盲人文化史年表
◆ 20世紀前半
◆20世紀前半
1901年4月、石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
1901年、隈田嘉七(1835〜1901)没。大和箸中村の人。若くして家督を継ぐが、眼病を患い1861年失明。経済力もあり、1865年勾当、さらに67年には大和最後の検校職に任命される。1871年の盲官廃止令後も、権訓導や小講義(いずれも教導職)に任じられ、盲人の生活を守るとともに、教化活動にもあたった。また殖産にもつとめ、 穴師川の水力を利用して、三輪そうめんの原料となる製粉や搾油を行ったりした。
1901年、インドネシア、オランダ人のウェストホッフ(Dr. Westhoff)が、バンドンのパジャジャランに盲学校を設立
1902年、板垣退助の後援を得て、盲人医学協会(総裁 板垣退助、顧問 高木正年、会長 千葉勝太郎)結成(会員 1000名余)。鍼按講習会の開催、鍼按講習所(築地盲人技術学校の前身で、後の都立文京盲学校)の設立、盲人按摩専業運動、さらに後には盲人保護法の必要を訴える。 (「医学」の名称に医学界からの苦情が出たため、1905年盲人鍼按協会と改称。さらに、 18年盲人保持協会、 40年東京府盲人協会、 43年東京都盲人協会と改称。 1956年には、東京視力障害者福祉協会を吸収合併し、東京都盲人福祉協会となる)
1902年12月、東京盲唖学校訓導石川重幸(1857〜1929年)著「盲人教育」が刊行される。当時盲教育の指針となる。
1902年、イギリス内外盲人協会、「点字音楽記号」を出版
1903年2月、京都市立盲唖院編纂『盲唖教育論』刊行 (盲の部は同院教諭中村望斎の執筆。また、同書の付録「瞽盲社会史」は、盲人史研究の重要な文献の1つ)
1903年3月、東京盲唖学校に教員練習科設置 (1910年11月、東京盲学校師範科に昇格。理療科の教員養成はその後さらに1923年東京盲学校師範部、1949年国立盲教育学校、1951年東京教育大学教育学部特設教員養成部、1969年東京教育大学教育学部理療科教員養成施設に引き継がれてゆく)
1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
1904年2月、岡山県の日生小学校に盲児3名入学。さらに翌年4月、岡山県知事桧垣直右の主導の下、県下の各小学校で盲・聾教育の巡回講習を始め、学区内の盲・聾児の教育を開始、一時は 89の小学校で 100名以上の盲・聾児が普通児と共に教育を受けた(1907年7月の桧垣知事の退職、 1909年の岡山盲唖院の設立を契機に、この方式は次第に衰微)
1904年、ハロルド・チランダー(Harold Thilander)が、国際点字エスペラント雑誌「Esperanta Ligilo」をスウェーデンで創刊
1905年2月、奥野市次郎(京都出身。1902年より衆議院議員、立憲政友会)等が、「盲人保護に関する建議案」(鍼・按摩業を試験による免許制で盲人の専業とする)を衆議院に提出。衆議院で可決されるが、法的には何の考慮もされなかった。 (以後、ほぼ毎年同様の請願がなされる)
1905年、箏・三絃を職とする全国団体として、「当道音楽会」発足
1905年、左近允孝之進(1870〜1909年。東京専門学校(現 早大)卒。20代半ばで白内障で緑内障をになり失明、鍼・按摩を学び1899年神戸で開業)が、4月ころ点字活版印刷機を考案(初めは木製、さらに鉄製の活版印刷機を製作)、6月神戸訓盲院(現 兵庫県立盲学校)設立、7月点字出版所「六光社」を設立、翌年1月わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊(創刊号は300部、週2回発行)
1905年9月、群馬の上野教育会が、失明した出征軍人のため訓盲所設立(1908年群馬県師範学校附属訓盲所として移管、1914年前橋市立訓盲所、翌年私立前橋訓盲所となる。群馬県立盲学校の前身)
1905年、内務省が全国盲人調査を行う (総数70,506人。その内訳は、按摩術18,201(25.8%)、鍼術4,587(6.5%)、灸術618(0.9%)、歌舞・音曲4,706(6.8%)、落語・講談246(0.3%)、その他9,159(13.0%)、無職32,603(46.2%)、学校生徒386(0.6%))
1905年、英国点字委員会(British Braille Committee)が、略字を統一市、2級点字を定める
1905年、アメリカのマサチューセッツ州、盲聾教育の義務制実施
1905年、アメリカのシンシナチに盲児のための点字学級設置
1905年、アメリカ盲人援護事業者協会(American Association of Workers for the Blind: AAWB)結成
1905年、ウィニフレッド・ホルト(Winifred Holt: 1870-1945年)により、ニューヨークに世界発のライトハウスが設立される (ウィニフレッド・ホルトは1922年マザー(Rufus Graves Mather)と結婚し、それから一般にマザー夫人と呼ばれるようになった)
1905年、ブルガリアの盲教育始まる
1905年、南アフリカで、ベッスラー(M. T. Besslaar)により盲教育が始められる(対象は白人のみ。有色人対象の盲学校は1923年ケープタウンに開設された)
1906年、東京盲唖学校長小西信八ら、盲唖教育の義務制と分離を文部大臣に上申
1906年、好本督(1878〜1973年。弱視、東京高等商業学校卒業後おもに英国に住み、商事会社を経営しながら、祖国の盲人に物心両面にわたる援助をし続ける)、森巻耳(1855〜1914年。1887年岐阜中学の教師となるが、眼病のため退職、93年失明。翌年岐阜聖公会のA.チャペルとともに岐阜聖公会訓盲院を創立、亡くなるまで院長をつとめる)、左近允孝之進等が中心になって「日本盲人会」を設立、神戸六甲社より、好本督の『日英の盲人』、ヘレン・ケラーの『我が生涯』、内村鑑三の著作などを出版
1906年10月、日路戦争の失明軍人のために、失明軍人講習会が東京盲唖学校に開設される(期間2年。点字のほか、将官には盲学校教員、下士官以下には鍼灸按摩術の職業教育をした)
1906年、イギリス、盲人用郵便物の無料化
1906年、カナダ盲人援護協会(Canadian National Insutitute for the Blind: CNIB)発足
1907年、第1回全国盲唖学校教員大会、東京で開催(主要議題は、盲唖教育令発布、盲唖義務制施行、盲唖分離、鍼、灸、按摩業者の取締規則制定など。1911年の第3回より、全国盲唖教育大会と改称)
1907年、日本の盲聾唖教育の先覚者古河太四郎(1845〜1907年)没
1907年、東京盲学校が、東京帝国大学医科大学付属病院でマッサージの実習を始める (以後、慶応病院や東京府養育院でも実習ができるようになり、病院マッサージ士として就職する者も徐々に増えていった)
1907年、イギリスの盲人数学者ウィリアム・テーラー(William Taylor: 1842-1922年。ケンブリッジのトリニティカレッジに学び、後に同大学数学講師となったが、5年後失明)が、テーラー式計算器を完成(加減乗除だけでなく、簡単な代数の計算もできたようだ。日本でも一部の盲学校で昭和初めまで使われていた)
1907年、ドイツのレビングゾーン、弱視教育の必要性を説く
1907年、バランタン・アユイ協会、物療師学校設立
1907年、ギリシャの盲教育がアテネ近郊で始められる
1907年、アメリカ、盲人に関する雑誌「Outlook for the Blind」創刊(点字と活字で)
1907年3月、ホームズの周到な準備とジーグラー夫人の多額の寄付により、「Matilda Ziegler Magazine for the Blind」が創刊される (創刊号は6500部、内4500部がニューヨークポイント、2000部がブライユ式点字、次第にニューヨーク・ポイントの割合が減り、1963年からはブライユ式点字のみ。2009年11月号で廃刊となるが、それまで全世界の読者に無量配布を続ける)
[ホームズ(Walter George Homes, 1861〜1946): 新聞記者。2歳上の兄が全盲で、そのような人たちのための読み物の必要性を通感し、1905年5月「ニューヨーク・ヘラルド」紙に投書、ジーグラー夫人の支援を受け雑誌創刊にこぎ着ける。創刊から亡くなるまでの39年間、盲人文化の向上を願って、雑誌編集に携わる。
ジーグラー夫人(Electa Matilda Ziegler, 1841〜1932): 夫のウイリアム・ジーグラーはベーキングパウダーで資産を成し、極地遠征隊の後援者としても有名だったが、1905年数百万ドルの遺産を残して亡くなる。夫人は、雑誌発行資金確保のために財団を設立、80万ドルの原資を提供]
