盲人文化史年表

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◆1980年代

◆1980年代
 1980年、WHOが、「国際障害分類」(ICIDH: International Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps)を発表
 1980年4月、障害当事者、施設関係者、専門職、研究者等の100を超える団体により、「国際障害者年日本推進協議会」が設立される。1993年4月、「日本障害者協議会(JD)」に改称
 1980年5月、神奈川県視覚障害者生活技術研究協議会発足
 1980年、大阪市立盲学校生が、ロックバンド「シャンテ」結成(リーダーはボーカリスト熊野伸一(全盲)。1993年から聴覚障害者にも音楽を楽しんでもらうために日本初の手話ボーカルを取り入れる)た。年間ステージ数が270に及んだ年もあったが、有名になることと反比例して、熊野さんは追い詰められていった。
 1980年、松本油脂製薬株式会社とミノルタ株式会社が“立体コピーシステム”を共同開発
 1980年11月、日本視覚障害理科教育研究会(JASEB)発足 (翌年から毎年夏に大会を開き、年 1回機関誌「JASEB NEWS LETTER」を発行。視覚障害児に適した実験や観察の方法に関する事例研究等)
 1980年11月、厚生省国際障害者年推進本部が、12月9日を「障害者の日」と定める(1975年12月9日の国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されたことを記念したもの)
 1980年12月、身体障害者雇用促進法の一部改正(身体障害者雇用納付金制度に基づく助成金の拡充)
 1980年、本間一夫『指と耳で読む』(岩波書店)
 1980年、西村陽平(1947〜。1976〜1998年千葉県立千葉盲学校教諭)が、このころから盲児に粘土による造形を指導し始める (1998年千葉盲学校退職後も、触覚を生かした創造的な造形表現のワークショップを国内だけでなく、ネパールのアートセンターやアメリカの大学で行う。現在日本女子大学児童学科教授。著書に『見たことないものつくろう』偕成社、『掌の中の宇宙』共著・偕成社、『手で見るかたち』白水社)
 1980年、地図作家の野村光迢(弱視)の監修で、「弱視者用地図製作研究会」が弱視者用の4色刷りの日本地図帳を製作 (これまでに約20種の地図を製作。2007年には平成の大合併に対応した47都道府県および日本全図の計48枚の白地図を製作)
 1980年、竜鉄也(本名:田村鉄之助。1936〜2010年)が、トリオレコードより「奥飛騨慕情」発売 (視力が衰え、中学2年のとき岐阜盲学校入学。26歳のとき完全失明。高山で治療院を開業していたが、音楽の勉強を始め演歌師として活動。1975年郡上八幡に移り演歌酒場を始める。第23回日本レコード大賞・ロングセラー賞など受賞。著書に『手さぐりの旅路』)
 1980年、粟津キヨと東京女子大学の同級生たちが「失明女子を考える会」を結成。キヨの『斎藤百合の生涯』執筆に協力などする。86年に同書刊行後、その印税を基に盲女子大学生に奨学金の給付活動を行う。(同会は2000年に解散)
 1980年、アルゼンチンの作家・詩人ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges: 1899〜1986)、セルバンテス賞受賞
  [本名:ホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス=アセベード。英語とスペイン語が常用される家庭環境で両言語を母国語として育つ。近視だったが、早くから豊富な父の蔵書に親しみ、また執筆もする。家族とともに1914年スイス、さらに19年にスペインに移住、21年帰郷。1937年、ブエノスアイレス市立図書館に就職。46年、ペロン軍事政権成立とともに、公務員を辞職。1955年、新政権により国立図書館館長に任命される。このころには、読み書きが困難なほど視力が低下する。翌年ブエノスアイレス大学英米文学教授に就任。主に母が、99歳で亡くなる少し前まで、代筆と秘書役をつとめる。1967年、エルサ・アステーテ=ミジャンと結婚(70年に離婚)。1986年4月、マリア・コダマと結婚。1979年と84年に来日。『伝奇集』『エル・アレフ(不死の人)』『永遠の歴史』『創造者』『他者と自身』『幽冥礼讃』『群虎黄金』『ブロディーの報告書』『砂の本』『ボルヘス講演集』など多数]
