…「暮れぬ宵・明けぬ夢」番外編…

注:本編の続きのお話になります。まだ未読の方はそちらをご覧になってからどうぞ。

 

 春とはまだ名ばかりの頃。

 通りを進む歩みに合わせて揺れる旅装束の袂からは、身を切るような気の流れがつうと入り込んでくる。それでも透明な輝きを放つ天からの光は日に日に暖かさを増し、新しい季節の訪れを言葉もなく告げていく。

 ……もう、雪もすっかりと溶けているな。

 傾きかけた日差しが、自分の前に長い影を作る。それを踏みしめるように、前へ前へと足が急ぐ。半月振りに帰り着いた地に、知らず心が躍っているのか。子供のような無邪気な心地になっている自分が何とも滑稽で、誰も見ていないのに照れ笑いをしていた。

 

………


 いくらか歩いて、小さな小屋の戸口で足を止める。と、同時に、がたがたと何かが揺れて、走り去る音がした。

 ……あれ?

 彼は不思議に思って音のした方向を見る。しかし、確認することは出来なかった。そして、今度は小屋の中からことことと音がして、ほどなく木戸が開いた。

 

「木根(キネ)様っ! ……お帰りなさいまし」
 満面の笑みをたたえた人が彼を迎える。肩のところで切りそろえた髪が遠慮がちに揺れていた。

「ああ、夕っ……変わりはなかったかい? 体調を崩したりしていなかっただろうね、心配していたよ」

 彼は身体を少し斜めにして、開きかけた戸口から中に滑り込んだ。

 こちらが顔色を確認する暇もなく、ほっそりした小さな身体はきゅっとしがみついてきた。何度も何度も確かめるように、背中をさすり、衣をたぐり寄せる。長く家を空けた時にだけ、彼女が見せるほんの少しの不安を彼は感じずにはいられなかった。

「いつ、お戻りになるかと指折り数えてお待ちしておりました。良かった、仕事は上手く行ったのですね。いつもよりも三日も早いなんて」

 そこまで告げると、ようやく腕の力を抜いて、こちらを見上げてきた。碧の瞳がゆらゆらと揺れている。こんな風にこの瞳が見つめる相手も自分だけなのだ。いくらそう確認しても、未だに信じ切れない。これではふたりとも同じではないか。

「顔の色も良さそうだね、夜は良く眠れたかい……?」

 恥ずかしそうにはにかむ笑顔。こんな風にまっすぐに心を隠さず全てをぶつけてくれる。

 他愛のないことだと思われるかも知れない。だが、この人が自分のものには決してならないと思っていた頃、必死にすがりついてくる腕にはいつも悲壮感が伴っていた。それを取り去ってやることが出来ない自分がふがいなくて、抱きしめる腕が震えた。あの頃の記憶は消せるはずもない。いくら「今」が幸せであったとしても。

 重ね合わせた唇から感じ取る想いに酔いながら、名残惜しく身体を離す。何しろ半月振りなのだ。このまま寄り添っていたら、よからぬことをしでかしそうな自分を知っているからだ。まだ日も暮れぬうち、そんなことが出来るわけもないのに。

「ああ、木麻(きま)は眠っているんだね。それなら静かにしなくてはならないな」
 荷を降ろし、足を洗って土間から上がると、彼は部屋の一番奥に敷かれた子供用の寝具を覗いた。

「ええ……先ほどまでは尾根(オネ)も。あら、あの子は何処に行ったのかしら。嫌だわ、父上のお戻りにどうしたのでしょう。今探して――」

「いいよ、夕」
 彼は戸口から出て行こうとした妻に優しく声を掛けた。

「外に遊びにでも行ったんだろう。無理に引き戻したら可哀想だから、戻るのを待とうよ。……そうだ、村長様から、今夜は酒宴を催してくださると言われたんだ。だから、その支度をしないと」

 何気ない感じで言うが、それでも妻の表情は冴えない。それでもくよくよと思い沈んでいる間もないと知っているのだろう。次の仕事に手を付けていく。

「まあ、それではお召し物を改めないと。木根様は今夜の主賓になるのですから、あまり粗末なものではいけないわ。ああ、どれがいいかしら……お待ちになって」

 ぱたぱたと部屋の奥に進んで、あちこちの行李を改めている。彼女が自分の衣を探しているのだ。そんな当たり前の情景が彼にとってはこの上なく幸福なものとなる。

 誰もが手に入れる幸せな時間、それすらも叶わぬものと思っていた。たくさんの人を不幸にした。たくさんの人を欺き裏切ってしまった。償っても償い切れぬほどの罪を背負って、今を生きる。この地に辿り着いたのは秋を覚えた頃であった。あれから二度目の春を迎えている。

