盲人文化史年表

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◆ 15世紀まで
 前6世紀、中国春秋時代の晋の王平公(在位:前557〜532年)に、師曠という盲の楽人が仕える。「師曠清耳」と言われるほど聴覚に秀で、また琴の名手であり、しばしば平公に箴言を述べたと伝えられている。
 前4世紀、アリストテレスが、盲人教育の可能性を説く
 1世紀、ローマの雄弁家・修辞学者クィンティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus: 35ころ〜95ころ)が、盲人の教育と文字書記の方法を記述。木、象牙、または金属の板に文字を浮彫りにした、いわゆるタベラ(tabella)の使用を提案。
 4世紀、アレキサンドリアの盲目の神学者ディデュモス(Didymos: 313頃〜398頃)活躍 (4、5歳で失明、アルファベットを木版に彫り、読み書きをする。タベラを使用して読書した。かれはこれにより宗教、哲学、数学、音楽、天文に通じ、アレクサンドリア教校校長となる。主著『三位一体論』『マニ教徒反駁論』『聖霊論』)
 330年、聖バージル(St. Basil, the Great)生まれる(〜379年)。カッパドキアのケーザレアに救民院を設ける
 412年、聖リムナスクの隠者(The Hermit of St. Lymnaeus)が、シリアに盲人の収容所を設ける
 562年、百済から日本に来た知聡(呉の人)が、「明堂図」(経絡やツボの図)のほか本草書など164巻を持ち込む。この明堂図をもとに、日本の鍼灸術が始まったと伝えられる
 600年ころ、聖徳太子(574〜622年)が、窮民や障害者の救済のため、四天王寺に敬田院、悲田院、施薬院を設けたと伝えられる
 701年、大宝律令の医疾令に、按摩師、按摩博士、鍼師、鍼博士の制が設けられる
 730年、光明皇后(701〜760年、聖武天皇の皇后)が、障害者、孤独者らの救済のため、施薬院、悲田院を設ける
 753年、唐僧鑑真(688〜763年)が、戒律伝授のため、失明しながらも6度めの企てでようやく来日。759年、律宗の根本道場として唐招提寺を建立する
 9世紀半ば、人康親王(831〜872年。仁明天皇の第4皇子。848年四品となり、上総・常陸両国の太守や弾正台の長官を歴任)が、20代後半に失明、出家して山科の地に山荘を営み、盲人を集め救済事業を行なったといわれる。江戸時代の盲人は親王を当道座の祖神として崇敬。
 9世紀後半、アッバース朝時代のハディース(ムハンマドの言行に関する伝承)学者アル・ティルミジー(824〜892年)が活躍 (若くして失明するが、ムハンマドの言行を記憶する多数の“教友”を訪ねてイラン東北部のホラーサーンからアラビア半島の西岸ヒジャーズまで各地を遍歴し、それを『スナンの書』というハディース集に集大成した。)
 900年前後、蝉丸(生没年不詳)の活躍が伝えられる。(宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色とも醍醐天皇の第四皇子とも伝えられる。逢坂山に住み、盲目で琵琶の名手とされ、音曲の守護神として伝説に富む。後撰集以下の勅撰集に4首の歌がみえる。)
 1016年、三条天皇(976〜1017年)が、眼疾のため譲位、翌年悲痛のうちに世を去る
 1019年、大宰権帥藤原隆家(979〜1044年)が、盲目の身で大蔵種材らと刀伊の侵入を撃退する
 1057年、アラビアの詩人 アブル・アラー・アル・マアッリー(973〜1057年)没 (シリアのマアッラト・アン=ヌウマーン出身。4歳のとき天然痘のため失明。バクダードで仕官を志すが、不遇のうちに故郷へ隠退し、著述と詩作に専念。合理主義・懐疑主義の立場からイスラム教の教義を批判。詩集『サクト・アッ・ザンド』『ルズーミーヤート』のほか、ダンテの『神曲』に影響を与えたともいわれる散文『ゆるしについての書』(1032年)で知られる)
 1178年、ドイツのヴェルフ公(Duke Welf VII)が、バイエルン地方のメミンゲンに盲人ホームを設ける
 13世紀前半、『徒然草』(226段)によれば、後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚(慈円)のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力して、『平家物語』をつくる (生仏は、会津の出身で、四条天皇(在位1232〜42)のときに、比叡山の検校職だったが、壮年で失明して慈鎮の弟子になったともいわれる)
 1254年、フランス王ルイ9世(Louis IX, Saint Louis: 1215〜1270年)が、パリに300人を収容できる盲人収容施設「カンズ・バン」(L'Hospital des Quinze-Vingts)を設立 (王の保護を受け、寄付者には祈りをもって答え、施設維持のためにはこじきが奨励された。1777年、ルイ16世が宮殿拡張のためこの施設を買収し、収容者は路頭に迷うことになる。)
 1270年、高野山桜池院の二第目住持・恵深没(勉励のために失明するが、学徳に優れ、1269年高野山検校になる。高野八傑の一人とされ、「盲検校」と呼ばれる)
 13世紀後半、忍性(1217〜1303年。律宗の僧)が、鎌倉極楽寺に、療病院(病者を収容)、悲田院(身寄りのない者や年寄りを収容)を設ける
 1292年ころ、ルノー・バルボウ(Renaut Barbou)が、フランス中部のシャルトル(Chartres)に「The Six-Vingts」(120人収容の盲人施設)を設立
 13世紀、『高麗史』に盲僧・盲覡が集団化して祈雨・占卜・呪詛に携わったとの記述がある。さらに、李朝時代の15世紀には彼らは国設の明通寺を拠点に活動し、国家は命課盲人制度を作って優秀な盲人を命課盲人として登用し国家の宗教儀礼や占卜を担当させた。
 13世紀後半、イタリアで眼鏡(凸レンズの老眼用)が作られるようになる (近視用の眼鏡が発明されるのは16世紀中ころ)
 1300年ころ、平曲家・明石覚一が生まれる(〜1371年)。1338年、明石覚一、琵琶法師の組合「当道座」を結成(当道座の大成者といわれるようになる)。晩年に筆録させた「平家物語」の転写本が残存し、「覚一本」といわれている。
 14世紀初頭、平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り、筑紫、明石、京の八坂、坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道〉と呼ばれる座が形成される
 1305年、ベルギーのブルージュに盲人の収容施設つくられる
 1329年、ロンドンの呉服商ウィリアム・エルシング(William Elsing)が、養育院「Elsing Spittle」を設立(主に盲人収容施設で、100人収容)
 1347年、ウェールズ地方の聖ダビデ教会の司教ヘンリー・ド・ガウアー(Henry de Gower)没。生前、老盲と老病者の収容施設をつくる
 1350年、フランスのジョン王(King John the Good: 1319〜1364.在位 1350−64年)が、シャルトルに盲人ホームをつくる
 1370年、ベルギーのゲント(Ghent)に盲人収容施設が設けられる
 1377年、イタリアのパドバに「Fragila」という盲人のギルドが組織される(物乞いする場所や条件の規定、成員の相互扶助や年金制度など。1616年にはその加入者は1500人に達したと言われる。)
 14世紀後半、イタリアの作曲家ランディーニ(Francesco Landini: 1325年頃〜97年)活躍 (幼少期に天然痘で失明するが、哲学・占星学・音楽を学び、1361年にはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストとなり、また64年のベネチアの詩の競技会で優勝。多声歌曲1種であるバラータを多数作曲。)
 1456年、平曲を愛好した貞成親王(1372〜1456年。後崇光院)没、この前後、平曲の隆盛期
 15世紀中頃、ドイツの盲目のオルガン奏者パウマン(Conrad Paumann: 1410頃〜1473)活躍 (1446年ニュルンベルクのゼバルドゥス教会オルガニスト、67年ミュンヘンの宮廷オルガニスト。著書に『オルガン奏法の基礎』Fundamentum organisandi(1452)がある)
 15世紀中頃、室町幕府8代将軍足利義正(在職 1449〜1473)の時代、京都だけで平曲法師が500人以上いたと言われる
 1462年、ロシアのモスクワ大公・ワシーリー2世(1415〜1462年、在位1425〜62年)没。長い内戦の最中1446年敵によって失明させられ、「盲目公」と呼ばれた。ロシア教会を独立させ、モスクワ大公国の地位を高めた。
 1471年、一休宗純(1394〜1481年)が、盲目の旅芸人・森侍者(森女)と酬恩庵で、一休が亡くなるまでの10年間、一緒に生活するようになる (前年一休は住吉薬師堂で鼓を打つ森侍者に出会いベタ惚れし、彼女も一休に心酔したようだ。当時彼女は30歳前後と思われる。大徳寺真珠庵にのこる一休の十三回忌,三十三回忌の「奉加帳」に森侍者慈栢の名がみられるという。)
 1480年、大和で、盲人300人による一揆が起こる。一斉に筒笛を吹いて筒井・成身院方の武士を呪咀する。
 15世紀後半、『七十一番職人歌合』に、鼓を打ちながら曾我物語を語る盲目の女性(瞽女)の姿が描かれる
 15世紀後半、戦国時代、諸国の大名に「お抱え座頭」「お伽衆」として抱えられる盲人があり、また敵情をさぐる「細作」としても使われた
 15世紀後半、スコットランドの盲目の吟遊詩人ハリー(Harry the Minstrel; Blind Harry)活躍(スコットランドの愛国者ウォレスに関する伝説を集めた長編詩「Acts and Deeds of the Illustrious and Valiant Champion Sir William Wallace, Knight of Elderslie」の作者とされる)

◆ 16世紀
 16世紀初頭、盲官の売官制が確立。官位を得るため、盲人が金貸業を営むようになる
 1517年、スペインのフランシスコ・リューカス(Franciscus Lucas)が、浮出し文字(木片に曲線を塑刻した文字)を考案。1580年、マドリードにおいて生徒に教授。
 1526年、エラスムスの親友のジュアン・ルイス・ビベスが、「On the Subvention of the Poor」を発表(盲人に有用な仕事を与え、直接的援助ではなく間接的に独立、自営を援助する説)
 1528年、エラスムス(Desiderius Erasmus: 1467〜1536年)が、盲人文字に関する実験を報告(クィンティリアヌスのタベラの使用により、ある盲人が書く能力を得たことを報告し、盲人が自由に読み書きできることを論ず)
 1534年、当道座とその本所である久我家との間に、盲人の支配をめぐる争いが起こる。3年後に当道座の勝利
 1550年、イタリアのカルダーノ(Girolamo Cardano: 1501〜1576年)が、盲人教育の可能性を信じ実験、「鋭敏性」を公刊、盲人の読み書きのくふうを述べる
 1551年、盲人琵琶法師ロレンソ(日本名不明。1526〜1592年)が、フランシスコ・ザビエルより洗礼を受ける。63年日本人として初めてイエズス会入会を許され、イルマンとして布教に活躍
 16世紀中ごろ、北インドで、盲目のヴィシュヌ派の宗教詩人スールダース(1480ころ〜1580年ころ)が活躍 (作品集『スール・サーガル』)
 1566年、スペインのオルガン奏者・作曲家A.カベソン(Antonio de Cabezon: 1510〜1566年)没。幼時期に失明。10代からスペイン宮廷に仕え、フェリペ2世に随行してヨーロッパ各地をめぐってもいる。
 1575年、イタリアのランパゼット(Rampazetto)が、リューカスの浮出し文字を改良し、凹凸両文字を用い、ローマで盲生徒に教えた
 1580年、盲人琵琶法師ダミアン(1560〜1606年)が、山口で受洗(一説に1585年)。1606年、山口で殉教
 1587年、魚津の盲人沢市が殉教。このころ、多くの盲人が国禁をおかしてキリスト教を信仰したといわれる
 1600年、イタリアの画家・著作家G.P.ロマッツォ(Giovanni Paolo Lomazzo: 1538〜1600年)没。33歳で失明、以後は絵筆を捨てて著作活動に専念、『絵画、彫刻、建築論』『絵画の殿堂の理念』などを著す。
 16世紀末、沢住検校(生没年未詳)が、元来琵琶に合わせて語っていた古浄瑠璃の伴奏に、初めて三味線を使用したとされる。

◆ 17世紀
 1601年、エリザベス救貧法(労働不能者・老人・盲人などの救済を教区の責任で行う規定をふくむ)
 1603年、土屋円一(伊豆円一。総検校。1540〜1621年)が、当道座の存続を家康に嘆願、当道制度の存続と保護を認められる (江戸幕府の盲人対策:1、当道座の公認かつ自治を許し、司法権をも与える、2、盲官およびその売官を認める、3、金貸業(官金)を公認し、この債権に対しては先取の優先権を与えて保護、4、全国の盲人を当道座に加入させ、京都の職検校または江戸の惣録検校のもとに統轄、5、盲人にはいっさいの租調の義務を免除)
 17世紀、諸藩では、身体障害者の自活の道を開くため、城下町に瞽女屋敷を与え保護したところがある(駿府、信州松本、飯田、越後長岡など)
 1630年、伊勢山田の勾当杉田望一(杉本望一とも)没 (1548〜1630年。生来の盲人と伝えられる。荒木田守武の俳諧の伝統を継いで伊勢俳談を担う。「望一千句」「望一後千句」を著す。「それときく空耳もかなほととぎす」が知られる)
 このころ、盲人鍼医・山川検校城管(?〜1643年)が、徳川3代将軍家光の鍼医として重遇され、談伴衆(相談役)の一員ともなった
 1634年、小池惣検校らによって当道式目が制定される
 1640年、パリの筆耕者ピエール・モロー(Pierre Moreau)が、盲人の触読のために、自由に移動し得る鉛製活字の製作を試みる(重くまた経費がかさむため、実際には使われなかった)
 1642年、石村検校(?〜1642年)没(16世紀末に琵琶法師から三味線演奏家に転じ活動したといわれ、三弦音楽の創始者とされる。また、三味線組歌の本手の最初の作曲者といわれる。)
 1642年、肥前国で盲僧派盲人と当道派との間に紛争が起こり、幕府の裁許により、当道勝訴。こののちも、幕府の当道保護政策によって、つねに当道派有利にたつ
 1648年、紀伊藩の儒官那波活所(1595〜1648年)没。中年で失明したが、学問にはげみ、藩主徳川頼宜の厚い信任を得る
 1648年、ウィルドリッヒ・シェーンベルガー没(47歳)。ドイツの人、3歳で天然痘のため失明、すず文字を考案
 1651年、ドイツ人ゲオルク・ハルスデルファ(Georg Philip Harsdorffer)が、蝋を引いた板の上に鉄筆で文字を書き、これを触読する方法を記述
 1661年、シチリア島のパレルモに盲人のギルドが組織される。1690年にはイエズス会から建物の提供を受け、加入者は宗教音楽の作曲・歌唱を業とした。
 1664年、盲人中村宗三が、『糸竹初心集』を刊行(尺八、箏、三味線の入門独習書。近世邦楽の楽譜公刊本としては最古の資料で、17世紀の日本音楽の実態を知るのに重要な文献)
 1667年、杉木望一(1585〜1667年)が没(伊勢山田の盲俳人。「望一千句」「望一後千句」などがある)
 1667年、九州の4人の盲僧が比叡山正覚院から紫衣を許される。
 1667年、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(John Milton: 1608〜1674年。1625年、ケンブリッジ大学クライストカレッジ入学。42年に始まったピューリタン革命では独立派に参加、49年のクロムウェルの共和制成立後はクロムウェルのラテン語秘書となって国王処刑を正当化する論文を次々とラテン語で書き、共和制を擁護。この間、激務のため視力が衰え、52年、43歳で失明。59年に共和制が崩壊し王政復古すると、ミルトンの著書は発禁・焚書処分され、私有財産も没収された。一時投獄されたが、死刑は免れ釈放されて、政界から完全に引退し、以後は口述筆記で詩作に専念)が、『失楽園』を刊行(アダムとイブの堕落と楽園追放を描いて「神の道の正しさ」を立証することを主題とした長編叙事詩)
 1670年、イタリアのラナ(Francesco Lana Terzi: 1631〜1687年)が、線と点の組合わせによるアルファベットを考案(点字の先駆とも言えるもので、バルビエやブライユの考案にもつながる)
 1674年、「座頭争論」(福岡藩の小倉城中での歳暮の嘉儀に出席した盲僧と検校との座順争いに端を発した事件)が起こり、当道側が幕府に訴え、当道座が勝訴(盲僧が三味線・箏・浄瑠璃など遊芸を生業とすることが禁じられ、各地で地神経の読誦など加持祈祷的な生業だけに限られる)。以後、有力な後ろ盾をもとめて本寺獲得運動が続けられ、ようやく1783年青蓮院の支配下に入る。
 1676年ころ、スイスの数学者ベルヌーイ(Jakob Bernoulli: 1654〜1705年)が、盲の少女ワルドキルヒ(Elizaabeth Waldkirch)に、薄い木版に深く刻んだ文字を触読させ、鉛筆でたどらせ、次にこうして覚えた文字を紙の上に鉛筆やペンで書かせて教育。彼女はこうしてラテン語・フランス語・ドイツ語の読み書きを覚え、家族や友人に3カ国語で手紙を書いた。
 1680年、柳川検校没 (生年不詳。大坂の人。寛永年間京都で活躍。山野井検校の門下で、三味線組歌を作った虎沢検校の伝統を継いで、組歌を改曲・整理・追加し、破手組の柳川流を開き、早崎検校に伝える)
 1685年、杉山和一、5代将軍綱吉を治療、これによって幕府の医官となる
 1685年、近世箏曲(俗箏)の開祖といわれる八橋検校(1614〜1685年)没 (幼少期に失明。攝津で寺尾検校城印に地歌三味線を学ぶ。さらに、江戸で筑紫箏の祖・賢順(1547?〜1636年)の門下法水に筑紫箏を学び、これを改革・発展させて、半音を含む平調子という新調弦を考案。1636年勾当、39年検校。1663年ころから京都に住み、多くの門弟を育て八橋流を開き、現在の生田流や山田流などの箏曲の始祖となる。箏組歌13曲と段物(「六段」など)三曲を編作曲した)
 1690年、箏曲家・作曲家北島城春(?〜1690年)没 (八橋検校の弟子で、生田検校の師。1645年検校。1689年第34代職検校。「明石」「末の松」「空蝉(うつせみ)」などの箏組歌を作曲。)
 1690年、ドイツ人医師ケンペル(Engelbelt Kaempfer: 1651〜1716年)が来日、その著書『日本誌』に鍼灸を紹介
 1692年、杉山和一が、関東惣検校となる。「当道新式目」を制定(これにより、元来同一であった惣・職検校が、京都の職検校と江戸の惣検校に分離されたことになり、惣検校は江戸に惣録屋敷を与えられ、京都の職検校の上位に位置づけられた。こうして、江戸の惣録屋敷が関東筋の盲人を、京都の職屋敷が上方筋の盲人をそれぞれ支配することとなった)
 1694年、惣検校杉山和一没(85歳)。
  [杉山和一: 1610〜1694年。伊勢出身。10歳までに失明。江戸に出て山瀬琢一(盲人で初めて鍼を業としたとされる人。1658年、61歳で検校)について鍼術を学ぶ。それまでの捻鍼法や打鍼法に換えて、盲人にも適しまた皮膚にほとんど痛みを感じさせない管鍼法(鍼を細い管に入れ、管からわずかに出た鍼の頭を指でたたいて刺入する方法)を考案。1671年検校。1681年、幕命で鍼治講習所(世界発の盲人の職業教育施設)を開設、盲人に按摩・鍼を体系的に教え、多くの門下生を養成。「療治之大概集」「選鍼三要集」「医学節用集」(合せて「杉山流三部書」と言われる)を著述]
 17世紀、イギリスのマクベス(David Macbeath)とその友人ミルン(Robert Milne)らが、結び文字を盲人の教育に使用。聖書の文、讃美歌、歴史などがこの文字で記録された
 17世紀後半、アイルランドの哲学者・政治家モリヌークス(William Molyneux: 1656〜1698年)が、いわゆる「モリヌークス問題」を提起(先天盲が成人してから開眼した時、その人は視覚だけで立方体と球を区別できるのか、という問い。この問いにたいし、モリヌークス自身およびロックやバークリーは否定的、ライプニッツは肯定的。以後、哲学ばかりでなく、感覚や認知などの心理学の文脈でも考察されるようになった)
 17世紀末、フランス北東部シャンパーニュ地方の盲目の修道士ドン・ペリニョン(Pierre Perignon. 通称 Dom Perignon)が、シャンパンを発明したと言われる
  [Pierre Perignon: 1638〜1715年。生まれつき視力が悪く、 20歳でベネディクト派 Hautvillers 修道院に入る。やがて完全失明するが、抜群の記憶力など色々な才能に恵まれまた優れた味覚や嗅覚を持っていて、40年以上修道院の経理係・酒庫係を務め、黒ブドウから白ワインを作ったり、コルクでしっかり栓をすることで発泡性のワイン=シャンパンを作った。]
 17世紀末、盲人棋士石田検校が、石田流(三間飛車)を創始
 17世紀末、宇和島藩が、座頭や盲女が自領・他領で回在することを禁止して彼らに扶持米の給付を始める (18世紀以降、中国・四国のいくつかの藩で、盲人に扶持米を給付する同様の施策が行われる。)

◆ 18世紀
 このころ、矢口城泉(1669〜1742年。1699年検校)が、「無雲鍼法」を武田玄了に学び、仙代藩四代藩主伊達綱村に鍼医として使える
 1711年11月、イギリスの盲人数学者ニコラス・ソーンダーソン(Nicholas Saunderson)が、ケンブリッジ大学の第4代ルカシアン数学教授に就任 (ルカシアン数学教授: 1663年、英議会議員ヘンリー・ルーカスのケンブリッジ大学への寄付をもとに設けられた数学教授職。ニュートンが第2代教授(1669〜1702)をつとめている。)
  [Nicholas Saunderson: 1682〜1739.1歳ころ天然痘で失明。近くの学校に通ってラテン語・ギリシア語・フランス語・数学などを学ぶ。さらに18歳のとき数学者ウィリアム・ウェストに出会い、自宅で代数や幾何など高等数学を学ぶ。1707年(25歳)、ケンブリッジ大学を構成するクライスト・カレッジの聴講生になる。ニュートンの『プリンキピア』についても研究し、学生に宇宙論や光学もふくめその講義を始める。1711年、第4代ルカシアン数学教授。1720年、盲人のための計算板を発明。死の翌年(1740年)『代数学』全2巻を刊行]
  [ソーンダーソンの計算板:正方形の板に3×3=9個の穴を空け、その穴に、長さが同じで頭の大きさの異なる2本の線のいずれかまたは両方の組み合せ方を変えて差し込むことで、0から9までを示す。]
 1712年、幕府が、座頭金取締令を出す
 1714年、山崎勾当「将棋亀鑑」
 1714年、イギリスのヘンリー・ミル(Henry Mill)が、タイプライターを考案 (実用的なタイプライターは、アメリカのC. L. ショールズが1868年に試作、レミントン社が特許権を買い取って改良を加え、1874年販売を開始)
 1715年、筝曲生田流の始祖生田幾一(1656〜1715年)没 (八橋検校門下の北島検校城春の弟子。1696年、今井検校序一のもとで検校になる。1705年、当道職階最高位の七老。箏組歌『思川』、段物『五段』『砧』、長歌『小笹』などを作曲したといわれる)
 1717年、儒者・後藤松軒(1631〜1717年)没 (大坂出身。20歳過ぎに失明、琵琶・箏を学び勾当・検校になる。また、妻や弟子に書を読んでもらい、とくに妻が紙縒りで作った漢字を触るなどしながら学問を修める。そして、40歳ころ会津藩主保科正之にまねかれ、3代にわたる藩主の侍講をつとめ続ける。著書に「大学弁断」)
 1720年、惣検校三島安一没(杉山和一の弟子。幕府医官となり、江戸近郊および諸国の45ヵ所に講堂を開設、杉山流鍼術を全国的に普及させ、盲人の職業として鍼按業を確立するのに貢献)
 1723年、当時の江戸の人口 526,210人中、盲人数は 7,030人(1.3%.加藤康昭の推定による)
 1725年、筑前黒田藩の盲学者大神沢一(1684〜1725年)没 (三宅尚斎、佐藤直方に師事、儒学を学ぶ)
 1729年、イギリスの盲目のオルガン奏者・作曲家J.スタンリーが、17歳の若さでオックスフォード大学より音楽学士の学位を授与される
  [John Stanley: 1712〜1786. 2歳のとき事故で失明。 7歳から音楽を学び、11歳でオール・ハローズ教会の専属オルガン奏者になる。以後、1726年セント・アンドリュー教会、1734年インナー・テンプル教会のオルガン奏者に就任。1779年には王室音楽隊長に任命される。オラトリオ、カンタータ、オルガン曲、協奏曲などがある。]
 1729年、神道家・跡部良顕(1658―1729)没 (2500石の旗本で、垂加神道と儒学を学ぶ。眼病のため中年公職を辞し、やがて失明するが、伴部安崇の協力を得て、神道の研究と信仰を深めた。著書に《南山編年録》《神代混沌草》《垂加翁神説》など。)
 1733年、鍼医で国学者の谷崎永律没 (和歌をよくし、患者として治療をした儒者の室鳩巣とは20年にわたり親交をもった。勾当。著作に『あさがほ記』)
 1736年、惣検校・島浦益一(?〜1743年。三島惣検校を継いで1709年惣検校となる)が退役。これ以後、盲人の統括職である江戸惣検校職が廃止され、江戸には惣録を置いて盲人の統轄に当たることになった
 1738年、アイルランドのハープ奏者・作曲家のターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan: 1670〜1738年)没 (18歳で天然痘のため失明。ハープ奏者の見習となり、20歳過ぎから、アイルランドの各地を旅しながら、土地土地の雇い主・パトロンの求めに応じて曲を作った。アイルランド最後の吟遊詩人とも言われる。知られているだけで200以上の曲を遺している。)
 1745年、儒者の長沢東海(1698〜1745年)没。10歳のとき、弟楽浪(1699〜1779年)とともに、天然痘のため失明。父長沢粋庵に学び(文字は、掌に書字してもらったり紙縒り文字で習得)、1719年弟とともに朝鮮通信使と詩を唱和した。はじめ宇都宮藩主戸田忠真に、1734年から松江藩主松平宗衍につかえた。著書『朝鮮対話集』
 1749年、デニス・ディドロ「盲人書簡」公刊 (その中で、「盲人の感覚は失明により特に鋭敏になることはなく、失明がいやおうなしに残存感覚の利用を増し、注意を集中させ印象を深くする。教育は盲人が失ったものより、いまもっているものの上に築き上げるべきだ。何物にもまして盲人は、外部の客観的世界とできる限りの接触を保たねばならない。たとえ盲ろうあ者でも、触知できる符号と触れてわかる対象物とを、根気よく執拗に結合することにより、触覚を通して教育することができる。」と述べ、盲人教育の可能性を説いた)
 1751年、ドイツの作曲家ヘンデル(Georg Friedrich Handel: 1685〜1759年)が、白内障による視力低下と戦いながらオラトリオ「イェフタHWV70」作曲。53年初頭には完全に失明するが、以後もコンチェルトの指揮やオルガン演奏を続け、また57年3月初演の最後のオラトリオ『時と真理の勝利』に至るまで口述で作曲も続ける。
 1754年、琉球の三線奏者・照喜名聞覚(てるきな もんがく)没。1682〜1754年。生後間もなく盲目となり、後剃髪して聞覚と号す。新里朝住に学び奥義を究め、別に聞覚流を創始。弟子屋嘉比朝寄の「屋嘉比工工四」は聞覚の楽譜を基礎にしているという。
 このころ、地歌三弦家の鶴山勾当が活躍。大坂で浄瑠璃の繁太夫節を地歌にとりいれる。江戸にでて宝暦12年(1762)「泉曲集」を編集した。代表作に「妹背の秋草」「濡扇」「正月(まさづき)」など。
 1754年、ジョン・フィールディング(John Fielding)が、ロンドンの判事に就任
  [Sir John Fielding: 1721〜1780年。19歳の時事故で失明し、その後法律を学ぶ。1750年からロンドンの判事をしていた異母兄ヘンリー・フィールディング(1707〜1754年。有名な小説家。1737年の「検閲令」で活動しにくくなり、その後法律を学び法律家としても仕事をするようになる。48年ロンドンの判事になる)の下で働く。イギリス最初の専門の警察組織といえる「Bow Street Runners」を指揮して、ロンドンの犯罪者一掃に尽力。1761年ナイトに序せられる]
 1755年、ド・レペー司祭(Charles Michel de l'Epee: 1712〜1789年)が、パリに世界最初の聾唖学校を創設、手話法による教育を実践 (この学校における成果は、バランタン・アユイにも深い感銘を与えた)
 1756年、ドイツのワイセンブルグ(R. Weissenbourg: 1756〜1824年)が生れる。7歳のときに天然痘のため視力をそこね、15歳で全盲になる。家庭で教育を受けたが、16歳のとき、マンハイムの学者ニーゼン(Christian Niesen)を招いて数学や地理等を学んだ。文字は板の上に数枚の紙を重ね真鍮と糸の枠に沿って鈍尖筆で文字を書く方法を用い、また計算にはソーンダーソンの計算板を改良して用い、図形や文字には針金を使用し、さらに、絹糸や針金や砂や止めピンの頭を使った触地図も使った。
 1757年、漢詩人高野蘭亭(1704〜1757年)没。17歳で失明、荻生徂徠の門人。著書に『蘭亭先生詩集』。
 1759年、オーストリアのピアニスト・作曲家パラディス(Maria Theresia von Paradis: 1759〜1824年)が、ウィーンに生れる (父ヨーゼフ・パラディスは帝国商務省長官で、女帝マリア・テレジアの宮廷顧問官。4歳ころ失明。幼児からすでに音楽の天才を示し、コジェルフやサリエリなどの宮廷音楽家たちからピアノや歌・作曲などを学ぶ。11歳で教会に出演したとき、マリア・テレジアはその妙技に感じ、年金を賜わった(女帝が亡くなった1780年まで)。ウィーンで演奏活動を始め、また作曲もするようになる。彼女は、協力者で台本作家だったリーディンガー(Johann RIEDINGER)が考案した記譜板(譜面を筆記するための道具)を使って作曲し、また他の作曲家の楽譜も判読したという。1783〜86年、マンハイム、パリ、ロンドン、ブリュッセル、ベルリン、プラハなど各地を演奏旅行、この間の84年、パリでバランタン・アユイに会い、盲学校や盲教育について助言する。1808年、自宅に音楽学校を開設し、女性や盲人を教育。代表作「シチリアーノ」)
 1760年、箏曲家三橋弥之一(1693?〜1760年)没 (1736年検校。近江の膳所藩家老の次男。京都の倉橋検校門下で,越中富山藩にかかえられ、三味線の名手島田検校に認められる。富山およびその江戸屋敷で、生田流箏曲を教え、江戸生田流の祖とされる。作曲に「宮の鶯」「雪月花」など)
 1764年、イギリス、心理学者トマス・レード「盲心理論」発表
 このころから、江戸や京都・大坂などで、街なかを笛を吹いて歩く流し按摩が見られるようになる (銅脈先生(1752〜1801。狂詩作者。本名は畠中正盈)が著した『太平樂府』(1769年)に「按摩痃癖、あし笛を吹き去る。」、『太平遺響』(1778年)に「按摩の笛の聲は夜橋を過ぐ。」とある。また、小林一茶(1763〜1827)には「笛ぴいぴい杖もかちかち冬の月」」なりはひや雪に按摩の笛の声」などの句がある。)
 1765年、座頭の高利貸、ますます盛んとなり、その取立ても横暴をきわめたので、幕府が、高利取締令を出す
 1771年、バランタン・アユイ(Valentin Hauy: 1745〜1822年)が、パリで無教養の盲人の興業を見、盲教育に志す
 1772年、米山検校(1702〜1772年)没。越後の貧農に生まれ、幼少期に失明。十代で江戸に出て、島浦益一惣検校門下に入り杉山流鍼術を修める。利殖の才に優れ、巨財をなしたともいう。1739年検校。宝暦の飢饉の際、郷里の越後長鳥村に米を送り窮民救済に尽す。また、宝暦4年(1754)越後国各領主の江戸屋敷へ「鍼道指南之学校設立」についての願文を提出、自らも鍼道指南学校を設立し運営するが、間もなく高田藩の検校に、自分の仕事が減るからと京都の職検校に訴えられ、廃止される。(勝海舟の曽孫に当たる人だという)
 1775年、琉球の三線奏者・屋嘉比朝寄(やかびちょうき)没 (1716〜1775年。尚敬王の命で薩摩で謡曲と仕舞を学ぶ。帰国後、失明して三線に専念、謡曲の技法を取り入れた当流を樹立。中国の記譜法を参考にして独自の記譜法を考案し、『屋嘉比工工四(くんくんしー)』を編纂し、後の琉楽譜(工工四)発展の基礎を築いた。琉球三線音楽中興の祖といわれる。)
 1776年、当道座の願いにより、幕府が、琴、三味線、鍼治、導引等を生業とする盲人は、もっぱら武家にかかえられている者を除き、検校の支配に属するよう通達する
 このころ、地歌演奏家藤尾勾当(1730?〜1800?)が活躍。尾張の人で、「富士太鼓」「虫の音」「八島」など謡曲に題材をえた曲を作曲。
 1778年9月、盲人および浪人の悪質な高利貸事件が発覚し、鳥山検校等8検校、1勾当、1座頭その他これと関係ある弟子、家主など多数検挙される。同年末、10人の盲人中、牢内で病死2人を除く8人が当道に引き渡され、当道は鳥山検校等4人を官位剥奪・追放処分にした。幕府は、盲人および処士らの高利貸しを禁じる。
 1779年、漢詩人横谷藍水(1720〜1779年)没。6歳で失明し、鍼医として身を立てたが、17歳のとき高野蘭亭に入門、やがて蘭亭門の五子の第一と称されるほどの才能を現し、漢詩人として立った。
 1779年、塙保己一(1746〜1821年)が、『群書類従』の編集・刊行を志す(1819年までに、530巻の木版本完成)
 1779年、地歌箏曲家安村頼一(?〜1779年)没。1732年検校。1768〜71年職屋敷の惣検校。三弦は柳川流の田中検校に師事し、河原崎検校(1778年検校)に伝授した。箏は生田検校門下の倉橋検校(?‐1724)に師事。箏組歌を整理して「撫箏雅譜集」を刊行し,自作の「飛燕曲」も載せた。安村の門人には、藤池・浦崎・久村・石塚・長谷富の各検校がおり、久村の系統から名古屋系、石塚の系統から大坂系(新生田系)、長谷富は江戸へ下ってその系統から山田流が生まれた)
 1779年、ディドロが、盲人のいわゆる障害物知覚について、顔面神経と末梢器官の感度の増進によると説明した
 このころ(安永-天明期)、地歌演奏家房崎勾当が大坂で活躍。 作品に「墨絵の月」。
 1780年、政島検校(?〜1780年)没。大坂の地歌三弦家、胡弓奏者。藤永検校に師事し、1759年に野川流三弦の伝授を受ける。1763年検校。1771年、同門の亀島検校、菊永検校と野川流の伝授書を整理。胡弓の師は品川検校。胡弓独奏曲の本手組をまとめ、政島流胡弓を創始した。聴く人の目を潤ませる名演といわれ、息子の弥兵衛も胡弓を得意とした。「八千代獅子」を尺八から胡弓曲に編曲。政島流胡弓の伝承は孫弟子の森岡正甫により江戸に広められ、『掃弓雅吟集』(1811)に記された。
 1781年、当道派の願い出により、幕府が、武家出身の盲人は盲僧として青蓮院支配下に入り、百姓町人の出身の盲人は当道座の支配下に入るよう命令する
 1783年、18世紀最大の数学者L.オイラー没
  [Leonhard Euler: 1707〜1783年。スイスのバーゼル生まれ。ヨハン・ベルヌーイから数学の指導を受け17歳で修士号を取得。1727年、当時ペテルブルグにいたヨハンの息子のニコラスとダニエルに招かれ、41年まで同地で研究を続ける。過度の仕事により、35年ころ右眼失明。41年ベルリン科学アカデミーに移る。66年エカチェリーナ二世の招きで再度ペテルブルグに移る。翌年佐眼も失明。全盲になってからの16年間もふくめ、非凡な記憶力と助手や2人の息子の協力で超人的な研究活動を続け、900編近い論文・著作を残す(そのうち半数は失明後の著作)。解析学をはじめ整数論や位相幾何学など数学の分野ばかりでなく、それを応用して力学や天文や光学などの分野でも多くの研究をした。]
 1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院(L'Institution Nationale des Jeunes Aveugles)を設立(世界最初の盲学校。寺院の門に立って恵みをこいながら父母兄弟を養っていた17歳の盲少年レスエール(Francois Lesseur)がその最初の生徒)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る
 1788年、菅江真澄の『岩手の山』の中に、盲巫女(イタコ)についての記述
 1790年、イギリスのヘンリー・モイズが、ニコラス・ソーンダーソンの計算板を改良
 18世紀末、峰崎勾当(地歌演奏家・作曲家)が大坂で活躍。豊賀検校(1743〜85年)門下。『雪』『袖香爐』『小簾の戸』『花の旅』など芸術性の高い端歌を数多く作曲する一方、『残月』『梅の月』『東(吾妻)獅子』『越後獅子』などの器楽独奏部分をもつ手事物を流行させた。
 1791年、藤植(藤上)検校(?〜1805年)と塙検校が、座中取締役に任じられ、当道座の改革を始める。1796年から翌年にかけてようやく座法の改正案を提出するが、実質的な成果はほとんどあげえず、1799年辞任。
 1791年、ラシュトン(Edward Rushton: 1755〜1814年。盲詩人)が、イギリス最初の盲学校をリバプールに開設(当初は、手仕事(バスケット作り)や教会で歌う声楽、オルガン演奏などの指導に限られ、読み書きなどの教育はなかった)
 1791年、スコットランドの盲の説教師・詩人トーマス・ブラックロック(Thomas Blacklock: 1721〜1791年)没 (生後6ヶ月で天然痘で失明。スティーブンソン博士の協力によりエジンバラ大学で教育を受け神学博士となる。スコットランド教会の牧師にも任命され、強い信仰を文学的表現で伝える説教を行った。
 1793年、塙保己一が、幕府の許可を得て和学講談所を開設、古文献の収集、門弟の養成に当たる
 1793年、エジンバラ盲人院、およびブリストル訓盲院が設立される
 1793年、スイスの生物学者・哲学者シャルル・ボネ(Charles Bonnet: 1720〜1793)没。初め昆虫の研究で業績を上げる(前成説を支持)が、30歳ころ視力が衰えて植物の生理の研究に転じ、さらに失明してからは実験を離れて思索に専念、「自然の階段説」を唱えた。 (1760年にいわゆる「シャルル・ボネ症候群」について記述)
 1794年、イギリス、ジョン・フラーがサセックスに盲人救済機関設立、年給を支給
 1798年、イギリスの科学者ドルトン(John Dalton: 1766〜1844。自身、色覚障害であった)が、色覚障害についての研究を発表
 1800年、リバプール盲学校、寄宿生収容

◆ 19世紀前半
 1800〜1830年代、イギリスの盲学校では各種の線字(line letters)が用いられ、その発明者の間や採用する学校の間に、激しい対立と争奪(線字戦争)(Battle of lines)が行われた
 1801年、名古屋の平曲家荻野知一検校(1731〜1801年)没 (京都で波多野孝一検校(?―1651年)に始まる波多野流と前田九一検校(?―1685年)に始まる前田流の両流を学び、名古屋に出て尾張藩の後援を得、1776年平曲を集大成したといえる『平家正節』という譜本を編纂)
 このころ、地歌三弦家の三つ橋勾当が大阪で活躍。作曲には『松竹梅』『根曳きの松』があるが、これらは作曲者未詳の『名所土産』とともに地歌三弦の免許制における「三役」とされ、三味線組歌を除いては最高の曲とされる(『松竹梅』では、新しく一下り調子の調弦を考案)。
 19世紀初め、オーストリアのガハイス(Franz von Gaheis)が、盲児と弱視児を分離して教育すべきだと主張
 1803年、塙保己一が、当道座惣録職に就く(関八州の座の監督に当たる)
 1804年、俳人・竹内玄々一(勾当。1742〜1804年)没。幼年期に失明、子の青青の手になる「俳家奇人談」「続俳家畸人談」がある
 1804年、クライン(Johann Wilhelm Klein: 1765〜1848年)が、かれのもとに救いを求めてくる貧困な盲人の悲惨な姿に接し、また、当時ウィーンの音楽学校で教えていたパラディスの影響を受け、ヤコブ・ブラウンを最初の生徒として、ウィーンに盲学校を開設。アユイの線状凸字よりも触読しやすい針文字(活字の文字部分を連続した針状の突起にして、それを紙に押し当てて裏面に点線の文字形を浮き出させる)を採用し、また計算ひもによる算数や浮彫り地図や浮彫りの楽譜も使用した。職業教育として手工芸も指導し、それは社会的も高く評価されて、盲学校は1816年に国立に移管される。
 1806年、バランタン・アユイが、ベルリンに盲学校開設
 1808年、宮本準竜(生没年不詳。7歳ころ失明。鍼を学んだが、音理の学にも精通)が、「六声発揮」を著した。また、音韻開合器を発明。
 1808年、チェコスロバキアの盲教育がプラハではじめられた。
 1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767〜1841)が12の点や線を使って伝達する方法を考え始める(彼はフランス軍の砲兵士官で、戦場や夜でも使える伝達手段として、点や線の組合せによる暗号を考えた。1819年、彼はこれを盲人教育に採用するようフランス学士院に申請したが満足すべき結果は得られなかった。さらに改良を加えて、ソノグラフィー(Sonography)と名づけ、1820年パリ盲学校に採用するよう要請したがいれられなかった。たまたま校長の異動があり、1821年新校長ピニエ(Andre Pignier: 1785〜1874年)に再び要請した。ピニエはこの点字を職員生徒に回覧して研究させた。生徒のルイ・ブライユはこの点字を手にして感激し、盲人の立場から独特な点字組織を開発した。)
 1808年、オランダの盲教育がはじめられた
 1808年、スウェーデン、ストックホルムで盲聾唖教育始められる(1879年盲と聾唖が分離される)
 1809年、バランタン・アユイが、サンクト・ペテルブルクにロシア最初の盲学校開設
 1809年、スイス、チューリッヒ市立盲学校設立
 1810年、新内節の鶴賀新内没 (1747〜1810年。初代鶴賀若狭掾の高弟鶴賀斎の弟で、盲人。加賀歳、若歳を経て、2代新内となる。美声と鼻へ声を抜く独得の節落しが世上でもっぱらの評判となり、1777年(安永6)ごろから鶴賀、富士松、豊島などの系統の浄瑠璃を総括して新内節と呼ばれるようになる。作品に「藤蔓恋の柵」「二世の環襷」など。)
 このころ(文化-文政期)、京都で地歌三弦家の石川勾当が活躍。「石川の三つ物」として知られる『八重衣』『 (新) 青柳』『融』をはじめ『新娘道成寺』などを作曲したが、その才能のためにかえって職屋敷の反感を買い、晩年は不遇であったとも伝えられる。
 このころ、地歌・箏曲家浦崎了栄一活躍 (京都の人。安村検校の門人。1801検校。弟子の八重崎検校らとともに既成の地歌三味線曲と合奏するため「里の暁」「末の契」「深夜の月」などの箏の旋律を作曲,箏組歌の普及にもつとめる)
 1811年、デンマークのコペンハーゲンに盲学校開設
 1813年、スウェーデンの化学者・鉱物学者A.G.エーケベリ(1767〜1813年)没。幼児期より難聴。1794年ウプサラ大学化学教授。1801年実験中に片眼を失明するが、02年73番元素タンタルを発見。
 1815年、座頭の高利貸を禁ず
 1817年、筝曲山田流の始祖山田斗養一(1757〜1817年)没 (1797年検校。主な作品に『初音曲』『葵の上』『長恨歌』『小督曲』『熊野』)
 1819年、塙保己一が『群書類従正篇』を完成
 1819年、ブリュッセル(ベルギー)で盲教育始まる
 1819年、クラインが、その著書の中で、盲人が訓練を受けた犬を使用する方法について記述
 1819年、フランスの博物学者ラマルク(Jean-Baptiste de Monet chevalier de Lamarck: 1744〜1829年)が、失明。その後も著述を続け、『観察に直接または間接に由来する知識に限定された、人間の実証的知識の分析体系』を口述、娘のコルネリーが筆記。また、1815年から書き始めていた『無脊椎動物誌』(全7巻)を娘たちの助力で1822年に完成させる。
 1820年、大坂の町人学者山片蟠桃(1748〜1821年)が、晩年の失明にもかかわらず、大著『夢之代』(12巻)を完成(地動説、『日本書紀』応神紀以前の否定、あらゆる俗信の否認など、その実学的合理的思考は高く評価されている)
 1821年、バルセロナ(スペイン)に盲学校開設
 1821年、バルビエが、12点点字「ソノグラフィー」をパリ盲学校に盲人用として採用を要請
 1824年末、フランスのルイ・ブライユ(Louis Braille: 1809〜1852年)が、6点による盲人が読み書きできる文字(点字)を考案
 1824年、未生流の創始者山村山碩没 (本名:未生斎一甫。1761〜1824年。関東の幕臣の家に生まれたといわれる。若くから風流の道を志し、全国各地を放浪後、1807年ころ大坂に居を構えて未生流家元を起こす。50歳ころ失明したが、門人の指導を続け、「虚実等分」の説をたて、生花の三角形式を体系づけるなど、生花理論においても優れた業績を残す。口述によるいけ花理論書として、1816年に『本朝挿花百練』を刊行。その序文に「豫も亦浪花の里に閑居して草木の四時うつり変るにしたがひ、己がまにまに生出ておのづから見する造花の微妙を愛し、年の積るも覚えざりしに、つひに見る事を失いしが、されども好める道にしあらば心眼をもて、指導するに、さして明らかならざるを悔べくもあらで……」と述べている。)
 1824年、地歌・箏曲家菊永太一(1742〜1824年)没 (1763年検校。芸名に菊の字のつく大坂の菊筋の祖となる。「新増大成糸のしらべ」の筆頭校訂者で,菊崎検校や2代菊沢検校らおおくの門人をそだてた)
 1825年、エジンバラに盲婦人ホーム開設
 1825年、ブダペスト(ハンガリー)で盲教育始まる
 1825年、アメリカの盲聾の女性ジュリア・ブレイス(Julia Brace: 1807〜1884. 5歳の時発疹チフスのため盲聾になる)が、ハートフォードの聾学校(R.T.H.ギャローデットが1817年に設立したアメリカ初の聾学校)に入所。触覚により手話(ASL)を覚え生徒や職員とコミュニケーションできるようになり、また縫い物や編み物も修得。1841年から1年余、すでにローラ・ブリッジマンの教育で顕著な成果をあげていたパーキンス盲学校のハウが、ブレイスにアルファベットに基づく英語を教えようとするが期待したほどの成果はなく、ブレイスは手話を使い続ける。
 1826年、グラスゴーに盲院(The School for the Indigent Blind)設立
 1828年、国学者雨富流謙一検校(1759〜1828年)没。塙保己一の門下、皇典に通じ和歌に長じていた
 1828年、国学者本居春庭(1763〜1828年)没。本居宣長の長男。29歳で眼病になり32歳ころ失明。猪川元貞に学んで鍼医を業としながらも、父の学問を継いで後進の指導に尽し、妻・妹の助けを借りて添削・著述、『詞八衢』『詞通路』を著した(用言の活用や分類について評価されている)。
 1829年、惣検校吉川湊一(1748〜1829年)没。平曲家、歌道にもしたしみ、歌集「芳川集」がある
 1829年、ブライユが「点を使ってことば、楽譜、簡単な歌を書く方法―盲人のためにつくられた盲人が使う本」を出版(1837年に増補)
 1829年、ニューイングランド盲児保護院設立
 1831年、ベルギーのローデンバッハ(Alexander Rodenbach: 1786〜1869年。11歳で失明。パリ盲学校のバランタン・アユイの下で教育を受ける。1830年のベルギー独立時に有力新聞の主筆として独立運動を推進して政治的頭角を現す)が代議士となる (彼は、ディドロの「盲人書簡」にたいする反論や盲・聾についての著述も残している)
 1832年ころ、吉田久庵(埼玉県出身。医師を志て長崎に行き、オランダ医学の視点から針灸・導引を研究したという)が、線状揉みを特徴とする按摩(吉田流按摩)を江戸日本橋で始める。晴眼の者が門下となって広まり、杉山流の盲人按摩業者としばしば縄張り争いを起こす (文久のころ(1861〜1863)、盲人按摩数十人が日本橋四日市の吉田家に押しかけて、晴眼の者が盲人の業を成しては盲人は活計に苦しむので業を転ぜよ、そうでなければ我等を養え、と要求。吉田家は不当行為として南町奉行所に訴え、奉行所はそれを認めて盲人たちの身柄を惣録屋敷に引き渡したという)
 1832年8月、ボストンにニューイングランド盲学校(New England Asylum for the Blind。校長サミュエル・ハウ。後のパーキンス盲学校)開設
  [ハウ(Samuel Gridley Howe, 1801〜1876):1824年ハーバード大学医学部を卒業して医師の資格を取るが、ギリシア革命運動に6年間参加。29年帰米、31年にボストンのニューイングランド盲人収容所設立事業の経営に従事、盲人教育の実地調査のため渡欧し、ポーランド革命に巻込まれて逮捕・投獄されたが、32年ボストンに帰り、プレザント街の父の家で6人の盲児の教育を開始。これがパーキンス盲学校の発端。亡くなるまでの44年間校長を務める。盲聾のローラ・ブリッジマンの教育は彼のめざましい成功の一つ。その後、盲教育だけでなく、精神障害児の処遇や治療をはじめ、監獄改良運動、奴隷解放運動など多方面で活躍。また、民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説き、1865〜74年には、アメリカ最初の公的福祉機関であるマサチューセッツ州慈善委員会の委員長を勤めている。]
 1832年、ニューヨーク盲学校設立
 1833年、ユリウスRフリードランダー(1803〜1839年)が、フィラデルフィアにペンシルベニア盲学校(後のオーバーブルック盲学校)開設
 このころ、竜眠(生没年不詳。上総久留里藩士の子で、幼少時に失明)が、父の創案した識字教材(和紙を文字の形に切り取り貼り付けたもの)で文字を学び、1万余を習得、詩作に励んだという(別に、500字余を覚え詩作したとする伝もある)
 1835年、ニューヨーク盲学校で開かれた盲教育者の会議で、パーキンス盲学校長のハウが考案したボストンタイプが認定され、以後アメリカでは凸字としてはこれが主流となる(1836年新約聖書が、43年旧約聖書がボストンタイプで印刷される)
 1835年、ベルギーの物理学者プラトー(Joseph-Antoine-Ferdinand Plateau: 1801〜1883)が、ジャーン大学の実験物理学教授に就任。生理光学や毛細管現象・表面張力についての研究のほか、ストロボを利用した振動運動の研究も行なう。網膜の機能を調べようとして太陽を直接見るなどして失明するが、その後も1871年まで教授職にあった。
 1836年、エジンバラ芸術協会(Edinburgh Society of Arts)が、盲人のための実用的な凸字形式を募集。15形式の応募があり、1838年、フライ(Edmund Fry)のローマ字の大字が選ばれた
 1837年、オハイオ盲学校(州立)設立
 1837年、マンチェスターに盲人収容施設設立
 1837年10月、盲聾の女性ローラ・ブリッジマンが、パーキンス盲学校に入所、ハウの教育を受ける
  [ローラ・ブリッジマン(Laura dewey Bridgman, 1829〜1889): 猩紅熱のため2歳半で盲聾となる(嗅覚や味覚も失う)。やがてパーキンス盲学校長ハウの関心をひき、1837年10月同校に入学。ハウはまず触覚を通してアルファベットを教え込んだ。鍵やスプーンやナイフなどごくありふれた物に、突起した文字で名称を記したラベルを貼ってそれを覚えさせ、物の名称を覚えたところでひとつひとつの指文字を教え、徐々にアルファベットと数字を教えていった。こうした適切な指導により系統的な教育が盲聾唖者にも成り立つことを証明しようとした。こうして彼女は浮出し文字を使って読書したり、簡単な家事をしたり、さらには針仕事も覚えて、その作品を盲学校が販売するまでになった。しかし、自宅での家族との生活はうまくコミュニケーションが取れず、生涯盲学校で縫い物の先生として暮らす。ヘレン・ケラーの教師として有名なサリバンは、パーキンス盲学校で最晩年のローラ・ブリッジマンと指文字を使って交流し、盲聾の世界や、ハウのローラへの教育法を知ることとなる。]
 1837年、ハウが、パーキンス盲学校に工房を設置、盲成人にかご・マットレス・ブラシ・縫物などを作らせ販売(1952年まで続く)
 1838年、エクセター(イギリス)のジョン・ベーコン(john Bacon)が、貧困盲人に読書を指導
 1838年、フリーアー(James Hatley Frere: 1779〜1866年。盲人)が、表音的な速記文字形式の盲人用文字を考案
 1839年、心学者柴田鳩翁(1783〜1839年)没。45歳で失明、京都を中心に教化活動を行い、広く大衆に影響をあたえた。「鳩翁道話」3巻がある
 1839年、ニューイングランド盲学校が、マサチューセッツ・パーキンス盲学校(Perkins Institution and Massachusetts Asylun for the Blind)と改称
 1839年、ルイ・ブライユ、目の見える人と見えない人が直接意思を伝え合うことができるように、ラフィグラフ(raphigraph:縦10×横10の点(decapoint)のパターンで普通のアルファベットの形を表すようにした一種の点線文字)を考案
 1840年ころ、菊崎左一(1770?〜1840?年)没 (1795年検校。大阪菊筋の祖の菊永検校門下。大坂手事物の大成者の1人。作品に『西行桜』など)
 1840年、アルストンタイプ(John Alstonがローマ字の大文字を基本にして考案)の聖書完成
 1840年、ロシアの詩人コズロフ(Ivan Ivanovich Kozlov: 1779〜1840年)没 (貴族の家に生まれ、近衛連隊に勤務していたが、37歳のとき病気で足が不自由になり、さらに42歳で失明。失明後詩作活動を始め、叙事詩『修道僧』『ドルゴルーキー公爵夫人』『馬鹿な女』などを著す)
 1842年、ロンドン盲人教育教会(The London Society for Teaching and Training the Blind)が、リューカスタイプ(1830年にブリストルに盲学校を開設したThomas M. Lucas(〜1837)が、速記文字を基本に考案)の聖書を出版
 1842年、ワルシャワにポーランド最初の盲学校開設、盲人音楽同志会、ポーランド盲人協会も組織される
 1844年、パリ盲学校長ピニエが、点字の公式採用を宣言
 1846年、心学講師・田中一如(1769〜1846年)没 (松山藩士の家に生まれる。10代で失明、家督を譲る。心学を志、京都で上河淇水、江戸で中沢道二・大島有隣に師事、「三舎印鑑」(心学講師資格証明書)を受け、1814、5年ころ帰郷、松山に「六行舎」を設立し、市民にひろく道をとく。1830年代には六行舎は藩直営の卒族および平民の教諭学舎となり、舎主田中一如は城下の卒族や市民に心学を講説。さらに農村を巡回して農民にもわかりやすく教諭した。)
 1847年、ムーン(William Moon: 1818〜1894年、イギリス、4歳で猩紅熱のため失明。当初速記文字的なフリーアータイプを習得するが、より触知しやすく合理的な文字を研究)が、浮出の線字であるムーン・タイプを完成(中途失明や触覚の鈍い者にも読みやすく、各種の線字の中で長く使われた)
 1848年、戯作者滝沢馬琴(1767〜1848年)没 (長編『南総里見八犬伝』執筆中の1833年右眼失明、40年にはさらに左眼失明したが、息子の嫁・路(1806〜1858)が字を覚え口述筆記することで執筆を続け、28年かかって1842年に完成させた)
 1848年、生田流地歌・箏曲家八重崎検校(1776?〜1848年)没。1815年検校。浦崎検校(1760ころ〜1840年ころ。箏手付を積極的に行う)門下で、京都の地歌三絃曲の大半に箏の手付けをして「京流(京風)手事物」といわれる新様式を発展・完成させた。
 1850年、国学者沼田順義(1792〜1850年)没 (医術を学び武州川越で開業するが、後に失明。検校に補せられ江戸湯島に移る。林述斎に入門。本居宣長の『直毘霊』や『葛花』を批判して『級長戸風』を著し、次いで賀茂真淵の『国意考』に痛論を加えて『国意考弁妄』を著した)
 1850年、イギリス、ホームティーチャー協会が、ブライユ点字の導入に反対

