ルイ・ブライユが発明した点字が公式にフランス政府に認められた1854年から、石川倉次が日本語用の点字を考案した1890年まで、40年近く経過しています。ごく一部の日本人のあいだでは、点字の存在、その有用性はかなり早い時期から知られていましたが、盲教育関係者に点字が知られるようになるのは、1880年代後半になってからです。さらに、ブライユの点字をそのままの形では日本語表記に適用できないため、日本点字翻案までには幾多の困難がありました。
ここでは、日本点字翻案に至るまでの石川倉次の事跡ばかりでなく、盲教育・特殊教育に関する事項も広く取り上げて、詳しい年譜を作ってみました。
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● 1859(安政6)年
1月26日、石川倉次、浜松に生れる。
● 1860(万延1)年
遣米使節団の正使新見豊前守正興付の給人柳川兼三郎(当清)が、その『柳川航海日記』のニューヨークの項で、「盲目には、紙に文字を高くすり出し、是を以て教ゆる也」と、盲人用の凸文字を紹介
● 1865(慶応1)年
4月25日、幕府は、軍事、教育、外交などの視察のため、外国奉行・柴田剛中らをイギリス・フランスに派遣することを決定。
9月20日、幕府派遣使節の中の教育使節団がパリ盲学校を訪問。1866年、岡田摂倉(?〜1876年。肥後藩士、第2代慶應義塾長、海事学者・教育者)がその報告書「航西小記」の中で、同校における教育課程および職業課程について詳しく記し、学科指導の基礎になっている文字として、ブライユ点字が日本に初めて紹介された。
● 1866(慶応2)年
福沢諭吉が「西洋事情」でヨーロッパの盲院・唖院・痴児院を紹介 (盲院の項では、凸文字や点で描かれた地図などを紹介)
●1869(明治2)年
村田文夫(1836〜1891年)が、『西洋聞見録』で欧米の盲唖教育を紹介(その中にイギリスの盲学校で使われている凸字書が紹介されている)
● 1871(明治4)年
9月、山尾庸三[1]が「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」を太政官に提出。
11月3日、 太政官布告によって、当道座等の盲人保護の慣行が廃止。
[1] 山尾庸三: 1837〜1917. 長州藩士の子として生れ、急進的な攘夷の行動にも加わる。文久3(1863)年、井上馨、伊藤博文ら5人で、国禁を冒してイギリスに渡り、工学・造船技術等を修得した。実習先のグラスゴーの造船所で、指話などを使って働いている聾者を実際に見るなどして、イギリスの盲聾唖教育にも感銘を受けた。
維新直後に帰国して、明治政府の工部省に入り、工学頭、工部卿となって、工業技術の導入や技術者の養成に努めた。一方、イギリスで実見した盲聾唖教育を踏まえて、列強に引けを取らないような盲聾唖教育を確立すべく、その推進に尽力した。
楽善会訓盲院の設立にもかかわり、さらにその後、この学校が経営困難に陥ると、楽善会会長として、文部省への移管に努め、明治18(1885)年官立東京盲唖学校として、日本の指導的な盲聾唖教育機関とした。
● 1872(明治5)年
8月3日、学制公布。この中に、他の諸学校と共に、「廃人学校アルヘシ」の規定がある(ただし、その内容については何も触れられていない。盲聾その他の心身障害児のための学校が念頭にあったと思われる。)
● 1875(明治8)年
3月18日、石川倉次、千葉師範学校教員検定試験受験・合格。4月より水沼小学校(現千葉県長生郡長南町西小学校)に赴任。
5月22日、イギリス(スコットランド)の長老教会の医療宣教師・ヘンリー・フォールズ(Henry Faules: 1843〜1930年。1874年3月に神戸着、5月から東京築地で医療活動を行う)宅に、フォールズ、古川正雄、中村正直、津田仙、岸田吟香、ボルシャルト(ドイツの宣教師)の6人(いずれもクリスチャン)が集まり、視覚障害教育の必要について協議し、訓盲施設・楽善会を組織。
6月19日、 古川正雄らが「訓盲所取立度建言書」を東京府知事に提出。
