硫黄島8

 D+1。すなわち敵前上陸日から1日たった、2月20日のことだ。朝から小雨が降っていた。米軍の戦法で初期に実施するべきことは、まず南海岸から上陸して摺鉢山と北地区を分断することだった。日本軍も当初から硫黄島全体を見渡すことが出来るその重要性を認識しており、摺鉢山に強固な防御陣地を構築していた。摺鉢山地区の隊長は松下久彦少佐である。56歳という硫黄島守備隊では最高齢の厚地(あつち)兼彦大佐が2月18日に師団司令部から作戦指導のため、摺鉢山に来ていた。しかし翌日のDデーを迎えてしまったため摺鉢山にとどまることになる。直接の指揮権がなかったためどのような指揮をとったのかは不明である。
 米軍は前日の戦闘でたくさんの戦闘疲労者がでてリタイアしたが、戦場にとどまっているものたちもまた正常な感覚を失っているものが多かった。それは2月20日の戦闘の模様を書いた次の文章でもかわる。


 新しい出来事がこと欠かなかった。昨日の夕方ウェルズ中尉とドン・ルール一等兵が退治するのに手伝った砲の掩蔽壕で一つのことが起こった。その掩蔽壕に最初に駆けつけた兵士達が、夜明けとともに好奇心と土産物を探す真理からその掩蔽壕に近づいた。そして彼らはその暗い奥から出てきた一名の武器を持たない日本兵をびっくりさせた。その日本兵は生命からがら逃げ出した。すると、戦友の死後狂暴になっていた海兵が自分の戦闘用ナイフを引抜いて追掛け始めた。他のものから「捕まえろ、その畜生を捕えろ」と激励されながら。その海兵は追いついてその獲物の肩をつかまえ、残酷にもそのナイフをぐさりと再三突き刺した。その日本兵はくずれるように倒れ、首と横腹からどくどくと出血していた。これを見ていた10名前後のものが、その死に快哉を叫んだ。
                      (R.ホイーラー「地獄の戦場」)


 夜明けとともに、以後お決まりになる米軍の攻撃パターンがはじまった。戦闘機によるナパーム弾を交えた攻撃が始まり、それがおわると艦砲射撃が米軍の前線より前方を撃ち始める。そして8時半ごろに地上部隊が攻撃をはじめるという陸海空が連携した組織的な攻撃である。しかしこうした攻撃もまれに米軍自体に降り注いでいたこともある。第25連隊のジョン・ラニガン大佐のところには、45メートル前方に識別用の大きな黄色い標識を置いたにもかかわらず、手前に落ちてきて海兵隊員5人が死亡、6人が負傷した。
 摺鉢山は要塞であったかもしれない。しかし陸海空からなる猛烈な攻撃の前に要塞としての機能をなくしていた。2月20日の朝には、もともと師団司令部の厚地大佐から栗林中将に向けてバンザイ突撃の承認をもとめたことでもわかる。実際の報告はどのようであったかわからないが、R・F・ニューカムの本では次のように書かれている。


 敵の海空からくる砲撃と爆薬による攻撃は、極めて激しく、わが方は死傷が続出したばかりでなく、空海地三方からの攻撃猛烈を極め、敵は火炎放射器をするにいたった。このままでは自滅のほかなく、むしろ出撃して万歳をとなえん
                     (R・F・ニューカム「硫黄島」 光人社NF文庫)


 その依頼は却下されたとも、無視されたとも言われておりよくわからない。R・F・ニューカムも書いているように、「海兵隊第五師団の工兵隊が、砂に埋められてあった北部と摺鉢山をつなぐ直径1インチ半の日本軍の電線を発見した。これで厚地大佐は完全に孤立したことになる」(R・F・ニューカム「硫黄島」)。すなわち2月20日の午後には摺鉢山の連絡は全て遮断されたのである。結局、摺鉢山地区のバンザイ突撃はされなかった。厚地大佐の報告どおり攻撃は壮絶を極め彼はその日、米軍の迫撃砲をうけて死亡した。
 この日、戦闘二日目にして予備隊である第三海兵師団の第21連隊に上陸命令が下された。本来であれば続く沖縄戦のために温存しておきたいとされていた部隊である。「第二日目に、もう予備隊が出されるのか」と思うとともに、この戦闘の凄まじさが前線に出る前から想像された。


甚大な死傷を生じた大隊が次々に任務を解かれたので、代わって予備隊の第三海兵師団が両師団に伍間増加をして息も継がせず押し寄せた。
                      (チェスター・ニミッツ「太平洋海戦史」)


