【参考資料T】 ルイ・ブライユ

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●はじめに
 今年2009年は、点字の考案者であるルイ・ブライユの生誕200年ということで、誕生の地フランスばかりでなく、日本をふくめ世界各地で記念行事が行われているようです。また、今年は日本の点字の考案者である石川倉次の生誕150年の年でもあります。これを機会に、点字にたいする認識が一般の人たちにもさらに広がり、また、見えない人たちの間でももっともっと点字が使われるようになることを願っています。
 私は、2000年6月にルイ・ブライユについて簡単に紹介する文章を書いています。今回その文章に一部加筆し、さらに詳しい年表を追加しました。
 
 
◆ルイ・ブライユの簡単な紹介
 現在盲人の文字として世界中で広く使われている点字の考案者は、フランスのルイ・ブライユです。
 点字は英語で braille と言いますが、これは彼の名前 Louis Braille から取ったものです。
 
 彼は 1809年1月4日、パリから40キロほど東のクーブレという村に生れました。3歳の時、馬具職人だった父親の仕事場で遊んでいた時に、革に穴を空けるのに使う突き錐が滑って彼の目に突きささり、その事故が元で失明しました。
 村の教会のパリュイ神父の尽力により、また学校長ベシュレの理解もあって、彼は村の学校に目の見える友達と一緒に2年間通います。その後、ルイの能力に感心したある侯爵の援助を得て、 10歳の時、世界発の盲学校として知られるパリ国立盲学校に入ることができました。(当時の大多数の盲人は、教育を受けられず、路上で楽器を演奏するなどして物乞いするのが普通でしたから、ルイはとても恵まれていたと言えます。)
 
 当時パリ盲学校では、この学校の創設者バランタン・アユイが考案した、アルファベットの形を浮き出させた線文字が使われていました。しかしこの浮き出し文字では、文の意味を理解できる程度にすらすらと読むことはほとんど困難でしたし、盲人が自分で書くことはまったくできませんでした。
 1821年、砲兵大佐シャルル・バルビエがパリ盲学校にやってきて、彼の案出したソノグラフィーを公開しました。ソノグラフィーというのは、夜の暗闇の中でも兵士間で情報伝達ができるように考えられた「夜間書法」と言う一種の暗号を盲人のために改良したもので、文字そのものを表すのではなく、フランス語の音を 12の点と線の組み合わせで表すものでした。このソノグラフィーには、ルイをはじめ多くの見えない生徒が興味を示しました。ルイは、指先で触読しやすいように点の数を12点から6点(縦3×横2)に減らし、かつ正確な知識が得られるように、音ではなく、アルファベットや数字や記号類など文字そのものを表すように工夫をかさね、1824年末、盲人が読み書きの両方をスムーズにできるような6点による点字を考案しました。
 
 1826年、 17歳でルイ・ブライユは同校の教師の仕事をするようになり、 1829年には、『点を使ってことば、楽ふ、かんたんな歌を書く方法―盲人のためにつくられた盲人が使う本』という、盲人のための新しい文字・点字を紹介する本を出版しました。こうして、点字は仲間の生徒たちには歓迎され、内々に使われていたようですが、盲学校ではその後もアユイの浮き出し文字による教育が続けられていました。アユイの浮出し文字という伝統的な方法への執着とともに、盲人のための特別な文字を認めることは、見える人と見えない人との間にかえって障壁を作ることになるという、見える教師等の先入観による抵抗が強かったからのようです。パリ盲学校で点字の使用が正式に認められたのは、その考案から 20年後の 1844年でした。
 このように、生まれたばかりの点字にとってきびしい時代が続くなか、ブライユは点字の研究を続けるとともに、日本ではこれまであまり知られていませんが、見える人と見えない人が直接文字を使って意思疎通できるように、ラフィグラフという方法を考え出します。これは、縦10×横10の点のパターンで普通のアルファベットの形を表すようにした一種の点線文字で、さらにブライユは、同じく盲人のフーコーと協力して、このラフィグラフを書くための器具も開発しています。ブライユが、盲人にとって文字が以下に大切であるか、そして見えない人と見える人とのコミュニケーションの大切さも充分に認識していたことがうかがえます。
 
