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…「並木通りのシンデレラ」番外編…

 

 

「う…んっ…」
 無意識のうちに声が漏れ出る。瞼を固く閉じたまま、手探りでネルのシーツを握りしめていた。

 ごくごく薄い膜をひとつ隔てて、自分の中に受け入れていくもの。それが見たことも触れたこともない内壁をゆっくりと刺激していく。ひだを順番になでるように、息を潜めて行われる行為。足の付け根から腿の内側、そこからつま先まで伸びる神経が、全て支配されていく。程良く愛されて温まった身体が重なり合っていく。

「はあっ…!」
 ぴったりと胸を合わせて自分に被さった肌。柔らかい煙草の香り、ミント系のシャンプーの匂い。それを鼻先で感じて、うっすらと瞼を開けて微笑んだ。

「千雪…」
 視線の先の人が微笑み返して。それから額にそっと唇を落とす。いつもと同じ仕草。次に起こることは大体分かるのに、繰り返される行為。確かめ合うための…時間。

「俺さ、こうして千雪が受け入れてくれるんだ、って思える瞬間が好きだな」

「…え?」
 彼は時々、不思議なことを言う。自分の頭では理解できない領域なので「哲学的」なのかなと考える。

「千雪に包まれて心から受け入れられてるんだな、と思うとき…どんなに満足するか、分かるか?」
 頬にかかった髪をゆっくりとかき上げられて、その先のうなじにキス。ぴくっと身体が反応する。繋がった部分が熱い。

「千雪の笑顔に溶かされちまいそうだ…」

「…やだ」
 軽く笑い声を上げて、そっと背中に腕を回す。自分の胸の先端が彼の胸に押し当てられて、形を変えていく。敏感になっている部分に襲いかかる快感にぞくぞくした。

「好きだよ…」

 そう告げるとゆっくり動き出す。探るように。何かを見つけようとするように、その部分に神経を集中させる。何も考えられなくなる…だから好き。抱かれるのが好き。

 昼下がりの彼のアパート。1DK、差し込む初冬の柔らかい日差し。二人の何もまとってない肌を照らし出す。2階だから誰も見てないと思いつつもいつもカーテンを一枚閉めてしまう。抱かれる、と思った瞬間に。

「あ、あんっ…! は…はあっ…あ…」
 布団に顔を押し当てて、声を殺す。身体を横にされて激しく突き立てられると、奥の方までえぐり取られるような気がする。心が乱れていく、大きな波に支配されていく。脳の奥に直接に打ち付けられている感じ。

「馬鹿、こっちを向けよ」
 肩をぐいっと掴まれて、身体を仰向けに直される。片腕で千雪の右足を高く上げながら、もう一方の手のひらが顎を固定する。

「やあっ…あ…!! ねえっ、声が…あ…お隣りに聞こえちゃうでしょ…」
 安アパートの薄い壁を隔てた隣りの部屋の住人は高校を出たての浪人生だ。さっき、洗濯を取り込みにベランダに出たとき丁度顔を合わせたので挨拶した。千雪はここに通い始めて3年になるから、隣りの住人の様変わりも知っている。タオルを持って引っ越しの挨拶に来たその人と最初に顔を合わせたのは彼ではなくて千雪だった。すれ違えば、会釈する。そんな人があちらの部屋にいると分かっているのに、恥ずかしかった。

「…いいじゃないか、聞かせてやろうよ?」
 そう言った彼の顔が征服者の色を見せる。口の端が歪んで持ち上がる。

「駄目だよ…そんな。悪趣味…!!」 
 手のひらが顎を離れてすすすっと身体の上を這う。ふたつのふくらみの片方をぎゅっと掴まれて先端を刺激される。逃れられない快感、痺れていく身体…溶けだしていく、芯の奥の方から…。