 米軍は重火器に援護されながら押してきた。正午ごろには千鳥飛行場が米軍の手に落ち、その日の夜にはとうとうたくさんの海兵隊の出血を見ながらも南北の分断に成功し、摺鉢山が孤立させられた。こうなっては摺鉢山は要塞たり得なかった。
 かといって日本軍も一方的に押されていたわけではない。摺鉢山攻撃を担当していた第28連隊の大隊長であるチャンドラー・ジョンソン中佐は朝、最前線の状況がよく分からない場合によくやることとして極めて危険な第一線に出向き指揮をしていた。このとき連隊本部は砲撃の目標となっていた。おそらく厚地大佐の指令だったかもしれない。連隊本部に二発の直撃弾がぶつかり数名が戦死した。チャンドラー・ジョンソンは命拾いをした。
 第26連隊に属していたジャクリン・H・ルーカス一等兵もまた海兵隊員によくありがちな典型的なプロ戦士だった。そもそも入隊の許可がおりない14歳のときに年齢を偽ってまで入隊した(年齢がバレたのは入隊後3年目であり、正規の資格が備わっていたので除隊されなかった)。彼は喧嘩っ早い性格で、ビールを箱ごと盗み逮捕しに来たMP(アメリカの憲兵)を逆に殴りつけたこともある。硫黄島にくるときも無断で行方不明になっていたためMPに追われていた。彼は大隊の仲間達から戦闘装備の中にかくまってもらい、1ヶ月以上もの間食べ物の差し入れだけでしのいだ。そして上陸用舟艇にどさくさにまぎれこんで上陸し、死んだ海兵隊員たちの武器を使用していた。このような戦士がいるのもまたアメリカらしい。彼はこの2月20日の戦闘で日本兵の待ち伏せにあい、手榴弾が仲間たちの間に飛んできたのをみた。ルーカスはまったくためらうこともせず、同僚を飛び越え手榴弾に覆いかぶさった。と、そのときもう一個の手榴弾がすぐ目の前にドサッと落ちてきた。彼はそれをすばやく手にして自分の体の中にいれたときにほぼ同時に二個の手榴弾が爆発した。ルーカスは悲鳴をあげた。同僚はルーカスは死んだものと思い、日本軍陣地を攻撃して沈黙させた後ルーカスのもとに近寄った。驚いたことにルーカスは生きていた。すぐに後方にさげられ船上の手術室で手術を受けた。片腕が不具になったが彼はのちに最高名誉賞を受け大統領から勲章を受けとった。
 第28連隊のウェスレイ・バーテス中尉は摺鉢山を孤立させる戦闘中に片腕を骨折したが引き続き戦闘に従事していた。指揮官や衛生兵ですら死んだり、負傷することも普通のことであった。


そしていったん攻撃が始まれば、じきに「衛生兵!衛生兵!」と叫ぶ悲鳴が聞こえてきた
                      (ビル・D・ロス「硫黄島 勝者なき死闘」)


日本軍の大砲は、避難地区を容赦なく襲った。ホィーラー記者は、ケガをする直前に、一発の砲弾が衛生兵と倒れた海兵隊員の真ん中に落ちるのを目撃した。衛生兵13人が死傷し、その時すでに重傷を負っていた海兵隊員11人が、またも砲弾にさらされた。
                      (ビル・D・ロス「硫黄島 勝者なき死闘」)


 米軍右翼(つまり日本側からみて左翼)にあたる南地区の攻撃はほとんど進展がなかった。第4海兵師団が担当しており、戦車を前面に押し出してきたが、日本軍も兵団直轄の戦車第26連隊を海岸道路沿いに進出させた。米軍の戦車と比較すると小型であるが、互いにとまって戦車戦となった。この戦車第26連隊を指揮しているのは有名なバロン西こと、西竹一中佐であるが彼についての詳細は別の機会に譲ろう。


 日本軍戦車隊は飛行場に群がる前面の敵と南海岸地区に群がる側面の敵との両面対抗を強いられ、一進一退が続いた。
 戦車を狙った弾がはずれるのか、当送信所(注:玉名山にある送信所のこと)への直撃弾ががぜん増えてきた。
 四つに組んだまま日没を迎えた。お互いの戦車群は若干後退した。米軍の南地区における本日の前進は微々たるものであった。
                  (秋草鶴次「十七歳の硫黄島」 文藝春秋)






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