1907年、ゴア(Thomas Pryor Gore: 1870〜1949年)が、民主党よりオクラホマ州選出の連邦上院議員に当選(オクラホマ州はこの年に連邦に加盟) (8歳のとき事故で左目を失明、その後右目の視力も徐々に衰え、20歳ころには完全失明。普通学校を卒業後、1891年カンバーランド大学法科大学院に進学、翌年にミシシッピー州での法曹資格を得る。1901年オクラホマ準州のロートンに移り、そこで法律事務所を開業。翌年準州議会議院に当選。1907年に上院議員当選後、08年と14年の選挙でも連続当選(第1次大戦への参戦には反対)。20年の選挙で落選、民主党の党役員として政治活動を続ける。30年の選挙で上院議員に返り咲くが、36年の選挙で落選。)
1908年、山本清一郎(1879〜1961年。18歳で失明。京都市立盲唖院を卒業後同校教員)が、彦根訓盲院を創立 (1928年訓盲院が県立に移管する、その際に敷地、校舎などを提供、1948年まで校長をつとめる)
1908年、山田流箏曲家山勢松韻没 (1845〜1908年。本名吉田専吉。3歳で失明。2世山勢検校に師事し山清勾当、山勢勾当などを経て山勢松韻を名乗る。1868年には3世山勢検校を襲名し山勢派3世家元となる。1880年文部省音楽取調掛に出仕。88年、山登万和、山登松齢、2世山多喜松調らと五線譜による初の楽譜集『箏曲集』(音楽取調掛撰)を編集。91年東京音楽学校教授。作品に「朧月」「花の雲」「四季の友」など。門下に初世萩岡松韻、今井慶松等がいる。)
1908年、南ロンドンのバウンダリー・レー小学校に、弱視学級が開設される
1908年、アメリカで、触知用文字盤のついた懐中時計が製作・販売される。
1909年9月、朝鮮の京城に横浜盲人学校京城分教場開設
1910年4月、東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。町田則文(1855〜1929年)が東京盲学校初代校長となる(〜1929年3月)。
1911年8月、「按摩術営業取締規則」(内務省令第10号)および「鍼術、灸術営業取締規則」(内務省令第11号)公布(按摩・鍼灸業に関する全国統一的な法制)。これにより、営業をなすには、地方長官の行う試験に合格するか、又は地方長官の指定する学校、若しくは講習所を卒業して、地方長官の免許鑑札を受けることが必要になった。ただし按摩については、試験を甲種(修業年限4年)および盲人だけが受験できる乙種(修業年限2年)に分けて試験の内容を簡易なものとし、また地方の状況により必要があると認めるときは、地方長官は盲人に当分の間無試験で免許を与えることができるとされた(それまでの按摩の盲人専業運動に一部応えたもの)。
1911年10月、石松量蔵(1888〜1974年)が、九州学院神学部に入学(全盲で我が国初の大学進学。1915年6月同校卒業、翌年9月早稲田大学文学部哲学科聴講生、1918年以降牧師として活躍)
1911年、内務省が全国盲人調査を行う (総数69,167人。その内訳は、按摩術21,545(31.1%)、鍼術4,223(6.1%)、灸術717(1.0%)、歌舞・音曲3,981(5.8%)、落語・講談257(0.4%)、その他9,859(15.3%)、無職26,343(38.1%)、学校生徒2,242(3.2%))
1911年、イギリス人宣教師ウィリアム・キャンベルにより、台南訓盲院設立
1912年5月、東京盲学校長町田則文を中心に「内外盲人教育」創刊(年4回発行。〜1920年)
1912年、東京盲学校教諭奥村三策(1864〜1912年)没
[奥村三策: 金沢藩士の子。2歳半で失明。7歳で金沢藩医御鍼立て久保三柳に師事し鍼術・按摩を学ぶ。16歳から金沢医学校で西洋医学を学ぶ。1885年「医事新聞」に「鍼術論」を投稿。1886年10月(22歳)、楽善会訓盲唖院に入学、学力・技術ともに優れていたため 2ヶ月後には教員になる。各種の鍼按の教科書の編纂、簡易点字製版機の考案、点字略字の工夫、卒後教育、マッサージの導入、さらには鍼治の有効性についての科学的研究など、盲人への鍼治教育の近代化に貢献。1911年高等官に叙される(盲人発)]
1912年、中村京太郎が、イギリス留学(全盲で発)
[中村京太郎(1880〜1964年: 7歳で失明。1894年東京盲唖学校入学、1900年卒業と同時に同校教員となる(全盲として初めての普通科教員)。翌年正則英語学校夜間部入学。1904〜11年台南慈恵院盲部教育部長。1912〜14年イギリス留学(王立盲人師範学校師範科)。1915〜19年東京同愛訓盲院教員。1922年「点字大阪毎日」創刊とともにその編集主任となる。1950年パリのユネスコ本部で開催された世界点字統一会議に日本代表として招かれ出席。その他、数種の点字雑誌の創刊、点字教科書の編纂、盲女子のためのホームの設立、盲人基督信仰会の設立などに貢献]
1912年、和算家・中島這棄(1827〜1912年)没。松本藩士で、藩主戸田光庸・光則父子につかえ算学師範となる。38歳で失明するが、おおくの子弟におしえ、維新の際勘定奉行となり藩政改革にくわわった。
1912年、朝鮮総督府が、特殊教育の関連法規「済生院官制」を制定・公布。翌年、済生院盲唖部設置(1944年廃止)
1912年、ドイツ、帝国ドイツ盲人連合(Reichsdeutsche Blindenverband: RBV. 今日の「ドイツ視覚障害者連合(Deutscher Blinden- und Sehbehindertenverband e.V.: DBSV)」)発足。
1912年、J.ボロティン(Jacob Bolotin: 1888〜1924年。先天性の全盲。イリノイ州立盲学校卒)が、シカゴ医科大学を卒業、心臓と呼吸器系の専門医となる。
1912年、印象派の画家モネ(Claude Monet: 1840〜1926年)が、白内障と診断される(視力低下は1908年から自覚していた)。次第に視力が低下し、1922年には失明に近い状態になる。23年に右眼だけ白内障の手術(着色した水晶体を取り除く)を受け、視力は回復。当時の作品には白内障の影響が明らかに認められ、判読しにくいものもあるが、その荒々しいタッチで描かれた一連の作品(パリ・マルモッタン美術館)は、のちの抽象表現主義に大きな影響を与えた。
1913年、ユーカラ伝承者・鍋沢ワカルパ(1863〜1913年)没 (中年過ぎに眼病を患い失明したが、記憶力に優れ、ユーカラや数々の詩にとどまらずアイヌの名門数十の家系を諳んじていて、金田一京助から「アイヌのホメロス」と評された。1913年7月末に上京して、約1ヶ月間金田一に「虎杖丸の曲」「蘆丸の曲」など14編2万行に上る長編叙事詩と短編の神話10編余をを語った。(その後一族の求めに応じて帰郷するが12月に亡くなる。)これらは金田一京助『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』に収録され、アイヌ文学研究の基礎となった。)
1913年、イギリス、イングランドのサンダーランド・ミュージアムで、チャールトン・ディアズ(John Alfred Charlton Deas)が中心になって、見えない子供たちや大人たちを対象とした、各種の展示品について触って知るためのプログラムを毎週日曜日に継続して行う。
1914年、全国の盲唖学校数65校、盲生徒数1729人 (1905年は盲唖学校数26校、盲生徒数624人で、この間に急増)
1914年9月、ロシアのエロシェンコが、東京盲学校の研究生となる
[エロシェンコ(Vasilii Yakovlevich Eroshenko: 1889〜1952): 4歳の時罹った麻疹で失明。モスクワ盲学校に学んだ後、モスクワのレストランの盲人オーケストラで働いたが、エスペラントを学び、その縁で1912年ロンドン王立盲人音楽師範学校に入る。1914年7月、日本エスペラント協会の中村精男(中央気象台長)をたよって来日、9月には東京盲唖学校研究生となり、日本の盲人の生活を知るためにあんま術を学ぶ。秋田雨雀、大杉栄、中村彝、竹久夢二、小坂狷二、相馬黒光、神近市子らと交友、日本語による口述筆記で作品を発表した(処女作《提灯の話》1916)。在学中の1915年には盲学校の学友たちにエスペラントを教え、これが日本の盲人たちへのエスペラント普及のきっかけとなる。また、各地の講演会に出てエスペラントで思想問題を話しては人気を博したという。1916年、来日していたインドの詩人タゴールに会い、東洋の他の弱小民族の生活を知るためにタイ、ビルマ、インドに旅立つ。ビルマでは盲学校の教師もつとめたりしたが、インドで国外追放となり、19年再来日。早大聴講生となり、第2次《種蒔く人》の同人となり、次々と童話を発表。思想的に危険な人物として日本から21年に追放され、中国に行き、魯迅らの知遇を得て北京大学でロシア文学についての講義をした。23年、ヨーロッパを経由して帰国。ソビエトでは、トルクメンで盲学校の校長を勤めトルクメン語の点字を考案、その後モスクワで盲人協会の事務をしたり日本語通訳などをして生計を立てていたようだが、スターリン治下では冷遇される。1952年故郷のアブーホフカで亡くなるが、死後彼の手記や蔵書は没収される。]