「章人ぉ…やめて!! もう、駄目っ…」
 無意識に身体を剥がそうとしてしまう、でもそのたびに膝から腰から引き戻される。彼の力にかかれば千雪の小さな身体などひとたまりもない。

「や…!! ああっ!!」
 しつこいくらいの攻めに身体は翻弄されていく。激しい息づかい、飛び散る汗…ストーブを付けない部屋で火照る身体。熱を帯びた手のひらがもう一つの感触を身体に埋め込んでいく。

「…そうだ…っ!! もっと高く声を上げるんだ、聞かせてやれ、あいつに…!!」
 荒い呼吸の中から、かすれた声が聞こえる。滅茶苦茶に突き立てて、えぐり回されて…もう意識が飛んでしまう。

「あ、章人…っ!!」
 声が潤んでいく。ぞくぞくした快感は涙腺を緩ませる…涙が滲んできた。

「…あいつ…俺を見て、睨んだんだ。きっと、千雪に気があるんだよぜ…許せない…!!」

「…え? …あ、やああっ!! …あ…ああっ…!!」
 何か訴えたくても、声にならない。必死に言おうとするとそれはそのまま部屋中に響く喘ぎ声になってしまう。もう気が狂ってしまいそうだ。

「千雪は俺の物だ、誰にも渡さないっ…他の奴になんて…指一本も触れさせるもんかっ…!!」
 怒りがそのまま激しさに変わる。いつも以上に長くて強い刺激にふっと意識は遠のく。

 それでも、自分の中で彼がはじける瞬間は感じ取る。最後に残った感覚で。

「…千雪…!!」

 ゆっくりと数回腰を前後した彼が、そのまま倒れ込む。これ以上、くっつけないほど身体を密着させたまま、息が戻るまで解放してくれなかった。

 

◇◇◇


「…ごめん…」
 額にかかる息で、ふうっと意識が戻った。いつの間に眠っていたのだろうか、部屋の中は夕日の色で赤く染まっていた。きつく絡みつく腕。そこから生えている産毛が赤いライトに照らされて金色に見える。

「しんどい…? また、やっちまったな…」

「ううん…」
 申し訳なさそうな声に、ついついかぶりを振ってしまった。ふうっと安堵のため息がこぼれる。胸までのまっすぐな髪を梳きながら、彼が千雪の胸元に顔を埋めた。すがるような抱擁。許しを請う姿。

「俺さ、不安なんだ。千雪はモテるから、他の男のものになっちまったらどうしようって…千雪が微笑みかけてくれると、本当に嬉しくて独り占めしたくて…」

「…そんな。私だって章人だけだから…」
 些細なことで心配する彼が少し悲しかった。自分の気持ちを疑われているようで…そして、こういう形でしかその想いをぶつけられないほど追いつめられている彼が。

 大学は共学だから、卒論の担当教授の所にも、同じ講義を受講する仲間も半分以上は男だ。友達として声を掛けられることもある。談笑することもある。それすら近頃の章人には面白くないらしい。

「どうしたの? 就職のことで、イライラしてた?」
 軽くウェーブのかかった短い髪。母親が子供をなだめるように抱き寄せる。この人は強いんだか弱いんだか分からないときがある。

 二人は4年生だ。次の春には大学を出て、就職することになる。彼は他の仲間達のように教職者にならないと言う。教育学部に重きをおく自分たちの大学では珍しいことだ。
 狭い6畳の部屋には地震が来たら恐ろしいと思うほど本棚が並んでいて、ぎゅうぎゅうに本が詰まっている。今時の学生には珍しく、読書量が半端じゃない。床が抜けそうなので定期的に田舎に送り返しているようだが、そうしてスペースが空けばまた古本屋に走る。ひなびた古い本の匂い…ブラックジーンズにあっさりした白いTシャツ…バイトに明け暮れる彼を苦学生だと思っていた。それが聞いてみると地方都市の資産家の息子だという。卒業後は田舎に戻って家業を継ぐことになっていたのだ。

