盲人文化史年表

上に戻る


◆ 19世紀後半

◆ 19世紀後半
 1851年、ドイツの生理学者・物理学者ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz: 1821〜1894)が検眼鏡を発明 (これにより、眼底など眼球内部を調べることができるようになり、眼科学が大きく進歩した)
 1853年、全米第1回盲学校教員大会開催
 このころ、箏曲家光崎検校(?〜1853年ころ)没。 1821年検校。都名は浪の一。地歌三味線を一山検校、箏曲を八重崎検校に師事。三味線に従属しない新しい箏曲の確立を目ざし、新しい箏組歌として『秋風の曲』などを作曲。また、段物・砧物の総合としての『五段砧』を作曲。楽譜の出版にも熱心で、精密な三味線楽譜集「絃曲大榛抄」や、自作曲『秋風の曲』の楽譜「箏曲秘譜」を発刊。(その斬新な活動は当道座の反感を買い、京都職屋敷から追放され、金沢で不遇のうちに没したという言い伝えもある。)門下の葛原勾当により中国系生田流箏曲として受け継がれる。
  [秋風の曲:光崎検校と親しく交流していた越前国の代官蒔田雁門(筆名は高向山人)が、玄宗皇帝と楊貴妃との恋愛をテーマに白楽天の『長恨歌』を詞章に取り入れて作詞。曲調はもの寂しげで、その調弦法は秋風調子と呼ばれる。1837年に蒔田雁門によって「箏曲秘譜」が刊行され、さらに41年には光崎検校から葛原勾当に直伝された。]
 1854年、フランス政府が、点字を公式に認める(ブライユの死から2年後)
 1854年、ブラジルに、ベンジャミン・コンスタント盲学校設立
 1855年、国学者蘆野屋麻績一(1800〜1855年)没 (幼くして失明、雨富流謙一の門下。鍼術をよくし、のちに国学に通じ、和学講談所の後継者とみられるほどの人物。し歌集「しのぶ草」がある。安政の大地震で死去)
 1857年、イギリスの宣教医ホブソン(Benjamin Hobson: 1816〜1873年。中国名は合信。1839年から澳門や広東などで医療伝道活動を行う)が1851年に著した『全體新論』が翻刻される (西洋医学を紹介している本だが、盲聾の教育の理念として、道徳的・精神的な向上および職業能力・自己扶養力の涵養があげられ、また、一つの感覚が失われると他の感覚は鋭敏になるという感覚補償説など、当時の西欧の考え方も紹介されている)
 1858年、アメリカン・プリンティング・ハウス(American Printing House for the Blind: APH)が設立(1852年に発足した州立ケンタッキー盲学校の教科書印刷所が、アメリカの全盲学校に共通した印刷所として独立したもの)
 1857年、デンマークが、盲教育の義務制実施(世界発)
 1858年、ドイツのザクセン・ワイマール大公国で、盲・聾児の8年間の教育を義務化
 1859年、セントルイスのミズーリ盲学校で、アメリカで初めて点字を導入
 1859年、アメリカの歴史家W.H.プレスコット(William Hickling Prescott: 1796〜1859年)没。ハーバード大学在学中にほとんど失明するが、1814年同大学卒業。朗読秘書を使って研究・執筆に専念。『メキシコ征服史』『ペルー征服史』が有名。
 1860年、遣米使節団の副使村垣範正に首席通詞として随行した名村五八郎(1826〜1876年)が、ニューヨーク盲学校を見学(凸字版書を手指を触れて読んでいるのを実見している。この学校の教師16人のうち11人は盲人であったという)
 1860年、カナダ最初の盲学校が創立される
 1861年、ベルギー盲学校教授ランダゲン(Hippoylyte Van Landagen)が、ロンドン盲人教育協会(London Society for Teaching the and Training Blind)に点字を導入
 1861年、ノルウェーの盲教育開始
 1862年、江戸幕府が遣欧使節を派遣、パリの盲学校なども訪れる(同使節団に加わった福沢諭吉は、1866年に出版した『西洋事情』で、盲院について「紙に凸の文字を印し、地図等は針にて紙に孔を穿ち海陸の形ちを画き、指端にて之を触れしむ……。」と記している)