1914年、イギリス内外盲人協会の会長にピアソン(Arthur Pearson: 1866〜1921年。ウィンチェスター大学卒業、出版社・新聞社を経営し、慈善活動も行っていたが、中年になって緑内障になり、1913年には失明)が就任、イギリス盲人援護協会(National Institute for the Blind = NIB)と改称。1949年、王室によって王立(Royal)の名称使用を許可され、王立イギリス盲人援護協会(RNIB)となる
1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan's)を設立し、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始
1915年、シャール(Thomas David Schall: 1878〜1935年。弁護士として法律事務所を開業していたが、1908年事故で完全失明、妻の協力を得て仕事に復帰)が、視覚障害者としてアメリカで初めて連邦下院議員に当選。さらに1925年には連邦上院議員に当選(共和党に属す)
1915年12月、点字統一委員会(Commission on Uniform Type for the Blind)(アメリカ)が、それまでのアメリカの諸方式を統一した「標準点字」案に代えて、基本的にイギリスの点字を採用することを決定、英米間での修正協議を提唱
1915年、アメリカの詩人・賛美歌作家ファニー・クロスビー(Frances Jane Crosby. 通称 Fanny Crosby)没
[Frances Jane Crosby: 1820〜1915年。生後間もなく医師の誤処方により失明。1835年設立間もないニューヨーク盲学校に入学し、42年同校終了。47年同校の教師になる。1844年第1詩集『盲目の少女、その他』、51年第2詩集『モンテリー、その他』、58年第3詩集『コロンビアの花輪』(同年盲学校退職)。1850年メソジスト派の敬虔なクリスチャンとなる。1864年ウィリアム・ブラッドベリー社の求めに応じて賛美歌の作詩をするようになり、以後5000曲以上の賛美歌を作詩する]
1916年、石原忍(1879〜1963年。東大医学部眼科学教授)が、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発 (以後、もっとも優れた色覚検査表として世界各国で使われるようになる)
1916年、ドイツ人シュトレール(Karl Strehl: 1886〜1971年。21歳の時働いていたニューヨークの化学工場の事故で失明。マールブルク大学で文献学と経済学を学ぶ)が、「ドイツ盲人学徒協会(Verein blinder Akademiker Deutschlands: VbAD)」(現在の「ドイツ盲人・弱視者学生・職業人協会(Deutscher Verein der Blinden und Sehbehinderten in Studium und Beruf: DVBS)」の前身)を設立、また同時にマールブルクに「ブリスタ」(BLISTA: Deutsche Blindenstudienanstalt. ドイツ盲人教育施設)を開設して、失明軍人を対象とする高等教育と社会復帰のためのプログラムを開始。1925年、略字を用いたドイツゴ点字の書式(現在「マールブルク体系」と呼ばれているもの)を提案。ブリスタには、1926年に点字出版所、27年には大学進学に必要な普通教育を行う視覚障害者のためのギムナジウムが設置される。このギムナジウムは次第に発展して、商業、社会福祉、プログラミングの専門課程を合せもつ総合高校となり、また、点字図書館、録音図書館、視覚障害に関する資料を集めた専門図書館も整備され、今日ドイツ語圏最大の視覚障害者の学術支援拠点となっている。
1916年、ドイツ、ドイツ赤十字のシュターリンとシェパード犬協会のシュテファニッツにより、オルデンブルク盲導犬学校(世界発の盲導犬訓練学校)が設立される
1917年、テイラー(Henry Martin Taylor: 1842〜1925年)が、「Mathematical and Chemical Notation」発表
1918年、大阪府が、小河滋次郎の構想に基づき、方面委員制度を開始。それが次第に全国にひろがり、1928年までに全道府県に設置される。1937年方面委員令、1948年民生委員法。
1918年、斎藤百合(1891〜1947年。本名野口小つる。2歳のとき麻疹による高熱などで失明。10歳で按摩士に弟子入りするが、長続きせず翌年岐阜訓盲院入学。東京盲学校鍼按部師範科を卒業して母校の正教員に。1915年斎藤武弥と結婚、通称百合と名のる)が、開校したばかりの東京女子大学予科に特別生として入学、21年東京女子大に新設の高等学部3年に編入、22年大学部英文学科進学(盲女子として初の大学進学、翌年秋退学)。さらに彼女は、25年東京盲学校研究科英語科1年に入学(3年間在籍)、30年盲女子のため陽光会治療所を開設、35年盲女子の福祉を目的に「陽光会ホーム」を開設、盲女子を受入れ、「点字倶楽部」の発行、点字教室、編み物教室、失明者の相談、点字出版などを行う。
1918年、アメリカ、傷痍軍人リハビリテーション法
1918年7月、アメリカ盲教育者協会(AAIB)が、1級半点字(44の略字のみの使用)の採用を議決
1919年、秋元梅吉(1892〜1975年)が、中村京太郎や好本督らとともに、盲人基督信仰会を設立、聖書をはじめとする点字出版事業を開始(33年、東京光の家と改称。44年、肥後基一の星文社と合併。戦後は盲人の救護施設として発展)
1919年4月、中村京太郎が、盲人基督信仰会より、点字週刊誌「あけぼの」を創刊(1922年廃刊)
1919年、文部省普通学務局より『本朝盲人伝』
1919年、トラホーム予防法施行 (1983年廃止)
1919年、文部省で、全国盲唖学校長会議開催
1919年、イギリスのヘンリー・ジャクソンにより、ビルマにセント・ミカエル盲学校が設立される
1920年4月、「按摩術営業取締規則」一部改正(内務省令第9号) (内容は、@医師の同意を得た場合のほか、脱臼又は骨折の患者に施術してはならない、A地方長官の指定した学校若しくは講習所で「マッサージ」術を修業するか、又は「マッサージ」術の試験に合格して免許鑑札を受けた者でなければ「マッサージ」術を標榜してはならない、B附則において、按摩術営業取締規則を柔道の教授をなす者が打撲、捻挫、脱臼及び骨折に対して行う柔道整復術に準用することとした)
1920年、新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(この文庫は柏崎市立元中越盲学校内に置かれた新潟県盲人図書館に移設され、現在の新潟県点字図書館の前身となる)
1920年、色覚検査が義務教育の中で検査項目として規定される (翌年に石原忍の「学校用色盲検査表」)
1920年11月、山下芳太郎(1871〜1923年)らによって、「仮名文字教会」が設立される (1923年、カナモジカイと改称。片仮名による左横書き文書や片仮名のタイプライターの普及を目ざす)
1920年12月、山県有朋、色盲問題を理由に久邇宮良子(島津忠義の孫)と皇太子の縁談をこわす陰謀。杉浦重剛・頭山満らが反対運動(宮中某重大事件)。
1920年、パーキンス盲学校が、ハーバード大学と提携して盲教育教員養成を開始
1920年、イギリス、盲人法(The Blind Persons Act)制定
1920年、モスクワに、国立欠陥児童研究所(盲・聾・肢体不自由・知的障害児対象) (1952年、欠陥学研究所となる)
1920年、アメリカ、ハドレー(William Alen Hadley: 1860〜1941。長く高校の教師を勤めていたが、1915年網膜剥離のため失明、その後点字を習得)が、各地の中途失明者に通信による教育を開始(=ハドレー盲学校。授業料は無料で、ライオンズクラブ等民間からの寄付だけで運営。その後この通信制の学校は大いに発展し、視覚障害児者の家族・視覚障害関係の専門職のためのコース等も開設、受講生は米国内だけでなく世界約百カ国に及び、現在常時一万人が在籍しているという。)