 1981年、国際障害者年
 1981年、障害者インターナショナル(DPI)結成
 1981年、ダスキン・ミスタードーナツが、「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学派遣事業」を開始。同年9月、この事業実施のため「財団法人広げよう愛の輪運動基金」発足 (1991年より「ダスキン障害者リーダー海外研修派遣事業」として継承されている)
 1981年、診療報酬点数表の改定で、マッサージ項目が削除される(これを機に、病院マッサージ士が急減)
 1981年、国立国会図書館が、「点字図書・録音図書全国総合目録」の刊行開始 (年2回。1986年からデータベース化。1995年からCD-ROM版も刊行)
 1981年、情報処理技術者認定試験の点字による誌験が始まる (翌年、長岡英司(1951年〜。立教大大学院理学研究科修士課程修了。国立職業リハビリテーションセンター指導員、筑波技術短大助教授などを経て、2005年から筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター教授)が初合格)
 1981年、桜井政太郎(1937〜2016年。緑内障のため 10歳ころ失明。1961年東京教育大学教育学部特設教員養成部卒業後、岩手県立盲学校理療科教諭)が、盛岡市の自宅に視覚障害者のための私設の「手で見る博物館」を開設。生物標本や化石、レプリカ、太陽系や建築物の模型等、現在3000点以上を展示し、無料で開放している。(2001年第38回点字毎日文化賞、2007年第41回吉川英治文化賞受賞) (2011年3月に閉館。2011年7月、盛岡市の別の場所に「桜井記念視覚障がい者のための手でみる博物館」として開館、館長:川又若菜)
 1981年、パリで、国際視覚障害スポーツ協会(IBSA: International Blind Sports Association)設立。1998年にスペインのマドリードで第1回世界選手権大会を、2003年カナダのケベックで第2回大会、2007年ブラジルのサンパウロで第3回大会、2011年トルコのアンタルヤで第4回大会を開催
 1981年1月、神奈川県が、公共機関にヘルスキーパーを採用
 1981年3月、厚生省が、全国の旅館、レストランに「盲導犬の出入                 りを認めるように」との通知を出す
 1981年5月、大阪で「全国視覚障害教師の会」(略称JVT)が結成される (同会は1987年『心が見えてくる』、2007年10月、同会が「教壇に立つ視覚障害者たち』刊行)
 1981年5月、「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」公布(つんぼ・おし・盲を改める)
 1981年8月、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」結成
 1981年10月、竹下義樹(1951〜。14歳のとき外傷性網膜剥離で失明。75年龍谷大学法学部卒)が、点字受験で初の司法試験合格 (1984年京都弁護士会に所属、京都法律事務所に入所。94年竹下法律事務所を開所。2012年、日本盲人会連合会長。2013年、日本盲人福祉委員会理事長)
 1981年10月、東京で第1回国際アビリンピックが開催される (1991年の第3回大会(香港)からは、「職業技能競技」に加え「生活余暇技能競技」が加わる)
 1982年、大阪府教委が、府立高校の入試に点字受験を認め、3月、府立大和川高校に1人合格
 1982年2月、クロロキン薬害訴訟で、東京地裁が国と製薬6社などの過失責任を認め、患者への賠償支払を命じる判決を下す
