課題: 資料1(触知について: 見えない人たちの文章から)を読んでの感想 (2003年11月18日)
第1回目の課題につき、半数以上の方からメールをいただき、また第2回目の初めに皆さんに報告してもらいました。メールには私から返信し、また第2回目での報告にもコメントしました。それらをまとめて掲載します。
(※付きの文章は、私からの返信ないしコメント)
◆FN
●熊谷鉄太郎さんの文への感想
う〜〜む、と唸ってしまった。まず触ることだけで筋肉が弛緩した状態であることを感じることの出来る触感の鋭さに驚いた。次に「死人」であると判断した感受性の豊かさに脱帽した。
更に、冷たい金属を通して熱い炎を伝えることの出来るロダンの芸術力には感激した。
『殉教者』を本などで見たことはあるものの、そこまでの感動を得ることは出来なかったし、もし実物を見る機会があったとしても、私には見るだけでそこまで感じ取れるだろうかと自問してみた。
結論は、否。
弛緩しきった肉体を認識することは出来るとは思うが、私には見るだけで信仰の熱き炎までは感じ取れないだろうと思った。
●小原の花器について
昨日小原先生作の花器を触らせていただいて「触って分かること」と言う事を少し理解できたような気がした。手にスッポリと入り込む心地よさ。掌のカーブにぴたりと沿った形は、見ているだけでは感じ取れなかったはずだから。そして、多分、目を開けて触ったのではこれほどには感じ取れなかったのでは、とも思う。
視覚を使わずに触覚で感じることの大切さを学び理解したいと思えたし、また視覚と触覚の感じ方の違いも学んでいきたいと思った。
●第1回の感想
第1回の講義でちょっとしたショックを受けた言葉があります。
「晴眼者が触って分からないものは視覚障害者にも分からない。」
先生がおっしゃったように、「点訳する方には分からなくても、触覚の鋭い読む方には分かっていただけるだろう」 という認識不足・甘えがあったように思います。
「触って分かることを利用して、分かるようにする」こと。これからの授業を何とか点訳にプラスに出来れば!と期待しております。
※ 熊谷鉄太郎の文章には私も最初読んだとき感動しました。熊谷さんは牧師になる前、按摩や鍼をやっていて、身体のさまざまな様子をよく分かるのだと思います。それに信仰もないとあのようには感動できないでしょう。
熊谷さんは3歳半で失明しますが、それまでに見た様々なエピソード20近くの記憶を、失明後も持ち続けていたことが本に書かれています。3歳くらいの失明では多くの視覚的な記憶は失われるのが普通のようですので、熊谷さんはかなり例外的な場合のようです。
ごく少ない触覚情報からも、ときにその人の心、内奥深くまでつよく動かされることがあります。そのような解釈・想像力・イメージが生まれて来るのには、やはりそれぞれの人の個性・独自性、人間性といったものが関わっているのかもしれません。
◆OO
熊谷鉄太郎さんのロダンの彫刻に触れた話。これまで私が持っていた盲人の触知能力へのイメージはこれに近いほどすごいものだと思い込んでいました。
「感じ取る力」は、我々正眼者とは比べ物にならないものを持っておられるものと信じていました。
しかし、先生のお話を聞いて、
必ずしもそうではないこと。
我々は、「触れる」経験が少ないため、その能力に欠けていること。
盲人でも、わかりづらいものはわからないということ。
と、すればむしろ、SKさん(大学生)の書かれている、おもちゃや模型が役立つという話の方が、一般向きなのではないかと思いました。
私たちにはわからないけれど、盲人ならわかるだろうという考えは根本的に捨てなければと思いました。
以前に、「さわる絵本」を作っておられるサークルの方に、作品を見せていただいたのですが、我々が見ると、すごくよくできていると思ったのですが、実際に盲学校へ持っていくと、楽しんではくれたけれど、何を表しているのかはわかってもらえなかったという事でした。
毛足の長い犬も、もじゃもじゃした感覚は、理解できても、もうひとつの[同じように毛糸を使った]髪の長い女の子と区別ができなかったそうです。
