盲人文化史年表

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◆ 17世紀

 1601年、エリザベス救貧法(労働不能者・老人・盲人などの救済を教区の責任で行う規定をふくむ)
 1603年、土屋円一(伊豆円一。総検校。1540〜1621年)が、当道座の存続を家康に嘆願、当道制度の存続と保護を認められる (江戸幕府の盲人対策:1、当道座の公認かつ自治を許し、司法権をも与える、2、盲官およびその売官を認める、3、金貸業(官金)を公認し、この債権に対しては先取の優先権を与えて保護、4、全国の盲人を当道座に加入させ、京都の職検校または江戸の惣録検校のもとに統轄、5、盲人にはいっさいの租調の義務を免除)
 17世紀、諸藩では、身体障害者の自活の道を開くため、城下町に瞽女屋敷を与え保護したところがある(駿府、信州松本、飯田、越後長岡など)
 1630年、伊勢山田の勾当杉田望一(杉本望一とも)没 (1548〜1630年。生来の盲人と伝えられる。荒木田守武の俳諧の伝統を継いで伊勢俳談を担う。「望一千句」「望一後千句」を著す。「それときく空耳もかなほととぎす」が知られる)
 このころ、盲人鍼医・山川検校城管(?〜1643年)が、徳川3代将軍家光の鍼医として重遇され、談伴衆(相談役)の一員ともなった
 1634年、小池惣検校らによって当道式目が制定される
 1640年、パリの筆耕者ピエール・モロー(Pierre Moreau)が、盲人の触読のために、自由に移動し得る鉛製活字の製作を試みる(重くまた経費がかさむため、実際には使われなかった)
 1642年、石村検校(?〜1642年)没(16世紀末に琵琶法師から三味線演奏家に転じ活動したといわれ、三弦音楽の創始者とされる。また、三味線組歌の本手の最初の作曲者といわれる。)
 1642年、肥前国で盲僧派盲人と当道派との間に紛争が起こり、幕府の裁許により、当道勝訴。こののちも、幕府の当道保護政策によって、つねに当道派有利にたつ
 1648年、紀伊藩の儒官那波活所(1595〜1648年)没。中年で失明したが、学問にはげみ、藩主徳川頼宜の厚い信任を得る
 1648年、ウィルドリッヒ・シェーンベルガー没(47歳)。ドイツの人、3歳で天然痘のため失明、すず文字を考案
 1651年、ドイツ人ゲオルク・ハルスデルファ(Georg Philip Harsdorffer)が、蝋を引いた板の上に鉄筆で文字を書き、これを触読する方法を記述
 1661年、シチリア島のパレルモに盲人のギルドが組織される。1690年にはイエズス会から建物の提供を受け、加入者は宗教音楽の作曲・歌唱を業とした。
 1664年、盲人中村宗三が、『糸竹初心集』を刊行(尺八、箏、三味線の入門独習書。近世邦楽の楽譜公刊本としては最古の資料で、17世紀の日本音楽の実態を知るのに重要な文献)
 1667年、杉木望一(1585〜1667年)が没(伊勢山田の盲俳人。「望一千句」「望一後千句」などがある)
 1667年、九州の4人の盲僧が比叡山正覚院から紫衣を許される。
 1667年、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(John Milton: 1608〜1674年。1625年、ケンブリッジ大学クライストカレッジ入学。42年に始まったピューリタン革命では独立派に参加、49年のクロムウェルの共和制成立後はクロムウェルのラテン語秘書となって国王処刑を正当化する論文を次々とラテン語で書き、共和制を擁護。この間、激務のため視力が衰え、52年、43歳で失明。59年に共和制が崩壊し王政復古すると、ミルトンの著書は発禁・焚書処分され、私有財産も没収された。一時投獄されたが、死刑は免れ釈放されて、政界から完全に引退し、以後は口述筆記で詩作に専念)が、『失楽園』を刊行(アダムとイブの堕落と楽園追放を描いて「神の道の正しさ」を立証することを主題とした長編叙事詩)
 1670年、イタリアのラナ(Francesco Lana Terzi: 1631〜1687年)が、線と点の組合わせによるアルファベットを考案(点字の先駆とも言えるもので、バルビエやブライユの考案にもつながる)
 1674年、「座頭争論」(小倉城中での歳暮の嘉儀に出席した盲僧と検校との座順争いに端を発した事件)が起こり、当道側が幕府に訴え、当道座が勝訴(盲僧が三味線・箏・浄瑠璃など遊芸を生業とすることが禁じられ、各地で地神経の読誦など加持祈祷的な生業だけに限られる)。以後、有力な後ろ盾をもとめて本寺獲得運動が続けられ、ようやく1783年青蓮院の支配下に入る。