◆ 19世紀後半
 1851年、ドイツの生理学者・物理学者ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz: 1821〜1894)が検眼鏡を発明 (これにより、眼底など眼球内部を調べることができるようになり、眼科学が大きく進歩した)
 1853年、全米第1回盲学校教員大会開催
 このころ、箏曲家光崎検校(?〜1853年ころ)没。 1821年検校。都名は浪の一。地歌三味線を一山検校、箏曲を八重崎検校に師事。三味線に従属しない新しい箏曲の確立を目ざし、新しい箏組歌として『秋風の曲』などを作曲。また、段物・砧物の総合としての『五段砧』を作曲。楽譜の出版にも熱心で、精密な三味線楽譜集「絃曲大榛抄」や、自作曲『秋風の曲』の楽譜「箏曲秘譜」を発刊。(その斬新な活動は当道座の反感を買い、京都職屋敷から追放され、金沢で不遇のうちに没したという言い伝えもある。)門下の葛原勾当により中国系生田流箏曲として受け継がれる。
  [秋風の曲:光崎検校と親しく交流していた越前国の代官蒔田雁門(筆名は高向山人)が、玄宗皇帝と楊貴妃との恋愛をテーマに白楽天の『長恨歌』を詞章に取り入れて作詞。曲調はもの寂しげで、その調弦法は秋風調子と呼ばれる。1837年に蒔田雁門によって「箏曲秘譜」が刊行され、さらに41年には光崎検校から葛原勾当に直伝された。]
 1854年、フランス政府が、点字を公式に認める(ブライユの死から2年後)
 1854年、ブラジルに、ベンジャミン・コンスタント盲学校設立
 1855年、国学者蘆野屋麻績一(1800〜1855年)没 (幼くして失明、雨富流謙一の門下。鍼術をよくし、のちに国学に通じ、和学講談所の後継者とみられるほどの人物。し歌集「しのぶ草」がある。安政の大地震で死去)
 1857年、イギリスの宣教医ホブソン(Benjamin Hobson: 1816〜1873年。中国名は合信。1839年から澳門や広東などで医療伝道活動を行う)が1851年に著した『全體新論』が翻刻される (西洋医学を紹介している本だが、盲聾の教育の理念として、道徳的・精神的な向上および職業能力・自己扶養力の涵養があげられ、また、一つの感覚が失われると他の感覚は鋭敏になるという感覚補償説など、当時の西欧の考え方も紹介されている)
 1858年、アメリカン・プリンティング・ハウス(American Printing House for the Blind: APH)が設立(1852年に発足した州立ケンタッキー盲学校の教科書印刷所が、アメリカの全盲学校に共通した印刷所として独立したもの)
 1857年、デンマークが、盲教育の義務制実施(世界発)
 1858年、ドイツのザクセン・ワイマール大公国で、盲・聾児の8年間の教育を義務化
 1859年、セントルイスのミズーリ盲学校で、アメリカで初めて点字を導入
 1859年、アメリカの歴史家W.H.プレスコット(William Hickling Prescott: 1796〜1859年)没。ハーバード大学在学中にほとんど失明するが、1814年同大学卒業。朗読秘書を使って研究・執筆に専念。『メキシコ征服史』『ペルー征服史』が有名。
 1860年、遣米使節団の副使村垣範正に首席通詞として随行した名村五八郎(1826〜1876年)が、ニューヨーク盲学校を見学(凸字版書を手指を触れて読んでいるのを実見している。この学校の教師16人のうち11人は盲人であったという)
 1860年、カナダ最初の盲学校が創立される
 1861年、ベルギー盲学校教授ランダゲン(Hippoylyte Van Landagen)が、ロンドン盲人教育協会(London Society for Teaching the and Training Blind)に点字を導入
 1861年、ノルウェーの盲教育開始
 1862年、江戸幕府が遣欧使節を派遣、パリの盲学校なども訪れる(同使節団に加わった福沢諭吉は、1866年に出版した『西洋事情』で、盲院について「紙に凸の文字を印し、地図等は針にて紙に孔を穿ち海陸の形ちを画き、指端にて之を触れしむ……。」と記している)
 1863年4月22日(旧暦3月5日)、湯殿山の行人・明海(みょうかい)、入定 (1820?〜1863年。俗名は春次。農家の長男に生まれるが、十代半ばで眼病になり失明。1840年繁の市という座頭に弟子入り。翌年から湯殿山に修行に入り、1844年湯殿山裏口の大日寺で一世行人となる。木食・断食の修行をつづけ、入定。山形県米沢市簗沢に即身仏として祀られている。湯殿山裏口で唯一の即身仏。)
 1863年、香港にハニービル盲女子ホーム開設
 1863年、ポルトガルの盲教育始まる
 1865年、フィンランドのヘルシンキで盲教育始まる(義務制は1921年)
 1866年、幕府の使節団員岡田摂蔵が、「航西小記」の中で、前年9月訪れたパリの盲院について記述(その中で点字についても初めて言及している)
 1866年、福沢諭吉が、『西洋事情』で欧米の盲唖教育を紹介(点字についても書かれている)
 1866年、メルボルンに、盲人の社会復帰訓練センターとして「ロイヤル・ビクトリア盲人援護協会」設立
 1866年、ロンドンで、ヒュー・ブレア(Hugh Blair)とウィリアム・テイラー(William Taylor)の2牧師が、全盲と強度の弱視少年を教育するための「ウスター・カレッジ」(Worcester College for the Blind)を設立(1932年、RNIBに移管される)
 1867年、「ラルース」の百科辞典に、ルイ・ブライユについてかなり大きな項目を設けて記述される
 1867年、儒学者谷三山(1802〜1867年)没。11歳のとき目と耳を病み、目は治まったが14歳で全聾となる。家塾”興譲館”を興し、ここを拠点に、吉田松陰、頼山陽らと交際を結ぶ。40歳過ぎに視力も失い盲聾となる。自分の手のひらの上に文字を書いて、講義や質疑応答をした
 1868年、ウエイト(William Bell Wait: 1839〜1916年。1863〜1905年の40年以上にわたりニューヨーク盲学校校長)が、「ニューヨーク・ポイント」というブライユ式点字とは大きく異なる点字を考案 (紙面節約のため、縦2点、横は1点から4点まで伸縮するもので、また点字を書く時の便のため、もっとも頻繁に出てくる文字の点の数を少なくした。1890年代までアメリカでもっとも広く使われた。彼はまた、1894年にニューヨーク・ポイントを片手だけで打ち出すことのできるタイプライターも発明している。)
 1868年、アーミテージ(Thomas Rhodes Armitage: 1824〜1890年。外科医としてクリミア戦争に従軍するなど活躍していたが、1860年失明)が、ロンドンにイギリス内外盲人協会(British and Foreign Blind Association)を設立。当時イギリス各地で使われていた様々な盲人用文字の中から盲人の読み書きにもっとも相応しい文字を選定するための委員会を結成し、実験と調査に基づき、1870年ルイ・ブライユの点字を採択。その後、ブライユ点字による教科書・文学書・讃美歌集などを発行
 1868年、ボストン市立図書館に、点字部設置(のちに、パーキンス盲学校の図書館に吸収される)
 1869年、村田文夫(1836〜1891年)が、『西洋聞見録』で欧米の盲唖教育を紹介
 1869年、コペンハーゲンで、第1回北欧国際特殊教育会議が開催される
 1869年、騎士レオポルド・ロディーノにより、イタリアの盲教育始まる
 1870年、ドイツ、盲教育義務制実施
 1870年、メキシコ、盲少年および盲成人のための学校開設
 1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828〜1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
 1870年、オーストリアの音楽家ツァクライス(Thomas Zakreis: 1816〜1870年)没 (生後3ヶ月で失明。1826年にウィーンの盲学校に入り、修行を終えて、32年にはそこの扶養所兼職業学校に入った。47年盲人仲間14人と楽団を結成し、ウィーンで最も人気のある楽団の1つとなり、その演奏スタイルはワルツ王のヨハン・シュトラウスにも賞賛された。)
 1871年9月、山尾庸三が、「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」を太政官に提出。
 1871年、東京府が盲人調査を行う(以下に、その中の階級別職様について記す)
          検校・勾当  以下盲人    計
  鍼治・揉む療治 57人(41.3%)  613人(89.2%)  670人(81.2%)
  金子貸出    54人(39.1%)  29人(4.2%)   83人(10.8%)
  音曲指南    26人(18.9%)  30人(4.4%)   56人(6.8%)
  その他     0人(1.0%)   13人(0.9%)  13人(1.6%)
  無職      1人(0.7%)   2人(0.3%)   3人(0.4%)
 自活者  119人(86.2%)      271人(39.4%) 387人(46.9%)
  急迫者 19人(13.8%)      416人(60.6%) 435人(52.7%)
  計       138人(100%)  687人(100%) 825人(100%)
   *「その他」の「以下盲人」は、吉凶の施物取集めが12人、売卜が1人。
 1871年11月、太政官布告第568号により、盲人の官職(盲官)廃止(配当金取り集めや持ち場を区分しての独占的な営業の禁止なども含む→当道座解消)。また「鍼治學問所」が廃され、東京・本所一ツ目の「杉山鍼治學校」も閉鎖される。
 1871年、「アメリカ盲教育者協会」(American Association Instructors of the Blind: AAIB)発足
 1871年、アーミテージが、『The Education and Employment of the Blind』(盲人の教育と職業)を刊行
 1871年、イギリス内外盲人協会が、点字楽譜の説明書を出版(初の点字楽譜解説書)
 1871年、ドイツ、盲人のためのライヒ協会が設立される
 1872年8月、「学制」公布(「廃人学校アルヘシ」と規定) (1879年教育令、1886年学校令(小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令)、1890年10月「小学校令」改正(盲唖学校の設置廃止に関する事項等を定め、就学義務の免除を猶予とともに規定))
 1872年、箏曲・地歌の演奏家・作曲家吉沢検校没
  [吉沢検校審一: 1801?〜1872年。名古屋の人。9歳ころ失明。初世吉沢検校(?〜1841年)の子。父や藤田検校に箏曲・地歌を、中村検校に平曲などを師事。1834年検校登官後、雅楽、和歌、国学なども学ぶ。尾張藩主にも重用され、四十代で尾州の盲人支配頭に列せられて5人扶持を得、藩主の祭祀のおりにはつねに平曲を語った。55年ごろ京都に移って光崎検校らの箏曲復古運動を受け継ぎ、雅楽の調子からヒントを得て古今調子などの独特な箏の調子を考案し、和歌を詞章とする新形式の箏組歌を生み出した。名古屋で箏曲が興隆、また平曲も伝承される礎を築いた。作品に、古今組五曲(『千鳥の曲』『春の曲』『夏の曲』『秋の曲』『冬の曲』)や古今新組四曲(『山桜』『唐衣』『初瀬川』『新雪月花』)など]
 1872年、イギリスのアーミテージが、パーキンス盲学校の音楽教師キャンベル(Francis J. Campbell: 1832〜1914年。5歳で失明)を招き、王立盲人師範学校・音楽院(Royal Normal College and Academy of Music for the Blind)を設立。速記、タイプライター、ピアノ調律、オルガン演奏、音楽教師、学校教師などの専門的職業教育や大学への進学準備教育を行う
 1872年、アメリカ、フィラデルフィアに「盲人宗教書供給協会」が設立される
 1873年1月、明治政府より、梓巫市女憑祈祷狐下等厳禁の布令。これを受けて、2月、青森県より「巫覡ノ徒祈祷所業ヲ禁ズ」の布令(イタコ等もふくむ)、以後同様の布令が繰り返し出される。
 1873年8月、ウィーンで、第1回ヨーロッパ盲教育者会議が開催される(1879年のベルリンでの第3回会議から「盲教育者会議」と改称)
 1874年、明治政府が「恤救規則」を制定(救済対象は、生業不能の70歳以上の病人・廃疾者と13歳以下の幼少者で、極めて制限的)
 1874年8月、医師法と医療制度の基となる「医制」が発布される(その第53条で、「鍼治、灸治ヲ業トスル者ハ、内外科医ノ差図ヲ受クルニ非サレバ施術スヘカラス」と規定され、医師の監督下以外の鍼灸業務を禁じる。ただし、この規定は現実には施行されなかった)。
 1874年、全ドイツ盲人連盟結成
 1874年、ロンドンの普通学校内に盲学級設置
 1874年、イギリス、慈善事業協会が、盲人福祉調査委員会を設立
 1875年5月、東京築地のイギリス人医療宣教師フォールズ(henry Faulds: 1843〜1930年)の家に、フォールズ、中村正直、津田仙、古川正雄、岸田吟香、ボルシャルト(ドイツ人宣教師)の6人が会合し、訓盲院設立の目的で楽善会を組織する
 1875年、教部省達第29号により、盲僧派盲人はすべて天台宗管理となる
 1875年、ポルトガルの詩人・小説家A.E.カスティーリョ(1800〜1875年)没。6歳のとき失明したが、コインブラ大学で博士号を受ける。代表作『城の夜』『吟遊詩人のねたみ』のほか、ギリシア・ラテンの古典やシェイクスピア・モリエール・ゲーテの翻訳でも知られる。
 1876年4月、手島精一(1849〜1918。工業教育の先駆者、長年、東京高等工業学校長をつとめる)は、文部大輔田中不二麿(1845〜1909年)に随行して、フィラデルフィアで開催中の合衆国独立百念を記念する万国博覧会を視察、そこで日本の教育資料と米国における盲唖教育の資料とを交換し、ブライユ点字の本、点字器、ムーンタイプの凸字書等を日本へ送る。帰国(1877年1月)後、手島は教育博物館(明治14年東京教育博物館と改称、国立科学博物館の前身)の館長となり、それらの品々を同博物館内に展示する。 (なお、1884年、東京教育博物館長・手島精一が、ロンドンで開かれた教育博覧会に出席、帰国の際、盲唖教育に関する教材・器具、およびアーミテージノ『盲人の教育と職業(The Education and Employment of the Blind)』の第一版(1871)を持ち帰り、フィラデルフィアで入手した盲唖教育関係資料とともに、それらすべてを東京教育博物館内に展示)
 1876年、イギリス聖書協会のウィリアム・ヒル・ムーレーにより、北京に盲学校が設立される
 1876年、ストックホルムで、第2回北欧国際特殊教育会議が開催される
 1878年5月24日、京都に「盲唖院」が設立される(京都府上京第十九番小学教員古河太四郎が指導。翌年、府立となる。)
 1878年、パリで、盲人の境遇改善に関する会議が開かれる(1914年にロンドンで開かれた会議には、留学中の中村京太郎が日本代表として出席)
 1878年、パーキンス盲学校のスミス(John W. Smith)が、 6点式の点字だが頻度の多い文字に点の少ない組合せを割当てた修正点字(American Modified Braille.)を発表(例えば、A、Eは1点で、I、O、R、S、Tは2点で表される) (1892年に「American Braille」と改称)
 1879年10月3日、大阪府が模範盲唖学校の設置を告示し、11月5日、東区法円坂町5番地の府立師範学校内に設けられた校舎で開校式を挙行、同月8日から授業を開始。しかし、翌年5月末の府会でその予算が否決され、同年6月30日をもって廃止となる。
 1879年、アメリカ、盲教育振興法が連邦議会を通過、特別基金の利子1万ドルをもってアメリカン・プリンティング・ハウスを通じ、全国の盲学校に点字図書が無償で配布されるようになる
 1879年、ドイツでブライユ式の点字が正式に採用される
 1880年2月、楽善会訓盲院が、授業開始(盲児2名)
 1880年9月、京都府立盲唖院が、普通科のほか、音曲、按摩、紙折細工の3科を置く。
 1880年、内務省達第33号により、盲僧制度廃止
 このころ、楽善会が、鉛の台に針を並べた平仮名の活字を製作、盲人もこの活字を紙に押刻することで読み書きができるようにした(針先突字)。
 1880年、ドイツの産婦人科医クレーデ(Karl Siegmund Franz Cred: 1819〜92年)が、新生児膿漏眼予防のために1%の硝酸銀液を用いる「クレーデ点眼法」を考案、これによりこの疾患による失明患児数が激減
 1881年、ノルウェー、盲教育義務制実施
 1881年、ルーマニアに盲人の職業学校設立
 1881年、イギリス内外盲人協会が、初の点字雑誌「Progress」を発行
 1882年、イギリスのロンドンで、盲婦人マーサ・アーノルド(Martha Arnold)が、点字図書の貸し出しを始める(最初の蔵書数は50冊)。点訳ボランティアの協力も得て、これが世界発の点字図書館「National Library for the Blind: NLB」(1898年に法人化)の基となる。
 1882年、ルイ・ブライユの胸像が、生まれ故郷の村の広場に記念碑として建てられる。その台座には、ブライユ点字一覧表とともに、「ブライユへ盲人より感謝を込めて」と、記されている
 1882年、金光教の布教者・白神新一郎(1818〜1882年)没。岡山の米穀商だったが、1859年眼病になり失明。1869年金光教祖(川手文治郎)を知り、入信。約1年の熱心な信心により眼病がなおり晴眼となる。金光教での初の布教文書である「御道案内」を執筆。家業を息子に譲り、布教活動に専念。
 1882年、葛原美之一(1812〜1882年)没
  [葛原美之一: 幼名は矢田柳三。 3歳の時天然痘で失明。9歳より琴三味線を習い、11歳で京都へ上り、生田流の八重崎検校門下の松野検校に師事。15歳で勾当となり葛原を名のる。創作曲に「狐の嫁入」「おぼろ月」「つぼみの梅」など。1837年から亡くなるまでの45年間、平仮名と数字など63個の1cm角の木製活字を順次押していく方法で日記を書き続けた。それを孫の葛原しげるが1915年に『葛原勾当日記』として編纂・発行]
 1882年11月、楽善会訓盲院が、箏曲と鍼治・按摩の職業教育を始める
 1882年、モーリス・シゼラン(Maurice de la Sizeranne: 1857〜1927年。9歳の時失明)により、バランタン・アユイ協会(AVH.公式に認可されるのは1889年)が設立される。同年彼はまた「点字の略字略語表」を著シ、フランス語点字の省略法を考案 (フランス語点字の省略法は、その後、1924年と1955年に拡大・改訂されている。)
 1884年、イギリス内外盲人協会が、点字楽譜の解説書「A Key to the Braille Musical Notation」を出版
 1884年、イギリスの眼科医マドックス(Ernest Edmund Maddox: 1860〜1933年)が、世界発と思われる弱視学級を開設し、強度の近視児童に対して特別に配慮した教育を行う
 1884年11月、ヘンリー・フォーセット(Henry Fawcett: 1833〜1884)没。イギリスの経済学者、政治家。ケンブリッジに入ったが、20歳の時狩猟中父の銃の暴発で失明。1863年ケンブリッジ大学教授、65年自由党下院議員、80年グラッドストン内閣の逓信相となり、小包郵便制度を設けた。
 1885年3月、内務省が各府県に「鍼術灸術営業差許方」(内達甲10)を通達。各府県で鍼・灸の免許鑑札、営業許可、取り締まりを行うことになる
 1885年7月、かな文字運動3団体が合併して「かなのくわい」が結成される(会長に有栖川宮威仁親王、幹部に大槻文彦、三宅米吉、本山彦一など)
 1885年11月、楽善会訓盲唖院が、文部省直轄学校となる。そのさい、「杉山三部書」に頼る教育の前近代性を理由に、鍼術の指導が教育課程から外される
 1886年11月、新潟県高田町の眼科医大森隆碩や杉本直形等が中心となって「訓盲談話会」発足。翌年11月30日「盲人矯風研技会」として発会式(高田盲学校の創立の日とされる)
  [大森隆碩:1846〜1903年。高田藩眼科医大森隆庵の長男として生まれる。十代半ばで脱藩、江戸に出て医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。18歳で高田で眼科医開業。1885年、39歳の時に失明に近い状態になる。次女大森ミツは後に東京盲唖学校の教師となる]。
 1886年、スウェーデン、ヴェネスブルクに盲聾児学校が開校
 1887年7月、東京帝国大学医科大学助教授片山芳林が「鍼治採用意見書」を提出(その骨子は、「細い鍼を使用するならば盲人に行わせても害はないと思われるが、今後は解剖学、生理学、病理学に基づいた鍼術の指導も行うべきである」というもので、奥村三策の「鍼術論」に類似した内容)。これを根拠に、同年9月楽善会訓盲唖院(校長:矢田部良吉)の教育課程に鍼術が復活
 1887年、藤田匡(1859〜1940年。青森県生まれ。14歳のころから緑内障で視力低下、20歳で失明。弘前教会の本多庸一により洗礼を受ける)が、メソジスト派の伝道師試験に合格、我国発の盲人牧師として、青森・秋田県を中心に伝道活動を行う
 1887年、文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」に、塙保己一が取り上げられる(その後も1945年まで国定教科書に掲載される)
 1887年、アメリカ、パーキンス盲学校、幼児10名を集めて、幼稚園を開園
 1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866〜1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる
 1887年、スペインの盲人ゴナレツ(Jozefo Lorenzo Y.Gonalez)によって、アルゼンチンで盲教育が始められる
 1887年ごろ、軍医官橋本乗晃が、フランス流のマッサージの学理と手技を日本に紹介
 1888年2月、横浜の眼科医でクリスチャンの浅水進太郎(1860〜1943年。後に十明と改名)が、市内の盲人を集め、鍼治揉按医術講習学校の看板を掲げ、講義を始める(横浜市立盲学校の前身) (彼は、1887年9月より、求めに応じて盲人に西洋医学の解説をしていた)
 1888年、イギリスのデビッド・ヒルにより、清国の漢口に盲学校設立
 1888年、ベトナムの詩人グエン・ディン・ティエウ没 (1822〜88年。1843年官吏登用試験初級に合格、上級試験を目ざすが失明。その後、学校を開き子弟の教育にあたり、また長編韻文詩『陸雲仙(ルク・バン・テイエン)』を著す)
 1889年、義太夫節の太夫4世竹本住太夫(1829〜1889年。本名竹中喜代松)没 (紀州田辺の出身、幼少期に失明。大阪に出て三味線弾きとなるが、6世竹本内匠大夫に入門、竹本田喜大夫と名乗り、1849年大阪西横堀清水浜の芝居で始めて浄瑠璃を語る。1860年4世竹本住太夫を襲名。文楽座から彦六座に移り、1884年紋下(総座頭)となる。2世豊沢団平とともに彦六座の中心人物。)
 1889年9月、アメリカ人C.P.ドレーパー(Charotte P. Draper: 1832〜1899年。1880年に来日し横浜で息子夫妻とともに伝道活動を開始)が、身寄りのない盲人3人を引き取り「盲人福音会」創設、読書と鍼・按摩の授業開始(横浜訓盲院の前身)
 1889年、フランス、エドガー・ギボー(Edgar Guibeau)により、バランタン・アユイ博物館設置
 1889年、清国の広東に盲学校設立
 1889年、インドで、イギリス福音教会のアニー・シャープ女史により盲教育始まる
 1890年10月、浅水進太郎が、我が国最初の盲人用西洋医学書著述「浅水解剖学」「淺水生理学」「淺水病理学」他全10冊を執筆し、西洋医学者の立場で解説した。また、これに合わせ独自の盲人用人体模型を創案製作し教授に利用した。
 1890年11月、東京盲唖学校の第4回点字撰定会で、石川倉次案が採択される
 1890年代、高田瞽女400人近く、長岡瞽女100人くらいが活動
 1890年、ニュージーランド、オークランドで盲教育開始
 このころ、西國坊明學(1849〜1910年ころ。本名・永野明學)が、上方落語で音曲師として活躍 (福岡出身の盲目の僧で、明治初年ころ大阪に出てきたらしい。高座では、十六人芸と称して、琵琶で平家物語を語ったり、横笛での曲吹き、浄瑠璃の弾き語り、即席の都々逸をしたり、当時流行した推量節を歌った。桂派で確固たる地位を築いたという。)
 1891年4月、富岡兵吉(1869〜1926年。1888年楽善会訓盲院に入学。1912年から東京盲学校鍼按科教員)が、東京帝大附属医院に初の医療マッサージ師として就職
 1891年、イギリス、国勢調査の結果盲人数 11,235人
 1892年、山本覚馬(1828〜1892年)没 (会津藩の砲兵術家の長男。1864年に藩主松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩邸に幽閉される。そこで白内障が悪化してほぼ失明し、また脊髄の損傷で足も不自由になる。獄中で、口述筆記で新しい国のあり方を21項目にわたって論じた「管見」を提出。これが認められて、翌年京都府顧問となり、京都の文化・教育・産業の振興に貢献。79年、京都府議会選挙に当選、初代議長になる。)
 1892年、自由民権家・府川謙斎(1851〜1892年)没。7歳ころ失明。1881年、神奈川県戸塚での友文会の演説会に出席し、弁士として熱弁をふるう。翌年自由党に入党し、盲人民権家として注目される。
 1892年、スコットランド、盲教育義務制実施
 1892年、ホール(Frank H. Hall. 1890年にイリノイ盲学校長に就任)が、点字タイプライターを考案。さらに、点字原版製作機(stereo plate-maker, または stereo typewriter)を製作し、点字の大量印刷に貢献 (この点字製版機は、2枚折りにした亜鉛板に点字を打出すもので、この2枚の亜鉛板の間に用紙をはさみそれをゴムローラーに通して押圧して用紙に点字を印刷する。この製版・印刷方法はその後長く使われ続けている。)
 1893年、漢学者・棚橋松村、没 (1827〜1893年。美濃国山県郡の代官の長男。25歳で失明したが、大坂に出、詩学を広瀬旭荘にまなぶ。1857年に結婚、妻絢子に本をよんでもらい、詩文を筆記してもらうなどし、学問をつづける。なお、棚橋絢子(1839〜1939年)は教育者として有名。)
 1893年、鍼科取締法の請願(鍼医も西洋医と同様内務省の試験による資格制にしてその身分確立を図ろうとするもの(が出され、衆議院で採択されて内閣に送付されるが、内務省は却下
 1893年、イギリス、盲・聾児童の「初等教育法」制定(5〜16歳の就学義務化)
 1893年、コネチカット盲学校保育園を設置
 1894年3月、森巻耳(1855〜1914年。1887年に岐阜中学の教師となるが、悪性の眼病のため退職。岐阜聖公会のイギリス人A.F.チャペルから洗礼をうける。93年失明)が、A.F.チャペルと協力して、岐阜聖公会訓盲院を創立(森は亡くなるまで院長をつとめる。岐阜県立岐阜盲学校の前身) (岐阜聖公会は1890年設立。翌年10月濃尾大地震が起こって、宣教師ら救援活動を行い、その一つとして地震直後に被災盲人のための岐阜鍼按練習所も開設)
 1894年4月、北米メソジスト教会の医療宣教師ロゼッタ・ホール女史(Ms. Rosseta Sherwood Hall)が、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で盲女児の教育に着手
 1894年、ライプツィヒに、ドイツ中央盲人図書館創立
 1895年、ユーゴスラビア、盲学校をはじめる
 1895年ころ、フランスの画家ドガ(Edgar Degas: 1834〜1917年)が、1870年の普仏戦争従軍時の目の負傷が原因で、ほとんど失明状態になる。その後も、パステル画や蝋による彫刻を続ける。
 1896年、スウェーデン、盲・聾児教育義務制実施
 1897年、アメリカの国会図書館が、盲人のための閲覧室を設置
 1897年、香港に、カトリック・カノシャン修道会によりエベネーザ盲人ホーム開設、盲女子を収容
 1897年、イタリアの社会事業家バルビ−アドリアニ(Dante Barbi-Adriani: 1837〜1897年)没 (印刷業をしていたが、25歳で失明。しかし、彼は事業家としての経験とセンスを活かし、新聞の点字・墨字の同時発行、視覚障害者の福祉団体トマス会の創立、授産施設の設立、視覚障害関係事業の博物館の設立、イタリア盲人会議の開催と連盟の結成、無料巡回点字文庫の設置など、当時としては画期的な、多くの業績を残した。)
 1898年8月、高木正年が、総選挙で再選される
 [高木正年: 1857〜1934年。1890年7月の第一回帝国議会選挙で東京第12区から当選。第1次松方内閣の軍備増強案を批判、次期選挙では政府筋からの徹底的な選挙妨害を受けて落選。1897年に当選して政界復帰を果たすが、疲労と緑内障のため失明(40歳)。議員の辞職を考えるが、柴四郎ら進歩党幹部の説得により議員を続ける決意を固める。98年3月の総選挙で落選するが、同年8月の総選挙で再選。以後毎回、1932年の第3回普通選挙まで連続当選。普通選挙、婦人公民権、一般兵士の待遇改善、台湾における植民地での人権問題など、庶民レベルの問題に積極的に取り組む。]
 1898年、森恒太郎が、愛媛県余土村(現松山市)村長に就任
  [森恒太郎:1864〜1934年。1881年上京、啓蒙思想家の中村正直の同人社で学び、また正岡子規の門下生として「天外」の号を受ける。86年帰郷、88年改進党の支部を結成、90年愛媛県県会議員に当選。93年政界を退く。96年(32歳)失明。比叡山での修業中、余土村の村民に請われて98年村長に当選(1907年まで在職)。村の実態調査を行い、それに基づき、「村是」を定め、小学校教育の改善、青年教育の実施、耕地改良、勤倹貯蓄、共同購入、小作人保護、副業奨励等の施策に取り組む。1923年、青年教育のため道後に私塾「天心園」を開設。1932年、道後湯之町町長。自伝に「一粒米」(1908年)、「公民物語我が村」(1923年)]
 1898年、黒沢貞次郎(1875〜1953年)が、仮名タイプライターを創案(視覚障害者の間に普及するようになるのは、1960年代)
 1898年、盲人ニュエン・バン・チが、フランス語点字からベトナム語点字を翻案
 1898年、ブルックリン(アメリカ)の盲人たちが授産所を設立、インダストリアル・ホーム(Industrial Home for the Blind: IHB)へと発展 (1917年からパーキンス盲学校の卒業生ピーター・サルモン(Peter Salmon)の企画で盲人の自立のための幅広い事業を開始。盲聾者のための事業も1920年から始める。)
 1898年、李宗錫が、平壌盲学校設立
 1899年7月、東京盲唖学校長小西信八が、東京盲唖学校を盲学校と聾学校に分離すべきとの意見書を文部大臣に上申
 1899年、検校で棋士の関澄伯理(1820〜1899年)没 (7歳で失明、12歳で江戸に出て、初世関澄検校の養子となり、鍼術を修め、1866年検校になる。また、将棋の家元大橋分家の 8代大橋宗a(1817〜1861年)の門に入り、大橋の没後は 8代伊藤宗印(1826〜1893年)に師事し、1880年に7段に昇進したとされる。維新後廃止された検校の官職を復活するよう、有志の検校とともに京都に上り陳情するなどした。のち東京本所江島神社境内に杉山和一の祠を建てる。)
 1900年8月、「小学校令」が改正され、盲唖学校等を小学校に附設できるとの規定(第17条)、および就学義務の免除・猶予の規定(第33条)
 1900年、シカゴの公立学校に盲児のための「点字学級」(braille class)設置(1910年には、6州8市の公立学校に設立された点字学級に209人の盲児が在籍していた)
 1900年、ヘレン・ケラー、ラドクリフ大学入学(1904年卒業)
 1900年、ウィーン盲学校の校長アレキサンダー・メル(Alexander Mell: 1850〜1932年)が、『盲人百科事典提要』(Encyklopaedisches Handbuch Des Blindenwesens)を編集・出版