 1982年3月、国際障害者年推進本部が「障害者対策に関する長期計画」を定める (1993年3月に「障害者対策に関する新長期計画」策定)
 1982年4月、最高裁が、盲導犬が大法廷の傍聴席に入ることを認める
 1982年、東京ヘレン・ケラー協会が、「海外盲人援護事業事務局」を設立(事務局長:井口淳)。1985年から、ネパールの視覚障害児・者への援助を始める(点字出版所開設と技術指導、CBR事業、ネパールスタディツアーなど)。 (井口淳(1924〜2009年。毎日新聞『エコノミスト」在職中角膜実質炎がもとで30代後半に失明。点字毎日を経て東京ヘレン・ケラー協会に出向)は1994年に外務大臣賞と第6回毎日国際交流賞、96年にネパール王章受賞)
 1982年、関西で触る絵本を製作しているグループが「さわる絵本連絡協議会・大阪」を結成 (2004年現在21グループ)
 1982年12月、第37回国連総会で、「障害者に関する世界行動計画」及び「障害者に関する世界行動計画の実施」採択、「国連障害者の十年」(1983年〜1992年)の宣言
 1982年、心身障害者家庭奉仕員(ホームヘルパー)派遣制度発足。1988年6月、家庭奉仕員派遣制度の中に「ガイドヘルパーを含む」こととされ、ガイドヘルパー派遣制度は国の補助事業として各自治体の事業となる。
 1982年、カリフォルニア州リッチモンドで、フローレンス・ルーディンス・カッツとエリアス・カッツ夫妻により、アメリカ障害者芸術協会(NIAD: National Institute Art and Disabilities)発足
 1982年、ソ連の盲聾の心理学者・教育者であるオリガ・イワーノヴな・スコロホードワ、没
  [O.И Скороходова:1911〜1982年。8歳の時髄膜炎に罹り、視覚と聴覚を失う(右耳の聴力はわずかに残った)。1922年オデッサ盲学校に入学(右耳の聴力もなくなる)。25年ハリコフ・クリニック学校に入学(ここでイワン・アファナシェヴィチ・サカリャンスキー(1889〜1960)先生と出会う。初めは指文字を、その後点字も使うようになる)。20歳過ぎから詩作を始め、ゴーリキーとの文通も始まる。1944年、欠陥学研究所の研究員となり、モスクワに移る。1961年、教育学修士の学位を得る。63年、ザゴールスク子供の家を開設。著書に、『私はどのようにして周囲の世界を知覚するか』(1947年)、『私はどのようにして周囲の世界を知覚し、表象するか』(1954年)、『私はどのようにして周囲の世界を知覚し、表象し、理解するか』(1972年)などがある]
 1983〜92年、「国連障害者の10年」
 1983年1月、東京ヘレン・ケラー協会が、月刊誌「点字サイエンス」創刊(1999年9月号で休刊)
 1983年3月、運輸省が、「公共交通ターミナルにおける身体障害者用施設整備ガイドライン」を策定
 1983年4月、労働省が、障害者雇用対策室を設置し、全盲の職員を採用
 1983年4月、大阪YWCA千里センターでの点訳講座修了生が中心になって、「点字子ども図書室」を設け、点訳した児童書の全国向け貸出しを開始 (蔵書数は2010年現在約2500タイトル)
 1983年8月、日本児童教育振興財団が、手で見る絵本「テルミ」の製作・発行を開始
 1983年12月、斉藤正夫(1948〜。先天性の弱視だったが、11歳ころ全盲になる。石川県立盲学校卒業後マッサージ師として働く)が、NEC PC-6001の画面の音声読み上げを、モールス符号方式で実現 (翌年NEC PC-8800シリーズ用画面読み上げソフト、1986年NEC PC-9800シリーズBASIC用画面読み上げソフトVDM98、1989年NEC PC-9800シリーズMS-DOS用画面読み上げソフトVDM100を開発。1991年第28回点字毎日文化賞、1996年情報処理学会よりベストオーサー賞、同年第14回鳥居賞)
 1983年、村越化石が、第17回蛇笏賞受賞
