盲人文化史年表
◆ 15世紀まで
前4世紀、アリストテレスが、盲人教育の可能性を説く
1世紀、ローマの雄弁家・修辞学者クィンティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus: 35ころ〜95ころ)が、盲人の教育と文字書記の方法を記述。木、象牙、または金属の板に文字を浮彫りにした、いわゆるタベラ(tabella)の使用を提案。
4世紀、アレキサンドリアの盲目の神学者ディデュモス(Didymos: 313頃〜398頃)活躍 (4、5歳で失明、アルファベットを木版に彫り、読み書きをする。タベラを使用して読書した。かれはこれにより宗教、哲学、数学、音楽、天文に通じ、アレクサンドリア教校校長となる。主著『三位一体論』『マニ教徒反駁論』『聖霊論』)
330年、聖バージル(St. Basil, the Great)生まれる(〜379年)。カッパドキアのケーザレアに救民院を設ける
412年、聖リムナスクの隠者(The Hermit of St. Lymnaeus)が、シリアに盲人の収容所を設ける
562年、百済から日本に来た知聡(呉の人)が、「明堂図」(経絡やツボの図)のほか本草書など164巻を持ち込む。この明堂図をもとに、日本の鍼灸術が始まったと伝えられる
600年ころ、聖徳太子(574〜622年)が、窮民や障害者の救済のため、四天王寺に敬田院、悲田院、施薬院を設けたと伝えられる
701年、大宝律令の医疾令に、按摩師、按摩博士、鍼師、鍼博士の制が設けられる
730年、光明皇后(701〜760年、聖武天皇の皇后)が、障害者、孤独者らの救済のため、施薬院、悲田院を設ける
753年、唐僧鑑真(688〜763年)が、戒律伝授のため、失明しながらも6度めの企てでようやく来日。759年、律宗の根本道場として唐招提寺を建立する
9世紀半ば、人康親王(831〜872年。仁明天皇の第4皇子。848年四品となり、上総・常陸両国の太守や弾正台の長官を歴任)が、20代後半に失明、出家して山科の地に山荘を営み、盲人を集め救済事業を行なったといわれる。江戸時代の盲人は親王を当道座の祖神として崇敬。
9世紀後半、アッバース朝時代のハディース(ムハンマドの言行に関する伝承)学者アル・ティルミジー(824〜892年)が活躍 (若くして失明するが、ムハンマドの言行を記憶する多数の“教友”を訪ねてイラン東北部のホラーサーンからアラビア半島の西岸ヒジャーズまで各地を遍歴し、それを『スナンの書』というハディース集に集大成した。)
900年前後、蝉丸(生没年不詳)の活躍が伝えられる。(宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色とも醍醐天皇の第四皇子とも伝えられる。逢坂山に住み、盲目で琵琶の名手とされ、音曲の守護神として伝説に富む。後撰集以下の勅撰集に4首の歌がみえる。)
1016年、三条天皇(976〜1017年)が、眼疾のため譲位、翌年悲痛のうちに世を去る
1019年、大宰権帥藤原隆家(979〜1044年)が、盲目の身で大蔵種材らと刀伊の侵入を撃退する
1057年、アラビアの詩人 アブル・アラー・アル・マアッリー(973〜1057年)没 (シリアのマアッラト・アン=ヌウマーン出身。4歳のとき天然痘のため失明。バクダードで仕官を志すが、不遇のうちに故郷へ隠退し、著述と詩作に専念。合理主義・懐疑主義の立場からイスラム教の教義を批判。詩集『サクト・アッ・ザンド』『ルズーミーヤート』のほか、ダンテの『神曲』に影響を与えたともいわれる散文『ゆるしについての書』(1032年)で知られる)
1178年、ドイツのヴェルフ公(Duke Welf VII)が、バイエルン地方のメミンゲンに盲人ホームを設ける
13世紀前半、『徒然草』(226段)によれば、後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚(慈円)のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力して、『平家物語』をつくる (生仏は、会津の出身で、四条天皇(在位1232〜42)のときに、比叡山の検校職だったが、壮年で失明して慈鎮の弟子になったともいわれる)
1254年、フランス王ルイ9世(Louis IX, Saint Louis: 1215〜1270年)が、パリに300人を収容できる盲人収容施設「カンズ・バン」(L'Hospital des Quinze-Vingts)を設立 (王の保護を受け、寄付者には祈りをもって答え、施設維持のためにはこじきが奨励された。1777年、ルイ16世が宮殿拡張のためこの施設を買収し、収容者は路頭に迷うことになる。)
1270年、高野山桜池院の二第目住持・恵深没(勉励のために失明するが、学徳に優れ、1269年高野山検校になる。高野八傑の一人とされ、「盲検校」と呼ばれる)