◆20世紀前半
 1901年4月、石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
 1901年、隈田嘉七(1835〜1901)没。大和箸中村の人。若くして家督を継ぐが、眼病を患い1861年失明。経済力もあり、1865年勾当、さらに67年には大和最後の検校職に任命される。1871年の盲官廃止令後も、権訓導や小講義(いずれも教導職)に任じられ、盲人の生活を守るとともに、教化活動にもあたった。また殖産にもつとめ、 穴師川の水力を利用して、三輪そうめんの原料となる製粉や搾油を行ったりした。
 1901年、インドネシア、オランダ人のウェストホッフ(Dr. Westhoff)が、バンドンのパジャジャランに盲学校を設立
 1902年、板垣退助の後援を得て、盲人医学協会(総裁 板垣退助、顧問 高木正年、会長 千葉勝太郎)結成(会員 1000名余)。鍼按講習会の開催、鍼按講習所(築地盲人技術学校の前身で、後の都立文京盲学校)の設立、盲人按摩専業運動、さらに後には盲人保護法の必要を訴える。 (「医学」の名称に医学界からの苦情が出たため、1905年盲人鍼按協会と改称。さらに、 18年盲人保持協会、 40年東京府盲人協会、 43年東京都盲人協会と改称。 1956年には、東京視力障害者福祉協会を吸収合併し、東京都盲人福祉協会となる)
 1902年12月、東京盲唖学校訓導石川重幸(1857〜1929年)著「盲人教育」が刊行される。当時盲教育の指針となる。
 1902年、イギリス内外盲人協会、「点字音楽記号」を出版
 1903年2月、京都市立盲唖院編纂『盲唖教育論』刊行 (盲の部は同院教諭中村望斎の執筆。また、同書の付録「瞽盲社会史」は、盲人史研究の重要な文献の1つ)
 1903年3月、東京盲唖学校に教員練習科設置 (1910年11月、東京盲学校師範科に昇格。理療科の教員養成はその後さらに1923年東京盲学校師範部、1949年国立盲教育学校、1951年東京教育大学教育学部特設教員養成部、1969年東京教育大学教育学部理療科教員養成施設に引き継がれてゆく)
 1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
 1904年2月、岡山県の日生小学校に盲児3名入学。さらに翌年4月、岡山県知事桧垣直右の主導の下、県下の各小学校で盲・聾教育の巡回講習を始め、学区内の盲・聾児の教育を開始、一時は 89の小学校で 100名以上の盲・聾児が普通児と共に教育を受けた(1907年7月の桧垣知事の退職、 1909年の岡山盲唖院の設立を契機に、この方式は次第に衰微)
 1904年、ハロルド・チランダー(Harold Thilander)が、国際点字エスペラント雑誌「Esperanta Ligilo」をスウェーデンで創刊
 1905年2月、奥野市次郎(京都出身。1902年より衆議院議員、立憲政友会)等が、「盲人保護に関する建議案」(鍼・按摩業を試験による免許制で盲人の専業とする)を衆議院に提出。衆議院で可決されるが、法的には何の考慮もされなかった。 (以後、ほぼ毎年同様の請願がなされる)
 1905年、箏・三絃を職とする全国団体として、「当道音楽会」発足
 1905年、左近允孝之進(1870〜1909年。東京専門学校(現 早大)卒。20代半ばで白内障で緑内障をになり失明、鍼・按摩を学び1899年神戸で開業)が、4月ころ点字活版印刷機を考案(初めは木製、さらに鉄製の活版印刷機を製作)、6月神戸訓盲院(現 兵庫県立盲学校)設立、7月点字出版所「六光社」を設立、翌年1月わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊(創刊号は300部、週2回発行)
 1905年9月、群馬の上野教育会が、失明した出征軍人のため訓盲所設立(1908年群馬県師範学校附属訓盲所として移管、1914年前橋市立訓盲所、翌年私立前橋訓盲所となる。群馬県立盲学校の前身)
 1905年、内務省が全国盲人調査を行う (総数70,506人。その内訳は、按摩術18,201(25.8%)、鍼術4,587(6.5%)、灸術618(0.9%)、歌舞・音曲4,706(6.8%)、落語・講談246(0.3%)、その他9,159(13.0%)、無職32,603(46.2%)、学校生徒386(0.6%))
 1905年、英国点字委員会(British Braille Committee)が、略字を統一市、2級点字を定める
 1905年、アメリカのマサチューセッツ州、盲聾教育の義務制実施
 1905年、アメリカのシンシナチに盲児のための点字学級設置
 1905年、アメリカ盲人援護事業者協会(American Association of Workers for the Blind: AAWB)結成
 1905年、ウィニフレッド・ホルト(Winifred Holt: 1870-1945年)により、ニューヨークに世界発のライトハウスが設立される (ウィニフレッド・ホルトは1922年マザー(Rufus Graves Mather)と結婚し、それから一般にマザー夫人と呼ばれるようになった)
 1905年、ブルガリアの盲教育始まる
 1905年、南アフリカで、ベッスラー(M. T. Besslaar)により盲教育が始められる(対象は白人のみ。有色人対象の盲学校は1923年ケープタウンに開設された)
 1906年、東京盲唖学校長小西信八ら、盲唖教育の義務制と分離を文部大臣に上申
 1906年、好本督(1878〜1973年。弱視、東京高等商業学校卒業後おもに英国に住み、商事会社を経営しながら、祖国の盲人に物心両面にわたる援助をし続ける)、森巻耳(1855〜1914年。1887年岐阜中学の教師となるが、眼病のため退職、93年失明。翌年岐阜聖公会のA.チャペルとともに岐阜聖公会訓盲院を創立、亡くなるまで院長をつとめる)、左近允孝之進等が中心になって「日本盲人会」を設立、神戸六甲社より、好本督の『日英の盲人』、ヘレン・ケラーの『我が生涯』、内村鑑三の著作などを出版
 1906年10月、日路戦争の失明軍人のために、失明軍人講習会が東京盲唖学校に開設される(期間2年。点字のほか、将官には盲学校教員、下士官以下には鍼灸按摩術の職業教育をした)
 1906年、イギリス、盲人用郵便物の無料化
 1906年、カナダ盲人援護協会(Canadian National Insutitute for the Blind: CNIB)発足
 1907年、第1回全国盲唖学校教員大会、東京で開催(主要議題は、盲唖教育令発布、盲唖義務制施行、盲唖分離、鍼、灸、按摩業者の取締規則制定など。1911年の第3回より、全国盲唖教育大会と改称)
 1907年、日本の盲聾唖教育の先覚者古河太四郎(1845〜1907年)没
 1907年、東京盲学校が、東京帝国大学医科大学付属病院でマッサージの実習を始める (以後、慶応病院や東京府養育院でも実習ができるようになり、病院マッサージ士として就職する者も徐々に増えていった)
 1907年、イギリスの盲人数学者ウィリアム・テーラー(William Taylor: 1842-1922年。ケンブリッジのトリニティカレッジに学び、後に同大学数学講師となったが、5年後失明)が、テーラー式計算器を完成(加減乗除だけでなく、簡単な代数の計算もできたようだ。日本でも一部の盲学校で昭和初めまで使われていた)
 1907年、ドイツのレビングゾーン、弱視教育の必要性を説く
 1907年、バランタン・アユイ協会、物療師学校設立
 1907年、ギリシャの盲教育がアテネ近郊で始められる
 1907年、アメリカ、盲人に関する雑誌「Outlook for the Blind」創刊(点字と活字で)
 1907年3月、ホームズの周到な準備とジーグラー夫人の多額の寄付により、「Matilda Ziegler Magazine for the Blind」が創刊される (創刊号は6500部、内4500部がニューヨークポイント、2000部がブライユ式点字、次第にニューヨーク・ポイントの割合が減り、1963年からはブライユ式点字のみ。2009年11月号で廃刊となるが、それまで全世界の読者に無量配布を続ける)
  [ホームズ(Walter George Homes, 1861〜1946): 新聞記者。2歳上の兄が全盲で、そのような人たちのための読み物の必要性を通感し、1905年5月「ニューヨーク・ヘラルド」紙に投書、ジーグラー夫人の支援を受け雑誌創刊にこぎ着ける。創刊から亡くなるまでの39年間、盲人文化の向上を願って、雑誌編集に携わる。
   ジーグラー夫人(Electa Matilda Ziegler, 1841〜1932): 夫のウイリアム・ジーグラーはベーキングパウダーで資産を成し、極地遠征隊の後援者としても有名だったが、1905年数百万ドルの遺産を残して亡くなる。夫人は、雑誌発行資金確保のために財団を設立、80万ドルの原資を提供]
 1907年、ゴア(Thomas Pryor Gore: 1870〜1949年)が、民主党よりオクラホマ州選出の連邦上院議員に当選(オクラホマ州はこの年に連邦に加盟) (8歳のとき事故で左目を失明、その後右目の視力も徐々に衰え、20歳ころには完全失明。普通学校を卒業後、1891年カンバーランド大学法科大学院に進学、翌年にミシシッピー州での法曹資格を得る。1901年オクラホマ準州のロートンに移り、そこで法律事務所を開業。翌年準州議会議院に当選。1907年に上院議員当選後、08年と14年の選挙でも連続当選(第1次大戦への参戦には反対)。20年の選挙で落選、民主党の党役員として政治活動を続ける。30年の選挙で上院議員に返り咲くが、36年の選挙で落選。)
 1908年、山本清一郎(1879〜1961年。18歳で失明。京都市立盲唖院を卒業後同校教員)が、彦根訓盲院を創立 (1928年訓盲院が県立に移管する、その際に敷地、校舎などを提供、1948年まで校長をつとめる)
 1908年、山田流箏曲家山勢松韻没 (1845〜1908年。本名吉田専吉。3歳で失明。2世山勢検校に師事し山清勾当、山勢勾当などを経て山勢松韻を名乗る。1868年には3世山勢検校を襲名し山勢派3世家元となる。1880年文部省音楽取調掛に出仕。88年、山登万和、山登松齢、2世山多喜松調らと五線譜による初の楽譜集『箏曲集』(音楽取調掛撰)を編集。91年東京音楽学校教授。作品に「朧月」「花の雲」「四季の友」など。門下に初世萩岡松韻、今井慶松等がいる。)
 1908年、南ロンドンのバウンダリー・レー小学校に、弱視学級が開設される
 1908年、アメリカで、触知用文字盤のついた懐中時計が製作・販売される。
 1909年9月、朝鮮の京城に横浜盲人学校京城分教場開設
 1910年4月、東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。町田則文(1855〜1929年)が東京盲学校初代校長となる(〜1929年3月)。
 1911年8月、「按摩術営業取締規則」(内務省令第10号)および「鍼術、灸術営業取締規則」(内務省令第11号)公布(按摩・鍼灸業に関する全国統一的な法制)。これにより、営業をなすには、地方長官の行う試験に合格するか、又は地方長官の指定する学校、若しくは講習所を卒業して、地方長官の免許鑑札を受けることが必要になった。ただし按摩については、試験を甲種(修業年限4年)および盲人だけが受験できる乙種(修業年限2年)に分けて試験の内容を簡易なものとし、また地方の状況により必要があると認めるときは、地方長官は盲人に当分の間無試験で免許を与えることができるとされた(それまでの按摩の盲人専業運動に一部応えたもの)。
 1911年10月、石松量蔵(1888〜1974年)が、九州学院神学部に入学(全盲で我が国初の大学進学。1915年6月同校卒業、翌年9月早稲田大学文学部哲学科聴講生、1918年以降牧師として活躍)
 1911年、内務省が全国盲人調査を行う (総数69,167人。その内訳は、按摩術21,545(31.1%)、鍼術4,223(6.1%)、灸術717(1.0%)、歌舞・音曲3,981(5.8%)、落語・講談257(0.4%)、その他9,859(15.3%)、無職26,343(38.1%)、学校生徒2,242(3.2%))
 1911年、イギリス人宣教師ウィリアム・キャンベルにより、台南訓盲院設立
 1912年5月、東京盲学校長町田則文を中心に「内外盲人教育」創刊(年4回発行。〜1920年)
 1912年、東京盲学校教諭奥村三策(1864〜1912年)没
  [奥村三策: 金沢藩士の子。2歳半で失明。7歳で金沢藩医御鍼立て久保三柳に師事し鍼術・按摩を学ぶ。16歳から金沢医学校で西洋医学を学ぶ。1885年「医事新聞」に「鍼術論」を投稿。1886年10月(22歳)、楽善会訓盲唖院に入学、学力・技術ともに優れていたため 2ヶ月後には教員になる。各種の鍼按の教科書の編纂、簡易点字製版機の考案、点字略字の工夫、卒後教育、マッサージの導入、さらには鍼治の有効性についての科学的研究など、盲人への鍼治教育の近代化に貢献。1911年高等官に叙される(盲人発)]
 1912年、中村京太郎が、イギリス留学(全盲で発)
  [中村京太郎(1880〜1964年: 7歳で失明。1894年東京盲唖学校入学、1900年卒業と同時に同校教員となる(全盲として初めての普通科教員)。翌年正則英語学校夜間部入学。1904〜11年台南慈恵院盲部教育部長。1912〜14年イギリス留学(王立盲人師範学校師範科)。1915〜19年東京同愛訓盲院教員。1922年「点字大阪毎日」創刊とともにその編集主任となる。1950年パリのユネスコ本部で開催された世界点字統一会議に日本代表として招かれ出席。その他、数種の点字雑誌の創刊、点字教科書の編纂、盲女子のためのホームの設立、盲人基督信仰会の設立などに貢献]
 1912年、和算家・中島這棄(1827〜1912年)没。松本藩士で、藩主戸田光庸・光則父子につかえ算学師範となる。38歳で失明するが、おおくの子弟におしえ、維新の際勘定奉行となり藩政改革にくわわった。
 1912年、朝鮮総督府が、特殊教育の関連法規「済生院官制」を制定・公布。翌年、済生院盲唖部設置(1944年廃止)
 1912年、ドイツ、帝国ドイツ盲人連合(Reichsdeutsche Blindenverband: RBV. 今日の「ドイツ視覚障害者連合(Deutscher Blinden- und Sehbehindertenverband e.V.: DBSV)」)発足。
 1912年、J.ボロティン(Jacob Bolotin: 1888〜1924年。先天性の全盲。イリノイ州立盲学校卒)が、シカゴ医科大学を卒業、心臓と呼吸器系の専門医となる。
 1912年、印象派の画家モネ(Claude Monet: 1840〜1926年)が、白内障と診断される(視力低下は1908年から自覚していた)。次第に視力が低下し、1922年には失明に近い状態になる。23年に右眼だけ白内障の手術(着色した水晶体を取り除く)を受け、視力は回復。当時の作品には白内障の影響が明らかに認められ、判読しにくいものもあるが、その荒々しいタッチで描かれた一連の作品(パリ・マルモッタン美術館)は、のちの抽象表現主義に大きな影響を与えた。
 1913年、ユーカラ伝承者・鍋沢ワカルパ(1863〜1913年)没 (中年過ぎに眼病を患い失明したが、記憶力に優れ、ユーカラや数々の詩にとどまらずアイヌの名門数十の家系を諳んじていて、金田一京助から「アイヌのホメロス」と評された。1913年7月末に上京して、約1ヶ月間金田一に「虎杖丸の曲」「蘆丸の曲」など14編2万行に上る長編叙事詩と短編の神話10編余をを語った。(その後一族の求めに応じて帰郷するが12月に亡くなる。)これらは金田一京助『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』に収録され、アイヌ文学研究の基礎となった。)
 1913年、イギリス、イングランドのサンダーランド・ミュージアムで、チャールトン・ディアズ(John Alfred Charlton Deas)が中心になって、見えない子供たちや大人たちを対象とした、各種の展示品について触って知るためのプログラムを毎週日曜日に継続して行う。
 1914年、全国の盲唖学校数65校、盲生徒数1729人 (1905年は盲唖学校数26校、盲生徒数624人で、この間に急増)
 1914年9月、ロシアのエロシェンコが、東京盲学校の研究生となる
  [エロシェンコ(Vasilii Yakovlevich Eroshenko: 1889〜1952): 4歳の時罹った麻疹で失明。モスクワ盲学校に学んだ後、モスクワのレストランの盲人オーケストラで働いたが、エスペラントを学び、その縁で1912年ロンドン王立盲人音楽師範学校に入る。1914年7月、日本エスペラント協会の中村精男(中央気象台長)をたよって来日、9月には東京盲唖学校研究生となり、日本の盲人の生活を知るためにあんま術を学ぶ。秋田雨雀、大杉栄、中村彝、竹久夢二、小坂狷二、相馬黒光、神近市子らと交友、日本語による口述筆記で作品を発表した(処女作《提灯の話》1916)。在学中の1915年には盲学校の学友たちにエスペラントを教え、これが日本の盲人たちへのエスペラント普及のきっかけとなる。また、各地の講演会に出てエスペラントで思想問題を話しては人気を博したという。1916年、来日していたインドの詩人タゴールに会い、東洋の他の弱小民族の生活を知るためにタイ、ビルマ、インドに旅立つ。ビルマでは盲学校の教師もつとめたりしたが、インドで国外追放となり、19年再来日。早大聴講生となり、第2次《種蒔く人》の同人となり、次々と童話を発表。思想的に危険な人物として日本から21年に追放され、中国に行き、魯迅らの知遇を得て北京大学でロシア文学についての講義をした。23年、ヨーロッパを経由して帰国。ソビエトでは、トルクメンで盲学校の校長を勤めトルクメン語の点字を考案、その後モスクワで盲人協会の事務をしたり日本語通訳などをして生計を立てていたようだが、スターリン治下では冷遇される。1952年故郷のアブーホフカで亡くなるが、死後彼の手記や蔵書は没収される。]
 1914年、イギリス内外盲人協会の会長にピアソン(Arthur Pearson: 1866〜1921年。ウィンチェスター大学卒業、出版社・新聞社を経営し、慈善活動も行っていたが、中年になって緑内障になり、1913年には失明)が就任、イギリス盲人援護協会(National Institute for the Blind = NIB)と改称。1949年、王室によって王立(Royal)の名称使用を許可され、王立イギリス盲人援護協会(RNIB)となる
 1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan's)を設立し、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始
 1915年、シャール(Thomas David Schall: 1878〜1935年。弁護士として法律事務所を開業していたが、1908年事故で完全失明、妻の協力を得て仕事に復帰)が、視覚障害者としてアメリカで初めて連邦下院議員に当選。さらに1925年には連邦上院議員に当選(共和党に属す)
 1915年12月、点字統一委員会(Commission on Uniform Type for the Blind)(アメリカ)が、それまでのアメリカの諸方式を統一した「標準点字」案に代えて、基本的にイギリスの点字を採用することを決定、英米間での修正協議を提唱
 1915年、アメリカの詩人・賛美歌作家ファニー・クロスビー(Frances Jane Crosby. 通称 Fanny Crosby)没
  [Frances Jane Crosby: 1820〜1915年。生後間もなく医師の誤処方により失明。1835年設立間もないニューヨーク盲学校に入学し、42年同校終了。47年同校の教師になる。1844年第1詩集『盲目の少女、その他』、51年第2詩集『モンテリー、その他』、58年第3詩集『コロンビアの花輪』(同年盲学校退職)。1850年メソジスト派の敬虔なクリスチャンとなる。1864年ウィリアム・ブラッドベリー社の求めに応じて賛美歌の作詩をするようになり、以後5000曲以上の賛美歌を作詩する]
 1916年、石原忍(1879〜1963年。東大医学部眼科学教授)が、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発 (以後、もっとも優れた色覚検査表として世界各国で使われるようになる)
 1916年、ドイツ人シュトレール(Karl Strehl: 1886〜1971年。21歳の時働いていたニューヨークの化学工場の事故で失明。マールブルク大学で文献学と経済学を学ぶ)が、「ドイツ盲人学徒協会(Verein blinder Akademiker Deutschlands: VbAD)」(現在の「ドイツ盲人・弱視者学生・職業人協会(Deutscher Verein der Blinden und Sehbehinderten in Studium und Beruf: DVBS)」の前身)を設立、また同時にマールブルクに「ブリスタ」(BLISTA: Deutsche Blindenstudienanstalt. ドイツ盲人教育施設)を開設して、失明軍人を対象とする高等教育と社会復帰のためのプログラムを開始。1925年、略字を用いたドイツゴ点字の書式(現在「マールブルク体系」と呼ばれているもの)を提案。ブリスタには、1926年に点字出版所、27年には大学進学に必要な普通教育を行う視覚障害者のためのギムナジウムが設置される。このギムナジウムは次第に発展して、商業、社会福祉、プログラミングの専門課程を合せもつ総合高校となり、また、点字図書館、録音図書館、視覚障害に関する資料を集めた専門図書館も整備され、今日ドイツ語圏最大の視覚障害者の学術支援拠点となっている。
 1916年、ドイツ、ドイツ赤十字のシュターリンとシェパード犬協会のシュテファニッツにより、オルデンブルク盲導犬学校(世界発の盲導犬訓練学校)が設立される
 1917年、テイラー(Henry Martin Taylor: 1842〜1925年)が、「Mathematical and Chemical Notation」発表
 1918年、大阪府が、小河滋次郎の構想に基づき、方面委員制度を開始。それが次第に全国にひろがり、1928年までに全道府県に設置される。1937年方面委員令、1948年民生委員法。
 1918年、斎藤百合(1891〜1947年。本名野口小つる。2歳のとき麻疹による高熱などで失明。10歳で按摩士に弟子入りするが、長続きせず翌年岐阜訓盲院入学。東京盲学校鍼按部師範科を卒業して母校の正教員に。1915年斎藤武弥と結婚、通称百合と名のる)が、開校したばかりの東京女子大学予科に特別生として入学、21年東京女子大に新設の高等学部3年に編入、22年大学部英文学科進学(盲女子として初の大学進学、翌年秋退学)。さらに彼女は、25年東京盲学校研究科英語科1年に入学(3年間在籍)、30年盲女子のため陽光会治療所を開設、35年盲女子の福祉を目的に「陽光会ホーム」を開設、盲女子を受入れ、「点字倶楽部」の発行、点字教室、編み物教室、失明者の相談、点字出版などを行う。
 1918年、アメリカ、傷痍軍人リハビリテーション法
 1918年7月、アメリカ盲教育者協会(AAIB)が、1級半点字(44の略字のみの使用)の採用を議決
 1919年、秋元梅吉(1892〜1975年)が、中村京太郎や好本督らとともに、盲人基督信仰会を設立、聖書をはじめとする点字出版事業を開始(33年、東京光の家と改称。44年、肥後基一の星文社と合併。戦後は盲人の救護施設として発展)
 1919年4月、中村京太郎が、盲人基督信仰会より、点字週刊誌「あけぼの」を創刊(1922年廃刊)
 1919年、文部省普通学務局より『本朝盲人伝』
 1919年、トラホーム予防法施行 (1983年廃止)
 1919年、文部省で、全国盲唖学校長会議開催
 1919年、イギリスのヘンリー・ジャクソンにより、ビルマにセント・ミカエル盲学校が設立される
 1920年4月、「按摩術営業取締規則」一部改正(内務省令第9号) (内容は、@医師の同意を得た場合のほか、脱臼又は骨折の患者に施術してはならない、A地方長官の指定した学校若しくは講習所で「マッサージ」術を修業するか、又は「マッサージ」術の試験に合格して免許鑑札を受けた者でなければ「マッサージ」術を標榜してはならない、B附則において、按摩術営業取締規則を柔道の教授をなす者が打撲、捻挫、脱臼及び骨折に対して行う柔道整復術に準用することとした)
 1920年、新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(この文庫は柏崎市立元中越盲学校内に置かれた新潟県盲人図書館に移設され、現在の新潟県点字図書館の前身となる)
 1920年、色覚検査が義務教育の中で検査項目として規定される (翌年に石原忍の「学校用色盲検査表」)
 1920年11月、山下芳太郎(1871〜1923年)らによって、「仮名文字教会」が設立される (1923年、カナモジカイと改称。片仮名による左横書き文書や片仮名のタイプライターの普及を目ざす)
 1920年12月、山県有朋、色盲問題を理由に久邇宮良子(島津忠義の孫)と皇太子の縁談をこわす陰謀。杉浦重剛・頭山満らが反対運動(宮中某重大事件)。
 1920年、パーキンス盲学校が、ハーバード大学と提携して盲教育教員養成を開始
 1920年、イギリス、盲人法(The Blind Persons Act)制定
 1920年、モスクワに、国立欠陥児童研究所(盲・聾・肢体不自由・知的障害児対象) (1952年、欠陥学研究所となる)
 1920年、アメリカ、ハドレー(William Alen Hadley: 1860〜1941。長く高校の教師を勤めていたが、1915年網膜剥離のため失明、その後点字を習得)が、各地の中途失明者に通信による教育を開始(=ハドレー盲学校。授業料は無料で、ライオンズクラブ等民間からの寄付だけで運営。その後この通信制の学校は大いに発展し、視覚障害児者の家族・視覚障害関係の専門職のためのコース等も開設、受講生は米国内だけでなく世界約百カ国に及び、現在常時一万人が在籍しているという。)
 1921年2月、浄土真宗大谷派の盲人僧侶山本暁得(1886〜1932年。俗名伝三郎。7歳のとき風眼で失明。1906年京都市立盲唖院を卒業後熊本や金沢などで医科大学付属病院のマッサージ師として勤務していたが、1920年大谷大学の聴講生となり得度)が、京都で弘誓社を設け点字仏教誌「仏眼」を発行。また翌年には「仏眼協会」発足に参画し、その後『真宗聖典』『新訳仏教聖典』などの仏教書を点訳出版するなど、盲人の教育・福祉に取り組む。
 1921年、「帝国盲教育「創刊(〜1928年))
 1921年、葛山覃(1888〜1946年。弱視で、1911年に東京盲学校教員練習科を卒業して私立岡山盲唖学校教諭)が、盲人青年覚醒会を組織、点字で「覚醒」を創刊(年4回発行。1929年までは発行されていたようだ。また、1926年6月には墨字の「盲界の時報」も発行している。同会は、点字図書の購入と貸出、講習会や講演会の開催、盲人調査や身の上相談などを行う)。葛山はさらに、1927年から十数年間、岡山医大の畑文平教授の協力を得て、失明防止・開眼検診事業を行い、1万数千人が受信したと言う。
 1921年、ドイツの哲学者・経済学者K.E.デューリング(Karl Eugen Duhring: 1833〜1921年)没 (最初ベルリン大学で法律を学び司法官見習い実習生として働いていたが、眼病のために職を辞し、哲学に転じる。1861年、失明するも学位を取得、1863年からベルリン大学私講師となり、哲学と経済学を講じる。1873年の『国民経済学並びに社会経済学教程』や75年の「経済教程」で注目されて、愛国主義者、反ユダヤ主義者として大衆受けし、一時期ドイツ社会民主党にも影響を与えた。しかし、77年には社会主義者鎮圧法により大学を追われ、また彼の素朴な唯物論はエンゲルスの『反デューリング論』で徹底的に批判されて孤立し、不遇な晩年をすごす)
 1921年、ミゲール(M. C. Miguel: 1866〜1958年。絹織物業で大成功を収め、40代で引退。第1次大戦後フランスでアメリカの失明軍人の帰還業務に携わり、以後様々な盲人福祉に関わるようになる)により、アメリカ盲人援護協会(American Foundation for the Blind: AFB)設立、初代会長に(〜1945年)。1924年には、ヘレン・ケラーがAFBの相談役に就任し、「ヘレン・ケラー基金」のキャンペーンを開始
 1922年、熊谷鉄太郎が中心となり、「東亜盲人文化協会」を設立。また彼らは、同年、大阪の中之島公会堂で「全国盲人大会」を開催
  [熊谷鉄太郎: 1883〜1979年。北海道南西部の漁村に生まれる。3歳のとき天然痘のため失明。13歳から3年間青森で鍼按の修行。1900年札幌で受洗。02年東京盲唖学校入学、06年同校卒業、その後横浜訓盲院や同愛訓盲院の教師などをする。1913年関西学院神学部に聴講生として入学。16年日本メソジスト教会の牧師となり、大阪で活動開始。1924年山口県の柳井教会に赴任、27年宇部教会に転任。1931年4月ニューヨークで開かれた国際盲人会議に出席、同年9月〜翌年2月ニュージャージー州マジソン市のドルー大学神学部で学ぶ。34年広島西部教会、38年神戸市の御影教会。40年戦時体制下での活動の困難さから御影教会を辞任(鍼灸院開業)。43年8月〜44年7月、外務省の依頼でバンコク盲学校の経営に当たる。]
 1922年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年「点字毎日」に改題)を創刊。また、9月から点字教科書の発行も開始(国語・算術・修身等 43種の国定教科書の点訳版を提供)
 1922年秋、岩橋武夫が、自宅に「点字文明協会」の看板を掲げ、『点字日エス辞典』を刊行(現・日本ライトハウスの創業)
  [岩橋武夫:1898〜1954年。大阪生まれ。1916年9月、早稲田大学理工学部に入学するが、網膜剥離のため失明、翌年中退。失明受容の苦しみを母の助で乗り越え、大阪市立盲唖院に入学、キリスト教の洗礼を受け、エスペラントも学ぶ。1919年関西学院英文学科に入学、妹や学友寿岳文章の協力を得てミルトンを研究、1923年3月卒業。同年4月より大阪市立盲学校教諭(〜1935年3月)。1925年エジンバラ大学に留学、宗教哲学と英文学を学び、27年7月マスターオブアーツを得て帰国(留学中にクエーカーとなり、以後クエーカーとしても活動)。28年4月、関西学院大学専門部英文学部講師(〜1944年3月。関西学院は戦前盲人を受け入れていたほとんど唯一の大学で、10人近くが入学している。ただし、点字で正式に入学試験が受けられなかったことや、盲学校の4年制の中等部卒業では専門部の入学資格にはならなかったことなどのために、ほとんどは聴講生)。1931年「光は闇より』(1933年に英語版)。33年8月、大阪盲人協会会長。34年8月〜翌年1月、渡米。35年10月、ライトハウス建設。36年2月、燈影女学院設立、学院長に就任(51年3月大阪府に移管、府立阿倍野高校に合併吸収)。1948年8月、日本盲人会連合結成、会長に就任。52年10月、日本盲人社会福祉施設協議会結成、委員長に就任。54年2月、WCWB日本委員会の委員長に就任。]
 1922年、東本願寺布教師和田祐意(中途失明)が中心となり、失明防止を主目的とした「仏眼協会」発足。病院や盲学校も経営(1924年、東京浅草に仏眼協会盲学校開校、1945年の東京大空襲で焼失・開校)
 1923年8月、「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離、各道府県に盲学校・聾学校の設置が義務化、中等部設置)
 1923年、晴眼者の鍼・灸師による盲人排斥運動が起こり、両者の対立が激しくなる
 1923年、アンダーウッド・スタンダードのカナタイプライターを初めてアメリカから輸入
 1923年、ドイツ、ポツダムに国立の盲導犬学校が設立される(第一次大戦で失明した軍人の社会復帰に役立つ)
 1924年、横浜訓盲院が、初等部予科を設置(日本の盲学校における幼児教育の先駆)
 1924年、イギリス、イアン・フレーザー(William Jocelyn Ian Fraser: 1897〜1974)が、総選挙でロンドンのセント・パンクラス北区の議会議員(保守党)になる (第一次世界大戦中の1916年に失明、セント・ダンスタンスに入って仕事を始める。1921年にアーサー・ピアソン亡き後セント・ダンスタンスの会長に就任し1974年まで勤める。1929年の総選挙では落選するが、1931年には再選される。その間、BBCの経営に携わったりもする。34年にナイトに序せられる。1958年制定の一代貴族法(Life Peerage Act)の下で初の一代貴族(Baron)に序せられる)
 1924年、オーストリアの作曲家・ピアニストのヨーゼフ・ラーボア(Josef Labor: 1842〜1924年)没 (3歳で天然痘により失明。ウィーンの盲学校で教育を受けるとともに、ウィーン音楽院で音楽教育を受け、さらに個人指導でジーモン・ゼヒターに音楽理論を、ピアニストのエドゥアルト・ピルクヘルトに鍵盤楽器の演奏を師事。1866年からウィーンでピアノ教師として活動し、アルノルト・シェーンベルクやパウル・ヴィトゲンシュタインなどの後進を指導。1875年よりグムンデンの教会オルガニスト。1904年には宮廷オルガニストの称号も授与される。)
 1925年4月、衆議院議員選挙法改正により、点字投票が認められる(同法施行令の公布は 1926年1月30日)
 1925年、石松量蔵が『盲人心理の研究』を自費出版
 1925年10月、点字大阪毎日の主宰で、関西盲学生体育大会が行われる
 1926年6月、全国盲学校同窓会連盟発足
 1926年8月、全日本盲学生体育連盟結成。同年11月、点字大阪毎日の後援を得て第1回全国盲学生競技大会が大阪で開催される
 1926年11月、朴斗星(パク・トゥソン:1888〜1963年。1913年、朝鮮総督府済生院盲唖部の訓導兼日本通訳として採用される)が、6点式のハングル点字を考案。ハングル点字の通信教育を始め、また自宅で点字製版・印刷をして「朝鮮語読本」や雑誌を発行。1957年には全24巻の点字聖書を完成させる。 (しかし、日本の植民地支配下、盲唖部では、日本語と日本点字・教科書を使った授業がされていたと思われる。なお、1999年に朴斗星記念館が設置されている)
 1927年9月、東京盲学校が、初等部予科(幼稚園)を開設
 1927年、アメリカ、盲目の黒人のピアニスト・ブーン(John William Boone: 1864〜1927年)没 (生後間もなく脳炎のため失明。幼い時から音楽の才を示し、母がセントルイスのミズーリ盲学校までの旅費を与えて、ミズーリ盲学校に入学。盲学校でピアノと出会うが、彼の才能は学校では認められず、退学。1879年末、コロンビアのバプテスト協会のコンサートに招かれ、そこでの演奏が高く評価されて、翌年から実業家 J. レインジ・ジュニアのマネージメントで各地をコンサート旅行して生活するようになる。1915年までの36年間に8650回のコンサートを開いたという)
 1928年2月20日、普通選挙制による初の衆議院選挙で、初めて点字投票を実施 (点字投票数:5428票)
 1928年6月、点字毎日主催の第1回全国盲学生雄弁大会(現全国盲学校弁論大会)開催
 1928年8月、帝国盲教育会と日本盲教育会が合併し、帝国盲教育会となる
 1928年、岩橋武夫・鳥居篤治郎・熊谷鉄太郎らにより、日本盲人エスペラント協会発足(1966年に再建)
 1928年11月、大日本箏曲家連盟発足
 1928年、アメリカ、ジョン・ミルトン教会(John Milton Society for the Blind)発足 (アメリカとカナダの盲人のための超教派キリスト教伝道機関。初代会長はフランク・バトルス。1933年、ヘレン・ケラーが第2代会長となり、ストーファー(Milton T. Stauffer))が総主事になる)
 1928年、イタリア、盲・聾児の教育の義務化
 1928年、ソ連の眼科医フィラトフ(Vladimir Petrovich Filatov: 1875〜1956)が、屍体眼から採取した角膜を使い、全層角膜移植に成功
 1929年1月、全国盲学校長協会結成 (1946年、全国盲学校長会と改称)
 1929年、救護法が公布される(財政難のため、施行は1932年から)。極貧で扶養者のない生業不能の身体障害者が、満65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦とともに、救護の対象とされた。
 1929年、岩橋武夫らの呼びかけで、フレンド点字写本奉仕会(FBS)結成、点字図書製作活動を始める
 1929年、東京盲学校に盲教育研究会設立、月刊誌「盲教育の友」発刊
 1929年10月、中央盲人福祉協会結成(会長は渋沢栄一、副会長は大久保利武と新渡戸稲造)。盲人福祉・保護、失明防止運動を行う
 1929年、京都府立盲及聾唖学校同窓会が、「日本盲唖教育史」刊行
 1929年、山形県酒田町(現酒田市)の光丘文庫に、橘周存を顧問として、点字読書会が創設される (酒田点字読書会は現在も活動している。1978年には「酒田点字読書会五十年の歩み」が出版されている)
  [光丘文庫:酒田の名家・大地主の本間家の八代目当主本間光弥(1876〜1929年)が、1925年、先祖伝来の蔵書二万数千冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈して財団法人「光丘文庫」を設立。(文庫の名称の光丘は三代目当主の名)28年には博物館の役割を持つ郷土参考室を付設。29年点字読書会創設。戦後は市立図書館としての役割を果たす。]
  [橘周存: 1864〜1931年。4歳で失明。医師・時岡淳徳に医術と鍼・按摩術を学び、1886年に鍼灸按摩業を始める。本業のかたわら、私財を投じて盲人のために家塾を開く。1912年の第一回鍼術灸術按摩試験で山形県より試験委員に任命され、1923年まで委員を務める。25年には、光丘文庫に「最新薬物学」などの点字本を寄贈、27年には橘門下同窓会の名で「点字読本」などを寄贈。29年には「盲人学徳の向上を図り、併せて点字を普及する」ことを目的として創設した点字読書会の顧問となる。更に没後の31年には、長男の孝三より周存遺品である点字本116冊が光丘文庫に寄贈されている。]
 1929年、ドロシー・ユースティス(Dorothy Harrison Eustis: 1886〜1946年)が、ニュージャージー州モーリスタウンに、「The Seeing Eye」(盲導犬訓練学校)を設立
 1929年、カントリー・ブルースの草分けともいえるシンガー・ギタリストのじぇふぁそん(Blind Lemon Jefferson: 1893〜1929年)没 (生来の盲人だったらしい。1912年ころ、テキサス州ウォーサム付近のピクニックやパーティー、路上で演奏して小銭を得る。17年ごろにはダラスに住み、歓楽街ディープ・エラム地区で活動する。スズ製の集金用カップを身につけて人の集まるところならどこでも演奏するという生活スタイルで、徐々に活動範囲をテキサス州から南部一帯へと拡げる。26年に、最初スピリチュアルを録音、ついで自らのギター1本で自作のブルースをパラマウント・レーベルにレコーディング。売り上げは好調で、初めて持続的に売れるカントリー・ブルース歌手として認知される。29年に亡くなるまでの短期間に、「ロング・ロンサム・ブルース」「マッチボックス・ブルース」「シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケプト・クリーン」等の傑作100曲近くをレコーディング。29年12月、雪の降り積もるシカゴで凍死しているのが発見された。1920年代にライトニン・ホプキンズ(1912〜1982)、T-ボーン・ウォーカー(1910〜1975)等が彼のリード・ボーイ(道案内)をしていたが、彼らは後に有名なブルース・アーティストとなった。)
 1930年7月、越岡ふみ(1899〜1968年。生来の弱視で、1921年大阪府立盲学校中等部鍼按科に入学、卒業後開業)が、西宮市で、盲女性の自立更生を目的に、関西盲婦人ホームを開設(代表に中村京太郎を迎え、自らも32年4月に受洗、キリスト教主義で運営された)。1940年9月に越岡は喜久田倫章牧師とともに上海盲学校に赴任、戦況悪化もありホームは43年10月閉鎖。越岡は46年に帰国、47年にホームを再開、翌年にはホームを新築して社団法人となる(喜久田が理事長、越岡が施設長)。52年に社会福祉法人となり、54年に関西盲人ホームと改名。
 1931年、東京盲学校が、物理療法を鍼按科の教育に取り入れる
 1931年、発明家・宮崎林三郎(1859〜1931年)没。佐賀の農村に生まれ育ち、30歳ころ失明するが、「縄ない機こそが農家に幸福と利益を与える」と縄綯い機の発明に没頭し、1905年精巧な人力式製縄機を作り、特許をえた。その後莚織機、畳織機を発明、帝国発明協会より表彰をうけた。
 1931年7月、中央盲人福祉協会の主催で、第1回全国盲人保護ならびに失明防止事業会議が東京で開催される
 1931年8月、徳島市で、盲人の交通事故防止にと白杖を市内の盲人300人に寄贈。同年10月には鹿児島と岡山の盲人大会で白杖携帯を決議
 1931年9月、横浜訓盲院の猿田惠子(中等部4年、18歳)と武井稲子(中等部1年、16歳)が、アメリカ・ボストンのパーキンス盲学校に留学のため渡米 (留学中、米国各地の盲唖教育・社会施設を見学したりセントルイスで開催された全米盲教育者会議にも参加。2人は同校を卒業して1934年7月帰国。)
 1931年4月、ニューヨークで「世界盲人会議」が開催され、日本からは秋葉馬治、中村京太郎、熊谷鉄太郎等8名参加(36カ国、300人参加)
 1931年3月、アメリカ、プラット−スムート法(Pratt-Smoot Act: 国会図書館を中心に、合衆国全土の視覚障害者に各地の図書館を通じて点字・録音図書を提供するサービス(National Library Service: NLS)の基本を定めた法)施行 (プラット:Ruth Sears Baker Pratt, 1877-1965. 1929年と31年、ニューヨーク州17選挙区で共和党から連邦上院議員に立候補し当選、ニューヨーク州初の女性議員)
 1932年3月、内務省衛生局が、1931年12月1日現在で全国盲人調査を行った結果を発表 (1メートル指数以下を「盲」とみなす)。盲人数 76,260人(当時の日本(国内)の人口は65,366,500人で、盲人の割合は人口10万人当たり116.6人)
 1932年7月、英語点字統一についての英米の協議が最終合意に達する(英国の点字に若干の修正と追加をしたもの)
 1932年、ゼンデン(M. von Senden)が、先天盲開眼者66人を比較研究した本(”Raum- und Gestaltauffassung bei operierten Blindgeborenen vor und nach der Operation”)を著す
 1933年11月、東京・麻布の南山小学校に弱視児童保護学級(視力保存学級)が開設され、尾上円太郎訓導により授業が始められる
 1933年、第27回全国図書館大会で、「点字図書及び盲人閲覧者の取り扱い」という議題で討議、各地の状況報告とともに、点字図書の収集・閲覧に取り組むことが決意される
 1933年9月、大月美枝子(全盲)が、自由学園塑像科の正規の学生(前年より聴講生)となり、第10回工芸美術展に頭像を出品
 1933年11月、横浜で、東京盲学校と横浜訓盲院の児童により盲人野球対抗試合が行なわれた (盲人野球は、現在は「グランドソフトボール」と呼ばれている)
 1933年、足利盲学校長の沢田正好(1894〜1965年。弱視。1916年自宅で足利鍼灸按講習所を開く)が、盲人用ピンポンを考案
 1933年、山田流箏曲家・上原真佐喜(初代)(1869〜1933年)没 (本名幸太郎。3歳で失明。9歳のころ山田流の千代田検校の女弟子浅井千束に入門。21歳で奥村真佐古(1841〜1891)に師事、その後継者となる。1917年に真磨琴(ままごと)会を組織。歌物を得意とし、作品に「春の朝」「里の四季」「落花の誉」など。)
 1933年、アメリカ、ニュージャージー州に盲幼児の家庭訪問教師制度設けられる
 1933年、フランス、モンテーニュ研究者のピエール・ヴィレ(Pierre Louis Joseph Villey-Desmeserets: 1880〜1933年)没 (4歳で失明、パリ盲学校などを経て高等師範学校へ進み、文学研究の道に入る。1908年、モンテーニュの読書歴と各エセーの執筆年代を調べ上げ、その思想の3段階進化説をとなえた博士論文『モンテーニュのエセーの典拠と進化』発刊。さらに、『エセー』の「ヴィレー版」(のち「ヴィレー=ソーニエ版」)を編集。文献は朗読してもらって読み、点字のカードで整理し、タイプライターで執筆。なお『盲人の世界』(Le Monde des Aveugles)という著書もある。)
 1934年、民俗学者の中山太郎が、『日本盲人史』(昭和書房)を出版(1936年に『続 日本盲人史』)
 1934年、函館毎日新聞社主催の江差追分、津軽民謡競演大会で、函館盲唖院生の山本麗子(当時13歳)が、一等になり、翌年9月ビクター専属歌手となる。
 1934年、アメリカ、AFBのアーウィンが中心となり、レコード盤による「トーキングブック」の製作を開始。1946年以降は、国会図書館(Library of Congress)と協力し、各地域図書館に配給し、無料で貸出している。
  [アーウィン(Robert B. Irwin, 1883〜1951): 5歳で失明。ワシントン州立盲学校を卒業後、ワシントン州立大学、ハーバード大学大学院に学び、1907年文学修士号を取得。1910年オハイオ州クリーブランドの公立学校での盲児教育の監督官となる。1923年、設立間もないAFBの教育研究部長に就任、さらに1929〜49年AFBの常務理事として活躍。この間、インターポイント式の点字製版器の発明、33回転のレコード盤によるトーキングブックの提案、第2次大戦中は失明軍人の権利を守る法制定、戦後はAFOBの設立にも尽力。]
 1935年6月、名古屋で、仏教盲人協会発足
 1935年6月、神戸在住のポルトガル人ルイス・メンドンサー(当時32歳。29歳の時フットボールの球が目に当って失明)が、兵庫県の乙種按摩師試験に合格(外国人として初めての按摩師試験合格者)
 1935年、アメリカ、「社会保障法」が成立(視覚障害者の年金制度が含まれている)
 1935年、旧ソ連の数学者L.S.ポントリャーギンが、モスクワ大学教授に就任
  [ポントリャーギン(Lev Semenovich Pontryagin: 1908〜1988): 14歳のとき爆発事故で失明。以後母が彼の教育の責任を引き受け、数学の知識をもたない母は様々な数学記号を2人にだけ分かる独特の読み方をするなどして、彼のために本を読む。1925年にモスクワ大学入学。29年、卒業と同時に同大学の機械・数学科に奉職。35年、ステクロフ数学研究所のトポロジー・関数解析学部長。位相幾何学や最適制御について大きな業績を残す。著書『連続群論』(1938)『位相幾何学の基礎』(1947)『最適過程の数学的方法』(1961)は各国語に翻訳されている。で]
 1935年10月、岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。点字出版、点字書の貸し出し、盲人家庭への訪問指導などを行う。翌年4月、ライトハウス運動の創始者マザー夫人を迎えて開館式を行う。 (マザー夫人は1929年10月中央盲人福祉協会の招きで来日、その時岩橋武夫が通訳を勤める)
 1936年山田流箏曲家・初代萩岡松韻(1864〜1936年)没 (本名は萩原伊之助、のちに源意。父は紀州藩士。4歳で失明。8歳で伊勢松坂で大松検校に師事し地歌筝曲を習い、1871年萩岡勾当を名乗る。74年から山田流筝曲を初代山勢松韻(山勢家3代)に師事、85年より松柯を号とする。87年東京盲唖学校助手。師の没後1910年より4代目松韻を名乗り、2代山勢松韻が成人するまで山勢派をあずかる。1911年東京盲学校教諭。17年高橋栄清と「筝曲楽成会」を組織。29年「徳華会」をつくり『山田流筝模範楽譜』など楽譜を出版。)
  1936年、旧ソ連の作家N.A.オストロフスキー(1904〜1936年)没。1919年赤軍に入隊し、前線で重傷を負って除隊、失明とほとんど半身不随の肉体的試練と闘いながら自伝的長編小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を執筆(35年レーニン賞受賞)。
 1937年1月、海軍技術研究所が、軍艦や潜航艇の所在を知る聴音音機操作をする担当者の聴覚能力研究で盲人についても試験。東京盲学校の全盲生5人が参加。
 1937年4〜8月、ヘレン・ケラーが初来日。全国各地(朝鮮や満州もふくむ)で100回近い講演を行なう。
 1937年12月、文部省が、1935年調査の学齢児童数を発表。盲児 2372人(男1303人、女1070人。その内盲学校に就学している者約 1千人)、盲聾唖児 60人(男27人、女33人。盲学校への就学者は0)。
 1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889〜1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告、彼の名にちなんでベーチェット病と呼ばれるようになる。とくに第二次大戦後日本で多発、失明率が高く難病に指定された。
 1937年、スウェーデンの技術者・発明家N.G.ダレーン(Nils Gustav Dalen: 1869〜1937年)没 (チューリヒ工科大学で学び、帰国後、ガスアキュミュレーター社に入社し、後に総支配人となる。爆発の危険なしに必要な時にだけ燃料のガスを供給する自動装置を発明、1912年にこの業績でノーベル物理学賞受賞。翌年ガス爆発のため失明するが、その後も実験を続け実験的技術的研究を指導、1924年には固形燃料用の台所調理器も発明。)
 1937年、「アメリカ盲人ゴルフ協会」発足
 1938年1月、内務省の社会局と衛生局の業務を分離・独立させて、厚生省が設置される(初代厚生大臣は木戸幸一)
 1938年3月、アメリカの盲青年ゴルドン(Forbus Gordon)が盲導犬オルティを伴って来日し、盲導犬が紹介される。翌年5月、ドイツからポツダム盲導犬学校で訓練した盲導犬4頭(ボド、リタ、アスタ、ルティ)を輸入、臨時東京第一陸軍病院で日中戦争で負傷し失明した人と共同訓練。
 1938年4月、社会事業法公布 (救貧事業、養老院、育児院など施設社会事業を助成)
 1938年4月、厚生省の外局として、傷痍軍人のための「傷兵保護院」が設置される。翌年「軍事保護院」と改称され、同年9月失明軍人寮と失明軍人教育所が開設される。
 1938年8月、ライトハウスが、点字月刊誌『黎明』を創刊(2000年6月号・通刊737号で廃刊)
 1938年、アメリカ、「ランドルフ・シェパード法」(連邦建物内での売店経営を視覚障害者に優先的に認める。現在、やく3500人の視障者が売店経営を行っている)、「ワーグナー・オーディ法」(官公庁が視障者の授産所製品を買い上げることを定める。現在、全米に104の授産所があり、やく5千人の視障者が働いている)が成立
 1938年、スペイン全国盲人協会(La Organizacion Nacional de Ciegos de Espana: ONCE)が設立される。現在会員数は64000人余。とくに宝くじの発行を認可され、その販売員として23000人以上の視覚障害者が就労し、またそこから得た収益を様々な投資で運用し、障害者の雇用促進や社会インフラの整備などに当てている。
 1938年、ドイツ、8年制の盲人義務教育制度実施
 1939年1月、アメリカの盲婦人コールフィールドがバンコク盲学校設立
 1939年2月、明石海人が、改造者より歌集『白描』を出版、ベストセラーとなる。
  [明石海人: 1901〜1939年。本名 野田勝太郎。沼津商業学校卒業後、静岡師範学校に進み、19歳で小学校の教員となる。1926年(25歳)、ハンセン病の兆候があらわれ、東大医学部附属病院でハンセン病と診断され、小学校を退職。翌年から明石楽生病院に入院。1931年、病状が悪化し精神錯乱状態になる。同年11月明石楽生病院が閉鎖され、長島愛生園に移動。33年精神錯乱状態がおさまり、作歌・俳句を始める。同年末受洗。以後、『日本歌人』などで注目・評価される。36年秋、失明。38年『文芸』に「天刑」17種、『短歌研究』に「癩」50種、『短歌研究』に「杖」6種発表、同年11月呼吸困難のため気管切開。翌年6月、腸結核のため死亡。]
 1939年8月、カナモジカイとシロガネシャ主催で、第1回全日本カナモジタイプライター競技会が開かれる(失明軍人寮の失明軍人3人が参加)
 1939年、木下和三郎(1892〜1947年。20歳過ぎに結核がもとで失明、福岡盲学校を経て、東京盲学校師範部鍼按科を卒業し、1919年私立神戸訓盲院の教員になる。1926年に神戸鍼按講習所を設置、32年に神戸鍼按学校、39年に神戸市立盲学校となる)が、『盲人歩行論』を刊行 (彼はまた、京都大学をはじめとする医学界とも多くの共同研究を行い、1935年『灸法の学理』、1937年『植物神経系と鍼灸マッサージ論』など理療の実験研究の成果を著している)
 1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
 1940年、1月から東京市で、10月から大阪市で、盲人の付添者の電車賃が無料になる
 1940年8月31日、橿原市で、紀元2600年奉祝全日本盲人大会が開催される
 1940年11月、本間一夫(1915〜2003年。5歳で失明、13歳で函館盲唖院入学。1936年関西学院専門部英文科入学、39年卒業)が東京の雑司ヶ谷に日本盲人図書館(現・日本点字図書館)を設立 (1953年朝日社会奉仕賞、1967年第4回点字毎日文化賞、1971年藍綬褒章、1977年第11回吉川英治文化賞、1985年勲四等旭日小綬章受賞)
 1940年、茨城県の浜地方で歌われていた磯節を全国に広めた関根安中(1877〜1940年。本名は丑太郎)没 (十代後半で失明したと思われ、鍼・按摩を業とする。求めに応じて治療しながら独特の節回しで聞かせたといい、また1902年に横綱常陸山に出会ってひいきにされて、全国各地の巡業先に同行して磯節をうたい、評判となる)
 1940年11月、ペンシルベニア州ウイクスベリーで全米盲人連合(National Federation of the Blind: NFB)創立総会が開かれ、会長にテンブロックが就任。現在、NFBは全米50州にわたって5万人以上の会員をもつアメリカ最大の盲人組織となっている。
  [テンブロック(Jacobus tenBroek, 1911〜1968): カナダ生まれ。7歳のとき弓矢の事故で片眼を失明、14歳ころまでに他眼も失明。そのころ一家はカリフォルニア州に転居、カリフォルニア盲学校で3年学び、カリフォルニア大学バークレー校に進学、法律を学ぶ。40年博士号を取り、42年バークレー校の非常勤講師、53年には教授になる。55年にアメリカ政治学協会からウッドロー・ウィルソン賞を贈られた『偏見、戦争、そして憲法』は有名]
 1940年、スペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo: 1901〜1999年)の、ギターと管弦楽のための『アランフエス協奏曲』初演 (3歳でジフテリアのため失明。 8歳からバレンシア音楽院で点字で音楽を学ぶ。1927年パリに留学、ポール・デュカスに師事。33年、トルコ出身のピアニスト・ビクトリア・カムヒと結婚。39年、スペイン内戦終結とともに帰国、以後フランコ独裁下のスペインで活動。47年よりマドリード・コンプルテンセ大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当。作曲は、管弦楽曲、ピアノ曲、声楽曲、バレー音楽など多方面にわたる。)
 1941年、義太夫の7代目豊竹駒太夫没 (1882〜1941年。本名 辻田万蔵。大阪生まれ。幼少時に失明。1887年、3代目豊竹富太夫に入門し豊竹小富太夫を名乗る。上京後、1889年に竹本津太夫の預かり弟子で文楽座で初舞台。1902年に4代目豊竹富太夫、1914年に7代目駒太夫を襲名。1937年4月20日、新大阪ホテルで発来日のヘレン・ケラーの前で「酒屋の段」を語る。とくに世話物を得意とした)
 1941年10月、大村善永が、満州・奉天に、男盲児教育施設・啓明学園を開設
  [大村善永:1904〜1989年。3歳の時に満州に渡り小・中学校は満州、1921年岡山の第6高等学校入学。翌年網膜硝子体出血のため左目の視力を失い退学。一時郷里の山梨や朝鮮で農業に従事するが、1928年完全失明、29年関西学院大学入学、33年文学部英文学科を卒業、横浜訓盲院の教諭になる。39年に横浜訓盲院を退職、翌年満州で盲人の福祉・教育を行うべく奉天に渡り、40年盲人福祉協会を設立し啓明学園を開設。45年8月啓明学園を中国の職員に任せて奉天を逃れ、翌年日本に引き上げる(啓明学園は奉天市に移管され、重明女盲院と合併して瀋陽市盲校となる)。神学専門学校(現・東京神学大学)で学び、1948年シロアム伝道所を開設、牧師になる。]
 1941年10月、視覚障害者3人が、聴力で爆撃機の襲来を探知する「防空監視哨員」として、全国で初めて石川県七尾市で試験的に任務に就く。1942年2月には、石川県で視覚障害者30人が監視哨員として採用される
 1942年、経済学者・坂西由蔵(1877〜1942年)没。神戸高等商業学校(現・神戸大学)の教授であった1921年に右目、24年には左目も失明、翌年教授職を退くが、その後も講師として1937年ころまで教壇に立ちゼミ生を指導、また多くの著書も著す。
 1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
 1942年12月、イギリス、ベヴァリッジ報告 (包括的な均一制社会保険の網による全国民への最低生活水準保障を提案。この提案の大部分は、第2次大戦後の労働党政権によって実現された。)
 1943年4月、粟津キヨ(旧姓金井キヨ。1919〜1988年。4歳で失明。9歳で私立高田盲学校入学。1937年上京、斎藤百合の主宰する陽光会ホームの生徒となる。YWCAの夜学に通うなどして受験勉強する)が、東京女子大学に特別生として入学 (1949年東京女子大の研究科を卒業。51年母校の県立高田盲学校の教師、盲と知的障害の重複障害児の教育に尽力。53年傷痍軍人(中国戦線で負傷し両眼失明、片腕を失う)だった粟津清之と結婚。血清肝炎、さらには狭心症と戦いながら、盲女子の自立のための活動を続ける)
 1943年、大阪の「失明軍人会館(現・日本ライトハウス)」で、山本卯吉(1915〜2005年。1941年、中国戦線で負傷し失明。1939年にドイツから輸入されたジャーマンシェパードの盲導犬ボドを使用。1980年第17回点字毎日文化賞受賞)ら戦傷失明者十数人がプレス作業の訓練を始める。12月、早川電機工業が山本卯吉ら6人を工員として採用、失明軍人会館内に分工場を設けて航空無電機の部品製作などを始める (1945年8月の終戦で、工場は閉鎖される。46年、7人の戦傷失明者が、早川電機工業社長早川徳次の理解により、改めて田辺工場にプレス工として復職する)
 1943年10月、延岡市で、宮崎県北部在住の盲僧50余人が敵撃滅祈願祭を行う
 1943年12月、前年夏から東京都鍼按師会が行っていた海軍技療手養成が海軍省直轄となり、「海軍技療手訓練所」が設けられる (第一戦の技療生にも 5人の戦死者が出たため、翌年8月訓練所内に技療神社が設けられる。1943年から終戦までに、7期計441人が、海軍技療手として訓練を受けたという記録がある)
 1943年、原田末一(1896〜1999年。今治市青年学校の教練科を担任中1937年8月応召、11月中支戦線で負傷両眼失明、東京第一陸軍病院で療養、39年少尉任官ののち召集解除、再び今治青年学校の教壇に立ち青年指導に当る)の『戦盲記』(水産社)が、軍事保護院の推薦図書となり、さらに保護院はその点字版の製作を点字毎日に依頼、12月一千部が完成して失明軍人に送られる (原田には『道一筋』(1961年、鉄道弘済会広報部)もある)
 1943年、アメリカ、ペンシルベニア州のヴァレー・フォージ陸軍病院(Valley Forge Army Hospital)で、リチャード・フーバー(Richard Edwin Hoover: 1915-1986. 1936年ペンシルベニア州立大学卒業後メリーランド盲学校の教師になり、数学と体育を担当。体育ではレスリングを指導し、盲学校対抗レスリング大会を開催、この大会は以後40年ほど続き、盲人のスポーツ活動にも貢献)とワレン・ブレッドソー(Warren Bledsoe)が、戦傷失明者のリハビリテーションのために、長い杖を使った歩行技術を開発 (改良が重ねられて後にフーバー・ケーン・テクニックと呼ばれるようになり、日本でも1966年日本ライトハウスが導入)
 1943年、ソ連、「欠陥学研究所」設立(視覚障害関係部門としては、盲および弱視児の教授と教育の研究室、盲ろう児の研究と教育の実験室、盲心理学実験室、盲工学実験室がある) (1993年「治療教育学研究所」と改称)
 1944年、地歌箏曲家菊原琴治没
  [菊原琴治(1878〜1944年): 大阪出身。本名布原徳太郎。 4歳で失明。 6歳で2世菊原吉寿一(後名菊植明琴、1835〜1913)の芸養子となり、18歳で独立。その後、菊仲繁寿一に師事して、野川流三絃本手組歌全曲32曲を伝授される。大阪市立盲唖学校教員、当道音楽会本部長などを歴任。文部省に女学校箏曲科設置の陳情運動も行い、その教員養成を目的とした箏曲音楽学校の初代校長を務めた。作品に「菊原の四つ物」といわれる『摘草』『雲の峰』『最中の月』『銀世界』のほか、『春琴抄』『秋風の辞』などがあり、三弦曲への箏の手付も多数ある。一時期谷崎潤一郎に稽古をしたことから、谷崎作品(『春琴抄』『盲目物語』)に多くの影響を与えている。]
 1944年、色覚検査が戦時中の特例として検査項目から外される (1949年に再開される)
 1944〜1950年代、ダレンバッハ(K. M. Dallenbach)とその共同研究者たちによるコーネル大学心理学研究室の一連の実験で、盲人の障害物知覚が、反射音を利用した聴覚を基盤とするものであることが判明
 1945年1月、愛媛県立盲学校の中等部生60名が軍需工場に学徒動員(工場労働者=産業戦士の疲労回復に当たる)
 1945年7月、フランス、「盲人身体障害者手帳と白杖携帯規程」制定
 1946年2月、全国聾唖学校職員連盟、全国盲学校職員連盟結成(盲聾教育義務制即時実施要求)
 1946年2月、アメリカ海外盲人援護協会(American Foundation for Overseas Blind: AFOB)発足
 1946年、復員傷病兵ら、旧陸海軍病院・国立療養所で患者自治会結成
 1946年9月、貴族院・衆議院で、盲人付添い人の汽車・汽船乗車賃の免除に関する請願が採択される
 1946年10月、片岡好亀と近藤正秋が中心となり、盲人の自立更生と福祉増進をめざして、愛知県盲人福祉協会を設立 (1947年、鍼灸共同治療所および愛盲ホーム光和寮を開設。48年、金属作業部(製缶)を設立、点字出版事業を開始。57年、名古屋ライトハウスと改称。63年末、あけの星声の図書館事業を開始しまた点字出版所を新設。79年、重度身体障害者授産施設「明和寮」開設。89年、特別養護老人ホーム「瀬古第一マザー園」、養護盲老人ホーム「瀬古第二マザー園」開設。91年、図書館を移転「名古屋盲人情報文化センター」と改称。2006年、名古屋ライトハウスの創立60周年を機に、近藤正秋賞・片岡好亀賞が設けられる。))
  [片岡好亀:1903〜96年。1919年、函館師範学校に入学、21年緑内障のため失明し同校を退学。23年、東京盲学校中等部鍼按科に入学。1930年、同校師範部を卒業し、同校師範科の嘱託講師になる。36年、名古屋盲学校鍼按科の主任教諭。英語など語学にも堪能(エスペランティストでもあった)で、1957年、オスロで開催された世界盲青年教育者会議に日本代表として出席、ヨーロッパ各国の盲教育・福祉施設も視察。1964年、名古屋盲学校を退職、名古屋ライトハウスの理事長に就任(77年より会長)。
   近藤正秋:1913〜97年。1935年5月、満州での戦闘で失明、同年11月名古屋盲学校に入学。39年、官立東京盲学校に新設された失明軍人教育所師範部に入学、翌年卒業し、名古屋盲学校の教師となる。終戦後、治療印を開く。1957年、名古屋ライトハウス理事長。1973年、藍綬褒章受章、また同年、自著『試練を越えて』の売上金や褒章の祝い金などを基金として「愛盲報恩会」を創設し、地域の盲人団体や事業に助成。]
 1946年、地歌箏曲家の米川暉寿(1871〜1946年。本名米川貞)没 (先天盲。幼少の頃から継母に付き添われて、葛原勾当門下の福田絹寿に師事、箏曲を習得。岡山県高橋の自宅で開業、長姉として家計を助けるとともに、殆どの弟妹に箏曲や三弦を教える(弟親敏と末妹の文子は有名な生田流箏曲家となる)。1927年弟(親敏・正夫)に呼ばれて上京し開軒、門人を育成、各地への出張教授もおこなう。)
 1947年3月、教育基本法、学校教育法が公布・施行(盲・聾・養護学校・特殊学級を規定)
 1947年、山田流箏曲家・今井慶松(1871〜1947年。本名新太郎)没。 4歳で失明、14歳で上京し初世山勢松韻(山勢派3代目)に師事。1898年東京音楽学校助教授になり、1902年同校教授。1923年山田流箏曲協会を創立し会長になる。1940年日本三曲協会初代会長。1942年帝国芸術院会員。作品に『四季の調』『御代万歳』『鶴寿千歳』など50曲余。
 1947年6月、日本鍼灸按マッサージ師会連盟発足 (第1代会長 小守良勝。49年、全日本鍼灸按マッサージ師会連盟と改称)
 1947年7月、日本教職員組合(同年6月結成)が、盲・聾学校の義務制即時実施を決議
 1947年8月、政府が傷痍者保護対策要綱案をまとめ、GHQに提出
 1947年9月、GHQの勧告により、「按摩鍼灸等は、医療の補助手段としても、盲人が行うのは不適当」という内容を含む厚生省医療制度審議会答申が出される。これにたいして、盲人関係者が「鍼灸按存続期成同盟委員会」を結成し激しい存続運動を展開する。
 1947年12月、「あんま・はり・きゅう・柔道整復等営業法」(法律第217号)公布 (翌年1月1日施行)
 1947年、オランダ、「障害者雇用法」制定(雇用率2%)
 1948年1月、京都・大阪の鍼灸師や研究者を中心に、日本鍼灸学会設立(会長は京都大学医学部教授笹川久吾)
 1948年3月、厚生省が、傷痍者保護対策委員会を発足
 1948年4月、「中学校の就学義務並びに盲学校及び聾学校の就学義務及び設置義務に関する政令」公布(盲学校・聾学校小学部への義務制が学年進行により施行)
 1948年4月、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」(法律第217号)による学校、養成施設認定規則により、全国の盲学校で、中等部鍼按科4年制に代えて、高等部5年制理療科が設置される (盲学校は、小学部6年、中学部3年、高等部本科3年、高等部専攻科2年、高等部別科2年となる)
 1948年7月、「国立光明寮設置法」公布。国立東京光明寮、国立塩原光明寮設置(1964年6月、国立東京視力障害センター、国立塩原視力障害センターに改称。国立塩原視力障害センターは2013年3月閉所)
 1948年8月、日本盲人会連合結成
 1948年8月末〜10月末、ヘレン・ケラーが2度目の来日。全国各地(広島や長崎をふくめ15都市)を訪問し25回講演会を行う。帰国に際し、「日本全国の民間の盲人団体が結束し、政府の施策を後援する事」および「厚生省と文部省は障害者の支援に積極的に協力すべき事」を声明。
 1948年9月、名古屋鉄道管理局が、特例として「制限外手回り品車内持込黙認証」を発行、盲導犬の同伴乗車を許可(これにより、名古屋の盲青年が盲導犬を伴って上京、東京で開催されたヘレン・ケラーの歓迎会に参加)
 1948年、イギリスのL.グットマンにより、パラリンピックが始められる(1960年のオリンピックローマ大会からは、オリンピック大会に引続き同じ都市で開催されるようになる。1976年のカナダ・トロント大会から、視覚障害者部門が加わる)
 1949年4月、「東京盲学校」及び「東京聾唖学校」は、「国立盲教育学校、同附属盲学校」及び「国立聾教育学校、同附属聾学校」と改組
 1949年6月、特殊教育連盟発足(53年2月、全日本特殊教育連盟と改称)
 1949年11月、岩手医科大学の今泉亀撤が、日本初の角膜移植を実施(「開眼手術」と呼ばれた)
 1949年12月26日、身体障害者福祉法公布(保護法ではなく更正法。身体障害の種類を視・聴・言語・肢体・中枢神経障害に限定。手帳交付、補装具給付。翌年4月1日施行)
 1949年12月、日本ヘレン・ケラー協会などの主催で「全国盲学生音楽コンクール」開催 (1954年から東京ヘレン・ケラー協会の主催となり「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、2001年から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大して「ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」と改称)
 1949年、山梨県立盲学校が盲聾児への教育を開始 (1971年3月まで続く。1954年から、志村太喜彌(1927〜)が専任教諭となり、71年まで5人の盲聾児に生活行動、点字、指文字、発声などを指導。同氏は、1965年第2回点字毎日文化賞受賞。2008年からは、同盲学校で毎年夏に、実践した盲聾児教育についての資料展が行われている。)
 1949年、京都市が、身体障害者に市電半額割引を実施
 1949年、フランシスコ・ザビエルの日本渡来400年を記念して、兵庫県宝塚市の聖心女子学院の修道女を中心に卒業生数人が集まり、「みこころ会点字部」発足。1953年、「みこころの点字会」と改称し、同窓生以外の会員を多く迎え、56年会員の手になる点訳書を集めて「みこころの点字会文庫」を創設
 1949年、アメリカのハロルド・リドリー(Harold Ridley: 1906〜2001年)が、眼内レンズの移植を行う