  [村越化石: 1922〜2014年。1938年、ハンセン病発病のため旧制中学を中退。1941年、群馬県草津の栗生楽泉園に入園。1949年、大野林火句集「冬雁」に感動、「濱」に入会、51年第5回「濱」賞を受賞。1958年、第4回角川俳句賞を受賞。62年、処女句集「独眼」を発刊。70年、完全失明。74年、第2句集「山国抄」を出し、翌年第14回俳人協会賞受賞。1979年、俳人協会刊「自註句集・村越化石集」を編集。82年、第3句集「端座」を発刊し、翌年第17回蛇笏賞を受賞。88年、第4句集「筒鳥」を刊行。89年、第4回詩歌文学館賞、90年、第27回点字毎日文化賞受賞、91年、紫綬褒章を受賞。]
 1984年1月、高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」を、NEC・PC−8801対応で発売
 1984年、この年から、共通一次試験で、点字による出題のほか、拡大文字による出題も行われるようになる
 1984年4月、村山亜土・治江夫妻が東京渋谷に「手で見るギャラリー・TOM」を開設
 1984年4月、日本盲人職能開発センターが、エポックライターおんくん(六点漢字直接フルキーボード入力方式)を完成
 1984年6月、「視覚障害者食生活改善協会」設立(録音・点字・大活字やテレホンサービスによる食情報の提供などを行なっている。85年4月より毎月、「声の食生活情報」をカセットテープ版で提供、現在はデイジー版CDのほかインターネットでも直接聞くことができる。1996年6月、農林水産省の認可を受け財団法人化。2000年6月、他の障害者や高齢者にも対象を拡げて、「すこやか食生活協会」に改称)
 1984年7月、「日本盲人マラソン協会」発足
 1984年9月、国家公務員採用試験に拡大読書器の持ち込みが認められる
 1984年9月、全日本視覚障害者協議会を事務局として、「手をつなごう 全ての視覚障害者全国集会」開催(以後毎年行われている)
 1984年11月、日本銀行が、盲人用識別マーク付紙幣の発行を開始
 1984年12月、民謡歌手・函青くにこ(1901〜1984年。青森県出身。本名は小野エツ)没。22歳ころ失明し、レコードで民謡をおぼえる。1926年「江差追分」のレコードをだす。31年「塩釜小原節」が大ヒット。その後、一座を結成し全国をめぐるが、声帯をいためて55年引退。
 1984年12月、箏曲家・作曲家の山川園松没 (1909〜1984年、本名は淳義。東京盲学校に入学し、山田流箏曲を初代萩岡松韻、千布豊勢に、作曲法を田辺尚雄に学ぶ。1930年卒業後、春和会を主宰。宮城賞、芸術祭奨励賞を受賞。1981年第18回点字毎日文化賞。作品に「即興幻想曲」「木管楽器と邦楽器の為の組曲―埋れた世界」など)
 1984年、東京大学の坂村健教授が、 TRON プロジェクトを提唱 (TRON: The Real-time Operating system Nucleus)
 1984年11月、サウジアラビアで、世界盲人連合(WBU: World Blind Union)結成大会 (盲人自身の(of)団体であるIFBと、盲人のための(for)援護機関であるWCWBが統合)
 1984年、スティービー・ワンダー(Stevie Wonder: 1950〜。アフリカ系アメリカ人の盲目のピョピュラー歌手・ピアノ奏者・歌曲作家。未熟児網膜症で失明)が、「心の愛」でアカデミー主題歌賞受賞
 1985年4月、名古屋簡易裁判所が、1982年1月に交通事故のさい主人を守ろうとして左前足を失った盲導犬サーブの件について、83年4月13日の衆議院交通安全対策特別委員会で示された「盲導犬は盲人の身体の一部」であり自動車損害賠償保険法にもとづく保険の賠償の対象になるという政府見解に基づき、調停を出す。
 1985年、歌人・山崎方代(1914〜1985年)没。1940年出征し、南方で傷夷軍人となる(右眼0、左眼0.01)。1955年第一歌集「方代」、死後「山崎方代全歌集」
 1985年、点友会(1962年から京都を中心に活動しているボランティアグループ)が、サーモフォームにより、世界地図や日本地図を製作・頒布、数年ごとに改訂している