先生もおっしゃった通り、過去に視覚経験のある方と、ない方では大きな違いがあるでしょう。
たとえば、毛足が長く、耳の垂れ下がった犬を理解されても、その後に毛足が短く耳のピント立った顔の長い大型犬を触ったら、犬だと理解できるでしょうか。子馬だと思うかも・・・。
このあたりが、私の中で「難しい」と感じているところです。
目が見えると見えないとにかかわらず、「見る」 「聞く」 「話す」 能力に 「触る」という能力を見直す良い機会を与えていただきました。自分たちが触れずに、触って理解してもらおうというところに無理があるのですね。
※ 犬の毛と女の子の髪が区別できなかったことにびっくりされたようですね。でも、もじゃもじゃという触感の共通性は大切だと思います。とくに子供の場合にはまず触った瞬間に受ける感じ、触感が大事だと思います。形の知覚やさらにそれが何を表しているかといったことは、丁寧に触って分かることですので、触知の次の段階と言えます。
おっしゃるように、犬と言っても、大きさも様々、耳や毛や尾の状態も様々、さらにそれをぬいぐるみとか触図とか触って分かるようにする表現法もいろいろあり、多様な犬の表現を触ってそれが犬というひとつの種類だと認めるのはとても難しいことです。多くの触経験を積むしかないかもしれません。
◆NS
私は現在はかなりましになったと思うのですが、見て納得する典型的なタイプだったと思います。学生の時も、大人になってどこかへ見学に行った時も「触って確かめてください」などといわれてもまず触りに行きませんでした。「見れば分かるもの」と思っていました。昆虫は好きでしたのでよく触りましたが、博物館などに行っても、触ってよいものでもまず触りませんでした。
だからこの文章を読んでいて(というより、点訳をするようになって)自分はすごく損なもったいない人生をおくってきたのだなあと思うようになりました。それで今は意識して「触わる」ということをしていきたいと思っているのですが。でも長棟まおさんの書かれている、「糞の壁」には触れられるかどうかあまり自信はないです。
●光島さんの作品について
それから文章からではないですが、光島さんの「背中」と題がつけられた絵(テーぷを使って描かれたもの)を見たとき、感じ方が違うと思った事を思い出しました。私は背中というと肩から下を想像するのですが、その絵は肩がなくて腕のつけねから腰にかけて描かれていて、今でもとても心に残っています。
●触る研究会
4月からの触る研究会の活動で、骨の形をした犬のおもちゃとか日常のよく見慣れた物については、見えない人たちよりも触ってよく分かることが多いということに気付いた。彫刻など芸術作品を触っての感じ方には見えない人たちそれぞれの独自の何かがあるように思うが、普通の物については大して差がないと思う。触って分かることを大切にしたい。
※ 私はこの講習会でも、触覚について見える人と見えない人の共通性を強調しようと思っています。それはやはり触図などを作る側とそれを理解する側の共通点から出発したいからです。
光島さんや長棟さんは、見えない人独自のとらえ方をはっきり打ち出しています。それはそれでとても素晴しいことですし、見える人たちにもとても刺激的だと思います。
ただすぐそこまで飛んでしまうと見えない人たちは特別なんだというような思い込みを与えかねませんので、今回はできるだけ共通点を強調したいです。それに見えない人たちでも、触ることに慣れていない人たちは多数いますし、イメージをどのくらい持てるかも人によって大きく違います。できるだけ多くの人に共通なところから始めたいと思います。
◆WK
一通り読み終わって、まず私は、長棟まおさんのように絶対触れられないと思いました。普段の生活からも考える事が出来るのですが、完全に視覚と臭いの世界からしか事物を見られないと考えたからです。
ある点字の講習会で講師の先生が箱にぬいぐるみの多分かえるだったと思うんですが入れてきて、目をつぶって触って当てて下さいと言われました。 10人程いたと思うんですが、ぬいぐるみであるとは手触りで皆すぐに解ったのですが、かえるまでは解りませんでした。