「…そうじゃないけど…」
 歯切れの悪い返答。言おうかやめようか思いあぐねている姿。そして、ふいにぎゅっと回された腕に力がこもった。

◇◇◇

「なあ、千雪」

「え? …何?」
 にわかに変化した声色にどきりとする。彼はいったん、千雪から身を離してこちらをじっと見つめてきた。

「千雪は本当にいずれ田舎に戻るのか?」
 心なしか熱を帯びた視線。吸い込まれそう。

「…え、ええ。だって、父の看病があるから…」

「お父さん、まだ良くならないの? 長患いだなあ…そんなこと、他の人に任せておいて。俺と一緒に来ないか?」

「…え…?」

「両親が。千雪のことを話したら…そんなに気に入っている子がいるなら一度連れて来いって」

「……」
 千雪は黙ったまま、大きく目を見開いて章人を見つめた。訴えるような視線が何を語っているのか、さすがの千雪でも分かった。

「千雪?」
 顎を持ち上げられて、すうっと柔らかいキスが落ちてくる。先ほどまでの執拗な行為の影もなく、いつもの穏やかな彼に戻っていた。

「結婚しよう、千雪。俺は千雪以外の女はもう考えられない。ウチの両親だって絶対に千雪のことが気にいるから、安心して…何ならお父さんの具合が良くなるまで話を延ばしてもいいけど。とりあえず確かな約束が欲しいんだ、そうじゃないと千雪をここに残して戻れない…」

 千雪は東京都の教員採用試験には受かっていた。でもこの就職難のご時世、どうなるか分からない。一応連絡待ちと言うかたちになっていた。もしもそれが上手くいかなければ自分も田舎に戻ろうと決めていたのだ。

「どうしたの…? 嫌なの、まさか…」
 千雪が黙ったままなのに不安になったのか、章人が顔を覗き込んでくる。ハッと気付いて大きくかぶりを振っていた、頭の中を占めていた思考を振るい落として。

「…ううん、そんなことない。びっくりしただけ…」
 取り繕うようにそう言うと、彼の胸板に額を押しつけた。絶対に覗き込まれない姿勢でぎゅっと唇を噛んで、涙を堪える。この涙ですら、彼は感激の末のものだと勘違いするだろうから。

「どうして今更。俺が最初から千雪にぞっこんで、どんなことをしても手に入れようと躍起になっていたのを知っているだろう? 他の男なんて蹴散らして、ようやくゲットしたときの嬉しさと言ったら。それは今でも全然薄れることはない、…3年も付き合って良く飽きないなと言われるけど…千雪に飽きる奴なんているわけないだろ? たとえ、この先一生、何があってもこの気持ちは変わらないから…」

 女として、これ以上の言葉があるだろうか? 黙って聞いているだけで涙腺が緩んでしまいそうだ。だめ、堪えなくちゃ…必死で自分の心と葛藤する。そんな自分が悲しかった。

 

◇◇◇

 高校までの章人は、この長身に加えてルックスの良さと頭のキレで結構モテたらしい。言葉は悪いが使い捨てにした女の子も多いようで、千雪と付き合いだしてからも諦めきれない子がアパートに乗り込んできて、修羅場を演じたことも数回ある。きちんと彼女として付き合った人だけでも両手両足使って数えると言うからびっくりだ。
 そんな彼だから入学当時から目立っていた。教育学部が主の小さな大学で、新入生は全部を合わせても500人程度。章人と千雪は学部は異なるが、それでも雑踏の中に白いTシャツ姿を見つけるのはそんなに大変なコトではなかった。4月の終わり、GW中に行われたオリエンテーションで偶然、班が一緒になった。気が付くと隣りにはいつも彼がいる。バスの移動の時も、食事の時も。他の女の子の視線が痛くて困ったなあと思ったが、嫌ではなかった。さり気ない会話も楽しかった。ジョークを飛ばすのも上手くて…千雪が思わず吹き出すと、章人も嬉しそうに微笑んだ。