 1985年、寺西勇二(1932〜、名古屋市生まれ。強度の弱視。テストケースとして無試験で南山大学に進学。1957〜58年、フルブライト留学生として、パーキンス盲学校のボストン大特殊教育教員養成機関に留学)が、天白ブレイルニュースを組織し、月刊の英語点字誌「The Japan Braille News」を創刊。最盛期には、国内120部、海外(50カ国)330部を無償配布。2004年6月号で廃刊。
 1985年、全国から上京した視覚障害者の東京都内および近郊での歩行介助を行うことを目的に、「アカンパニーグループ」発足(代表 和波その子。2011年9月 閉会)
 1985年、真川精太編著『日本の盲人伝説とものがたり』が、視覚障害者文化振興協会より出版される (真川氏は中途失明の教師で、1961年、盲児の作文集『虹の橋』、1963年、盲児・親・教師の手記『この声に』、また1966年には、大阪で盲精白児を守る会を結成)
 1985年8月、建設省が、「視覚障害者誘導用ブロック設置指針について」を通達(道路における視覚障害者誘導用ブロックの形状設置方法について定めた)
 1985年8月、東京と大阪で、第1回日米障害者協議会開催
 1985年12月、東京で、第1回全国盲人写真展開催(立体コピーとともに展示。その後毎年開催)
 1985年、ベンクト・リンドクフィスト(Bengt Lindqvist: スウェーデン。10代で失明)が、パルメ政権の社会問題担当省に就任(〜1991年)
 1986年3月、日本視覚障害者柔道連盟設立 (この年より毎年11月、全日本視覚障害者柔道大会を講道館で開催している)
 1986年3月、DPI日本会議発足
 1986年4月、国民年金法の改正(障害基礎年金制度の創設)
 1986年4月、東京、神奈川、埼玉、大阪で4人が地域の普通小学校へ入学。また中学では、統合教育を受けていた10人の内8人が地域の普通中学校へ入学。さらに、東京と神奈川で各2人、大阪で1人の計5人が普通高校へ進学。
 1986年5月、粟津キヨ著『光に向って咲け−斎藤百合の生涯』(岩波書店)
 1986年9月、大阪を中心に、「地域の学校で学ぶ視覚障害児(者)の点字教科書等の保障を求める会」結成
 1986年10月、視覚障害者・聴覚障害者対象の3年制の「筑波技術短期大学」が開学 (2005年10月、4年制の「筑波技術大学」となる。2010年、大学院新設)
 1986年11月、日本盲人会連合が、「按摩・マッサージ・指圧の保険事業導入を要望する請願」を衆参両院に行う。
 1986年、アメリカ、リハビリテーション法改正(第508条「電子情報技術」が追加。ただし、罰則規定はない)
 1986年、アメリカ、レイ・チャールズ(Ray Charles: 1932〜2004年)が、アメリカの「ロックの殿堂」入り (ジョージア州アルバニーの貧しい黒人家庭に生まれる。7歳ころ緑内障で失明。フロリダ州のセント・オーガスティン盲学校で点字楽譜、ピアノやクラリネットを学ぶ。49年の「コンフェッション・ブルース」でデビュー。教会音楽のゴスペルと黒人のルーツ音楽のブルースを土台にした独自な歌唱法を発展させ、「ソウル・ミュージック」のスタイルを確立。グラミー賞を12回受賞)
 1986年、アメリカ、ブルースのハーモニカ奏者ソニー・テリー(Sonny Terry: 1911〜1986年)没 (16歳で怪我のため失明するが、父親から習っていたハーモニカでブルースミュージシャンとしての道を歩む。ハーモニカの様々な可能性をひろげ、長年ギタリストのブラウニー・マギー(Brownie McGhee)とコンビで活動)
 1986年、スウェーデン、統合教育の進展に伴い、国立トムテボーダ盲学校(視覚障害のみを対象)閉校 (2001年には、重複障害対象の国立イエケスコーラン盲学校も閉校。ともにリソースセンターとして、地域校に在籍する視覚障害児の教育支援を行う)
 1987年1月、大阪府が、庁舎内に「マッサージ施術所」を開所 (この年、1月に京都の近鉄百貨店、7月に大阪の阪急百貨店と近鉄がマッサージ師を採用)
 1987年5月、社会福祉士及び介護福祉士法公布