 1863年4月22日(旧暦3月5日)、湯殿山の行人・明海(みょうかい)、入定 (1820?〜1863年。俗名は春次。農家の長男に生まれるが、十代半ばで眼病になり失明。1840年繁の市という座頭に弟子入り。翌年から湯殿山に修行に入り、1844年湯殿山裏口の大日寺で一世行人となる。木食・断食の修行をつづけ、入定。山形県米沢市簗沢に即身仏として祀られている。湯殿山裏口で唯一の即身仏。)
 1863年、香港にハニービル盲女子ホーム開設
 1863年、ポルトガルの盲教育始まる
 1865年、フィンランドのヘルシンキで盲教育始まる(義務制は1921年)
 1866年、幕府の使節団員岡田摂蔵が、「航西小記」の中で、前年9月訪れたパリの盲院について記述(その中で点字についても初めて言及している)
 1866年、福沢諭吉が、『西洋事情』で欧米の盲唖教育を紹介(点字についても書かれている)
 1866年、メルボルンに、盲人の社会復帰訓練センターとして「ロイヤル・ビクトリア盲人援護協会」設立
 1866年、ロンドンで、ヒュー・ブレア(Hugh Blair)とウィリアム・テイラー(William Taylor)の2牧師が、全盲と強度の弱視少年を教育するための「ウスター・カレッジ」(Worcester College for the Blind)を設立(1932年、RNIBに移管される)
 1867年、「ラルース」の百科辞典に、ルイ・ブライユについてかなり大きな項目を設けて記述される
 1867年、儒学者谷三山(1802〜1867年)没。11歳のとき目と耳を病み、目は治まったが14歳で全聾となる。家塾”興譲館”を興し、ここを拠点に、吉田松陰、頼山陽らと交際を結ぶ。40歳過ぎに視力も失い盲聾となる。自分の手のひらの上に文字を書いて、講義や質疑応答をした
 1868年、ウエイト(William Bell Wait: 1839〜1916年。1863〜1905年の40年以上にわたりニューヨーク盲学校校長)が、「ニューヨーク・ポイント」というブライユ式点字とは大きく異なる点字を考案 (紙面節約のため、縦2点、横は1点から4点まで伸縮するもので、また点字を書く時の便のため、もっとも頻繁に出てくる文字の点の数を少なくした。1890年代までアメリカでもっとも広く使われた。彼はまた、1894年にニューヨーク・ポイントを片手だけで打ち出すことのできるタイプライターも発明している。)
 1868年、アーミテージ(Thomas Rhodes Armitage: 1824〜1890年。外科医としてクリミア戦争に従軍するなど活躍していたが、1860年失明)が、ロンドンにイギリス内外盲人協会(British and Foreign Blind Association)を設立。当時イギリス各地で使われていた様々な盲人用文字の中から盲人の読み書きにもっとも相応しい文字を選定するための委員会を結成し、実験と調査に基づき、1870年ルイ・ブライユの点字を採択。その後、ブライユ点字による教科書・文学書・讃美歌集などを発行
 1868年、ボストン市立図書館に、点字部設置(のちに、パーキンス盲学校の図書館に吸収される)
 1869年、村田文夫(1836〜1891年)が、『西洋聞見録』で欧米の盲唖教育を紹介
 1869年、コペンハーゲンで、第1回北欧国際特殊教育会議が開催される
 1869年、騎士レオポルド・ロディーノにより、イタリアの盲教育始まる
 1870年、ドイツ、盲教育義務制実施
 1870年、メキシコ、盲少年および盲成人のための学校開設
 1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828〜1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
 1870年、オーストリアの音楽家ツァクライス(Thomas Zakreis: 1816〜1870年)没 (生後3ヶ月で失明。1826年にウィーンの盲学校に入り、修行を終えて、32年にはそこの扶養所兼職業学校に入った。47年盲人仲間14人と楽団を結成し、ウィーンで最も人気のある楽団の1つとなり、その演奏スタイルはワルツ王のヨハン・シュトラウスにも賞賛された。)