1921年2月、浄土真宗大谷派の盲人僧侶山本暁得(1886〜1932年。俗名伝三郎。7歳のとき風眼で失明。1906年京都市立盲唖院を卒業後熊本や金沢などで医科大学付属病院のマッサージ師として勤務していたが、1920年大谷大学の聴講生となり得度)が、京都で弘誓社を設け点字仏教誌「仏眼」を発行。また翌年には「仏眼協会」発足に参画し、その後『真宗聖典』『新訳仏教聖典』などの仏教書を点訳出版するなど、盲人の教育・福祉に取り組む。
1921年、「帝国盲教育「創刊(〜1928年))
1921年、ドイツの哲学者・経済学者K.E.デューリング(Karl Eugen Duhring: 1833〜1921年)没 (最初ベルリン大学で法律を学び司法官見習い実習生として働いていたが、眼病のために職を辞し、哲学に転じる。1861年、失明するも学位を取得、1863年からベルリン大学私講師となり、哲学と経済学を講じる。1873年の『国民経済学並びに社会経済学教程』や75年の「経済教程」で注目されて、愛国主義者、反ユダヤ主義者として大衆受けし、一時期ドイツ社会民主党にも影響を与えた。しかし、77年には社会主義者鎮圧法により大学を追われ、また彼の素朴な唯物論はエンゲルスの『反デューリング論』で徹底的に批判されて孤立し、不遇な晩年をすごす)
1921年、ミゲール(M. C. Miguel: 1866〜1958年。絹織物業で大成功を収め、40代で引退。第1次大戦後フランスでアメリカの失明軍人の帰還業務に携わり、以後様々な盲人福祉に関わるようになる)により、アメリカ盲人援護協会(American Foundation for the Blind: AFB)設立、初代会長に(〜1945年)。1924年には、ヘレン・ケラーがAFBの相談役に就任し、「ヘレン・ケラー基金」のキャンペーンを開始
1922年、熊谷鉄太郎が中心となり、「東亜盲人文化協会」を設立。また彼らは、同年、大阪の中之島公会堂で「全国盲人大会」を開催
[熊谷鉄太郎: 1883〜1979年。北海道南西部の漁村に生まれる。3歳のとき天然痘のため失明。13歳から3年間青森で鍼按の修行。1900年札幌で受洗。02年東京盲唖学校入学、06年同校卒業、その後横浜訓盲院や同愛訓盲院の教師などをする。1913年関西学院神学部に聴講生として入学。16年日本メソジスト教会の牧師となり、大阪で活動開始。1924年山口県の柳井教会に赴任、27年宇部教会に転任。1931年4月ニューヨークで開かれた国際盲人会議に出席、同年9月〜翌年2月ニュージャージー州マジソン市のドルー大学神学部で学ぶ。34年広島西部教会、38年神戸市の御影教会。40年戦時体制下での活動の困難さから御影教会を辞任(鍼灸院開業)。43年8月〜44年7月、外務省の依頼でバンコク盲学校の経営に当たる。]
1922年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年「点字毎日」に改題)を創刊。また、9月から点字教科書の発行も開始(国語・算術・修身等 43種の国定教科書の点訳版を提供)
1922年秋、岩橋武夫が、自宅に「点字文明協会」の看板を掲げ、『点字日エス辞典』を刊行(現・日本ライトハウスの創業)
[岩橋武夫:1898〜1954年。大阪生まれ。1916年9月、早稲田大学理工学部に入学するが、網膜剥離のため失明、翌年中退。失明受容の苦しみを母の助で乗り越え、大阪市立盲唖院に入学、キリスト教の洗礼を受け、エスペラントも学ぶ。1919年関西学院英文学科に入学、妹や学友寿岳文章の協力を得てミルトンを研究、1923年3月卒業。同年4月より大阪市立盲学校教諭(〜1935年3月)。1925年エジンバラ大学に留学、宗教哲学と英文学を学び、27年7月マスターオブアーツを得て帰国(留学中にクエーカーとなり、以後クエーカーとしても活動)。28年4月、関西学院大学専門部英文学部講師(〜1944年3月。関西学院は戦前盲人を受け入れていたほとんど唯一の大学で、10人近くが入学している。ただし、点字で正式に入学試験が受けられなかったことや、盲学校の4年制の中等部卒業では専門部の入学資格にはならなかったことなどのために、ほとんどは聴講生)。1931年「光は闇より』(1933年に英語版)。33年8月、大阪盲人協会会長。34年8月〜翌年1月、渡米。35年10月、ライトハウス建設。36年2月、燈影女学院設立、学院長に就任(51年3月大阪府に移管、府立阿倍野高校に合併吸収)。1948年8月、日本盲人会連合結成、会長に就任。52年10月、日本盲人社会福祉施設協議会結成、委員長に就任。54年2月、WCWB日本委員会の委員長に就任。]
1922年、東本願寺布教師和田祐意(中途失明)が中心となり、失明防止を主目的とした「仏眼協会」発足。病院や盲学校も経営(1924年、東京浅草に仏眼協会盲学校開校、1945年の東京大空襲で焼失・開校)
1923年8月、「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離、各道府県に盲学校・聾学校の設置が義務化、中等部設置)
1923年、晴眼者の鍼・灸師による盲人排斥運動が起こり、両者の対立が激しくなる
1923年、アンダーウッド・スタンダードのカナタイプライターを初めてアメリカから輸入
1923年、ドイツ、ポツダムに国立の盲導犬学校が設立される(第一次大戦で失明した軍人の社会復帰に役立つ)
1924年、横浜訓盲院が、初等部予科を設置(日本の盲学校における幼児教育の先駆)
1924年、イギリス、イアン・フレーザー(William Jocelyn Ian Fraser: 1897〜1974)が、総選挙でロンドンのセント・パンクラス北区の議会議員(保守党)になる (第一次世界大戦中の1916年に失明、セント・ダンスタンスに入って仕事を始める。1921年にアーサー・ピアソン亡き後セント・ダンスタンスの会長に就任し1974年まで勤める。1929年の総選挙では落選するが、1931年には再選される。その間、BBCの経営に携わったりもする。34年にナイトに序せられる。1958年制定の一代貴族法(Life Peerage Act)の下で初の一代貴族(Baron)に序せられる)
1924年、オーストリアの作曲家・ピアニストのヨーゼフ・ラーボア(Josef Labor: 1842〜1924年)没 (3歳で天然痘により失明。ウィーンの盲学校で教育を受けるとともに、ウィーン音楽院で音楽教育を受け、さらに個人指導でジーモン・ゼヒターに音楽理論を、ピアニストのエドゥアルト・ピルクヘルトに鍵盤楽器の演奏を師事。1866年からウィーンでピアノ教師として活動し、アルノルト・シェーンベルクやパウル・ヴィトゲンシュタインなどの後進を指導。1875年よりグムンデンの教会オルガニスト。1904年には宮廷オルガニストの称号も授与される。)
1925年4月、衆議院議員選挙法改正により、点字投票が認められる(同法施行令の公布は 1926年1月30日)
1925年、石松量蔵が『盲人心理の研究』を自費出版
1925年10月、点字大阪毎日の主宰で、関西盲学生体育大会が行われる
1926年6月、全国盲学校同窓会連盟発足
1926年8月、全日本盲学生体育連盟結成。同年11月、点字大阪毎日の後援を得て第1回全国盲学生競技大会が大阪で開催される
1926年11月、朴斗星(パク・トゥソン:1888〜1963年。1913年、朝鮮総督府済生院盲唖部の訓導兼日本通訳として採用される)が、6点式のハングル点字を考案。ハングル点字の通信教育を始め、また自宅で点字製版・印刷をして「朝鮮語読本」や雑誌を発行。1957年には全24巻の点字聖書を完成させる。 (しかし、日本の植民地支配下、盲唖部では、日本語と日本点字・教科書を使った授業がされていたと思われる。なお、1999年に朴斗星記念館が設置されている)
1927年9月、東京盲学校が、初等部予科(幼稚園)を開設
1927年、アメリカ、盲目の黒人のピアニスト・ブーン(John William Boone: 1864〜1927年)没 (生後間もなく脳炎のため失明。幼い時から音楽の才を示し、母がセントルイスのミズーリ盲学校までの旅費を与えて、ミズーリ盲学校に入学。盲学校でピアノと出会うが、彼の才能は学校では認められず、退学。1879年末、コロンビアのバプテスト協会のコンサートに招かれ、そこでの演奏が高く評価されて、翌年から実業家 J. レインジ・ジュニアのマネージメントで各地をコンサート旅行して生活するようになる。1915年までの36年間に8650回のコンサートを開いたという)
1928年2月20日、普通選挙制による初の衆議院選挙で、初めて点字投票を実施 (点字投票数:5428票)
1928年6月、点字毎日主催の第1回全国盲学生雄弁大会(現全国盲学校弁論大会)開催
1928年8月、帝国盲教育会と日本盲教育会が合併し、帝国盲教育会となる