 1987年、国立大学入試委員長から各国立大学長宛に、入学者選抜に際しての色覚障害者の取り扱いについて「緩和撤廃の方向にいく旨」の依頼文が出される (前年の調査では、色覚障害者の入学を制限しているのは、国立大学49%、私立大学7%だった。国立大学入試での色覚による制限が全廃されるのは1993年)
 1987年、大阪で、視覚障害者と共に野山を楽しむ会「HCかざぐるま」発足
 1987年6月、身体障害者雇用促進法が改定され、「障害者雇用の促進等に関する法律」と改称 (精神障害者にも対象範囲を拡大、法定雇用率に知的障害者を含む)
 1987年7月、高橋實が、盲学生のための点字図書の提供や卒業後の職域確保などを目的に、「盲学生情報センター」を開設。1994年「視覚障害支援総合センター」えと発展、96年社会福祉法人化。
  [高橋實: 1931〜。北海道雨竜郡妹背牛町の農家に生まれる。4歳で緑内障のため失明。地域の小学校に1年通うが、その後は旭川盲学校。盲学校の三療教育一辺倒に反発して一時不登校になるが、1950年に理解のあった岩手県立盲学校に移り、54年同校の高等部普通科を卒業し、日本大学進学、58年卒業。1960年に毎日新聞社に入社、点字毎日編集部で活躍するほか、「視覚障害者雇用促進連絡会」を組織するなどして、司法試験、公務員試験、教員採用試験などの門戸開放に貢献。1998年第32回吉川英治文化賞、2001年第19回鳥居篤治郎賞]
 1987年、毎日新聞大阪社会事業団主催、点字毎日と日本ライトハウス盲人情報センターの共催で、第1回専門点訳講習会が開催される(以後毎年開催。1991年からは音訳講習会も開催される)
 1988年4月、JBS日本福祉放送が、視覚障害者向け専門放送を開始
 1988年5月、岡山県の長島と本土との間に、邑久長島大橋が開通(国立療養所邑久光明園と長島愛生園が置かれ、1930年代以降長くハンセン病隔離の島とされてきた長島と、対岸の虫明の間の30メートルの水路を結ぶ)
 1988年、NIFTY-Serveが、「障害者フォーラム」を開設
 1988年6月、「重度障害者特別雇用管理助成金制度」開始(職場での視覚障害者等の介助者の人件費の4分の3を3年間を限度に助成。1992年からは助成期間が10年に延長)
 1988年9月、第16回リハビリテーション世界会議が東京で開催される。これを機に、「盲人と造形芸術」をテーマに、五つのイベントが同時に開催される(京王プラザホテルで国立ポンピドー芸術文化センター「子どものアトリエ」・手で見るギャラリーTOM共同企画の「瞑想のための球体」、有楽町朝日ホールで国際シンポジウム「美と触覚」、有楽町アート・フォーラムで「手で見る美術展」、目黒区美術館区民ギャラリーで「アメリカ盲人芸術家の造形展」、手で見るギャラリーTOMで「'88ぼくたちの作ったもの展」)。また関西でも、日本ライトハウスで海外の専門家も迎えて「美と触覚」をテーマに'88盲人福祉展が、尼崎市つかしんホールで「手で見る美術展」が開催される。
 1988年11月、日本IBMが、点訳データのネットワーク「IBMてんやく広場」の事業開始 (1993年「てんやく広場」と改名。1998年7月に全国視覚障害者情報提供施設協議会に移管されて「ないーぶネット」へ発展。2001年インターネット化。2006年末現在、視覚障害利用者約4700人、点訳データタイトル数約82,400)
 1988年、「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」の一部改正 (3科とも高卒3年、国家試験・厚生大臣免許となる。施行は1990年度)
 1988年、オーストラリア、「アクセスと活動・設計に関するオーストラリア基準」を作成
 1989年、「盲学校、聾学校及び養護学校幼稚部教育要領」告示(施行は1990年度から。2000年改訂)
 1989年2月、望月優(1958〜、全盲。静岡県立静岡盲学校、東京教育大学附属盲学校高等部を経て、77年麗澤大学ドイツ語学科入学、82年麗澤高等学校非常勤講師(英語)。視覚障害者の読書権運動にも注力し、82年より視覚障害者読書権保障協議会代表になる)が、視覚障害者向けの機器・ソフトの開発・販売を行う「株式会社アメディア」設立 (2013年12月、中国・北京に支社設立)