 1871年9月、山尾庸三が、「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」を太政官に提出。
 1871年、東京府が盲人調査を行う(以下に、その中の階級別職様について記す)
          検校・勾当  以下盲人    計
  鍼治・揉む療治 57人(41.3%)  613人(89.2%)  670人(81.2%)
  金子貸出    54人(39.1%)  29人(4.2%)   83人(10.8%)
  音曲指南    26人(18.9%)  30人(4.4%)   56人(6.8%)
  その他     0人(1.0%)   13人(0.9%)  13人(1.6%)
  無職      1人(0.7%)   2人(0.3%)   3人(0.4%)
 自活者  119人(86.2%)      271人(39.4%) 387人(46.9%)
  急迫者 19人(13.8%)      416人(60.6%) 435人(52.7%)
  計       138人(100%)  687人(100%) 825人(100%)
   *「その他」の「以下盲人」は、吉凶の施物取集めが12人、売卜が1人。
 1871年11月、太政官布告第568号により、盲人の官職(盲官)廃止(配当金取り集めや持ち場を区分しての独占的な営業の禁止なども含む→当道座解消)。また「鍼治學問所」が廃され、東京・本所一ツ目の「杉山鍼治學校」も閉鎖される。
 1871年、「アメリカ盲教育者協会」(American Association Instructors of the Blind: AAIB)発足
 1871年、アーミテージが、『The Education and Employment of the Blind』(盲人の教育と職業)を刊行
 1871年、イギリス内外盲人協会が、点字楽譜の説明書を出版(初の点字楽譜解説書)
 1871年、ドイツ、盲人のためのライヒ協会が設立される
 1872年8月、「学制」公布(「廃人学校アルヘシ」と規定) (1879年教育令、1886年学校令(小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令)、1890年10月「小学校令」改正(盲唖学校の設置廃止に関する事項等を定め、就学義務の免除を猶予とともに規定))
 1872年、箏曲・地歌の演奏家・作曲家吉沢検校没
  [吉沢検校審一: 1801?〜1872年。名古屋の人。9歳ころ失明。初世吉沢検校(?〜1841年)の子。父や藤田検校に箏曲・地歌を、中村検校に平曲などを師事。1834年検校登官後、雅楽、和歌、国学なども学ぶ。尾張藩主にも重用され、四十代で尾州の盲人支配頭に列せられて5人扶持を得、藩主の祭祀のおりにはつねに平曲を語った。55年ごろ京都に移って光崎検校らの箏曲復古運動を受け継ぎ、雅楽の調子からヒントを得て古今調子などの独特な箏の調子を考案し、和歌を詞章とする新形式の箏組歌を生み出した。名古屋で箏曲が興隆、また平曲も伝承される礎を築いた。作品に、古今組五曲(『千鳥の曲』『春の曲』『夏の曲』『秋の曲』『冬の曲』)や古今新組四曲(『山桜』『唐衣』『初瀬川』『新雪月花』)など]
 1872年、イギリスのアーミテージが、パーキンス盲学校の音楽教師キャンベル(Francis J. Campbell: 1832〜1914年。5歳で失明)を招き、王立盲人師範学校・音楽院(Royal Normal College and Academy of Music for the Blind)を設立。速記、タイプライター、ピアノ調律、オルガン演奏、音楽教師、学校教師などの専門的職業教育や大学への進学準備教育を行う
 1872年、アメリカ、フィラデルフィアに「盲人宗教書供給協会」が設立される
 1873年1月、明治政府より、梓巫市女憑祈祷狐下等厳禁の布令。これを受けて、2月、青森県より「巫覡ノ徒祈祷所業ヲ禁ズ」の布令(イタコ等もふくむ)、以後同様の布令が繰り返し出される。
