十和田市のアートゾーンと十和田市郷土館

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 8月10日から5日間、十和田市の実家に帰省していました。昨年末に全身の感染症のため、80代中半で急に失明した母のことが気になっての帰省です。身体のほうはだいぶ元気になり、妹が食事などもふくめとても丁寧に面倒をみているので心配することはないのですが、やはり80代中半での失明は本人にとってなかなかきついようです。私なりになんとか力になればとは思うのですが、たいして何のアドバイスもできない状態でした。
 
 8月12日と14日に、十和田市中心部の官庁街通りにある、アートゾーン(野外芸術文化ゾーン)と、市民図書館の2階にある十和田市郷土館に妹と一緒に行ってみました。
 1キロ余ある官庁街通りは、歩道も広く、車道側に桜、反対側に松の並木(両側を合せると計4列の並木)が続いています。花壇にはいろいろな花が咲き、奥入瀬渓流や稲生川(いなおいがわ。人工の水路)をイメージしたという水の流れもあり、散策にはとても良い所です。この通りは、戦前には旧陸軍軍馬補充部が設置されていたことから「駒街道」とも言われ、各所にいろいろな馬のオブジェもあります。そして2008年、中心施設として十和田市現代美術館が開館し、野外にもいろいろな巨大な作品が展示されるようになりました。
 まず、馬のオブジェたち。歩道のあちこちに、1メートルほどの棒の上に、車道側を向いて小さな馬の顔のオブジェがあります。すらりとしていてかわいいです。歩道の路面にはところどころ、半円形の蹄鉄がいくつも並べて埋め込んであります。また、ほぼ実物大の馬の像もいろいろありました。駆けている姿、何か食べようと顔を地面のほうに向って伸ばしている姿(その先にはカエルがいました)、おだやかに立っている姿など、5頭の馬がいました。母馬と子馬計5頭が、仲よくいました。ポニーでしょうか、小さな馬の背は、多くの子どもたちが触ったり乗ったりしたのでしょう、すっかりつるつるになっていました。また、実物大の鞍もあって、私もそれに乗ってみましたが、足が鐙までは届きませんでした。
 次は、現代美術館の向い側のアート広場にある大きな作品群です。いくつか、凸凹があったりうねうねしたような曲面の大きな立体物があります。穴が空いている物もあって、覗いてみたり、そこから中に入り込むこともできます。中に入り込むのは子どもたちに大人気とかで、私も這う姿で入ってみました。うねうねと曲がりくねり下り下りする空間が続いていて変った身体感覚になります。また、変な形の家のようなのがあって、その中に入ると、その家が自身のことについて自問自答するようにあれこれと語り始めます(これは、オーストリアのエルヴィン・ヴルムの「ファット・ハウス」という作品です)。音声は英語で、日本語字幕が流れていて、しばらくその中で過ごしました。
 このアート広場で目をひくのは、草間彌生の一連のカラフルな水玉模様の作品たちです。大きなキノコ(傘を閉じているのや開いているのがあった)、所々穴のある巨大なカボチャ、かわいい感じの少女や犬たちです。だいたいは表面がつるうっとした感じで、大きな丸が表面にいくつも描かれているのが触ってもかすかに分かります。この水玉模様は、その辺りの路面や床面、さらには商店街のウインドウなどにも採用されているとのことで、いわば草間ワールドが現出しているような感じなのでしょう。(草間彌生は今で言う統合失調症のようですが、その作品はいわゆるアウトサイダー・アートとしてではなく、特にアメリカでは、そして最近は日本でも、モダン・アート、中でもミニマル・アートの中心的な担い手として評価されている方で、80歳を越えた現在も精神病院に居ながら次々と作品を生み出しているようです。)
 現代美術館の前では、2年前に見学した時にも触った、カラフルな花々に覆われたフラワーホースと、巨大なハキリアリにも触ってみました。
 
 それから、妹と連れ立って官庁街通りにある市民図書館に立ち寄ったのですが、その2階が「十和田市郷土館」になっていました。露出展示もあったので、もしかすると触れられるかもしれないと思って入ってみました。係の方に尋ねてみると、「触らないと感触はわからないしねえ」と言って、ケースに入っていない物は触って良いとのことです。実際、剥製のコーナーには「やさしくさわってね」という表示があり、触ることが前提でケースに入れていないようです。その日は時間がなかったので、10分弱、ちょっと剥製に触れたくらいで帰り、14日に1時間弱見学しました。以下に私が触った範囲で郷土館の展示品について書きます。
 *十和田市郷土館は、2012年11月に、旧十和田湖町の奥瀬に移転しました。2015年8月11日に妹と30分くらい見学しました。以前と同様、ケースに入っていない物はすべて触れます。展示室が広くなり、展示品もいくらか増えているようでした。以下の記述には、今回の見学で再確認したり一部新たに触った物も含まれています。
 