◆1950年代
 1950年2月、国鉄が「身障者に対する旅客運賃の割引方」告示 (付添同伴の身障者は2人共 5割引)
 1950年3月、パリで国際点字統一会議が開かれ、日本代表として中村京太郎が出席 (日本の点字をローマ字システムにすべきではとの意見もあったが、日本語の特殊性と実用性を考慮して仮名点字がそのまま認められる)
 1950年4月、東日本ヘレン・ケラー財団発足 (1952年5月社会福祉法人となり、東京ヘレン・ケラー協会と改称)
 1950年8月、合資会社特選金属工場設立 (代表社員 山本卯吉。戦盲者8人と晴眼の技術指導者1人、資本金15万円。ラジオ・テレビの部品製作を行う。1955年から工場の事業目的を拡大し、聾唖者、肢体不自由者をも含む全身体障害者の職業更生のモデル工場にする。1963年10月、社名を合資会社早川特選金属工場と改称)
 1950年9月、厚生省が厚生課長名で、バスも汽車同様付き添いを連れた身障者には割引扱いをするように、各都道府県民生部長宛に通知
 1950年11月、文部省が大学学術局長名で、各都道府県進学適性検査管理審査会宛に、盲学生も一般学生と同様に進学適性検査を受けられるよう取り計らうよう通知
 1950年、生活保護法が施行される
 1950年、福来四郎(1920〜)が、神戸市立盲学校で視覚障害児に彫塑の指導を開始。1956年以降生徒の作品を美術展に出品、高い評価を得る。1969年『見たことないものつくられへん』(講談社)。1970年、第4回吉川英治文化賞受賞。2003年、写真記録集『盲人に造形はできる―盲人造形教育30年の記録―』(英文併記)を自費出版、国内ばかりでなく世界192カ国の盲学校などに送る。1950〜80年にかけて造られた児童生徒の粘土作品約二千点は、現在神戸親和女子大学附属図書館で保管され、各地で作品展が行われている。
 1950年、中国の著名な民間音楽家阿炳(アーピン。本名華彦鈞)没
  [阿炳(1893〜1950年): 江蘇省無錫市に生まれ、幼少の頃から道士の父について音楽を学んだ。20歳の頃に眼病を患い、35歳の頃には両目とも完全に失明。30歳頃から街頭で歌を唄い、楽器を奏でて生計を立てた。二胡(擦弦楽器の1)と琵琶の演奏者であり同時に作曲家でもある阿炳は、生涯で二胡と琵琶の作品を200曲あまり作曲したとされる。二胡の曲「二泉映月」がもっとも有名]
 1950年、盲聾のロバートJ.スミスダス、セント・ジョーンズ大学卒業
  [Robert J. Smithdas: 1925〜。脳脊髄膜炎のため5歳で視覚を失い聴覚も大部分失う。地元のピッツバーグの盲学校で学ぶが、10代中半に完全失聴し、盲聾のための教育を受けるために1942年パーキンス盲学校に転校、45年同校を卒業。その後ニューヨークの盲人授産ホームに入所、その施設の指導者の勧めでセント・ジョーンズ大学に入学し、1950年卒業。さらに、ニューヨーク大学大学院で身体障害者の職業指導を研究して1953年修士号を取得。1960年代以降、ニューヨーク盲聾成人のためのヘレン・ケラー・ナショナル・センターの副所長として長く活躍。1967年10月に来日している]
 1950年、国連経済社会理事会が、身体障害者の社会リハビリテーション決議
 1950年代、アメリカで、保育器の普及とともに未熟児網膜症が激増(アメリカにおける統合教育の普及には、未熟児網膜症による失明児の増加にたいする対策という面もある)。日本では、1960年代中半以降増加。
 1951年1月、暁烏敏(1877〜1954年。60歳ころより生来の近視が悪化し、70歳ころ完全失明)が、真宗大谷派宗務総長に就任
 1951年2月、全国盲学校長会などの主催で、第1回全国盲学校珠算競技大会開催 (以後、全国盲学生点字競技大会とほぼ隔年で開催)
 1951年3月、雨池信義(1898〜1982年。4歳ころ失明)が、上田市立盲学校の廃校を機に点字図書館設立運動を行い、上田市立図書館の中に点字図書部を開設、その責任者となる(55年、長野県上田点字図書館となり、館長に就任。初の公立の点字図書館)
 1951年3月、社会福祉事業法公布(施行は同年6月1日)
 1951年4月、「東京教育大学国立聾盲育学校」及び「東京教育大学国立聾教育学校」は、東京教育大学教育学部特設教員養成部」となる。また、「東京教育大学国立盲教育学校附属盲学校」及び「東京教育大学国立聾教育学校附属聾学校」は、東京教育大学教育学部の附属学校となる(これらの学校は、1973年度から東京教育大学の、1978年度から筑波大学の附属学校になる)
 1951年4月、新設の東京教育大学教育学部特殊教育学科に、尾関育三と村中義夫が入学(国立大学への視覚障害者の発の入学)
  [尾関育三:1929〜。4歳のとき事故で右眼失明、さらに小学5年のとき左眼も失明、1941年長野県松本盲学校初等部5年に編入学。松本盲中等部鍼按科を経て東京盲学校師範部へ。1955年、同大の教育学研究科数学教育専攻に進学、58年「盲人に対する図形の指導」で修士号。東京教育大附属盲学校の数学の非常勤講師となり、61年に正教員。生徒たちの大学進学に貢献。1975年から京都大学数理解析研究所の短期研究員となり、90年京都大学より理学博士号。90年3月定年退職、入試点訳事業部を立ち上げ専務理事として活躍]
 1951年5月、国立神戸光明寮設置(1964年6月、国立神戸視力障害センターに改称)
 1951年5月、西日本ヘレン・ケラー財団(現・日本ヘレン・ケラー財団)が、大阪市に盲女性のためのいこいの家「平和寮」を落成 (1957年4月には盲児童施設「平和寮」も落成)
 1951年6月、補装具の交付制度創設
 1951年7月、日本盲人キリスト教伝道協議会発足(初代議長:好本督)
 1951年7月、大阪府立盲学校で、第1回全国盲学校野球大会が開催される
 1950年8月、早川徳次が、田辺工場にプレス工として採用していた戦傷失明者7名で、合資会社 特選金属工場を設立 (1955年から工場の事業目的を拡大し、聾唖者、肢体不自由者をも含む全身体障害者の職業更生のモデル工場とする。1963年10月、合資会社早川特選金属工場と改称、盲人による経営管理・業務担当を行う。1977年、シャープ株式会社 特例子会社となる(特例子会社認定 第一号)。82年、シャープ特選工業株式会社となる)
  [早川徳次:1893〜1980年。幼くして出野家の養子となる。継母との折り合いが悪く、8歳の時、近所の盲目の老女に手を引かれて、錺屋の丁稚奉公になり、金物職人としての修行を始めたという。1911年、ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明、これを機に独立。1916年早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)を発明。関東大震災後、1924年大阪に早川金属工業研究所設立、いち早くラジオを試作し成功。1944年、失明軍人会館(1943年ライトハウスが愛盲会館と改称され、さらに軍人援護会に移管されこの名に改称)内に早川電機分工場を設立、戦傷失明者が主にプレス作業を行う。戦後、1946年、7名を田辺工場にプレス工として採用。1962年、大阪市に7000万円を寄付、この寄付金をもとに、同年9月、早川福祉会館が開館。1960年藍綬褒章、65年勲三等瑞宝章受章。]
 1951年9月、「日本盲大学生協力会」発足(初代委員長:松井新二郎)。1953年「日本盲大学生会」と改称。その後、卒業後の就職難などで大学進学者が減り、1958年自然消滅。
 1951年10月、福祉事務所発足(民生安定所を改組)
 1951年12月、厚生省、第1回身体障害者実態調査実施 (以後ほぼ5年毎に実施。以下に、第1回〜第11回の視覚障害者数(推計値。括弧内は全身障者数に対する構成比)を示す。)
    回数   1回   2回   3回   4回   5回   6回   7回   8回   9回   10回   11回
    実施念  1951年  1955年  1960年  1965年  1970年  1980年  1987年  1991年  1996年  2001年  2006年
    視障者数 121,000  179,000  202,000  234,000  250,000  336,000  307,000  353,000  305,000  301,000  310,000
         (23.6)  (22.8)  (24.4)  (22.3)  (19.0)  (17.0)  (12.7)  (13.0)  (10.4)  (9.3)   (8.9)
     *2006年の視障者数310,000人の内、視覚障害と聴覚・言語障害の重複が22,000人(7.1%)、視覚障害と肢体不自由の重複が32,000人(10.3%)、視覚障害と内部障害の重複が15,000人(4.8%)
 1951年、RNIB(王立イギリス盲人援護協会)が、トーキングブックをカセットテープに切替える
 1951年、アメリカ、ニューヨークに“Recording for the Blind”(専門書の録音を主とする図書館)設立
 1951年、オーストラリア、盲導犬協会設立
 1951年、アメリカン・プリンティング・ハウスが、パーキンスブレーラーを発売
 1951年12月、パリで、世界点字協議会(World Braille Council: WBC)発足
 1952年4月、国鉄が、「身体障害者旅客運賃割引規程」を公示 (身体障害者単独でも、100km以上の場合は、5割引になる)
 1952年4月、京都府立盲学校が幼稚部開設(各地の盲学校に幼稚部が開設されるようになるのは、1960年代後半以降)
 1952年6月、ILOが「社会保障の最低基準に関する条約」(102号条約)採択
 1952年8月、文部省初等中等局に「特殊教育室」設置(1967年「特殊教育課」となる)
 1952年9月、戸井美智子(1929年〜)が、アメリカ・テキサス州のウエスタン・カレッジに入学 (1歳の時麻疹による高熱のため失明。横浜訓盲院高等部を卒業後、1947年9月パルモア学院に入学。1956年うえすたん・カレッジを卒業し、マスター取得、その後パーキンス盲学校の教員養成コースで学び、57年7月帰国。1958年からパルモア学院で英語を教える。62年からは日本ライトハウスで英語の点訳本の校正などの仕事もする。1964年、日本発の女性盲導犬ユーザーとなり、現在7代目のニルスと暮らす。)
 1952年、東京大学教授梅津八三らを中心に「盲聾教育研究会」発足
 1952年、市川四郎(1898〜1986年。4歳のとき角膜潰瘍のため失明。名古屋盲唖学校卒業後按摩で開業していたが、20歳過ぎて鍼に転進)が、日本鍼医会の会長に就任
 1952年、オランダのブッサムで、第1回国際盲青年教育者会議(International Conference of Educators of Blind Youth: ICEBY)開催 (日本からは、オックスフォード在住の好本督が出席し、報告)
 1953年9月、「日本盲人社会福祉施設協議会」発足(2003年現在 216施設加盟)
 1953年、藤井健児が、西南学院大学文学部神学科に入学 (1931〜。6歳で事故のため左目失明、福岡盲学校に入学。20歳で右目も失明、翌年受洗。1959年、西南学院大学を卒業、香住ヶ丘バプテスト教会牧師就任。1972年、九州初の盲導犬第1号を使用) 
 1953年、カトリック点字図書館(2001年よりロゴス点字図書館)発足
 1953年10月、日本盲大学生会が機関誌「新時代」を創刊。1958年、同会の自然消滅とともに休刊。
 1953年11月、横田全治(大阪府盲教諭)が『諸国盲人伝説集』を出版
 1953年、岩手・宮城県を中心に盲僧・盲巫女により組織された大和宗が、宗教法人として認可される
 1953年、国立ハンセン病療養所長島愛生園で、近藤宏一が中心になって視覚障害者らが「青い鳥楽団」を結成(1976年まで活動)
  [近藤宏一:1926〜2009年。小学4年生の時ハンセン病を発病、1938年長島愛生園に収容、近藤宏一と改名。その後失明、手足にも障害を負う。53年ハーモニカ奏者として「青い鳥楽団」団長。楽団解散後も各地で公演。80年日本ハーモニカ賞を受賞。2007年ハンセン病問題に貢献した人に贈られるウェルズリー・ベイリー賞を受賞(ウェルズリー・ベイリー賞:国際ハンセン病ミッション(The Leprosy Mission International:TLM)の創始者ウェルズリー・ベイリー氏(1846〜1937)を記念して1995年に創設)。著書「ハーモニカの歌」。]
 このころから、各地のハンセン病療養所で点字学習が盛んになり舌や唇で点字を読む者も現われる(1955年、岡山県の邑久光明園では盲人114人のうち35人が点字を打ち、11人が点字を読み、そのうち8人が点字を舌や唇で読むようになったという)。また、1955年ころから各地の療養所で点字の機関誌が発行されるようになる。
 1953年、日本初の福祉労働者の組合「日本社会事業職員組合」発足 (70年「民間社会福祉労働組合全国連絡会」、86年「全国福祉保育労働組合」)
 1953年、ユネスコより、「世界点字便覧」(World Braille Usage)が発行される(初版。日本語もふくめ47言語の点字を集録) (1990年第2版(97言語集録)、2013年第3版(142カ国・133言語))
 1954年6月1日、「盲学校、聾学校及び養護学校への就学奨励に関する法律」公布 (これにより、保護者の経済的負担が軽減され、その後の盲児の就学率向上に寄与した)
 1954年、平方龍男(1889〜1976年。16歳で失明。大正から昭和にかけての著名な鍼臨床家。1952年鍼科学研究会を創設し、月刊誌「鍼の研究」を発刊)が、信愛福祉協会を創設、鍼による自立を目指す失明者更生施設「信愛ホーム」を開設
 1954年、国立東京光明寮に、点字印刷科が設置される
 1954年9月、邑久光明園の森幹郎の主導で、一般の盲人とハンセン病による盲人が点字で文通することなどを目的に「らい盲友の会」発足
 1954年、アメリカ、職業リハビリテーション法
 1954年、パリで、第1回世界盲人福祉協議会(WCWB: World Council for the Welfare of the Blind)開催。同時に、世界点字楽譜統一会議も開催される
 1955年1月、本間昭雄が、「聖明福祉協会」設立、視覚障害者宅への家庭訪問事業などを始める
  [本間昭雄:1929〜。20歳の時医療ミスで失明。点字を独学し、日本社会事業学校で社会福祉を専攻して卒業。1964年、盲老人ホーム聖明園(全室個室)開設。1968年全国盲老人福祉施設連絡協議会設立、1990年より同会長。1969年より、盲大学生のための奨学金貸与制度を始める。1975年特別養護老人ホーム富士見園、82年特別養護盲老人ホーム聖明園寿荘を開設。1984年、第21回点字毎日文化賞受賞。93年、妻麻子とともに、第27回吉川英治文化賞受賞。2008年第1回塙保己一賞、2012年第30回鳥居賞受賞。]
 1955年5月、全国11園盲人会により、「全国ハンセン病盲人連合協議会」結成
 1955年5月27日、ヘレン・ケラーが3度目の来日 (帰国する6月7日、勲三等瑞宝章を授与される)
 1955年9月、盲人用信号機が、東京都杉並区の視覚障害者施設付近の交差点に設置される(ベルの鳴動により赤信号と青信号を判別できるもの。その後、オルゴールやチャイム音が使われるようになる)
 1955年10月、東京で、第1回アジア盲人福祉会議開催(参加国は、インド、セイロン、ビルマ、タイ、マレーシア、ベトナム、香港、フィリピン、中華民国、韓国、日本の11ヶ国)
 1955年10月、東京教育大学教育学部附属盲学校高等部生徒会を中心に「全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会」(全点協)が組織され、高等部用教科書の貧弱さを訴え、その発行促進、購入費の軽減、国立点字出版所の設立等を求めて、文部省・厚生省・国会への陳情、街頭署名運動を行う。(運動の結果、翌年4月より盲学校高等部の教科書は無料となり、発行されていない教科書が急遽作られることになる。)
 1955年11月、日本ライトハウスが、アメリカの国会点字図書館から寄贈された英文点字書800冊とトーキングブック1190枚の目録を作成、一般に貸出を開始する。
 1955年、藤原雄(1932〜2001年。強度の弱視)が父藤原啓に師事し備前焼を始める。(1996年人間国宝となる)
 1955年、ILOが、障害者の職業リハビリテーションに関する勧告
 1955年、アメリカ、A.ネメス(Abraham Nemeth)が、デトロイト大学の数学教授に就任
  [Abraham Nemeth: 1917〜2013年。先天的な視覚障害。小学校から高校まで一般の学校で学ぶ。将来の就職を考え、大学では心理学を専攻、コロンビア大学で心理学修士号を得る。その後好きな数学に転向し、同大学で数学の修士号も得る。彼が数学の学習の中で考案して行った記号体系が、1952年アメリカの標準的な数学記号として採用される。その後この記号体系は、「Nemeth Code of Braille Mathematics and Scientific Notation」として第4版まで改訂され、アメリカをはじめカナダやニュージーランドなどで理数系の標準的な点字記号として広く用いられている。]
 1956年4月、日本盲人福祉委員会(日盲委)発足
 1956年、日本盲心理研究会設立、機関誌「盲心理論文集」創刊(1959年からのち「盲心理研究」と改称)
 1956年6月25日、生田流箏曲家宮城道雄が、急行「銀河」の連結部で転絡、死亡。
  [宮城道雄:1894〜1956年。神戸生まれ。生後間もなく角膜炎に罹り次第に視力が衰え7歳ころ失明。8歳で生田流の2代中島検校に入門。11歳で免許皆伝となる。13歳のとき、一家の生計を支えるため朝鮮に渡り、昼は箏、夜は百八を教える。14歳(1909年)で『水の変態』を作曲。1916年大検校の称号を受ける。17年に上京し、19年第1回作品発表会を開く。1920年ころより、吉田晴風、本居長世らとともに、洋楽の要素も取り入れたいわゆる「新日本音楽」運動を起こす。また、十七絃、新胡弓、短箏、八十絃など新楽器も考案。29年代表作『春の海』。30年東京音楽学校講師となり、また東京盲学校でも教え始め、自宅の門弟も急増。32年フランスの女性ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーの来日演奏会で「春の海」を合奏。48年芸術院会員。50年NHK第1回放送文化賞受賞。53年、フランス、スペインで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表で参加、第1位となる。作曲は350曲を超える。]
   *森雄士:宮城道雄の最後の直弟子。1929年山形県酒田市の材木商に生まれる。2歳で麻疹のため失明。5歳で近くの山田流箏曲家に入門。翌年宮城道雄に入門するため上京、東京盲学校初等部入学。在学中はピアノなどの西洋音楽も学び、斉藤松声、久本玄智ら山田流講師陣にも師事。音楽理論と作曲法は、團伊玖磨、柴田南雄に教えを受ける。卒業後同校教員。宮城道雄没後宮城会を離れ、森壽会を主宰、後進の指導や独奏活動等をしている。作品に「石川啄木詩集より」「箏とフルート二重奏曲」「壱越調」「箏独奏の為の変奏曲」など。
 1956年、アフリカ系アメリカ人のジャズピアニスト・テータム(Art Tatum: 1910〜1956年。生来片眼は全盲、他眼も強度の弱視)没
 1957年、身体障害者更生援護施設の設備及び運営基準が制定される。点字図書館事業についても、人件費(5人分)の確保が可能な事業となり、これを契機に、1960〜70年代に全国各地で点字図書館事業が開始される(1998年現在、全国で100館)。
 1957年、日本盲人福祉委員会が、「日盲委・世盲協ニュースレター」創刊
 1957年、鉄道弘済会が、盲人福祉事業に着手
 1957年4月、国立神戸光明量に、養鶏科が設置される(1969年3月廃止)
 1957年、相馬雄二、塩屋賢一、松井新二郎らが中心になって、日本盲導犬協会を設立 (1967年財団法人に改組)
 1957年、塩屋賢一(1921〜2010年)により、日本で育成した発の盲導犬チャンピー誕生 (塩屋賢一は1948年から盲導犬についての研究をしていた。1982年、第16回吉川英治文化賞および第19回点字毎日文化賞受賞。チャンピーの使用者は河相洌(1927〜。1945年慶応義塾大学予科に入学するが、2年後失明のため中退。52年同大学に復学し、56年文学部哲学科卒業、滋賀県立彦根盲学校教諭。60年以降、静岡県立浜松盲学校教諭。著書に『ぼくは盲導犬チャンピイ』など)) 1957年、東京で、国際キリスト教奉仕団が、テープライブラリーを開設
 1957年、地歌箏曲家萩原正吟(1900〜1977年)が、重要無形文化財保持者に認定される (6歳で失明。柳川流三弦本手および生田流箏組歌を修得。1931〜1958年京都府立盲学校教諭。1970年勲5等宝冠章受章。)
 1957年、フランスの数学者ベルナール・モラン(Bernard Morin: 1931〜)が、国立科学研究センターの研究員になる (1931年上海で生まれる。緑内障と網膜剥離のため6歳で完全失明。フランスの盲学校で15歳まで学び、その後リセで哲学を、エコール・ノルマル・シュペリュールで数学を専攻。位相幾何学の分野で業績を積み、1972年博士号。1999年まで主にストラスブール大学で教職に就いていた。1988年に来日、4月から半年間九州大学で講義))
 1958年1月、日本盲教育研究会結成
 1958年、日本盲人キリスト教伝道協議会が中心になって、盲女子のための「東京サフランホーム」設立。寮長は高田冨美野(1921〜。先天盲。1940年滋賀県立盲学校卒業、西宮の関西盲婦人ホームに入所。43年斎藤百合の陽光会ホームに移る。翌年栄養失調のため帰郷。47年東京光の家入所。48年青山学院女子専門学校入学、51年卒業。翌年横浜訓盲院教員。1982年念願のホーム新館が落成、同ホームを退職。ホームは2003年3月閉鎖)
 1958年4月、「角膜移植に関する法律」成立、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる
 1958年、学校保健法(昭和33年4月10日法律第56号。2009年4月より学校保健安全法に改称)に「色神障害の有無及び障害の種類を明らかにする」と規定され、就学時および毎年全児童に色覚検査が実施される
 1958年9月、日本点字図書館が、声のライブラリー開始 (最初はオープン7型テープ。1966年オープン5型で4トラックのテープレコーダー、1976年に半減速のカセットテープレコーダー開発)
 1958年、全国盲学生音楽コンクール入賞者数人で「笹の会」発足、11月に発表演奏会を開催 (発表者は、河原田栄(東邦音楽短大、バリトン)、松田忠昭(特設教員養成部音楽科、テナー)、金慶環(日大芸術学部音楽科、テナー)、日高実則(日大芸術学部音楽科、ピアノ)、田中禎一(特設教員養成部理療科、ピアノ)、和波孝禧(横浜盲中学部、バイオリン))
 1958年、地歌の演奏家・作曲家富崎春昇(本名吉倉助次郎)没
  [富崎春昇(1880〜1958年): 文楽人形遣い吉田玉助の長男として大阪市に生まれる。4歳で失明、8歳で富崎宗順に入門。17歳で継山流箏組歌、19歳で野川流三絃本手の伝授を受け、富吉春琴の芸名をもらう。1904年師の没後、芸姓を継ぎ、08年富崎春昇を名のる。1918年東京有楽座で地歌名曲独演会を開き、翌年東京に移住。1947年日本三曲協会会長、48年芸術院会員となり、55年には重要無形文化財保持者に認定、57年文化功労者に選出。東京に大阪系の地歌をもたらした功績は大きい。作曲作品に『蓬生』『春の江の島』『残る雪』『嵯峨の雪』『花の戸』など。]
 1958年、福沢美和(1927〜。福沢諭吉の曾孫。網膜色素変性症のため視力が弱く、40代半ばで失明)が、視覚障害者と晴眼者の交流のための親睦サークル「ひとみ会」を主宰。失明後1976年から盲導犬フロックスと暮らすようになり、各地で視覚障害者の福祉や盲導犬について講演活動を行い、また『フロックスはわたしの目 盲導犬と歩んだ十二年『など盲導犬をテーマとした著書も多い。
 1958年、国民健康保険法が制定され、1961年より、国民皆保険となる。
 1959年4月、国民年金法公布(1961年より、国民皆年金)
 1959年4月、盲人の電話級アマチュア無線技士国家試験受験が認められ、24人が合格(受験者は29人)。さらに同年6月には「日本盲人ハムクラブ」発足。
 1959年、日本ライトハウスが、録音奉仕会を結成、「声の図書館」を開設
 1959年、日本の盲学校の在籍者数が、 10,264人と最大を記録(以後、1968年9千人台、 1976年8千人台、 1981年7千人台、 1985年6千人台、 1990年5千人台、 1992年4千人台、 2002年3千人台と減少。2018年は2731人)
 1959年、高尾正徳が、島根ライトハウス(盲児施設)設立(1962年点字図書館、71年盲老人ホーム、82年盲重複施設を設置)。
  [高尾正徳: 1915〜1990年。小学4年生のころから視力が低下。1933年大阪府立盲学校中等部入学。1937年関西学院専門部文学部社会科入学、40年同学院法文学部法学科政治学専攻入学、42年9月卒業(いずれも聴講生)。1947年4月、島根県議会議員に当選。1949年、島根県盲人協会会長、島根県連合青年団長、島根県身体障害者福祉協会会長。1972年、日本盲人会連合会第4代会長。1978年藍綬褒章、1989年勲三等瑞宝章受賞]
 1959年、デンマーク、「精神遅滞者ケア法」(1959年法と呼ばれる)制定(バンク・ミケルセンの唱えたノーマライゼーションの理念が基調になったもの)
 1959年、スウェーデン盲聾者協会(FSDB)発足(初代会長:スティッグ・オルソン)

◆1960年代
 1960年1月、最高裁が、HS式無熱高周波療法を行った者が、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法が禁止している医業類似行為として起訴された事件で、それが人の健康に害を及ぼさなければ違法とはされないとする判決を下す。
 1960年6月、道路交通法公布。視覚障害者は道路通交時に白または黄の杖を携えるか、盲導犬を連れていなければならないとされる。
 1960年7月、「身体障害者雇用促進法」公布(最低雇用率の義務付け、ただし非強制)
 1960年10月、全日本ライトハウス連盟発足
 1960年、沖縄県立沖縄盲学校で、自身も作家である山城見信(1937年〜)を中心に、粘土による造形美術教育が始められる (1981年、作品集『盲学校・土の造型20年』刊行。生徒たちの作品は、沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館に保管されている)
 1960年、鈴木力二(1908〜1984年。東京盲学校師範部卒、都立葛飾盲学校長、のち全国盲学校長会長)が『日本盲教育写真史』を自費出版 (他の著作に、『盲学校というところ』『日本点字の父 石川倉次先生伝』『中村京太郎伝』など。なお、『日本盲教育写真史』は1985年に『図説 日本盲教育史事典』として日本図書センターより改訂出版されている。同氏は、1966年第3回点字毎日文化賞受賞)
 1960年、浪曲師浪花亭綾太郎(1893〜1960年。本名加藤賢吉)没 (2歳で失明。7歳ころから流し按摩に従事するが、12歳で浪花節で身を立てようと決心し初代浪花亭駒造に入門、21歳で綾太郎の名で看板披露。文字を持たなかったが記憶力に優れ、歌舞伎に材をとった演題は千を越えるという。昭和初期、綾太郎の『壺坂霊験記』、とくにその冒頭の一節「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ」は全国的に流行した。)
 1961年3月、全国初の盲老人ホーム「慈母園」が、奈良県高取町壺阪寺に開設される
 1961年4月、NHKが、盲人世帯のラジオ聴取料を無料化
 1961年、文部省が、盲聾の特殊教育職業開拓費として10学級分を計上、盲学校では、北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科:椎茸)、岩手県立盲学校(養鶏科)、神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)、大阪府立盲学校(ピアノ調律科)、徳島県立盲学校(養鶏養豚科)の五校に新職業科が設置される。また1962年度は宮城県立盲学校(花卉栽培)と広島県立盲学校(農芸科)が、1963年度は横浜市立盲学校(手工芸:簾編みと毛糸編み)が新職業教育研究校に指定される。 (ほとんどは長くは続かず、その後成果が得られて継続したのは、大阪府立盲学校のピアノ調律科のみ)
 1961年6月、盲人郵便物(盲人用点字、盲人用録音テープ、点字用紙)の郵便料無料化
 1961年6月、鳥居篤治郎らを中心に、京都ライトハウス創設 (初代会長:鳥居篤治郎)
  [鳥居篤治郎: 1894〜1970年。4歳で失明。1905年京都市立盲唖院入学。1916年東京盲学校師範科鍼按科卒業。このころ盲詩人エロシェンコとの交友でエスペランティストとなり、またバハイ教の宣教者アグネス・アレクサンダー(1875〜1971年。日本には1914〜38年、および1950〜67年の2回滞在)を通してバハイ教徒となる。三重盲唖院の教員を経て、1929年より京都府立盲学校教諭(1951年より副校長)。1948年京都府盲人協会を結成し、その会長に就任。54年日本盲人会連合会長、55年日本点字研究会会長、同年世界盲人福祉協議会理事、59年日本盲人福祉委員会理事長。1950年藍綬褒章、54年ヘレン・ケラー賞、65年朝日新聞社会奉仕賞など受賞。]
 1961年7月、「雇用促進事業団」設立
 1961年7月、高橋實らが、職域の拡大と大学進学を促進することなどを目的に、「文月会」を設立 (1964年、日本盲人福祉研究会と改称)
 1961年9月、「身体障害者雇用促進月間」設定(以後毎年)
 1961年11月、障害福祉年金支給開始
 1961年12月、大阪医科大学の湖崎克(1929〜)の提唱で、高槻市立桃園小学校の分校として、大阪医科大学付属病院内弱視学級が開設される (同年に湖崎らが行った大阪府下の児童生徒の検診で、視覚に問題のある児童生徒が1340名にも及ぶことが明らかとなる)
 1961年、厚生省が、「声の図書製作・貸出事業」(録音図書制作・貸出への助成)を日本ライトハウスと日本点字図書館に委託
 1961年4月、鉄道弘済会が提供し、日本点字図書館が管理運営して、盲学生向けの月刊テープ雑誌「つのぶえ」が創刊される。そしてこのテープ誌上で、日本点字図書館が全国盲学校放送劇コンクールを開始
 1961年、弱視教育研究会(現・日本弱視教育研究会)結成。1963年4月、機関紙「弱視教育」創刊
 1961年、芹澤勝助(1915〜1998年)が、「経絡経穴の医学的研究」で、鍼灸師として初めて、昭和医科大学より医学博士号 (生来の弱視。尋常高等小学校卒業後、1930年東京盲人技術学校(現・都立文京盲学校)に入学、35年東京盲学校師範部鍼按科入学、研究科を経て、39年失明軍人教育所講師、45年東京盲学校教員、51年東京教育大学(特設教員養成部)講師、64年教授。理教連の会長をはじめ多くの団体の要職、各種審議会委員も勤め、また理療科の各種教科書もふくめ多数の著書を執筆。1977年、第14回点字毎日文化賞)
 1961年、カナダ、「職業リハビリテーション法」制定
 1961年、アメリカ、「身体障害者にアクセスしやすく使用しやすい建築設備に関するアメリカ基準仕様書」策定(世界で最初)
 1961年、ワシントンでアメリカ盲人協議会(American Council of the Blind: ACB)が NFBから分立する形で設立される(法律家、プログラマー、教師、公務員など職能別の専門団体がある)
 1961年、トーマス・キャロル(Thomas J. Carroll)が、失明者リハビリテーション理論の古典的名著とされる『Blindness』を刊行(邦訳:『失明』松本征二監修 樋口正純訳、日本盲人福祉委員会、1977)
 1962年3月、学校教育法施行令改定(盲・聾・養護学校の対象となる障害の程度を規定<第22条の2の表>)
 1962年、全国盲学校PTA連合会結成。
 1962年、田辺建雄(1928〜2008年)が、理療科教科書の田辺シリーズ6科目(解剖学、生理学、衛生学、病理学、症候概論、治療一般)を出版
  [1944年金沢医科大学附属薬学専門部入学、47年石川薬品試験株式会社入社、同年秋薬品の爆発で顔に重症、48年石川県衛生試験所勤務、49年9月目の状態が急変・失明。翌年石川県立盲学校専攻科入学、52年東京教育大学特設教員養成部、54年石川県立盲学校教員(〜88年)。1974年石川県視覚障害者協会理事長、81年石川県視覚障害者会館、97年石川県視覚障害者情報文化センター建設。理療関係の多くの図書を執筆、さらに1988年から光ある記録シリーズとして『わが六〇年のあゆみ』『宝生流 点字謡曲符の解説』『宝生流「点字小謡集」』『田辺建雄講演集 見えない目だからこそ』『耳と手で見たネパ−ル・タイの魅力』『宝生流点字謡曲初級本』『北海ジャーナル「盲界放談」』『石川県視覚障害者福祉文化大会50年』『父と母の思い出 四分の三世紀を振り返って』『懐かしい思い出「祝賀会」6つ。 傘寿(数え年80歳)を迎えて』を出版。1998年、第35回点字毎日文化賞受賞]
 1962年、松浦茂晴(1925〜1985年。九州大学経済学部在学中に反復性網膜硝子体出血に罹り、27歳ころ完全失明。教育学に転向。1960年ボストン大学の修士課程を終了)が、四国学院大学講師に就任。1969年同大教授、1983年同大文学部長。著書『教育のユートピア ベラミーの人と思想』、訳書『来たるべき時代の教育』(セオドア・プラメルド著)など。
 1962年、小説家・翻訳家武林無想庵(1880〜1962年。本名磐雄、後に盛一)没 (東京帝国大学中退。放浪しながら翻訳や小説を発表。1920年二番目の妻文子と渡仏、33年まで滞欧。1943年緑内障のため失明。三番目の妻朝子の口述筆記により、会員制の個人誌『むさうあん物語』(全44冊別巻3冊、1957年-1969年)を刊行。1944年から死の約50日前までの日記も、朝子の口述筆記により『武林無想庵盲目日記』として刊行されている)
 1962年、バイオリニスト和波孝禧が、第31回日本音楽コンクールに優勝
  [和波孝禧: 1945〜。先天盲。 4歳からバイオリンを始め、辻吉之助、鷲見三郎、江藤俊哉に師事。母が譜面を点訳。1967年桐朋学園大学卒業。児童・学生時代、1954年第6回日本全盲学生音楽コンクール1位をはじめ、58年第12回全日本学生音楽コンクール中学生の部全国第1位、62年第31回日本音楽コンクール第1位、特賞、安宅賞などを受賞。また1959年には音楽映画「いつか来た道」に主演。1963年、斎藤秀雄の指揮の下、日本フィルハーモニー交響楽団のソリストとして楽壇デビュー、65年パリのロン=ティボー国際音楽コンクール第4位、70年ロンドンのカール・フレッシュ国際コンクール第2位入賞。日本を代表するバイオリニストとして、国内の主要オーケストラをはじめ、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、セント・マーチン・アカデミー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団など国外のオーケストラとの共演も数多い。84年から小澤征爾が総監督を務めるサイトウ・キネン・フェスティバル松本に参加し、オーケストラと室内楽の双方に出演。また、77年、ピアノ奏者の妻・土屋美寧子とデュオを組み、息の合った演奏が国内外から高い評価を受ける。1991年からは、毎年クリスマスの時期にバッハの無伴奏ヴァイオリン曲の演奏会を開いている。
   後進の育成にも力を入れており、1985年から毎年夏、山梨県・大泉村の八ヶ岳高原泉郷で「八ヶ岳サマーコース」を開催。91年、同コースに参加した若い音楽家たちにより、いずみごうフェスティバルオーケストラが結成され、指導に当たる。桐朋学園大学、愛知県立芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとる。受賞歴は、1968年第5回点字毎日文化賞、1971、78、83年文化庁芸術祭優秀賞、93年モービル音楽賞、95年サントリー音楽賞、2005年紫綬褒章、鳥居賞、06年第3回本間一夫文化賞、15年旭日小綬章。『ブラームス/シューマン ヴァイオリン協奏曲』『バッハ:無伴奏ソナタ&パルティータ第1集』など数多くのCDを出しているほか、著書に『音楽からの贈り物』『ヴァイオリンは見た』がある。]
 1962年11月、岐阜県盲人協会が愛盲館の協力を得て、視覚障害男女の出会の場・結婚研修会「かがり火」(第1回)を開催(第8回(1973年9月)から主催者が愛盲館(岐阜訓盲協会)に代わり、対象も全国に広げる)
 1962年、赤座憲久(1927〜2012年)が、岐阜県立盲学校での教育実践記録『目の見えぬ子ら』で毎日出版文化賞 (1954年から岐阜県立盲学校教諭。1971〜91年大垣女子短大教授。1965年『白ステッキの歌』で講談社児童文学新人賞。72年児童文学雑誌「コボたち」の創刊に参画。87年『雨のにおい星の声』でサンケイ児童出版文化賞と新美南吉児童文学賞、読売絵本にっぽん賞。89年『かかみ野の土』『かかみ野の空』で日本児童文芸家協会賞。戦争・原爆・沖縄・障害者・盲導犬などをテーマに100以上の作品がある)
 1963年、大阪市立本田小学校に弱視学級設置
 1963年6月、厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示され、同年10月には慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクなど三か所がそれぞれ認可される
 1963年10月、文月会が機関誌「新時代」復刊。1976年10月、「視覚障害―その研究と情報」に改名。2004年4月より月刊。
 1963年10月、松井新二郎が、「日本盲人カナタイプ協会」を設立
  [松井新二郎: 1914〜1995年。25歳の時、日中戦争で失明。国立東京視力障害センター相談室長、同研究室長、東北大学視覚欠陥学教室講師などを経て、1976年から日本盲人職能開発センター所長。また、日本盲人社会福祉施設協議会理事長、日本盲人社会福祉委員会常務理事、世界盲人福祉協議会日本代表委員、国際障害者年日本推進協議会副代表など、盲人団体の役員を多数兼務。1972年第9回点字毎日文化賞、85年第19回吉川英治文化賞受賞]
 1963年11月、第1回全国盲人カナタイプコンテスト開催
 1963年11月、点字毎日が、第30回総選挙から「選挙のお知らせ」の発行を開始
 1963年、スウェーデンで、障害児のための「おもちゃの図書館」が始まる。 (日本では1981年から)
 1963年、ドイツのシュルツェ(Hans-Eugen Schulze: 1922〜)が、連邦通常裁判所(最上級の裁判所)の民事第2部の判事に就任(〜1985) (幼少期に失明。盲学校に入り、速記タイプなどいろいろな職業訓練も受ける。1939年盲学校を卒業、速記タイプの技術を生かしてドルトムントの地方裁判所で司法補助官として働く。44年に仕事を止めてマールブルクのブリスタに進学、翌年アビトゥアを取得。46年マールブルク大学に入学、法学と国家学を学ぶ。49年司法試験の第1次試験に、51年第2次試験に合格、また同年ミュンスター大学で博士号取得。51年ボーフムの地方裁判所の判事、55年ハムの高等裁判所の反事に就任。裁判官としての仕事のほか、アフリカ・アジア諸国での視覚障害者支援や失明予防活動にも熱心に取り組んでいる。)
 1964年1月、国立函館光明寮設置(6月、国立函館視力障害センターと改称)
 1964年、東京教育大学附属盲学校と大阪府立盲学校に、理学療法士養成課程(当初「リハビリテーション科」、後「理学療法科」)設置。翌年、徳島県立盲学校にも設置される
 1964年、国立光明寮が、国立視力障害センターと改称
 1964年4月、NHKが、ラジオ第2放送に「盲人の時間」を設ける。盲人家庭のテレビ視聴料を半額とする
 1964年5月、山梨放送(YBS)が、視覚障害者向けの番組「ラジオ・ライトハウス」を開始(当初は毎週火曜日14:30〜15:00、2004年4月からは毎週日曜日7:45〜8:00放送)
 1964年6月、「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」(昭和26年法律116号)が、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」(法律第120号)と名称が改題され、指圧が明確に位置づけられる(その他、あん摩マッサージ指圧師について、晴眼者と視覚障害者の比率等を考慮して、晴眼者を対象とする学校、養成所の認定、定員増の承認を行わないことができるとされた)
 1964年7月、日本ライトハウス理事長の岩橋英行が、WCWBの副会長に就任
  [岩橋英行:1925〜1984年。1950年3月、関西学院大学文学部哲学科卒業。52年7月、ライトハウス常務理事。54年5月、日盲連事務局長。同年10月、父岩橋武夫の死をうけて、日本ライトハウス理事長就任。1960年1月、日本盲人福祉委員会常務理事。69年6月、職業・生活訓練センター開設の功で第6回点字毎日文化賞。(このころから、網膜色素変性症のため次第に視力を失う。)70年2月、厚生省身体障害者福祉審議会委員。73年4月、アジア眼科医療協力会を結成、理事長に就任。81年12月、盲人の職域拡大の功で総理大臣表彰。82年、藍綬褒章。]
 1964年、毎日新聞社が、点字毎日文化賞を創設(第1回受賞者は、好本督)
  [好本督:1878〜1973年。大阪に生まれる。弱視。府立第一中学校を卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進む。内村鑑三の感化でキリスト者になる。東京高商卒業後、1900年パリ万博を見学、その後渡英してオックスフォード大学で学ぶ。1902年帰国して、『真英国』を著し、各地の盲学校に送る。その後再びオックスフォード大学で学業を続ける。1906年帰国し、早稲田大学の英語講師になり、また同年盲人有志に呼びかけて「日本盲人会」を結成し、自らの『日英の盲人』『新英国』をはじめ、ヘレン・ケラー『我が生涯』、内村鑑三『後世への最大遺物』などの啓蒙書を点字出版。1908年再び渡英し、マーガレットと結婚、また商事会社「オックスフォード・ハウス」を設立。この事業で得た利益の多くを日本の盲人のために使い、英国にあってその後の日本の盲人福祉増進のために物心両面で支援し続ける。例えば、1912年毎日新聞の河野三通士に点字新聞の発行を提唱、同年の中村京太郎の英国留学、その翌年の熊谷鉄太郎の関西学院入学、1919年の「盲人キリスト信仰会」の結成(新約・旧約聖書を点字出版)、1925年の岩橋武夫のエジンバラ大学留学、 1951年の日本盲人キりスト教伝道協議会創設、1955年の「第一回アジア盲人福祉会議」の開催などを支援。その他、中国語点字によるバンヤン著『天路歴程』を中国の盲人に送ったり、ヘレン・ケラーの第1回日本訪問を後押ししたりもしている。著書に1934年『十字架を盾として』、1948年『英国人とキリスト教』を、1949年『神に聴いて』、1967年『わが隣人とは誰か』など。]
 1964年、童話作家・佐々木たづ(1932〜1998年。都立駒場高校3年に在学中緑内障のため両眼失明。野村胡堂に師事して童話を書きはじめる。1962年イギリスに渡り、盲導犬ロバータを得て帰国)が、『ロバータ さあ歩きましょう』を刊行、翌年第13回日本エッセイストクラブ賞受賞(他に、『白い帽子の丘で』『わたし日記をかいたの』『らい年はよい年』『子うさぎましろのお話』『少年と子だぬき』など)
 1964年、生田流箏曲家佐藤親貴(1914〜。2歳のとき麻疹で失明。6歳で名古屋系生田流箏曲を習い始め、10歳のとき上京して米川親敏に入門。点字・点字楽譜も近所の盲学校卒業生に習う。1928年名取となり、40年一門の会「白菊会」設立)が、師匠の米川親敏より独立、「白菊会」家元となる。1967年から聖心女子大学箏曲部講師。1977〜96年「佐藤親貴三弦箏曲演奏会」開催、その収益金を視覚障害関係施設に寄付。1998年、白菊会次期家元に二宮貴久輔(1950〜。57年佐藤親貴に入門、東京教育大学附属盲学校音楽科を卒業し、69年白菊会師範。87年よりリサイタル開催)を指名。
 1964年、アメリカ、10月15日を「白杖安全デー」と定める (毎年この日に大統領が声明を発表し、視覚障害者の歩行の安全および白杖というシンボルを通して視覚障害者への理解を深めるような記念行事を行う。)
 1965年、東京都が、視覚障害者向けに公職選挙候補者の経歴・政見を東京ヘレン・ケラー協会の選挙特集号を購入し「おしらせ」として公布
 1965年、日本身体障害者スポーツ協会発足。毎年、国民体育大会のあと、全国身体障害者体育大会を開催するようになる。
 1965年6月、理学療法士及び作業療法士法成立
 1965年、石松量蔵が、自伝『盲目の恩寵』を出版
 1965年、伊藤岳峯(1920〜。本名政太郎。4歳で失明。大阪市立盲学校鍼按科の時詩吟部に入り、44年には当時の吟詠の最高位・奥伝師範を許される。52年日本詩吟学院帯広支部を設立)が、北海点字図書館より「テープ詩吟教室」を月刊で発行(2005年1月まで)
 1965年9月、日本ライトハウスが、職業生活訓練センターを開所
 1965年11月、万国郵便条約により外国向け点字郵便物が無料となる
 1965年、第1回全国盲人珠算検定試験実施 (日本商工会議所など主催。 36盲学校参加。受験者851人)
 1965年、盲人の電信級アマチュア無線の受験が認められる
 1965年、日本鍼灸師会主催の第1回国際鍼灸学会が東京で開かれる(フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカ、韓国、南ベトナムなど19カ国、80人が参加)
 1965年、青木優・道代が、小郡教会付属のすみれ園で、視覚障害児もふくめ多種の重度の障害児を受け入れ始める
  [青木優:1924〜(道代:1933〜)。24歳のとき、広島医大付属病院で医師としてのインターン中、網膜硝子体出血により失明。1952年、東京神学大学3年に編入学。56年、卒業と同時に道代と結婚。1960〜86年、山口県の小郡教会の主任牧師。64年すみれ園開設。1986年東京に移り、調布柴崎伝道所設立、障碍を負う人々・子どもたちと「共に歩む」ネットワークの活動を始める(会報誌「共に歩む」発刊)。著書に『障碍を生きる意味―共に歩む』『スウェーデンの心を訪ねて』など]
 1966年4月、中道益平(1907〜1978年、網膜剥離のため25歳で失明)が、福井県鯖江市に、重度身体障害者更生施設「ライトセンター光道園」(全国初の盲重複障害者施設)を設立 (1967年藍綬褒章、1971年第8回点字毎日文化賞)
 1966年4月、日本点字図書館が、盲人用具取扱い業務開始
 1966年、国立塩原視力障害センターに、農芸科が設置される(養豚・養鶏・しいたけの栽培などの職業訓練が行われる)
 1966年、「全国視力障害者大学進学対策委員会」発足
 1966年、東北大学教育学部に視覚欠陥学教室開設
 1966年、岩手県の盲聾教育の創始者で多くの社会事業も行った柴内魁三(1879〜1966年)没
  [柴内魁三:盛岡中学校卒業後、1901年11月陸軍士官学校卒業。日露戦争に従軍、1905年3月の奉天の会戦で負傷・失明。06年日露戦争失明軍人のための講習会将官コースを受講、09年東京盲唖学校教員練習科に入学、10年教員資格を得て帰郷、11年私立の岩手盲唖学校を設立し校長に就任。1925年私立岩手盲唖学校が県に移管され岩手県立盲唖学校となり、校長になる。48年盲聾分離により、岩手県立盲学校の校長となる(就任直後に元軍人ということで公職追放となるが1年足らずで復帰)、翌年退職。
   この間盲唖学校の運営に尽力するとともに、地域の要請に応じて各種の社会公共的な事業にも取組む。1928年盛岡水道利用組合を結成、理事長となって水道事業を始める。31年盛岡消費組合の組合長(国家統成のため盛岡消費組合は42年解散)。33年有限責任購販利用組合盛岡病院を設立し組合長になる(さらに県下各郡に一つずつ病院や診療所を設置すべく岩手県医薬品購販利用組合連合会を結成・組織化。1950年岩手県はこの組合方式による病院を買収し、盛岡市の岩手県立中央病院等県内各地区の岩手県立病院とした)。(これらの社会公共事業は、各種の協同組合を規定した1900年制定の産業組合法に基くもの。)また1962年には財団法人柴内愛育会を設立、盲学校・聾学校の設備拡充や盲生徒の角膜移植資金の補助等を行う。]
 1966年、視覚障害児を持つスタンフォード大学の J.リンビル博士が、オプタコンを開発
 1966年、ドイツの法学者ショラー(Heinrich Johannes Scholler: 1929〜2015年)が、ルードヴィッヒ・マクシミリアン大学(通称ミュンヘン大学)の国家法・行政法・法哲学の教授になる (1945年(15歳)実習先の化学工場での事故で両眼失明。マールブルクのブリスタに進学、48年にアビトゥアを取得し、ルートヴィッヒ・マクシミリアン大学で法学を専攻。54年司法試験の第1次試験に、58年第2次試験に合格。60年法学博士号取得、同年よりバイエルン州行政裁判所に勤務。70年代以降、エチオピアをはじめしばしばアフリカ・あじあ諸国に出向いて講義などをし、またドイツ国内でも盲人諸団体の活動に貢献。1995年大学を定年退官。)
 1966年、オーストラリアの盲聾の女性ベタリッジ(Alice Betteridge: 1901-1966)没 (2歳の時に髄膜炎にかかりその後遺症で視力と聴力を失う。1908年から、現王立盲聾児協会で、大学を卒業したばかりのロバータ・リードの献身的な指導を受ける。アン・サリバンがヘレン・ケラーに試みたのと同様の方法で、物には名前があることを教え(初めて理解した語は'shoe')、さらに点字の読み書きも覚え、多くの点字書も読む。1920年に卒業するが、その後も学校に残って生徒たちの世話係として働く。1939年、全盲でペンフレンドのウイル・チャップリンと結婚。1948年には、オーストラリアを訪問中のヘレン・ケラーと会っている。)
 1966〜72年、ノースカロライナ美術館のメアリー デューク・ビドン・ギャラリーが、26回に及ぶタッチ展を開催
 1967年3月、鈴木敏之(1919〜1979年。東京生まれ。2歳の時左眼を失明、画家を志すが21歳の時右眼も失明。鍼灸師をしながら、一時文学に転向するが、1961年より作画を開始)が、東京丸の内大丸百貨店画廊で「鈴木敏之作品展」を開催 (著書『指が目になった―ある全盲画家の半生』1970年、朝日新聞社)
 1967年3月、三宅精一(1926〜1982年。安全交通試験研究センター初代理事長)が 1965年に考案していた点字ブロックが、初めて岡山市で設置される (30cm4方のコンクリート製で、縦横7個ずつの丸い突起がある)
 1967年、山形県立山形盲学校、ピアノ調律科を設置(1989年3月閉鎖)
 1967年、小森禎司が桜美林短大の英文科の専任助手となる (小森禎司:1938〜2010年。先天盲。栃木県立盲学校を経て、1959年桜美林短大英文化入学。1963年明治学院大学文学部英文学科卒、1965年、明治学院大学大学院入学。1970〜72年、カリフォルニア州クレアモント大学に留学、ミルトンの研究で修士号を取得。以後桜美林短大教授を経て、同大学英語英米文学科教授)
 1967年5月、大阪で、全国視力障害者協議会(全視協)結成
 1967年8月、身体障害者福祉法の改正 (障害の範囲拡大〔心臓、呼吸機能障害〕、身体障害者相談員の設置〔障害のある当事者を相談員に起用〕、身体障害者家庭奉仕員の派遣、内部障害者更生施設の設置)
 1967年10月、大分生態水族館に「耳と手で見る魚の国」が設けられる。タチウオなど41種の魚の模型が置かれ、レシーバーで説明を聞く。
 1967年12月、障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)結成
 1967年、在京大学の点訳クラブ会員などにより、盲大学生の援助を目的として「東京盲人問題学生協議会」が結成される。
 1967年、宮崎康平(1917〜1980年。34才で完全失明、島原鉄道取締役など歴任)が、歴史書『まぼろしの邪馬台国』を刊行 (同年、妻和子とともに、第1回吉川英治文化賞受賞
 1967年、第1回全国盲人将棋大会が行われる
 1967年、アメリカ、ジェームズ・フェイマン(James D. Faimon: 1938〜2012)が、弁護士としてネブラスカ州リンカーン市の法務部に勤務(〜2007年) (出産時の事故で片耳の聴力と両眼の視覚を失う。ネブラスカ州立盲学校を卒業後、ネブラスカ=リンカーン大学に進学して教育学を学び、さらに同大学院で歴史学で修士号を取得。その後、進路を変更してロー・スクールに進み、1966年に司法試験に合格。1983年から3年間、アメリカ盲人法律家協会の会長)
 1968年4月、国立東京視力障害センターに「カナタイプ科」が新設される
 1968年4月、慈母園(奈良県)・聖明園(東京都)・白滝園(広島県)の3施設で、全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲老連)結成 (2011年現在80施設が加盟)
 1968年7月、点字毎日が、ハンセン病療養所在園者や盲老人ホーム入所者のために、テープ版の『声の点字毎日』を創刊 (2005年からはデイジー形式のCD版になる)
 1968年8月、文部省が、公立小中学校の心身障害児童生徒の実態を調査、視覚障害児童生徒6684人(小 3740人、中 2944人。視力別では、0.04から0.3未満が6268人、0.03以下が416人)
 1968年、山梨ライトハウス点字図書館が、拡大写本(弱視用図書事業)を開始
 1968年、三宅精一が考案した振動触知式信号機が、宇都宮市に16機設置される (このタイプの信号機は日本ではあまり普及しなかった。)
 1968年、 日本ライトハウス職業生活訓練センターの訓練生が日本で初めて電話交換手として就職。また、国立東京視力障害センターで訓練を受けた2人が録音タイピストとして就職
 1968年、名古屋で、視覚障害者を中心としたラテンバンド「アンサンブル・アミー」発足 (1988年に中国で、1998年にメキシコでコンサートを行っている)
 1968年12月、「日本ハンセン病盲人テープ・ライブラリー」設立(全生園・日本MTLの援助による)
 1968年、名古屋市で、日本最初の共同作業所「ゆたか作業所」が開設される
 1968年、ジェーニガン(Kenneth Jernigan: 1926〜1998年、アメリカ、幼少期に失明)が、NFBの第3代会長に就任(〜86年)
 1968年、ホセ・フェリシアーノ(Jose Feliciano: 1945〜。プエルト・リコ生まれの先天盲のポップシンガー・ソングライター・ギタリスト)が、グラミー賞最優秀新人賞を受賞
 1968年、アメリカ、「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers Act: ABA)成立。連邦政府建造物のアクセシビリティ向上の為、「統一連邦アクセシビリティ基準」(UFAS: Uniform Federal Accessibility Standards)の策定が始まる。
 1968年、スウェーデン 1968年法制度(ノーマライゼーションの推進)
 1968年、スウェーデン、「やさしく読める図書(LLブック)」の製作開始(2007年までに約800冊製作)
  [LLブック:「LL」はスウェーデン語の「やさしく読める」を意味する「lattlast」の略。主に知的障害、認知障害、ディスレクシア、自閉症、学習障害、先天性聴覚障害を持つ人やスウェーデン語を母国語としない外国人移民など言葉の理解の難しい人たちを対象にし、やさしい単語や文章を用いて書かれているほか、書体や行間、文字色など見やすさにも配慮]
 1969年2月、電電公社が、電話交換の業務に視覚障害者の受験を認める
 1969年4月、日本ライトハウス職業生活訓練センターが、厚生省からの委託を受け、盲人電話交換手養成事業を開始
 1969年4月、地方自治法の一部改正により、リコール請求、国会請願、最高裁等への陳情の点字署名が認められる(1951年山口県、1963年和歌山県、1966年松山市、1968年大阪府と京都市で、市長や議員のリコール請求や条例制定の直接請求での点字署名が無効とされてきた)
 1969年、聖明福祉協会が、盲大学生奨学金制度を創設
 1969年4月、わが国初のプロの盲人録音カナタイピスト誕生
 1969年7月、聖心女子大学MS社会奉仕団の学生たちが盲人の高等教育のために街頭募金で集めた200万円近くの資金を基金として、「盲人の高等教育援助委員会」が発足(盲大学生にテープレコーダー、点訳者に点字タイプライターなどを貸与する)
 1969年7月、長谷川きよし(1949〜.2歳で失明)が、「別れのサンバ」でデビュー、大ヒット。1973年から「ふたつの顔」を企画、加藤登紀子や五輪真弓と共演。
 1969年、川上泰一(1917〜1994年。当時、大阪府立盲学校の理科教諭。 1987年、日本漢点字協会設立、会長に就任)が、8点による漢点字を発表
 1969年、地歌・箏曲家富山清琴(1913〜2008年.本名八田清治)が、重要無形文化財保持者に認定される (大阪市生まれ。1歳4か月で失明。4歳で富永敬琴に入門。12歳で野川流三味線および継山流箏秘曲の伝授を受け、富山清琴の芸名をもらう。1930年上京して富崎春昇に入門。師春昇の遺産をすべて受け継ぎ、古典継承とともに作曲にも優れる。1948年独立し家元。作品に『雨四題』『防人の賦』『鐘の音』など。1988年芸術院会員。1993年、文化功労者、および第30回点字毎日文化賞。2000年、名を長男に譲り清翁を名乗る。)
 1969年、中川童二(1904〜1986年。本名光一)が、『「ランカイ屋一代(わが博覧会100年史)』で講談倶楽部賞受賞 (洋画家を目指し1942年中川造形図案社を開く。1945年秋メチルアルコールで失明、新潟盲学校で鍼按を学ぶ。1951年雑誌や新聞に「洋裁手帳」「山伏悲願」「超路太平記」が入選。サンデー毎日大衆文芸に1955年「ど腐れ炎上記」、1958年「鮭と狐の村」が入選。1959年『たとえ光が失われても』(光書房)、1969年『指に目がある』(毎日新聞社)。1971年岩橋武夫賞。)
 1969年、コロンボで、第1回国際盲人連盟(IFB: International Federation of the Blind)開催