 ブライユは、20代半ばから肺結核に罹っていて、一時期クーブレ村に帰って療養したり、担当の授業時間を減らしてもらったりして仕事を続けますが、 1852年1月6日に盲学校の寄宿舎で亡くなりました。その2年後の 1854年、フランス政府はようやくブライユ点字を盲人の文字として公式に認めました。
 
 その後、ブライユの考案した点字は、 1870年代から次第に世界各国に広まり、各国の言語を表すように翻案され、また楽譜や理数記号など、色々な専門分野の必要にも応えられるよう工夫がかさねられました。
 そして、ブライユの死後百年にあたる 1952年6月、ブライユの遺体は古里クーブレ村からパリに移され、多くの国民的英雄(たとえばビストール・ユゴーやエミール・ゾラなど)を祭るパンテオンに葬られました。
 
 点字の歴史をごく簡単に振り返ってみましたが、私がとくに強調したいのは次の2点です。第一は、点字がもっぱら見えない人自身の読み書きに便利なように考案され、その結果、盲人が点字を読み書きする速度は、一般の人が普通の文字を読み書きする速度と比べてほとんど遜色なくなったということです。第2は、点字は、 6点を組み合わせたたった 63通りの形を基本にしながらも、例えば前置符号などの工夫により、多くの言語、多種の記号体系に適用され、盲人のあらゆる情報の正確なやりとりを可能にしているということです。
 
 
◆ルイ・ブライユ関連年表
 以下の年表は、主に『ブライユ―目の見えない人が読み書きできる“点字”を発明したフランス人』(ビバリー・バーチ著、乾侑美子訳、偕成社、1992年)の巻末にある年表を基に作成したものです。
 
