盲人文化史年表

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◆1950年代

◆1950年代
 1950年2月、国鉄が「身障者に対する旅客運賃の割引方」告示 (付添同伴の身障者は2人共 5割引)
 1950年3月、パリで国際点字統一会議が開かれ、日本代表として中村京太郎が出席 (日本の点字をローマ字システムにすべきではとの意見もあったが、日本語の特殊性と実用性を考慮して仮名点字がそのまま認められる)
 1950年4月、東日本ヘレン・ケラー財団発足 (1952年5月社会福祉法人となり、東京ヘレン・ケラー協会と改称)
 1950年8月、合資会社特選金属工場設立 (代表社員 山本卯吉。戦盲者8人と晴眼の技術指導者1人、資本金15万円。ラジオ・テレビの部品製作を行う。1955年から工場の事業目的を拡大し、聾唖者、肢体不自由者をも含む全身体障害者の職業更生のモデル工場にする。1963年10月、社名を合資会社早川特選金属工場と改称)
 1950年9月、厚生省が厚生課長名で、バスも汽車同様付き添いを連れた身障者には割引扱いをするように、各都道府県民生部長宛に通知
 1950年11月、文部省が大学学術局長名で、各都道府県進学適性検査管理審査会宛に、盲学生も一般学生と同様に進学適性検査を受けられるよう取り計らうよう通知
 1950年、生活保護法が施行される
 1950年、福来四郎(1920〜)が、神戸市立盲学校で視覚障害児に彫塑の指導を開始。1956年以降生徒の作品を美術展に出品、高い評価を得る。1969年『見たことないものつくられへん』(講談社)。1970年、第4回吉川英治文化賞受賞。2003年、写真記録集『盲人に造形はできる―盲人造形教育30年の記録―』(英文併記)を自費出版、国内ばかりでなく世界192カ国の盲学校などに送る。1950〜80年にかけて造られた児童生徒の粘土作品約二千点は、現在神戸親和女子大学附属図書館で保管され、各地で作品展が行われている。
 1950年、中国の著名な民間音楽家阿炳(アーピン。本名華彦鈞)没
  [阿炳(1893〜1950年): 江蘇省無錫市に生まれ、幼少の頃から道士の父について音楽を学んだ。20歳の頃に眼病を患い、35歳の頃には両目とも完全に失明。30歳頃から街頭で歌を唄い、楽器を奏でて生計を立てた。二胡(擦弦楽器の1)と琵琶の演奏者であり同時に作曲家でもある阿炳は、生涯で二胡と琵琶の作品を200曲あまり作曲したとされる。二胡の曲「二泉映月」がもっとも有名]
 1950年、盲聾のロバートJ.スミスダス、セント・ジョーンズ大学卒業
  [Robert J. Smithdas: 1925〜。脳脊髄膜炎のため5歳で視覚を失い聴覚も大部分失う。地元のピッツバーグの盲学校で学ぶが、10代中半に完全失聴し、盲聾のための教育を受けるために1942年パーキンス盲学校に転校、45年同校を卒業。その後ニューヨークの盲人授産ホームに入所、その施設の指導者の勧めでセント・ジョーンズ大学に入学し、1950年卒業。さらに、ニューヨーク大学大学院で身体障害者の職業指導を研究して1953年修士号を取得。1960年代以降、ニューヨーク盲聾成人のためのヘレン・ケラー・ナショナル・センターの副所長として長く活躍。1967年10月に来日している]
 1950年、国連経済社会理事会が、身体障害者の社会リハビリテーション決議
 1950年代、アメリカで、保育器の普及とともに未熟児網膜症が激増(アメリカにおける統合教育の普及には、未熟児網膜症による失明児の増加にたいする対策という面もある)。日本では、1960年代中半以降増加。
 1951年1月、暁烏敏(1877〜1954年。60歳ころより生来の近視が悪化し、70歳ころ完全失明)が、真宗大谷派宗務総長に就任
 1951年2月、全国盲学校長会などの主催で、第1回全国盲学校珠算競技大会開催 (以後、全国盲学生点字競技大会とほぼ隔年で開催)
 1951年3月、雨池信義(1898〜1982年。4歳ころ失明)が、上田市立盲学校の廃校を機に点字図書館設立運動を行い、上田市立図書館の中に点字図書部を開設、その責任者となる(55年、長野県上田点字図書館となり、館長に就任。初の公立の点字図書館)
 1951年3月、社会福祉事業法公布(施行は同年6月1日)