それから考えると、熊谷さんにしても、小原先生にしても、すごい感覚だなと平凡ですが感じ入ってしまいました。
※ 確かに長棟さんは私からしても触るプロのような方のように思います。彼女の文章を読んでいると、触る経験が豊富ですし、その感じ方・イメージの仕方も自由奔放さを感じます。でも、見えない人の中には、触る経験の乏しい人、さらには触ること自体に躊躇する人も多くいます。そのような人たちのことも考えに入れなければと思います。
ぬいぐるみのかえるですが、私もほとんど分からないでしょう。私はかえるは触ったことはありますが、典型的なかえるの形はどんなものかと言われてもはっきりとは分かりませんし、それにたぶんぬいぐるみでは形も触感そのものも実物とはかなり違っているでしょう。動物のようにいろいろに形を変えるものは触ってはなかなかとらえにくいものです。でも私は今は私なりの理解の仕方でいいですから動物の姿、とくに動いている姿をイメージできないものかと機会があれば試みています。
◆KK
SK(大学生) 「ひととき − おもちゃや模型に魅せられて
視覚に障害をもつ人が、ものの形を認識するのにおもちゃや模型を使うのは子供の頃だけで、大きくなると、図や説明だけで理解している、となんとなく思い込んでいた。
子供の頃はいろんなことを覚えなければいけないので、おもちゃや模型を使うが大人になれば必要がなくなるのではないか。しかしそうではなかった。
この文からおもちゃや模型を集めることやおみやげが単なる旅の思い出ではなく、立体図を認識するために必要であるということがよくわかる。だからおもちゃがどのように作られていても手にいれたいのは当然であり、私は理解に役立つので、そういった情報が多く提供されるようになればいいと思う。
視覚障害者が物の形を理解するというのは、大変エネルギーのいることだとあらためて感じた。
※ おっしゃる通りですねえ。私はいつまでも子供をしてるなあと思うほどです。触ることに限らず、子供のやり方には生きていくための基本となるようなヒントがたくさんあるのかも知れません。
図や説明の理解のためには、その基礎として、実物についての多くの触経験、運動や空間や基本図形についての概念、論理的思考力やイメージ力などが必要なように思います。
◆OY
長棟まおさんの「手による認識」を読んでの感想です。
チベットへ旅行した際、壁に張り付けてあった牛糞を触った時の話ですが、目の見える人たちは、むやみに物に触らない、触らなくとも見れば分かる、視覚を信じていると述べられています。
そう言われてみると、日頃の生活でも、触ってみるということは少ないように思います。特に、汚いもの、怖いもの、興味のないものなどには触ってみようという気は起こりません。
しかし、目の見える者でも、美しいもの、可愛いもの、珍しいものなど、目で確認できていても思わず触ってみたくなる時もよくあります。
これまでは、触ってみるということを意識して行ったことは少なかったのですが、今回の講習会を機に、触るということで、視覚とは別の新しい発見ができればなあと思っています。
点訳をしていても視覚障害者の方と接する機会も少なく、なまの声を聞く機会があまりありませんが、今回の講習が何かのおりに助けになってくれればとおもっています。
※ 実は、見えない人たちの中にも触ることに躊躇する人たちが多いです。それは、触ろうとするものについてどんなものか予め分からないため、怖かったり、壊してしまうとか倒してしまうかもとか思ったりするからでしょう。もちろん見えない人たちの触り方もありますが、周りの見える人たちの適切なガイドも必要になります。
見えない人といっしょに触ることを楽しんでください。
◆FJ
●講習会参加のきっかけ
空間図形をエーデルで「上から見た図」「横から見た図」の平面図形におきかえる作業をしながら、
どのようにこの立体がイメージされていくのだろうか?
本当に立体がイメージされるのだろうか?
立体の模型を作るほうが理解を助けるのでないだろうか?