1771年
 9月 ヴァランタン・アユイ(Valentin Hauy: 1745〜1822年)、サントヴィッド(St. Ovid)の祭りで、盲人の楽師たちが見物人の嘲笑の的にされているのを見、盲人教育を志す。
1784年
 アユイ、盲学校をパリに設立。
1786年
 12月、盲学校の子どもたちが、ヴェルサイユ宮殿で、さわって読むやり方を実演。ルイ十六世は、盲学校に補助金を与え、援助することにした。
1789年
 フランス革命始まる。
1791年
 アユイの設立した盲学校が王立盲学校となる。
1800年
 ナポレオンの命令で、盲児はカーンズヴァン病院(1260年ころルイ9世によって創設された盲人収容施設。現在は眼科の専門病院になっている)に入れられ、第2級盲人(成人を第1級とし、若年者を第2級とした)として教育される。アユイは校長になったが、1802年に追放される。
1806年
 アユイ、パリの混乱を逃れて、生徒の一人レミ・フルニエとプロシアに行き、そこで学校を始める。
1807年
 ナポレオン軍が攻めてきたため、アユイとフルニエはロシアに行き、ここにも盲児のための学校を作る。
1809年
 1月4日 ルイ・ブライユ(Louis Braille)、パリの北東約40キロにあるクーブレ村(当時の人口は約600人)に生まれる (父 Simon-Rene、母 Monique。当時の村では珍しく、両親ともに読み書きができた。)
1812年(3歳)
 ルイ、馬具職人の父の仕事場でナイフ(あるいは錐ともいわれる)で目を突き片目を失明する。もう一方の目も感染症のため次第に視力が低下し、5歳には失明する。
1814年(5歳)
 ナポレオンの帝国が倒れ、ロシアの軍隊がクーブレ村を占領する。以後1816年まで、ロシアやプロシアなどの兵がクーブレ村に留まり、ブライユ家もふくめ彼らに住居や食料を提供した。
 バルビエ大佐(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767〜1841年)、夜、暗いところで通信文を書く方法(Ecriture nocturne: 夜の書法)を工夫しはじめる。
1815年(6歳)
 ジャック・パリュイ(Jacques Palluy)、クーブレ村の神父になり、ルイを教え始める。
 このころ、父がルイのために、アルファベットを触って分かるように、木片に鋲を文字の形に並べて打って、アルファベットの文字板を作る。
 王立盲学校、サンヴィクトール通りに再開される。(校長はギリエ(Sebastian Guillie)
1816年(7歳)
 アントワン・ベシュレ(Antoine Becheret)、クーブレの学校にルイを生徒として受け入れる。
1817年(8歳)
 アユイ、帰国する(ギリエ校長により、盲学校からは拒絶される)
1819年(10歳)
 2月15日 ルイ、アユイの創立した王立盲学校に入るため、パリに出発(校長はギリエ。当時の生徒数は約60人)。
 ルイ、ピアノを習い、才能を示す。
 6月、バルビエ、フランス学士院に書簡を送り、12点点字およびそれを記す道具につき批評を請う
1820年(11歳)
 年末、バルビエ、パリの盲学校を訪問し、ギリエ校長に12点点字(「ソノグラフィー」と命名)の採用を薦めるが、断られる。
1821年(12歳)
 アンドレ・ピニエ(Andre Pignier: 1785〜1874年)、新しい校長になる。
 8月21日、アユイを盲学校に招き、慰労演奏会を行う。この時、ルイはアユイに会う。
 バルビエ、盲学校を訪れピニエ校長にソノグラフィーを導入するよう要請、ピニエは生徒たちに試してみることを約束。点と線から成るソノグラフィーは(浮出し文字に比べて分かりやすくまた自分で書くこともできるので)生徒たちに歓迎される。
1822年(13歳)
 ルイ、バルビエに面会し、12点点字につき、@音ではなく文字を書けるようにすること、A句読点や数字・楽譜も書けるようにすること、B12点では触読に不便なので指先におさまるように6点に減らすこと、を提案するが、拒絶される。ルイ、独力で6点点字の研究を始める。
1824年(15歳)
 10月ころ ルイ、2年半の工夫を重ねて、バルビエのソノグラフィーを改良し、アルファベット(アクセント記号のついたアルファベットもふくむ)と数字や句読点を6点で書き表すやり方を作り上げる(当時の6点点字には短い線もまだ残っていた)。間もなくこの方法は生徒たちの間にひろまり、またピニエ校長もその有効性を認め、バルビエの12点式用の定規をルイの方法に合うように直す。
1826年(17歳)
 ルイ、年少の生徒に、代数・文法・地理を教える。
1827年(18歳)
 ルイ、フランス語文法の本を6点点字で点訳する。
1828年(19歳)
 ルイ、点字の楽譜を考案する(このころまでに、短い線は使われなくなる)。
 ルイ、盲学校の助教員に採用され、文法、地理、算数、音楽を教える。
 医師たちの調査団が、盲学校の建物は子どもたちの健康に悪いと判定する。
1829年(20歳)
 ルイ、『点を使ってことば、楽譜、簡単な歌を書く方法――盲人のために作られた盲人が使う本』を出版。これによってブライユ点字が正式に誕生する。
1831年(22歳)
 5月31日 父、シモン=ルネ亡くなる(65歳)。
1833年(24歳)
 ルイ、正教員になる。(ピニエ校長は、このとき同時に、ルイの盲学校の友人でもあるガブリエル・ゴーティエ(Gabriel Gauthier)とイポリット・コルタ(Hippolyte Coltat)も正教員に採用。)
 ルイ、近所の教会のオルガン奏者になる。この役目を、ルイは一生つとめた。
1834年(25歳)
 学校の理事会、ルイの点字を生徒が使うことを禁止する。
 ルイ、パリのコンコルド広場で開かれた産業博覧会で、六つの点を使う点字を公開する。