 1873年8月、ウィーンで、第1回ヨーロッパ盲教育者会議が開催される(1879年のベルリンでの第3回会議から「盲教育者会議」と改称)
 1874年、明治政府が「恤救規則」を制定(救済対象は、生業不能の70歳以上の病人・廃疾者と13歳以下の幼少者で、極めて制限的)
 1874年8月、医師法と医療制度の基となる「医制」が発布される(その第53条で、「鍼治、灸治ヲ業トスル者ハ、内外科医ノ差図ヲ受クルニ非サレバ施術スヘカラス」と規定され、医師の監督下以外の鍼灸業務を禁じる。ただし、この規定は現実には施行されなかった)。
 1874年、全ドイツ盲人連盟結成
 1874年、ロンドンの普通学校内に盲学級設置
 1874年、イギリス、慈善事業協会が、盲人福祉調査委員会を設立
 1875年5月、東京築地のイギリス人医療宣教師フォールズ(henry Faulds: 1843〜1930年)の家に、フォールズ、中村正直、津田仙、古川正雄、岸田吟香、ボルシャルト(ドイツ人宣教師)の6人が会合し、訓盲院設立の目的で楽善会を組織する
 1875年、教部省達第29号により、盲僧派盲人はすべて天台宗管理となる
 1875年、ポルトガルの詩人・小説家A.E.カスティーリョ(1800〜1875年)没。6歳のとき失明したが、コインブラ大学で博士号を受ける。代表作『城の夜』『吟遊詩人のねたみ』のほか、ギリシア・ラテンの古典やシェイクスピア・モリエール・ゲーテの翻訳でも知られる。
 1876年4月、手島精一(1849〜1918。工業教育の先駆者、長年、東京高等工業学校長をつとめる)は、文部大輔田中不二麿(1845〜1909年)に随行して、フィラデルフィアで開催中の合衆国独立百念を記念する万国博覧会を視察、そこで日本の教育資料と米国における盲唖教育の資料とを交換し、ブライユ点字の本、点字器、ムーンタイプの凸字書等を日本へ送る。帰国(1877年1月)後、手島は教育博物館(明治14年東京教育博物館と改称、国立科学博物館の前身)の館長となり、それらの品々を同博物館内に展示する。 (なお、1884年、東京教育博物館長・手島精一が、ロンドンで開かれた教育博覧会に出席、帰国の際、盲唖教育に関する教材・器具、およびアーミテージノ『盲人の教育と職業(The Education and Employment of the Blind)』の第一版(1871)を持ち帰り、フィラデルフィアで入手した盲唖教育関係資料とともに、それらすべてを東京教育博物館内に展示)
 1876年、イギリス聖書協会のウィリアム・ヒル・ムーレーにより、北京に盲学校が設立される
 1876年、ストックホルムで、第2回北欧国際特殊教育会議が開催される
 1878年5月24日、京都に「盲唖院」が設立される(京都府上京第十九番小学教員古河太四郎が指導。翌年、府立となる。)
 1878年、パリで、盲人の境遇改善に関する会議が開かれる(1914年にロンドンで開かれた会議には、留学中の中村京太郎が日本代表として出席)
 1878年、パーキンス盲学校のスミス(John W. Smith)が、 6点式の点字だが頻度の多い文字に点の少ない組合せを割当てた修正点字(American Modified Braille.)を発表(例えば、A、Eは1点で、I、O、R、S、Tは2点で表される) (1892年に「American Braille」と改称)
 1879年10月3日、大阪府が模範盲唖学校の設置を告示し、11月5日、東区法円坂町5番地の府立師範学校内に設けられた校舎で開校式を挙行、同月8日から授業を開始。しかし、翌年5月末の府会でその予算が否決され、同年6月30日をもって廃止となる。
 1879年、アメリカ、盲教育振興法が連邦議会を通過、特別基金の利子1万ドルをもってアメリカン・プリンティング・ハウスを通じ、全国の盲学校に点字図書が無償で配布されるようになる
 1879年、ドイツでブライユ式の点字が正式に採用される
 1880年2月、楽善会訓盲院が、授業開始(盲児2名)
 1880年9月、京都府立盲唖院が、普通科のほか、音曲、按摩、紙折細工の3科を置く。