◆1970年代
 1970年、篠田順一郎(1917〜。1961年ベーチェット病と診断され失明宣告を受けるが、会社経営を続け発展させる)が、ベーチェット病友の会を結成、初代会長に就任
 1970年4月、東京都立日比谷図書館が、録音朗読サービス、および試験的に対面朗読サービスを開始
 1970年5月、著作権法が改正され、点字図書は無条件で、録音図書は政令で定めた福祉施設に限り、著作権者の許諾無く製作できるようになる(同法37条。施行は1971年1月)
 1970年5月、「心身障害者対策基本法」公布・施行 (主な内容は、@個人の尊厳とこれにふさわしい処置を保障される権利をもつこと、A国と自治体は負担軽減と自立促進のために税制上の措置や公共施設使用料の減免などの施策をとること、B国・自治体は早期発見・早期治療に努め、医療・年金・住宅などの面での福祉対策を行うこと、C総理府に中央心身障害者対策協議会を置き、都道府県と指定都市に地方心身障害者対策協議会を置くことなど)
 1970年6月、東京ヘレン・ケラー協会より、月刊誌『点字ジャーナル』創刊
 1970年6月、市橋正晴(1946〜1997.先天の弱視)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足 (1998年4月、解散)
 1970年7月、堀木訴訟提訴 (全盲の堀木文子(1919〜1986年。数え3歳で失明。マッサージ師)が、1970年2月児童扶養手当の受給資格の認定申請をし、3月却下される。5月異議申し立てをし、6月却下される。7月、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止は憲法の生存権保障および平等保障原則に違憲するとして提訴。72年9月の神戸地裁第一審判決では、児童扶養手当法の併給制限条項は、母が健常者であるか障害者であるかにより、また障害者が男であるか女であるかにより、それぞれ合理的理由なく差別するもので、憲法14条の法の下の平等条項に違反するとして原告勝訴。75、78年の二、三審では敗訴。この間、国は73年、児童扶養手当法の改正により、併給を認める。)
 1970年3月、高田瞽女の杉本キクエ(1898〜1983年。5歳で麻疹のため失明。6歳で高田瞽女の親方杉本マセに弟子入り、マセの養子となる。芸名ハル、後に初梅。23歳で家を継ぎ、親方となる)が、重要無形文化財に指定される(1973年11月に黄綬褒章受章) (杉本キクエとともに、刈羽瞽女の伊平タケ(1886〜1977年)も、重要無形文化財に指定され、黄綬褒章も受けている)
 1970年11月、筝曲家・中村双葉(1900〜1970年。本名 中村 生平)没。 3歳で失明。6歳で高松市の平井検校に師事。香川県立盲唖学校を卒業後、1921年から、大阪市立盲学校の洋楽教師でわが国最初の盲人バイオリニスト杉江泰一郎(1891〜1935年)や国立高等音楽院教授末吉雄二に師事してバイオリンを学び、邦楽・洋楽両面にわたっての名手となった。1929年高松で盲人として最初のバイオリン・リサイタルを開いている。1931年大阪市立盲学校邦楽科主任教授となり、以来大日本筝曲会協会、生田流筝曲葉風会、大阪三曲協会、日本筝曲会連盟、日本盲人会連合音楽部などに関係し指導的立場にあった。1967年より大阪音楽大学講師。
 1970年、神奈川県点字図書館が、リーディングサービス開始
 1970年、全国盲学校長会より『弱視用広辞苑』が出版される(9ポイントで全2冊)
 1970年、版画家棟方志功(1903〜1975年)、文化勲章受章 (青森市生まれ。囲炉裏の煤で眼を傷めて極度の近視になる。少年期にゴッホの絵に出会って感動し、「ゴッホになる」と芸術家を志す。1924年上京。28年第9回帝展に『雑園』(油絵)で入選。1956年ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に『湧然する女者達々』などを出し、国際版画大賞を受賞。強度の近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけて版画を彫った。)
 1970年、ベルギー王立歴史美術博物館内に、「盲人のための博物館」(Musee pour Aveugles)が開館 (年に1回特別展を開催)
 1970年、韓国、大韓盲人易理学会(伝統的な占卜や読経を業とする盲人団体)発足
 1971年4月、盲・聾・養護学校の小学部に「養護・訓練」の教科が設けられる(72年中学部、73年高等部にも設けられる)
 1971年4月、塩谷靖子(1943〜。旧姓浜田。先天性緑内障のため6歳ころ完全失明。東京教育大学附属盲学校を経て、1967年東京女子大学文理学部数理学科入学)が、日本ユニバック株式会社(現日本ユニシス株式会社)にプログラマーとして就職 (1年半後に退社。現在は声楽家として活躍。2002年、CD「わかれ道〜 日本の四季に寄せるノスタルジア〜」をリリース)
 1971年、盲大学生の教科書等の点訳・音訳を主目的に「関西SL(スチューデント・ライブラリー)」発足
 1971年5月、社団法人「障害者雇用促進協会」発足 (→1974年、社団法人「全国心身障害者雇用促進協会」、→1977年3月、「身体障害者雇用促進協会」、→1988年、「日本障害者雇用促進協会」に名称変更、→2003年10月、独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」)
 1971年10月、「国立特殊教育総合研究所」設置
 1971年11月、金治憲(キムチーフン、韓国出身)が、「国際盲人クラブ」を設立 (1995年、社会福祉法人「国際視覚障害者援護協会」となる。2000年までにアジア・アフリカ・南米の 13カ国 43人の視覚障害者を受け入れ、鍼灸等の技術修得を援助。2000年、第37回点字毎日文化賞受賞)
 1971年、第1回日彫展で、葛飾盲学校生徒の作品が特別陳列として展示される(第2回および第3回日彫展でも展示される)
 1971年、フランスの数学者ルイ・アントワーヌ(Louis Antoine)没 (1888〜1971年。29歳のとき第一次世界大戦で失明。位相幾何学を研究。Antoine's necklaceを発見)
 1972年2月、ソウルで、第1回日韓親善盲人タイピングコンテスト開催
 1972年7月、厚生省が、スモンを難病に指定(SMON: subacute myelo-optico-neuropathy 亜急性脊髄視神経障害。時に失明にいたることがある。1955年前後から患者発生、1968〜69年ころ多発、患者数は1万人を越えた。69年9月スモン調査研究協議会設置、椿忠雄教授のキノホルム説を受け70年9月キノホルム剤の販売停止措置。裁判が全国33地裁、8高裁で起こされ、原告数は計7500人以上。1979年9月、国及び製薬企業がその責任を認めて和解、また同年には薬事法の大改正と新法「医薬品副作用被害救済基本法」成立)
 1972年、日本ライトハウスが、世界盲人百科事典編集委員会編『世界盲人百科事典‐』を発行 (この事典の編纂作業は1942年にまでさかのぼる)
 1972年、「日本盲人作家クラブ」結成(毎年同人誌『芽』を発行。1996年第24号で廃刊となる)
 1972年、障害者雇用促進協会が、千葉県で第1回アビリンピック(身体障害者技能競技大会)を開催
 1972年、長谷川貞夫が、6点漢字を提案。1974年12月、汎用コンピュータを使って、6点漢字で書かれた点字文から漢字を含む墨字文を打出す実験を行う。
  [長谷川貞夫:1934〜。幼児期より強度弱視だったが、一般の学校に高校1年まで在学。網膜色素変性症進行のため、1951年東京教育大学附属盲学校高等部に入学。20歳過ぎに全盲となる。在学中の1955年、高等部の点字教科書を求める全点協運動に参加。1958年3月東京教育大学理療科教員養成施設を卒業し、埼玉県立盲学校教諭、66年から東京教育大学付属盲学校(現・筑波大学附属盲学校)教諭。1995年、定年退職。その後も、鉄道の自動乗車券販売機、金融機関のATMのテンキーによる音声化、テレサポート(テレビ電話による視覚障害者遠隔支援)、体表点字など、各種のバリアフリー活動を行う。1986年、漢点字を考案した川上泰一とともに、第23回点字毎日文化賞受賞。2001年、日本ITU賞授賞]
 1972年、 6人の盲幼児が私立の幼稚園に入園(以後、 1970年代半ばから 80年代に、小学校、中学校、高校へと統合教育が拡大していく。1971〜1988年の間に統合教育を受けた盲児は、小学校 67人、中学校 31人、高等学校 25人。ただし、文部省は公認しなかった)
 1972年、アメリカ、フィラデルフィア美術館が「Form in Art」という盲成人のための美術クラスを開始
 1972年、アメリカ、エド・ロバーツらが、バークレーに世界最初の自立生活センター(CIL)を設立 (「ピア・カウンセリング」の方法がとられる)
 1973年2月、国電山手線高田馬場駅で、ヘレンケラー学院生の上野孝司(当時42歳)が、ホームから転落、電車にひかれて死亡。1975年2月、両親が国鉄に対する損害賠償請求を提訴。1979年3月の一審判決では勝訴するが、国鉄側が控訴、結局1985年12月に和解。(この事故と裁判を通じて、全国的に視覚障害者の鉄道利用の安全を求める運動が広がる。)
 1973年3月、法務省が、司法試験の点字受験を認める
 1973年4月、日本ライトハウス職業生活訓練センターが、厚生省から委託を受け、コンピュータープログラマーの養成事業を開始
 1973年5月、広島の被爆者石田明(1928〜2003年。1945年8月6日、爆心地から730mで被爆)が、厚生省が三度にわたり原爆白内障の認定申請を却下したことに対し、その処分の取消を求めて広島地方裁判所に提訴。要医療性が争われ、1976年7月勝訴。 
 1973年9月、藤野高明が、大阪市立盲学校高等部の社会科の教員として本採用となる。
  [藤野高明: 1938年〜。小学 2年のとき、不発弾の暴発で、 2歳下の弟を亡くすとともに、自らも両眼失明と両手切断の障害を負う。二重障害を理由に、地元福岡の盲学校に入学を認められず、以後13年間不就学を余儀なくされる。18歳のころ、ハンセン病者のうちに唇や舌先で点字を読む人がいることを知り、唇による点字触読を習得。20歳で大阪市立盲学校中学部 2年に編入学、高等部普通科を経て通信教育により大学に学ぶ。31歳で大阪で教員採用試験「高校世界史」を点字で受験・合格、33歳で大阪市盲の非常勤講師に、翌年本採用。全視協の中央役員・第4代会長として活躍。1993年第11回鳥居賞受賞。2002年大阪市盲を定年退職、現在大阪府立大学社会福祉学部非常勤講師。『あの夏の朝から』(点字民報社、1978)、『未来につなぐいのち』(クリエイツかもがわ、2007)]
 1973年、楠敏雄(1944〜2014年。2歳で医療過誤で失明。札幌盲学校高等部を卒業後、大阪府立盲学校、京都府立盲学校普通科専攻科を経て、1967年龍谷大学文学部英米文学科に入学、73年同修士課程修了)が、大阪府立天王寺高校英語講師(全盲で初の公立普通高校講師)になる (さらに、全国障害者解放運動連絡会議事務局長・相談役、障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議議長、大阪障害者自立生活協会理事長、DPI日本会議副議長等を歴任し、障害者運動に広く関わる。『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』などがある)
 1973年、国鉄が、中央線でシルバーシート(優先座席)を導入。以後、次第に全国の私鉄各社にも広がる。
 1973年、木村龍平が、第10回点字毎日文化賞受賞
  [木村龍平:1920〜1993年。1938年和歌山県立熊野林業学校卒業、満州国林野局に就職。41年徴兵のため帰国、陸軍工兵隊員として満州に渡る。翌年イペリットガス(毒ガスの一種)の爆発がもとで失明。48年塩原光明寮で三療の資格を取り、和歌山県田辺市で開業、同年紀南盲人福祉協会創設。53年和歌山県盲人協会会長、64年アメリカで開催された世界盲人福祉協議会総会に出席、72年日本盲人会連合副会長、74年日本身体障害者団体連合会理事。他方、俳句・短歌・川柳・随想・紀行文、さらには校歌などの作詞等、多様な文芸活動を行い、地元で句会を主宰、またテープ雑誌『北海ジャーナル』の選者もつとめ、さらに地元の高校の点訳クラブの指導も長年行う。1958年「七夕」が第9回世界盲人文芸コンクール(審査委員長:パール・バック)でグランプリ受賞。77年毎日新聞創刊百年記念論文「日本の選択(一人のための福祉)」で毎日日本研究賞受賞。著書多数]
 1973年、「近畿視覚障害者情報サービス研究競技会」設立(点字図書館とともに公共図書館も参加)
 1973年、エジプトの文学者ターハー・フセイン(1889〜1973年)没
  [3歳で失明。9歳でコーランを暗唱。1902年カイロのアル・アズハル学院に入るが、その教条的学風に反発してエジプト大学(現カイロ大学)に移り、14年にアル・マアッリーの研究でPh.D.の学位を得て卒業。15年フランスに留学、モンペリエ大学で修士号を得、さらにソルボンヌ大学でイブン・ハルドゥーンの研究でPh.D.を得る。モンペリエ大学でスザンヌ・ブレソーと出会い、結婚して19年に帰国、エジプト大学の歴史学の教授となる。26年に「先イスラム期の詩について」を出版するが、その内容についてアル・アズハル大学の関係者やその他の保守主義者から非難され、31年にエジプト大学を解雇される。その後、カイロ・アメリカ大学に着任し、42年には教育大臣の顧問になり、アレクサンドリア大学開学時には初代総長にもなった。1950年には教育大臣に就任、「教育とは我々が呼吸する空気、我々が飲む水のようなものである」という自らのモットーを実践、識字率の向上・一般教育の普及に貢献し、また盲学生を大いに鼓舞した。自伝的作品『日々の書』(29〜39年。邦訳名『わがエジプト――コーランとの日々』)のほか、多くの小説・論文・評論がある。]
 1973年、アメリカ、障害者の教育や職業訓練・就業などについて規定した「リハビリテーション法」(Rehabilitation Act of 1973)成立(施行は1977年) (その504条項は「…単に障害者という理由で、連邦政府からの財政的援助を伴う施策・事業への参加において排除されたり、その利益を享受することを拒否されたり、ないしは差別されてはならない」とする差別禁止条項)
 1973年、アメリカ・オレゴン州で、知的障害を持つ人たちの会合である少女が「わたしは、障害者としてではなく、まず人間として扱われたい」と発言したことがきっかけになって、ピープル・ファーストの運動が始まる
 1974年1月、加藤康昭が「近世日本における盲人の生活と教育に関する社会史的研究」で東京教育大学より教育博士号を授与される
  [加藤康昭: 1929〜2002年。旧制の第一高等学校理科甲類在学中の1948年、敗血症と腎臓炎を併発しそれが原因となって失明。1956年東京教育大学教育学部特殊教育学科入学。1974年、教育学博士、第11回点字毎日文化賞、『日本盲人社会史研究』(未来社)。1980年、茨城大学教育学部障害児教育学科助教授(85年教授)]
 1974年3月、東京都が、一般行政職試験で点字受験を認め、2人採用
 1974年4月、「近畿点字図書館研究協議会」発足 (1996年「近畿視覚障害者情報サービス研究協議会」に改称)
 1974年4月、厚生省が、地域活動促進事業を拡大し、盲人ガイドヘルパー派遣事業を開始
 1974年4月、厚生省が、日常生活用具給付事業開始(盲人用テープレコーダーなどが指定される)
 1974年4月、横浜税関職員馬渡藤雄(1929〜.網膜剥離で失明し、5年半休職・病気休暇)が、労働組合と視覚障害者団体の連携した運動により、復職
 1974年、日本にオプタコンが導入される
 1974年5月、大阪市の長居公園内に、大阪市長居障害者スポーツセンターが開設される(障害者のためのスポーツセンターとしては日本で初)
 1974年6月、国連障害者生活環境専門家会議が、バリアフリーデザイン(建築上障壁のない設計)について報告書をまとめる
 1974年、全日本交通安全協会が視覚障害者安全誘導の研究を開始し、点ブロックと線ブロックを採用
 1974年、日本アイ・ビー・エム(株)が、社会貢献事業の一環として、第1回IBMウェルフェア・セミナーを開催 (以後1992年まで、コンピュータを応用した福祉関連の各種のテーマでほぼ毎年2回セミナーを開催)
 1974年11月、全国社会福祉協議会と厚生省の共催で、「社会福祉施設の近代化機器展」が開催される (その後毎年秋ころ、同様の福祉機器展が開かれる。第2回(1975年)からは「社会福祉機器展」、第13回(1986年)からは「国際保健福祉機器展」(欧米企業も参加)、第19回(1992年)からは保健福祉広報協会と全国社会福祉協議会の主催となり、第23回(1996年)からは「国際福祉機器展」として開催される。)
 1974年、大阪府が、府営大泉公園内に「盲人コーナー」設置
 1975年1月、大阪府八尾市で、未熟児網膜症の2歳の子の母親らが、障害児の一般保育所への受け入れを求めて市役所前で座り込みを開始。この共同保育を求める運動は全国に広がり、東京都立川市、大阪府箕面市・守口市・八尾市などで障害児の受け入れが実現。厚生省も、2月に共同保育補助保育所を全国で18箇所指定。
 1975年1月、日本著作権保護同盟が、文京区立小石川図書館が行っている録音サービスに対し「無許諾録音により著作権法違反」と抗議 (録音については、著作権法37条の 2で、点字図書館など政令で定めた施設が盲人向けの貸出のためにだけ行うことができるとされているため)
 1975年3月、日本オプタコン委員会発足
 1975年3月、笑福亭伯鶴(1957〜.本名 丹羽透。全盲)が、大阪府立盲学校高等部普通科卒業と同時に、六代目笑福亭松鶴に入門。同年5月初舞台。1988年より多彩な異分野のゲストを迎えジョイント。98年、伯鶴の半生をテーマにした『風は誰にも見えない―全盲の落語家の半生』(さとう裕作著、六法出版社)。2008年12月1日、阪急宝塚本線三国駅で電車に巻き込まれ、両足骨折や脳挫傷など重症を負う。2012年6月、高座復帰。
 1975年5月、大阪市立大学が、一般教養科目として「障害者問題論」を開講
 1975年7月、警察庁の盲人用信号施設研究委員会が基本的な考え方をまとめ、音響信号機を電子音による擬音式(ピヨピヨとカッコー)またはオルゴールによるメロディ式(「とうりゃんせ」と「故郷の空」)のどちらかに統一するよう通達
 1975年7月、日本聖書協会が、聖書から「めくら」言葉の追放を決める(日本盲人キリスト伝道協議会の要請に応えたもの)。
 1975年10月、国立国会図書館が、「学術文献録音サービス」を開始 (1981年4月、視覚障害者図書館サービス協力課に改組)
 1975年、6人の視覚障害児が、公立の小学校に入学。
 1975年、視労協(視覚障害者労働問題協議会)発足
 1975年12月、腎疾患などの治療薬クロロキン製剤の服用によるクロロキン網膜症患者らが、国と製薬会社に損害賠償を求める訴訟を起こす(82年2月、東京地裁が国と製薬6社などの過失責任を認め、患者への賠償支払を命じる判決。88年6月、原告と製薬会社はが和解。)
 1975年、CWAJ(College Women's association of Japan: 1949年に留学生支援のため日米の女性たちにより結成)の中に、視覚障がい者との交流の会(VVI)が発足、視覚障害学生のための奨学金をはじめ、英会話や英研受験の支援、ハンズ・オン・アートなどの活動を行う。
 1975年、津軽三味線奏者高橋竹山(1910〜1998年)が、第12回点字毎日文化賞、および第9回吉川英治文化賞受賞
 1975年、ジャズ・トランペット奏者南里文雄没 (1910〜75年。1934年にモダンなディキシーランド・スタイルのホット・ペッパーズを結成。54年に失明するが活動は続行。日本のジャズの発展に大きく貢献)
 1975年、ふきのとう文庫(札幌市)が、布の絵本作りを始める (布の絵本の製作材料セット販売と作り方の本の発行を行って、その普及に努めている。ふきのとう文庫は、病弱児や障害児もふくめすべての子供に本の喜びを知ってほしいと、1970年に設立。病院小児科や施設での文庫作り、郵送や訪問での家庭配本、拡大写本の製作などもしている。1982年「ふきのとう子ども文庫」開館)
 1975年、第1回「極東南太平洋身体障害者スポーツ大会」(Far Eastern and South Pacific Games for the disabled: FESPIC)が、日本で開催される
 1975年、アメリカ、「障害を持つ個人教育法」(Individuals with Disables Education Act: IDEA)制定
 1975年、ドイツ、「障害者社会保険法」
 1975年、フランス、「障害者福祉基本法」
 1975年6月、第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催(大分市・別府市。参加者18か国、973人)
 1975年12月、国連の第30回総会で、「障害者の権利宣言」(Declaration on the Rights of Disabled Persons)採択
 1975年、WCWBのアジア地区委員会の主催(WCWBがWBUに統合されてからは日本ライトハウスが主管)で、アジアにおける盲人福祉・教育・失明防止等に貢献した人を対象に、岩橋武夫賞創設 (2003年度は、カンボジア盲人協会代表のボーン・マオ)
 1975年、アメリカ、ドーラン(Stanley Doran: 1921-1999. 1947年、オハイオ州コロンバスに盲導犬訓練所を開設)等が中心となり、中部オハイオ・ラジオ・リーディング・サービス(CORRS)を設立し、視覚障害者向けのラジオ放送を開始(その後、全米各地に視覚障害者向けの地域ラジオ放送局が設けられる)
 1976年2月、東京都が、職員採用試験で点字受験を認める
 1976年2月、スウェーデンで、第1回冬期パラリンピック開催
 1976年5月、身体障害者雇用促進法の改正(身体障害者雇用制度の強化、とくに雇用率未達成事業所から〈身体障害者納付金〉を徴収する制度。施行は10月1日)
 1976年7月、国鉄大阪環状線福島駅でホームから転落、両足切断(73年)の大原さんが、国鉄の責任を問い提訴
 1976年7月、奈良県で、視覚障害者の外出支援を主な目的に「歯車の会」発足(80年「盲人手引き 110番」開始) (2006年解散)
 1976年8月、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)発足
 1976年9月、社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
 1976年12月、国連総会で1981年を国際障害者年とすることを決定
 1976年、大阪地下鉄アクセス運動
 1976年、日本点字図書館が、録音図書のカセットテープ化を開始
 1976年、京都ライトハウスが、視覚障害乳幼児母子通園施設「あいあい教室」を開設
 1976年、山田流箏曲家久本玄智(1903〜1976年)没 (5歳で失明。9歳の時東京盲学校に入学、初代萩岡松韻に師事。 洋楽にも関心を持ち、同校師範科音楽科でピアノと声楽を船橋栄吉(1889〜1932年。ドイツ留学後東京音楽学校教授、バリトン歌手)にまなぶ。卒業後同校教諭、1951年東京教育大学教育学部特設教員養成部教授。1938年初心者用の独習書『久本箏教則本百番』を点字で出版。「飛躍」「三段の調」など500曲にも及ぶ作品を発表。一門の会として常盤会主宰。)
 1976年、韓国、カン・ヨンウ(姜永祐。1944〜2012年。15歳で事故のため失明。盲学校卒業後、68年延世大学教育学部入学、72年同大卒業後ピッツバーグ大学大学院に留学)が、ピッツバーグ大学で博士号(教育専攻哲学博士学位)取得(韓国で初の障害者の博士号)
 1977年3月、石川准が、点字受験で東京大学文学部社会学科に合格(全盲初の東大入学)
  [石川准:1956〜。高校1年のとき網膜剥離で失明。1981年3月東京大学文学部社会学研究科卒業後、同修士課程・博士課程を経て、89年静岡県立大学国際関係学部専任講師、94年同助教授、97年同教授。1995年、東京大学より社会学博士号。社会学分野ではアイデンティティ・ポリティックス論、障害学、感情社会学、多文化共生論など、支援工学分野では自動点訳ソフト、スクリーンリーダー、点字携帯情報端末、GPS歩行支援システムなど、幅広い分野で業績をあげている。また、全国視覚障害者情報提供施設協会理事長、内閣府障害者政策委員会委員長など多くの役職を勤める。著書に『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』など。]
 1977年4月、盲導犬使用者が初めて国会に入り、傍聴を許される
 1977年、「弱視者問題研究会」発足
 1977年、「全国視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)」発足
 1977年、国鉄(現JR)と私鉄の電車に、盲導犬同伴での乗車が認められる (翌年、バスやタクシーへの乗車も認められる)
 1977年、折り紙作家の加瀬三郎と報道カメラマンの田島栄次が「折り紙外交の会」を結成、ベトナム難民の子供たちに折紙を教える。1981年には国連本部やアメリカ各地の福祉施設で子供たちに折り紙を教え、82年にはキューバで盲人や子供たちに折り紙を教えて交流するなど、以後これまでに約 50カ国で折り紙外交を展開。
  [加瀬三郎: 1926〜2008。先天性の視神経萎縮症のため、じょじょに視力が低下し12、3歳ころ失明。盲学校で三療の視覚を取り開業、そのかたわら 29歳からほぼ独学で折り紙を始める。折り紙の種類は約千種。1976年、第13回点字毎日文化賞受賞。日盲連など視覚障害団体の活動にも積極的で、2006年には第2回村谷昌弘福祉賞受賞。2007年には名誉都民]
 1977年、イタリア、義務教育段階では、障害が重篤な場合以外は障害のある児童は通常の教育を受けることが義務づけられる(法律第517号)
 1977年、アメリカのジャズ・サックス奏者カーク(Rahsaan Roland Kirk: 1935〜77年)没 (2歳のとき医療ミスで失明。オハイオ州立盲学校で教育を受ける。同時に3種の楽器を演奏。70年代には「バイブレーション・ソサイエティー」というバンドを結成し、ロック、リズム・アンド・ブルースなどの要素を取り入れながら、伝統的なジャズの味わいも色濃く残した独自の境地に到達)
 1978年2月、運輸省が、視覚障害者が盲導犬と一緒にバスに乗るさいの制限を大幅に緩和する方針を決定、3月全国の陸運局と日本バス協会に通知
 1978年4月、日本図書館協会の中に「障害者サービス委員会」設置
 1978年5月、青森放送が、企画から取材・放送まで視覚障害者担当のラジオ番組「RAB耳の新聞」開始
 1978年10月、篠田順一郎や池田敏郎らが中心となって、日本盲人経営者クラブ結成(会長 篠田順一郎)
 1978年12月、道路交通法が改正・施行され、その中で「目が見えない者は、道路を通行するときは、政令で定めるつえを携え、又は政令で定める盲導犬を連れていなければならない。」と規定される
 1978年、視覚障害者のクラシック音楽家の団体「新星'78」発足
 1978年、長岡瞽女の小林ハル(1900〜2005年)が、無形文化財伝承者(人間国宝)に指定される(翌年には、黄綬褒章授与) (白内障で失明。5歳で瞽女に弟子入り、以後20年間年季奉公と修行の日々を送る。26歳で独立し、1973年まで瞽女の活動を続ける。2002年第36回吉川英治文化賞受賞)
 1978年、どらねこ工房が、大活字本『星の王子さま』を刊行 (以後、1981年に大活字の英和辞典『KENKYUSHA'S MY ENGLISH DICTIONARY』、1989年に大活字の国語辞典『大活字版新明解国語辞典』を刊行)
 1978年、レイモンド・カーツワイル(電子ピアノなどで有名なアメリカの発明家)が、英語の印刷物をガラス面の上に乗せてその内容を合成音で読み上げる機器「カーツワイル朗読機」を発表(さらに、1988年には「カーツワイル・パーソナルリーダー」を発表)
 1978年、イギリス、マリー・ウォーノック(Mary Warnock)を議長とする障害児・者の教育調査委員会の報告書「ウォーノック報告」が提出される (障害カテゴリーを廃止し、「特別な教育的ニーズ」という概念を提唱。1981年の教育法改正で公式に採用される)
 1978年、アメリカのジャズ・ピアノ奏者トリスターノ(通称Lennie Tristano; 本名Leonardo Joseph Tristano: 1919〜1978年)没 (生まれつき弱視で9歳ごろ失明。幼児期からいろいろな楽器を習い覚える。イリノイ州立盲学校を経て、アメリカン・コンサーバトリー・オブ・ミュージックで学ぶ。12歳でピアニストとして仕事をし、20代まではディキシーバンドやルンババンドもする。1946年にニューヨークに移り、独自の音楽理論を構築し、ギター奏者ビリー・バウアー、アルト・サックス奏者リー・コニッツ、テナー・サックス奏者ウォーン・マーシュらを指導して、いわゆる「トリスターノ楽派」を形成。その音楽はクール・ジャズと呼ばれた。
 1979年1月、第1回国公立大学共通一次試験で、点字による試験実施
 1979年2月、日本ライトハウスで、「ソニックガイド」(ニュージーランドの Leslie Kay が開発した、超音波を利用した歩行補助具)の訓練士の養成講習会が開かれる
 1979年4月、養護学校の義務制実施
 1979年6月、西武美術館が、「手で見る展覧会」開催
 1979年7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設(国立身体障害センター、国立東京視力障害センター国立聴力言語障害センターを統合して発足〕
 1979年12月、民法第11条の準禁治産者の規定から、盲、聾者が削除される
 1979年、塩屋賢一により、財団法人東京盲導犬協会設立(1989年、アイメイト協会に改称)
 1979年、「全国盲重複障害者福祉施設研究協議会」発足
 1979年、長尾榮一が、血行と経穴・経絡の関係についての研究(「皮下血行動態と経路経穴現象」)で東大医学部より医学博士号 (全盲で日本初の医学博士号)
  [長尾榮一:1931〜2012年。4歳のとき中耳炎から敗血症になり失明(右耳も強度難聴)。1937年東京盲学校幼稚部。1951年同校の理療科教員。1953年早稲田大学第2文学部英文科卒。1985年筑波大学講師、90年助教授、93年教授。94年教授退官後も、臨床家として鍼治療を続けながら、盲人史の研究や彫刻の鑑賞などを行う。2008年、第2回塙保己一賞受賞。著書に『鍼灸按摩史論考』『医学史』『漢方概論』など]
 1979年、野村茂樹(東京大学在学中に失明、弱視)が司法試験に合格(拡大読書器を使用)

◆1980年代
 1980年、WHOが、「国際障害分類」(ICIDH: International Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps)を発表
 1980年4月、障害当事者、施設関係者、専門職、研究者等の100を超える団体により、「国際障害者年日本推進協議会」が設立される。1993年4月、「日本障害者協議会(JD)」に改称
 1980年5月、神奈川県視覚障害者生活技術研究協議会発足
 1980年、大阪市立盲学校生が、ロックバンド「シャンテ」結成(リーダーはボーカリスト熊野伸一(全盲)。1993年から聴覚障害者にも音楽を楽しんでもらうために日本初の手話ボーカルを取り入れる)た。年間ステージ数が270に及んだ年もあったが、有名になることと反比例して、熊野さんは追い詰められていった。
 1980年、松本油脂製薬株式会社とミノルタ株式会社が“立体コピーシステム”を共同開発
 1980年11月、日本視覚障害理科教育研究会(JASEB)発足 (翌年から毎年夏に大会を開き、年 1回機関誌「JASEB NEWS LETTER」を発行。視覚障害児に適した実験や観察の方法に関する事例研究等)
 1980年11月、厚生省国際障害者年推進本部が、12月9日を「障害者の日」と定める(1975年12月9日の国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されたことを記念したもの)
 1980年12月、身体障害者雇用促進法の一部改正(身体障害者雇用納付金制度に基づく助成金の拡充)
 1980年、本間一夫『指と耳で読む』(岩波書店)
 1980年、西村陽平(1947〜。1976〜1998年千葉県立千葉盲学校教諭)が、このころから盲児に粘土による造形を指導し始める (1998年千葉盲学校退職後も、触覚を生かした創造的な造形表現のワークショップを国内だけでなく、ネパールのアートセンターやアメリカの大学で行う。現在日本女子大学児童学科教授。著書に『見たことないものつくろう』偕成社、『掌の中の宇宙』共著・偕成社、『手で見るかたち』白水社)
 1980年、地図作家の野村光迢(弱視)の監修で、「弱視者用地図製作研究会」が弱視者用の4色刷りの日本地図帳を製作 (これまでに約20種の地図を製作。2007年には平成の大合併に対応した47都道府県および日本全図の計48枚の白地図を製作)
 1980年、竜鉄也(本名:田村鉄之助。1936〜2010年)が、トリオレコードより「奥飛騨慕情」発売 (視力が衰え、中学2年のとき岐阜盲学校入学。26歳のとき完全失明。高山で治療院を開業していたが、音楽の勉強を始め演歌師として活動。1975年郡上八幡に移り演歌酒場を始める。第23回日本レコード大賞・ロングセラー賞など受賞。著書に『手さぐりの旅路』)
 1980年、粟津キヨと東京女子大学の同級生たちが「失明女子を考える会」を結成。キヨの『斎藤百合の生涯』執筆に協力などする。86年に同書刊行後、その印税を基に盲女子大学生に奨学金の給付活動を行う。(同会は2000年に解散)
 1980年、アルゼンチンの作家・詩人ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges: 1899〜1986)、セルバンテス賞受賞
  [本名:ホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス=アセベード。英語とスペイン語が常用される家庭環境で両言語を母国語として育つ。近視だったが、早くから豊富な父の蔵書に親しみ、また執筆もする。家族とともに1914年スイス、さらに19年にスペインに移住、21年帰郷。1937年、ブエノスアイレス市立図書館に就職。46年、ペロン軍事政権成立とともに、公務員を辞職。1955年、新政権により国立図書館館長に任命される。このころには、読み書きが困難なほど視力が低下する。翌年ブエノスアイレス大学英米文学教授に就任。主に母が、99歳で亡くなる少し前まで、代筆と秘書役をつとめる。1967年、エルサ・アステーテ=ミジャンと結婚(70年に離婚)。1986年4月、マリア・コダマと結婚。1979年と84年に来日。『伝奇集』『エル・アレフ(不死の人)』『永遠の歴史』『創造者』『他者と自身』『幽冥礼讃』『群虎黄金』『ブロディーの報告書』『砂の本』『ボルヘス講演集』など多数]
 1981年、国際障害者年
 1981年、障害者インターナショナル(DPI)結成
 1981年、ダスキン・ミスタードーナツが、「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学派遣事業」を開始。同年9月、この事業実施のため「財団法人広げよう愛の輪運動基金」発足 (1991年より「ダスキン障害者リーダー海外研修派遣事業」として継承されている)
 1981年、診療報酬点数表の改定で、マッサージ項目が削除される(これを機に、病院マッサージ士が急減)
 1981年、国立国会図書館が、「点字図書・録音図書全国総合目録」の刊行開始 (年2回。1986年からデータベース化。1995年からCD-ROM版も刊行)
 1981年、情報処理技術者認定試験の点字による誌験が始まる (翌年、長岡英司(1951年〜。立教大大学院理学研究科修士課程修了。国立職業リハビリテーションセンター指導員、筑波技術短大助教授などを経て、2005年から筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター教授)が初合格)
 1981年、桜井政太郎(1937〜2016年。緑内障のため 10歳ころ失明。1961年東京教育大学教育学部特設教員養成部卒業後、岩手県立盲学校理療科教諭)が、盛岡市の自宅に視覚障害者のための私設の「手で見る博物館」を開設。生物標本や化石、レプリカ、太陽系や建築物の模型等、現在3000点以上を展示し、無料で開放している。(2001年第38回点字毎日文化賞、2007年第41回吉川英治文化賞受賞) (2011年3月に閉館。2011年7月、盛岡市の別の場所に「桜井記念視覚障がい者のための手でみる博物館」として開館、館長:川又若菜)
 1981年、パリで、国際視覚障害スポーツ協会(IBSA: International Blind Sports Association)設立。1998年にスペインのマドリードで第1回世界選手権大会を、2003年カナダのケベックで第2回大会、2007年ブラジルのサンパウロで第3回大会、2011年トルコのアンタルヤで第4回大会を開催
 1981年1月、神奈川県が、公共機関にヘルスキーパーを採用
 1981年3月、厚生省が、全国の旅館、レストランに「盲導犬の出入                 りを認めるように」との通知を出す
 1981年5月、大阪で「全国視覚障害教師の会」(略称JVT)が結成される (同会は1987年『心が見えてくる』、2007年10月、同会が「教壇に立つ視覚障害者たち』刊行)
 1981年5月、「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」公布(つんぼ・おし・盲を改める)
 1981年8月、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」結成
 1981年10月、竹下義樹(1951〜。14歳のとき外傷性網膜剥離で失明。75年龍谷大学法学部卒)が、点字受験で初の司法試験合格 (1984年京都弁護士会に所属、京都法律事務所に入所。94年竹下法律事務所を開所。2012年、日本盲人会連合会長。2013年、日本盲人福祉委員会理事長)
 1981年10月、東京で第1回国際アビリンピックが開催される (1991年の第3回大会(香港)からは、「職業技能競技」に加え「生活余暇技能競技」が加わる)
 1982年、大阪府教委が、府立高校の入試に点字受験を認め、3月、府立大和川高校に1人合格
 1982年2月、クロロキン薬害訴訟で、東京地裁が国と製薬6社などの過失責任を認め、患者への賠償支払を命じる判決を下す
 1982年3月、国際障害者年推進本部が「障害者対策に関する長期計画」を定める (1993年3月に「障害者対策に関する新長期計画」策定)
 1982年4月、最高裁が、盲導犬が大法廷の傍聴席に入ることを認める
 1982年、東京ヘレン・ケラー協会が、「海外盲人援護事業事務局」を設立(事務局長:井口淳)。1985年から、ネパールの視覚障害児・者への援助を始める(点字出版所開設と技術指導、CBR事業、ネパールスタディツアーなど)。 (井口淳(1924〜2009年。毎日新聞『エコノミスト」在職中角膜実質炎がもとで30代後半に失明。点字毎日を経て東京ヘレン・ケラー協会に出向)は1994年に外務大臣賞と第6回毎日国際交流賞、96年にネパール王章受賞)
 1982年、関西で触る絵本を製作しているグループが「さわる絵本連絡協議会・大阪」を結成 (2004年現在21グループ)
 1982年12月、第37回国連総会で、「障害者に関する世界行動計画」及び「障害者に関する世界行動計画の実施」採択、「国連障害者の十年」(1983年〜1992年)の宣言
 1982年、心身障害者家庭奉仕員(ホームヘルパー)派遣制度発足。1988年6月、家庭奉仕員派遣制度の中に「ガイドヘルパーを含む」こととされ、ガイドヘルパー派遣制度は国の補助事業として各自治体の事業となる。
 1982年、カリフォルニア州リッチモンドで、フローレンス・ルーディンス・カッツとエリアス・カッツ夫妻により、アメリカ障害者芸術協会(NIAD: National Institute Art and Disabilities)発足
 1982年、ソ連の盲聾の心理学者・教育者であるオリガ・イワーノヴな・スコロホードワ、没
  [O.И Скороходова:1911〜1982年。8歳の時髄膜炎に罹り、視覚と聴覚を失う(右耳の聴力はわずかに残った)。1922年オデッサ盲学校に入学(右耳の聴力もなくなる)。25年ハリコフ・クリニック学校に入学(ここでイワン・アファナシェヴィチ・サカリャンスキー(1889〜1960)先生と出会う。初めは指文字を、その後点字も使うようになる)。20歳過ぎから詩作を始め、ゴーリキーとの文通も始まる。1944年、欠陥学研究所の研究員となり、モスクワに移る。1961年、教育学修士の学位を得る。63年、ザゴールスク子供の家を開設。著書に、『私はどのようにして周囲の世界を知覚するか』(1947年)、『私はどのようにして周囲の世界を知覚し、表象するか』(1954年)、『私はどのようにして周囲の世界を知覚し、表象し、理解するか』(1972年)などがある]
 1983〜92年、「国連障害者の10年」
 1983年1月、東京ヘレン・ケラー協会が、月刊誌「点字サイエンス」創刊(1999年9月号で休刊)
 1983年3月、運輸省が、「公共交通ターミナルにおける身体障害者用施設整備ガイドライン」を策定
 1983年4月、労働省が、障害者雇用対策室を設置し、全盲の職員を採用
 1983年4月、大阪YWCA千里センターでの点訳講座修了生が中心になって、「点字子ども図書室」を設け、点訳した児童書の全国向け貸出しを開始 (蔵書数は2010年現在約2500タイトル)
 1983年8月、日本児童教育振興財団が、手で見る絵本「テルミ」の製作・発行を開始
 1983年12月、斉藤正夫(1948〜。先天性の弱視だったが、11歳ころ全盲になる。石川県立盲学校卒業後マッサージ師として働く)が、NEC PC-6001の画面の音声読み上げを、モールス符号方式で実現 (翌年NEC PC-8800シリーズ用画面読み上げソフト、1986年NEC PC-9800シリーズBASIC用画面読み上げソフトVDM98、1989年NEC PC-9800シリーズMS-DOS用画面読み上げソフトVDM100を開発。1991年第28回点字毎日文化賞、1996年情報処理学会よりベストオーサー賞、同年第14回鳥居賞)
 1983年、村越化石が、第17回蛇笏賞受賞
  [村越化石: 1922〜2014年。1938年、ハンセン病発病のため旧制中学を中退。1941年、群馬県草津の栗生楽泉園に入園。1949年、大野林火句集「冬雁」に感動、「濱」に入会、51年第5回「濱」賞を受賞。1958年、第4回角川俳句賞を受賞。62年、処女句集「独眼」を発刊。70年、完全失明。74年、第2句集「山国抄」を出し、翌年第14回俳人協会賞受賞。1979年、俳人協会刊「自註句集・村越化石集」を編集。82年、第3句集「端座」を発刊し、翌年第17回蛇笏賞を受賞。88年、第4句集「筒鳥」を刊行。89年、第4回詩歌文学館賞、90年、第27回点字毎日文化賞受賞、91年、紫綬褒章を受賞。]
 1984年1月、高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」を、NEC・PC−8801対応で発売
 1984年、この年から、共通一次試験で、点字による出題のほか、拡大文字による出題も行われるようになる
 1984年4月、村山亜土・治江夫妻が東京渋谷に「手で見るギャラリー・TOM」を開設
 1984年4月、日本盲人職能開発センターが、エポックライターおんくん(六点漢字直接フルキーボード入力方式)を完成
 1984年6月、「視覚障害者食生活改善協会」設立(録音・点字・大活字やテレホンサービスによる食情報の提供などを行なっている。85年4月より毎月、「声の食生活情報」をカセットテープ版で提供、現在はデイジー版CDのほかインターネットでも直接聞くことができる。1996年6月、農林水産省の認可を受け財団法人化。2000年6月、他の障害者や高齢者にも対象を拡げて、「すこやか食生活協会」に改称)
 1984年7月、「日本盲人マラソン協会」発足
 1984年9月、国家公務員採用試験に拡大読書器の持ち込みが認められる
 1984年9月、全日本視覚障害者協議会を事務局として、「手をつなごう 全ての視覚障害者全国集会」開催(以後毎年行われている)
 1984年11月、日本銀行が、盲人用識別マーク付紙幣の発行を開始
 1984年12月、民謡歌手・函青くにこ(1901〜1984年。青森県出身。本名は小野エツ)没。22歳ころ失明し、レコードで民謡をおぼえる。1926年「江差追分」のレコードをだす。31年「塩釜小原節」が大ヒット。その後、一座を結成し全国をめぐるが、声帯をいためて55年引退。
 1984年12月、箏曲家・作曲家の山川園松没 (1909〜1984年、本名は淳義。東京盲学校に入学し、山田流箏曲を初代萩岡松韻、千布豊勢に、作曲法を田辺尚雄に学ぶ。1930年卒業後、春和会を主宰。宮城賞、芸術祭奨励賞を受賞。1981年第18回点字毎日文化賞。作品に「即興幻想曲」「木管楽器と邦楽器の為の組曲―埋れた世界」など)
 1984年、東京大学の坂村健教授が、 TRON プロジェクトを提唱 (TRON: The Real-time Operating system Nucleus)
 1984年11月、サウジアラビアで、世界盲人連合(WBU: World Blind Union)結成大会 (盲人自身の(of)団体であるIFBと、盲人のための(for)援護機関であるWCWBが統合)
 1984年、スティービー・ワンダー(Stevie Wonder: 1950〜。アフリカ系アメリカ人の盲目のピョピュラー歌手・ピアノ奏者・歌曲作家。未熟児網膜症で失明)が、「心の愛」でアカデミー主題歌賞受賞
 1985年4月、名古屋簡易裁判所が、1982年1月に交通事故のさい主人を守ろうとして左前足を失った盲導犬サーブの件について、83年4月13日の衆議院交通安全対策特別委員会で示された「盲導犬は盲人の身体の一部」であり自動車損害賠償保険法にもとづく保険の賠償の対象になるという政府見解に基づき、調停を出す。
 1985年、歌人・山崎方代(1914〜1985年)没。1940年出征し、南方で傷夷軍人となる(右眼0、左眼0.01)。1955年第一歌集「方代」、死後「山崎方代全歌集」
 1985年、点友会(1962年から京都を中心に活動しているボランティアグループ)が、サーモフォームにより、世界地図や日本地図を製作・頒布、数年ごとに改訂している
 1985年、寺西勇二(1932〜、名古屋市生まれ。強度の弱視。テストケースとして無試験で南山大学に進学。1957〜58年、フルブライト留学生として、パーキンス盲学校のボストン大特殊教育教員養成機関に留学)が、天白ブレイルニュースを組織し、月刊の英語点字誌「The Japan Braille News」を創刊。最盛期には、国内120部、海外(50カ国)330部を無償配布。2004年6月号で廃刊。
 1985年、全国から上京した視覚障害者の東京都内および近郊での歩行介助を行うことを目的に、「アカンパニーグループ」発足(代表 和波その子。2011年9月 閉会)
 1985年、真川精太編著『日本の盲人伝説とものがたり』が、視覚障害者文化振興協会より出版される (真川氏は中途失明の教師で、1961年、盲児の作文集『虹の橋』、1963年、盲児・親・教師の手記『この声に』、また1966年には、大阪で盲精白児を守る会を結成)
 1985年8月、建設省が、「視覚障害者誘導用ブロック設置指針について」を通達(道路における視覚障害者誘導用ブロックの形状設置方法について定めた)
 1985年8月、東京と大阪で、第1回日米障害者協議会開催
 1985年12月、東京で、第1回全国盲人写真展開催(立体コピーとともに展示。その後毎年開催)
 1985年、ベンクト・リンドクフィスト(Bengt Lindqvist: スウェーデン。10代で失明)が、パルメ政権の社会問題担当省に就任(〜1991年)
 1986年3月、日本視覚障害者柔道連盟設立 (この年より毎年11月、全日本視覚障害者柔道大会を講道館で開催している)
 1986年3月、DPI日本会議発足
 1986年4月、国民年金法の改正(障害基礎年金制度の創設)
 1986年4月、東京、神奈川、埼玉、大阪で4人が地域の普通小学校へ入学。また中学では、統合教育を受けていた10人の内8人が地域の普通中学校へ入学。さらに、東京と神奈川で各2人、大阪で1人の計5人が普通高校へ進学。
 1986年5月、粟津キヨ著『光に向って咲け−斎藤百合の生涯』(岩波書店)
 1986年9月、大阪を中心に、「地域の学校で学ぶ視覚障害児(者)の点字教科書等の保障を求める会」結成
 1986年10月、視覚障害者・聴覚障害者対象の3年制の「筑波技術短期大学」が開学 (2005年10月、4年制の「筑波技術大学」となる。2010年、大学院新設)
 1986年11月、日本盲人会連合が、「按摩・マッサージ・指圧の保険事業導入を要望する請願」を衆参両院に行う。
 1986年、アメリカ、リハビリテーション法改正(第508条「電子情報技術」が追加。ただし、罰則規定はない)
 1986年、アメリカ、レイ・チャールズ(Ray Charles: 1932〜2004年)が、アメリカの「ロックの殿堂」入り (ジョージア州アルバニーの貧しい黒人家庭に生まれる。7歳ころ緑内障で失明。フロリダ州のセント・オーガスティン盲学校で点字楽譜、ピアノやクラリネットを学ぶ。49年の「コンフェッション・ブルース」でデビュー。教会音楽のゴスペルと黒人のルーツ音楽のブルースを土台にした独自な歌唱法を発展させ、「ソウル・ミュージック」のスタイルを確立。グラミー賞を12回受賞)
 1986年、アメリカ、ブルースのハーモニカ奏者ソニー・テリー(Sonny Terry: 1911〜1986年)没 (16歳で怪我のため失明するが、父親から習っていたハーモニカでブルースミュージシャンとしての道を歩む。ハーモニカの様々な可能性をひろげ、長年ギタリストのブラウニー・マギー(Brownie McGhee)とコンビで活動)
 1986年、スウェーデン、統合教育の進展に伴い、国立トムテボーダ盲学校(視覚障害のみを対象)閉校 (2001年には、重複障害対象の国立イエケスコーラン盲学校も閉校。ともにリソースセンターとして、地域校に在籍する視覚障害児の教育支援を行う)
 1987年1月、大阪府が、庁舎内に「マッサージ施術所」を開所 (この年、1月に京都の近鉄百貨店、7月に大阪の阪急百貨店と近鉄がマッサージ師を採用)
 1987年5月、社会福祉士及び介護福祉士法公布
 1987年、国立大学入試委員長から各国立大学長宛に、入学者選抜に際しての色覚障害者の取り扱いについて「緩和撤廃の方向にいく旨」の依頼文が出される (前年の調査では、色覚障害者の入学を制限しているのは、国立大学49%、私立大学7%だった。国立大学入試での色覚による制限が全廃されるのは1993年)
 1987年、大阪で、視覚障害者と共に野山を楽しむ会「HCかざぐるま」発足
 1987年6月、身体障害者雇用促進法が改定され、「障害者雇用の促進等に関する法律」と改称 (精神障害者にも対象範囲を拡大、法定雇用率に知的障害者を含む)
 1987年7月、高橋實が、盲学生のための点字図書の提供や卒業後の職域確保などを目的に、「盲学生情報センター」を開設。1994年「視覚障害支援総合センター」えと発展、96年社会福祉法人化。
  [高橋實: 1931〜。北海道雨竜郡妹背牛町の農家に生まれる。4歳で緑内障のため失明。地域の小学校に1年通うが、その後は旭川盲学校。盲学校の三療教育一辺倒に反発して一時不登校になるが、1950年に理解のあった岩手県立盲学校に移り、54年同校の高等部普通科を卒業し、日本大学進学、58年卒業。1960年に毎日新聞社に入社、点字毎日編集部で活躍するほか、「視覚障害者雇用促進連絡会」を組織するなどして、司法試験、公務員試験、教員採用試験などの門戸開放に貢献。1998年第32回吉川英治文化賞、2001年第19回鳥居篤治郎賞]
 1987年、毎日新聞大阪社会事業団主催、点字毎日と日本ライトハウス盲人情報センターの共催で、第1回専門点訳講習会が開催される(以後毎年開催。1991年からは音訳講習会も開催される)
 1988年4月、JBS日本福祉放送が、視覚障害者向け専門放送を開始
 1988年5月、岡山県の長島と本土との間に、邑久長島大橋が開通(国立療養所邑久光明園と長島愛生園が置かれ、1930年代以降長くハンセン病隔離の島とされてきた長島と、対岸の虫明の間の30メートルの水路を結ぶ)
 1988年、NIFTY-Serveが、「障害者フォーラム」を開設
 1988年6月、「重度障害者特別雇用管理助成金制度」開始(職場での視覚障害者等の介助者の人件費の4分の3を3年間を限度に助成。1992年からは助成期間が10年に延長)
 1988年9月、第16回リハビリテーション世界会議が東京で開催される。これを機に、「盲人と造形芸術」をテーマに、五つのイベントが同時に開催される(京王プラザホテルで国立ポンピドー芸術文化センター「子どものアトリエ」・手で見るギャラリーTOM共同企画の「瞑想のための球体」、有楽町朝日ホールで国際シンポジウム「美と触覚」、有楽町アート・フォーラムで「手で見る美術展」、目黒区美術館区民ギャラリーで「アメリカ盲人芸術家の造形展」、手で見るギャラリーTOMで「'88ぼくたちの作ったもの展」)。また関西でも、日本ライトハウスで海外の専門家も迎えて「美と触覚」をテーマに'88盲人福祉展が、尼崎市つかしんホールで「手で見る美術展」が開催される。
 1988年11月、日本IBMが、点訳データのネットワーク「IBMてんやく広場」の事業開始 (1993年「てんやく広場」と改名。1998年7月に全国視覚障害者情報提供施設協議会に移管されて「ないーぶネット」へ発展。2001年インターネット化。2006年末現在、視覚障害利用者約4700人、点訳データタイトル数約82,400)
 1988年、「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」の一部改正 (3科とも高卒3年、国家試験・厚生大臣免許となる。施行は1990年度)
 1988年、オーストラリア、「アクセスと活動・設計に関するオーストラリア基準」を作成
 1989年、「盲学校、聾学校及び養護学校幼稚部教育要領」告示(施行は1990年度から。2000年改訂)
 1989年2月、望月優(1958〜、全盲。静岡県立静岡盲学校、東京教育大学附属盲学校高等部を経て、77年麗澤大学ドイツ語学科入学、82年麗澤高等学校非常勤講師(英語)。視覚障害者の読書権運動にも注力し、82年より視覚障害者読書権保障協議会代表になる)が、視覚障害者向けの機器・ソフトの開発・販売を行う「株式会社アメディア」設立 (2013年12月、中国・北京に支社設立)
 1989年4月、「東京光の家」で生活する9人の盲重複障害者が「正秋(まさあき)バンド」を結成。(1997年にCD「正秋バンド」発売。99年9月にはスウェーデンで公演。2013年2月、ハワイで公演。2014年「光バンド」と改名、メンバーが11人に))
 1989年4月、名古屋市美術館が、「触れる喜び−−手で見る彫刻展」を開催。以後隔年で、主に視覚障害者の便宜を考慮した展覧会を実施
 1989年7月、参議院選挙で、堀利和(1950〜。全盲)が社会党より当選 (1998年7月の参院選で、民主党より2回目の当選。2001年10月には参議院環境委員長に就任。2004年引退)
 1989年7月、横浜で、指で見る地図国際シンボジウムが開催される
 1989年6月、ワシントンで、「ベリー・スペシャル・アーツ」(障害者芸術祭、とっておきの芸術祭)世界大会開催(「ベリー・スペシャル・アーツ」は、1974年に故ケネディ大統領の末娘ジーン・ケネディ・スミスによって設立された、障害を持つ人々の芸術活動を支援する世界的団体)
 1989年9月、「公共図書館で働く視覚障害職員の会(なごや会)」発足(代表:田中章治)
 1989年、「日本福祉文化学会」設立
 1989年、エムナマエ(本名:生江雅則。1948〜)が、児童文芸新人賞受賞 (1970年慶応義塾大学在学中よりイラストレーターとしてデビュー。重傷の糖尿病のため86年失明、同時に人工透析導入、作家に転身。90年イラストレーターとして復活、各都市で個展開催。92年サンリオ美術賞、98年ニューヨークで個展)
 1989年、兵庫県立近代美術館(現兵庫県立美術館)がこの年以降毎年「美術の中のかたち」展を開催
 1989年、縄文笛毅(1967〜。本名・柴田毅)が、自作の土笛に「縄文笛」と名付けて演奏活動を始める(先天性の弱視で、幼少のころから笛に親しみ、昭和音楽大学でフルートを専攻。在学中の1988年、インドを旅行中重い病気になり視力もかなり失う。92年より、戸村正己製作・復元による「縄文の土笛」の演奏を始める。これまでに各地の遺跡や博物館・能楽堂などで演奏している。縄文笛のほか、路上でのふるーと演奏や老人ホームでの出前ふるーと演奏などもしている)
 1989年、韓国、「障害者福祉法」
 1989年、国際盲導犬学校連盟が4月の最終水曜日を「国際盲導犬の日」と定める
 1989年、ドイツのアンドレアス・ハイネッケ(Andreas Heinecke。全盲)が、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(日常生活のさまざまな環境を織り込んだまっくらな空間を、聴覚や触覚など視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の展覧会。視覚障害者がガイドする)を提案。同年10月デュッセルドルフで第1回開催。以後、2004年までにヨーロッパ中心に17カ国約100都市で開催。ドイツでは、2000年からハンブルクで常設開催され、約40人の視覚障害者の常用雇用を実現。日本では1999年11月東京で開催され、その後毎年開かれている。2002年11月には、継続的開催を目指してNPO法人「ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン」発足(代表:金井真介。2009年3月に東京・外苑前に常設、2013年4月に大阪・梅北のナレッジキャピタルに常設、2017年8月東京・外苑前の常設は閉鎖)
 1989年、イギリス、アリソン・オールドランドにより The Living Paintings Trust 発足 (絵本や絵画や図を、触図と聴覚資料のセットにして、視覚障害児・者やその関係者に無料で貸出す)
 1989年、障害別の国際的競技団体と世界各国の障害別競技団体の代表により、「国際パラリンピック委員会」(IPC)結成
 1989年、ジュネーブで開催された鍼用語標準化国際会議で、WHOが、361の経穴の名称について国際的に統一