 

 ――他の地の者が足を踏み入れることの叶わぬ隠れ里……。時々、この空間に存在することが夢幻に思えてしまう。もしも花が咲き、森が色づいて実り、季節の移り変わりが生きていることを教えてくれなかったら。自分はどうなってしまうのだろう。

 

「木根様、こちらが宜しいのでは? ……少し裾がほころびておりますので、繕いますね? 肌着も新しいのをお出ししましたから、まずはそちらから改めてください」

 若草色の小袖を手にした妻は、またこちらを見てにっこりと微笑んだ。

 

………


 定期的に里に下りて行商する。もう何度もやってきたことなので、勝手は分かっていた。それにかつて罪を背負う前、彼は商いの世界にいたのだ。その時に培ったことが大いに役立っている。

 ただ――最初にこの仕事を任せると村長(むらおさ)から言われた時には、やはり強い抵抗を感じた。

 

「案ずるでない、すべてはあの御方が良きようにはからってくださる」

 この地をまとめる恰幅の良い長には、彼の心内など全て見えているかのようであった。薄く微笑みを浮かべた口元が滑らかに告げる。「あの御方」はこの地では絶対的なものだ。間違いなどあるわけもない。それでもまだ、不安はぬぐい去ることが出来なかった。

 

 あの不思議な湯屋の老婆に教えられ、恋しい人の住むこの村にたどり着いた。だから知っている、抜けてきた不思議な森の向こうは、彼がかつて暮らしていた宿場の町がある。街道を中心としてたくさんの村々が点在し、そこここを回って反物を売り歩くのが彼の仕事だった。
 何処へ行っても、彼はあたたかく出迎えられた。自分が奉公している反物屋は良質の品を売る真面目な店であった。しかも彼には天性の商い人としての何かがあったのだろう。客が何を求めているかがよく分かり、それに見合うものを間違いなく差しだすことが出来た。その見立ての良さも評判になっていた。

 ……あの地に行けば、どうしても以前の自分を知っている者たちと顔を合わせることになる。

 自らの手を汚し罪を犯したことに、後悔はない。もしもほんの少しでもそんな気があれば、店主に問いつめられたあの時に、さっさと金の使い所を白状していたであろう。自分が嘘偽りなく全てを明らかにすれば、客を欺き店の金を使い込んだことを全て水に流すと言ってくれた。だが、もうこれ以上、自分の心を偽ることなど出来なかった。

 親を亡くし、奉公に出され。番頭にまで仕立ててくれただけでも大変な恩を感じなければならないと言える。人の良い店主は彼をとても可愛がり、とうとう一人娘の婿にするとまで約束してくれた。貧しい農村に生まれた自分が、立派な店の跡取りとなる。そんな身に余る幸運があっていいのだろうか。

 だが、それを持ってしても、秘められた想いを捨てることは出来なかった。

 

 いくら自分の犯した重罪を知り、さらには寂しい西の果てで三年の服役を終えたとは言え、やはり昔の馴染みの前に出られるだけの度胸はない。青ざめた彼に、村長は勇気づけるように言った。

「すべてはあの御方の意のままに。お前はそれをただ信じていれば良い」

 ……思えば。自分の妻となった人をここまで導き、さらには自分をも行き着かせてくれたのは「あの御方」であるのだ。再会することすら諦めていた。それなのに……彼女は自分のことを想い続けてくれていた。しかも、彼にとってはさらに信じられない事実があった。

 ―― 一度は捨てた命。何もかも、ただ一度の恋のために散らしていいと思った。今、ここに存在することすら、奇跡なのだ。全ては「あの御方」のお心次第。

 そして。

 決死の覚悟で不思議な森をくぐり抜け、街道に出た時。彼が目にしたのは未だかつて見たことのない、異なる風景であった。

 


