盲人文化史年表

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◆ 18世紀

 このころ、矢口城泉(1669〜1742年。1699年検校)が、「無雲鍼法」を武田玄了に学び、仙代藩四代藩主伊達綱村に鍼医として使える
 1711年11月、イギリスの盲人数学者ニコラス・ソーンダーソン(Nicholas Saunderson)が、ケンブリッジ大学の第4代ルカシアン数学教授に就任 (ルカシアン数学教授: 1663年、英議会議員ヘンリー・ルーカスのケンブリッジ大学への寄付をもとに設けられた数学教授職。ニュートンが第2代教授(1669〜1702)をつとめている。)
  [Nicholas Saunderson: 1682〜1739.1歳ころ天然痘で失明。近くの学校に通ってラテン語・ギリシア語・フランス語・数学などを学ぶ。さらに18歳のとき数学者ウィリアム・ウェストに出会い、自宅で代数や幾何など高等数学を学ぶ。1707年(25歳)、ケンブリッジ大学を構成するクライスト・カレッジの聴講生になる。ニュートンの『プリンキピア』についても研究し、学生に宇宙論や光学もふくめその講義を始める。1711年、第4代ルカシアン数学教授。1720年、盲人のための計算板を発明。死の翌年(1740年)『代数学』全2巻を刊行]
  [ソーンダーソンの計算板:正方形の板に3×3=9個の穴を空け、その穴に、長さが同じで頭の大きさの異なる2本の線のいずれかまたは両方の組み合せ方を変えて差し込むことで、0から9までを示す。]
 1712年、幕府が、座頭金取締令を出す
 1714年、山崎勾当「将棋亀鑑」
 1714年、イギリスのヘンリー・ミル(Henry Mill)が、タイプライターを考案 (実用的なタイプライターは、アメリカのC. L. ショールズが1868年に試作、レミントン社が特許権を買い取って改良を加え、1874年販売を開始)
 1715年、筝曲生田流の始祖生田幾一(1656〜1715年)没 (八橋検校門下の北島検校城春の弟子。1696年、今井検校序一のもとで検校になる。1705年、当道職階最高位の七老。箏組歌『思川』、段物『五段』『砧』、長歌『小笹』などを作曲したといわれる)
 1717年、儒者・後藤松軒(1631〜1717年)没 (大坂出身。20歳過ぎに失明、琵琶・箏を学び勾当・検校になる。また、妻や弟子に書を読んでもらい、とくに妻が紙縒りで作った漢字を触るなどしながら学問を修める。そして、40歳ころ会津藩主保科正之にまねかれ、3代にわたる藩主の侍講をつとめ続ける。著書に「大学弁断」)
 1720年、惣検校三島安一没(杉山和一の弟子。幕府医官となり、江戸近郊および諸国の45ヵ所に講堂を開設、杉山流鍼術を全国的に普及させ、盲人の職業として鍼按業を確立するのに貢献)
 1723年、当時の江戸の人口 526,210人中、盲人数は 7,030人(1.3%.加藤康昭の推定による)
 1725年、筑前黒田藩の盲学者大神沢一(1684〜1725年)没 (三宅尚斎、佐藤直方に師事、儒学を学ぶ)
 1729年、イギリスの盲目のオルガン奏者・作曲家J.スタンリーが、17歳の若さでオックスフォード大学より音楽学士の学位を授与される
  [John Stanley: 1712〜1786. 2歳のとき事故で失明。 7歳から音楽を学び、11歳でオール・ハローズ教会の専属オルガン奏者になる。以後、1726年セント・アンドリュー教会、1734年インナー・テンプル教会のオルガン奏者に就任。1779年には王室音楽隊長に任命される。オラトリオ、カンタータ、オルガン曲、協奏曲などがある。]
 1729年、神道家・跡部良顕(1658―1729)没 (2500石の旗本で、垂加神道と儒学を学ぶ。眼病のため中年公職を辞し、やがて失明するが、伴部安崇の協力を得て、神道の研究と信仰を深めた。著書に《南山編年録》《神代混沌草》《垂加翁神説》など。)
 1733年、鍼医で国学者の谷崎永律没 (和歌をよくし、患者として治療をした儒者の室鳩巣とは20年にわたり親交をもった。勾当。著作に『あさがほ記』)