1928年、岩橋武夫・鳥居篤治郎・熊谷鉄太郎らにより、日本盲人エスペラント協会発足(1966年に再建)
1928年11月、大日本箏曲家連盟発足
1928年、アメリカ、ジョン・ミルトン教会(John Milton Society for the Blind)発足 (アメリカとカナダの盲人のための超教派キリスト教伝道機関。初代会長はフランク・バトルス。1933年、ヘレン・ケラーが第2代会長となり、ストーファー(Milton T. Stauffer))が総主事になる)
1928年、イタリア、盲・聾児の教育の義務化
1928年、ソ連の眼科医フィラトフ(Vladimir Petrovich Filatov: 1875〜1956)が、屍体眼から採取した角膜を使い、全層角膜移植に成功
1929年1月、全国盲学校長協会結成 (1946年、全国盲学校長会と改称)
1929年、救護法が公布される(財政難のため、施行は1932年から)。極貧で扶養者のない生業不能の身体障害者が、満65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦とともに、救護の対象とされた。
1929年、岩橋武夫らの呼びかけで、フレンド点字写本奉仕会(FBS)結成、点字図書製作活動を始める
1929年、東京盲学校に盲教育研究会設立、月刊誌「盲教育の友」発刊
1929年10月、中央盲人福祉協会結成(会長は渋沢栄一、副会長は大久保利武と新渡戸稲造)。盲人福祉・保護、失明防止運動を行う
1929年、京都府立盲及聾唖学校同窓会が、「日本盲唖教育史」刊行
1929年、山形県酒田町(現酒田市)の光丘文庫に、橘周存を顧問として、点字読書会が創設される (酒田点字読書会は現在も活動している。1978年には「酒田点字読書会五十年の歩み」が出版されている)
[光丘文庫:酒田の名家・大地主の本間家の八代目当主本間光弥(1876〜1929年)が、1925年、先祖伝来の蔵書二万数千冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈して財団法人「光丘文庫」を設立。(文庫の名称の光丘は三代目当主の名)28年には博物館の役割を持つ郷土参考室を付設。29年点字読書会創設。戦後は市立図書館としての役割を果たす。]
[橘周存: 1864〜1931年。4歳で失明。医師・時岡淳徳に医術と鍼・按摩術を学び、1886年に鍼灸按摩業を始める。本業のかたわら、私財を投じて盲人のために家塾を開く。1912年の第一回鍼術灸術按摩試験で山形県より試験委員に任命され、1923年まで委員を務める。25年には、光丘文庫に「最新薬物学」などの点字本を寄贈、27年には橘門下同窓会の名で「点字読本」などを寄贈。29年には「盲人学徳の向上を図り、併せて点字を普及する」ことを目的として創設した点字読書会の顧問となる。更に没後の31年には、長男の孝三より周存遺品である点字本116冊が光丘文庫に寄贈されている。]
1929年、ドロシー・ユースティス(Dorothy Harrison Eustis: 1886〜1946年)が、ニュージャージー州モーリスタウンに、「The Seeing Eye」(盲導犬訓練学校)を設立
1929年、カントリー・ブルースの草分けともいえるシンガー・ギタリストのじぇふぁそん(Blind Lemon Jefferson: 1893〜1929年)没 (生来の盲人だったらしい。1912年ころ、テキサス州ウォーサム付近のピクニックやパーティー、路上で演奏して小銭を得る。17年ごろにはダラスに住み、歓楽街ディープ・エラム地区で活動する。スズ製の集金用カップを身につけて人の集まるところならどこでも演奏するという生活スタイルで、徐々に活動範囲をテキサス州から南部一帯へと拡げる。26年に、最初スピリチュアルを録音、ついで自らのギター1本で自作のブルースをパラマウント・レーベルにレコーディング。売り上げは好調で、初めて持続的に売れるカントリー・ブルース歌手として認知される。29年に亡くなるまでの短期間に、「ロング・ロンサム・ブルース」「マッチボックス・ブルース」「シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケプト・クリーン」等の傑作100曲近くをレコーディング。29年12月、雪の降り積もるシカゴで凍死しているのが発見された。1920年代にライトニン・ホプキンズ(1912〜1982)、T-ボーン・ウォーカー(1910〜1975)等が彼のリード・ボーイ(道案内)をしていたが、彼らは後に有名なブルース・アーティストとなった。)
1930年7月、越岡ふみ(1899〜1968年。生来の弱視で、1921年大阪府立盲学校中等部鍼按科に入学、卒業後開業)が、西宮市で、盲女性の自立更生を目的に、関西盲婦人ホームを開設(代表に中村京太郎を迎え、自らも32年4月に受洗、キリスト教主義で運営された)。1940年9月に越岡は喜久田倫章牧師とともに上海盲学校に赴任、戦況悪化もありホームは43年10月閉鎖。越岡は46年に帰国、47年にホームを再開、翌年にはホームを新築して社団法人となる(喜久田が理事長、越岡が施設長)。52年に社会福祉法人となり、54年に関西盲人ホームと改名。
1931年、東京盲学校が、物理療法を鍼按科の教育に取り入れる
1931年、発明家・宮崎林三郎(1859〜1931年)没。佐賀の農村に生まれ育ち、30歳ころ失明するが、「縄ない機こそが農家に幸福と利益を与える」と縄綯い機の発明に没頭し、1905年精巧な人力式製縄機を作り、特許をえた。その後莚織機、畳織機を発明、帝国発明協会より表彰をうけた。
1931年7月、中央盲人福祉協会の主催で、第1回全国盲人保護ならびに失明防止事業会議が東京で開催される
1931年8月、徳島市で、盲人の交通事故防止にと白杖を市内の盲人300人に寄贈。同年10月には鹿児島と岡山の盲人大会で白杖携帯を決議
1931年9月、横浜訓盲院の猿田惠子(中等部4年、18歳)と武井稲子(中等部1年、16歳)が、アメリカ・ボストンのパーキンス盲学校に留学のため渡米 (留学中、米国各地の盲唖教育・社会施設を見学したりセントルイスで開催された全米盲教育者会議にも参加。2人は同校を卒業して1934年7月帰国。)
1931年4月、ニューヨークで「世界盲人会議」が開催され、日本からは秋葉馬治、中村京太郎、熊谷鉄太郎等8名参加(36カ国、300人参加)
1931年3月、アメリカ、プラット−スムート法(Pratt-Smoot Act: 国会図書館を中心に、合衆国全土の視覚障害者に各地の図書館を通じて点字・録音図書を提供するサービス(National Library Service: NLS)の基本を定めた法)施行 (プラット:Ruth Sears Baker Pratt, 1877-1965. 1929年と31年、ニューヨーク州17選挙区で共和党から連邦上院議員に立候補し当選、ニューヨーク州初の女性議員)
1932年3月、内務省衛生局が、1931年12月1日現在で全国盲人調査を行った結果を発表 (1メートル指数以下を「盲」とみなす)。盲人数 76,260人(当時の日本(国内)の人口は65,366,500人で、盲人の割合は人口10万人当たり116.6人)
1932年7月、英語点字統一についての英米の協議が最終合意に達する(英国の点字に若干の修正と追加をしたもの)
1932年、ゼンデン(M. von Senden)が、先天盲開眼者66人を比較研究した本(”Raum- und Gestaltauffassung bei operierten Blindgeborenen vor und nach der Operation”)を著す
1933年11月、東京・麻布の南山小学校に弱視児童保護学級(視力保存学級)が開設され、尾上円太郎訓導により授業が始められる
1933年、第27回全国図書館大会で、「点字図書及び盲人閲覧者の取り扱い」という議題で討議、各地の状況報告とともに、点字図書の収集・閲覧に取り組むことが決意される
1933年9月、大月美枝子(全盲)が、自由学園塑像科の正規の学生(前年より聴講生)となり、第10回工芸美術展に頭像を出品
1933年11月、横浜で、東京盲学校と横浜訓盲院の児童により盲人野球対抗試合が行なわれた (盲人野球は、現在は「グランドソフトボール」と呼ばれている)
1933年、足利盲学校長の沢田正好が、盲人用ピンポンを考案
1933年、山田流箏曲家・上原真佐喜(初代)(1869〜1933年)没 (本名幸太郎。3歳で失明。9歳のころ山田流の千代田検校の女弟子浅井千束に入門。21歳で奥村真佐古(1841〜1891)に師事、その後継者となる。1917年に真磨琴(ままごと)会を組織。歌物を得意とし、作品に「春の朝」「里の四季」「落花の誉」など。)