 1951年4月、「東京教育大学国立聾盲育学校」及び「東京教育大学国立聾教育学校」は、東京教育大学教育学部特設教員養成部」となる。また、「東京教育大学国立盲教育学校附属盲学校」及び「東京教育大学国立聾教育学校附属聾学校」は、東京教育大学教育学部の附属学校となる(これらの学校は、1973年度から東京教育大学の、1978年度から筑波大学の附属学校になる)
 1951年4月、新設の東京教育大学教育学部特殊教育学科に、尾関育三と村中義夫が入学(国立大学への視覚障害者の発の入学)
  [尾関育三:1929〜。4歳のとき事故で右眼失明、さらに小学5年のとき左眼も失明、1941年長野県松本盲学校初等部5年に編入学。松本盲中等部鍼按科を経て東京盲学校師範部へ。1955年、同大の教育学研究科数学教育専攻に進学、58年「盲人に対する図形の指導」で修士号。東京教育大附属盲学校の数学の非常勤講師となり、61年に正教員。生徒たちの大学進学に貢献。1975年から京都大学数理解析研究所の短期研究員となり、90年京都大学より理学博士号。90年3月定年退職、入試点訳事業部を立ち上げ専務理事として活躍]
 1951年5月、国立神戸光明寮設置(1964年6月、国立神戸視力障害センターに改称)
 1951年5月、西日本ヘレン・ケラー財団(現・日本ヘレン・ケラー財団)が、大阪市に盲女性のためのいこいの家「平和寮」を落成 (1957年4月には盲児童施設「平和寮」も落成)
 1951年6月、補装具の交付制度創設
 1951年7月、日本盲人キリスト教伝道協議会発足(初代議長:好本督)
 1951年7月、大阪府立盲学校で、第1回全国盲学校野球大会が開催される
 1950年8月、早川徳次が、田辺工場にプレス工として採用していた戦傷失明者7名で、合資会社 特選金属工場を設立 (1955年から工場の事業目的を拡大し、聾唖者、肢体不自由者をも含む全身体障害者の職業更生のモデル工場とする。1963年10月、合資会社早川特選金属工場と改称、盲人による経営管理・業務担当を行う。1977年、シャープ株式会社 特例子会社となる(特例子会社認定 第一号)。82年、シャープ特選工業株式会社となる)
  [早川徳次:1893〜1980年。幼くして出野家の養子となる。継母との折り合いが悪く、8歳の時、近所の盲目の老女に手を引かれて、錺屋の丁稚奉公になり、金物職人としての修行を始めたという。1911年、ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明、これを機に独立。1916年早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)を発明。関東大震災後、1924年大阪に早川金属工業研究所設立、いち早くラジオを試作し成功。1944年、失明軍人会館(1943年ライトハウスが愛盲会館と改称され、さらに軍人援護会に移管されこの名に改称)内に早川電機分工場を設立、戦傷失明者が主にプレス作業を行う。戦後、1946年、7名を田辺工場にプレス工として採用。1962年、大阪市に7000万円を寄付、この寄付金をもとに、同年9月、早川福祉会館が開館。1960年藍綬褒章、65年勲三等瑞宝章受章。]
 1951年9月、「日本盲大学生協力会」発足(初代委員長:松井新二郎)。1953年「日本盲大学生会」と改称。その後、卒業後の就職難などで大学進学者が減り、1958年自然消滅。
 1951年10月、福祉事務所発足(民生安定所を改組)
 1951年12月、厚生省、第1回身体障害者実態調査実施 (以後ほぼ5年毎に実施。以下に、第1回〜第11回の視覚障害者数(推計値。括弧内は全身障者数に対する構成比)を示す。)
    回数   1回   2回   3回   4回   5回   6回   7回   8回   9回   10回   11回
    実施念  1951年  1955年  1960年  1965年  1970年  1980年  1987年  1991年  1996年  2001年  2006年
    視障者数 121,000  179,000  202,000  234,000  250,000  336,000  307,000  353,000  305,000  301,000  310,000
         (23.6)  (22.8)  (24.4)  (22.3)  (19.0)  (17.0)  (12.7)  (13.0)  (10.4)  (9.3)   (8.9)