◆1990年代
 1990年、福祉8法改正(老人福祉法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、母子寡婦福祉法、老人保健法、社会福祉事業法、社会福祉医療事業団法の8法の改正)
 1990年6月、イギリス、「国民保健サービスおよびコミュニティケア法」成立(コミュニティケア法の部分は、1993年4月から施行)
 1990年7月、「障害のあるアメリカ国民法」(The Americans with Disability Act: ADA)が施行される
 1990年10月、埼玉県所沢市で「第1回視覚ハンディキャップテニス大会」開催、「日本視覚ハンディキャップテニス協会」設立 (その後、視覚ハンディキャップテニスをブラインドテニスと改称し、2009年4月、日本ブラインドテニス連盟(JBTF)に改称。ブラインドテニスの原型は、1984年、当時埼玉県立盲学校の高校生だった全盲の武井実良(1968〜2011年。1歳半で失明)が考案。武井は2011年1月JR山手線目白駅でホームから転落死。)
 1990年11月、アメリカ、A.ラビー(Avraham Rabby)が、外交官として任用される (1991年から、イギリス、南アフリカ、国務省本部、ペルー、インド、国連代表部、トリニダード・トバゴで勤務、2007年退官)
  [Avraham Rabby: 1942〜。イスラエル生まれ。8歳の時網膜剥離で失明。10歳の時渡英、リバプール盲学校、ウースター高等盲学校で学ぶ。1962年オックスフォード大学ジーザスカレッジに入学。67年シカゴ大学に留学、経営学修士号を取得。その後アメリカで企業の人事やコンサルタントの仕事をし、80年米国市民権を獲得。85年から外交官試験を受験]
 1990年、ノースカロライナ州立大学のロナルド・メイス(Ronald Mace: 1941〜1998年。9歳でポリオに罹り、酸素吸入しながら電動車椅子を使用。建築家・工業デザイナー)が、ユニバーサルデザイン(「改造または特殊化された設計の必要なしで最大限可能な限りすべての人に利用しやすい製品と環境のデザイン」)を提唱、その7原則も発表
 1990年、河内清彦(12歳で失明)が、論文で筑波大より教育学博士号(視覚障害心理学)。93年同大心身障害系助教授、2004年に同教授。
 1990年、社団法人日本玩具協会が、「晴盲共遊玩具」の普及活動(小さな「凸」の提案)を開始
 1990年、全国高等学校長協会入試点訳事業部発足
 1990年12月、元筑波大学附属盲学校の数学教諭尾関育三(全盲)が、現代数学の分野で京都大学理学部より理学博士号を授与される
 1991年1月、国家公務員試験(T種とU種の行政職)の点字受験が認められる(5人受験、合格者無し)。初の点字受験合格者は、96年U種で福嶋義忠(明治学院大法学部4年)
 1991年3月、社会福祉法人「全国盲ろう者協会」設立
 1991年4月、共用品・共用サービスの普及を目的とする「E&cプロジェクト」が発足(1999年4月、財団法人「共用品推進機構」に発展)
 1991年4月、「日本盲人ゴルフ協会」(JBGA)発足
 1991年4月、中国西安で、世界盲人連合アジア太平洋地域協議会(WBUAP)のマッサージセミナーが開催される(以後ほぼ隔年で開かれている)
 1991年6月、全盲の圓山光正・みち子夫妻が、東京都杉並区で、視覚障害者のためのパソコン教室「スラッシュ」を開設 (1998年に杉並区から視覚障害者対象のデイサービス事業を行う福祉施設として認可され、杉並区民は無料。光正氏は、2013年64歳で亡くなる。)
 1991年7月、「かるがもの会」発足 (子育てをしている視覚障害者の会。1998年『目の見えない私たちがつくった子育ての本〜知ってほしい私たちの子育て〜』発行。現在約100家族が参加。)
 1991年8月、栃木県宇都宮市で、第1回全国盲ろう者大会開催
 1991年8月、障害基礎年金を受給されていない人たちにより、「無年金障害者の会」発足
 1991年10月、花王が、シャンプーとリンスを区別できるように、シャンプーの容器に連続凸点を付けた
 1991年10月、京都と奈良で、国際盲老人大会が開催される(14ヶ国の600人が参加)
 1991年、渡辺岳(1966年〜)が、点字受験で司法試験合格
 1991年、「全国自立生活センター協議会」(JIL)発足 (2006年4月現在 131団体加盟)
 1991年、中国、「障害者保障法」制定
 1991年、韓国、「障害雇用促進法」
 1991年、タイ、「障害者リハビリテーション法」
 1991年、ドイツのオルガン・チェンバロ奏者ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha: 1907〜1991年)没 (幼児期に種痘の副作用で目を犯され強度の近視となる。12歳から正規にピアノを習う。16歳でライプチヒ音楽院入学、そのころ失明。点字の楽譜は使わず、読んでもらって暗譜する。ギュンター・ラミン(GUNTER RAMIN: 1898〜1956. オルガニスト)に師事、1926年からラミンの助手としてトーマス教会でオルガンを弾く。29年フランクフルトアムマインのフリーデンス教会のオルガン奏者に就任。以後フランクフルトを中心に演奏と教育に当たり、とくにバッハの解釈と演奏で高い評価を受けた。)
 1991年5月、フランスのオルガニスト・作曲家ジャン・ラングレ(Jean Langlais: 1907〜1991)没 (2歳で失明。10歳の時にパリ盲学校に入学。1927年パリ音楽院に入り、オルガンをマルセル・デュプレ、作曲をポール・デュカスに師事、1930年にはオルガンと即興演奏のクラスで1等賞を受ける。1930年から68年までパリ盲学校でオルガンを教え合唱団を指揮。1961年から76年までパリのスコラ・カントルム(Schola Cantorum)の教授。また、1945年から87年まで聖クロティルデ教会(St. Clotild Basilica)のオルガニスト。宗教曲やオルガン曲を中心に254もの曲を作曲)
 1991年、J.A.ウォール(John Anthony Wall: 1930〜2008年。先天性緑内障で、8歳ころ失明。ウースター高等盲学校卒業後、オックスフォード大学バリオール・カレッジで法解釈学を専攻し、1951年卒業。54年ソリスター(事務弁護士)の資格取得)が、英国高等法院衡平法部(Chancery Division)の副所長に就任 (1990〜2000年RNIB議長、1996〜2003年EBU会長。2000年ナイトに序せられる)
 1992年1月、地歌・箏曲家の富田清邦(1945〜)が、文化庁芸術祭賞を受賞 (盲学校中等部を卒業後初代富山清琴に入門。2007年第44回点字毎日文化賞受賞)
 1992年2月、「視覚障害リハビリテーション協会」設立
 1992年4月、大阪府立盲学校高等部専攻科に、 2年制の情報処理科が設置される
 1992年5月、「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)が、活動を開始(正式発足は1994年11月。2007年12月「NPO法人タートル」)
 1992年9月、日本視覚障害ヘルスキーパー協会(JBHA)発足
 1992年11月、第47回国連総会が、「12月3日を国際障害者デー(International Day of Disabled Persons)」とする宣言を採択(1982年12月3日の国連総会において「障害者に関する世界行動計画」が採択されたことを記念したもの)
 1992年、拓殖大学と横浜市立盲学校の協同研究による日本語自動朗読システム「達訓(たっくん)」が発売される
 1992年、日本盲人社会福祉施設協議会・リハビリテーション部会・盲導犬委員会が、「盲導犬訓練基準」「盲導犬施設運営基準」「指導員養成基準」を策定
 1992年、「EYEマーク・音声訳推進協議会」発足 (EYEマーク:視覚障害などで活字の本を読めない障害者のために、録音図書や拡大写本を作成してもよいことを著作者が予め宣言していることを示すマーク)
 1992年、関野光雄(1916〜。10歳ころ失明。1942年京都府立盲学校教諭、1978年明治鍼灸短気大学助教授、1981年全日本鍼灸マッサージ士会会長)が、鍼刺激による深部体温の変化についての研究で、東邦大学大学院より医学博士号を授与される。
 1992年、今井勉が、国風音楽会より平家琵琶検校の官を受ける
  [今井勉: 1958年生まれ。4歳で箏曲を始め、12歳から三品正保検校より平曲を習う。後に土居崎正富検校にも師事。200曲といわれる平曲のうち口頭伝承されてきた8曲(「那須与一」「鱸」「竹生島詣」「横笛」「生喰」「宇治川」「卒都婆流」「紅葉」)を習得。平曲のほか、伝統的な琴・三弦・名古屋独特の胡弓の演奏など名古屋を中心に活躍。1999年名古屋市芸術奨励賞を受賞]
 1992年、ゴッタン演奏家・荒武タミ(1911〜1992年。旧姓・前田)没。麻疹のため6歳で失明。13歳の時2ヶ月ほど三味線の師匠につく。生活苦のあまり18歳になると三味線を抱え門付けもし、19歳で三味線の師匠となる。当時省みられなかったゴッタンを演奏し続け、また大隅地方の伝統的古謡も伝承。1977年、南日本新聞文化賞受賞。78年、CBSソニーより「ゴッタン〜謎の楽器をたずねて〜」発売。(ゴッタン:南九州の庶民が使っていた三味線の一種。皮を使わずすべて杉などの板張りで、撥ではなく指で弾く)
 1992年、鬼木市次郎(1912〜2007年)が、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を開校
  [鬼木市次郎:両親はペルー移民。十代で視力が低下し、1928年福岡県立柳川盲学校入学。卒業後、1934年満州に渡って治療院を開業、1946年に帰国。54年東京で開業。1957年、日本マッサージ学校創設(79年に校名を国際鍼灸専門学校と変更、専修学校の認可も得る)。1961年静岡県下田町で旅館を開業するなど、各種事業を手がける。1973年、父母の墓参のためペルーへ、これを機に、南米に三療を普及させ、また南米の盲人に三療の技術を身に付けさせようと活動を開始。1990年、サンパウロに伯国盲人国際交流教育協会を組織、これを基に94年鬼木東洋医学専門学校開校。2007年現在、マッサージ師として同校を卒業したのは221人(そのうち視覚障害者は87人)、当初は視覚障害者の入学が多かったが、現在は晴眼者が多いという]
 1992年、藤沢市在住の彫刻家・桑山賀行が、「手で触れて見る彫刻展」を開催 (以後毎年開催)
 1992年、京都市美術館で、日展京都展に出品されている彫刻作品を視覚障害者が鑑賞する「手で触れる日展鑑賞会」が行われる (以後毎年開催)
 1992年、ニュージーランドのオークランドで、第1回ワールドブラインドセーリングチャンピオンシップが開催される
 1992年、スイスのサーネンで、国際点字楽譜会議が開催される
 1992年、イタリア、「障害者の援助、社会的統合および諸権利に関する基本法」(法律104号)制定
 1992年、オーストラリア、「DDA法」(連邦障害者差別禁止法)制定
 1992年12月、宮崎市で、第1回世界盲人マラソン大会が開催される(約300人参加)。
 1992年12月、スペイン全国盲人協会が、マドリードに視覚障害者のための「ティフロロギコ・ミュージアム(Museo Tiflologico)」を設立 (とくに、スペイン国内および世界各地の有名な建築物模型を展示)
 1993〜2002年、「アジア太平洋障害者の十年」
 1993年、「通級による指導」が全国的に始まる
 1993年、日本障害者協会(JD)発足
 1993年、「日本視覚障害ゴルファーズ協会」発足
 1993年、視覚障害者を中心としたトークパフォーマンス・グループ「こうばこの会」結成
 1993年、名古屋YWCA美術ガイドボランティアグループが活動開始(年数回視覚障害者のための鑑賞会を企画するほか、視覚障害者の個別の希望に応じてガイドもしている。2011年、グループ名を「アートな美」と改称。2001年『視覚に障害のある方を対象とした絵画説明の手引』、2011年『アートでトーク…絵の前でかたりあうのも多笑の縁』を発行)
 1993年、井手信夫(1932年佐賀県伊万里市生まれ。30代で反復性硝子体出血により失明、有機農法で果物や野菜を生産)が、『闇の底抜けた 農に生きる中途失明者の回生の手記』(樹心者)を出版
 1993年、東京ヘレン・ケラー協会が、視覚障害者の支援に貢献した健常者を対象に、「ヘレンケラー・サリバン賞」を創設。第1回は、元全国盲ろう者協会理事長の小島純夫(1928〜2004年。ドイツ文学、元千葉大学教授、ドイツ語点訳にも貢献)
 1993年、「日本色覚差別撤廃の会」発足
 1993年、文部省通達で、進学時調査書から色盲の項目が削除される(色覚で入学制限する学校がほぼなくなる)
 1993年、大阪府が、府営公園をできるだけ多くの人が利用できるよう「ハートフルパーク実施計画」を策定。各公園の整備を進め、また1997年からは公園ボランティア「ヒーリングガーデナー」の養成を始める。1997年には、大泉公園内に五感で楽しめる「ふれあいの庭」設置(その他、服部緑地に「ちかくの森」、箕面公園に「昆虫館」、山田池公園に「花木園」、久宝寺緑地に「風の広場」、りんくう公園に「花海道」がある)
 1993年5月、「身体障害者の利便の増進に資する通信・放送身体障害者利用円滑化事業の推進に関する法律」公布。テレビ放送における視覚障害者のための解説放送、聴覚障害者のための手話・字幕放送などの充実が求められる。
 1993年6月、東京都東村山市に、高松宮記念ハンセン病資料館開館 (2007年4月、国立ハンセン病資料館としてリニューアルオープン)
 1993年7月、日本盲人キリスト教伝道協議会が、バングラデシュの女子盲学校への支援活動を総会で採択
 1993年8月、日本点字図書館が「アジア盲人図書館協力事業」を開始
 1993年10月、日本視覚障害囲碁普及会発足(九路盤を使用。1995年3月第1回囲碁大会、99年6月第2回全国視覚障害者囲碁大会、以降ほぼ毎年全国大会を開催。2017年の第20回全国視覚障害者囲碁記念大会には、盲聾の男性2人が触手話通訳者の支援を受けて参加)
 1993年10月、愛盲報恩会より『道ひとすじ――昭和を生きた盲人たち』が出版される (明治・大正に生まれ、昭和時代に教育・福祉・音楽・宗教・文芸・学術研究・会社経営などの分野で活躍した盲人百人の活動歴をまとめたもの)
 1993年12月、箏曲家・作曲家の宮下秀冽没 (1909〜1993年。本名宮下哲郎。中学時代に失明し、1927年東京盲学校中等部音楽家に入学。音楽理論及び作曲を同校講師の田辺尚雄に師事。 1935年同校師範部音楽家、翌年研究科を卒業。1948年「双調の曲」で三曲新作コンクール第1位、53年「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で芸術祭 奨励賞。三十絃の製作に取り組んで1955年に完成させ、三十絃を使った曲の作曲や演奏を行い、1966年には彼の作品演奏会の「三十絃のための独奏曲」「三十絃、尺八、箏三重奏曲『寂』」が芸術祭奨励賞受賞。その他、「日本楽器のための組曲」「竹林精舎」「神秘」「十七絃のための山楽章」「瀬戸内」「火と水と祈り」「生々流転」「蒼空の響」「風花無限」等、洋楽器もふくむ多くの曲を作曲し各種の賞を受賞)
 1993年12月、国連第48回総会で、決議「障害をもつ人々の機会均等化に関する基準原則(Standard Rules on the Equalization of Opportunities for Persons with Disabilities)」が採択される (障害のある子ども、青年、成人について、初等教育、中等教育、中等教育終了後の教育における統合された場での教育の機会均等の原則を認識すべきだとする)
 1993年12月、「障害者基本法」公布(法律名称の改正、障害範囲の明確化、雇用の促進等における事業者の責務と国・自治体の助成施策、公共的施設の利用・情報の利用、国は障害者基本計画、都道府県と市町村は障害者計画を策定、障害者の日の規定等)
 1993年、スウェーデン、LSS法(一定の機能的な障害を有する人々の援助とサービスに関する法律)制定(施行は1994年1月)
 1993年、イタリアのアンコーナに、アルド・グラシーニ(Aldo Grassini.全盲。1966年ボローニャ大学で哲学博士を取得、2003年までアンコーナの中学校で哲学と歴史の教師。エスペランティスト)が中心になって、触る美術館「オメロ」開設(1999年国立美術館となる)。歴史的に著名な建築物模型や彫刻のレプリカなどを展示
 1994年、NFBが「ニューズライン」(視覚障害者のために電話機を使って新聞のニュースを配信するシステム)のサービスを開始(現在やく100紙を読むことができる)
 1994年1月、韓国、「特殊教育振興法」改正(同年10月「同法施行令」、翌年4月「同法施行規則」) (統合教育をめざし、個別教育計画の作成、就学相談への親の参加と異議申立て権、差別に対する罰則規定など)
 1994年1月、船便に限られていた外国向け点字郵便の無料扱いが、航空便にも適用される
 1994年4月、「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称「ハートビル法」)成立(公共性の高い建物での、点字ブロックの敷設・階段の手摺り等への点字表示などを含む)
 1994年4月、関西盲導犬協会が「盲導犬情報」を創刊
 1994年4月、「点訳・音声訳集団一歩の会」(理事長・岩野英夫)発足
 1994年5月、治療法の確立と患者の自立を目指して、「日本網膜色素変性症協会」(JRPS)発足(1996年、国際網膜協会の正会員となる)
 1994年5月、「日本ゴールボール協会」発足
 1994年5月、藤野稔寛(1952〜。高校の数学教師で、当時は徳島県立盲学校中等部教諭)が、点図を描くためのフリーのソフト「エーデル(EDEL)」を開発。その後、他の点字エディタとの連携機能、ウィンドウズへの対応、画像テータの自動点図化など多くの改良を行う。2012年に公開した点字・点図編集ソフト「エーデル VER.7」は、点字エディタの機能も合せ持ち、点図作成だけでなく点字文章も処理できるようになった。(2009年、第17回ヘレンケラー・サリバン賞受賞、2017年第15回本間一夫文化賞受賞)
 1994年6月、日本障害者芸術文化協会設立。2000年6月「エイブル・アート・ジャパン」と改称
 1994年6月、未生流中山文甫会と大阪YWCAの協力で、視覚障害者のためのいけばな講座「むらさきつゆくさの会」発足(ほぼ毎月1回講座を開く)
 1994年6月、スペインのサラマンカで、「特別なニーズ教育に関する世界会議:アクセスと質(World Conference on Special Needs Education: Access and Quality)」が開催され、「特別なニーズ教育における原則、政策、実践に関するサラマンカ声明と行動の枠組み(Salamanca Statement on Principles, Policy and Practice in Special Needs Education and a Framework for Action)」を採択 (世界のすべての子どもを学校にインクルージョンし、それを可能にするための学校制度の改革をめざす)
 1994年12月、障害者基本法に基づく初めての「障害者白書」を刊行
 1994年12月、第49回国連総会で、『障害者の社会への完全統合に向けて、「障害者の機会均等化に関する標準規則」と「2000年及びそれ以降への障害者に関する世界行動計画を実施するための長期戦略」の実施』を採択
 1994年、「全日本盲導犬使用者の会」発足
 1994年、樺太アイヌ語の最後の話者・浅井タケ(アイヌ名 TAHKONANNA)没 (1902年、樺太西海岸のアイヌコタンに生まれる。生後すぐ失明。終戦後北海道に引き揚げ、最初沙流郡平取町振内に住んでいたが、1961年夫に死別後亡父の長男に引き取られる。1974年に北海道沙流郡門別町立特別養護老人ホーム「得陽園」に入園。1984年、北海道大学教授(当時)の村崎恭子が、最後の樺太アイヌ語話者と確認、その後10年間樺太アイヌの昔話や歌などを収録、そのテキストや音声資料を公表している)
 1994年、アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli 、1958〜。トスカーナ地方の村、ライヤティコに生まれる。6歳でピアノを始め音楽の道に進むものの、12歳の時にサッカーボールを頭に受け脳内出血を起こし失明する。障害を乗り越えてピサ大学で法学博士号を取得し弁護士として働いていたが、歌手になる夢は捨てきれず、夜はピアノ・バーで歌うという生活を送る。テノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティとロック&ポップス歌手ズッケロに見出されてデビュー)が、サンレモ音楽祭新人部門で優勝、その後テノール歌手として活躍。
 1995年3月、神奈川県小田原市に「県立生命の星・地球博物館」が開館。「だれにでも開かれた博物館」を掲げ、隕石・化石・剥製など手で触れることのできる標本の展示や、視覚障害者等に対するバリアフリー化を推進。1998年には、開館三周年記念事業として、シンポジウム「ユニバーサル・ミュージアムをめざして―視覚障害者と博物館―」を開催し、その報告書を刊行。
 1995年5月、通産省が、「障害者等情報処理機器アクセシビリティ指針」制定
 1995年6月、障害者対策推進本部が、12月3〜9日を「障害者週間」とする(12月3日は国際障害者デーおよび障害者基本法の公布日、12月9日は障害者の日)
 1995年、青木陽子が、「天津外国語学院視覚障害者日本語通信教育センター」(現「天津市視覚障害者日本語訓練学校」)開設 (200人以上の視覚障害者に日本語を教え、これまでに8人の視覚障害生徒を日本に留学させる)
  [青木陽子: 1961〜、全盲。6歳の時の天然痘予防接種の副作用で視力の急激な低下。附属盲高等部から南山大学、ニューヨーク州立大・ペンシルベニアダイで修士・博士課程。1993年、天津外国語学院研修生。1994年「アジア視覚障害者教育協会」を設立。2012年「アジア障害者教育協会」と改称、埼玉県上尾市に就労継続支援(A型:通常の事業所に雇用されることが困難な障害者が対象)「サフィーナ上尾作業所」を開設。2001年中国政府より「中国友誼賞」、02年「第39回点字毎日文化賞」、04年「第16回毎日国際交流賞」、2010年「外務大臣表彰」、12年「第14回ありのまま自立支援大賞」]
 1995年、「全国盲導犬施設連合会」発足(8施設加盟)。「盲導犬同伴可ステッカー」の普及促進活動を始める (2008年6月、NPO法人となる)
 1995年、家電製品協会が、視覚障害者にも使えると思われる製品リストを公表。2000年、「高齢者・障害者にも使えると思われる家電製品一覧表」(点字・墨字併記)を配布。現在は「ユニバーサルデザイン配慮家電製品リスト−高齢者や障害のある人にも使いやすいと思われる家電製品−」をホームページにも掲載している。
 1995年、「スキー・フォー・ライト ジャパン」発足(代表: 青松利明。「スキー・フォー・ライト」は1975年からアメリカで行われている視覚障害者と健常者によるクロスカントリースキー・プログラムで、R.F.キースらが中心になって国際的に活動する)
 1995年11月、国勢調査で、調査表に点字と大活字が用意される
 1995年8月、香港、「障害者差別禁止法」(Disability Discrimination Ordinance: DDO)成立
 1995年11月、イギリス、「障害差別法」(Disability Discrimination Act 1995)制定 (2005年改正)
 1995年12月、障害者対策推進本部が「障害者プラン〜ノーマライゼイション7か年戦略〜」策定
 1995年12月、劇団昴が、すべての公演で、視覚障害者のための音声ガイド(俳優の動作、舞台装置・衣裳の色や形などの説明)を始める
 1995年、光島貴之(1954〜。先天性白内障のため、幼児期の視力は0.02程度、10歳頃失明。1980年大谷大学哲学科卒。82年鍼灸院開業)が、フラービオ・ティトロ(イタリアの全盲の石彫作家)のドローイングにヒントを得て、レトラライン(製図用テープ)とカッティングシートを用いて「触る絵画」の制作を始める。1998年のアートパラリンピック長野展で、陶芸作品「らせんの手掛かり2」が大賞に選ばれる。さらに1999年には、触覚連画(CGアーティストと互いの絵に手を加えることで作品を創り出していくコラボレーションアート)をインターネットで公開。また、2002年12月〜2003年3月、兵庫県立美術館で「美術のなかのかたち〜手で見る造型〜」展開催。その後も国内外で各種の展覧会・ワークショップ・公開制作をしている。
 1995年、インド、障害者差別禁止法制定
 1996年、小学4年生の国語教科書(光村図書)に「手と心で読む」が掲載される(著者の大島健甫(1924〜2013年)は、1943年に爆弾事故で視力の大半と右腕を失う。1950年国立盲教育学校卒業後、岡山県立盲学校教諭。作品は、息子のために秘かに点字を習い覚えた母に勧められて北原白秋の点字の詩を読んだことが再起のきっかけになったというエピソードをまじえながら点字を紹介したもの。大島健甫は2003年第40回点字毎日文化賞受賞)
 1996年4月、斯波千秋(1949〜。1972年に、父・温(やすし)が盲人用具製作・開発のために設立した「盲人福祉研究会」を継ぐ)が、静岡見浜松市で、視覚障害者対象の全国初の小規模授産所「ウイズ」を開設(白杖の製作、点字印刷など)。中途失明者の福祉にも貢献 (2000年、第8回ヘレンケラー・サリバン賞。06年、NPO法人「六星」設立、代表理事。2011年、第48回点字毎日文化賞)
 1996年5月8日、JR山手線田端駅に、数字ボタンパットを付加した最初の新型タッチパネル式券売機が設置される。
 1996年8月、市橋正晴が、大活字図書を出版する(株)大活字を創業 (翌年4月市橋正晴が急死、長男の市橋正光が継ぐ)
 1996年9月、障害者情報ネットワーク“ノーマネット”(厚生省の委託事業として、日本障害者リハビリテーション協会が運営)開設
 1996年9月、アメディアが、パソコンを用いた読書システム」ヨメール」を発売
 1996年9月、スリランカ、「障害者権利保護法」
 1996年9月、アメリカ、著作権法を改正する法律(Copyright Law Amendment, 1996)公布、一般の文字情報を得ることのできない障害者のための点訳・録音に際して著作権者の許諾が不要となる
 1996年10月、「日本視覚障害者セーリング協会(JBSA)」発足。1998年11月、第1回全日本ブラインドセーリング選手権大会を開催 (2013年5月、第8回ブラインドセーリング世界選手権大会が、相模湾で開催される)
 1996年11月、視覚障害者外出支援ボランティア・グループの全国ネットワークとして、「全国視覚障害者外出支援連絡会」(JBOS)発足
 1996年11月、システムソリューションセンターとちぎが、 Windows画面を音声で読み上げキーボードだけで操作できる「95 Reader」を発売(開発は、日本障害者雇用促進協会の障害者職業総合センター)
 1996年、東京都と大阪市が、盲聾者への通訳・介助者派遣事業を開始
 1996年、日本工業規格(JIS X 6310: プリペードカード 一般原則)で、プリペードカードの種類や挿入方向・表裏を識別するための切欠きが標準化される
 1996年、肥後琵琶の伝承者・山鹿良之(1901〜1996年)没 (4歳で左眼失明、22歳で天草で肥後琵琶の師に就く。以後竈祓などの宗教儀礼や多様な門付け・座敷芸を行う。語物の持ち外題は「小栗判官」など約40種、最後の琵琶法師といわれた。青池憲司監督ドキュメンタリー映画『琵琶法師 山鹿良之』がある)
 1996年、琵琶盲僧高木清玄(1931〜1996年)没 (本名・高木今朝人。小学校6年で左目、17歳で右目失明。祖母の勧めもあり国東町の盲僧橋本清光に師事して天台宗玄清法流の盲僧となる。全盲の妻から点字と白杖歩行を習う。国東半島一帯を中心に活動、筑前琵琶による最後の盲僧といわれる。2009年高木清玄を顕彰するお堂(観音堂)が国東市安岐町の瑠璃光寺に建立される)
 1996年、アメリカ、「連邦通信法255条―Telecommunications Act」制定 (通信・情報機器をあらゆる障害者にも利用できるようにすることが規定される)
 1997年1月、「障害者専門放送研究委員会」発足
 1997年4月、愼英弘(1947〜、8歳で失明、在日朝鮮人二世)が、花園大学社会福祉学部助教授に就任(1984年、『近代朝鮮社会事業史研究−京城における方面委員制度の歴史的展開−』で大阪市大より学術博士号。2003年4月より、四天王寺国際仏教大学大学院教授。統合教育、盲聾者の社会参加、障害者の無年金問題などの実践活動も評価され、2005年、第42回点字毎日文化賞受賞。09年、第27回鳥居賞受賞。著書に『定住外国人障害者がみた日本社会』『盲ろう者の自立と社会参加』『点字の市民権』など)
 1997年4月、障害者の雇用の促進等に関する法律が改正される (民間企業の法定雇用率が1.6%から1.8%に改訂。1998年7月施行)
 1997年5月、デイビット・ブランケット(David Blunkett: 1947〜.先天性の障害のため全盲。1987年下院議員)が、英国労働党ブレア政権発足とともにその教育雇用相に就任。2001年6月、第2次ブレア政権で内相。2004年12月内相辞任
 1997年7月、電子図書館「青空文庫」開館 (2004年6月現在、約400人の4000点の作品を公開)
 1997年8月、全国盲学校野球大会(第12回)が、31年ぶりに京都で開催される (資金不足などで、1966年の第11回大会以来中断されていた)。2016年8月の第32回大会(北海道)まで継続開催されるが、選手不足のため、以後休止。
 1997年8月、コペンハーゲンで、デイジー・コンソーシアム設立会議(日本をふくめ10カ国参加。)
 1997年10月、拡大教科書を製作する全国のボランティアを繋ぐ団体として、「全国拡大教材製作協議会」発足
 1997年11月、日本IBMが、視覚障害者向けの音声ブラウザ「ホームページ・リーダー」を発売(同社の全盲の研究員浅川智恵子が開発。2003年現在11の言語への対応版が販売されている)
  [浅川(旧姓・平山)智恵子:1958年〜。14歳のとき事故で失明。1982年、追手門学院大学英文科卒。85年、日本アイ・ビー・エム東京基礎研究所入社、点字入力編集ソフト開発。2004年、東京大学工学系研究科先端学際工学専攻 博士課程修了。同年日本女性科学者の会 功労賞 。09年、IBM Fellow 就任。2012年、第9回本間一夫文化賞受賞]
 1997年12月、介護保険法成立 (施行は2000年4月)
 1997年、箏曲家(山田流)・作曲家高野喜長(1924〜2002年)が、第34回点字毎日文化賞受賞 (10歳で失明。東京盲学校に入学し、12歳で箏と出会う。卒業後1985年まで37年間筑波大附属盲学校の音楽教諭。中南米をはじめ海外での公演も多い。)
 1997年、大阪のミニシアター「シネ・ヌーヴォ」で、字幕朗読上映会(解説もふくむ)が始まる。以後、年8〜9回実施している。
 1997年、桜雲会が、日本財団の助成を得て、あん摩・マッサージ・指圧のベトナムセミナー5カ年事業を開始
 1997年、踊正太郎が津軽三味線全国大会チャンピオンとなる(以後3連覇)
  [踊正太郎: 1977〜。本名・進藤正太郎。6歳で茨城県立盲学校入学、同時に津軽三味線を始める。18歳、盲学校卒業と同時に、津軽三味線の山田千里氏に師事・内弟子入り。2000年プロデビュー。03年ライブハウス「しゃかりき」オープン、05年正太郎流津軽三味線「正太郎の会」設立、2008年「第2回津軽三味線日本一決定戦」で優勝、第6回チャレンジ賞受賞。1994年『母さん、ぼくに光をください』(ポプラ社)出版、2004年CD「しゃかりき」リリース]
 1997年、国連が、フランス東部フィルヴォールテールに「国際障害者センター」開設
 1997年、スウェーデン、「特別病院・入所施設解体法」成立(解体の終了期限を1999年末に定める)
 1997年、全盲の進化生物学・古生物学者ヒーラット・ヴァーメイ(Geerat J. VERMEIJ, 1946年オランダに生まれる。3歳で失明、9歳でアメリカに移る。1968年プリンストン大学卒業、1971年イェール大学で博士号取得。その後メリーランド大学で教え、1988年からはカリフォルニア大学デービス校教授)が、自伝"Privileged Hands"(邦訳『盲目の科学者 ――指先でとらえた進化の謎』)を著す
 1997年、韓国、「韓国視覚障害者芸術協会」発足
 1998年1月、大阪・兵庫など4府県の無年金障害者8人が、法の下の平等を定めた憲法に違反するとして、障害基礎年金の支給を求めて居住地の市・区役所に一斉に申請。
 1998年3月、「特定非営利活動促進法」(NPO法)成立(施行は2000年4月1日)
 1998年3月、伊藤精英(1964〜.緑内障のため先天性の弱視。15歳のとき事故で失明)が、筑波大学大学院心身障害学研究科博士課程修了、教育学博士号取得。2000年4月、公立はこだて未来大学システム情報科学部情報アーキテクチャ学科講師 (専門は生態心理学と視覚障害心理学)
 1998年3月、田中仁(1966〜)が、「The Kakeya maximal operator and the Riesz-Bochner operator on functions of special type」で学習院大学より博士号取得 (2歳で麻疹のため失明。帯広盲学校から筑波大学附属盲学校を経て、89年学習院大学理学部数学科に入学。2007年『線形の理論』、2008年11月東京大学大学院数理科学研究科特任助教)
 1998年4月、名古屋ライトハウスが、デイジー録音図書の貸出をはじめる。
 1998年、サブリエ・テンバーケン(Sabriye Tenberken)が、中国・チベット自治区のラサに盲学校開設
  [サブリエ・テンバーケン:1970年生まれ。ドイツの女性。先天的な網膜の病気で、12歳で完全失明。ボンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で中央アジア学を専攻。チベット語学を修め、チベット語の点字を考案。1997年よりチベットで活動。体験記「わが道はチベットに通ず―盲目のドイツ人女子学生とラサの子供たち」を出版。2006年マザー・テレサ賞受賞]
 1998年、三宮麻由子(1966〜)が、『鳥が教えてくれた空』で第2回NHK学園「自分史文学賞」大賞受賞(4歳で失明。上智大学仏文科卒、同大学院博士前期課程修了。外資系通信社勤務とともにエッセイを書き始める。2000年には『そっと耳を澄ませば』で第49回日本エッセイストクラブ賞受賞。2005年、第2回サフラン賞受賞。2009年、第46回点字毎日文化賞受賞)
 1998年3月、バイオリニストの川畠成道が、日本デビュー。 (1971〜. 8歳の時旅行先のロサンゼルスで風邪薬の副作用でほとんど失明。10歳から父の指導でバイオリンを始める。12歳で、第38回日本学生音楽コンクール入賞。桐朋学園を経て、1994年英国王立音楽院大学院留学、97年首席で卒業。日本各地をはじめロンドンやロサンゼルスでリサイタル。『僕は涙の出ない目で泣いた』などの著書も執筆)
 1998年4月、河合純一(1975〜.全盲)が、早稲田大学教育学部卒業後、静岡県舞阪町(現浜松市)立舞阪中学校の社会科教師となる (彼は、パラリンピックの競泳で、1992年のバルセロナ、96年のアトランタ、2000年のシドニー、04年のアテネまで4大会連続出場し、金5個を含め19個のメダルを獲得している)
 1998年7月、日本フロアバレーボール連盟(JFVA)発足
 1998年8月、 Windows用のスクリーンリーダ「PC−TALKER」および「VDM100W」が同時発売
 1998年9月、障害者の情報アクセス権や放送におけるバリアフリーなどを目的に、障害種別・分野横断的な組織「障害者放送協議会」発足
 1998年10月、郵政省が、「障害者等電気通信設備アクセシビリティ指針」制定
 1998年10月、岡山市で、異種鳴き交わし式音響信号機の試験運用が始まる。
 1998年12月、ピアニストの梯剛之(1977〜.生後間もなく網膜芽細胞腫のため失明。12歳でウィーン国立音楽大準備科へ留学)が、ロン=ティボー国際音楽コンクールで第2位 (1999年、第36回点字毎日文化賞)
 1998年12月、平野恒雄が、視覚障害者をメンバーに加えた劇団「ふぁんハウス」を結成
 1998年、デイジー図書再生機「プレクストーク」発売
 1998年、「全国視覚障害者インターネット接続支援連絡会」(ASV)発足
 1998〜2001年、厚生省補正予算事業で、全国の約100箇所の視覚障害者情報提供施設へ2度のデイジー製作システムの貸与・製作講習会、2580タイトルのデイジー録音図書・601タイトルのデジタル法令集の配布、および各都道府県へデイジー再生用機器(約8000台)の貸与が行われる。
 1998年12月、アメリカ、リハビリテーション法改正(508条で、障害をもつ連邦政府職員が他の職員と同等に情報にアクセスし利用できること、障害のある一般の人が連邦政府諸機関の提供する情報を障害のない人と同等に利用できること、さらに、そのために必要な技術および機能に関する「基準」の作成を規定)
 1998年、韓国、キム・ソンテ(金善泰)が、視覚障害者のための総合施設「シロアム視覚障害者福祉館」を設立
  [キム・ソンテ:1941〜。朝鮮戦争時に両親を失いまた自身も爆撃を受け失明。孤児院に入り、学校に通う。韓国で視覚障害者として初めて大学修学能力試験(スヌン)を受ける。哲学を専攻して卒業。69年修士号。長老派の牧師となり、1972年視覚障害者のための協会を始める。79年、日本ライトハウスで研修を受ける。81年、シロアム眼科病院を設立。2007年、アジア地域で社会貢献などに傑出した功績のあった個人や団体に贈られるラモン・マグサイサイ賞(社会奉仕部門)受賞。2012年、第34回岩橋武夫賞]
 1998年、アメリカの原子物理学者バーソン(Samuel Bradley Barson: 1917〜1998年)没 (高校1年のとき友人の銃の暴発で失明、イリノイ盲学校に転校し、のちスタンフォード大学・イリノイ大学で学び、1946年博士号を得てミズーリ大学の助教授になる。その後、アーゴン国立研究所(イリノイ州)に職を得、核分裂の制御などを研究。そこで25年働いた後、さらにワシントンの原子力規制委員会で上級技術研究員として務め、1995年引退。)
 1998年、ブラジルで、第1回IBSAブラインドサッカー世界選手権が行われる(第2回は2000年にスペイン、第3回は2002年にブラジル、第4回は2006年にアルゼンチン、第5回は2010年にイングランド、第6回は2014年11月に日本・東京で開催される)
 1998年、イギリス、視覚障害者のための音声解説団体「ボーカルアイズ(VocalEyes)」発足 (劇場をはじめ、美術館や博物館、史跡や建築物などで音声解説・音声情報提供を行い、またセットや舞台などについてのタッチツアーも行う。スタッフは有給でプロ。2012年2月には音声解説実施回数が1000回を越える)
 1999年、OECDの報告書『インクルーシヴ教育の実際―通常学校における障害学生(Inclusive Education at Work. Students with Disabilities in Mainstream Schools.)』
 1999年、日本障害者リハビリテーション協会が、財団法人広げよう愛の輪運動基金の委託を受け、「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」を開始
 1999年、学習指導要領の改訂により、「養護・訓練」の教科名が「自立活動」と改められる
 1999年4月、福岡県立福岡高等盲学校に、三療の免許を持つ視覚障害者がより高度な専門知識・技能を習得する場として、研修科が設置される。
 1999年4月、1995年10月大阪市営地下鉄御堂筋線天王寺駅ホームで電車に接触して転落し重傷を負った佐木理人が、大阪市を相手取り事故現場の早期改善(転落防止柵の設置など)を求めて大阪地裁に提訴。2001年10月15日、第1審で敗訴。2003年6月30日、控訴審で和解成立(和解条項:視覚障害者のホームからの転落事故等の発生防止に努力、和解金300万円、自己現場に転落防止柵を設置)
 1999年4月、阪急電鉄が、「全席が優先席」という方針のもと、専用席としての優先座席を廃止 (2003年12月から、横浜市営地下鉄も全席を優先席に。阪急電鉄は、2007年10月優先席を復活させる。2012年、横浜市衛地下鉄も優先席を復活)
 1999年5月、「障害者欠格条項をなくす会」発足
 1999年7月、松坂治男(30代半ばで網膜色素変性症を発症)が、SPAN(視覚障害者・パソコン・アシスト・ネットワーク)開設
 1999年8月、「視覚障害者議員ネットワーク」結成(代表は堀利和参議員議員)
 1999年8月、WBU(世界盲人連合。加盟130ヶ国)がルイ・ブライユの誕生日である1月4日を「世界点字デー」に制定
 1999年10月、東京で、ミュージアム・アクセス・グループ「MAR」(Museum Approach & Releasing)が活動開始
 1999年12月、花王が、視覚障害者向け音声情報DAISY版CD「商品と暮らしの花王ボイスガイド2000年版」を発行
 1999年、遠藤貞男(1922〜2008年)が、第7回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞 (1976年から継続的に視覚障害者のために観劇会を企画)
 1999年、東京都美術館が、各企画展ごとに、各展覧会の会期中の休館日1日を利用して「障害者特別鑑賞会」を開始 (毎年4回程度実施されている。視覚障害者は、希望すればボランティアの案内でともに鑑賞できる)
 1999年11月、全米盲人連合(NFB)が、インターネット・プロバイダー最大手のアメリカン・オンラインAOL社をADA法違反で連邦裁判所へ提訴
 1999年、スウェーデン、「雇用における障害者差別禁止法(Prohibition of Discrimination in Working Life of People with Disability Act: SFS 1999:132)制定
 1999年、ONCE(スペイン全国盲人協会)が、視覚障害者の生活の質を高める技術開発を促進することを目的に「視覚障害者のためのテクノロジー研究・開発奨励賞」を創設(隔年で実施)
 1999年、イタリア、ボローニャ市のフランチェスコ・カヴァッツァ盲人施設内に、触る絵の美術館「アンテロス」が開設される (有名な絵画作品を、浮彫のように半立体的に翻案して展示)
 1999年、イギリス、全国触図センター(National Center for Tactile Diagrams: NCTD)発足。2000年、2002年、2005年に触図に関する国際会議を開催
 1999年、スイス・チューリッヒで、視覚障害の牧師ユルグ・シュピールマン(Jurg Spielmann)が、「Blindekuh(暗闇レストラン)」を開設(2005年にはバーゼルに第2号店がオープン)。同様の暗闇レストランは、2001年、ベルリン、ケルン、ハンブルグに「unsicht-Bar」として、2004年、パリに「Dans le Noir ?」として、2006年、ケベックに「O.NOIR」として、2007年、北京に「巨鯨肚」としてオープン。2008年以降、日本でも同様の試みが行われている。
 1999年、アメリカの音楽家(作曲とともに演奏やボーカルもする)であり詩人でもあるムーンドッグ(Moondog; 本名はLouis Thomas Hardin。1916〜1999年)が、ドイツ・ミュンスターで没
  [少年期よりドラムなど打楽器の演奏をしていたが、17歳でダイナマイトの雷管の爆発のため失明。姉から哲学や科学などの本を読んでもらい、その中の『第一バイオリン』という本に感動して生涯の仕事として音楽を選ぶ。セントルイスやアイオワの盲学校で点字を覚え、またいろいろな楽器を弾きこなすようになるが、音楽はほぼ独学。1943年にニューヨークに出て、そこでレナード・バーンスタインやアルトゥーロ・トスカニーニ、チャーリー・パーカーやベニー・グッドマン等と知り合って、かれらの影響を受けるとともに彼自身の音楽的才も評価される。74年まで30年間ニューヨークで、自分で考え出したバイキング風の奇抜な服装で路上ミュージシャン・詩人として暮らす。1947年からペンネームとしてムーンドッグを使い始め、また回りの人たちからは「6番街のバイキング」とも呼ばれた。1974年、「聖なる川=ライン川が流れる整なる土地」として理想化していたドイツに移住、イローナ・ゾマーの援助を得て、作曲をはじめ多彩な音楽活動を続ける。なお彼は、トリンバという打楽器など数種の楽器も発明している。]