 1736年、惣検校島浦益一が退役。これ以後、盲人の統括職である江戸惣検校職が廃止され、江戸には惣録を置いて盲人の統轄に当たることになった
 1738年、アイルランドのハープ奏者・作曲家のカロラン(Turlough O'Carolan: 1670〜1738年)没 (18歳で天然痘のため失明。ハープ奏者の見習となり、20歳過ぎから、アイルランドの各地を旅しながら、土地土地の雇い主・パトロンの求めに応じて曲を作った。アイルランド最後の吟遊詩人とも言われる。知られているだけで200以上の曲を遺している。)
 1745年、儒者の長沢東海(1698〜1745年)没。10歳のとき、弟楽浪(1699〜1779年)とともに、天然痘のため失明。父長沢粋庵に学び(文字は、掌に書字してもらったり紙縒り文字で習得)、1719年弟とともに朝鮮通信使と詩を唱和した。はじめ宇都宮藩主戸田忠真に、1734年から松江藩主松平宗衍につかえた。著書『朝鮮対話集』
 1749年、デニス・ディドロ「盲人書簡」公刊 (その中で、「盲人の感覚は失明により特に鋭敏になることはなく、失明がいやおうなしに残存感覚の利用を増し、注意を集中させ印象を深くする。教育は盲人が失ったものより、いまもっているものの上に築き上げるべきだ。何物にもまして盲人は、外部の客観的世界とできる限りの接触を保たねばならない。たとえ盲ろうあ者でも、触知できる符号と触れてわかる対象物とを、根気よく執拗に結合することにより、触覚を通して教育することができる。」と述べ、盲人教育の可能性を説いた)
 1751年、ドイツの作曲家ヘンデル(Georg Friedrich Handel: 1685〜1759年)が、白内障による視力低下と戦いながらオラトリオ「イェフタHWV70」作曲。53年初頭には完全に失明するが、以後もコンチェルトの指揮やオルガン演奏を続け、また57年3月初演の最後のオラトリオ『時と真理の勝利』に至るまで口述で作曲も続ける。
 1754年、琉球の三線奏者・照喜名聞覚(てるきな もんがく)没。1682〜1754年。生後間もなく盲目となり、後剃髪して聞覚と号す。新里朝住に学び奥義を究め、別に聞覚流を創始。弟子屋嘉比朝寄の「屋嘉比工工四」は聞覚の楽譜を基礎にしているという。
 このころ、地歌三弦家の鶴山勾当が活躍。大坂で浄瑠璃の繁太夫節を地歌にとりいれる。江戸にでて宝暦12年(1762)「泉曲集」を編集した。代表作に「妹背の秋草」「濡扇」「正月(まさづき)」など。
 1754年、ジョン・フィールディング(John Fielding)が、ロンドンの判事に就任
  [Sir John Fielding: 1721〜1780年。19歳の時事故で失明し、その後法律を学ぶ。1750年からロンドンの判事をしていた異母兄ヘンリー・フィールディング(1707〜1754年。有名な小説家。1737年の「検閲令」で活動しにくくなり、その後法律を学び法律家としても仕事をするようになる。48年ロンドンの判事になる)の下で働く。イギリス最初の専門の警察組織といえる「Bow Street Runners」を指揮して、ロンドンの犯罪者一掃に尽力。1761年ナイトに序せられる]
 1755年、ド・レペー司祭(Charles Michel de l'Epee: 1712〜1789年)が、パリに世界最初の聾唖学校を創設、手話法による教育を実践 (この学校における成果は、バランタン・アユイにも深い感銘を与えた)
 1756年、ドイツのワイセンブルグ(R. Weissenbourg: 1756〜1824年)が生れる。7歳のときに天然痘のため視力をそこね、15歳で全盲になる。家庭で教育を受けたが、16歳のとき、マンハイムの学者ニーゼン(Christian Niesen)を招いて数学や地理等を学んだ。文字は板の上に数枚の紙を重ね真鍮と糸の枠に沿って鈍尖筆で文字を書く方法を用い、また計算にはソーンダーソンの計算板を改良して用い、図形や文字には針金を使用し、さらに、絹糸や針金や砂や止めピンの頭を使った触地図も使った。
 1757年、漢詩人高野蘭亭(1704〜1757年)没。17歳で失明、荻生徂徠の門人。著書に『蘭亭先生詩集』。