 1880年、内務省達第33号により、盲僧制度廃止
 このころ、楽善会が、鉛の台に針を並べた平仮名の活字を製作、盲人もこの活字を紙に押刻することで読み書きができるようにした(針先突字)。
 1880年、ドイツの産婦人科医クレーデ(Karl Siegmund Franz Cred: 1819〜92年)が、新生児膿漏眼予防のために1%の硝酸銀液を用いる「クレーデ点眼法」を考案、これによりこの疾患による失明患児数が激減
 1881年、ノルウェー、盲教育義務制実施
 1881年、ルーマニアに盲人の職業学校設立
 1881年、イギリス内外盲人協会が、初の点字雑誌「Progress」を発行
 1882年、イギリスのロンドンで、盲婦人マーサ・アーノルド(Martha Arnold)が、点字図書の貸し出しを始める(最初の蔵書数は50冊)。点訳ボランティアの協力も得て、これが世界発の点字図書館「National Library for the Blind: NLB」(1898年に法人化)の基となる。
 1882年、ルイ・ブライユの胸像が、生まれ故郷の村の広場に記念碑として建てられる。その台座には、ブライユ点字一覧表とともに、「ブライユへ盲人より感謝を込めて」と、記されている
 1882年、金光教の布教者・白神新一郎(1818〜1882年)没。岡山の米穀商だったが、1859年眼病になり失明。1869年金光教祖(川手文治郎)を知り、入信。約1年の熱心な信心により眼病がなおり晴眼となる。金光教での初の布教文書である「御道案内」を執筆。家業を息子に譲り、布教活動に専念。
 1882年、葛原美之一(1812〜1882年)没
  [葛原美之一: 幼名は矢田柳三。 3歳の時天然痘で失明。9歳より琴三味線を習い、11歳で京都へ上り、生田流の八重崎検校門下の松野検校に師事。15歳で勾当となり葛原を名のる。創作曲に「狐の嫁入」「おぼろ月」「つぼみの梅」など。1837年から亡くなるまでの45年間、平仮名と数字など63個の1cm角の木製活字を順次押していく方法で日記を書き続けた。それを孫の葛原しげるが1915年に『葛原勾当日記』として編纂・発行]
 1882年11月、楽善会訓盲院が、箏曲と鍼治・按摩の職業教育を始める
 1882年、モーリス・シゼラン(Maurice de la Sizeranne: 1857〜1927年。9歳の時失明)により、バランタン・アユイ協会(AVH.公式に認可されるのは1889年)が設立される。同年彼はまた「点字の略字略語表」を著シ、フランス語点字の省略法を考案 (フランス語点字の省略法は、その後、1924年と1955年に拡大・改訂されている。)
 1884年、イギリス内外盲人協会が、点字楽譜の解説書「A Key to the Braille Musical Notation」を出版
 1884年、イギリスの眼科医マドックス(Ernest Edmund Maddox: 1860〜1933年)が、世界発と思われる弱視学級を開設し、強度の近視児童に対して特別に配慮した教育を行う
 1884年11月、ヘンリー・フォーセット(Henry Fawcett: 1833〜1884)没。イギリスの経済学者、政治家。ケンブリッジに入ったが、20歳の時狩猟中父の銃の暴発で失明。1863年ケンブリッジ大学教授、65年自由党下院議員、80年グラッドストン内閣の逓信相となり、小包郵便制度を設けた。
 1885年3月、内務省が各府県に「鍼術灸術営業差許方」(内達甲10)を通達。各府県で鍼・灸の免許鑑札、営業許可、取り締まりを行うことになる
 1885年7月、かな文字運動3団体が合併して「かなのくわい」が結成される(会長に有栖川宮威仁親王、幹部に大槻文彦、三宅米吉、本山彦一など)
 1885年11月、楽善会訓盲唖院が、文部省直轄学校となる。そのさい、「杉山三部書」に頼る教育の前近代性を理由に、鍼術の指導が教育課程から外される
 1886年11月、新潟県高田町の眼科医大森隆碩や杉本直形等が中心となって「訓盲談話会」発足。翌年11月30日「盲人矯風研技会」として発会式(高田盲学校の創立の日とされる)