1933年、アメリカ、ニュージャージー州に盲幼児の家庭訪問教師制度設けられる
1933年、フランス、モンテーニュ研究者のピエール・ヴィレ(Pierre Louis Joseph Villey-Desmeserets: 1880〜1933年)没 (4歳で失明、パリ盲学校などを経て高等師範学校へ進み、文学研究の道に入る。1908年、モンテーニュの読書歴と各エセーの執筆年代を調べ上げ、その思想の3段階進化説をとなえた博士論文『モンテーニュのエセーの典拠と進化』発刊。さらに、『エセー』の「ヴィレー版」(のち「ヴィレー=ソーニエ版」)を編集。文献は朗読してもらって読み、点字のカードで整理し、タイプライターで執筆。なお『盲人の世界』(Le Monde des Aveugles)という著書もある。)
1934年、民俗学者の中山太郎が、『日本盲人史』(昭和書房)を出版(1936年に『続 日本盲人史』)
1934年、函館毎日新聞社主催の江差追分、津軽民謡競演大会で、函館盲唖院生の山本麗子(当時13歳)が、一等になり、翌年9月ビクター専属歌手となる。
1934年、アメリカ、AFBのアーウィンが中心となり、レコード盤による「トーキングブック」の製作を開始。1946年以降は、国会図書館(Library of Congress)と協力し、各地域図書館に配給し、無料で貸出している。
[アーウィン(Robert B. Irwin, 1883〜1951): 5歳で失明。ワシントン州立盲学校を卒業後、ワシントン州立大学、ハーバード大学大学院に学び、1907年文学修士号を取得。1910年オハイオ州クリーブランドの公立学校での盲児教育の監督官となる。1923年、設立間もないAFBの教育研究部長に就任、さらに1929〜49年AFBの常務理事として活躍。この間、インターポイント式の点字製版器の発明、33回転のレコード盤によるトーキングブックの提案、第2次大戦中は失明軍人の権利を守る法制定、戦後はAFOBの設立にも尽力。]
1935年6月、名古屋で、仏教盲人協会発足
1935年6月、神戸在住のポルトガル人ルイス・メンドンサー(当時32歳。29歳の時フットボールの球が目に当って失明)が、兵庫県の乙種按摩師試験に合格(外国人として初めての按摩師試験合格者)
1935年、アメリカ、「社会保障法」が成立(視覚障害者の年金制度が含まれている)
1935年、旧ソ連の数学者L.S.ポントリャーギンが、モスクワ大学教授に就任
[ポントリャーギン(Lev Semenovich Pontryagin: 1908〜1988): 14歳のとき爆発事故で失明。以後母が彼の教育の責任を引き受け、数学の知識をもたない母は様々な数学記号を2人にだけ分かる独特の読み方をするなどして、彼のために本を読む。1925年にモスクワ大学入学。29年、卒業と同時に同大学の機械・数学科に奉職。35年、ステクロフ数学研究所のトポロジー・関数解析学部長。位相幾何学や最適制御について大きな業績を残す。著書『連続群論』(1938)『位相幾何学の基礎』(1947)『最適過程の数学的方法』(1961)は各国語に翻訳されている。で]
1935年10月、岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。点字出版、点字書の貸し出し、盲人家庭への訪問指導などを行う。翌年4月、ライトハウス運動の創始者マザー夫人を迎えて開館式を行う。 (マザー夫人は1929年10月中央盲人福祉協会の招きで来日、その時岩橋武夫が通訳を勤める)
1936年山田流箏曲家・初代萩岡松韻(1864〜1936年)没 (本名は萩原伊之助、のちに源意。父は紀州藩士。4歳で失明。8歳で伊勢松坂で大松検校に師事し地歌筝曲を習い、1871年萩岡勾当を名乗る。74年から山田流筝曲を初代山勢松韻(山勢家3代)に師事、85年より松柯を号とする。87年東京盲唖学校助手。師の没後1910年より4代目松韻を名乗り、2代山勢松韻が成人するまで山勢派をあずかる。1911年東京盲学校教諭。17年高橋栄清と「筝曲楽成会」を組織。29年「徳華会」をつくり『山田流筝模範楽譜』など楽譜を出版。)
1936年、旧ソ連の作家N.A.オストロフスキー(1904〜1936年)没。1919年赤軍に入隊し、前線で重傷を負って除隊、失明とほとんど半身不随の肉体的試練と闘いながら自伝的長編小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を執筆(35年レーニン賞受賞)。
1937年1月、海軍技術研究所が、軍艦や潜航艇の所在を知る聴音音機操作をする担当者の聴覚能力研究で盲人についても試験。東京盲学校の全盲生5人が参加。
1937年4〜8月、ヘレン・ケラーが初来日。全国各地(朝鮮や満州もふくむ)で100回近い講演を行なう。
1937年12月、文部省が、1935年調査の学齢児童数を発表。盲児 2372人(男1303人、女1070人。その内盲学校に就学している者約 1千人)、盲聾唖児 60人(男27人、女33人。盲学校への就学者は0)。
1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889〜1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告、彼の名にちなんでベーチェット病と呼ばれるようになる。とくに第二次大戦後日本で多発、失明率が高く難病に指定された。
1937年、スウェーデンの技術者・発明家N.G.ダレーン(Nils Gustav Dalen: 1869〜1937年)没 (チューリヒ工科大学で学び、帰国後、ガスアキュミュレーター社に入社し、後に総支配人となる。爆発の危険なしに必要な時にだけ燃料のガスを供給する自動装置を発明、1912年にこの業績でノーベル物理学賞受賞。翌年ガス爆発のため失明するが、その後も実験を続け実験的技術的研究を指導、1924年には固形燃料用の台所調理器も発明。)
1937年、「アメリカ盲人ゴルフ協会」発足
1938年1月、内務省の社会局と衛生局の業務を分離・独立させて、厚生省が設置される(初代厚生大臣は木戸幸一)
1938年3月、アメリカの盲青年ゴルドン(Forbus Gordon)が盲導犬オルティを伴って来日し、盲導犬が紹介される。翌年5月、ドイツからポツダム盲導犬学校で訓練した盲導犬4頭(ボド、リタ、アスタ、ルティ)を輸入、臨時東京第一陸軍病院で日中戦争で負傷し失明した人と共同訓練。
1938年4月、社会事業法公布 (救貧事業、養老院、育児院など施設社会事業を助成)
1938年4月、厚生省の外局として、傷痍軍人のための「傷兵保護院」が設置される。翌年「軍事保護院」と改称され、同年9月失明軍人寮と失明軍人教育所が開設される。
1938年8月、ライトハウスが、点字月刊誌『黎明』を創刊(2000年6月号・通刊737号で廃刊)
1938年、アメリカ、「ランドルフ・シェパード法」(連邦建物内での売店経営を視覚障害者に優先的に認める。現在、やく3500人の視障者が売店経営を行っている)、「ワーグナー・オーディ法」(官公庁が視障者の授産所製品を買い上げることを定める。現在、全米に104の授産所があり、やく5千人の視障者が働いている)が成立
1938年、スペイン全国盲人協会(La Organizacion Nacional de Ciegos de Espana: ONCE)が設立される。現在会員数は64000人余。とくに宝くじの発行を認可され、その販売員として23000人以上の視覚障害者が就労し、またそこから得た収益を様々な投資で運用し、障害者の雇用促進や社会インフラの整備などに当てている。
1938年、ドイツ、8年制の盲人義務教育制度実施
1939年1月、アメリカの盲婦人コールフィールドがバンコク盲学校設立
1939年2月、明石海人が、改造者より歌集『白描』を出版、ベストセラーとなる。
[明石海人: 1901〜1939年。本名 野田勝太郎。沼津商業学校卒業後、静岡師範学校に進み、19歳で小学校の教員となる。1926年(25歳)、ハンセン病の兆候があらわれ、東大医学部附属病院でハンセン病と診断され、小学校を退職。翌年から明石楽生病院に入院。1931年、病状が悪化し精神錯乱状態になる。同年11月明石楽生病院が閉鎖され、長島愛生園に移動。33年精神錯乱状態がおさまり、作歌・俳句を始める。同年末受洗。以後、『日本歌人』などで注目・評価される。36年秋、失明。38年『文芸』に「天刑」17種、『短歌研究』に「癩」50種、『短歌研究』に「杖」6種発表、同年11月呼吸困難のため気管切開。翌年6月、腸結核のため死亡。]
1939年8月、カナモジカイとシロガネシャ主催で、第1回全日本カナモジタイプライター競技会が開かれる(失明軍人寮の失明軍人3人が参加)