 2泊3日が終了して、それきりになるはずだった。キャンパス内で見かけても一瞬だったし、いつでも女の子の取り巻きがたくさんいて。アイドルみたいにモテる人だと思った。
 千雪もアパートの近所の中華料理店のバイトに加え、家庭教師の掛け持ちもしていた。忙しい毎日で彼とのささやかなやりとりはステキな思い出のひとつに変わる…そう考えていた。

 

「…佐倉さん」
 一般教養、政経の講義の最中だったと思う。大きな講堂の一番前でマイクを使ってごにょごにょしゃべる教授の言葉に必死に耳を傾けていたら、ふいに背後から囁かれた。

「え?」
 くるりと振り返る。その瞬間、気付いた。周囲の学生のほとんどが居眠りをしていたことに。午後の丁度眠くなる時間だったとはいえ、コレがある程度の学力のある人達のすることだろうか。呆れながら視線を泳がせるとその先に章人がいた。

「…あら」
 言葉を交わすのはあれ以来のこと。2ヶ月以上立っていた。彼が自分の名前を覚えているのも意外だったし。

 でも、次の台詞にはもっと驚かされていた。

「今度、教授が後ろを向いたらずるけようよ。もう出席は採ったんだし、助手の先生も戻っちゃったし。2人ぐらい抜けても分からないだろ?」

「…え? でも…」
 講義を抜けるなんて。千雪には考えつかなかった。それなのにすがるような彼の視線にだんだん、思考回路が浸食されていく。

「…渡したいものがあるんだ。ね、頼むよ」
 するするっと伸びてきた手に腕を掴まれる。

「ほら、今だ。…立って!」
 小声で叫ばれたとき、無意識に腰が浮いていた。


「…なあに? コレ…」
 学生用のロッカールームまで足を運ぶ。そこで章人から大きな紙袋を渡されて、千雪は途方に暮れた。

「何って。匂いで分かるでしょ? 俺の田舎、岡山だから…送ってきたの。君、好きだって言ってただろ? 桃…」

「…そりゃ、そうだけど…あの…」
 ものすごく大きなサイズ、10個は入っている。それだけで小柄な身体がよろよろしてしまう。

「味だって、絶対に保証済みだよ? 受け取ってくれるでしょう?」
 くすくす笑いながら、そう言う。笑顔もドキドキするほど格好良い。でも、いいのだろうか?

「あのっ…でも、こんな高価なもの。頂いてもお返しが出来ないわ…」

「そう?」
 千雪のよろめく姿があまりに情けなかったんだろう。持つよ、と紙袋を取られてから耳元で囁かれた。

「…俺、佐倉さんの気持ちが欲しいんだけど」

 


 そのあと、これで今日の講義は終わりでしょうとアパートまでバイクで送ってくれて。彼が千雪のこれからのスケジュールを知っていることにも驚いた。話をしてみると結構、正しい情報で。そして、信じられないことに彼がオリエンテーション以来、自分をずっと想っていて…いつか声を掛けようと狙っていたと知って、さらに驚いた。

 桃の御礼にお茶に誘って。その御礼に食事に誘われて。そのお返しに、彼のアパートまで食事を作りに行って…そんな風にして少しずつ、近くなっていった。するりと気付かないウチに彼は千雪の心に入り込んできた。

◇◇◇

「ああっ!!…長かった…っ!」
 初めて抱かれたのは秋の終わりで。コトが済んだあとに章人が大きくため息を付いて、感慨深く呟いた。

「…え?」
 もう慣れっこになった彼のアパート。日当たりのいい2階の角部屋。千雪のアパートと同じくらいの造りで男の人だからか、お風呂が付いてない。隣りが銭湯だった。
 今までで一番身体を密着させて。その上、何にも身に付けていなくて、恥ずかしいんだけど嬉しくてごちゃごちゃの心のまま、聞き返した。