「難しいことはよく分からない。でも……ここは、もしかすると浮島なのかと思うことがあるわ」

 隠れ里の者たちが手仕事で作り上げた様々な品を売りさばき、その見返りとして銭を手にして戻ると出迎えた妻はその労をねぎらいながら言った。

 ここに自分よりも3年も長く暮らしている彼女も、詳しいことは知らないらしい。この里に暮らす人々が以前どのような生活をしていて、どんな経緯でここまで流れ着いたのか。それを相手に訊ねることもなければ、相手が自分に問うこともなかった。

 ただ、誰もが何らかの理由で「あの御方」に助けられ、身ひとつでやってきたと言うことは分かる。当たり前の生活をしているように見える者たちも、自分たち同様に茨の道を歩んできたのだろう。

 

 それからも、彼が二月に一度ほどの割合で人里に降りると。そのたびにそこには未知の世界が広がっていた。

 

………


 酒宴は夜半まで続いた。

 宵のうちは妻も子供たちを連れてその席に加わっていた。しかし、ある時間が来ると女たちは幼子を連れて家に戻る。そのあとも村長の家では賑やかな歌声がいつまでも続いていた。

 

 彼が家に戻り付くと、妻は微笑んで迎え入れ、着替えを手伝ってくれた。子供たちは珍しい人寄せの席ではしゃいだためか、いつもよりも寝付きが良かったという。半年前に生まれた赤子もようやく夜にまとめて寝るようになっていた。

「……短くなってしまったね」
 ささやかな囲炉裏の前にふたりで座していた。暖かい熾火が心まで温めてくれる。抱き寄せると薫る、花の匂いは変わらない。そう耳元に囁いた時、細い身体が強ばったのが分かった。

「申し訳ございません、みすぼらしくなってしまって……でも、あたしにはこれくらいしかないから。それで…」

「うん、大丈夫。頼まれた通りにやったから」
 彼はなだめるように、腕に力を込めた。

 

 別に責め立てるつもりはないのだ。髪があってもなくても、妻は妻に変わりはない。ただ……こうして抱きしめた時に柔らかく舞い上がり匂い立つものがないというのは、いくらか寂しかった。


 ここに居着いたすぐの頃、彼女はある夜、物入れの一番奥から小さな麻の袋を大切そうに取り出した。そこにはまとまった額の銀貨が入っている。どうしてこんなものをと慌てる彼に、彼女は静かに告げた。

 あの店を出る時に、湯屋の老婆が彼女の美しい髪と引き替えにこの銭を渡してくれたのだという。そして、いつか自分を探しに旅立つ時の資金にしようと、ずっと大切に取っておいたという。

「……今となってはもう無用の物です。つきましては、これを…」

 碧の瞳がふわりと揺らぐ。その向こうに、寂しげな彼女の心が浮かんだ。

「木根様の、奉公されていた店に。どのようなかたちでも宜しいですから、お渡しすることは出来ませんでしょうか?」

「――夕…」

 彼は何と答えたらいいのか、言葉が浮かばなかった。

 法外な値段を付けられる遊女だった彼女を買うために、彼は店に客に多額の損失を与えてしまった。だが、そのことは彼ひとりの考えでしたことであり、彼女に非はない。いくら高い銭を払っても、彼女には一銭も入らないのだから。好きで遊女小屋に売られたわけでもない。

 それでも、彼女は詫びていたのだ。心の中でずっと。彼に、彼が世話になっていた店に。

 

 どうしたらいいのか分からなかった。だが村長に相談すると「あの御方」が良きようにはからってくれると言う。

 それからしばらくして、あの反物屋の店先にたくさんの銭が置かれていたという話を聞いた。出所は分からない、だがそれをくるんでいた布きれには見覚えがあった。かつてその店に番頭として働いていた男が最後に身につけていた物だ。それならば……。

 

………


 西の集落の民の豊かな銀の髪は飾り紐や帯の材料として糸の代わりに織り込まれる。稀少価値のものだから、高値で取引されるのだ。それを彼女は知っていた。だから今回また、ようやく売り物になるほどまで伸びた髪を惜しげもなくばっさりと切り落とし、彼に託した。

 

「夕……」

 やわらかく、抱きすくめる。

 こうして腕に抱え込むと、この世の全ての幸せをいっぺんに手に入れた気がしてしまう。初めて出会ったときから、彼女は特別だった。客に買われることを生業としていると知りながらも、求めずにはいられない存在。どうしても我が物にならないことを、どんなにか嘆き悲しんだことか。