1835年(26歳)
 ルイ、喀血し、肺結核の徴候を示す(校内で静養)。
1836年(27歳)
 盲学校の生徒だったイギリス人ヘイターの依頼で、 wをアルファベットの点字に加える。
1837年(28歳)
 盲学校の教師と生徒が、フランス史の本をルイの点字を使って初めて印刷する(全3巻)
1839年(29歳)
 5月14日 フランス国会で、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine: 1790〜1869年。詩人として有名で1829年にはアカデミーズ・フランセーズ会員に選ばれる。7月革命後政治活動を始め1833年国会議員)が、盲学校の建物の悪さを非難する。その結果、新しい建物をつくることが議決される。
1839年(30歳)
 ルイ、目の見える人と見えない人が直接意思を伝え合うことができるように、ラフィグラフ(raphigraph:縦10×横10の点(decapoint)のパターンで普通のアルファベットの形を表すようにした一種の点線文字)を考案。
1840年(31歳)
 副校長のアルマン・デュフォー(Armand Dufau: 1795〜1877年)と教師たち、ピニエ校長を引退させる。デュフォーが代わって校長になる(彼は、点字の使用に反対し、浮出し文字を奨励)。
 ジョーゼフ・ガデ(Joseph Guadet)、デュフォーのもとで副校長となる。
 7月11日 ルイ、ウィーンの盲学校長クラインに手紙を送り点字の採用を頼んだが、クラインは断る。
1841年(32歳)
 4月29日、バルビエ、亡くなる(74歳) (ルイは、1837年ころから数回バルビエの家を訪ねたが会えなかったので、手紙を書き「触読に適する6点の点字の体系ができたのも貴方の12点点字があったからです」と感謝の言葉を記した。バルビエは亡くなる少し前にルイに手紙を送り、「私が長年研究した成果を引継ぎ、触覚に適した点字の体系を発明したことをたいへんうれしく思っている」と評価した。)
 フランソワ・ピエール・フーコー(Francois-Pierre Foucault: カーンズヴァンの盲人でトランペッター)、ラフィグラフを紙に順次打ち出していく器具を発明する。
1843年(34歳)
 ルイの健康がおとろえ、4月から10月まで、クーブレ村で療養する。
 ルイの不在中、校長のデュフォーが、アユイの考案した浮出し文字の本70余冊すべてを処分し、別のタイプの大きめの浮出し文字を導入して生徒に使用させ、点字を禁止する。
 11月15日、現在の地(パリ56番通りアンヴァリッド)に新しい盲学校の建物が完成し、引っ越しも終わる。
1844年(35歳)
 2月22日 新しい盲学校の開校式が行われる。政府関係者もふくむ多くの来客の前で、生徒たちが、ブライユ点字のよさを納得させるような実演を見せ、公式にブライユ点字が認められる。(この実演は、生徒たちの点字の読み書きを観察して評価していた副校長のガデが、デュフォー校長を説得するために計画したもの。校長デュフォーはようやく点字の価値を認める。)
 学校の移転、落成式、授業の再開などにより、ルイは再び健康を害し、校内で静養。
1847年(38歳)
 フーコー、ルイと協力して、普通のアルファベットを打出す一種のタイプライターを完成。
1850年(41歳)
 ルイの結核が悪化し、音楽の授業を何回か出来るだけになる。
1851年(42歳)
 12月4日 ルイ、ひどい喀血をし、盲学校内の病院に入院。
1852年(43歳)
 1月6日 ルイ死去。クーブレ村に埋葬(土葬)される。
1854年
 フランスが、ブライユ点字を盲人の為の書き方として公式に認める。
1878年
 ブライユ点字が、盲人にとって最上の方法であることが、国際会議で認められ、ブライユ点字を世界に広めることになる。
1890年
 東京盲唖学校の石川倉次により、ブライユ点字を基とした50音を表記する日本点字が完成される。
1917年
 アメリカが、ブライユ点字を一般に使うことにする。
1929年
 18カ国がブライユ点字による楽譜の書き方を、国際的なものとして採用する。
1949年
 インドが、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)に、ブライユ点字を、あらゆる言葉に使えるように一般化してほしいと提案。今日では、百以上の言葉、何百という方言に、ブライユ点字が使えるようになっている。
1952年
 6月22日 ルイの遺体、クーブレ村から移され、パリのパンテオン---フランス国民にとって最も栄誉ある場所---に埋葬される(クーブレ村には左腕だけが残される)。
 
〔参考1: ルイの言葉〕
 「意思を伝え合おうとすることは、もっとも広い意味で、知識を求めることであり、これは私たちが、目の見える人から、より劣った人間として軽蔑されたり、導かれたりしないですむようになるために、非常に大切なことです。私たちは、哀れみはいらないし、弱い人間なのだと思い知らされる必要もありません。他のすべての人と対等に扱われなければならず、意思を伝え合うことによって、それが可能になります。」(1841年)
 
〔参考2: 点字の考案年〕
 1929年に、『点を使ってことば、楽譜、簡単な歌を書く方法――盲人のために作られた盲人が使う本』が1829年に発行されていることを基準にして、点字制定100年記念行事が行われた。しかしその後の研究で、ブライユはそれ以前に点字を考案し使っていたことが明らかとなり、1825年を考案の年として、1975年に点字制定150年国際会議が開催された。それ以来点字の考案年を1825年とするのが一般的のようだが、いくつかの本で確かめると、1824年末には6点点字の体系をほぼ考案していたとして良いように思われる。
 
(2000年6月5日、2009年3月2日、2010年1月20日更新)