     *2006年の視障者数310,000人の内、視覚障害と聴覚・言語障害の重複が22,000人(7.1%)、視覚障害と肢体不自由の重複が32,000人(10.3%)、視覚障害と内部障害の重複が15,000人(4.8%)
 1951年、RNIB(王立イギリス盲人援護協会)が、トーキングブックをカセットテープに切替える
 1951年、アメリカ、ニューヨークに“Recording for the Blind”(専門書の録音を主とする図書館)設立
 1951年、オーストラリア、盲導犬協会設立
 1951年、アメリカン・プリンティング・ハウスが、パーキンスブレーラーを発売
 1951年12月、パリで、世界点字協議会(World Braille Council: WBC)発足
 1952年4月、国鉄が、「身体障害者旅客運賃割引規程」を公示 (身体障害者単独でも、100km以上の場合は、5割引になる)
 1952年4月、京都府立盲学校が幼稚部開設(各地の盲学校に幼稚部が開設されるようになるのは、1960年代後半以降)
 1952年6月、ILOが「社会保障の最低基準に関する条約」(102号条約)採択
 1952年8月、文部省初等中等局に「特殊教育室」設置(1967年「特殊教育課」となる)
 1952年9月、戸井美智子(1929年〜)が、アメリカ・テキサス州のウエスタン・カレッジに入学 (1歳の時麻疹による高熱のため失明。横浜訓盲院高等部を卒業後、1947年9月パルモア学院に入学。1956年うえすたん・カレッジを卒業し、マスター取得、その後パーキンス盲学校の教員養成コースで学び、57年7月帰国。1958年からパルモア学院で英語を教える。62年からは日本ライトハウスで英語の点訳本の校正などの仕事もする。1964年、日本発の女性盲導犬ユーザーとなり、現在7代目のニルスと暮らす。)
 1952年、東京大学教授梅津八三らを中心に「盲聾教育研究会」発足
 1952年、市川四郎(1898〜1986年。4歳のとき角膜潰瘍のため失明。名古屋盲唖学校卒業後按摩で開業していたが、20歳過ぎて鍼に転進)が、日本鍼医会の会長に就任
 1952年、オランダのブッサムで、第1回国際盲青年教育者会議(International Conference of Educators of Blind Youth: ICEBY)開催 (日本からは、オックスフォード在住の好本督が出席し、報告)
 1953年9月、「日本盲人社会福祉施設協議会」発足(2003年現在 216施設加盟)
 1953年、藤井健児が、西南学院大学文学部神学科に入学 (1931〜。6歳で事故のため左目失明、福岡盲学校に入学。20歳で右目も失明、翌年受洗。1959年、西南学院大学を卒業、香住ヶ丘バプテスト教会牧師就任。1972年、九州初の盲導犬第1号を使用) 
 1953年、カトリック点字図書館(2001年よりロゴス点字図書館)発足
 1953年10月、日本盲大学生会が機関誌「新時代」を創刊。1958年、同会の自然消滅とともに休刊。
 1953年11月、横田全治(大阪府盲教諭)が『諸国盲人伝説集』を出版
 1953年、岩手・宮城県を中心に盲僧・盲巫女により組織された大和宗が、宗教法人として認可される
 1953年、国立ハンセン病療養所長島愛生園で、近藤宏一が中心になって視覚障害者らが「青い鳥楽団」を結成(1976年まで活動)
  [近藤宏一:1926〜2009年。小学4年生の時ハンセン病を発病、1938年長島愛生園に収容、近藤宏一と改名。その後失明、手足にも障害を負う。53年ハーモニカ奏者として「青い鳥楽団」団長。楽団解散後も各地で公演。80年日本ハーモニカ賞を受賞。2007年ハンセン病問題に貢献した人に贈られるウェルズリー・ベイリー賞を受賞(ウェルズリー・ベイリー賞:国際ハンセン病ミッション(The Leprosy Mission International:TLM)の創始者ウェルズリー・ベイリー氏(1846〜1937)を記念して1995年に創設)。著書「ハーモニカの歌」。]
 このころから、各地のハンセン病療養所で点字学習が盛んになり舌や唇で点字を読む者も現われる(1955年、岡山県の邑久光明園では盲人114人のうち35人が点字を打ち、11人が点字を読み、そのうち8人が点字を舌や唇で読むようになったという)。また、1955年ころから各地の療養所で点字の機関誌が発行されるようになる。