「あんっ…、嫌っ。木根様、お疲れなんだから、今夜は……」

「駄目だよ」
 力無くあらがう柔肌に指を滑らせる。休むばかりになっていた寝着の袷からするりと手を差し入れる。あたたかいふくらみが彼を待ち望んでいた。

「物売りをしている間も、夕のことばかり考えていた。夕に早く会いたくて、それで頑張って仕事してきたんだ。今夜は……存分に…」

「あぁあっ……! …はぁっ…」

 緩やかな愛撫に身をよじりながら、彼女はしとねに崩れ落ちた。その乱れた裾から覗く美しい脚。股から足の付け根に向かって、静かに静かにさすり上げる。そのたびに控えめな声が上がり、はだけた胸元が揺れた。

「木根様っ…、木根様ぁっ…!」

 熱に浮かされるように、何度も何度も名を呼ばれる。溺れる手が彼の衣を握りしめる。だがそれも、彼女を引き留めることなど出来ない。いつしか川面を揺れるふたつの木の葉はその頼りない身体をしっかりと重ね合わせていた。

「ああっ……! 夕っ、…夕っ…!」

 彼は細い肩をしっかりと捕まえると、獣のように腰を使った。いくら激しくかき混ぜようと、彼女の内襞(ひだ)は優しく抱き留めてくれる。それどころか、もっともっとと誘ってくる。そうしているうちに、だんだん自分の全てが深く深く沈み込んでいく気がするのだ。

 ――底のない沼の中へ。

 愛せば愛するほどに、さらに恋しくなる。言葉を交わすだけでも心が燃え上がるほど熱くなるのに、こうして抱いてしまえば、もう焼け付いて燃え尽きてしまいそうだ。疲れなど、どうして感じよう。そんなもの、とうに忘れていた。

「ああんっ、ああっ…、もうっ…駄目ぇっ…!」

 自分の下で悦びに悶える美しい肢体。それをしっかりと抱きしめて、ふたり同時にのぼりつめていた。

 


「……申し訳ございません、尾根が…」

 愛し合った激しさを残したままの身体を寄せ合い、うっとりとまどろんでいた。胸に吸い付いていた頬がぴくりと動いて、それから遠慮がちに言葉を繋いだ。

「あの子、このごろおかしいですよね? しばらくはいいかと思っていたのに……木麻が生まれてから、やはり落ち着かないのでしょうか?」

 息子の尾根が、このごろ彼とそりを合わせない。反抗的になる年頃だとは聞いているが、どうなのだろう。初めの頃こそは緊張した間柄であったが、その後は父子として良い関係を保っていたと思う。それを妻も気にしているらしい。

「……大丈夫だよ? 夕…」
 申し訳なさそうに詫び言を繰り返す妻を勇気づけるように、彼は言った。

「このことは尾根と私、私たちふたりの問題だから。明日、よく話をしてみるよ。夕は心配することなどないのだから」

「でもっ…」

 

 まだ、震えながら案じている口元。それを塞いで強く吸い上げる。そうしていると、今全てを吐き出したはずの身体が、また新たなる熱を帯び始める。

「余計なことは考えないで。今夜は私のことだけを見つめて……」

 かすれた喘ぎが闇に溶けていく。どちらかが誘えば、どちらかが応える。ふたりは飽きることもなく、一晩中、漆黒の海を泳ぎ続けた。

 

………


 この地の天は不思議な色をしている。菫の花の色が春の気に薄く溶けたような淡い紫が彼の頭上にあった。

 民家の建ち並んでいるささやかな通りを抜けると、ゆったりと流れる河に出る。ここは忘れもしない、離ればなれになっていた彼と今は彼の妻となっている人が再会した場所であった。

 

 その川面を見つめて。こちらに背を向けて座り込んでいる小さな背中がある。洗いざらしの木綿の衣。薄茶の髪は母の手によって、綺麗に結われていた。

「……尾根」

 彼が静かに名を呼ぶと、その背中がぴくんと動いた。声を掛けられたことは分かっている。でも振り向きはしなかった。彼はそんな行為をたしなめることもなく、歩みを続け、やがて彼の隣まで来ると腰を下ろした。