 1676年ころ、スイスの数学者ベルヌーイ(Jakob Bernoulli: 1654〜1705年)が、盲の少女ワルドキルヒ(Elizaabeth Waldkirch)に、薄い木版に深く刻んだ文字を触読させ、鉛筆でたどらせ、次にこうして覚えた文字を紙の上に鉛筆やペンで書かせて教育。彼女はこうしてラテン語・フランス語・ドイツ語の読み書きを覚え、家族や友人に3カ国語で手紙を書いた。
 1680年、柳川検校没 (生年不詳。大坂の人。寛永年間京都で活躍。山野井検校の門下で、三味線組歌を作った虎沢検校の伝統を継いで、組歌を改曲・整理・追加し、破手組の柳川流を開き、早崎検校に伝える)
 1685年、杉山和一、5代将軍綱吉を治療、これによって幕府の医官となる
 1685年、近世箏曲(俗箏)の開祖といわれる八橋検校(1614〜1685年)没 (幼少期に失明。攝津で寺尾検校城印に地歌三味線を学ぶ。さらに、江戸で筑紫箏の祖・賢順(1547?〜1636年)の門下法水に筑紫箏を学び、これを改革・発展させて、半音を含む平調子という新調弦を考案。1636年勾当、39年検校。1663年ころから京都に住み、多くの門弟を育て八橋流を開き、現在の生田流や山田流などの箏曲の始祖となる。箏組歌13曲と段物(「六段」など)三曲を編作曲した)
 1690年、箏曲家・作曲家北島城春(?〜1690年)没 (八橋検校の弟子で、生田検校の師。1645年検校。1689年第34代職検校。「明石」「末の松」「空蝉(うつせみ)」などの箏組歌を作曲。)
 1690年、ドイツ人医師ケンペル(Engelbelt Kaempfer: 1651〜1716年)が来日、その著書『日本誌』に鍼灸を紹介
 1692年、杉山和一が、関東惣検校となる。「当道新式目」を制定(これにより、元来同一であった惣・職検校が、京都の職検校と江戸の惣検校に分離されたことになり、惣検校は江戸に惣録屋敷を与えられ、京都の職検校の上位に位置づけられた。こうして、江戸の惣録屋敷が関東筋の盲人を、京都の職屋敷が上方筋の盲人をそれぞれ支配することとなった)
 1694年、惣検校杉山和一没(85歳)。
  [杉山和一: 1610〜1694年。伊勢出身。10歳までに失明。江戸に出て山瀬琢一(盲人で初めて鍼を業としたとされる人。1658年、61歳で検校)について鍼術を学ぶ。それまでの捻鍼法や打鍼法に換えて、盲人にも適しまた皮膚にほとんど痛みを感じさせない管鍼法(鍼を細い管に入れ、管からわずかに出た鍼の頭を指でたたいて刺入する方法)を考案。1671年検校。1681年、幕命で鍼治講習所(世界発の盲人の職業教育施設)を開設、盲人に按摩・鍼を体系的に教え、多くの門下生を養成。「療治之大概集」「選鍼三要集」「医学節用集」(合せて「杉山流三部書」と言われる)を著述]
 17世紀、イギリスのマクベス(David Macbeath)とその友人ミルン(Robert Milne)らが、結び文字を盲人の教育に使用。聖書の文、讃美歌、歴史などがこの文字で記録された
 17世紀後半、アイルランドの哲学者・政治家モリヌークス(William Molyneux: 1656〜1698年)が、いわゆる「モリヌークス問題」を提起(先天盲が成人してから開眼した時、その人は視覚だけで立方体と球を区別できるのか、という問い。この問いにたいし、モリヌークス自身およびロックやバークリーは否定的、ライプニッツは肯定的。以後、哲学ばかりでなく、感覚や認知などの心理学の文脈でも考察されるようになった)
 17世紀末、フランス北東部シャンパーニュ地方の盲目の修道士ドン・ペリニョン(Pierre Perignon. 通称 Dom Perignon)が、シャンパンを発明したと言われる
  [Pierre Perignon: 1638〜1715年。生まれつき視力が悪く、 20歳でベネディクト派 Hautvillers 修道院に入る。やがて完全失明するが、抜群の記憶力など色々な才能に恵まれまた優れた味覚や嗅覚を持っていて、40年以上修道院の経理係・酒庫係を務め、黒ブドウから白ワインを作ったり、コルクでしっかり栓をすることで発泡性のワイン=シャンパンを作った。]
 17世紀末、盲人棋士石田検校が、石田流(三間飛車)を創始
 17世紀末、宇和島藩が、座頭や盲女が自領・他領で回在することを禁止して彼らに扶持米の給付を始める (18世紀以降、中国・四国のいくつかの藩で、盲人に扶持米を給付する同様の施策が行われる。)

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