「千雪のこと、こうやって襲う機会をいつもうかがっていたんだから。知らないだろ? お前、無防備でさ…心の中ではのたうち回っていたんだからな」

「…そうなの?」
 付き合い始めたのが6月の終わりで。でも男性経験がないどころが、男の子と付き合ったことすらなかった千雪はこんなもんかと思っていた。まあ、噂に聞く章人は中学の頃から女好きで言い寄る女に片っ端から手を出していたと言うし、そう言う意味では不思議だなと思ったりもした。
 でも千雪自身が恐ろしいほど幼い外見なので、そう言う気も起こらないのかなと考えて。家庭教師先の中学生の家で友達に間違えられてしまうことなど日常茶飯事だったし、挙げ句の果てに生徒の友達に「…妹さん?」 と聞かれたときは目眩がした。確かに生徒より背が低かったが…それなのに頑張って髪にパーマを掛けて、メイクすると「七五三」みたいなのだ。

「あんまり乱暴なコトして、嫌われたら大変だし。どうしよう、どうしようって…今時の中学生だってここまで純じゃないぜ。発狂するかと思った、自分でも信じられないほど忍耐強かった」

 そう言いながら、またも手のひらをするすると千雪の身体に伸ばしてくる。はだけた毛布の下に愛された痕跡の生々しい胸元。赤い印の上に嬉しそうに唇を寄せる。その息づかいが荒くなって、驚く暇もなく、また彼に身を委ねていた。

「好きだ…好きだよ。本当に、こんなに夢中になれる女がいるとは思わなかった。…信じられないよ…」

 体中が先ほどまでの激しさで重く沈んでいる。こう言うことをしてしまう自分が信じられなかったけど、嫌ではなかった。むしろこうなりたかったのかも知れない。毎日のように通っているバイトがお店の臨時休業で休みで。家庭教師の仕事もなかった。「今日は、ゆっくり出来るの」そう言いながら、いつもより手の込んだ食卓を整えて。自分の指先を章人の視線が熱っぽく辿っていることに気付いていた。

 

◇◇◇


「来週末、空けておいて。一緒に岡山に帰るぞ…約束だからな、逃げるなよ?」

 お風呂のない部屋ではシャワーを浴びることも出来ず。かろうじて付いているキッチンの湯沸かし器でお湯を貰い、身体を拭く。元のように服を着込んで髪を整えると、それを待っていたように章人が背後からすり寄ってきた。

「…あ、やんっ…、時間がないの…バイトに遅れちゃう…っ!!」
 当然のように胸と足の間の敏感な部分をまさぐられて、必死で身体をねじる。章人はまだ服を着ていない。親に反対されて東京の大学に来た彼は、ずっと仕送りなく過ごしていたが4年生になって卒論が忙しくなると親も折れたらしい。卒業後戻るという息子の言葉に心を許していた。そんなわけで、今の彼はバイトをしていない。一方、千雪の方は相変わらずだ。

「…バイトなんて、さぼっちまえよ…」
 熱い息で耳元を探られる。

「だめ!! …やあっ…ねえ、離して…!!」
 知らないうちに熱くなっていく部分、それを章人が感じ取っているのを知りながら、それでも訴える。首をねじって振り向いて抗議の色を見せると、ようやく降参したように腕を解いてくれた。ホッとする。章人はこう言うとき、服を脱がせないでそのまま後ろから突き立てて来ることもある。出かけにそれをされるとかなり辛い。中華料理店のバイトは立ち仕事だ、体力はないとやっていけない。

「はいはい、千雪のそういう真面目なところが好きだから、今日の所は我慢する。…でも、明日も来いよ?」

「…うん」

 午前中、研究室で卒論のコトを色々やって。そのあとここに来て章人に抱かれて。それから夕方のバイトに行く、当たり前のような日常が出来上がっていた。バイトのない日は泊まることもある。ちょっとのめりこみすぎかなと思う日もあるが、章人の方が会わない日は不機嫌になる。千雪を独占したい気持ちがさらに強くなるらしい。その想いに応えることは決して苦痛ではなかった。