 さらさらと川面が輝いている。その上を春の光をたたえた気が流れていく。穏やかな風景だった。

「……何だよっ!!」
 そっと顔をのぞき込むと、ぷいっと横を向いてしまう。ぷうと膨れた輪郭が愛らしくて、彼は笑いがこみ上げるのをこらえるのに難儀した。

「留守の間は世話になったね。君がいてくれるから、私も安心して出掛けられる」

 せせらぎの音に乗せて、ゆっくりとゆっくりと話しかける。すると膝に埋まっていた顔が面倒くさそうにこちらを向いた。彼の瞳の色をそのまま映したような緑色。それが分かりやすい怒りの色に染まっていた。

「何、機嫌取りしてんだよっ! お前なんて嫌いだっ!」
 それだけ言うと、また顔を伏せってしまった。

「そうですか」

 彼はそこで言葉を切ると、川面に視線を移した。

 

 人間よりも植物の方が、季節を敏感に感じ取る。

 まっすぐに伸びた腰丈ほどの水辺の草はほっそりとした茎を長く伸ばし、その先にたくさんの芥子粒程の蕾を付けていた。それを割って、糸の様な花びらを持つ薄紅の花が咲く。川縁をその花が埋め尽くす頃、この隠れ里は春爛漫になる。昨年一度、瞼の奥に焼き付けた風景を容易に思い出すことが出来た。

 

「でも……私は、君のことが大好きですよ」

 声の色も変えず、ただただ穏やかにそう告げると、隣りの小さな身体が弾かれるように飛び退いた。

「うっ…、嘘だいっ!」

 自分よりも大きな獣に果敢に立ち向かおうとする子猫のように、身体中の毛を逆立てて威嚇する。もちろん人の身体に毛皮などないが、そう見えるような気がした。

「お前なんてっ…! 嘘つきだっ! もうオレのことなんて、どうでもいいと思ってるくせにっ……!」

 彼はその姿を静かな眼差しで見つめた。

 

 何とも雄々しい姿だ。よくもまあ、ここまで立派に成長したものだと思う。そろそろ4つになるが、本当の年齢よりもよほど大人びて見える。それなのに、こうして時々子供らしい一面を見せられることもあるのだ。

 今となっては夢物語のように思えるあの日。この川辺で、最初にこの子を見た時、我が目を疑った。まさかこんなことが起こるとは夢にも思っていなかったから。この子の母にも二度と会えないと思っていた。旅立ちの前夜、宿場の遊女小屋に行ったのは、この世での別れを告げるためだった。もう人として再び戻ってこられないと確信した時、会いたいと思ったのはただひとりの人だった。

 あのとき。もはや、この子は彼女の中に芽生えていたはずだ。そして彼女もそれを知っていたはず。もしも、事実を知ってしまったら自分はどうしただろう。
 遊女の身籠もった子はその大半が無理矢理流される運命にあると聞いていた。もし、幸運にも生まれ出でることがあっても、それが男子であればその場で殺められてしまう。あの場からふたりで逃げ出していたとしても、生きる道はなかった。きっとすぐに捕まえられてしまったであろう。

 気の薄い西の果て。罪人はそこの場所の開墾に携わっていた。栄養状態もきわめて悪く、働いていた者は次々に倒れていった。彼自身も、何度か生死の境を彷徨ったことがある。

 だが、出来ることなら生きながらえたいと思った。もしも生きていれば、この空の果て、どこかに彼女がいる。いつまでも自分を思っていてくれるとは信じ切ることが出来なかったが、それでも元気でいてくれれば。それだけが生きる望みだった。

 西の集落の者は、他の民と交われば己の面影など残さない子を宿す。鏡のように、相手の姿形を写し取るのだ。そうはいっても、この子はあまりにも自分に似ていた。身体の骨格から髪の色、肌の色、瞳の色。流れ着いた時に自分が里の者に好意的に受け入れられたのも、この隠せざる事実があったからであろう。

 

「おっ……、お前なんてっ、父上じゃないっ!! お前は、木麻のことが好きなんだ。オレのことなんてどうでもいいくせにっ!!」

 そこまで言うと、感情が高ぶったのか顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。しばらくは声を漏らさぬよう、唇を噛みしめて堪えていたが、とうとう大声でわめきだしてしまう。

 彼は、小さな勇者のそんな姿をやわらかな瞳で見つめ、ゆっくりと歩み寄った。すぐそばまで行くと、腰を落とす。立っている子と視線が同じになった。

「なっ、なんだよぉっ! 木麻ばっかり可愛がってっ……! いつもいつも木麻ばかり抱いて、あやして。やっぱりオレなんてどうでもいいんだっ……もうっ、木麻がいればいいって思ってるんだっ!」