  [大森隆碩:1846〜1903年。高田藩眼科医大森隆庵の長男として生まれる。十代半ばで脱藩、江戸に出て医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。18歳で高田で眼科医開業。1885年、39歳の時に失明に近い状態になる。次女大森ミツは後に東京盲唖学校の教師となる]。
 1886年、スウェーデン、ヴェネスブルクに盲聾児学校が開校
 1887年7月、東京帝国大学医科大学助教授片山芳林が「鍼治採用意見書」を提出(その骨子は、「細い鍼を使用するならば盲人に行わせても害はないと思われるが、今後は解剖学、生理学、病理学に基づいた鍼術の指導も行うべきである」というもので、奥村三策の「鍼術論」に類似した内容)。これを根拠に、同年9月楽善会訓盲唖院の教育課程に鍼術が復活
 1887年、藤田匡(1859〜1940年。青森県生まれ。14歳のころから緑内障で視力低下、20歳で失明。弘前教会の本多庸一により洗礼を受ける)が、メソジスト派の伝道師試験に合格、我国発の盲人牧師として、青森・秋田県を中心に伝道活動を行う
 1887年、文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」に、塙保己一が取り上げられる(その後も1945年まで国定教科書に掲載される)
 1887年、アメリカ、パーキンス盲学校、幼児10名を集めて、幼稚園を開園
 1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866〜1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる
 1887年、スペインの盲人ゴナレツ(Jozefo Lorenzo Y.Gonalez)によって、アルゼンチンで盲教育が始められる
 1887年ごろ、軍医官橋本乗晃が、フランス流のマッサージの学理と手技を日本に紹介
 1888年2月、横浜の眼科医でクリスチャンの浅水進太郎(1860〜1943年。後に十明と改名)が、市内の盲人を集め、鍼治揉按医術講習学校の看板を掲げ、講義を始める(横浜市立盲学校の前身) (彼は、1887年9月より、求めに応じて盲人に西洋医学の解説をしていた)
 1888年、イギリスのデビッド・ヒルにより、清国の漢口に盲学校設立
 1888年、ベトナムの詩人グエン・ディン・ティエウ没 (1822〜88年。1843年官吏登用試験初級に合格、上級試験を目ざすが失明。その後、学校を開き子弟の教育にあたり、また長編韻文詩『陸雲仙(ルク・バン・テイエン)』を著す)
 1889年、義太夫節の太夫4世竹本住太夫(1829〜1889年。本名竹中喜代松)没 (紀州田辺の出身、幼少期に失明。大阪に出て三味線弾きとなるが、6世竹本内匠大夫に入門、竹本田喜大夫と名乗り、1849年大阪西横堀清水浜の芝居で始めて浄瑠璃を語る。1860年4世竹本住太夫を襲名。文楽座から彦六座に移り、1884年紋下(総座頭)となる。2世豊沢団平とともに彦六座の中心人物。)
 1889年9月、アメリカ人C.P.ドレーパー(Charotte P. Draper: 1832〜1899年。1880年に来日し横浜で息子夫妻とともに伝道活動を開始)が、身寄りのない盲人3人を引き取り「盲人福音会」創設、読書と鍼・按摩の授業開始(横浜訓盲院の前身)
 1889年、フランス、エドガー・ギボー(Edgar Guibeau)により、バランタン・アユイ博物館設置
 1889年、清国の広東に盲学校設立
 1889年、インドで、イギリス福音教会のアニー・シャープ女史により盲教育始まる
 1890年10月、浅水進太郎が、我が国最初の盲人用西洋医学書著述「浅水解剖学」「淺水生理学」「淺水病理学」他全10冊を執筆し、西洋医学者の立場で解説した。また、これに合わせ独自の盲人用人体模型を創案製作し教授に利用した。
 1890年11月、東京盲唖学校の第4回点字撰定会で、石川倉次案が採択される
 1890年代、高田瞽女400人近く、長岡瞽女100人くらいが活動
 1890年、ニュージーランド、オークランドで盲教育開始