1939年、木下和三郎(1892〜1947年。20歳過ぎに結核がもとで失明、福岡盲学校を経て、東京盲学校師範部鍼按科を卒業し、1919年私立神戸訓盲院の教員になる。1926年に神戸鍼按講習所を設置、32年に神戸鍼按学校、39年に神戸市立盲学校となる)が、『盲人歩行論』を刊行 (彼はまた、京都大学をはじめとする医学界とも多くの共同研究を行い、1935年『灸法の学理』、1937年『植物神経系と鍼灸マッサージ論』など理療の実験研究の成果を著している)
1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
1940年、1月から東京市で、10月から大阪市で、盲人の付添者の電車賃が無料になる
1940年8月31日、橿原市で、紀元2600年奉祝全日本盲人大会が開催される
1940年11月、本間一夫(1915〜2003年。5歳で失明、13歳で函館盲唖院入学。1936年関西学院専門部英文科入学、39年卒業)が東京の雑司ヶ谷に日本盲人図書館(現・日本点字図書館)を設立 (1953年朝日社会奉仕賞、1967年第4回点字毎日文化賞、1971年藍綬褒章、1977年第11回吉川英治文化賞、1985年勲四等旭日小綬章受賞)
1940年、茨城県の浜地方で歌われていた磯節を全国に広めた関根安中(1877〜1940年。本名は丑太郎)没 (十代後半で失明したと思われ、鍼・按摩を業とする。求めに応じて治療しながら独特の節回しで聞かせたといい、また1902年に横綱常陸山に出会ってひいきにされて、全国各地の巡業先に同行して磯節をうたい、評判となる)
1940年11月、ペンシルベニア州ウイクスベリーで全米盲人連合(National Federation of the Blind: NFB)創立総会が開かれ、会長にテンブロックが就任。現在、NFBは全米50州にわたって5万人以上の会員をもつアメリカ最大の盲人組織となっている。
[テンブロック(Jacobus tenBroek, 1911〜1968): カナダ生まれ。7歳のとき弓矢の事故で片眼を失明、14歳ころまでに他眼も失明。そのころ一家はカリフォルニア州に転居、カリフォルニア盲学校で3年学び、カリフォルニア大学バークレー校に進学、法律を学ぶ。40年博士号を取り、42年バークレー校の非常勤講師、53年には教授になる。55年にアメリカ政治学協会からウッドロー・ウィルソン賞を贈られた『偏見、戦争、そして憲法』は有名]
1940年、スペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo: 1901〜1999年)の、ギターと管弦楽のための『アランフエス協奏曲』初演 (3歳でジフテリアのため失明。 8歳からバレンシア音楽院で点字で音楽を学ぶ。1927年パリに留学、ポール・デュカスに師事。33年、トルコ出身のピアニスト・ビクトリア・カムヒと結婚。39年、スペイン内戦終結とともに帰国、以後フランコ独裁下のスペインで活動。47年よりマドリード・コンプルテンセ大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当。作曲は、管弦楽曲、ピアノ曲、声楽曲、バレー音楽など多方面にわたる。)
1941年、義太夫の7代目豊竹駒太夫没 (1882〜1941年。本名 辻田万蔵。大阪生まれ。幼少時に失明。1887年、3代目豊竹富太夫に入門し豊竹小富太夫を名乗る。上京後、1889年に竹本津太夫の預かり弟子で文楽座で初舞台。1902年に4代目豊竹富太夫、1914年に7代目駒太夫を襲名。1937年4月20日、新大阪ホテルで発来日のヘレン・ケラーの前で「酒屋の段」を語る。とくに世話物を得意とした)
1941年10月、大村善永が、満州・奉天に、男盲児教育施設・啓明学園を開設
[大村善永:1904〜1989年。3歳の時に満州に渡り小・中学校は満州、1921年岡山の第6高等学校入学。翌年網膜硝子体出血のため左目の視力を失い退学。一時郷里の山梨や朝鮮で農業に従事するが、1928年完全失明、29年関西学院大学入学、33年文学部英文学科を卒業、横浜訓盲院の教諭になる。39年に横浜訓盲院を退職、翌年満州で盲人の福祉・教育を行うべく奉天に渡り、40年盲人福祉協会を設立し啓明学園を開設。45年8月啓明学園を中国の職員に任せて奉天を逃れ、翌年日本に引き上げる(啓明学園は奉天市に移管され、重明女盲院と合併して瀋陽市盲校となる)。神学専門学校(現・東京神学大学)で学び、1948年シロアム伝道所を開設、牧師になる。]
1941年10月、視覚障害者3人が、聴力で爆撃機の襲来を探知する「防空監視哨員」として、全国で初めて石川県七尾市で試験的に任務に就く。1942年2月には、石川県で視覚障害者30人が監視哨員として採用される
1942年、経済学者・坂西由蔵(1877〜1942年)没。神戸高等商業学校(現・神戸大学)の教授であった1921年に右目、24年には左目も失明、翌年教授職を退くが、その後も講師として1937年ころまで教壇に立ちゼミ生を指導、また多くの著書も著す。
1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
1942年12月、イギリス、ベヴァリッジ報告 (包括的な均一制社会保険の網による全国民への最低生活水準保障を提案。この提案の大部分は、第2次大戦後の労働党政権によって実現された。)
1943年4月、粟津キヨ(旧姓金井キヨ。1919〜1988年。4歳で失明。9歳で私立高田盲学校入学。1937年上京、斎藤百合の主宰する陽光会ホームの生徒となる。YWCAの夜学に通うなどして受験勉強する)が、東京女子大学に特別生として入学 (1949年東京女子大の研究科を卒業。51年母校の県立高田盲学校の教師、盲と知的障害の重複障害児の教育に尽力。53年傷痍軍人(中国戦線で負傷し両眼失明、片腕を失う)だった粟津清之と結婚。血清肝炎、さらには狭心症と戦いながら、盲女子の自立のための活動を続ける)
1943年、大阪の「失明軍人会館(現・日本ライトハウス)」で、山本卯吉(1915〜2005年。1941年、中国戦線で負傷し失明。1939年にドイツから輸入されたジャーマンシェパードの盲導犬ボドを使用。1980年第17回点字毎日文化賞受賞)ら戦傷失明者十数人がプレス作業の訓練を始める。12月、早川電機工業が山本卯吉ら6人を工員として採用、失明軍人会館内に分工場を設けて航空無電機の部品製作などを始める (1945年8月の終戦で、工場は閉鎖される。46年、7人の戦傷失明者が、早川電機工業社長早川徳次の理解により、改めて田辺工場にプレス工として復職する)
1943年10月、延岡市で、宮崎県北部在住の盲僧50余人が敵撃滅祈願祭を行う
1943年12月、前年夏から東京都鍼按師会が行っていた海軍技療手養成が海軍省直轄となり、「海軍技療手訓練所」が設けられる (第一戦の技療生にも 5人の戦死者が出たため、翌年8月訓練所内に技療神社が設けられる。1943年から終戦までに、7期計441人が、海軍技療手として訓練を受けたという記録がある)
1943年、原田末一(1896〜1999年。今治市青年学校の教練科を担任中1937年8月応召、11月中支戦線で負傷両眼失明、東京第一陸軍病院で療養、39年少尉任官ののち召集解除、再び今治青年学校の教壇に立ち青年指導に当る)の『戦盲記』(水産社)が、軍事保護院の推薦図書となり、さらに保護院はその点字版の製作を点字毎日に依頼、12月一千部が完成して失明軍人に送られる (原田には『道一筋』(1961年、鉄道弘済会広報部)もある)
1943年、アメリカ、ペンシルベニア州のヴァレー・フォージ陸軍病院(Valley Forge Army Hospital)で、リチャード・フーバー(Richard Edwin Hoover: 1915-1986. 1936年ペンシルベニア州立大学卒業後メリーランド盲学校の教師になり、数学と体育を担当。体育ではレスリングを指導し、盲学校対抗レスリング大会を開催、この大会は以後40年ほど続き、盲人のスポーツ活動にも貢献)とワレン・ブレッドソー(Warren Bledsoe)が、戦傷失明者のリハビリテーションのために、長い杖を使った歩行技術を開発 (改良が重ねられて後にフーバー・ケーン・テクニックと呼ばれるようになり、日本でも1966年日本ライトハウスが導入)
1943年、ソ連、「欠陥学研究所」設立(視覚障害関係部門としては、盲および弱視児の教授と教育の研究室、盲ろう児の研究と教育の実験室、盲心理学実験室、盲工学実験室がある) (1993年「治療教育学研究所」と改称)
1944年、地歌箏曲家菊原琴治没