同日、楽善会は、教材資料として、アメリカ聖書会社にヨハネ伝第9章・盲人開眼の部の凸字書[2]を 250冊注文。
教部省達第29号により、盲僧派盲人はすべて天台宗管理となる。
この年、古河太四郎[3]が京都市上京第19番校(後の待賢小学校)にいん唖教場を開設。
[2] これは、日本語をそのままヘボン式のローマ字で記したもので、当時アメリカで主流の凸字だったボストンタイプ(Boston line letter. パーキンス盲学校の創立者S.ハウが考案したもの)が使われていた。
[3] 古河太四郎: 1845〜1907年。日本近代盲聾唖教育の創始者と言える人。
京都最大の寺子屋白景堂の四男。上京第19番校訓導在任中の1873(明治6)年ころ、学区内の聾唖児3人の教育を区長熊谷伝兵衛(1834〜1914年。本名は伝三)に強く依頼され、翌年聾唖児教育に取り組むようになる。77年秋には盲児の教育も始める。その独創的な教育法は、京都府知事槇村正直等にも注目され、盲唖院設置運動へと発展。
1878(明治11)年、知事槙村正直の理解もあって、5月24日京都盲唖院が開校(生徒数48名:盲児17名、聾児31名)され、院長に就任。(楽善会訓盲院が実際に授業を始めたのは 1880年なので、日本初の盲聾教育と言える。)翌年同院が府立に移管されると監事兼助教、82年から院長となる。
盲生には紙撚文字の利用など訓盲字・地図・算盤、唖生には手話・指文字・発音指導、また、体育教具などに種々くふうを凝らして指導した。東洋思想を背景とした古河の独自な教育実践は「京都府下大黒町待賢校いん唖生教授手順概略」(文部省教育雑誌第64号付録・1878)として発表されている。
89年京都府立盲唖院を辞職。1900年大阪盲唖院長に招かれ、現職で逝去。
● 1876(明治9)年
3月5日、熊谷実弥(長野県出身の盲人)が東京府から「盲人学校」の開業許可を受け、盲生約20人を集め読書・習字・算術を教授したが、1年あまりで廃業した。
3月15日、楽善会訓盲院の設立が東京府より認可。
4月、手島精一(1849〜1918. 工業教育の先駆者、長年、東京高等工業学校長をつとめる)は、文部大輔田中不二麿(1845〜1909年)に随行して、フィラデルフィアで開催中の合衆国独立百念を記念する万国博覧会を視察、そこで日本の教育資料と米国における盲唖教育の資料とを交換し、ブライユ点字の本、点字器、ムーンタイプの凸字書等を日本へ送る。帰国(1877年1月)後、手島は教育博物館(明治14年東京教育博物館と改称、国立科学博物館の前身)の館長となり、それらの品々を同博物館内に展示する。(なお、田中不二麿は1877年『米国百年期博覧会教育報告』を刊行している)
9月7日、石川倉次の母、 36歳で病死。
12月、伊藤庄平が『盲目児童凸文字習書』出版
12月27日、明治天皇から楽善会訓盲院設立基金三千円が御内帑金の中から御下賜。
● 1877(明治10)年
9月19日、石川倉次、水沼小学校を依願退職。 10〜12月、倉次は新聞記者になるため友人と共に上京したが、新聞記者にはなれなかった。
12月15日、遠山憲美(1849〜1913年。古河とともに翌年開業の盲唖院で教えるが、同年11月に辞職。さらに翌年大阪模範盲唖学校の設立に協力)が「盲唖訓學設立ヲ促ス建議意見書」を京都府知事に提出
● 1878(明治11)年
1月9日、古河太四郎は上京第19学区取締山田平兵衛と連名で「盲唖生募集御願」を京都府に提出 (1月12日府の学務課長吉田秀喜は遠山・古河の両人を呼び出して意見を聴き両案を比較検討、官費に頼らずすでに実績をあげている古河案を採用)
1月26日、石川倉次、千葉師範学校受験、成績優秀につき第3級に編入
5月24日、京都に「盲唖院」が設立され、開業式を挙行
9月下旬〜11月上旬、楽善会の大内青巒と高津柏樹[4]が京都盲唖院に出張、古河太四郎の盲・聾教育の実践を視察。(大内青巒は、古河の独創性には感心しながらも、それが普通の教育法とあまりにも懸け離れていることを批判している。)