13世紀後半、忍性(1217〜1303年。律宗の僧)が、鎌倉極楽寺に、療病院(病者を収容)、悲田院(身寄りのない者や年寄りを収容)を設ける
1292年ころ、ルノー・バルボウ(Renaut Barbou)が、フランス中部のシャルトル(Chartres)に「The Six-Vingts」(120人収容の盲人施設)を設立
13世紀、『高麗史』に盲僧・盲覡が集団化して祈雨・占卜・呪詛に携わったとの記述がある。さらに、李朝時代の15世紀には彼らは国設の明通寺を拠点に活動し、国家は命課盲人制度を作って優秀な盲人を命課盲人として登用し国家の宗教儀礼や占卜を担当させた。
13世紀後半、イタリアで眼鏡(凸レンズの老眼用)が作られるようになる (近視用の眼鏡が発明されるのは16世紀中ころ)
1300年ころ、平曲家・明石覚一が生まれる(〜1371年)。1338年、明石覚一、琵琶法師の組合「当道座」を結成(当道座の大成者といわれるようになる)。晩年に筆録させた「平家物語」の転写本が残存し、「覚一本」といわれている。
14世紀初頭、平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り、筑紫、明石、京の八坂、坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道〉と呼ばれる座が形成される
1305年、ベルギーのブルージュに盲人の収容施設つくられる
1329年、ロンドンの呉服商ウィリアム・エルシング(William Elsing)が、養育院「Elsing Spittle」を設立(主に盲人収容施設で、100人収容)
1347年、ウェールズ地方の聖ダビデ教会の司教ヘンリー・ド・ガウアー(Henry de Gower)没。生前、老盲と老病者の収容施設をつくる
1350年、フランスのジョン王(King John the Good: 1319〜1364.在位 1350−64年)が、シャルトルに盲人ホームをつくる
1370年、ベルギーのゲント(Ghent)に盲人収容施設が設けられる
1377年、イタリアのパドバに「Fragila」という盲人のギルドが組織される(物乞いする場所や条件の規定、成員の相互扶助や年金制度など。1616年にはその加入者は1500人に達したと言われる。)
14世紀後半、イタリアの作曲家ランディーニ(Francesco Landini: 1325年頃〜97年)活躍 (幼少期に天然痘で失明するが、哲学・占星学・音楽を学び、1361年にはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストとなり、また64年のベネチアの詩の競技会で優勝。多声歌曲1種であるバラータを多数作曲。)
1456年、平曲を愛好した貞成親王(1372〜1456年。後崇光院)没、この前後、平曲の隆盛期
15世紀中頃、ドイツの盲目のオルガン奏者パウマン(Conrad Paumann: 1410頃〜1473)活躍 (1446年ニュルンベルクのゼバルドゥス教会オルガニスト、67年ミュンヘンの宮廷オルガニスト。著書に『オルガン奏法の基礎』Fundamentum organisandi(1452)がある)
15世紀中頃、室町幕府8代将軍足利義正(在職 1449〜1473)の時代、京都だけで平曲法師が500人以上いたと言われる
1462年、ロシアのモスクワ大公・ワシーリー2世(1415〜1462年、在位1425〜62年)没。長い内戦の最中1446年敵によって失明させられ、「盲目公」と呼ばれた。ロシア教会を独立させ、モスクワ大公国の地位を高めた。
1471年、一休宗純(1394〜1481年)が、盲目の旅芸人・森侍者(森女)と酬恩庵で、一休が亡くなるまでの10年間、一緒に生活するようになる (前年一休は住吉薬師堂で鼓を打つ森侍者に出会いベタ惚れし、彼女も一休に心酔したようだ。当時彼女は30歳前後と思われる。大徳寺真珠庵にのこる一休の十三回忌,三十三回忌の「奉加帳」に森侍者慈栢の名がみられるという。)
1480年、大和で、盲人300人による一揆が起こる。一斉に筒笛を吹いて筒井・成身院方の武士を呪咀する。
15世紀後半、『七十一番職人歌合』に、鼓を打ちながら曾我物語を語る盲目の女性(瞽女)の姿が描かれる
15世紀後半、戦国時代、諸国の大名に「お抱え座頭」「お伽衆」として抱えられる盲人があり、また敵情をさぐる「細作」としても使われた
15世紀後半、スコットランドの盲目の吟遊詩人ハリー(Harry the Minstrel; Blind Harry)活躍(スコットランドの愛国者ウォレスに関する伝説を集めた長編詩「Acts and Deeds of the Illustrious and Valiant Champion Sir William Wallace, Knight of Elderslie」の作者とされる)