 1759年、オーストリアのピアニスト・作曲家パラディス(Maria Theresia von Paradis: 1759〜1824年)が、ウィーンに生れる (父ヨーゼフ・パラディスは帝国商務省長官で、女帝マリア・テレジアの宮廷顧問官。4歳ころ失明。幼児からすでに音楽の天才を示し、コジェルフやサリエリなどの宮廷音楽家たちからピアノや歌・作曲などを学ぶ。11歳で教会に出演したとき、マリア・テレジアはその妙技に感じ、年金を賜わった(女帝が亡くなった1780年まで)。ウィーンで演奏活動を始め、また作曲もするようになる。彼女は、協力者で台本作家だったリーディンガー(Johann RIEDINGER)が考案した記譜板(譜面を筆記するための道具)を使って作曲し、また他の作曲家の楽譜も判読したという。1783〜86年、マンハイム、パリ、ロンドン、ブリュッセル、ベルリン、プラハなど各地を演奏旅行、この間の84年、パリでバランタン・アユイに会い、盲学校や盲教育について助言する。1808年、自宅に音楽学校を開設し、女性や盲人を教育。代表作「シチリアーノ」)
 1760年、箏曲家三橋弥之一(1693?〜1760年)没 (1736年検校。近江の膳所藩家老の次男。京都の倉橋検校門下で,越中富山藩にかかえられ、三味線の名手島田検校に認められる。富山およびその江戸屋敷で,生田流箏曲を教え、江戸生田流の祖とされる。作曲に「宮の鶯」「雪月花」など)
 1764年、イギリス、心理学者トマス・レード「盲心理論」発表
 このころから、江戸や京都・大坂などで、街なかを笛を吹いて歩く流し按摩が見られるようになる (銅脈先生(1752〜1801。狂詩作者。本名は畠中正盈)が著した『太平樂府』(1769年)に「按摩痃癖、あし笛を吹き去る。」、『太平遺響』(1778年)に「按摩の笛の聲は夜橋を過ぐ。」とある。また、小林一茶(1763〜1827)には「笛ぴいぴい杖もかちかち冬の月」」なりはひや雪に按摩の笛の声」などの句がある。)
 1765年、座頭の高利貸、ますます盛んとなり、その取立ても横暴をきわめたので、幕府が、高利取締令を出す
 1771年、バランタン・アユイ(Valentin Hauy: 1745〜1822年)が、パリで無教養の盲人の興業を見、盲教育に志す
 1775年、琉球の三線奏者・屋嘉比朝寄(やかびちょうき)没 (1716〜1775年。尚敬王の命で薩摩で謡曲と仕舞を学ぶ。帰国後、失明して三線に専念、謡曲の技法を取り入れた当流を樹立。中国の記譜法を参考にして独自の記譜法を考案し、『屋嘉比工工四(くんくんしー)』を編纂し、後の琉楽譜(工工四)発展の基礎を築いた。琉球三線音楽中興の祖といわれる。)
 1776年、当道座の願いにより、幕府が、琴、三味線、鍼治、導引等を生業とする盲人は、もっぱら武家にかかえられている者を除き、検校の支配に属するよう通達する
 このころ、地歌演奏家藤尾勾当(1730?〜1800?)が活躍。尾張の人で、「富士太鼓」「虫の音」「八島」など謡曲に題材をえた曲を作曲。
 1778年9月、盲人および浪人の悪質な高利貸事件が発覚し、鳥山検校等8検校、1勾当、1座頭その他これと関係ある弟子、家主など多数検挙される。同年末、10人の盲人中、牢内で病死2人を除く8人が当道に引き渡され、当道は鳥山検校等4人を官位剥奪・追放処分にした。幕府は、盲人および処士らの高利貸しを禁じる。
 1779年、漢詩人横谷藍水(1720〜1779年)没。6歳で失明し、鍼医として身を立てたが、17歳のとき高野蘭亭に入門、やがて蘭亭門の五子の第一と称されるほどの才能を現し、漢詩人として立った。
 1779年、塙保己一(1746〜1821年)が、『群書類従』の編集・刊行を志す(1819年までに、530巻の木版本完成)
 1779年、地歌箏曲家安村頼一(?〜1779年)没。1732年検校。1768〜71年職屋敷の惣検校。三弦は柳川流の田中検校に師事し,河原崎検校(1778年検校)に伝授した。箏は生田検校門下の倉橋検校(?‐1724)に師事。箏組歌を整理して「撫箏雅譜集」を刊行し,自作の「飛燕曲」も載せた。安村の門人には、藤池,浦崎,久村,石塚,長谷富の各検校がおり、久村の系統から名古屋系,石塚の系統から大坂系(新生田系),長谷富は江戸へ下ってその系統から山田流が生まれた)