 1953年、日本初の福祉労働者の組合「日本社会事業職員組合」発足 (70年「民間社会福祉労働組合全国連絡会」、86年「全国福祉保育労働組合」)
 1953年、ユネスコより、「世界点字便覧」(World Braille Usage)が発行される(初版。日本語もふくめ47言語の点字を集録) (1990年第2版(97言語集録)、2013年第3版(142カ国・133言語))
 1954年6月1日、「盲学校、聾学校及び養護学校への就学奨励に関する法律」公布 (これにより、保護者の経済的負担が軽減され、その後の盲児の就学率向上に寄与した)
 1954年、平方龍男(1889〜1976年。16歳で失明。大正から昭和にかけての著名な鍼臨床家。1952年鍼科学研究会を創設し、月刊誌「鍼の研究」を発刊)が、信愛福祉協会を創設、鍼による自立を目指す失明者更生施設「信愛ホーム」を開設
 1954年、国立東京光明寮に、点字印刷科が設置される
 1954年9月、邑久光明園の森幹郎の主導で、一般の盲人とハンセン病による盲人が点字で文通することなどを目的に「らい盲友の会」発足
 1954年、アメリカ、職業リハビリテーション法
 1954年、パリで、第1回世界盲人福祉協議会(WCWB: World Council for the Welfare of the Blind)開催。同時に、世界点字楽譜統一会議も開催される
 1955年1月、本間昭雄が、「聖明福祉協会」設立、視覚障害者宅への家庭訪問事業などを始める
  [本間昭雄:1929〜。20歳の時医療ミスで失明。点字を独学し、日本社会事業学校で社会福祉を専攻して卒業。1964年、盲老人ホーム聖明園(全室個室)開設。1968年全国盲老人福祉施設連絡協議会設立、1990年より同会長。1969年より、盲大学生のための奨学金貸与制度を始める。1975年特別養護老人ホーム富士見園、82年特別養護盲老人ホーム聖明園寿荘を開設。1984年、第21回点字毎日文化賞受賞。93年、妻麻子とともに、第27回吉川英治文化賞受賞。2008年第1回塙保己一賞、2012年第30回鳥居賞受賞。]
 1955年5月、全国11園盲人会により、「全国ハンセン病盲人連合協議会」結成
 1955年5月27日、ヘレン・ケラーが3度目の来日 (帰国する6月7日、勲三等瑞宝章を授与される)
 1955年9月、盲人用信号機が、東京都杉並区の視覚障害者施設付近の交差点に設置される(ベルの鳴動により赤信号と青信号を判別できるもの。その後、オルゴールやチャイム音が使われるようになる)
 1955年10月、東京で、第1回アジア盲人福祉会議開催(参加国は、インド、セイロン、ビルマ、タイ、マレーシア、ベトナム、香港、フィリピン、中華民国、韓国、日本の11ヶ国)
 1955年10月、東京教育大学教育学部附属盲学校高等部生徒会を中心に「全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会」(全点協)が組織され、高等部用教科書の貧弱さを訴え、その発行促進、購入費の軽減、国立点字出版所の設立等を求めて、文部省・厚生省・国会への陳情、街頭署名運動を行う。(運動の結果、翌年4月より盲学校高等部の教科書は無料となり、発行されていない教科書が急遽作られることになる。)
 1955年11月、日本ライトハウスが、アメリカの国会点字図書館から寄贈された英文点字書800冊とトーキングブック1190枚の目録を作成、一般に貸出を開始する。
 1955年、藤原雄(1932〜2001年。強度の弱視)が父藤原啓に師事し備前焼を始める。(1996年人間国宝となる)
 1955年、ILOが、障害者の職業リハビリテーションに関する勧告
 1955年、アメリカ、A.ネメス(Abraham Nemeth)が、デトロイト大学の数学教授に就任
  [Abraham Nemeth: 1917〜2013年。先天的な視覚障害。小学校から高校まで一般の学校で学ぶ。将来の就職を考え、大学では心理学を専攻、コロンビア大学で心理学修士号を得る。その後好きな数学に転向し、同大学で数学の修士号も得る。彼が数学の学習の中で考案して行った記号体系が、1952年アメリカの標準的な数学記号として採用される。その後この記号体系は、「Nemeth Code of Braille Mathematics and Scientific Notation」として第4版まで改訂され、アメリカをはじめカナダやニュージーランドなどで理数系の標準的な点字記号として広く用いられている。]