 このころ、西國坊明學(1849〜1910年ころ。本名・永野明學)が、上方落語で音曲師として活躍 (福岡出身の盲目の僧で、明治初年ころ大阪に出てきたらしい。高座では、十六人芸と称して、琵琶で平家物語を語ったり、横笛での曲吹き、浄瑠璃の弾き語り、即席の都々逸をしたり、当時流行した推量節を歌った。桂派で確固たる地位を築いたという。)
 1891年4月、富岡兵吉(1869〜1926年。1888年楽善会訓盲院に入学。1912年から東京盲学校鍼按科教員)が、東京帝大附属医院に初の医療マッサージ師として就職
 1891年、イギリス、国勢調査の結果盲人数 11,235人
 1892年、山本覚馬(1828〜1892年)没 (会津藩の砲兵術家の長男。1864年に藩主松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩邸に幽閉される。そこで白内障が悪化してほぼ失明し、また脊髄の損傷で足も不自由になる。獄中で、口述筆記で新しい国のあり方を21項目にわたって論じた「管見」を提出。これが認められて、翌年京都府顧問となり、京都の文化・教育・産業の振興に貢献。79年、京都府議会選挙に当選、初代議長になる。)
 1892年、自由民権家・府川謙斎(1851〜1892年)没。7歳ころ失明。1881年、神奈川県戸塚での友文会の演説会に出席し、弁士として熱弁をふるう。翌年自由党に入党し、盲人民権家として注目される。
 1892年、スコットランド、盲教育義務制実施
 1892年、ホール(Frank H. Hall. 1890年にイリノイ盲学校長に就任)が、点字タイプライターを考案。さらに、点字原版製作機(stereo plate-maker, または stereo typewriter)を製作し、点字の大量印刷に貢献 (この点字製版機は、2枚折りにした亜鉛板に点字を打出すもので、この2枚の亜鉛板の間に用紙をはさみそれをゴムローラーに通して押圧して用紙に点字を印刷する。この製版・印刷方法はその後長く使われ続けている。)
 1893年、漢学者・棚橋松村、没 (1827〜1893年。美濃国山県郡の代官の長男。25歳で失明したが、大坂に出、詩学を広瀬旭荘にまなぶ。1857年に結婚、妻絢子に本をよんでもらい、詩文を筆記してもらうなどし、学問をつづける。なお、棚橋絢子(1839〜1939年)は教育者として有名。)
 1893年、鍼科取締法の請願(鍼医も西洋医と同様内務省の試験による資格制にしてその身分確立を図ろうとするもの(が出され、衆議院で採択されて内閣に送付されるが、内務省は却下
 1893年、イギリス、盲・聾児童の「初等教育法」制定(5〜16歳の就学義務化)
 1893年、コネチカット盲学校保育園を設置
 1894年3月、森巻耳(1855〜1914年。1887年に岐阜中学の教師となるが、悪性の眼病のため退職。岐阜聖公会のイギリス人A.F.チャペルから洗礼をうける。93年失明)が、A.F.チャペルと協力して、岐阜聖公会訓盲院を創立(森は亡くなるまで院長をつとめる。岐阜県立岐阜盲学校の前身) (岐阜聖公会は1890年設立。翌年10月濃尾大地震が起こって、宣教師ら救援活動を行い、その一つとして地震直後に被災盲人のための岐阜鍼按練習所も開設)
 1894年4月、北米メソジスト教会の医療宣教師ロゼッタ・ホール女史(Ms. Rosseta Sherwood Hall)が、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で盲女児の教育に着手
 1894年、ライプツィヒに、ドイツ中央盲人図書館創立
 1895年、ユーゴスラビア、盲学校をはじめる
 1895年ころ、フランスの画家ドガ(Edgar Degas: 1834〜1917年)が、1870年の普仏戦争従軍時の目の負傷が原因で、ほとんど失明状態になる。その後も、パステル画や蝋による彫刻を続ける。
 1896年、スウェーデン、盲・聾児教育義務制実施
 1897年、アメリカの国会図書館が、盲人のための閲覧室を設置
 1897年、香港に、カトリック・カノシャン修道会によりエベネーザ盲人ホーム開設、盲女子を収容