「じゃあ、時間だから」
 時計を見ながらそう言うと、優しく抱き寄せられる。短いキス。

「好きだよ、離さないからな…」
 熱い視線に応える。出来る限りの微笑みを浮かべて。

「じゃあ、また明日ね」

 ぱたんとドアを閉めて。そこでようやく大きなため息が出た。

 


 赤い色に染まった道。ここから自分のアパートまでは徒歩で30分ぐらいだ。考え事をしながら歩くには丁度いい。長く伸びる自分の影を踏みながら、千雪は恋人の言葉をひとつずつ頭の中で反芻していた。そして、もう一度大きくため息を付く。

「…結婚、かあ…」
 その言葉が自分の中で全然、響いてないことに気付いていた。むしろ冷たいものが背筋を流れた。とうとう踏んでしまった地雷のように。

 もちろん、章人のことは好きだ。愛されて、大切にされて…こんなに嬉しいことはないと想う。一緒にいて楽しいし、出逢った頃と少しも変わらずに接してくれる。難点を言えば、ちょっと嫉妬深いコトぐらいだ。そのせいで、理系の千雪は割りのいい高校生の男の子の家庭教師をすることが出来ない。千雪の教え方が上手いからと、生徒の親から、兄の分もと頼まれることも多いのだか、そんなことをしたら章人が何というか怖い。別にやましいことなどないのに、同じ部屋に2人きりでいるだけで面白くないみたいだ。

 でも。

 千雪には3年以上も付き合って、彼に言えないままのことがたくさんあった。

 両親が離婚していること、そしてただ1人の肉親である父親の病気は治ることがないこと。若くして痴呆の症状が出てしまった父は今、ショートステイのサービスを受けながらどうにか生活していた。田舎にいる父の妹に当たる叔母がその面倒を引き受けてくれている。せっかく入った大学を中退させてしまうのは忍びない、そんな叔母の愛情は心苦しかったが嬉しかった。
 でも、いつまでも甘えることは出来ない。父の介護も自分がなりたかった教師という職業でまかなえるような金額ではない。自分しか父を養えないのに、この細腕では対処のしようがないのだ。ゆくゆくは田舎に戻って、どんな辛い仕事でもこなして行かなくてはならないだろう。

 多分、親の離婚のことだけでも結婚にはマイナスになるだろう。章人の実家は結構プライドの高い有力者の家系らしい。実際に会ったことはなくても、恋人の言葉の端々に感じる物があった。

 章人は自分の味方になってくれるだろう、それは信じている。3年間の愛情を疑いたくない…でも。

 分かっていることがある。

 章人のあの執着心の強さ。あれは多分、…両親の性格の遺伝ではないか? 彼らも息子に対する愛情がものすごい。東京の大学に行くなら学費以外の援助は一切しない、と言い放ったそうだが、定期的に送られてくる宅急便の内容がすごい。衣類から食材まで。1人では食べきれない量の物が頻繁に送られてくるのだ。病気の父と二人きりの千雪にしてみると別世界の出来事だった。

「…結婚、か…」

 足元の石を蹴りながら。段々黒の割合の大きくなっていく細道を歩く。

 カウントダウンが近づいてきた。千雪の心の中で。ずっと来ないで欲しかった、その瞬間への。

 季節は秋から冬へ。静かに巡り行く。でも冬はやがて春になる…春は再び誰の元にもやってくる。そう知りながら。千雪は自分が決して明けることのない暗がりの中に吸い込まれていく気がしていた。

 まとわりついて、まとわりついて…自分の全てを打ち壊すもの。それに向かって着実に歩み始めていた。

Fin (20020610)

 

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