 1956年4月、日本盲人福祉委員会(日盲委)発足
 1956年、日本盲心理研究会設立、機関誌「盲心理論文集」創刊(1959年からのち「盲心理研究」と改称)
 1956年6月25日、生田流箏曲家宮城道雄が、急行「銀河」の連結部で転絡、死亡。
  [宮城道雄:1894〜1956年。神戸生まれ。生後間もなく角膜炎に罹り次第に視力が衰え7歳ころ失明。8歳で生田流の2代中島検校に入門。11歳で免許皆伝となる。13歳のとき、一家の生計を支えるため朝鮮に渡り、昼は箏、夜は百八を教える。14歳(1909年)で『水の変態』を作曲。1916年大検校の称号を受ける。17年に上京し、19年第1回作品発表会を開く。1920年ころより、吉田晴風、本居長世らとともに、洋楽の要素も取り入れたいわゆる「新日本音楽」運動を起こす。また、十七絃、新胡弓、短箏、八十絃など新楽器も考案。29年代表作『春の海』。30年東京音楽学校講師となり、また東京盲学校でも教え始め、自宅の門弟も急増。32年フランスの女性ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーの来日演奏会で「春の海」を合奏。48年芸術院会員。50年NHK第1回放送文化賞受賞。53年、フランス、スペインで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表で参加、第1位となる。作曲は350曲を超える。]
   *森雄士:宮城道雄の最後の直弟子。1929年山形県酒田市の材木商に生まれる。2歳で麻疹のため失明。5歳で近くの山田流箏曲家に入門。翌年宮城道雄に入門するため上京、東京盲学校初等部入学。在学中はピアノなどの西洋音楽も学び、斉藤松声、久本玄智ら山田流講師陣にも師事。音楽理論と作曲法は、團伊玖磨、柴田南雄に教えを受ける。卒業後同校教員。宮城道雄没後宮城会を離れ、森壽会を主宰、後進の指導や独奏活動等をしている。作品に「石川啄木詩集より」「箏とフルート二重奏曲」「壱越調」「箏独奏の為の変奏曲」など。
 1956年、アフリカ系アメリカ人のジャズピアニスト・テータム(Art Tatum: 1910〜1956年。生来片眼は全盲、他眼も強度の弱視)没
 1957年、身体障害者更生援護施設の設備及び運営基準が制定される。点字図書館事業についても、人件費(5人分)の確保が可能な事業となり、これを契機に、1960〜70年代に全国各地で点字図書館事業が開始される(1998年現在、全国で100館)。
 1957年、日本盲人福祉委員会が、「日盲委・世盲協ニュースレター」創刊
 1957年、鉄道弘済会が、盲人福祉事業に着手
 1957年4月、国立神戸光明量に、養鶏科が設置される(1969年3月廃止)
 1957年、相馬雄二、塩屋賢一、松井新二郎らが中心になって、日本盲導犬協会を設立 (1967年財団法人に改組)
 1957年、塩屋賢一(1921〜2010年)により、日本で育成した発の盲導犬チャンピー誕生 (塩屋賢一は1948年から盲導犬についての研究をしていた。1982年、第16回吉川英治文化賞および第19回点字毎日文化賞受賞。チャンピーの使用者は河相洌(1927〜。1945年慶応義塾大学予科に入学するが、2年後失明のため中退。52年同大学に復学し、56年文学部哲学科卒業、滋賀県立彦根盲学校教諭。60年以降、静岡県立浜松盲学校教諭。著書に『ぼくは盲導犬チャンピイ』など)) 1957年、東京で、国際キリスト教奉仕団が、テープライブラリーを開設
 1957年、地歌箏曲家萩原正吟(1900〜1977年)が、重要無形文化財保持者に認定される (6歳で失明。柳川流三弦本手および生田流箏組歌を修得。1931〜1958年京都府立盲学校教諭。1970年勲5等宝冠章受章。)
 1957年、フランスの数学者ベルナール・モラン(Bernard Morin: 1931〜)が、国立科学研究センターの研究員になる (1931年上海で生まれる。緑内障と網膜剥離のため6歳で完全失明。フランスの盲学校で15歳まで学び、その後リセで哲学を、エコール・ノルマル・シュペリュールで数学を専攻。位相幾何学の分野で業績を積み、1972年博士号。1999年まで主にストラスブール大学で教職に就いていた。1988年に来日、4月から半年間九州大学で講義))
 1958年1月、日本盲教育研究会結成