そんな思いでいる中今回の講習会の案内を知り、迷わずに申し込みました。
●第1回の感想
「触ってわかることわからないこと」をたずねられましたとき、いままで私はなんと意識せずにいろいろなものに触れてきたのだろう、また触れることせずにそのものの持つ性質(たとえば温度、硬度など)を今までの経験から推測して判断してきたんだろうと考えさせられました。
●資料1を読んで
小原先生や熊谷鉄太郎氏の彫刻に触れての文章正直驚きました。その彫刻のもつ本質を触れることによって感じることができるものなのですね。たぶん私はその彫刻の説明文等を読んでからしか感じることできないと思ったからです。
これは見える見えないという問題ではなくて芸術に対する私の感性の欠如だとおもいますが。
また長棟まお氏の『手による認識』の文章に
「触覚の醍醐味を惜し気もなく放棄してしまっているというようなことが、視覚的な世界に生きる人たちには案外多いのでは あるまいか」
「この世の中ほとんどのものが触覚的個性をもっているからだ」
とありましたが、これから「触覚の醍醐味」をどんどん味わってそして触覚的個性だけでなく聴覚、嗅覚からも個性を感じていきたいと考えております。
※ 触覚の醍醐味とはいいですねえ。そのうち触覚の醍醐味のひとつとして触図を作製するようになるかも……楽しみです。
◆TK
手のひらに対してこんなにも思いを深くするということを意識したことがありませんでした。この研修会で、これまで意識することのなかった世界を、どんなふうに覗いていけるか、楽しみです。
※ おっしゃるように手指からの触覚情報は多様です。でもいわゆる触図になると、そこから得られるのはわずかな種類の触覚情報になります。そういうことにも気付き考えていただきたいと思っています。
◆NY
資料を読んで感じた事は、見える見えないに関わらず好奇心をどれだけ駆り立てられるかによってその人の物の見方や表現が違ってくるのだということに気づきました。
物に触れるという行為もただ単に触ったという満足感だけで終る人もいれば、そこからさらにイメージを膨らませて人生感さえ織り込むことの出来る人もいる。感性や個性が生かされていなければ目で見ることも、触知で見ることも結局は同じなんだと言う事です。
今、私はガイドヘルパーとしてお手伝いする機会があるのですが言葉の表現の重要性を感じております。
※ 知覚や認知、とくに芸術的な鑑賞になると、人それぞれの経験やその人なりの見方・独自な視点といったことがより重要になってくるでしょう。
ガイドヘルパーをなさっているとのこと、これからもぜひその立場からの発言や意見をお聞かせください。言葉や文章による説明は、触図でもたいへん重要です。ときには図のほうが補助的で文章のほうが主ということもあります。
◆その他
●触われる機会がもっと日常的に多いといい。触って見れるテレビとか、見えない人のための特別の触る機会があったら。
●見える人でも、美しいものなど、つい触りたいと思うことがある。
※ もちろん見えない人のための特別の企画もあっていいが、私はもっと見える見えないに関係なく触ることが一般化してほしい。美術館などでも、見えない人のための対策ばかりでなく、鑑賞の1方法として触ることを取り入れてほしい。それはまた、〈良い触り方〉の普及にもつながると思う。
●触る博物館をしている桜井政太郎さんは、実物あるいはできるだけそれに近い物を集めておられた。精巧さを大事にしていると思う。いっぽう、触図では原図に忠実なのは分かりにくいと言われることが多い。どのように考えたらいいのか。
※実物の触知では形を立体的に知ることができるだけでなく、手触り、質感、重さや堅さなど多様な情報が得られる。触図(とくにエーデルなど)では、基本的には点の粗密の変化だけで平面的に形を表現しているにすぎず、触感覚全体からすればごく一部しか使われていない。触覚による実物と触図の違いは、視覚による実物と写真や図(いずれも形や色中心)の違いよりも、はるかに大きい。
◆資料1中で、受講者が直接ふれていない文章についての私からのコメント
●草山こずえさん
盲学校(視覚障害者の教育)では、点字については先生から教えてもらえることが多いが、実物や図をどのように触って理解していくかなどについてはあまり考慮されていないようだ。各個人でまったくの試行錯誤でやっていくしかない。とくに視覚経験のない者にとっては、実物での触体験の積み重ねが大切で、そういう体験無しの、言葉だけの説明では大きな限界がある。触ること一般についての教育が必要。
●長谷川貞夫さん
成人してからの失明で視覚経験を豊富に持っている場合は、守礼門のような建物、さらには風景まで、言葉による説明だけでかなりリアルにイメージできる方もいる。視覚障害者全体からすれば、こちらのほうが多数。しかし、少数ではあるが、私もふくめ視覚経験のほとんどない者にとっては、建物や風景は言葉による説明だけでは極めて難しく、ミニチュアとかほんの一部分でも実物に触れてみたくなる。
ミュージアムなどでは、かならずしも総てに触われなくてもいい。レプリカでも良いからわずか数点でも触ることができれば、かなり満足できることがある。