硫黄島4

 元小笠原兵団参謀であった堀江氏の書物「第百九師団参謀の回想」から栗林兵団長の気持ちの変化を読み取ってみる。ただし、武市銀次郎の著作「硫黄島 極限の戦場に刻まれた日本人の魂」にも書かれているように、堀江氏の書物は「真相でないことが含まれている」ため慎重に選択しなければいけない。そのことを踏まえて、ここの話はそれなりにまあ信頼に足るのではないかと思われるので紹介することとする。
 市ヶ谷台にあった大本営陸軍部に所属していたため戦況についてよく知る立場にあった。マリアナ沖海戦の初日で大敗北を喫した翌6月20日に羽田から父島にはいる。その日のうちにロサンゼルスオリンピックの乗馬で金メダルをとったバロン西こと西竹一中佐と一緒に硫黄島に入る。
 翌21日に栗林兵団長と二人きりで話したとき、栗林兵団長はマリアナ沖海戦のことを知らず、アメリカが硫黄島に攻めてきたら日本の連合艦隊が彼らを壊滅する以外に策なしと考えていることを知る。堀江参謀はマリアナ沖海戦で連合艦隊が潰滅したことを伝え、地下陣地を構築して持久戦をする以外に策がないことを伝えた。
 栗林兵団長は「そうかい、まあ日本も終わりだね」といったという。
 堀江参謀はその日のうちに父島に飛んだが、あとで聞いたところ栗林兵団長は海軍の市丸少将に確認し、連合艦隊(正確には空母機動部隊)が潰滅したことをしると布団をかぶって寝てしまったらしい。その気持ちは痛いほど理解できる。日本の行く先の悲劇をまざまざと連想される事実に対して心を痛めて悲しむことも必要だと思う。もしそういう気持ちがない人に指揮官をしてほしくはない。しかしそれをいつまでも引きずって何も行動出来ない人も指揮官にはむかない。気持ちを切り替えて強く生きていかなければならない。栗林兵団長が家族にもあてた手紙にあるように

父がいつも申す通り、男には「意志」の鞏固(きょうこ)と云う事が何より大切である。意志の弱い男は何が出来ても役に立たない。
                  (昭和19年11月27日 長男・太郎宛)


なのである。
 堀江参謀によると、8月11日から陸海軍合同で戦い方に関する研究会があり、激論が展開された。海軍は南海岸以外からの上陸は地形上ありえないから、第一飛行場の周囲に幾重にもトーチカを構えて二十五ミリ機銃を300挺そろえてはどうかと意見具申があった。上陸地点を死守すれば硫黄島を難攻不落にできると考えたのだ。これに対して堀江参謀は、敵の艦砲射撃の前では二十五ミリ機銃では無力であること、そしてガダルカナル、マキン、タワラ、サイパン、テニアン、グアムなどの戦いを通して80年の伝統をもつ水際作戦は無力であることを主張した。そして長時間の議論の後、栗林兵団長から「みなさんのご意見はよくわかりました。が、私は堀江参謀の意見に同意します」と決断が下され、硫黄島の戦い方が地下に立てこもって持久戦で戦うことに決められた。もう少し正確に言うと、いったん敵の上陸を許し千鳥飛行場近くに集結したのを機に一気に四方から挟撃しようとしたのだ。後、実戦では必ずしもこのとおりにならなかったがそれでも米軍を苦しめる戦いになったことには変わりがなかった。




 戦術として地下にこもり持久戦にするということが決定してから、地下陣地構築が本格的に着手された。この地下壕掘り作業が過酷で地獄そのものだったようである。湿度と気温が非常に高く過酷な重労働となり、それに加えて食糧不足により栄養失調などになり疲弊していった。また極度の水不足と汗が多量に流れてもまともな水を飲むことが出来ないため、硫黄成分の混じった水を摂取することにより重度の下痢に悩まされることになった。また壕掘りでは酸素不足と吹き出るガスのため5、6分ほどで呼吸が出来なくなる状態になった。このため5、6分ほどの交代時間で間断なく24時間の突貫工事が進められた。岩盤が固くて1日のうちに1〜2mほどしか進まない場所もあった。
 もし食糧不足が解決されなくても、充分満足な真水が飲めるのであれば硫黄島の兵隊達にとってどんなに辛さが軽減されただろうと思う。

 狂ったように爪を立てて襲いかかる凄まじい喉の渇きは、正常な人間を発狂させるのに十分である。
(硫黄島の兵隊)

 体力の限界までやってひと息入れる時、きまって誰かがいい出す言葉がこれだった。
 「真水さえありゃあなあ・・・・・・」
(硫黄島の兵隊)

などと体験記が書かれていることでもわかる。

 下痢の患者が悪化すると食糧不足もたたりやがて栄養失調がひどくなり死んでいく。また便所までたどり着けずに大小便が散乱しだして、蠅が猛烈な勢いで繁殖していった。兵隊たちに群がる蠅の渦。食事を盛り付けても一瞬で黒い塊になってしまう。その凄まじい蠅の量は、日が暮れるといっせいに木の葉や草の裏に止まるのであるが、蠅の重みでだらりと垂れ下がる様相であった。夜になると開放される蠅地獄であるが、翌朝白み始めてくると一斉に飛び立ち蠅地獄が始まるのだ。
 後、アメリカ軍によって捕虜になった兵隊の回想録では硫黄島が米軍によって陥落してからの体験として

 ・・・時折ヘリコプターも低く飛んでいることがある。これは島全体に薬を撒いているのだと言う。
 あれ程我々を悩ました蠅も最近この島には一匹もいなくなったそうである。・・・
(硫黄島玉砕に祈る)

と書かれている。米軍もこの蠅には相当参った様子がわかる。科学的に薬を使うことによって蠅を駆除していた。

 1944年の8月になると米軍の硫黄島に対する空襲が頻繁に行われるようになる。日本軍もこのころには2万人くらいの兵隊がいたので空襲があると全く被害がないというわけには行かなかった。若干名の死者は出る。その都度、死体は蠅に埋もれていく。死ななくても傷口に目ざとく蠅がたかりウジがわく。そこはやがて破傷風になり、苦しんで死んでいくものも少なくなかった。
 兵隊の出入りが敵機に見つかるとそこを徹底的に破壊される恐れがあるが、慢性的に広がっている強度の下痢が我慢できなくなるとそれでも爆撃の合間をみて外に出ようとする人もいたらしい。その都度、上官より「出るやつは撃ち殺すぞ」などという怒号が飛んできた。壕が敵機によって見つかり狙われると、全員の命にかかわるからである。それくらいならこの場所でもらした方がよろしい。もはや理性も嗅覚もすべてが麻痺していた。高高度から250キロ爆弾を落とされると、直径50m、深さ5mくらいの穴が開く。防空施設が弱いところでは落盤する。これを集中的に落とされるくらいなら外に出てはならない。

 やがて敵の上陸が間近に感じられるような烈しい空爆が続けられ、艦隊が硫黄島付近にやってきては艦砲射撃もくわえていく日々が続いた。
 1945年2月11日昼頃、米軍機が大編隊でやってきたが、新型の艦載機なので「少しおかしいぞ」と硫黄島守備隊が思っているとその夕方に
「敵大船団北上中」
という入電があった。とうとう主力艦に輸送船も含めると600隻以上はある空前の大船団が小島であるこの島にやってくるのだ。



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