による食い跡があったとか、いろいろ話を聞きました。
でもやはり、都会とは異なって、こんな話にもあまり深刻さは感じられず、どことなく面白おかしい話題になっていました。
帰省中唯一の遠出は、六ヶ所村にある日本原燃(http://www.jnfl.co.jp/)の六ケ所原燃PRセンターの見学でした。
六ヶ所村は、あのまさかり形をした下北半島の付け根部分の太平洋岸にある村です。沼地や荒地が多く、また気候条件も悪いため、一部で酪農が行われているほかは、あまり農業に適した土地ではありません。1970年代初めから夢のようなむつ小川原開発構想に地元も期待を寄せていましたが、時代の推移とともに計画は何度も行き詰まり縮小されました。その中で実際に実現したのは、1985年に完成した日本発の石油国家備蓄基地、および同年受け入れが決り現在進行中の核燃料サイクル基地です。
日本原燃は、この核燃料サイクルの実施主体として、全国の9電力会社等が中心になって出資した株式会社だそうです。その事業内容や核燃料サイクルの解説は、上の日本原燃のホームページから見ることができます。
8月15日、家内といっしょに、妹の車で片道2時間弱かけて六ヶ所村に行きました。着いた時の家内の感想は、「最果ての、荒涼とした、寂しい地」でした。でも、思いもかけずPRセンターは見学者が次々と訪れていました。私たちは十人くらいで1組となって、コンパニオンの案内で、地上3階、地下1階のセンター内を30分ほどで見て回りました。
3階は展望ホールになっていましたが、霧で見通せず、パネルによる説明でした。コンパニオン嬢の説明では、直径80m、高さ20mの石油タンク50基余りに、日本の消費量の約1週間分、4百万キロリットル余りが備蓄されているそうです。その規模の大きさには感心しました。
2階から地下1階には、核燃料サイクルの各段階の処理工程を示した実物大の模型があり、その一部は触ることができました。ウラン濃縮後2酸化ウランを焼固めて直径1cmくらいの円柱形にしたペレット、そのペレットをジルコニウム合金の被覆管に詰めさらにその被覆管を何十本も束ねた燃料集合体、低レベル放射性廃棄物用のドラム缶およびその埋設の様子、高レベル放射性廃棄物を加工したガラス固化体などを実際に触ってみると、核燃料サイクルや廃棄物の扱いについてかなり具体的にイメージできるようになりました。
日本原燃は、ウラン濃縮工場(1992年操業開始)、低レベル放射性廃棄物埋設センター(同年操業開始)、再処理工場(1993年着工、2005年完成目標)、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター(1995年操業開始)の4施設により、これまでイギリスやフランスなど海外に依存していた核燃料サイクルの各工程をできるだけ国内で行い、使用済み燃料をリサイクルすることで「準国産エネルギー」の安定供給を目指すものとされています。しかし、PRセンターではほとんど説明はありませんでしたが、再処理の安全性と経済性、プルトニウムのあつかい、高レベル放射性廃棄物の最終処分法など、これからより難しい問題に直面しなければならないというのが現実でしょう。
青森県で原燃とともに今話題になっているのが、イーター(iter:国際熱核融合実験炉)です。核融合は臨界事故や放射線の無いクリーンなエネルギーと一般に受け止められており、県や六ヶ所村は、ふたたび国の、今回は国際的な、プロジェクトを誘致することで地域振興を図りたいのかもしれません。朝日や毎日などの一般紙を読んでいても、ITER誘致の議論は、4千億円にのぼる財政負担、あるいは研究費の配分問題などに終始し、その安全性を正面から扱った記事はなかなか見かけません。ちょっと調べてみたら、東奥日報
2001年2月19日のニュース記事(http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2001/nto20010219.html)中に「討論…ITERを誘致すべきか」があり、おもに安全性をテーマに専門家が反対・賛成の立場からそれぞれ意見を述べています。よくまとまっていますので、興味のある方はぜひお読みください。
私は一般に施設が巨大になればなるほど、その安全性には注意がはらわれるべきだと思っています。ITERの場合、燃料となるトリチウムが放射性物質であること、反応の結果出てくる高エネルギーの中性子線による強力な放射化、多量の放射性廃棄物、そして何よりも十分に判っていないことが多すぎること等、安全上重大な問題があると思います。実用化に向けた実験炉の建設はまだまだ早すぎます。核融合については、他の選択肢もふくめ、なお基本的な研究の積み重ねが必要だと思います。
(2001年8月20日)