 1989年4月、「東京光の家」で生活する9人の盲重複障害者が「正秋(まさあき)バンド」を結成。(1997年にCD「正秋バンド」発売。99年9月にはスウェーデンで公演。2013年2月、ハワイで公演。2014年「光バンド」と改名、メンバーが11人に))
 1989年4月、名古屋市美術館が、「触れる喜び−−手で見る彫刻展」を開催。以後隔年で、主に視覚障害者の便宜を考慮した展覧会を実施
 1989年7月、参議院選挙で、堀利和(1950〜。全盲)が社会党より当選 (1998年7月の参院選で、民主党より2回目の当選。2001年10月には参議院環境委員長に就任。2004年引退)
 1989年7月、横浜で、指で見る地図国際シンボジウムが開催される
 1989年6月、ワシントンで、「ベリー・スペシャル・アーツ」(障害者芸術祭、とっておきの芸術祭)世界大会開催(「ベリー・スペシャル・アーツ」は、1974年に故ケネディ大統領の末娘ジーン・ケネディ・スミスによって設立された、障害を持つ人々の芸術活動を支援する世界的団体)
 1989年9月、「公共図書館で働く視覚障害職員の会(なごや会)」発足(代表:田中章治)
 1989年、「日本福祉文化学会」設立
 1989年、エムナマエ(本名:生江雅則。1948〜)が、児童文芸新人賞受賞 (1970年慶応義塾大学在学中よりイラストレーターとしてデビュー。重傷の糖尿病のため86年失明、同時に人工透析導入、作家に転身。90年イラストレーターとして復活、各都市で個展開催。92年サンリオ美術賞、98年ニューヨークで個展)
 1989年、兵庫県立近代美術館(現兵庫県立美術館)がこの年以降毎年「美術の中のかたち」展を開催
 1989年、縄文笛毅(1967〜。本名・柴田毅)が、自作の土笛に「縄文笛」と名付けて演奏活動を始める(先天性の弱視で、幼少のころから笛に親しみ、昭和音楽大学でフルートを専攻。在学中の1988年、インドを旅行中重い病気になり視力もかなり失う。92年より、戸村正己製作・復元による「縄文の土笛」の演奏を始める。これまでに各地の遺跡や博物館・能楽堂などで演奏している。縄文笛のほか、路上でのふるーと演奏や老人ホームでの出前ふるーと演奏などもしている)
 1989年、韓国、「障害者福祉法」
 1989年、国際盲導犬学校連盟が4月の最終水曜日を「国際盲導犬の日」と定める
 1989年、ドイツのアンドレアス・ハイネッケ(Andreas Heinecke。全盲)が、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(日常生活のさまざまな環境を織り込んだまっくらな空間を、聴覚や触覚など視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の展覧会。視覚障害者がガイドする)を提案。同年10月デュッセルドルフで第1回開催。以後、2004年までにヨーロッパ中心に17カ国約100都市で開催。ドイツでは、2000年からハンブルクで常設開催され、約40人の視覚障害者の常用雇用を実現。日本では1999年11月東京で開催され、その後毎年開かれている。2002年11月には、継続的開催を目指してNPO法人「ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン」発足(代表:金井真介。2009年3月に東京・外苑前に常設、2013年4月に大阪・梅北のナレッジキャピタルに常設、2017年8月東京・外苑前の常設は閉鎖)
 1989年、イギリス、アリソン・オールドランドにより The Living Paintings Trust 発足 (絵本や絵画や図を、触図と聴覚資料のセットにして、視覚障害児・者やその関係者に無料で貸出す)
 1989年、障害別の国際的競技団体と世界各国の障害別競技団体の代表により、「国際パラリンピック委員会」(IPC)結成
 1989年、ジュネーブで開催された鍼用語標準化国際会議で、WHOが、361の経穴の名称について国際的に統一

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