[4] 大内青巒: 1845〜1918年。開明的な仏教思想家・運動家。ジャーナリズムによって文書伝道をし、また近代的慈善の啓蒙にも尽くした。楽善会には、明治9年に参加し、 13年10月〜16年12月まで初代訓盲院長を勤めた。
高津柏樹: 1836〜1925.黄檗宗の僧侶。楽善会には明治9年に参加、明治44年3月まで東京盲唖学校に関係、その後宇治万福寺黄檗宗管長に就任。
楽善会の最初期の会員には、フォールズ等、キリスト教徒ないしキリスト教に好意を持つ者が多かったが、明治9年3月の山尾庸三の入会を機に、大内や高津、さらに島地黙雷のような仏教関係者、および内務省や工部省関係の官吏が多くなり、キリスト教に対抗してナショナルな意識が強くなった(フォールズは脱会した)。これが後の官立へと繋がっていく要因の一つにもなっているように思われる。
● 1879(明治12)年
2月、在米留学生監督の任にあった目賀田種太郎(1853〜1926年。1870年アメリカ留学、74年ハーバード法律学校卒業、翌年留学生監督として再渡米、79年帰国。専修大学の創設者の一人、のち大蔵官僚等)が、パーキンス盲学院視察報告文を文部省発行の『教育雑誌』第89号に「監督雑報第13号盲院」として掲載、その教育内容を紹介。盲人用文字として凸字・ムーンタイプ・ブライユ式点字の3種を紹介するが、中でも、ブライユ式点字を図解入りで詳細に説明し、盲教育には点字が不可欠であることを力説した。
4月、京都盲唖院は、京都府に移管され、「京都府立盲唖院」と改称
6月27日、石川倉次、千葉師範学校師範科卒業
7月、石川倉次、千葉県南相馬郡鷲野谷小学校に赴任
9月29日、「学制」を廃止、「教育令」を制定(義務教育の規定を明確化)
11月、大阪府が模範盲唖学校を設立したが翌年廃止(有志が相図って12年間継続したが、経営難のため閉鎖)
12月、楽善会訓盲院、東京京橋区築地3丁目に新校舎落成。総工費約八千五百円
● 1880(明治13)年
2月13日、楽善会訓盲院、授業開始(盲児2名) (6月、唖者2人の教育を始める。翌年、盲生9人、唖生2人)
6月、京都府立盲唖院が、「工学場規則」を制定、盲唖院普通学科在学の13歳以上(貧しい家庭の生徒は10歳以上)および市中の30歳以下の盲聾者を募集して職業教育を開始 (当初盲生にはこより細工を教え、1881年からは按摩、琴・三弦・鼓弓・琵琶、籐細工・織物などが教えられた。鍼灸については、西洋医学を推奨し鍼灸も医師の指示によって行うべきとする明治政府の意向により1884年頃まで教授が見送られた。)
7月18日、明治天皇、京都府立盲唖院の生徒4名を小御所に召され、学業をご覧になる
9月、石川倉次、千葉県千葉郡浜田小学校赴任、校長兼取扱
内務省達第33号により、盲僧制度廃止。
● 1881(明治14)年
4月16日、石川倉次、久野さのと結婚
この年、楽善会訓盲院は、小学読本第一より第三巻まで及び千字文などの、普通文字を浮き出させた凸字書計6巻を製作(凸字書の制作は明治20年頃まで続けられ、その不便さは認識されつつも、普通文字による教育が続いた)
この年、京都府立盲唖院は教育課程を大改変し、盲と聾の教育課程を分けて編成
● 1882(明治15)年
石川倉次、東京のかな文字会[5]に参加
京都府立盲唖院で第1回卒業式(盲生は半井緑・谷口富次郎等4名、唖生は3名。開校時の入学者数と比べると激減しており、古河太四郎の様々な工夫にもかかわらず普通の生徒たちにはその学習成果が十分得られるほどではなかっただろうことが推察される。なお、半井・谷口両名はその後按鍼科を終え、1885年ともに按鍼科の引立方に任用されている。)
[5] 幕末期以降西欧諸国との交流が盛んになると、簡単なアルファベットで綴られる西欧語に比べて、日本語では、漢字・平仮名・片仮名とその文字の数も使い方も極めて煩雑で、これを簡単にすることが文明国にふさわしい国民教育の一つの課題とされた。それは、穏健な形では、漢字の制限、仮名遣いの改訂、言文一致運動などとして展開し、より過激な形では、漢字を廃して仮名あるいはローマ字だけを用いるという、仮名文字論(その先駆は前島密)やローマ字論(その先駆は西周)、さらには森有礼の“国語英語化論」まで登場した。このような時代背景の下、日本点字が当初から仮名文字論の実践ともいうべき表音式を採用しようとしたのは、小西信八や石川倉次のような仮名文字論者がその成立に深くかかわっていたためと思われる。