 1958年、日本盲人キリスト教伝道協議会が中心になって、盲女子のための「東京サフランホーム」設立。寮長は高田冨美野(1921〜。先天盲。1940年滋賀県立盲学校卒業、西宮の関西盲婦人ホームに入所。43年斎藤百合の陽光会ホームに移る。翌年栄養失調のため帰郷。47年東京光の家入所。48年青山学院女子専門学校入学、51年卒業。翌年横浜訓盲院教員。1982年念願のホーム新館が落成、同ホームを退職。ホームは2003年3月閉鎖)
 1958年4月、「角膜移植に関する法律」成立、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる
 1958年、学校保健法(昭和33年4月10日法律第56号。2009年4月より学校保健安全法に改称)に「色神障害の有無及び障害の種類を明らかにする」と規定され、就学時および毎年全児童に色覚検査が実施される
 1958年9月、日本点字図書館が、声のライブラリー開始 (最初はオープン7型テープ。1966年オープン5型で4トラックのテープレコーダー、1976年に半減速のカセットテープレコーダー開発)
 1958年、全国盲学生音楽コンクール入賞者数人で「笹の会」発足、11月に発表演奏会を開催 (発表者は、河原田栄(東邦音楽短大、バリトン)、松田忠昭(特設教員養成部音楽科、テナー)、金慶環(日大芸術学部音楽科、テナー)、日高実則(日大芸術学部音楽科、ピアノ)、田中禎一(特設教員養成部理療科、ピアノ)、和波孝禧(横浜盲中学部、バイオリン))
 1958年、地歌の演奏家・作曲家富崎春昇(本名吉倉助次郎)没
  [富崎春昇(1880〜1958年): 文楽人形遣い吉田玉助の長男として大阪市に生まれる。4歳で失明、8歳で富崎宗順に入門。17歳で継山流箏組歌、19歳で野川流三絃本手の伝授を受け、富吉春琴の芸名をもらう。1904年師の没後、芸姓を継ぎ、08年富崎春昇を名のる。1918年東京有楽座で地歌名曲独演会を開き、翌年東京に移住。1947年日本三曲協会会長、48年芸術院会員となり、55年には重要無形文化財保持者に認定、57年文化功労者に選出。東京に大阪系の地歌をもたらした功績は大きい。作曲作品に『蓬生』『春の江の島』『残る雪』『嵯峨の雪』『花の戸』など。]
 1958年、福沢美和(1927〜。福沢諭吉の曾孫。網膜色素変性症のため視力が弱く、40代半ばで失明)が、視覚障害者と晴眼者の交流のための親睦サークル「ひとみ会」を主宰。失明後1976年から盲導犬フロックスと暮らすようになり、各地で視覚障害者の福祉や盲導犬について講演活動を行い、また『フロックスはわたしの目 盲導犬と歩んだ十二年『など盲導犬をテーマとした著書も多い。
 1958年、国民健康保険法が制定され、1961年より、国民皆保険となる。
 1959年4月、国民年金法公布(1961年より、国民皆年金)
 1959年4月、盲人の電話級アマチュア無線技士国家試験受験が認められ、24人が合格(受験者は29人)。さらに同年6月には「日本盲人ハムクラブ」発足。
 1959年、日本ライトハウスが、録音奉仕会を結成、「声の図書館」を開設
 1959年、日本の盲学校の在籍者数が、 10,264人と最大を記録(以後、1968年9千人台、 1976年8千人台、 1981年7千人台、 1985年6千人台、 1990年5千人台、 1992年4千人台、 2002年3千人台と減少)
 1959年、高尾正徳が、島根ライトハウス(盲児施設)設立(1962年点字図書館、71年盲老人ホーム、82年盲重複施設を設置)。
  [高尾正徳: 1915〜1990年。小学4年生のころから視力が低下。1933年大阪府立盲学校中等部入学。1937年関西学院専門部文学部社会科入学、40年同学院法文学部法学科政治学専攻入学、42年9月卒業(いずれも聴講生)。1947年4月、島根県議会議員に当選。1949年、島根県盲人協会会長、島根県連合青年団長、島根県身体障害者福祉協会会長。1972年、日本盲人会連合会第4代会長。1978年藍綬褒章、1989年勲三等瑞宝章受賞]
 1959年、デンマーク、「精神遅滞者ケア法」(1959年法と呼ばれる)制定(バンク・ミケルセンの唱えたノーマライゼーションの理念が基調になったもの)
 1959年、スウェーデン盲聾者協会(FSDB)発足(初代会長:スティッグ・オルソン)

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