◆2000年代
 2000年4月、著作権法等改正案成立、ネットワーク上での点字データの蓄積や送受信が認められる(施行は 2001年1月)
 2000年4月、日本ロービジョン学会創設 (WHOは、眼鏡をかけても両眼の視力が0.05以上〜0.3未満の場合をロービジョンとしている)
 2000年5月、社会福祉法成立(社会福祉事業法等の一部を改正する法律) (地域・利用者中心の制度へ。「地域福祉計画」の策定など規定)
 2000年5月、「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(通称「交通バリアフリー法」)成立(施行は11月から)
 2000年6月、「働く障害者の弁護団」結成
 2000年10月、日本工業規格「JIS S 0021 高齢者・障害者配慮設計指針―包装・容器」が制定される (缶ビール・缶入り酒類への点字表示、パック入り飲料への切欠き、シャンプー/リンスの識別などもふくむ)
 2000年8月、金沢市の北計工業が、携帯用の色識別装置を開発、「カラートーク」として発売。認識できる色の種類は、基本色13色に、明度・彩度と色相に関する修飾語を組み合せた220通り。さらに2006年8月、レハ・ヴィジョン株式会社より、色名を音声で知らせるとともに、色相を 5種の楽器音の組み合せで表現することで色の細かい変化にも対応できるようにした「カラートークプラス」を発売
 2000年9月、東京都営地下鉄三田線で「ホームゲート」の運用開始
 2000年、音声で現在地がどの交差点かを知らせる「歩行者等支援情報通信システム」(PICS)が開発され、順次導入される
 2000年、岐阜県美術館が、実際に触ることのできる彫刻・立体作品について『視覚障害者のための所蔵品ガイドブック』を製作 (2001年には絵画作品2点をふくむ『視覚障害者のための所蔵品ガイドブック 2』を製作)
 2000年、新潟県立歴史博物館が、高田盲学校創設コーナーを設ける (算板、計算器、書写器、木製凸字、こより文字、ダンロップ師が寄贈した聖書等)
 2000年12月、米連邦政府が、リハビリテーション法508条電子・情報技術アクセシビリティの改正「基準」を発表(施行は、2001年6月)
 2000年、アメリカ、会員制のウェブ図書館サービス「ブックシェア・プロジェクト」開始 (出版社から許諾を得た図書を電子データ化し、会員の視覚障害者や読字障害者等に配信。2009年初現在会員約4万人、タイトル数約 42,000)
 2000年「アフリカ障害者の十年」(障害者の完全参加と平等、エンパワーメントを目指した宣言に基づく地域プログラム)開始
 2001年1月、文部省が文部科学省となり、初等中等教育局に特別支援教育課が設置される(旧特殊教育課)
 2001年1月、日本盲人社会福祉施設協議会が、点字関係職種の専門性と社会的認知度を高めることを目的として、第1回点字技能検定試験を実施。2004年には、厚生労働大臣認定の「社内認定」として認可され、公的資格となる。
 2001年2月、NPO法人全国視覚障害者情報提供施設協会設立
 2001年4月、廣瀬浩二郎(1967〜.弱視だったが13歳で完全失明。京都大学文学部国史学科卒。2000年京都大学より文学博士号)が、国立民族学博物館民族研究部助手に採用される (2002年9月〜03年8月、プリンストン大学客員研究員。著書:『障害者の宗教民俗学』(明石書店、1997)、『人間解放の福祉論─出口王仁三郎と近代日本』(解放出版社、2001)、『触る門には福来たる─座頭市流フィールドワーカーが行く!』(岩波書店、2004))
 2001年4月、福島智が、東京大学先端科学技術研究センター助教授に就任
  [福島智: 1962〜.9歳で失明し、18歳で失聴して全盲ろうとなる。母令子さんとのやり取りがきっかけで、指点字によるコミュニケーションを開始。筑波大学付属盲学校高等部卒業後、1983年東京都立大学人文学部に入学、同大大学院で教育学を専攻。1996年7月東京都立大学人文学部助手、同年12月金沢大学教育学部助教授。同年にはまた第30回吉川英治文化賞(母令子と共)、第33回点字毎日文化賞受賞。1991年より全国盲ろう者協会 理事、93年から97年までWBU(世界盲人連合)盲ろう者活動常置委員会委員。『盲ろう者とノーマライゼーション―癒しと共生の社会をもとめて―』(1997年、明石書店)。2008年5月「福島智における視覚・聴覚の喪失と『指点字』を用いたコミュニケーション再構築の過程に関する研究」で東京大学より学術博士号。2008年10月、同大教授。2015年、第12回本間一夫文化賞受賞。なお母の福島令子は、2017年、第21回鳥居伊都賞を受賞]
 2001年4月、東京で、バリアフリー映画鑑賞推進団体「City Lights(シティ・ライツ)」発足 (2016年、代表の平塚千穂子が第24回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞)
 2001年4月、バングラデシュ、「バングラデシュ障害者福祉法」が議会で可決
 2001年5月、西日本の国立ハンセン病療養所の入所者(元患者)等が起こしていた「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の判決が熊本地方裁判所であり、原告側勝訴 (同年6月には「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」成立)
 2001年5月、WHOが、「国際障害分類」(ICIDH)を改訂し、「国際生活機能分類−国際障害分類改訂版−」(ICF: International Classification of Functioning, Disability and Health)を採択
 2001年6月、高知県立盲学校に、視覚障害者向け機器展示室「ルミエールサロン」が開設される (当時高知女子大学社会福祉学部助教授だった吉野由美子(1947〜。弱視。現・視覚障害リハビリテーション協会 会長)が高知県の「職員提案事業」に応募したプランが採用されて実現。視覚障害者が使いやすい機器や便利グッズの展示のほか、生活訓練指導員による説明や相談、県内各地に出向いての相談や機器展示などを行っている)
 2001年6月、富山市で、触れて観賞することを中心とした展覧会「触展」が実施される (以後、毎年1、2回程度、継続的に開催されている)
 2001年7月、聖心ウルスラ学園高等学校(宮崎県延岡市)の数学教師窪田巧が、視力低下を理由に解雇通告を受ける。同年9月、宮崎地方裁判所に仮処分申立。02年1月、学校理事者側が解雇撤回・休職命令通知。同年3月、窪田さん側が休職命令無効の確認を宮崎地裁に提訴。同年12月、教壇復帰で和解。
 2001年8月、国土交通省が、「公共交通機関旅客施設の移動円滑化整備ガイドライン」を策定 (駅ホームのからの転落防止対策として、ホームドアや可動式ホーム柵が加えられる) (その後、2007年7月と2013年6月に「公共交通機関の移動等円滑化整備ガイドライン(旅客施設編・車両等編)」の改訂が行われる)
 2001年8月、国連の「経済的、社会的、文化的権利委員会」が、日本政府に対し、障害者差別を禁止する法律を制定するよう勧告
 2001年9月、村谷昌弘 没 (1921〜2001年。1944年5月、インパール作戦で両眼を負傷・失明。45年6月、大阪市内の失明軍人会館(現・日本ライトハウス)に入所し、軍需無線電信機部品加工の作業を行う。48年8月、岩橋武夫らと共に日本盲人会連合結成に参加。以後、日盲連の事務局長、常務理事、副会長、さらに1980年から2000年3月まで会長。この間、政府の各種審議会委員として多くの障害者対策の立案に関わる。1978年藍綬褒章、1991年勲三等旭日中綬章)
 2001年9月、小山田みき(1978〜。未熟児網膜症のため失明。99年華頂短期大学(京都市)幼児教育学科入学、01年3月幼稚園教諭二種免許と保育士資格を取得し卒業)が、社会福祉法人四天王寺夕陽丘保育園(大阪市)に保育士として就職。2008年、大阪市の保育士採用試験の受験を申し込むが拒否される。09年10月、同試験の点字受験が認められる。
 2001年9月20日、JIS T9251「視覚障害者誘導用ブロック等の突起の形状・寸法及びその配列に関する規定」制定
 2001年10月、「世界盲聾者連盟(WFDB)」発足
 2001年11月、「視覚障害者文化を育てる会」(4しょく会: 食・色・触・職の4つのしょく)発足
 2001年11月、京都で「ミュージアム・アクセス・ビュー」(視覚障害者とともに美術作品を観賞する会)が活動開始
 2001年11月30日、電磁的記録式投票特例法(電子投票法)成立 (施行は翌年2月)
 2001年12月、第56回国連総会が、メキシコ提案の「障害者の権利及び尊厳を保護・促進するための包括的総合的な国際条約」決議案を採択
 2001年、厚生労働省が、障害者情報バリアフリー化事業を予算化 (視覚・上肢障害の者を対象に、音声化ソフトや入力サポート機器の購入費を、 15万円を原度にその3分の2を助成。2006年3月で終了)
 2001年、労働安全衛生法の規則改正で、雇用時の色覚検査を廃止(業務に困難が予想される場合は業務内容について説明するよう指導することに)
 2001年、池田敏郎(1921〜。40歳過ぎで網膜剥離のため両眼失明するが、会社経営お続け、1987年には日本盲人経営者クラブ会長に就任)が、『百術一誠 谷口尚真海軍大将の生涯』を執筆
 2001年、京都の株式会社タナベが、弱視者や高齢者のために、光る点字ブロック(暗くなると自動でLEDライトが2秒に1回点滅)を開発・発売。
 2001年、ジャマイカ、労働・社会保障大臣にF.E.モリス(Floyd Emerson Moris: 1969年生まれ、14歳で緑内障、20歳で完全失明、1998年首相により上院議員に任命される)就任
 2001年、ラオス盲人協会発足 (会長:コンケオ・トウナロム。彼女はラオスの点字も考案している)
 2002年、日本ライトハウスが、毎日新聞希望のネットワーク(毎日新聞大阪社会事業団の海外支援部門)の委託により、カンボジアの視覚障害者の支援事業を開始(日本式按摩による就労支援、図書館整備、国民への啓発活動支援など)。
 2002年4月、ユニバーサルデザイン絵本センター発足。UD絵本として、7月『てんてん』『でこぼこえかきうた』、2003年5月『ゾウさんのハナのおはなし』『チョウチョウのおやこ』、2004年10月『なないろのくら』『おでかけまるちゃん』を刊行
 2002年4月、出版社、印刷会社、作家、点訳絵本製作団体などにより、「点字付き絵本の出版と普及を考える会」発足
 2002年5月22日、「身体障害者補助犬法」が成立、施行は2002年10月1日(当初は公共交通機関や公共施設が対象。2003年10月からは民間施設にも義務付けられる)。
 2002年6月、超党派の50人余の国会議員が参加して「視覚障害者の社会参加を推進する参議院議員懇話会」という議員連盟が発足
 2002年6月、宇都宮美術館が「手でみる作品ガイド」発行
 2002年6月、ヘルシンキで、第1回視覚障害者ボウリング世界大会が開催される(9カ国、60名参加)
 2002年9月、「視覚障害者ボウリング・コングレスジャパン」発足。2004年4月、「全日本視覚障害者ボウリング協会」と改称。
 2002年10月、日本視覚障害者サッカー協会(JBFA)発足
 2002年10月、大阪で、「アジア太平洋ブラインドサミット会議― 新たな障害者の十年に向けた視覚障害者の挑戦」開催
 2002年10月18日、第6回障害者インターナショナル世界会議札幌大会 (約100ヵ国、3000人参加)
 2002年11月、薩摩盲僧琵琶の流れをくむ日向盲僧琵琶の琵琶法師永田法順が、宮崎県の無形文化財に指定される
  [永田法順: 1935〜2010年。 2歳で失明。1948年、延岡市の長久山浄満寺(天台宗。1685年、延岡藩主有馬永純が琵琶盲僧のために建立)の先代住職児玉定法に弟子入り、半年後には経文・琵琶を覚えて檀家まわりをはじめる。1983年、先代の後を継ぎ住職となり、延岡市内や北方町内の檀家約千軒の檀家回りを続ける。2005年10月には、永田法順が伝承する総ての祈祷と釈文およびその檀家回りの様子などを音と映像・写真で記録した全集「日向の琵琶盲僧永田法順」(CD6枚、映像記録DVD1枚、解説付き写真集1冊のセット)が刊行される]
 2002年12月、政府は、2003年度から10年間の障害者施策の基本となる新たな「障害者基本計画」、およびその前期5年間の重点施策の具体的な数値目標を定めた「障害者プラン」を閣議決定
 2002年12月、「アジア太平洋障害者の10年」の延長(新十年)
 2002年、国土交通省が、「鉄軌道駅プラットホーム縁端警告用内方表示ブロック」を規格化(ホームの中央側に1本の線状ブロック(内方線)、その外側に点状ブロックを配す。内方線の形状はJIS T9251規格、点状突起の形状と配置はJIS T9251規格に準じる)
 2002年、学校保健法の施行規則が改正され、色覚検査が定期検診の必須項目から削除される
 2002年、政治学者・竹前栄治(1930〜2015年)が、『盲導犬ネモフィラ』(あすなろ書房)を出版 (東京経済大教授で、主にアメリカの日本占領政策を研究。1980年ころ白内障と網膜変性の合併症で失明、1990年からは盲導犬を使用。2007年には『失明を超えて拡がる世界― GHQ研究者として生きる』出版)
 2002年、デイジー録音再生機「PTR1」発売 (2004年、PTR1 が日常生活用具に指定される)
 2002年、この年末現在で、全国の按摩マッサージ指圧師中の視覚障害者占有率は26.7%(晴眼者71363、視覚障害者25950)、鍼師の場合は20.6%(晴眼者58721、視障者15246)、灸師の場合は20.2%(晴眼者57712、視障者14595)。また、2006年末現在では、按摩マッサージ嗜圧師の場合は25.2%(晴眼者75572、視障者25462)、鍼師の場合は18.4%(晴眼者66430、視障者14931)、灸師の場合は17.9%(晴眼者65611、視障者14321)。晴眼者が増加しているのにたいし、視覚障害者は実数占有率ともに減少している。 (各年度の衛生行政報告例等より)
 2002年、日本、韓国、台湾の盲導犬訓練施設が、盲導犬の繁殖協力や情報交換のために、AGBN(Asia Guidedogs Breeding Network)を設立
 2003年1月、埼玉県は、ユネスコが提唱しているインクルージョンの理念および2002年4月の学校教育法施行令の改正をふまえて、障害児全員が健常児といっしょに授業を受けられるよう盲・聾・養護学校に加えて普通学級にも席を置く「2重学席」の2004年度実施を目指して検討を開始(埼玉県下の市町村教委が2001年秋に養護学校等への進学を勧めた児童生徒計671人の内、305人が普通校に進んだ)
 2003年1月24日、文化庁が、ホームページ上の文章や写真などのネット著作物を、一定の条件下で、著作者に連絡を取らずに無料使用できることを表す「自由利用マーク」を制定。マークは@変更・加工なしならコピーやプリントアウト、無料配布可、A障害者のための使用、B学校教育、の3種類。Aでは、拡大や録音、リライト、さらには実費での配布や貸出、メール送信なども可能。
 2003年1月、本間一夫と日本点字図書館が、第11回井上靖文化賞受賞
 2003年2月21日、日本弁護士連合会が、障害や難病などで投票できない有権者について、投票機会を保障するよう求める意見書を採択(郵便投票制度につき、代筆や点字も認めるよう求めた)
 2003年2月、「Kinkiビジョンサポート」発足(視覚障害者、医療・福祉関係者、ボランティア、福祉機器業者らが参加。中途失明者の社会復帰をサポートするために、各種の講座・イベント・相談などを行っている)
 2003年3月9日、東京都多摩市で、第1回日本視覚障害者サッカー選手権大会開催 (視覚障害者サッカーは、2004年9月の第12回パラリンピック・アテネ大会から正式種目となる)
 2003年3月、NECソフトのソフトウエア開発者・柴田隆秀(全盲)が、「リナックス技術者認定試験」に合格。
 2003年3月28日、文部化学省の特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議が「今後の特別支援教育の在り方について」(最終報告)を答申。LDやADHDもふくめた個別の教育支援計画、特別支援教育コーディネーター、盲・ろう・養護学校から、障害種別にとらわれず地域のセンター的な役割を果たす「特別支援学校」制度への転換などを提案
 2003年3月、医師国家試験の初の特例試験に視覚障害者3人が受験、その中で、守田稔が合格。 (医師国家試験は2001年7月の法改正で視覚障害などを持つ人も受験できるようになり、厚労省の検討会が2002年11月、試験問題の読み上げなどを認める特例受験の方針を決定)
  [守田稔:1975年、大阪市の開業医の家庭に生まれる。関西医科大学在学中の1999年、ギラン・バレー症候群になり両手足の障害とともに失明。2001年関西医科大学の5年に復学、03年3月卒業。同年4月末より、研修医として関西医大精神科に入局、8月医師免許公布。2008年「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」を立ち上げる。2011年、第9回チャレンジ賞受賞]
 2003年4月、支援費制度スタート
 2003年4月、スピーチオが国の障害者対象給付用具に指定され、購入のさい日常生活用具給付事業の助成を受けられるようになる。(スピーチオは、切手サイズに800字を記録できる2次元コード「SPコード」を読み取り、合成音声で再生する装置。2002年3月、廣済堂が発売)
 2003年4月9日、産業技術総合研究所が、「高齢者・障害者配慮設計指針」としてJIS原案3件を作成、経済産業省に提案。日本工業標準調査会(JISC)の審議を経て、年内には経済産業大臣によって正式に日本工業規格(JIS)として制定される予定。
 2003年4月、与党3党が、障害者差別禁止の明記を柱とする障害者基本法改正案を今国会に議員立法で提出することで合意(7月17日に与党案が提出され、民主党も対案を提出、継続審議となる)
 2003年4月、米IBMは、今春以降開発されるすべてのIBMブランド製品をバリアフリー使用に切り替える方針
 2003年、今年度より学校の健康診断での色覚検査が廃止される
 2003年5月、大阪府立中央図書館が、近畿地区の約百人を対象に、デイジー録音された図書をインターネットで配信する実証実験を開始(2005年3月まで)
 2003年6月、JBS日本福祉放送が、電話でも聞くことのできるメールマガジン「JBSクラブ」を発行(テキストデータの電子メール版もあり)
 2003年6月、著作権法の一部が改正(施行は2004年1月)。拡大教科書について、一定額の補償金を支払えば(ボランティア作成の場合は免除)、著作権者の許諾を得ずに掲載できる一般教科書の特例に準じた扱いとなる。
 2003年6月、国連の「障害者権利条約に関する臨時委員会第2回会合」が、「障害者の権利条約」を作成する必要があるとの認識で一致し、2004年内の条約起草に向けた作業部会を設置することで合意。
 2003年7月1日、JBS日本福祉放送が、有料の会員向けサービスとして、インターネット実験放送を開始(2004年5月までのキャンペーン期間は月額500円)
 2003年7月18日、改正公職選挙法が成立(施行は2004年3月1日)。上肢または視覚の障害程度が1級の重度障害者で自ら投票用紙に記載できない者につき、代筆による郵便投票が認められる。
 2003年7月、バチカン美術館が、目の見えない人のために美術品の一部を「触る美術館」として公開すると発表(予約が必要)
 2003年7月、日本が提案し、2001年11月にISOから発行されたガイド「ISO/IECガイド71」をJIS化した規格「JIS Z8071」(高齢者や障害者に配慮すべき点を一覧表にまとめたもの)制定
 2003年7月、盲学校やろう学校の教員、研究者らを中心に、全国盲ろう教育研究会発足
 2003年8月、世界のバリアフリー絵本展(17カ国、43タイトル。手話付絵本、絵文字で書いた絵本、布の絵本、触る絵本、音声付絵本、やさしく読める本など)の全国巡回始まる(2005年7月までの予定)
 2003年8月、ネットイン京都が、視覚障害者や高齢者がPDA(携帯情報端末)の音声で新聞記事などを聴けるサービス「ユビキタス・ラジオ」を開始
 2003年9月、都教委が、「不適切な性教育をした」として、都立盲・ろう・養護学校の教員を処分(七生養護学校事件)
 2003年9月、チューリッヒで、国際点字楽譜会議が開催される
 2003年、視覚障害者支援総合センターが、若い視覚障害者の社会貢献を支援するため、チャレンジ賞(男性対象)、サフラン賞(女性対象)を創設。 10月、渡辺岳(弁護士)が第1回チャレンジ賞、高橋玲子(日本玩具協会共遊玩具推進部会部長。共用品の基準作りなどで国際的にも活躍)が第1回サフラン賞を受賞
 2003年、オンキヨー株式会社と点字毎日の共催で「オンキヨー点字作文コンクール」が開催される。翌年からは、国内だけでなく海外部門も設け、アジア・太平洋地域、西アジア・中東地域、ヨーロッパ地域と対象地域を拡大、09年の第7回からは北米・カリビアン地域へも対象を広げ、点字、活字併記の入賞作品集を全国の図書館等に寄贈するとともに、英語版作品集を世界186ヵ国に寄贈(2011年の第9回からは「オンキヨー世界点字作文コンクール」と改称)
 2003年10月、福岡市で、第1回日本視覚障害者ボウリング選手権大会
 2003年10月、日本視覚障がい情報普及支援協会(JAVIS)が、スピーチオで聞けるSPコード版「SPニュース」を週2回発行(12月末まではお試し版で無料、2004年1月からは月額千円)。また、2005年9月より、SPコードによる薬剤情報提供サービスを開始
 2003年10月、障害学会(Japan Society for Disability Studies)発足。初代会長: 石川准。
 2003年10月、警察庁交通規制科が、視覚障害者のための音響信号機の音を「異種鳴き交わし方式」(横断歩道の両端で「ピヨ」と「ピヨピヨ」または「カッコー」と「カカッコー」の音を交互に出して誘導する)に統一するよう全国の県警に通達。新設分より順次この方式に切り替わる。
 2003年11月、カナダ盲人援護協会(CNIB)が、CNIB電子図書館を公開。1万タイトル以上の音声資料・墨字資料・点字資料と、40タイトル以上の新聞・雑誌・データベース等の一次資料のオンラインでの利用、6万タイトルを超える資料の書誌情報検索や貸出申込みができる。また、読むことに障害を持つ子どもたちのための世界初のポータルサイトである「子どものための発見ポータル」では、録音図書をオンラインで利用できる。
 2003年12月、東京で、第1回アジア視覚障害者ボウリング大会開催
 2003年12月、吉野美夫が、ロックアートで製作した日本と静岡県の触れる立体地図を静岡県立静岡盲学校に寄贈。以後、全国の各盲学校に、日本地図とその盲学校の所在県の地図を順次寄贈の予定。
 2003年、福祉関係者・医療関係者・ボランティアや当事者を中心に、見えない・見えにくい人たちのQOLの向上、ロービジョンケア、情報提供や情報交換を目的に、「きんきビジョンサポート(KVS)」発足
 2004年1月、イタリア、ウェブサイト・技術について、アクセシビリ法(プブリ・アチェッソ)公布
 2004年2月、「全国働く障害者ユニオン」結成
 2004年3月、「全国介助犬協会」(身体障害者補助犬法に基づく介助犬の全国規模での育成を目指す初の組織)設立
 2004年3月、国土交通省が「自律移動支援プロジェクト推進委員会」を設立(街の各所にICタグを取り付けて専用の携帯端末に色々な情報を提供し、自立歩行を支援しようとするプロジェクト)。2004年10月、神戸市でプレ実証実験開始。2005年度より神戸市で本格的実証実験。
 2004年3月、三重県立美術館が、視覚障害児(者)のための美術教育支援教材「触ってセット」を製作
 2004年4月、カナダのトロントで開かれた「国際英語点字協議会(ICEB)の総会で、統一英語点字コード(UEBC)が採択される (2004〜5年に、オーストラリア、ニュージーランド、ナイジェリア、南アフリカが、2010年にカナダが、2011年10月にイギリスが、UEBCの採用を決定。2012年11月、北米点字委員会(BANA)が、将来のアメリカの点字としてUEBCを採用することを決める(理数記号のためのネメメス・コードは存続)。日本では、英文に限り、2016年度の中学英語教科書より順次導入。)
 2004年4月、一般の小中学校に在籍する視覚障害児のための拡大教科書が今年度分から無償給付となる。さらに6月、点字教科書についても今年度後期分から同様の扱いにすると文部科学省が表明。
 2004年4月、日本点字図書館と日本ライトハウスが、視覚障害者向け録音図書ネットワーク配信サービス「びぶりおネット」を開始。配信されるのは、両館が所蔵するDAISY形式の図書データで著作権許諾の得られたもの。 (2005年10月より、点字データ配信サービスも開始。2006年末現在、視覚障害利用者約900人)
 2004年4月、成松一郎(1961〜)が、書籍のユニバーサルデザインを目指して、有限会社読書工房を設立
 2004年4月、名古屋盲人情報文化センターが、ラージサイズの点字を書くための携帯点字器「だいてん丸」を開発・発売
 2004年4月、横浜市に、「日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校」(日本初の盲導犬訓練士養成学校)開校
 2004年4月、(株)ワールドマンセルが、色識別補助レンズ(赤と緑を識別しやすくする)を発売
 2004年5月20日、日本規格協会が、障害者や高齢者等にも使いやすいITを開発するための配慮を定めたJIS規格「JIS X 8341 高齢者・障害者等配慮設計指針-- 情報通信における機器、ソフトウェア及びサービス」の「第1部:共通指針」と「第2部:情報処理装置」を公布。さらに、6月21日に、ウェブサイトのアクセシビリティを扱った「第3部:ウェブコンテンツ」を公布。
 2004年5月、第10回高齢者・障害者のモビリティと交通に関する国際会議(TRANSED2004)が、静岡県浜松市で開かれる(第1回は1978年にイギリスで開催)
 2004年5月、障害者基本法改正案が成立(基本的理念に、障害を理由としたあらゆる差別や権利侵害の禁止が入れられる)
 2004年6月、NPO「ことばの道案内」が、インターネットや携帯電話を活用して、最寄り駅から福祉施設や公共施設・宿泊施設・映画館などまでの道順を言葉で説明する視覚障害者向けの道案内を開始 (2009年現在約500施設へのルートを掲載)
  2004年6月20日、JIS企画として、「紫外線硬化樹脂インキ点字 品質及び試験方法」が制定される。UV点字の強度や大きさ・高さ、それを評化するための試験方法が規定される。
 2004年7月、全国18府県で、参議院比例区の政党公報を全文点訳した「参議院比例代表選出議員選挙のお知らせ 完全点訳版」を配布
 2004年7月、「視覚障害者向け解説放送開発調査研究会」発足。8〜9月に、視覚障害者600人に解説(副音声)放送についてのニーズ調査を行う。
 2004年8月、全国盲学校普通科教育連絡協議会の調べで、2003年度中に、普通校在籍の視覚障害の児童生徒が盲学校で指導を受けたのは317人(幼児34、小学生241、中学生35、高校生7)、また盲学校の教員が普通校などに出向いて指導したケースは227人。
 2004年8月、中日電子が、超音波を使った歩行補助具「モールスソニック」を発売 (超音波で物体までの距離を計り、物体までの距離の遠近を振動の速さの変化で知らせ、また正確な距離をモールス符号で知ることもできる)
 2004年8〜9月、日本点字図書館が、アジア太平洋地域の視覚障害青年を対象に、第1回池田輝子ICT奨学金事業講習会を実施
 2004年9月、障害者のための「大阪府ITステーション」開館
 2004年10月、日本点字図書館が、同図書館の創立者本間一夫を記念して「本間一夫文化賞」を創設。第1回受賞者は、阿佐博(1922〜2018年。4歳の時ダイナマイトの暴発で失明。1990〜2002年、日本点字委員会会長)。
 2004年10月、日盲連をふくむ主な障害者関係11団体が連携して「日本障害者フォーラム」(JDF)発足
 2004年11月、ピアニスト・バリトン歌手の北田康広(1965〜。未熟児網膜症と医療ミスで5歳で失明。筑波大附属盲専攻科音楽科を経て武蔵野音楽大学ピアノ科卒業)が「ことりがそらを」でCDデビュー
 2004年11月、第32回毎日農業記録賞の一般部門で、太田徳昭(55歳。30歳ころ網膜色素変性症で失明)の「花と私〜視覚障害を乗り越えて花栽培に挑戦〜」が最優秀賞受賞
 2004年12月、「特定障害者給付金法案」が成立(国民年金加入が任意だった時代に未加入のまま障害を負い、障害基礎年金を受け取れない元大学生と専業主婦の無年金障害者に、福祉的措置として税財源で手当を支給)
 2004年12月、高知システム開発が、自社製品のパソコン画面につき、テレサポート・サービスを開始
 2004年12月、大阪で、視覚障害者と晴眼者によるアート体験ツアー「読歩PROJECT」第1回開催
 2004年、エイブル・アート・ジャパンが、全国310館を対象に、視覚障害者の美術館・博物館利用に関するアンケート調査を実施
 2004年4月、韓国、チョン・ファンウォン(全盲)が、野党ハンナラ党から立候補して当選
 2004年12月、第6回WBU総会で、毎年10月15日を「白杖の日」と定める。
 2005年1月、「全国視覚障害児童・生徒用教科書点訳連絡会」発足(2006年8月NPO法人化)
 2005年1月、韓国、「交通弱者便宜増進法」(移動権法)成立
 2005年2月、全国障害学生支援センター(1999年4月発足)が、2004年6月に行った障害学生の大学受け入れ状況などについての調査のまとめを公表。全国717大学の内373大学が回答。視覚障害者の受験が可能194、不可18、未定174。(聴覚障害では可能218、不可18、未定150。以下、肢体障害では234、10、142。内部障害では190、11、185。知的障害では72、62、252。学習障害では76、59、251。)調査時点で、何らかの障害を持つ学生が在籍しているのは279校で総数1490人。その内、全盲は39校60人、弱視は75校122人。また、点字受験の実施が確実な大学は59校。
 2005年2月、毎日新聞社が、「点字毎日音声版」(DAISY形式)創刊
 2005年2〜3月、視覚障害者支援総合センター主催で、各地で活動中の視覚障害者音楽家によるコンサートと講演会「競い合い、助け合う コンサート ―羽ばたけ視覚障害音楽家たち―」が、名古屋・大阪・東京で開催される
 2005年3月、医師国家試験に大里明弘(1955〜.東京医科歯科大学4年、23歳の時、左眼失明、右眼の視力も低下。拡大読書機を使って医師国家試験を受けるが不合格。現在は光覚)が合格。精神科臨床医を目指す (9月医師免許公布、12月より筑波大附属病院で臨床研修)
 2005年3月、「インド障害者運動の父」として知られるL.アドヴァニ没。 (1922年現パキスタンのハイデラバードに生まれ、先天性緑内障のため12歳で失明。カラチの盲学校で学んだ後、理学療法士として働きながら独学で語学や歴史学を学び、1943年にボンベイで行われたロンドン大学の認定試験に合格。47年、インド文部省に入る。50年代に、視覚障害・聴覚障害・知的障害・肢体不自由の4つの全国組織の設立に関わり、インドにおける障害者運動の基礎を築く。)
 2005年5月、文部科学省によると、2004年度、盲学校から一般の大学や短大へ進学した生徒の割合は約12%(10年前の1994年度は約4%)
 2005年5月、日本点字図書館が、「ユニバーサルデザイン推進室(UDラボ)」を開設。触図製作及び関連事業、録音図書ネットワーク製作、DVDコンテンツの副音声製作の3事業を展開。
 2005年6月、欧州委員会が、EUの総合的情報社会戦略である「i2010」を発表 (地域的、年齢的、身体的差異によるデジタルディバイドの解消、政府が調達するICT機器やサービスなどのアクセシビリティ確保の義務付けなどを含む)
 2005年7月、東京で、「拡大教科書の現状と課題〜安定供給のために、いま何が必要か」をテーマに、第1回出版UD研究会開催
 2005年7月、障害者雇用促進法が改正される (施行は2006年4月。精神障害者も雇用率制度に含める、在宅就業障害者に対する支援等)
 2005年8月、主に視覚障害者のための理数系教育支援を目的として、NPO法人サイエンス・アクセシビリティ・ネットが発足
 2005年8月、視覚障害者へのロッククライミング普及を目的に、NPO法人モンキーマジック発足(代表 小林幸一郎)
  [小林幸一郎:1968年〜。16歳頃からフリークライミングを始める。28歳の時に網膜色素変性症であることが判り、失明を宣告される。2005年、国際登山プロジェクトに参加し、世界の視覚障がい者とキリマンジャロ山登頂。06年7月 第1回障害者クライミング世界選手権 視覚障害男子の部優勝。2010年12月、千葉県で開催された第1回視覚障害者クライミング世界選手権(International Federation Sports Climbing。日本山岳協会共催)を企画・運営。2012年、自伝『見えないチカラ―視覚障害のフリークライマーが見つけた明日への希望』]
 2005年8月、イギリス、16ポイント以上の拡大文字による印刷物が盲人用郵便として無料となる
 2005年8月、ベトナムのホーチミン市で、第1回アジア視覚障害者サッカー選手権開催
 2005年9月、「日本身体障害者補助犬学会」発足
 2005年9月、文部科学省の調査で、2005年1月現在、全国の小・中学校の通常学級に在籍する弱視児は1739人(小学生1255人、中学生484人)
 2005年9月、青山茂(全盲)を中心に、可動式ホーム柵の普及を目指して「駅にホーム柵を! 日本会議」発足
 2005年9月、韓国からの留学生全英美(チョン・よんみ。4歳で失明。清州盲学校小中学部、高等部理療科を経て、テグ大学初等特殊教育科卒業。1996年に来日し、福岡県立福岡盲学校理療科卒業。2001年筑波大学大学院教育研究科障害児教育専攻修士課程終了)が、東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻を卒業、博士号を取得(テーマは針きゅう師の日韓比較。2007年『視覚障害者と鍼治療――施術における衛生保持確立は可能か?』を出版)
 2005年10月、「バリアフリー資料リソースセンター」設立 (市販の本をそのままでは利用できない人たちのために、パソコンで音声読み上げしたり拡大して読書できる形式のデータを収集・製作し、原本と同価格で提供することを目的とする)
 2005年10月、富山県で、言葉を通して視覚障害者とともに美術鑑賞する「ミュージアム・アクセス・とーくる」発足
 2005年10月22日、携帯電話、固定電話、FAXなどにおいて、高齢者や障害者等が利用可能となるよう配慮すべき事項のガイドラインとして、日本工業規格「JIS X 8341 高齢者・障害者等配慮設計指針−情報通信における機器、ソフトウェア及びサービス」の「第4部:電気通信機器」が制定される
 2005年10月31日、「障害者自立支援法案」が衆議院で可決・成立。身体、知的、精神の障害種別ごとに分かれていたサービス体系を一元化、障害程度区分を見直し、利用したサービス料の原則1割を障害者に課す。2006年4月1日より一部施行、2006年10月1日より完全施行(地域生活支援事業開始)。
 2005年11月、(株)大活字が、読者の注文に応じたオンディマンド出版を開始 (同社発行の本7冊、および同社が扱う算数・英語・数学の拡大教科書につき、文字の大きさや図版の拡大率を変えたA5・B5・B4版からもっとも読みやすい物を選び注文できる)
 2005年12月、EU(欧州連合)議会が、障害者の航空機および空港利用について差別を禁止する規則を採択。 (2008年までの実施を目指す。)
 2005年、インドの障害者運動の父と呼ばれたアドヴァニ(Shri Lal Advani: 1922〜2005年)没 (緑内障のため10歳過ぎに失明。1934年カラチの盲学校に入学。1942年インドで初めて設けられた理学療法師の課程を受け、理学療法師として病院に勤務。英語、フランス語・歴史などを独学し、43年にロンドン大学がボンベイで行った検定試験で優等な成績をおさめる。1947年インド政府の文部省に入り、視覚障害者の教育環境整備に尽力。1950年代には、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由、知的障害の4つの全国規模の障害者団体の結成に関わる。その後社会福祉省に移り、次官まで昇進し、1982年引退。その後も、1995年のインド障害者差別禁止法の制定・施行に寄与し、また国際的な視覚障害者団体の要職もつとめた。)
 2006年3月、国立民族学博物館で、企画展「さわる文字、さわる世界─触文化が創りだすユニバーサル・ミュージアム─」開催(〜9月)
 2006年3月、新潟県立高田盲学校が閉校となる (高等部は新潟県立新潟盲学校に統合、小中学部は新潟盲学校高田分校として上越養護学校内に移設される。2013年3月に、高田分校も閉校となる。)
  [高田盲学校: 1886年眼科医杉本直形・大森隆碩らが「訓盲談話会」を設立、翌年「盲人矯風研技会」に改称(この年を創立年とする。京都の盲唖院、東京の楽善会訓盲院についで全国で3番目の盲学校)、1891年「私立訓矇学校」に改称、1949年新潟県に移管し「新潟県立高田盲学校」に改称]
 2006年3月、全国銀行協会が、行員を対象に「銀行におけるバリアフリーハンドブック」を発行
 2006年4月、全国約7500の医療法人で、SPコード付き医療情報提供サービス開始
 2006年4月、オーストラリアの全盲のプログラマーMichael CurranとJames Tehが、フリーの Windows 用スクリーンリーダー「NVDA (Non Visual Desktop Access)」を開発・公開。NV Accessという非営利団体が組織され、バージョンアップと各国語への対応が行われる。現在40以上の言語に対応(日本語対応は2013年5月に実用化)。
 2006年5月、東京大学が、視覚障害者2人をヘルスキーパーとして採用
 2006年5月、韓国、憲法裁判所が、視覚障害者のみにマッサージ師の資格を付与する現行制度につき、視覚障害者以外の国民の職業選択の自由を侵害するとして、違憲判決 (韓国では、1973年にマッサージの盲人専業が法制化された)
 2006年6月15日、「高齢者障害者移動円滑化促進法」成立 (建築物を対象にしたハートビル法と公共交通の旅客施設を対象とした交通バリアフリー法を一本化、対象となる地域・施設を拡大。2006年12月20日施行)
 2006年6月15日、改正学校教育法が成立(盲学校・ろう学校・養護学校の法令上の位置付けを「特別支援学校」に一本化。複数の障害のある子供にも対応しやすくする。施行は2007年4月1日)
 2006年6月、東京に、「視覚障害者就労生涯学習支援センター」開所
 2006年8月、吉住寛之(1973〜.11歳の時緑内障になり目薬の副作用で失明。1993年九州大学法学部入学、99年同大学院終了)が、民間検定「ビジネス実務法務検定試験2級」に合格(点字受験ではなくボランティアによる代読・代筆)
 2006年8月、東京で、第1回全日本ブラインドダンス選手権大会(主催: 日本ダンス議会)
 2006年8月、第8回国連障害者の権利条約特別委員会で、障害者権利条約草案仮採択
 2006年8月、ドイツ、障害者の均等処遇に関する法律が制定される
 2006年9月、視覚障害者用システムのサポートや販売をしている株式会社ラビット(代表・荒川明宏(全盲)、1999年設立)が、月刊のボイスマガジン「ルナドリーム」を創刊(ネット配信または音楽形式のCDで提供)
 2006年9月、本年5月に行われた法科大学院修了者を対象とした初の新司法試験で、大胡田誠(29歳。先天性緑内障、12歳で失明。筑波大学付属盲学校卒業後、慶応大学法学部、慶応大学法科大学院出身)が合格 (試験はパソコンと点字を併用。2007年12月、渋谷シビック法律事務所入所。2012年『全盲の僕が弁護士になった理由』。2017年、第15回チャレンジ賞) (なお、弟で全盲の大胡田裕も、教員採用選考試験に合格、2007年4月より静岡県立沼津西高の英語教員)
 2006年9月、日本財団の支援を受け、筑波技術大学が中心となって、「アジア視覚障害者マッサージ指導者協議会設立準備会議」開催、2007年3月ラオスとカンボジアで第1回海外セミナーを開催、2007年10月「アジア医療マッサージ指導者ネットワーク」(Asia Medical Massage Instructors Network: AMIN)設立
 2006年9月、国土地理院が、触地図をパソコンで簡単に編集・制作できる「触地図原稿作成システム」を公開、無償提供を開始
 2006年9月、香港のグレース・チャン(Mrs. Grace Chan: 1945〜.香港盲人補導会(The Hong Kong Society for the Blind)行政総裁)が、アジア太平洋地域の失明防止と視覚障害者福祉への献身により、第14回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞
 2006年10月、千葉県で、全国発の障害者差別をなくすための条例(「障害のある人もない人も共に暮らしやすい県づくり条例」)が成立 (差別の定義、県知事による勧告など差別の解決策、裁判など紛争処理での障害者への公的助成など。2007年7月施行)
 2006年10月、地方自治体が行う地域生活支援事業の一つとして「コミュニケーション支援事業」が創設され、その中に視覚障害者への点訳・音訳等による支援も加えられる (2007年1月に、厚労省の委託で日本ライトハウスが行った調査では、全国の自治体の中で視覚障害者へのコミュニケーション支援事業を行っているのは10%以下)
 2006年10月、日本盲導犬協会が、静岡県富士宮市に、盲導犬の繁殖、訓練、引退後のケアまでを一貫して行う「日本盲導犬総合センター」を開設
 2006年10月、日本点字図書館が、録音図書のうちテープ図書の貸出サービスを2011年で終了し、デイジー図書のみとすると発表
 2006年10月、筑波大学附属視覚特別支援学校音楽科が、視覚障害児を対象に、「小・中学生のための音楽スクール」を開始 (以後毎年度開催)
 2006年10月31日〜11月2日、茨城県つくば市で「経穴部位国際標準化公式会議」が開催され、361経穴部位の国際標準化が決定 (2008年6月『WHO標準経穴部位英文公式版』発行、2009年3月同日本語公式版発行)
 2006年11月2〜4日、東京で、視覚障害者のための国際情報・機器&サービス総合展「サイトワールド」開催 (展示会、講演会、シンポジウム、フォーラム、映画会、意見交換会、自主研究発表会、体験会など) (その後毎年開催)
 2006年12月13日、第61回国連総会が「障害者の権利条約」を全会一致で採択 (移動の障害の除去、情報へのアクセス、教育における機会平等、就職や昇進面での差別禁止、さらに条約の実施状況について国内および国際的な監視機構の設置などが盛り込まれている。2007年3月30日から署名、批准が可能となり、20カ国が批准した時点で発効。日本政府は2007年9月に署名。2008年4月批准国が20カ国になり2008年5月3日発効。日本では2013年12月批准案が国会で承認される。2013年10月現在138ヶ国・機関が批准)
 2006年12月15日、著作権法の一部を改正する法律案が成立(施行は2007年7月1日)。視覚障害者の用に供するために行う録音図書の自動公衆送信が、著作権者の許諾なしにできるようになる(第37条第3項)
 2006年12月、箏曲家の中塩幸祐没
  [中塩幸祐: 1911〜2006年。本名:幸助。広島県生まれ。2歳の時薬の副作用で失明。1923年大阪に出て大阪市立盲学校に入学、24年菊田歌雄に入門、27年大阪市立盲学校中等科音楽本科卒業、29年東京に出、宮城道雄に作曲を学ぶ。1938年箏曙会を結成し、家元として幸祐を名乗る。演奏活動、門下生の育成とともに、200曲近くを作曲。また、古典箏曲伝承者を訪ねて録音し600曲近くを楽譜に起こして、古典箏曲や地歌の発掘・保存に尽力。1979年には古典箏曲を支えてきた盲人音楽家の三百年間の系譜をまとめた『先師の足跡』を出版。1978年第15回点字毎日文化賞、1980年黄綬褒章]
 2006年、日本彫刻会の第36回日彫展で、視覚障害者のための触れる彫刻鑑賞プロジェクトが開催される (以後毎年開催)
 2006年12月、アメリカ、「National Instructional Materials Access Center (NIMAC")」が、拡大文字や点字など多媒体教科書の提供を開始(各教科書出版社に定められたファイルフォーマットでのデータ提供を義務付け、それをセンターが多媒体に変換して各障害児に適した教科書を提供)
 2007年2月、日本魚類学会が、「メクラ、オシ、バカ、テナシ、アシナシ、セムシ、イザリ、セッパリ、ミツクチ」の9つの差別的語を含む32種の魚類の標準和名について改名すべきと提案 (例:メクラウナギ→ホソヌタウナギ、オシザメ→チヒロザメ、メクラアナゴ→アサバホラアナゴ、セムシイタチウオ→セダカイタチウオ)
 2007年2月、横浜市交通局が、地下鉄ブルーラインの全32駅で可動式ホーム柵の設置工事に順次着手
 2007年2月20日、「JIS S 0022-3 高齢者・障害者配慮設計指針−包装・容器−触覚識別表示」制定
 2007年3月、日盲社協の調査によれば、全国で実働している盲導犬は965頭(昨年より13頭増加。2008年3月は996頭、2009年3月は1045頭、2010年3月は1070頭、2011年3月は1067頭、2012年3月は1043頭、2013年3月は1013頭、2014年3月は1010頭、2015年3月は984頭、2016年3月は966頭、2017年3月は951頭、2018年3月は941頭。なお、国際盲導犬連盟によれば、各国の盲導犬実働数は、アメリカ8000頭以上、イギリス4656頭、ドイツ1500〜2000頭、フランス1500頭、ロシア800頭、スペイン562頭、オランダ500頭、オーストラリア493頭、ベルギー350〜400頭、スイス350頭、ニュージーランド303頭)
 2007年3月、「JIS T 0922:2007 高齢者・障害者配慮設計指針−触知案内図の情報内容及び形状並びにその表示方法」制定
 2007年3月、韓国、「障害者差別禁止及び権利救済等に関する法律」成立(2008年4月施行)
 2007年4月、一部の盲学校が校名を「視覚特別支援学校」等に変更。また、一部の県では、他の障害種も含む「特別支援学校」に再編・統合する動きもある。
 2007年4月、「JIS S 0026:2007 高齢者・障害者配慮設計指針― 公共トイレにおける便房内操作部の形状、色、配置及び器具の配置」制定
 2007年4月、日本点字図書館が、視覚障害者にDVD音声解説CDの貸し出しを開始(パソコンでDVDを再生しながら人物の動作や場面などの状況解説を聴くことができる。解説ナレーションはシティライツが制作)
 2007年4月、「アートリンク日米フォーラム」が、岡山、京都、東京で開催される(アートリンク: 障害者とアーティストとがペアを組んで共同制作するプロジェクト。1995年、Grace-Ann Alfieroがフロリダ州で「Creative Clay」を設立し、提唱)
 2007年4月、「演劇結社ばっかりばっかり」発足 (「観る側も、演じる側も、バリアフリー」がコンセプト。全盲の役者も演じ、また視覚障害者も聴覚障害者も劇場で一緒に楽しめる)
 2007年、有限会社安久工機が、見えない人が触れて確認でき描き直しもできる絵筆「触図筆ペン みつろうくん」を開発・発売
 2007年6月、大阪市のNPO法人アイティーフリーが、第一回全国視覚障害者携帯ワープロ競技大会を開催
 2007年6月、東京で「全国音訳ボランティアネットワーク」設立総会 (代表:藤田晶子。2012年からは、テキストデータの提供も始める。)
 2007年7月、日本学生支援機構が、2006年度に行った大学・短大・高専における障害学生の収学支援に関する実態調査の結果を公表。1167校が回等。670校に4937人の障害学生が在籍(全学生数の0.16%)。内訳は、肢体不自由1751人(35.5%)、聴覚・言語障害1200人(24.3%)、病弱・虚弱877人(17.8%)、視覚障害510人(10.3%)、発達障害127人(2.6%)、重複93人(1.9%)、その他379人(7.7%)。視覚障害学生は全盲176人、弱視334人で、何らかの授業保障を受けている者は全盲145人、弱視222人。その内容は、試験時間延長・別室受験が82校(59.4%)、教材の拡大が72校(52.2%)、回等方法の配慮が67校(48.6%)、ガイドヘルプが24校(17.4%)、リーディングサービスが29校(21.0%)、ノートテイクが13校(9.4%)。
 2007年7月、参議院議員選挙で、比例区の選挙公報全文の点字版とともに、カセットテープ版および音声コード付拡大文字版が制作される(選挙区選挙の選挙公報についても、一部で、同様の方式で製作される)
 2007年7月、シンガポールで開催された「世界緑内障会議2007」において、3月6日を「世界緑内障の日」と定め、2008年より毎年この日を中心に世界緑内障協会(World Glaucoma Association)と世界緑内障患者協会(World Glaucoma Patient Association)が中心となって各国で啓発活動を行う
 2007年7月〜9月、上野動物園で「ポケットミュージアム〜見て 触れて 感じて! はくせい動物園〜」開催
 2007年8月、「2007年度学校基本調査(速報)」によれば、盲学校高等部卒業者は283人、その内進学者が109人、就職者が35人、公共職業能力開発施設入学者が6人、その他が130人。進学者109人の内訳は、大学27人、短大4人、大学・短大の通信教育部1人、盲学校(特別支援学校)専攻科が77人。
 2007年8月、愛媛県で、特別支援学校再編整備計画案として、松山盲学校を松山聾学校に移転統合し、知的障害高等部を新設する案が公表される。この移転統合案に反対する「盲学校を現在地に存続させる会」が発足、9月の県議会で同会が提出した請願書が全会一致で採択。11月12日、県教委の第三者委員による検討委員会が、最終案としてほぼ従来の計画案通り県教委に報告することを決定。 (9月に発足した「ろう学校を守る会」も、県立松山聾学校・同宇和聾学校それぞれに他の障害の学校を統合する案に反対し単独校維持を求めて活動)
 2007年8月、大阪府茨木市で、第1回石創画タッチ展開催(以後毎年開催) (石創画:石の粒にセメントを混ぜ、それに顔料も加えて練り合わせ、それを型に塗り込んで、乾いたあとで磨き上げて、絵を描く方法。江田挙寛(1942年〜)が1978年に開発した技法)
  2007年8〜9月、「国際視覚障害者援護協会」と「ウイズ」(視覚障害者中心の授産所)が、ミャンマーの盲学校で、視覚障害者に白杖の製作および使用方法を指導
 2007年9月、第2回目の新司法試験に中京大法科大学院の田中伸明(40歳。網膜色素変性症のため名古屋大学工学部在学中に視力が衰え法学部に転部して卒業)が合格(試験では点字と音声パソコンを使用)
 2007年9月、内閣府が、音声広報CD「明日への声」発行開始 (ほぼ隔月刊。2010年からは点字広報誌「ふれあい らしんばん」も発行)
 2007年10月、名古屋ライトハウス愛盲報恩会より『視覚障害人名事典』刊行(視覚障害者と関係者約700人を掲載)
 2007年10月、総務省が「視聴覚障害者向け放送普及行政の指針」を公表。2017年までに達成すべき数値目標: 字幕放送については、複数の話者が同時に話すワイドショーやバラエティなど一部の生番組や音楽番組などを除く、すべての放送、解説放送については、NHK総合と民放で10%、NHK教育で15%の番組 (2007年現在:NHK総合で3.7%、NHK教育で8.7%)
 2007年11月、セブン銀行が、視覚障害者向けにATM備え付けのインターホンによる音声ガイダンス取引きを全ATMで開始
 2007年11月28日、補助犬を連れた障害者の受け入れを企業に義務づけるなどを規定した「改正身体障害者補助犬法」が成立 (2008年4月部分施行、2008年10月完全施行)
 2007年12月、ブラジル、通信省が、ブラジル郵便公社が差出人の依頼により視覚障害者宛の郵便物の内容を点訳して配達するサービスを開始すると発表
 2007年、イタリア議会が、毎年2月21日を「点字の日」とする法律を可決。
 2008年1月、視覚障害教育の研究者たちが、「『視覚障害に対応する教育を専ら行う特別支援学校(盲学校)』の必要性に関する緊急アピール」(代表:鳥山由子筑波大特任教授)を発表
 2008年1月、沖縄県教育委員会が示した盲学校と知的障害との併設型特別支援学校への移行案を受けて、沖縄盲学校の保護者・同窓生・退職教員などが「沖縄盲学校の未来を考える会」を結成、盲学校の単独維持型を求め活動開始
 2008年1月、明石市立文化博物館で「遠き道展 はてなき精進の道程」が開催され、日本画を視覚障害者が鑑賞するための様々な方法(触れられる日本画、日本画のレリーフ、点図・立体コピー・樹脂による触図化、ボランティアによる鑑賞ガイドツアー、CDを使った図録、蜜蝋ペンを使った体験ワークショップ、音声ガイド等)が試みられる (同展覧会は、以降2年間にわたって、全国約20箇所のミュージアムで順次開催される予定)
 2008年1〜4月、京都市学校歴史博物館で、「京都盲唖院発!障害のある子供たちの教育の源流」展開催(会期中4日間は展示物に触れられる)
 2008年2月、アメリカ、ジャズピアニストのクリス・アンダーソン(Chris Anderson: 1926〜2008年)没 (半身不随、20歳で失明。ハービー・ハンコック等に影響を与える)
 2008年3月19日、民主党が参議院に教科書バリアフリー3法案を提出
  [教科書バリアフリー関連3法案:「標準教科用拡大図書の発行等に関する法律案」(教科書会社が拡大教科書の発行や教科書作成のための電子データを提供することなど)、「小中学校及び高等学校に在学する視覚障害を有する児童生徒等の教科用拡大図書等の使用の支援に関する法律案」(小中学校における拡大教科書等の無償措置及び高等学校における拡大教科書の購入に対する援助措置)、「特別支援学校への就学奨励に関する法律の一部を改正する法律案」(特別支援高等部専攻科の音声教科書購入費の援助措置など)]
 2008年3月、厚生労働省より「平成18年身体障害児・者実態調査結果」が公表される
 2008年3月、プルデンシャル・タワー(東京)の敷地内にある坂口陽史メモリアルガーデン内に、視覚障害者もひとりで香りと手触りを楽しめる「タッチ・アンド・スメル・ガーデン」オープン
 2008年3月、アメリカ、デビッド・パターソン(david alexander paterson, 1954〜、民主党)が、ニューヨーク州知事に就任 (アメリカ史上4人目、ニューヨーク州では初の黒人州知事。生後3か月で感染症のため左眼を失明、右眼も強度弱視となる。両親は市内の普通学校で教育を受けさせようとするが、特殊学級でなければ受け入れられないとされたため、普通学級への通学が可能なロングアイランドに転居してヘンプステッドの公立学校に入学。1971年に地元の公立高校を卒業し、1977年にコロンビア大学から学士(歴史学)、1983年にホフストラ大学のロー・スクールから法務博士(専門職)の学位を得、クイーンズ区の地区検察局に就職。ニューヨーク州の司法試験を受けるが、視覚障害にたいする配慮が不十分なこともあって不合格、85年に検察局を退職。85年10月、第29選挙区(黒人の多いハーレム地区を含む)から上院議員に当選。その後連続当選し、2003年には院内総務となり、06年11月、州知事選挙で知事候補エリオット・スピッツァーとともに副知事として立候補、07年1月副知事就任。2008年、スピッツァーが高級売春クラブの会員だったというスキャンダルで州知事を辞職、規定によりニューヨーク州知事に就任、2010年12月末までその任にあった。)
 2008年4月、『盲ろう者への通訳・介助−「光」と「音」を伝えるための方法と技術』(社会福祉法人全国盲ろう者協会編著)が刊行される(様々なコミュニケーション方法が解説されている)
 2008年4月、京都の市民ボランティアグループ「ユニーズ」が、観光などの目的で他府県から京都に来る視覚障害者をサポートする「アイヘルパー」の活動を開始
 2008年6月、「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」発足 (医師や理学療法士など、いろいろな医療関係職に従事する視覚障害のある人たちの会。代表:守田稔)
 2008年6月10日、「障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律(通称 教科書バリアフリー法)」(議員立法)が、衆議院文部科学委員会及び本会議において全会一致可決・成立 (「教科用特定図書」とは拡大教科書と点字教科書を指す。教科書会社にたいして、検定教科書の電子データを国に提供することを義務付け、また拡大教科書の発行を努力義務とする等。合わせて著作権法第33条の2の一部も改正され、視覚障害ばかりでなく発達障害等にたいする配慮が明記される。施行は、2008年9月17日)
 2008年6月、大阪府の職員採用試験(大学卒程度)で、点字試験に音声パソコンを併用する受験が行われる。
 2008年6月、千葉県立中央図書館が、視覚障害者や寝たきりの高齢者らを対象に、ボランティアが朗読した図書の内容をデジタルデータで収録した携帯音楽プレーヤー「iPod」の貸し出しを開始
 2008年7月、日本財団とアジア太平洋障害者センターが、バンコクで「視覚障害者リーダー・未来への対話――よりよいアジア社会の構築を目指して!!」を開催
 2008年8月、WBU(世界盲人連合)の第7回総会がジュネーブで開催。WBU-AP(WBUアジア太平洋地域協議会)の会長に指田忠司が選ばれる(〜2011年) 
 [指田忠司:1953〜。高校1年のとき体育の事故で失明。東京教育大学附属盲学校を経て、早稲田大学法学部に入学し、1978年同大を卒業。1977〜91年、法律職を目指す視覚障害者の研究団体ユスティティアの会代表。1992年より、日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター研究員(2013年より特別研究員)。2003年より、日盲連国際委員会事務局長。視覚障害者の雇用問題、各国の障害者雇用制度、障害者差別禁止法などに関する研究をして多くの論文を発表。2016年、第34回鳥居賞受賞]
 2008年8月、「大活字図書等購入費助成制度を作る会」が、3年時限の助成制度確立を目指して第1回発起人会を開く
 2008年8月、東京で、視覚障害の中・高校生を対象に「科学へジャンプ・サマーキャンプ2008」が開催される (この事業は、2009〜2011年度の3年計画で「科学へジャンプ」視覚障害者全国ネットワーク構築プロジェクト(九州先端科学技術研究所提案による科学技術振興機構の事業)として継続され、全国版の「科学へジャンプ・サマーキャンプ」のほか、「科学へジャンプ・地域ミニ版」、ITリテラシー研修等も行っている)
 2008年8月、大活字文化普及協会、発足
 2008年9月、アメリカ、「2008年ADA改正法(The ADA Amendments Act of 2008)」成立(2009年1月施行)
 2008年9月、「ふくおか視覚障害者雇用開発推進センター(キャリアセンターあい)」発足
 2008年10月、びぶりおネット(点字・録音図書ネットワーク配信サービス)で、携帯電話による録音図書配信サービスが始まる
 2008年10月、真っ暗な中で食事や会話を楽しむレストラン「クラヤミ食堂」が、東京・赤坂に開店 (店内は薄暗く、客はアイマスクをつけ、視覚以外の感覚で料理を楽しむ。数人の友達で来ていると、その料理がどのような素材でできているかについて互いに話し合うことが多くなるという。同様の試みとしては、東京・浅草にある緑泉寺でも08年1月から月1回「暗闇ごはん」が開催されており、08年7月には京都のイタリアレストラン「「カーラ・ラガッツァ」で「ブラインドレストラン in京都 2008」が行われた。)
 2008年10月、詩人で青い窓の会主宰の佐藤浩(1921〜2008年)没 (15歳の時、鉄棒から落ちて左目失明。1939年東京歯科医専に入学、41年視力低下のため中退、帰郷して福島県根木屋国民学校の代用教員となる。46年教員を退職し創作活動に入る。48年完全失明。50年福島県立盲学校に入学、鍼灸を学ぶ。54年同校を卒業し開業するとともに、薄皮饅頭の老舗柏屋本店にコピーライターとして入社、その後営業企画の常務取締役となる。58年5月から、柏屋に毎月一篇ずつ子供の詩を飾るウィンドー「青い窓」を設け、また同年から月刊で同名の児童詩誌を発行。1992年、第29回点字毎日文化賞受賞。著書に『童顔の菩薩たち―仏教と児童詩』『子供の深い目 「青い窓」から見た子供たち』など)
 2008年11月、畑村 洋太郎が、絵と言葉は置き換え可能だという考えの下、自著の『失敗学のすすめ』を、その中の写真や図も自らの言葉で説明して音訳し、そのデイジー版を全国の視覚障害者情報提供施設等に無償配布(インターネットからもダウンロードできる)
  2008年、澤村祐司(1981〜。先天性の緑内障。11歳より箏を本格的に学ぶ。筑波大学附属盲学校高等部音楽科卒業後、東京藝術大学音楽学部邦楽科箏曲生田流専攻を経て、2008年同大学院音楽研究科修士課程修了)が、第2回八橋検校日本音楽コンクール部門別の一位と最高位の「八橋検校賞」受賞 (詩と音楽のコラボレーション集団“VOICE SPACE”代表、邦楽ユニット「箏七星」メンバー、宮城会、重音会、森の会会員。2013年、第11回チャレンジ賞受賞)
 2008年、日本ライトハウス盲人情報文化センターが、マルチメディアデイジー製作事業、テレビ・映画への音声解説事業開始
 2008年、滋賀県立盲学校が、創立百周年記念事業として、剥成をはじめ標本類や模型等触れる資料を整備し、学内だけでなく一般にも公開
 2008年、福岡市のボランティアグループ「バードコール」(代表:田中良介)が、野鳥の声を録音したCDを、年1回、主に視覚障害者に送る活動を始める(「声の野鳥便り」と「道原の自然」。「道原の自然」は、全盲の山口正司が録音)
 2008年、タイ、ブンタン(Monthian Buntan: 1965〜)が、上院議員選出委員会により上院議員に選ばれる (幼少期から視覚障害で、チェンマイ盲学校で学ぶ。一般の高校に進み、さらにチェンマイ大学で英語と哲学を専攻し1988年に卒業。その後アメリカに留学して、ミネソタ州のセント・オラフ・カレッジとミネソタ大学で音楽学を専攻し学士号・修士号を取得。93年に帰国、視覚・聴覚障害者向けのラチャスーダ・カレッジの開設のために働き、98年には同大の副学長に就任。研究とともにタイ盲人協会(TAB)の役職も果していたが、2003年びラチャスーダ・カレッジを退職し、障害者運動に専心、翌年にはTAB会長に選ばれる。また、2002年よりWBUのアジア・太平洋地域代表執行委員、さらにタイ政府代表として国連での障害者権利条約の審議にも関わるなど国際的にも活躍している。2011年、上院議員として再選される。)
 2009年1月5〜8日、パリで、ルイ・ブライユの生誕200年を記念する国際会議開催(46カ国から400人参加)
 2009年1月、富山大学が、大学院生命融合科学教育部(博士課程。認知・情動脳科学、生体情報システム科学、先端ナノ・バイオ科学の3専攻)に身体障害者の入学枠を設置 (この特別枠で、10月、鈴木淳也(ソニーで障害者などに使いやすい商品開発に携わる)が入学)
 2009年2月、福島市子どもの夢を育む施設「こむこむ」で、視覚障がい者と共に楽しむ「フィーリング・プラネタリウム」というプラネタリウム番組を公開(点図と音声で冬の星空を楽しむ。以後毎年2月に開催している。)
 2009年3月24日〜4月4日、伊藤泰行(1971〜)が、ニューヨークのセイラム・ギャラリーで油絵の個展開催 (2003年レーベル病のため中心部の視野を失い強度の弱視になる。同年秋から日本ライトハウスで生活訓練・職業訓練を受け、06年視覚障害者用のパソコン教室を神戸で始める。05年から独学で油絵を描き始め、07年第51回神戸二紀展と第61回関西二紀展に入選)
 2009年3月27日、北海道議会が、「北海道障がい者及び障がい児の権利擁護並びに障がい者及び障がい児が暮らしやすい地域づくりの推進に関する条例」を可決
 2009年3月、日本盲人社会福祉施設協議会より『何を聞かれても困らない視覚障害者のためのパソコン指導マニュアル−パソコン指導に必携の書!3つのスクリーンリーダーにも対応−』(著者:白井康晴)が出版される
 2009年4月、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(通称「ハンセン病問題基本法」)施行
 2009年4月、筑波技術大学障害者高等教育研究支援センターが、マルチモーダル(活字・点字・音声・電子)図書『宇宙と私たち−天文学入門』(京都大学の嶺重慎教授と茨城県立水海道一高の高橋淳教諭が執筆。点図51枚ふくむ)刊行、全国の盲学校や点字図書館などに寄贈
 2009年4月、大活字本普及協会が、「新潮オンデマンドブックス」を大活字版で提供する活動を開始
 2009年4月、京都で、障害のある人が選挙や政治に参加しやすい環境をつくることを目的に「障害をもつ人々と参政権研究会」発足
 2009年4月、講談社が、「大きな文字の青い鳥文庫(22ポイント・ゴシック体の大活字版。児童向けの小説シリーズ)20タイトル35冊を、全国の盲学校に寄贈 (その後も、毎年10作以上製作し、2015年には100作を越える。読書工房から個人向けにも販売してしている。)
 2009年4月、東京大学大学院教育学研究科に「バリアフリー教育開発研究センター」開設
 2009年4月、韓国、韓国視覚障害者テニス連盟発足
 2009年4月、米国議会図書館の視覚障害者及び身体障害者のための全国図書館サービス(LC/NLS)が、デジタル録音資料のダウンロードサービス(BRAD: Braille and Audio Reading Download)を開始。
 2009年5月、「東京都盲ろう者支援センター」が開所(運営は、東京盲ろう者友の会。東京都も助成)
 2009年5月、南アフリカ、強度の弱視の黒人女性ヘンリエッタ・ボゴポーン・ズルが、公共事業省の副大臣に就任
 2009年6月、辻井伸行(1988〜。全盲)が、第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝 (1995年全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部第1位受賞、2000年第1回ソロ・リサイタルをサントリーホール小ホールで開催、05年第15回ショパン国際ピアノコンクールで批評家賞を受賞。2013年、第50回点字毎日文化賞))
 2009年6月12日、参議院で、著作権法の一部を改正する法律案が、可決・成立 (無許諾使用の範囲が、視覚障害者のための点字や音声による方法だけから、聴覚障害者や発達障害者もふくめた多様な方式に拡大される。施行は2010年1月)
 2009年6月18〜20日、フランスのクーブレにあるディズニーランドの会議場で「ルイ・ブライユ生誕200年記念国際会議」開催
 2009年6月、韓国、国立大邱博物館が、視覚障害者向け「触る博物館」開催(教科書によく登場する国宝級文化財の複製を作成し、解説をしながら、視覚障害者に直接手で触れ、体験してもらおうというもの。以後毎月1回開催予定)
 2009年7月、字幕や音声ガイドを付加して視覚障害者や聴覚障害者も楽しめる映画やアニメ作品を提供することを目的に、「メディア・アクセス・サポートセンター」発足
 2009年8月、2008年の「保険・衛生行政業務報告」が公表される。その中から、各年の按摩・マッサージ・指圧師、および鍼師の就業者数を以下に示す。(表中「按摩」は按摩・マッサージ・指圧師)
       総数   晴眼者  視障者  視障者の比率
1998年 按摩 94655   67086   27569   29.1
    鍼師 69236   53247   15989   23.1
2000年 按摩 96788   69237   27551   28.5
    鍼師 71551   55523   16028   22.4
2002年 按摩 97313   71363   25950   26.7
    鍼師 73967   58721   15246   20.6
2004年 按摩 98148   72349   25799   26.3
    鍼師 76643   61442   15201   19.8
2006年 按摩 101039   75577   25462   25.2
    鍼師 81361   66430   14931   18.4
2008年 按摩 101913  76811   25102   24.6
    鍼師 86208   71409   14799   17.2
2010年 按摩 104663  79439   25224   24.1
    鍼師 92421   77521   14900   16.1
2012年 按摩 109309  83664   25645   23.5
    鍼師 100881  85969   14912   14.8
2014年 按摩 113215  87216   25999   23.0
    鍼師 108537  93610   14927   13.8
2016年 按摩 116280  89627   26653   22.9
    鍼師 116007  100800  15207   13.1
 2009年8月13日〜11月24日、国立民族学博物館で「点字の考案者ルイ・ブライユ生誕200年記念・・・点天展・・・」展開催
 2009年8月、エクストラが、GPSを用いた視覚障害者向けの歩行支援システム「GPSナビ」を発売(音声や点字に対応するPDAとGPS測位情報を組み合わせることで、視覚障害者が現在地や目的地へのルートを確認できる。開発は、静岡県立大学国際関係学部石川准教授)
 2009年8月、視覚障害支援総合センターより『先達に学び業績を知る〜視覚障害先覚者の足跡〜』発行 (雑誌『視覚障害』の連載「先達に学び業績を知る」をまとめたもので、51人の先達の業績や人となりを紹介)
 2009年9月、日本眼科医会が、2007年現在の視覚障害者数は約164万人と発表 (良い方の矯正視力が0.1超0.5未満のロービジョン者が144万9000人、0.1以下の失明者が18万8000人と推計。原因疾患は、緑内障24%、糖尿病網膜症21%、変性近視12%、加齢黄斑変性症11%、白内障7%。視覚障害者は、70歳以上で半数を占め、60歳以上の人で72%に達し、また全年代において女性よりも男性の有病率が高いという。)
 2009年10月31日〜11月1日、日本盲人福祉委員会と日本点字委員会の主催で、「ルイ・ブライユ生誕200年、石川倉次生誕150年記念 点字ビッグイベント」開催
 2009年11月5、6日、マドリードで、休眠状態にあった世界点字協議会(WBC)の企画委員会が開かれる
 2009年11月、大阪府立中央図書館が、視覚障害者にも利用しやすい「蔵書検索(スクリーン・リーダー、音声ブラウザ対応)」を公開 (開発したのは、同図書館の図書館司書・杉田正幸。杉田正幸:1971〜。中学2年で失明。埼玉県立盲学校専攻科理療科で三療の資格を得て病院勤務。1996年、筑波技術短期大学に入学。在学中に近畿大学通信教育で司書資格を取得。2000年、大阪府の図書館司書採用試験(一般枠)を点字受験、同年4月より大阪府立中央図書館に勤務。04年から盲聾者のパソコン利用支援サービスを行うなど、視覚障害者等の図書館利用のための様々なサービスを試みている。2010年、大阪府職員表彰の「活躍賞」、第8回チャレンジ賞を受賞)
 2009年11月、桂福点(本名・桝川明)が、天満天神繁昌亭で初高座 (1968〜。先天性緑内障で、小学3年から大阪市立盲学校、高校のころには完全失明。1986年大阪芸術大学入学。音楽療法士として活動。1996年から桂福団治の指導で古典落語を修業、2009年9月に福団治に正式入門)
 2009年11月、川野楠己(1930〜)が、日本の伝統音楽や文化の担い手として活動してきた盲人の姿を伝え顕彰するために長年努力してきた功績により、社会貢献者表彰を受ける (1952年NHK入局。1966〜90年ラジヲ第2放送の「盲人の時間」を担当、とくに視覚障害者の職業や文化に注目した優れた番組を多数製作。NHK退職後も盲人たちが伝承してきた文化を後世に残す活動を続け、1999年に「瞽女文化を顕彰する会」および「琵琶盲僧・永田法順を記録する会」を設立。著書に『人と業績 ― 盲先覚者の偉業をたずねて』『民間企業に働く視覚障害者 ― 実践記録』『琵琶盲僧永田法順 ― 現代に響く四絃の譜』『小林ハル光を求めた一〇五歳 ― 最後の瞽女』など。2008年第5回本間一夫文化賞受賞、2014年第51回点字毎日文化賞受賞)
 2009年12月、文部科学省が、視覚障害児童・生徒の在籍者数や必要としている教科書についての調査結果を公表。以下に、小・中・高の視覚障害(「眼鏡等の使用によっても通常の文字・図形等の視覚による認識が困難な程度」)の在籍者数とそのうち点字教科書を必要とする者の人数を示す(括弧内が点字教科書を必要とする者)。小学校:通常学級 1547(8)、特別支援学級 693(40)、特別支援学校 1209(138)、計 3449(186)。中学校:通常学級 520(5)、特別支援学級 232(6)、中等教育学校の前期課程 2(0)、特別支援学校 787(98)、計 1541(109)。高校:高等学校 538(8)、中等教育学校の後期課程2(0)、特別支援学校 1295(116)、計 1835(124)。なお、小・中・高校の総計 6825人の内では、点字教科書 419(6.1%)、拡大教科書 2087(30.6%)、通常の教科書 2277(33.4%)。
 2009年、常磐大学中村正之研究室が、さわれる天体写真(黄道十二宮物語、ワクワクわくせい、太陽系の仲間たち。カラー写真・立体コピー触図・点字及び墨字解説がセットになっている)を製作、各地でさわれる天体写真展を始める。
 2009年4月、アメリカ、国会図書館の視覚障害者及び身体障害者のための全国図書館サービス(NLS: National Library Service for the Blind and Physically Handicapped)が、インターネットによる点字および音声データのダウンロードサービス(BARD: Braille and Audio Reading Download)を開始 (2013年9月からは、iPhoneやiPad、iPod Touchでも利用できるようになる)
 2009年、ニカラグア、日本ニカラグア東洋医学高等研究院(2004年に八巻晴夫が首都マナグアに創設した5年制の東洋医学専門の大学)に、1年コースの視覚障害者指圧講座が設置される。