 しゃくり上げながら、それでもまだ悪態をつく。まあ、彼としてはどんな風に言われようとも、目の前の子が可愛いと思うことに変わりはない。

 

 ――下の子が産まれると、上の子が不安定になる。時によっては反抗したり、赤ん坊に戻ったりする。

 そう聞いていた。だが、実際に対してみるとなかなかにして厄介で、どこから崩したらいいのか分からない。でも、話を聞いてみると、思い当たることはいくつもあった。

 

 妻が夕餉の支度をしている間。赤ん坊がむずかるので、良く抱いてあやしていた。兄の方は日が落ちるまで野遊びに精を出している。だから、赤子を膝に置いたまま出迎えることが多かった。それが面白くなかったらしい。それまでは、父の膝は独占していたのだから。

 まあ、生まれたての赤子とはそこに寝かせているだけで愛らしいものである。更に妻が乳を与えたり、むつき(おむつ)を換えている姿なども物珍しい。兄の時はそんな時間を離れて暮らしてしまったため、見ることが出来なかったのだ。ついつい見入ってしまうのが、気に入らなかったようだ。

 

「君に父ではないと言われても。きっと里の皆は私を君の父だと疑いませんよ? ……可愛らしく思わないわけがないじゃないですか」

「だっ……だってっ…!」
 まだ何か言い返そうとする。でもこの子の頭ではもう言葉を繰り出すことが限界のようだ。立っているのも辛くなってしまったようで、とうとう「大嫌いだ」と告げたはずの彼にすがりついてきた。

「まあ…私も謝らなくてはなりませんね。ちょっと木麻にかかりすぎました。君を悲しませるつもりはなかったのですが……これからはもう少し、気を付けましょうね」

 そのまま腰に手を回して抱き上げた。こちらの首に腕を回してきた子は、まだ嗚咽を上げている。愛しい重みを感じ取りながら、一歩、また一歩と歩き出した。

 


 産まれた子が女子(おなご)だと知った時、彼は妻に告げた。この子は「木麻」と名付けたいと。妻は産後のやつれた姿で、それでも何かを感じ取って目を見開いた。そして、かすれる声で言ったのだ。

「……宜しいのですか?」

 生き別れの妹の名を付ける。それは、彼にとって惜別を意味していた。引き取られた家の者によって、売られてしまったという妹。きっとどこかの宿場で、悲しい運命を辿ったに違いない。方々を探し回った、でも見つからなかった。もう…生きてはいまい。それならば、我が娘を妹の生まれ変わりと思って、大事に育てようではないかと。

 


 ――その気負いが、もしかしたら敏感な子供の心に伝わってしまっていたのかも知れない。そう思うと申し訳ないとしか言いようがない。

 ようやく見つけた幸せを、味わうだけでは足りない。それを育んでいくために、いつでも努力しなければならないのだ。何故なら、幸福は壊れやすいものだから。信じて、守っていかなくてはならない。

 

 腕に抱いた子は、いつか寝息を立てていた。ずっと張りつめていた緊張感がほどけたのだろう。全てが上手く行ったとは思えないが、これからまた頑張ろうと思う。

 

 今年最初の羽虫が、水面ギリギリに飛んでいく。その行方を目で追って、彼は淡い微笑みをその口元に浮かべた。

完 (031029)


 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 立春を過ぎ、暦の上では春を迎えてもまだ余寒が激しく寒い日があります。でも、陽の光は日増しに強くなってきて、寒い中にも新しい季節の訪れを感じることがありますよね。それが「光の春」です。
 この言葉は、もともとはソ連で使われていた言葉で、緯度の高い国に住む人々の春を待ちわびる気持ちが伝わってくるような響きを感じます。……『空の名前』(高橋健司著・光琳社出版)より。

………

 季節外れのお話になってしまいました。これから冬を迎えるのに、春先の話もどうだろうと思いましたが、何となく「その後」のふたりを描いてみたいなとか考えて。

 この隠れ里の話も、また単発で書いていきたいし……何より「あの御方」の存在が全く明らかになっていないのが何とも。設定はあるのですが、どこからどう説明したらいいものか(汗)。


 


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