 1779年、ディドロが、盲人のいわゆる障害物知覚について、顔面神経と末梢器官の感度の増進によると説明した
 このころ(安永-天明期)、地歌演奏家房崎勾当が大坂で活躍。 作品に「墨絵の月」。
 1781年、当道派の願い出により、幕府が、武家出身の盲人は盲僧として青蓮院支配下に入り、百姓町人の出身の盲人は当道座の支配下に入るよう命令する
 1783年、18世紀最大の数学者L.オイラー没
  [Leonhard Euler: 1707〜1783年。スイスのバーゼル生まれ。ヨハン・ベルヌーイから数学の指導を受け17歳で修士号を取得。1727年、当時ペテルブルグにいたヨハンの息子のニコラスとダニエルに招かれ、41年まで同地で研究を続ける。過度の仕事により、35年ころ右眼失明。41年ベルリン科学アカデミーに移る。66年エカチェリーナ二世の招きで再度ペテルブルグに移る。翌年佐眼も失明。全盲になってからの16年間もふくめ、非凡な記憶力と助手や2人の息子の協力で超人的な研究活動を続け、900編近い論文・著作を残す(そのうち半数は失明後の著作)。解析学をはじめ整数論や位相幾何学など数学の分野ばかりでなく、それを応用して力学や天文や光学などの分野でも多くの研究をした。]
 1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院(L'Institution Nationale des Jeunes Aveugles)を設立(世界最初の盲学校。寺院の門に立って恵みをこいながら父母兄弟を養っていた17歳の盲少年レスエール(Francois Lesseur)がその最初の生徒)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る
 1788年、菅江真澄の『岩手の山』の中に、盲巫女(イタコ)についての記述
 1790年、イギリスのヘンリー・モイズが、ニコラス・ソーンダーソンの計算板を改良
 18世紀末、峰崎勾当(地歌演奏家・作曲家)が大坂で活躍。豊賀検校(1743〜85年)門下。『雪』『袖香爐』『小簾の戸』『花の旅』など芸術性の高い端歌を数多く作曲する一方、『残月』『梅の月』『東(吾妻)獅子』『越後獅子』などの器楽独奏部分をもつ手事物を流行させた。
 1791年、藤植(藤上)検校(?〜1805年)と塙検校が、座中取締役に任じられ、当道座の改革を始める。1796年から翌年にかけてようやく座法の改正案を提出するが、実質的な成果はほとんどあげえず、1799年辞任。
 1791年、ラシュトン(Edward Rushton: 1755〜1814年。盲詩人)が、イギリス最初の盲学校をリバプールに開設(当初は、手仕事(バスケット作り)や教会で歌う声楽、オルガン演奏などの指導に限られ、読み書きなどの教育はなかった)
 1791年、スコットランドの盲の説教師・詩人トーマス・ブラックロック(Thomas Blacklock: 1721〜1791年)没 (生後6ヶ月で天然痘で失明。スティーブンソン博士の協力によりエジンバラ大学で教育を受け神学博士となる。スコットランド教会の牧師にも任命され、強い信仰を文学的表現で伝える説教を行った。
 1793年、塙保己一が、幕府の許可を得て和学講談所を開設、古文献の収集、門弟の養成に当たる
 1793年、エジンバラ盲人院、およびブリストル訓盲院が設立される
 1793年、スイスの生物学者・哲学者シャルル・ボネ(Charles Bonnet: 1720〜1793)没。初め昆虫の研究で業績を上げる(前成説を支持)が、30歳ころ視力が衰えて植物の生理の研究に転じ、さらに失明してからは実験を離れて思索に専念、「自然の階段説」を唱えた。 (1760年にいわゆる「シャルル・ボネ症候群」について記述)
 1794年、イギリス、ジョン・フラーがサセックスに盲人救済機関設立、年給を支給
 1798年、イギリスの科学者ドルトン(John Dalton: 1766〜1844。自身、色覚障害であった)が、色覚障害についての研究を発表
 1800年、リバプール盲学校、寄宿生収容

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