[菊原琴治(1878〜1944年): 大阪出身。本名布原徳太郎。 4歳で失明。 6歳で2世菊原吉寿一(後名菊植明琴、1835〜1913)の芸養子となり、18歳で独立。その後、菊仲繁寿一に師事して、野川流三絃本手組歌全曲32曲を伝授される。大阪市立盲唖学校教員、当道音楽会本部長などを歴任。文部省に女学校箏曲科設置の陳情運動も行い、その教員養成を目的とした箏曲音楽学校の初代校長を務めた。作品に「菊原の四つ物」といわれる『摘草』『雲の峰』『最中の月』『銀世界』のほか、『春琴抄』『秋風の辞』などがあり、三弦曲への箏の手付も多数ある。一時期谷崎潤一郎に稽古をしたことから、谷崎作品(『春琴抄』『盲目物語』)に多くの影響を与えている。]
1944年、色覚検査が戦時中の特例として検査項目から外される (1949年に再開される)
1944〜1950年代、ダレンバッハ(K. M. Dallenbach)とその共同研究者たちによるコーネル大学心理学研究室の一連の実験で、盲人の障害物知覚が、反射音を利用した聴覚を基盤とするものであることが判明
1945年7月、フランス、「盲人身体障害者手帳と白杖携帯規程」制定
1946年2月、全国聾唖学校職員連盟、全国盲学校職員連盟結成(盲聾教育義務制即時実施要求)
1946年2月、アメリカ海外盲人援護協会(American Foundation for Overseas Blind: AFOB)発足
1946年、復員傷病兵ら、旧陸海軍病院・国立療養所で患者自治会結成
1946年9月、貴族院・衆議院で、盲人付添い人の汽車・汽船乗車賃の免除に関する請願が採択される
1946年10月、片岡好亀と近藤正秋が中心となり、盲人の自立更生と福祉増進をめざして、愛知県盲人福祉協会を設立 (1947年、鍼灸共同治療所および愛盲ホーム光和寮を開設。48年、金属作業部(製缶)を設立、点字出版事業を開始。57年、名古屋ライトハウスと改称。63年末、あけの星声の図書館事業を開始しまた点字出版所を新設。79年、重度身体障害者授産施設「明和寮」開設。89年、特別養護老人ホーム「瀬古第一マザー園」、養護盲老人ホーム「瀬古第二マザー園」開設。91年、図書館を移転「名古屋盲人情報文化センター」と改称。2006年、名古屋ライトハウスの創立60周年を機に、近藤正秋賞・片岡好亀賞が設けられる。))
[片岡好亀:1903〜96年。1919年、函館師範学校に入学、21年緑内障のため失明し同校を退学。23年、東京盲学校中等部鍼按科に入学。1930年、同校師範部を卒業し、同校師範科の嘱託講師になる。36年、名古屋盲学校鍼按科の主任教諭。英語など語学にも堪能(エスペランティストでもあった)で、1957年、オスロで開催された世界盲青年教育者会議に日本代表として出席、ヨーロッパ各国の盲教育・福祉施設も視察。1964年、名古屋盲学校を退職、名古屋ライトハウスの理事長に就任(77年より会長)。
近藤正秋:1913〜97年。1935年5月、満州での戦闘で失明、同年11月名古屋盲学校に入学。39年、官立東京盲学校に新設された失明軍人教育所師範部に入学、翌年卒業し、名古屋盲学校の教師となる。終戦後、治療印を開く。1957年、名古屋ライトハウス理事長。1973年、藍綬褒章受章、また同年、自著『試練を越えて』の売上金や褒章の祝い金などを基金として「愛盲報恩会」を創設し、地域の盲人団体や事業に助成。]
1946年、地歌箏曲家の米川暉寿(1871〜1946年。本名米川貞)没 (先天盲。幼少の頃から継母に付き添われて、葛原勾当門下の福田絹寿に師事、箏曲を習得。岡山県高橋の自宅で開業、長姉として家計を助けるとともに、殆どの弟妹に箏曲や三弦を教える(弟親敏と末妹の文子は有名な生田流箏曲家となる)。1927年弟(親敏・正夫)に呼ばれて上京し開軒、門人を育成、各地への出張教授もおこなう。)
1947年3月、教育基本法、学校教育法が公布・施行(盲・聾・養護学校・特殊学級を規定)
1947年、山田流箏曲家・今井慶松(1871〜1947年。本名新太郎)没。 4歳で失明、14歳で上京し初世山勢松韻(山勢派3代目)に師事。1898年東京音楽学校助教授になり、1902年同校教授。1923年山田流箏曲協会を創立し会長になる。1940年日本三曲協会初代会長。1942年帝国芸術院会員。作品に『四季の調』『御代万歳』『鶴寿千歳』など50曲余。
1947年6月、日本鍼灸按マッサージ師会連盟発足 (第1代会長 小守良勝。49年、全日本鍼灸按マッサージ師会連盟と改称)
1947年7月、日本教職員組合(同年6月結成)が、盲・聾学校の義務制即時実施を決議
1947年8月、政府が傷痍者保護対策要綱案をまとめ、GHQに提出
1947年9月、GHQの勧告により、「按摩鍼灸等は、医療の補助手段としても、盲人が行うのは不適当」という内容を含む厚生省医療制度審議会答申が出される。これにたいして、盲人関係者が「鍼灸按存続期成同盟委員会」を結成し激しい存続運動を展開する。
1947年12月、「あんま・はり・きゅう・柔道整復等営業法」(法律第217号)公布 (翌年1月1日施行)
1947年、オランダ、「障害者雇用法」制定(雇用率2%)
1948年1月、京都・大阪の鍼灸師や研究者を中心に、日本鍼灸学会設立(会長は京都大学医学部教授笹川久吾)
1948年3月、厚生省が、傷痍者保護対策委員会を発足
1948年4月、「中学校の就学義務並びに盲学校及び聾学校の就学義務及び設置義務に関する政令」公布(盲学校・聾学校小学部への義務制が学年進行により施行)
1948年4月、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」(法律第217号)による学校、養成施設認定規則により、全国の盲学校で、中等部鍼按科4年制に代えて、高等部5年制理療科が設置される (盲学校は、小学部6年、中学部3年、高等部本科3年、高等部専攻科2年、高等部別科2年となる)
1948年7月、「国立光明寮設置法」公布。国立東京光明寮、国立塩原光明寮設置(1964年6月、国立東京視力障害センター、国立塩原視力障害センターに改称。国立塩原視力障害センターは2013年3月閉所)
1948年8月、日本盲人会連合結成
1948年8月末〜10月末、ヘレン・ケラーが2度目の来日。全国各地(広島や長崎をふくめ15都市)を訪問し25回講演会を行う。帰国に際し、「日本全国の民間の盲人団体が結束し、政府の施策を後援する事」および「厚生省と文部省は障害者の支援に積極的に協力すべき事」を声明。
1948年9月、名古屋鉄道管理局が、特例として「制限外手回り品車内持込黙認証」を発行、盲導犬の同伴乗車を許可(これにより、名古屋の盲青年が盲導犬を伴って上京、東京で開催されたヘレン・ケラーの歓迎会に参加)
1948年、イギリスのL.グットマンにより、パラリンピックが始められる(1960年のオリンピックローマ大会からは、オリンピック大会に引続き同じ都市で開催されるようになる。1976年のカナダ・トロント大会から、視覚障害者部門が加わる)
1949年4月、「東京盲学校」及び「東京聾唖学校」は、「国立盲教育学校、同附属盲学校」及び「国立聾教育学校、同附属聾学校」と改組
1949年6月、特殊教育連盟発足(53年2月、全日本特殊教育連盟と改称)
1949年11月、岩手医科大学の今泉亀撤が、日本初の角膜移植を実施(「開眼手術」と呼ばれた)
1949年12月26日、身体障害者福祉法公布(保護法ではなく更正法。身体障害の種類を視・聴・言語・肢体・中枢神経障害に限定。手帳交付、補装具給付。翌年4月1日施行)
1949年12月、日本ヘレン・ケラー協会などの主催で「全国盲学生音楽コンクール」開催 (1954年から東京ヘレン・ケラー協会の主催となり「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、2001年から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大して「ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」と改称)
1949年、山梨県立盲学校が盲聾児への教育を開始 (1971年3月まで続く。1954年から、志村太喜彌(1927〜)が専任教諭となり、71年まで5人の盲聾児に生活行動、点字、指文字、発声などを指導。同氏は、1965年第2回点字毎日文化賞受賞。2008年からは、同盲学校で毎年夏に、実践した盲聾児教育についての資料展が行われている。)
1949年、京都市が、身体障害者に市電半額割引を実施
1949年、フランシスコ・ザビエルの日本渡来400年を記念して、兵庫県宝塚市の聖心女子学院の修道女を中心に卒業生数人が集まり、「みこころ会点字部」発足。1953年、「みこころの点字会」と改称し、同窓生以外の会員を多く迎え、56年会員の手になる点訳書を集めて「みこころの点字会文庫」を創設
1949年、アメリカのハロルド・リドリー(Harold Ridley: 1906〜2001年)が、眼内レンズの移植を行う