● 1884(明治17)年
1月27日、石川倉次、東京虎ノ門で開かれた那珂通世博士(1851〜1908年。千葉中学校長、東京女学校兼女子師範学校長。のち東洋史学者)主催のかな文字会会場で、小西信八と初めて会う
5月26日、楽善会訓盲院、「訓盲唖院」と改称
11月、京都府立盲唖院に按鍼術科が設けられる
この年、東京教育博物館長・手島精一が、ロンドンで開かれた教育博覧会に出席、盲教育者として有名なアーミテージ(T. R. Armitage, 1824-1890)に会う。帰国の際、盲唖教育に関する教材・器具、およびアーミテージノ『盲人の教育と職業(The Education and Employment of the Blind)』の第一版(1871)を持ち帰り、フィラデルフィアで入手した盲唖教育関係資料とともに、それらすべてを東京教育博物館内に展示。
● 1885(明治18)年
6月、石川倉次、浜田小学校退職、9月、茂原小学校へ4等訓導として赴任
10月、 楽善会会長山尾庸三ら、訓盲唖院直轄願を文部省に提出
11月21日、 楽善会訓盲唖院は、文部省直轄(官立)学校となる
12月4日、 文部省総務局に「訓盲唖院掛」を置く
この年、マッサージが我が国に紹介される
● 1886(明治19)年
1月、東京女子高等師範学校幼稚園主事・小西信八、官立楽善会訓盲唖院教諭となる
1月24日、石川倉次は、小西信八から楽善会訓盲唖院へ転勤するよう勧める手紙を受け取る。その後、2月5日、10日にも、小西信八より上京を促す書翰を受け取る。さらに2月12日には、上京後の待遇について詳細に記した書翰が届く。
3月6日、石川倉次は、小西信八の招聘により楽善会訓盲唖院雇いとなる
4月10日、「小学校令」公布(義務教育制度の確立とともに、このとき初めて就学義務の猶予について規定。猶予対象者は、疾病、家計困窮社、その他やむを得ざる事故による者)
11月、新潟県高田町の眼科医大森隆碩等の呼びかけで「訓盲談話会」発足。翌年11月30日発会式(高田盲学校の創立)。
● 1887(明治20)年
10月、楽善会訓盲唖院、官立東京盲唖学校と改称
10月、かねてより凸字を使った漢字仮名混り文による教育の困難さを痛感していた小西信八は、海外の資料を求めて、東京教育博物館を訪問、館長の手島精一に会い、ブライユ点字も詳しく紹介しているアーミテージの『盲人の教育と職業』および英国製の点字器を借りる。そして盲生の小林新吉(新潟県出身。糸の結び目の数と間隔によっていろはを表す結び文字を工夫。1889年7月東京盲唖学校鍼按科卒業)に点字によるローマ字綴り方を教えると、小林は1週間で読み書きできるようになった。この結果から小西はブライユの点字が優れていることを確信し、日本の仮名文字を表現する点字を希求することとなった。
12月1日、京都府立盲唖院は市へ移管され、京都市立盲唖院と改称
12月9日、石川倉次、東京盲唖学校助教諭および書記に任ぜられる
12月、小西信八が、かな文字論者として国語国字問題に造詣の深い石川倉次に、ブライユ点字を日本語を表す点字に翻案するよう依頼。
● 1888(明治21)年
2月、横浜の眼科医浅水進太郎(後に十明と改名)が、市内の盲人を集め、鍼治揉按医術講習学校の看板を掲げ、講義を始める(横浜市立盲学校の前身)
6月、石川倉次は、3点4方の8点点字(中央は空白)の最初の案を発表。これに対し、小西信八は、既に世界共通となっているブライユの6点点字で研究を進めるよう再考を促す。(日本語の音を表す仮名文字は、濁音や半濁音なども入れると 100近くにもなって、アルファベットよりもかなり多いので、倉次は6点の組み合わせでは無理だと判断していた。彼が本格的に6点点字の研究をするようになったのは、2年ほど後のことである。)
この年、小西信八の勧めで、鍼按科教師・奥村三策、鍼按科生徒・室井孫四郎、伊藤文吉らも、日本語点字の研究に着手