●地形模型
 まず、十和田市を中心に、東は三沢市、北は青森市くらいまでの簡易な地形模型に触れました。八甲田の山々が、大岳を中心とする北八甲田連峰と、櫛ヶ峰などの南八甲田連峰から成っていることがある程度分かりました。また、十和田湖が、周りを十和田山などの千メートル前後の山々に囲まれていて、東側の子ノ口(ねのくち)から奥入瀬川が北東に向って流れ出していること、湖が2つの細長く北に突き出した半島(御倉山半島と中山半島)によって3つの部分に別れていることなどが分かりました。さらに、十和田湖から流れ出した奥入瀬川が、その後ほぼ東に向って三沢氏付近で太平洋に注ぐまでの経路をたどってみたり、三沢氏の北に広がる小川原湖なども触って確認しました。
 ただ、例えば、十和田湖の最深部(327m)は2つの半島の間の中湖(なかのうみ)にあるはずですが、この模型では中湖は東湖や西湖とほとんど変わらない深さになっていて、あまり精密とは言えないようです。でも、故郷のいろいろな地名の位置を確かめてみるのはなかなか楽しいものでした。
 
●土器類
 十和田市内の各地の遺跡から見つかった縄文前期(約6000年前)から中期・晩期(後期の物は見当たらなかったようです)にかけての土器類がたくさん展示されているのには、かなり驚きました。弥生土器や、さらには奈良・平安時代の土師器や須恵器までありました。
 十和田市の中央部から東部にかけての三本木原については、小さいころから、3本の木しか生えていなかった不毛の地で、江戸末期になってようやく新渡戸傳によって人工の用水路が引かれるようになって今のように人が住み始めたなどと聞かされていました。(「三本木」という地名の由来などについては、三本木原開拓の歴史 を参照)
 「十和田湖の成り立ちと平安時代に起こった大噴火」 によれば、4万3000年くらい前から6300年前くらい前まで、計4回にわたって十和田湖火山が大噴火して、周囲はその度に広く火砕流に覆われたとのことですので、三本木原も甚大な被害を受けたと思われます。その後しばらく、火山活動の平穏な時期が続き、人々の暮らしも可能になって、縄文前期から平安時代くらいまでは、奥入瀬川などの川のそばを中心にかなりの遺跡が点在できたとも考えられそうです。
 しかし、10世紀初め(915年)、それまでの4回の噴火よりは規模は小さいですが、過去2000年間では日本で最大という噴火(50億トンのマグマが噴出)が起こり、十和田湖を中心に周囲20kmが火砕流に覆われたと言います。三本木原が人々の生活に適さない荒漠たる地とされたのは、もちろんこのような地質的な理由だけではなく、夏の冷たい東風(やませ)、冬の八甲田山からの寒冷な北西風、台地上には大きな川がないなどの要因などもあるでしょう。
 話を郷土館の展示に戻します。まず、縄文の前期・中期・晩期の土器の破片を比べられるようになっていました。前期では、きれいに縄目の模様のある物や、丁寧に線刻で模様を付けたと思われる物がありました。中期では、土器の破片の厚さが増し、器の全体の大きさも大型化したようです。模様や飾りも、三内丸山遺跡で触ったような、豪華な感じがします。晩期では、破片の厚さがかなり薄くなり、また模様が簡単だったり無い物もあります。寺上(てらうえ)・明戸(あけど)・高見(たかみ)・切田前谷地(きりだまえやち)などの遺跡から見つかった破片を組み合わせて復元した大型の壺類や鉢類もかなりたくさん展示されていました。中には、注ぎ口の付いた土器、囲炉裏に転用したという土器、亀ヶ岡文化の影響を受けたという、渦巻きのような繊細な模様の付いた壺などもありました。
 土師器や須恵器の破片や復元品がいろいろありました。青森県でも須恵器が作られていたのですね。須恵器は黒っぽくて見た目ですぐ分かるとのことですが、表面を触っただけでは土師器と須恵器の違いはよく分かりませんでした。でも、断面を触ってみると、須恵器のほうが明らかに硬く鋭利な感じがします。
 その他、平安時代の鍛冶仕事の様子を思わせる、鞴の口・鉄の塊・鉄滓(てつさい)などもありました。
 