 1897年、イタリアの社会事業家バルビ−アドリアニ(Dante Barbi-Adriani: 1837〜1897年)没 (印刷業をしていたが、25歳で失明。しかし、彼は事業家としての経験とセンスを活かし、新聞の点字・墨字の同時発行、視覚障害者の福祉団体トマス会の創立、授産施設の設立、視覚障害関係事業の博物館の設立、イタリア盲人会議の開催と連盟の結成、無料巡回点字文庫の設置など、当時としては画期的な、多くの業績を残した。)
 1898年8月、高木正年が、総選挙で再選される
 [高木正年: 1857〜1934年。1890年7月の第一回帝国議会選挙で東京第12区から当選。第1次松方内閣の軍備増強案を批判、次期選挙では政府筋からの徹底的な選挙妨害を受けて落選。1897年に当選して政界復帰を果たすが、疲労と緑内障のため失明(40歳)。議員の辞職を考えるが、柴四郎ら進歩党幹部の説得により議員を続ける決意を固める。98年3月の総選挙で落選するが、同年8月の総選挙で再選。以後毎回、1932年の第3回普通選挙まで連続当選。普通選挙、婦人公民権、一般兵士の待遇改善、台湾における植民地での人権問題など、庶民レベルの問題に積極的に取り組む。]
 1898年、森恒太郎が、愛媛県余土村(現松山市)村長に就任
  [森恒太郎:1864〜1934年。1881年上京、啓蒙思想家の中村正直の同人社で学び、また正岡子規の門下生として「天外」の号を受ける。86年帰郷、88年改進党の支部を結成、90年愛媛県県会議員に当選。93年政界を退く。96年(32歳)失明。比叡山での修業中、余土村の村民に請われて98年村長に当選(1907年まで在職)。村の実態調査を行い、それに基づき、「村是」を定め、小学校教育の改善、青年教育の実施、耕地改良、勤倹貯蓄、共同購入、小作人保護、副業奨励等の施策に取り組む。1923年、青年教育のため道後に私塾「天心園」を開設。1932年、道後湯之町町長。自伝に「一粒米」(1908年)、「公民物語我が村」(1923年)]
 1898年、黒沢貞次郎(1875〜1953年)が、仮名タイプライターを創案(視覚障害者の間に普及するようになるのは、1960年代)
 1898年、盲人ニュエン・バン・チが、フランス語点字からベトナム語点字を翻案
 1898年、ブルックリン(アメリカ)の盲人たちが授産所を設立、インダストリアル・ホーム(Industrial Home for the Blind: IHB)へと発展 (1917年からパーキンス盲学校の卒業生ピーター・サルモン(Peter Salmon)の企画で盲人の自立のための幅広い事業を開始。盲聾者のための事業も1920年から始める。)
 1898年、李宗錫が、平壌盲学校設立
 1899年7月、東京盲唖学校長小西信八が、東京盲唖学校を盲学校と聾学校に分離すべきとの意見書を文部大臣に上申
 1899年、検校で棋士の関澄伯理(1820〜1899年)没 (7歳で失明、12歳で江戸に出て、初世関澄検校の養子となり、鍼術を修め、1866年検校になる。また、将棋の家元大橋分家の 8代大橋宗a(1817〜1861年)の門に入り、大橋の没後は 8代伊藤宗印(1826〜1893年)に師事し、1880年に7段に昇進したとされる。維新後廃止された検校の官職を復活するよう、有志の検校とともに京都に上り陳情するなどした。のち東京本所江島神社境内に杉山和一の祠を建てる。)
 1900年8月、「小学校令」が改正され、盲唖学校等を小学校に附設できるとの規定(第17条)、および就学義務の免除・猶予の規定(第33条)
 1900年、シカゴの公立学校に盲児のための「点字学級」(braille class)設置(1910年には、6州8市の公立学校に設立された点字学級に209人の盲児が在籍していた)
 1900年、ヘレン・ケラー、ラドクリフ大学入学(1904年卒業)
 1900年、ウィーン盲学校の校長アレキサンダー・メル(Alexander Mell: 1850〜1932年)が、『盲人百科事典提要』(Encyklopaedisches Handbuch Des Blindenwesens)を編集・出版

目次に戻る