● 1889(明治22)年
6月、遠山邦太郎が、石川倉次の招聘により、浜田小学校から東京盲唖学校へ転勤
11月4日、石川倉次は、3点4方の8点点字の改良案を発表し、それを初めて生徒に試みる
12月、遠山邦太郎が、ブライユの点字配列表を日本語の五十音に応用して、最初の6点点字案を発表
● 1890(明治23)年
1月から8月にかけて、奥村三策、伊藤文吉、室井孫四郎、遠山邦太郎、石川倉次は、3点4方の8点点字、縦4点・横2点の8点点字、縦3点・横3点の9点点字、6点点字に依る、各種の日本語点字案を次々と発表。石川倉次は、引き続き3点4方の8点点字の研究を進めて、4月29日と5月25日にその案を発表、さらに5月からは縦4点・横2点の8点点字の研究も始て、7月20日と8月23日にその案を発表している。倉次が6点点字の研究に本格的に取り組むようになったのは7月からで、7月から9月にかけて8回も6点点字案を発表している。
4月1日、長野県松本尋常小学校に落第生学級設置
9月21日、石川倉次、「点字選定要旨」[6]を発表
9月22日、石川倉次、6点点字配列表を発表。五十音、濁音、半濁音、促音符、長音符、数字符号は現行と同じ。
9月27日、第1回点字選定会。遠山案、石川案、伊藤・室井共同案(ブライユの点字配列表を最大限生かしたもの)の3案が提出される。
10月4日、第2回点字選定会。濁音符・半濁音符は清音に前置すること(これは石川案と同じ)、数字は西洋と同じものを用いることを決定。さらに「先ず石川のを採用して初級の生徒に教へ試むることに決定」。
10月6日、「小学校令」改正(盲唖学校の設置廃止に関する事項等を定め、就学義務の免除を猶予とともに規定)
10月11日、小西信八、東京盲唖学校長に就任
10月18日、第3回点字選定会。語と語の間は1マス、文と文の間は2マス空けること、助詞の「は・へ」は発音通り「わ・え」を用いること、助詞の「を」はそのまま「を」を用いることを決定(簡単な分かち書きと表音式の仮名遣い)。
10月30日、「教育勅語」発布
10月、浅水進太郎(眼科医で、1887年9月から横浜で盲人に西洋医学を教えていた)が、我が国最初の盲人用西洋医学書著述「浅水解剖学」「淺水生理学」「淺水病理学」他全10冊を執筆し、西洋医学者の立場で解説した。また、これに合わせ独自の盲人用人体模型を創案製作し教授に利用した。
11月1日、第4回点字撰定会。石川倉次案を採択。(以後、この日は点字記念日とされる。)
12月23日、日本点字考案の功により、文部省から石川倉次に二十五円が給与された
12月27日、東京盲唖学校が、石川倉次案の点字を「日本訓盲字」として印刷、啓蒙・普及の目的で京都市立盲唖院等へ配布 (初期の点字表記は、墨字と同じように和語・漢語ともに歴史的仮名遣いで、例えば「今日」は「ケフ」、「東京」は「トウキヤウ」、「学校」は「ガクカウ」のようだった。)
[6] これは日本点字翻案の基本指針とも言うべきもので、その内容は次の通り。
第1 誤り無く速く読み得べし。なるべく類似の符を少なくすべし。
第2 速く書き得べし。点数少なき符を常用多き字に当つべし。
第3 記憶に便なるを要す。
第4 現行の仮名の数だけは点字を以て表し得るを要す。
第5 五十音に並べても詞を綴りても見悪からざるべし。
第6 数冠詞は最も知り易きを要す。
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【参考文献】
『わが国特殊教育の成立』(改訂新版)中野善達・加藤康昭共著、東峰書房、1991
『盲教育史研究序説』加藤康昭著、東峰書房、1972
『点字発達史』(復刊本)大河原欽吾著、点字発達史復刊委員会、 1987
『日本点字への道―少年少女のための石川倉次物語』山口芳夫、山口さゑ共著、自費出版、1986
『資料に見る点字表記法の変遷 慶応から平成まで』(日本点字委員会、2007)
【参考 URL】
特殊教育史: http://www4.ocn.ne.jp/~komoto/sub5.html
(2011年3月19日)