●昔の道具類
 アイロン・洗濯機・電話・燈火について初期から現在までの変化を、実際に触れて知ることができるようになっていて、私にも馴染みのない物もありました。昭和27年製の洗濯機は直径20cmほどの球形で、びっくりしました。これは攪拌式と呼ばれるもので、攪はん機が丸い槽の中央で左右交互に往復することで水流を起こす法式だとのことです。その後、噴流式、渦巻式と変化していきます。燈火では、提灯、行灯、ランプ、電球などがありました。また、むかし懐かしいブラザーミシンのほかに、1920年代?に輸入されたという、10cm立方くらいの卓上ミシンもありました。
 十和田市は馬の産地だったので、馬具などもいろいろ展示されていました。鞍や鐙、蹄鉄、何を削ったか分かりませんがでかいやすりのような物とか、獣医が解剖用に使ったという小さな鎌のような物などありました。また、私が小さいころ知っているのよりはかなり大きな馬そりもありました。
 昭和20年ころの農家の暮らしの様子を再現したコーナーもあって、それは私が小さいころ住んでいた家の様子とほとんど同じでした。とくにトナ切り(馬の餌となる稲藁や草などを細かく切る道具。長方形の箱の一方の端に、刃先を固定して柄のほうが自由に動くようにした大きな包丁のようなのが付いている)があって、あのザクッザクッという音が懐かしかったです。また、長持もあって、その飾りのようにも思える錠前など、これも印象深いものでした。薬研も展示されていましたが、これは私の家にはありませんでした。その他、織機もあって、高機(たかばた)や裂織(さきおり)用の地機(じばた)などが展示されていました。
 
●剥製類
 初めに触ったのは、体長1メートルはある、大きくずっしりとした感じのニホンカモシカです。目は横向きに付いていて、角はわずか10センチくらいしかなく、つるうっとした感触で後ろにきゅうっと曲がっています。ニホンカモシカは、鹿の仲間ではなく牛の仲間、偶蹄目だということです。確かに、足先には2本の蹄がありました。ちなみに、シカ科の角は枝角と呼ばれ、頭骨とは別のもので毎年生え変わるのにたいして、ウシ科の角は洞角と呼ばれ、頭骨が伸びたもので一生生え変わることはないとのことです。
 次に、これまた大きなオオハクチョウです。十和田の実家の近くでも冬にはしばしば白鳥の羽音を聞いたことはありますが、剥製は初めてでした。首が40センチくらいも長く上に伸び、そこから20センチ近くある平たいくちばしが真っ直ぐ前に伸びています。目が大きくて横向きに付いています。羽はたたんだ状態ですが、羽に覆われた体は長さ50〜60センチくらい、径30センチくらいもあって、ずんぐりした感じです。脚は20センチと短い気はしますが、3本の10センチ以上ある長い指が広がっていて、その間には広く水かきがありました。
 とくに興味をひいたのは、2頭のホンドギツネです。1頭は、なにか獲物を狙っているように、頭を低くして口先を伸ばしています(全長は70cm弱)。もう1頭は、全長70cmほどのキジの胸のあたりを大きく口を開けて噛みくわえている姿です。牙が突き刺さり、開いた口の上下の奥歯まで触って分かります。キジはひっくり返されたような状態で、片側の羽は広がって下に垂れ、首も下に垂れ下がり、2本の脚は横倒しになっていて、噛まれたあたりの羽はざらついていて汚れているようです。
 その他、子供のツキノワグマ(前向きに付いている目は大きな顔に比べて小さくかわいい感じ)、テン(全長は60cm以上あり、毛がふさふさしていて滑らか。目は前向きで犬歯も大きいようだが、森林中でかなり植物食だとか)、ニホンイタチ(全長40cm余、スマートな感じ)、ニホンリス(全長20cm余、目は横向き、大きな前歯のようなのが分かった)がありました。
 
 郷土館の展示スペースは、たぶん教室を2つ3つ合せたくらいの狭い面積ですが、多岐にわたる展示物が所狭しと置いてありました。土器類の名品や装飾品、繊細な剥製、寄贈されたという苫米地家文書や畑山家文書など、貴重な品々はもちろんケースに入っていて、実際に触れられるのはたぶん全体の半分をはるかに下回るとは思います。それでも、実際に触ることを前提にして展示してあることには感心しました。地方のごく小さなミュージアムですが、触って知ることの大切さがこのように知られつつあることを、とてもうれしく思いました。(なお、寄贈者の苫米地○○さんという方の胸から上の木像がありました。この木彫は髪や襟元などとても良く出来ていました。)
 
(2012年8月20日、2015年8月14日更新)