◆2010年以降
 2010年1月、毎日新聞大阪本社学芸部の遠藤哲也記者による「点字の父・ブライユ生誕200年を記念した視覚障害者の権利擁護に関する報道」が、第14回新聞労連ジャーナリスト大賞の優秀賞を受賞
 2010年1月、東京に「だれでも読書館」オープン(大活字本のほか、拡大読書器、ルーペ、視覚障害者用便利グッズなど)
 2010年1月、高橋りくが、見えない人が絵画を楽しめるよう、色の違いを砂の粒の大きさと香りの違いで表わした「スナエ」を製作、「スナエ」の普及活動を始める
 2010年2月、国土交通省が、「ハイブリッド車等の静音性に関する対策のガイドライン」を日本自動車工業会などに通達 (新たに発売される車について、時速20キロまでの速度域では自動車の走行音を想起させる連続音を原則として常時発音させる) (このガイドラインに即して、同年8月、トヨタ自動車が3代目プリウス用の「車両接近通報装置」を発売)
 2010年2月、日本テレソフトが、点字カラオケシステムを開発 (通信向け10万曲を自動点訳してピンディスプレイに表示)
 2010年3月、2005年9月にトラックにはねられて即死した盲導犬サフィーの使用者と犬を無償貸与していた中部盲導犬協会が起した訴訟で、名古屋地裁が、盲導犬の社会的価値を認めて、トラック運転手と勤務先の運送会社に損害賠償金の支払いを命じた。
 2010年、国土交通省によると、3月末現在、1日5000人以上利用者のある全国約2800の駅のうち、可動式ホーム柵・ホームドアが設置されているのは449駅(約16%。全国の全駅数約9500にたいする割合は約4.7%) (2006年施行の高齢者障害者移動円滑化促進法では、新設の駅にはホーム柵などの転落防止設備の設置を義務付けている)
 2010年3月、シーナ・アイエンガー(Sheena IYENGAR)の著書“The Art of Choosing”(日本語版は『選択の科学』)が刊行され、話題になる (シーナ・アイエンガー:1969年、カナダのトロント生まれ。両親はインドのデリーからの移民で、シーク教徒。72年にアメリカに移住。3歳の時、網膜色素変性症と診断され、次第に視力が落ち、10代中半で失明。一般の公立学校に通い、ペンシルバニア大学ウォートンスクールに進学、92年卒業(経済学学士)、さらにスタンフォード大学に進み、97年博士号(社会心理学)取得。98年からコロンビア大学ビジネススクールに奉職、現在同大学教授。)
 2010年4月、視覚障害者情報総合システム「サピエ」運用開始 (ないーぶネットとびぶりおネットを統合して、点字データとデイジーデータを検索・ダウンロードできる。また、地域・生活情報の提供や図書製作支援サービスも行う。書誌データベース:約47万件。会員数:施設・団体 約200、個人 約7000)
 2010年4月、視覚障害・知的障害両教育部門の初の併置校として、東京都立久我山青光学園開校 (前身は、東京都立久我山盲学校と東京都立青鳥特別支援学校久我山分校)
 2010年4月、弱視者(低視力者・高齢者)のための読書環境整備や大活字文化の普及を目的に「特定非営利活動法人 大活字文化普及協会」発足(同年12月、同協会内の専門委員会として「読書権保障協議会」発足)
 2010年5月30日、東京で、杉山検校生誕400年記念行事として、記念式典・講演会・祝賀会が行われる
 2010年6月、JR東日本が、山手線恵比寿駅で可動式ホーム柵の使用開始(管内の在来線では初)
 2010年7月、生態学者・民族学者で国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫(1920〜2010年)没 (1986年に失明するが、その後も口述筆記で著述活動を続ける。日本語のローマ字化推進論者であり、エスペランティストでもある。)
 2010年8月、明間印刷所が『起き上がる形本 1 基本立体編』を発売(本をめくるごとに様々な立体が起き上がる)
 2010年8月、JIS X8341-3(高齢者・障害者等配慮設計指針−情報通信における機器、ソフトウェア及びサービス−第3部:ウェブコンテンツ)」の改訂版(2010年版)が公示される
 2010年8月、金融庁が、金融機関団体に「視覚障害者に配慮した取組みの積極的な推進について」要請(視覚障害者対応ATMの増設と機能の充実、複数の行員の立会いによる代筆及び代読など)
 2010年10月、アメリカ、オバマ大統領が、「21世紀における通信と映像アクセシビリティに関する2010年法(S.3304)(Twenty-First Century Communications and Video Accessibility Act of 2010)」に署名 (IP電話やスマートフォン、テレビやWEBやDVDなどについて、補聴器、字幕、音声解説などにより視覚障害者や盲ろうの人たちもアクセスできるようにし、また盲ろうの人たちに必要な機器の購入費を援助することなどを規定)
 2010年11月1日、東京都中央区築地の楽善会訓盲院跡に「東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地」記念碑が建立される
 2010年11月、日本電子出版協会(JEPA)内に、だれでも読書できる環境整備の手段の一つとして電子データの音声読上げを推進することを目的に、「TTS推進協議会」発足 (TTS: Text To Speech)
 2010年11月、大阪府が、豊中市の阪急宝塚線・服部踏切内に点字の誘導標示(長さ約8メートル、幅約45センチ)を試験的に設置(遮断機付きの踏切内での点字ブロックの設置は全国初)
 2010年11月、大阪で、「触れる仏像展」開催(主催:触る文化・触文化研究会)
 2010年12月3日、障がい者自立支援法改正案が、新たな障害者福祉法が施行されるまでのつなぎ法案として、可決・成立 (主な改正点:原則1割負担から負担能力に応じた負担へ、発達障害者が障害者の範囲に含まれることお明示、視覚障害者の移動支援「同行援護(代筆・代読もふくむ)」も自立支援給付の対象とする。施行は2011年10月予定)
 2010年12月、地域における高齢者・障害者等を対象とする生活サポートとして「読み書きサービス」の実現を目指して、「読書権保障協議会」発足
 2010年12月、千葉県習志野市で、第1回視覚障害者クライミング世界選手権大会開催
 2010年、国立国会図書館が、「公共図書館における障害者サービスの実施状況の調査」を実施 (回等館は2272館で、その中で障害者サービスを行っているのは1503館。その中で、対面朗読は591館で利用可能だったが、実際に利用があった館は287館、録音・点字資料の郵送貸出は479館で可能だったが、実際に利用があった館は216館。)
 2011年1〜2月、和歌山県立博物館で、「仮面の世界へご招待―さわって学ぶ和歌祭―」開催 (仮面のレプリカのほか、触図、点字・音声による解説、ボランティアによる案内と解説もあり) (以後同館は触れるレプリカや触図録などを継続的に製作、2014年、視覚障害者向けの「さわって読む図録」と「さわれるレプリカ」で、バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰(内閣総理大臣表彰)を受賞)
 2011年1月、JR東日本が、1月16日JR山手線目白駅で全盲男性が転落死した事故を受け、管内330駅の点字ブロックの実態調査を開始、摩耗や埋まるなどして分かりにくい点字ブロックを内方線の付いた新型のブロックに順次交換
 2011年2月、総務省が、各都道府県選管にたいして、点字及び音声による選挙情報の提供について要請 (国政選挙や都道府県知事選挙では、選挙公報の全文を、点字版だけではなく、カセットテープ版、コンパクトディスク版及び音声コード付き拡大文字版で提供する。また(4月の統一地方選挙を念頭に)その他の地方自治体の選挙についても上に準じた措置を講ずるよう努める)
 2011年2月、イギリス生れのアメリカのジャズ・ピアニスト シアリング(George Shearing. 1919〜2011年)没 (先天盲で、盲学校でクラシック・ピアノを学び、ジャズに転向。1946年にはイギリスでナンバー・ワンのジャズ・ピアニストとして高く評価される。47年渡米。49年、ヴィブラフォンやエレクトリックギターを加えて編成したクインテットを結成(〜67年)、「九月の雨」が大ヒット。さらに52年、ジャズ・クラブ「バードランド」にちなんで作曲した「バードランドの子守唄」は、ジャズのスタンダードとなっている。1983年「アン・イヴニング・ウィズ・ジョージ・シアリング&メル・トーメ」がグラミー賞のジャズ部門を受賞。生涯に300曲以上作曲。)
 2011年3月、静岡大学が、携帯電話のカメラで食品や飲料のバーコードを読み取ると音声で商品情報を案内するソフト「バーコード・トーカー」を開発、このソフトを使って音声案内をするサービスを情報処理学会が開始
 2011年3月、演歌歌手で盲導犬普及活動を続けた井上わこ没 (1944〜2011年。本名蜂谷わこ。1982年交通事故に遭いその後遺症のため失明。1987年「人生演歌灯り」で歌手デビュー。翌年から盲導犬普及活動を始め、毎年1頭ずつ、計23頭の盲導犬を視覚障害者に贈呈。2002年広島市より 広島市民賞、国際ソロプチミストより社会ボランティア賞。2008年毎日社会福祉顕彰)
 2011年3月末、「東北関東大震災(東北地方太平洋沖地震)障害者救援本部」発足。また、日本盲人福祉委員会に「東日本大震災視覚障害者支援対策本部」が設けられる
  [「日本障害フォーラム宮城」の資料によれば、宮城県内の沿岸13自治体(仙台市と渡町は含まれていない)の住民62万6926人のうち震災犠牲者数は8499人で、死亡率は1.4%だったのにたいし、障害者手帳所持者2万9185人(複数の手帳を持つ重複所有者含む)のうち犠牲者数は1027人で、死亡率は3.5%。(手帳の障害別では、身体障害者3.9%、精神障害者3.1%、知的障害者1.5%)最も死亡率が高かった自治体は女川町で、手帳所持者520人のうち81人が死亡し15.6%。南三陸町は13.3%。]
 2011年4月、森敦史(19歳。生れつきの盲ろうで、声もうまく出せない。触手話と指点字を使用)が、ルーテル学院大学社会福祉学科に入学
 2011年5月、国際電子出版フォーラム(International Digital Publishing Forum: IDPF)から、電子書籍用の共通企画で日本語にも対応した"EPUB 3.0 Proposed Specification"が公開される (同年10月には"EPUB 3.0 Final Specification"が公開される)
 2011年6月、「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」成立 (施行は2012年10月1日)
 2011年7月〜9月、しょうけい館(戦傷病者史料館)が、企画展「戦盲〜失明戦傷病者がたどった戦中・戦後〜」を開催 (主に、日中戦争で負傷し失明した原田末一(1896〜1999年)の歩みを中心に紹介)
 2011年7月、韓国、KBSが「障がい者を対象にしたキャスターの採用試験」を行い、全盲の李昌勲(イチャンフン。25歳)を採用。11月よりニュースキャスターとしてデビュー。
 2011年8月、障害者基本法の一部を改正する法律が公布・施行(障害者政策委員会等については、2012年5月施行)
 2011年8月、埼玉県の「ひとみ園演劇ホール」を会場に、NPO法人日本盲人演劇協会の主催で、第1回全国盲人演劇祭が開催される(第8回全国ひとり演劇コンクール、および第1回全国盲人集団演劇コンクール)
 2011年8月、財団法人共用品推進機構が『2010 年度(平成 22 年度)視覚障害者不便さ調査成果報告書』を公表
 2011年9月27〜30日、ドイツのライプツィヒで、「世界会議点字21(World Congress Braille21)」開催
 2011年9月末、エジプトの全盲のウードゥ奏者で作曲家・アラブ音楽研究者のムスタファ・サイッド(MUSTAFA Said: 1983〜)が自費で来日し、福島県福島市と南相馬市で「福島に奏でる ムスタファ・サイッド氏による連帯ボランティアコンサート」、および東京で「フクシマ原発災害とエジプト革命をつなぐ音」開催 (両親が、1973年の第四次中東戦争のさい、滞在中のシナイ半島でイスラエルが投下した劣化ウラン弾により被爆、兄と彼は共に全盲として生まれる。カイロのターハー・フセイン盲学校卒業後、アラブウード学院を2004年に修了、カイロ・オペラハウス、アゼルバイジャンでのスーフィーフェスティバル、中近東諸国、スイス、フランス、イギリスへも招聘される。この間、オマル・ハイヤームの詩「ルバイヤート」を歌ったことから、政府から危険人物とみなされ、レバノンに居住、アントニン大学で講師をつとめる。2010年秋に、日本の常味祐司、フランスのヤン・ピタールとともにインターナショナル・ウード・トリオを結成し、広島・神戸・京都・長野・名古屋・静岡・東京のライブハウス等でコンサートツアーを行う。2011年1月、ムバラク独裁政権を倒すことになるエジプト革命では、レバノンから単身で革命に参加、反政府デモの中心地・カイロのタハリール広場で革命歌となる曲を演奏して民衆を鼓舞。この時の歌は、エジプト取材のBBCアラビア語放送を通じて全世界へ放映された。)
 2011年10月、ブラインドボクシング普及委員会発足(翌年、ブラインドボクシング協会に改名、会長:佐野雅人)
 2011年、視覚障害者の芸術文化・スポーツの振興を図ることを目的に「日本視覚障害者芸術文化協会」発足 (会長:山口和彦)
 2012年1月、東京都墨田区の江島杉山神社に「杉山検校遺徳顕彰会鍼按治療所」が開設される
 2012年2月、スイスのベルンで開かれた万国郵便連合の郵便事業委員会で万国郵便条約の改定案が採択され、無料扱いの対象が「点字郵便物」から「盲人のための物品」(点字のほか、録音図書や録音器、点字板・点字タイプライター、盲人用時計、白杖など)に拡大される。 (日本での実施は2014年1月から)
 2012年2月、イタリア、ウフィツィ美術館が、所蔵の古代の彫刻作品などを視覚障害者が触れて鑑賞するプログラムを開始
 2012年3月、山口県立図書館が、マルチメディアデイジー室を開設 (普通の活字での読書が困難な、高齢者・視覚障害者、手が不自由な人・子供などが対象)
 2012年3月、指点字を体系的に学ぶことのできる『指点字ガイドブック 〜盲ろう者と心をつなぐ〜』(東京盲ろう者友の会編著)が発行される
 2012年3月、DPI女性障害者ネットワークが、『障害のある女性の生活の困難―人生の中で出会う複合的な生きにくさとは―複合差別実態調査報告書』を発行
 2012年4月、東京で、国連専門家会議「ICTと障害-アクセスと共生社会、すべての人のための開発へ」が開かれる。
 2012年4月、「ロービジョン訓練」(保有する視機能に応じた補助具を選定し、視能訓練士らが訓練を行う)が保険適用となる。
 2012年4月、大活字文化普及協会が、区立日比谷図書文化館で、読み書き支援事業を開始(障害者や高齢者など読み書きが困難な人対象で、障害種別や障害者手帳の有無、利用者の居住地は問わない)
 2012年4月、大手の出版社等が中心になって、電子出版ビジネスの公共的なインフラの整備、研究・教育・教養分野における電子出版物利用環境の整備等を目的に、「株式会社出版デジタル機構」設立 (約300社が参加予定。官民出資の投資ファンド「産業革新機構」が最大150億円出資)
 2012年5月、日本点字図書館より『ふれる世界の名画集』発行 (ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ミレーの「落ち穂拾い」、ムンクの「叫び」など、西洋の代表的な絵画12種を半立体化してエンボス印刷し、絵の理解を促す点字と墨字の解説を付す。エンボスの原版は彫刻家の柳澤飛鳥(1948年〜)が製作)
 2012年5月、日本デジタル教科書学会発足
 2012年5月、中国の人権活動家・陳光誠がアメリカに出国 (1971〜。山東省出身。幼児期に失明。南京中医薬大学で鍼と按摩を修得する一方、障害者に対する不当課税の是正を求めるため、独学で法律を学ぶ。以来、法律の知識をもとに、地元の農民や障害者、女性の権利擁護に取り組む。2005年から当局による弾圧を受ける。出国後、ニューヨーク大学ロースクールに入学。13年以降は、カトリック大学、ウィザースプーン研究所、ラントス財団などで上席研究員を務める。2017年、『不屈 盲目の人権活動家 陳光誠の闘い』(陳光誠 著、河野純治 訳、白水社))
 2012年5月、厚生労働省の労働政策審議会が、障害者雇用率の引き揚げ等について答申。障害者雇用促進法の施行令を6月に改正し、2013年4月施行 (民間企業は1.8%から2.0%へ、国及び地方公共団体並びに特殊法人は2.1%から2.3%へ、都道府県等の教育委員会は2.0%から2.2%へ)
 2012年6月20日、障害者自立支援法の一部を改正し名称を変更した「障害者総合支援法」が成立 (2011年8月に内閣府の障がい者制度改革推進会議総合福祉部会が出した「骨格提言」はほとんど盛り込まれず、利用量の原則1割負担(応益負担)や事業所への報酬支払い方式等は現行法と変わらない。主な改正点は、難病患者を障害福祉サービスの対象に加える、障害程度区分を障害支援区分に改める、ケアホームのグループホームへの一元化等。施行は2013年4月。「意思疎通支援事業」が市町村の必須事業となり、実施要綱では点訳・音声訳とともに代読・代筆も例示される。)
 2012年6月、「障害者優先調達推進法案」(国等による障害者就労施設等からの物品等の調達の推進等に関する法律案)が成立 (国の機関や自治体に対して、障害者が働く福祉施設から事務用品などの製品を優先的に購入することや、障害者就労施設に清掃や印刷などの業務の委託を増やすよう求める。施行は2013年4月1日)
 2012年6月、点字毎日が、全国視覚障害者情報提供施設協会(全視情協)と共同で、1922年5月の創刊号以来の「点字毎日」のバックナンバーのデータ化を開始する (全視情協の島根あさひ事業所が官民共同で運営する刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」の受刑者に点字を教え、その受刑者たちがデータ化作業を行う。点字データは、全視情協が運営する視覚障害者情報総合ネットワーク「サピエ」に順次アップされる予定。2017年1月、創刊号から第25号までのデータがサピエにアップサレル。)
 2012年6月、林健太を中心に「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」発足 (各地の美術館で、ほぼ月1回鑑賞ワークショップをしている)
 2012年7月、ギャラリーTOMとNPO法人視覚障害者芸術活動推進委員会が、『手で見る北斎― 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』発行 (1枚の絵を、波、富士山、船などのパーツごとに触図化し詳しく解説)
 2012年8月、テレビのワンセグ放送の音声を聞くことができる受信機3機種が発売される
 2012年10月、日本盲教育史研究会発足
 2012年10月、バンコクで開催されたWBU総会で、田畑美智子が、WBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)の会長に選ばれる (田畑美智子:1964〜。先天性の弱視。筑波大学附属盲学校高等部普通科卒業。在学中にテキサス州立盲学校に1年留学。明治学院大学文学部英文学科卒業後、1987年民間金融機関に就職。語学を生かして海外の視覚障害者との交流などに関わる傍ら、環境・貧困・人権等のNGOに参加。 2003年より日盲連国際委員としてWBUの活動に参加)
 2012年11月、NHKが、「聞いて 聞かせて 〜ブラインド・ロービジョン・ネット〜」で放送された塩谷治さんのインタビューのノーカットの音声版とともに、それを文字起こししたテキスト版を公開(盲ろう者は、テキスト版を点字ディスプレイなどで読んで放送内容をまるごと知ることができる)
  [塩谷治:1943〜2014年。早稲田大学入学後間もなく点訳活動を始め、1966年に東京の点訳者を中心に「点字あゆみの会」を組織。卒業後は東京教育大学付属盲学校(現・筑波大学附属特別視覚支援学校)の国語の教師として、長年盲教育に携わる。また、盲聾になった福島智の校高3年の担任となり、その大学進学を支え、さらに盲聾者の全国的な支援組織作りでも中心となって活動。2012年に盲ろう者支援で第49回点字毎日文化賞受賞。なお、早稲田大学文学部の同級生でその点訳も引き受けていた全盲の真喜屋実蔵(1938〜1968年。沖縄県具志頭村生まれ。1944年6月台湾に疎開、47年豊見城村の収容所に引き上げる。そこで不発弾で遊んでいて暴発、失明。51年、同年開校した沖縄盲聾学園1年に入学。60年京都府立盲学校高等部普通科に入学。64年早稲田大学第二文学部日本文学科入学。68年8月15日自殺)から託されていた詩や短歌を、2013年『春想」として桜雲会より墨字と点字で出版している。]
 2012年12月、通信カラオケ大手「第一興商」の社員だった山成遊が、視覚障害を理由にして退職させられたのは無効だとして訴えていた裁判で、東京地裁が訴えを認め未払い賃金の支払いを命じる。(同社は即日控訴。山成氏も、職場で受けたパワーハラスメントなどが視覚障害発祥の原因だとする主張が認められなかったため、控訴)
 2012年12月、日本点字普及協会(理事長:高橋實)発足 (2013年4月、NPO法人)
 2012年、フランスのl'Association BrailleNetと、le Groupement des Intellectuels Aveugles ou Amblyopes (GIAA)、l'Association pour le Bien des Aveugles et malvoyants (ABA)の3団体が共同開発した“Bibliotheque Numerique Francophone Accessible”が運用開始(DAISYフォーマットのフランス語図書12,000タイトル以上をダウンロード提供する)
 2013年1月、筑波大学附属視覚特別支援学校が、JICA草の根技術協力事業として、3年計画で、インドの視覚障害者の職業教育支援事業を開始 (日本の医療マッサージを中心にした総合的マッサージ技術の普及をめざして、教員養成技術研修、総合マッサージコース、医療マッサージ師養成課程を開設する予定)
 2013年3月、日本学生支援機構が、「平成24年度(2012年度)大学、短期大学及び高等専門学校における障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告書」を公表。障害学生在籍学校数は793校(全学校数の66.2%)、障害学生数は11,768人(全学生数の0.37%)、障害別では、肢体不自由2,450人、発達障害1,878人、聴覚・言語障害1488人、視覚障害694人など (2013年度の障害学生数は13,449人、2014年度の障害学生数は14,127人)
 2013年3月、愛知県美術館が、文化庁の補助金を得て、視覚障害者対象の鑑賞学習補助ツール『びじゅつかんからやってきたさわるアートブック』を製作(2014年3月にも、同Aを製作。愛知県内の各地の美術館所蔵の絵画・彫刻・陶などの作品を触図と解説文で紹介している。)
 2013年4月、長尾博(1957〜)が、宮城教育大学特別支援教育講座の教授に就任 (生まれつき右目が見えない弱視で、30歳ころ左目も失明。小学5年まで地域校に通うが、その後滋賀県立盲学校に移り専攻科を卒業。さらに立命館大学に進んで西洋史を学び、社会科教員として母校に就職。2009年、広島大学大学院教育学研究科修了)
 2013年4月、京都産業大学に、全盲の学生が物理専攻で入学。
 2013年4月、日本ライトハウス情報文化センターが、プライベートサービスの一貫として、墨字書籍をテキストデータ化するサービスを開始。
 2013年4月、大阪府吹田市に、視覚障害者に特化した就労移行支援事業所「ジョブトレーニングセンターOSAKA」が開所(運営は株式会社ティダ・グリーン。マッサージやパソコン操作のスキルアップをはかる実践的な講座や現場実習、面接のフォロー、就職後のサポートも行う)
 2013年、就学奨励費の補助対象が、通常の学級で学ぶ児童生徒(学校教育法施行令第22条の3に定める障害の程度に該当)まで拡充される
 2013年5月、障害者・高齢者・闘病者など身体の不自由な人たちの旅を支援する活動をしているNPO法人ジャパン・トラベルボランティア・ネットワーク(JTVN)が、第1回「旅行介助ガイド検定」を実施(検定合格者は「準・旅行介助ガイド」として、報酬を得て昼間の旅行をサポートできる技量を有していると認定される)。
 2013年5月、点友会が、京都ライトハウス内に、拡大文字の図書文庫を解説(弱視児に児童書や辞典類などを郵送で貸し出す)
 2013年5月、日本盲人会連合が、東日本大震災で被災した視覚障害者が体験を伝える「語り部プロジェクト」を開始 (岩手・宮城・福島3県の視覚障害者約20人を語り部として登録、被災地を訪れた人たちに話すほか、希望があれば派遣も行う)
 2013年6月、日本ライトハウス情報文化センターが、「シネマ・デイジー」(映画の主音声に場面説明や登場人物の動きなどの音声解説を付けてデイジー編集したもの)の貸出開始 (8月から日本点字図書館も貸出開始)
 2013年6月13日、改正障害者雇用促進法成立 (雇用分野での障害を理由とした差別的取扱を禁止し、事業主に合理的配慮の提供を義務付ける。施行は2016年4月。法定雇用率の算定基礎に精神障害者を加える部分は2018年4月から施行)
 2013年6月19日、「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律案(通称、障害者差別解消法)」が成立 (公共機関や民間企業に対し、障害を理由とした不当な差別的取り扱いを禁じ、過重負担にならない範囲で合理的配慮を求める。合理的配慮については、行政機関(国と自治体や公立学校、福祉施設など)に対し法的に義務化、民間事業者に対しては努力義務。2016年4月施行)
 2013年6月、モロッコ・マラケシュで開かれたWIPO(世界知的所有権機関)の会議で、WBU などが提案していた著作権条約の改正案「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約」が可決される (視覚障害者等受益者のために、国内の著作権法で著作権(複製権・譲渡権等)の権利制限や例外を設けること、また、各国の国内法(著作権法)の下で作製された点字・拡大文字・録音図書を、他の国の視覚障害者やディスレクシア等活字を読むのが難しい人たちも利用できるようにするなど) (カナダが2016年6月に条約を批准、批准国が発効条件の20カ国に達し、2016年9月30日にマラケシュ条約発効。日本では2018年4月、参議院本会議で承認)
 2013年7月、厚生労働省より、2011年12月1日現在で実施された「平成23年生活のしづらさなどに関する調査(全国在宅障害児・者等実態調査)」の概要が公表される。対象者は、手帳所持者、手帳は持たないが同等の障害のある者および「長引く病気やけがにより生活のしづらさがある者」(以下の数値はいずれも推計値)。障害者手帳所持者は4,791,600人(内訳は身体障害者手帳3,863,800人、療育手帳621,700人、精神障害者保健福祉手帳567,600人)。手帳を持たずに自立支援給付等を受けている人が320,000人、手帳を持たず福祉サービスの給付も受けていない人が1,890,000人。身体障害者手帳所持者のうち視覚障害者は316,000人。その年齢別の内訳は、0〜9歳1,500人(0.5%)、10〜17歳3,400人(1.1%)、18〜19歳1,000人(0.3%)、20〜29歳3,900人(1.2%)、30〜39歳9,800人(3.1%)、40〜49歳18,200人(5.8%)、50〜59歳28,000人(8.9%)、60〜64歳30,500人(9.7%)、65〜69歳33,900人(10.7%)、70歳以上183,800人(58.3%)で、65歳以上が7割近くに増化。障害程度別では、1級が36.2%、2級が28.5%。
 2013年8月、文部科学省の「2013年度学校基本調査(速報)」によれば、全国の特別支援学校1080校の在学者は132,568人。その内、「視覚障害」対象が65校で在学者は2468人(全国盲学校長会が6月に公表した資料では、視覚障害者にたいする教育を行う特別支援学校は69校で、在籍する幼児・児童・生徒は3354人)。2012年度の視覚障害の高等部の卒業生は389人で、その内、専攻科進学が72人、大学進学39人、就職54人。
 2013年8月、「学校教育法施行令の一部を改正する政令」が公布され、9月1日施行。これにより、障害のある児童生徒の就学先を原則特別支援学校としてきた規定がなくなる。
 2013年9月、Yahoo! JAPANが、「さわれる検索」プロジェクトを発表 (協力企業などから提供された3Dデータに基づいて、音声入力によって認識されたキーワードに対応する物を3Dプリンタで出力し、実際に触れる立体物として示す。筑波大学附属視覚特別支援学校などで導入)
 2013年9月、「NPO 片目失明者友の会」発足(代表・久山公明)。片目失明者(1眼の視力が0.6以上あればもう1眼の視力が0でも視覚障害とは認定されない)も視覚障害者認定されるよう法改正を目指して運動。
 2013年10月、鳥取県議会で、「鳥取県手話言語条例」が可決・成立。
 2013年10月、尼崎市で、障害を持つ音楽家約10人が「日本障害者芸術団」を設立 (関西障害者国際交流協会が支援)
 2013年、大阪大学歯学部と神戸大学医学部が、歯の病状や治療内容を点字や触図(立体コピー)で患者に伝える情報提供システム「DENTACT(デンタクト)」を開発、大阪大学歯学部附属病院で実用化、全国的な普及を目指す。
 2013年10月25日、大学関係者等が集まって、「高等教育機関における障害学生支援に関する全国協議会」の準備会を開く。(2016年の障害者差別解消法施行で、障害学生への合理的配慮の提供が国公立は義務、私立は努力義務となるのを受けて、支援の有り方について理解・啓発や提言などを行う計画) (2014年11月、一般社団法人「全国高等教育障害学生支援協議会」として発足、東京大学・京都大学・北海道大学・立命館大学・関西学院大学など63校が参加。2015年6月、東京大学先端科学技術研究センターで第1回大会を開催)
 2013年10月30日、米連邦通信委員会は、CVAA(The 21st Century Communications and Video Accessibility Act. 2010年10月策定)の施行に関する規則を近く公表すると発表 (この新たな規則によれば、米国内で製造・販売されるテレビやテレビ類似の装置(タブレット端末やスマートホンを含む)には操作時の音声ガイドやメニューの音声化などが義務付けられる。米国ではリハビリテーション法508条が連邦政府などが購入する機器について障害者のアクセシビリティを保障することを義務付けているが、今回のCVAAは一般市場で販売される製品を対象とする。)
 2013年11月、大阪の梅田画廊で「第5回 末冨綾子展」開催 (末冨綾子:1963〜。高校生のころに網膜色素変性症と診断されるが、武蔵野美術大学進学。1988年同大大学院修了後、89年に渡仏。90〜94年、フランス政府給費留学生として、パリ国立高等美術学校・パリ国立高等装飾美術学校で絵画・壁画を研究。95年までパリの画廊・フランス国内の美術館に多数出品し、また各種の賞も受賞。このころから視力低下と視野狭窄が進行する(2005年ころ完全失明)が、以後も、年の半分はパリで絵画制作に専念し、日本で個展を開催している。)
 2013年11月、常磐大学の中村正之研究室が、富嶽三十六景の全46作品の立体コピー図版(1枚の浮世絵を4枚セットの図版で表している)を製作、山梨県立博物館等に寄贈
 2013年11月、「六甲山の上美術館 さわるミュージアム」開館 (彫刻、絵画、瑪瑙のカメオなど、すべての作品を触って鑑賞できる)
 2013年12月、カナダの視覚障害者団体CNIB(Canadian National Institute for the Blind)が、DAISY形式のオーディオブックを配信するサービス(“Direct to Player”)を開始。
 2014年1月、国立国会図書館が、「視覚障害者等用データの収集および送信サービス」を開始(同館が製作した学術文献の録音デイジー図書および公共図書館が製作した録音デイジー図書と点字図書のデータについて、会員登録した個人や施設が無料でアクセスしストリーミングやダウンロードできる。2014年6月より、サピエから国会図書館のデータにアクセスして利用できるようにもなる。)
 2014年3月、森田昭二(1935〜)が、『近代日本に於ける「盲人福祉」の源流についての研究 −好本督・中村京太郎・熊谷鉄太郎の系譜を中心に−』で関西学院大学より博士号(人間福祉)を受ける (京都大学文学部を卒業後、高校の国語教師。38歳で白内障の手術をし、それ以降視力が次第に低下、55歳で退職。64歳で失明、翌年日本ライトハウス・リハビリテーションセンターに入所し、点字や歩行を習得。2003年、67歳で、関西学院大学社会学部の聴講生になり、05年(69歳)に修士課程に進み、07年修士号取得。08年に博士課程に合格。2017年、第35回鳥居賞受賞)
 2014年4月、筑波技術大学大学院修士課程技術科学研究科に「情報アクセシビリティ専攻」が開設される(情報保障学の専門家を育成。視覚・聴覚障害のない方も入学資格がある)
 2014年4月、東京・高田馬場に「手と目でみる教材ライブラリー」が開館 (「モナリザ」「最後の晩餐」「神奈川沖波裏」等の絵を半立体的に翻案したレプリカ、視覚障害者用教材・教具、点字指導教材、手でみる絵本などを展示)
 2014年4月、東京都人権プラザで、企画展「『読む人権 じんけんのほん』 読む権利」が開催される(〜6月)
 2014年4月、日本テレビ小鳩文化事業団が系列のラジオ日本で、視覚障害関連番組「小鳩の愛〜eye〜」を開始(毎週日曜日7時5分から15分間)
 2014年5月、駅などの公共空間で鳴る音の大きさ、長さ、音と音の間隔、設置方向などについて規定した「JIS T0902:高齢者・障害者配慮設計指針―公共空間に設置する移動支援用音案内」が制定される
 2014年5月、難病医療法成立 (施行は2015年1月。助成対象の指定難病が従来の56疾病から360疾患に拡大。視覚系疾患では、網膜色素変性症、アッシャー症候群、黄斑ジストロフィー、眼皮膚白皮症、中隔視神経形成異常症(ドモルシア症候群)、レーベル遺伝性視神経症)
 2014年8月、全国盲ろう者協会が、自治体を通じ、身体障害者手帳所持者のうち視覚と聴覚の重複障害者数を調査(群馬県と山形県を除く都道府県・政令市・中核市107自治体が回答)。男5826、女7953、不明・無回答173の計13952人。65歳以上の老年人口は10798人(約77%)、14歳以下の年少人口は109人(約0.8%)。
 2014年9月、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの高橋政代を中心とするグループが、加齢黄斑変性症の患者に、iPS細胞(人工多能性幹細胞)から作った細胞の移植を行う(世界初)。
 2014年12月、厚生労働省より「平成25年度障害者雇用実態調査の結果」が公表される。雇用障害者数は推計で631,000人(前回の平成20年度は448,000人)。内訳は身体障害者 433,000人(同346,000人)、知的障害者 150,000人(同73,000人)、精神障害者 48,000人(同29,000人)。視覚障害者は36,000人で、身体障害者の8.3%。
 2014年、中村タケ(1932〜。3歳で麻疹のため失明。13歳からイタコの修行をし、16歳でイタコとして独立。八戸市在住で現在もイタコの仕事をしている)が、イタコのおしら遊びの伝承で、第34回伝統文化ポーラ賞の地域賞を受賞 (オシラ遊ばせ、口寄せ、呪いなど中村タケが記憶する61の唱えごとを収録し解説した『イタコ 中村タケ』平成25年度(第68回)文化庁芸術祭(レコード部門)優秀賞)が平凡の友社より刊行されている)
 2015年3月、私立の熊谷理療技術高等盲学校が閉校する (1932年、全盲の中村春吉が熊谷盲学校を創設、1978年75歳で亡くなるまで校長をつとめていた。2006年に校名を熊谷理療技術高等盲学校に変更。)
 2015年3月、16年4月施行の改正障害者雇用促進法に基き国が定める「差別禁止指針」と「合理的配慮指針」が策定される。合理的配慮指針の別表には障害種別ごとに事例が示されていて、視覚障害では「募集内容を音声等で提供する」「採用試験について点字や音声等による実施や試験時間の延長を行う」「業務指導や相談の担当者を決める」「拡大文字・音声ソフト等の活用により業務が遂行できるようにする」などが例示される。
 2015年3月、桜雲会が、『おとがでるえほん かいてみよう きいてみよう かんじ1』を制作・発行 (音声ペンがセットになっていて、ペンで紙面をなぞると、その漢字の書き順・読み・意味などを読み上げる。2016年3月には『おとがでるえほん かいてみよう きいてみよう かんじ2』も発行)
 2015年4月、国家公務員採用試験の点字受験で、パソコンによる音声読上げを補助として利用できるようになる
 2015年4月、京都府立盲学校が、高等部普通科に、大学進学を目的とした「京都フロンティアコース」を新設
 2015年4月、大阪府立視覚支援学校が、高等部専攻科に柔道整復科を設置
 2015年4月、花王が、日本工業規格(JIS) S0021「高齢者・障害者配慮設計指針−包装・容器」における洗髪料及び身体用洗浄料容器の触覚識別表示についての2014年5月20日改正文に従って、全身洗浄料の容器に触覚識別表示として「一直線状の触覚記号」(通称 ライン)を採用
 2015年4月、クラブツーリズムが、ユニバーサルデザイン旅行センターを開設
 2015年4月、JR西日本が、昇降式ホーム柵(車両数やドア数の異なる列車が発着する駅でも使える)の本格運用を開始 (2014年12月から六甲道駅で試行運用していた昇降式ホーム柵の運用を継続し、また2016年春から高槻駅の新快速列車用の新設ホーム2面で運用開始)
 2015年4月、明石市で「手話言語を確立するとともに要約筆記・点字・音訳等障害者のコミュニケーション手段の利用を促進する条例」(通称、手話言語・障害者コミュニケーション条例)が施行される
 2015年9月、日本点字図書館理事長の田中徹二が、電子図書館と情報ネットワーク整備に尽力したことにより、第52回点字毎日文化賞を受賞 (1934〜。1954年早稲田大学第一理工学部建築科に入学、間もなく失明。翌年国立東京光明寮に入所、三療を学ぶ。56年早稲田大学第二文学部英文科に転学転科。58年国立東京光明寮を卒業、60年早稲田大学第二文学部卒業。同年社会保健埼玉中央病院整形外科機能訓練室に就職。1969年から東京都心身障害者福祉センター視覚障害科で中途失明者の相談や訓練を担当。1991年より日本点字図書館館長、2001年より同館理事長。「アジア盲人図書館協力事業」など国際協力にも積極的で、エスペランティストとしても活動。2008年、視覚障害者向けラジオ番組の制作に長年協力したことにより、第59回放送文化賞を受賞。2015年『不可能を可能に 点字の世界を駆けぬける』(岩波新書)。2018年、岩橋武夫賞)
 2015年10月、徳島市で、歩行中の視覚障害者と盲導犬が、バックして来たダンプカーにはねられ死亡。この事故を受け、日盲連などが視覚障害者の交通事故対策について活動を始める
 2015年11月、新潟県上越市に、「瞽女ミュージアム高田」が開館 (瞽女のすがたを描いた画家斎藤真一(1922〜1994年)っの作品160点を中心に収蔵・展示している)
 2016年3月、東京都墨田区の江島杉山神社に、杉山和一記念館が竣工
 2016年3月、岡山短期大学の山口雪子准教授(幼児教育学)が、視覚障害(網膜色素変性症)を理由に授業から外され、研究室からの退去を命じられたのは不当として、短大を運営する学校法人原田学園を相手取り、地位確認などを求める訴えを岡山地裁倉敷支部に提訴。 (岡山地裁は2017年3月28日、命令は無効であり、従う義務はないとし、慰謝料など110万円の支払いも命じる。判決の中で「望ましい視覚補助の在り方を検討、模索することこそが障害者に対する合理的配慮の観点から望ましい」と短大側の対応を促す。これにたいし、同年4月、学校側は広島高裁に控訴。2018年11月、最高裁が学園側の上告を退け、山口準教授の勝訴が確定。)
 2016年7月、全国300以上の映画館でスマホやタブレットのアプリUDCastを使って、音声解説付きの英画「ワンピース・フィルム・ゴールド」が上映される (UDCastはNPO法人MASC(メディアアクセスサポートセンター)が開発。映画の本編に特殊な音が組み込まれていて、その音をアプリが認識すると、事前にダウンロードされた音声ガイドが自動的に流れるようになっている。DVD/Blu-ray版でも同アプリを使って自宅で鑑賞できる。2017年からは多くの英画でこのアプリを使って音声解説を聞けるようになる。)
 2016年8月15日、東京メトロ銀座線青山一丁目駅で盲導犬同伴の視覚障害者(男性)が転落、進入してきた電車にひかれて死亡。また10月16日にも、近鉄大阪線河内国分駅で、視覚障害のある男性が転落、特急電車にはねられ死亡。これらの自己をうけて、視覚障害団体、行政、各鉄道会社を中心に駅ホームの安全対策について見直しや新たな取り組みも行われ、さらに一般国民にも視覚障害者の安全について啓蒙活動が行われる。(国土交通省によれば、視覚障害者が駅ホームから転落する事故は、2009年度38件、2010年度58件、2011年度74件、2012年度91件、2013年度74件、2014年度80件、2015年度94件、2016年度69件起きている。また、障害の有無にかかわらず乗客がホームから転落した事故は、2009年度は2442件、2014年度は3673件、2015年度は3518件、2016年度は2890件。)
  [2016年12月には、国土交通省と鉄道会社などによる「駅ホームにおける安全性向上のための検討会」が中間報告をまとめ、1日に10万人以上が利用する駅では原則として2020年度までにホームドアを設置(難しい場合は21年度を目途に昇降式ホーム柵を設置)、また1日に1万人以上が利用する駅については2020年度までに「内方線付き点状ブロック」および列車が止まらないホーム両端に固定柵を設置することを確認。
   一方、コスト削減などを目的に無人駅化も進んでいる。JR各社の無人駅数(委託駅も含む)は、北海道325駅(全427駅の 76%)、東日本 689駅(全1660駅の 42%)、東海 227駅(全405駅の 56%)、西日本 679駅(全1197駅の 57%)、四国 208駅(全259駅の 80%)、九州 288駅(全567駅の 51%) (2016年4月〜2017年2月の状況)]
 2016年9月、東京に、ユニバーサルシアター「シネマ・チュプキ・タバタ」が開館 (映画は字幕付き。各席にイヤホンジャックが設置され、難聴者は音声をより鮮明に聞くことができ、視覚障害者は音声ガイドを聞くことができる。また小さい子どもと一緒に利用できる個室もある。障害者の映画鑑賞を支援してきた市民グループ「シティライツ」が運営。「ちゅぷき」はアイヌ語で自然の光の意。)
 2016年10月、国土交通省が道路運送車両の保安基準を改正、ハイブリッド車や電気自動車の「車両接近通報装置」の備え付けを義務化し、また運転手が手動で音を止めることができないようにする (2018年3月以降に発売される新型車から適用。20年10月からは継続生産車も対象になる。走行時の音量は、時速10kmで50dB以上、時速20kmで56dB以上、バック走行では47dB以上)
 2017年3月、2月に行われた第25回あはき師国家試験の合格者が発表される。あん摩マッサージ指圧師国家試験では、視覚障害の受験者427人中275人合格、合格率64.3%(晴眼者は受験者1175人、合格率91.8%)。はり師国家試験では、視覚障害の受験者323人中172人合格、合格率53.3%(晴眼者は受験者4205人、合格率68.0%)。きゅう師国家試験では、視覚障害の受験者314人中167人合格、合格率53.2%(晴眼者は受験者4130人、合格率68.8%)
 2017年3月、総務省が、マイナンバー・カードの発行申請で視覚障害者専用の申請用紙の見本を作り、全国の自治体に通知
 2017年4月、ブラインドサッカー女子日本代表チームが結成、5月にオーストリア・ウィーンで行われたブラインドサッカー女子選手を対象とした初の国際大会「IBSA女子ブラインドサッカートーナメント2017」に参加(大会には16ヶ国が参加、日本チームが優勝)。
 2017年4月、韓国、点字付きのパスポートを発行(パスポート番号や有効期限などを点字でも表示)
 2017年5月、スペインのアリアンテで、ブラインドテニスの初の国際大会が開催される(約15ヶ国から約80人が参加) (2018年5月に、アイルランドのダブリンでブラインドテニスの第2回世界選手権が行われる)
 2017年8月、埼玉で、第1回全国盲学校フロアバレーボール大会が開催される(地区代表8校と主管校が参加、主管校の埼玉県立特別支援学校塙保己一学園が優勝)
 2017年11月4日、阿蘇クロスカントリーコースを会場に、第1回視覚障害者クロスカントリー大会が開催される
 2017年11月、阪急電鉄が、梅田駅に、音声で京都線・宝塚線・神戸線各線の乗り場を案内する設備を設置
 2017年12月、
 2018年3月、京都府立盲学校と京都府立聾学校が所蔵する「京都盲唖院関係資料」計3,000点が、重要文化財(歴史資料)に指定される(京都府立盲学校所蔵分2,633点、京都府立聾学校所蔵分367点)。
 2018年3月、東京で、IBSA ブラインドサッカーワールドグランプリ 2018(主催:国際視覚障害者スポーツ連盟(IBSA)、日本ブラインドサッカー協会)が行われる (2019年と20年も、東京で行われる予定)
 2018年3月、家電や情報通信機器の音声機能に配慮する内容を示した新たなJIS企画「アクセシブルデザイン〜消費生活用製品の音声案内」(S0015)、および視覚障害者向けに取扱説明書を作るさいの配慮事項をまとめた「アクセシブルデザイン〜視覚に障害のある人々が利用する取扱説明書の作成における配慮事項」制定
 2018年4月、日本点字図書館が「ふれる博物館」を開設
 2018年4月、「点字毎日」が、日本記者クラブ賞特別賞を受賞
 2018年5月、改正学校教育法が成立、タブレット端末等を用いたデジタル教科書が正式の教科書として認められる。
 2018年5月、マラケシュ条約批准に合わせて、受益者の範囲を広げる著作権法の改正案が国会で可決(施行は2019年1月)
 2018年7月28日、一枝のゆめ財団の主催で「あん摩マッサージ指圧コンテスト2018」が開催される (出場者 28名、最優秀賞 太田一郎。「一枝のゆめ財団」は、高い資質を備えた鍼灸マッサージ師の育成、三療の魅力と価値を社会に発信、視覚に障害のある業者の就労・経営の支援、地域で暮らす人々や労働者の健康づくりの支援などを目的に発足。理事長:明治国際医療大学学長 矢野忠)
 2018年8月、中央省庁が、雇用する障害者の数を水増ししていることが判明(計3700人を不正に計上。平均雇用率は、従来公表していた2.49%から1.19%へ)
 2018年12月、日本盲人会連合が、9月〜10月に行った「旧優生保護法に基づく強制不妊手術等の調査」の結果を公表。自治体や入所施設からは詳しい記録がないため視覚障害者の被害は確認できなかったが、視覚障害当事者向けの調査で、6人の被害者を確認。その中で、被害の確証を得られたのは2人で、その他4人は関係者からの聞き取りないし伝聞で明確な被害内容は判明しなかった。女性の被害者が大半で、学齢期に親の判断で不妊手術をさせられたり、成人して妊娠をした際に身内の判断で中絶手術を受けさせられる等の例が見られた。また、強制手術を受けた可能性が高い盲重複障害者については、親族等から情報提供があり被害者の存在は確認できたものの、明確な被害内容は明らかでない。
 2018年、アメリカ、パーキンス協会(旧パーキンス盲学校)が、大学進学を予定している視覚障害の一般高校生を対象に、大学予備コース "College success" を設置 (キャンパス内の寄宿舎で、歩行のほか、調理や掃除、パソコン等支援機器の操作などの訓練をする。アメリカでは、盲学校は重複障害児の教育が中心になっている。)

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