陽の当たる場所を選んで歩けば、枯れ草の下に隠れたぬかるみに足を取られそうになる。一歩ずつ、しっかりと確かめながら進む道。けれど、自然にこぼれてしまう微笑みが口元を柔らかく色づけている。 なだらかな傾斜面は若葉色にふわりと彩られていた。竜王様の御館とは目と鼻の先にある場所なのに、ここはまるで別世界。せわしなく通り過ぎている日々から抜け出して、のんびり気分を味わうことが出来る。その風景はどこか生まれ故郷にも似て、訪れるたび身体ごと懐かしさに包まれる気がした。 「あ、春待ちの草だ」 思わず声に出して叫び、そのあとハッとして辺りを改める。他に誰もいないひとり歩きなのに、こんな風にぶつぶつと呟いていてはおかしな姿だと思われてしまう。 日溜まりの一角を柔らかな色彩に染め上げる薄桃の小さな花たち。顔を近づけてよくよく見れば、それは中央の花心の辺りだけにほんのりと色が付き、花びらの先端はほとんど白に近い。幼き頃、生まれ里で親しんでいた頃はそのような細かいことにまで気を遣っていなかったように思える。本当にあっという間に時は流れていく。そしてまた、今年も大好きな季節がやって来た。 毎年春から夏にかけてが、御館の使用人たちの入れ替えの時期になる。方々の集落から任期を決めて派遣された者たちは、役目を終えれば故郷へと戻っていく。それと入れ替わりに新しい者たちが希望に満ちあふれた顔ぶれでやってくるのだ。かつての自分たちもそのような姿であったのかと、この頃では妙に年寄りじみた心地で眺めてしまう自分がいる。 「柚」 不意に名を呼ばれてゆっくりと振り返れば、長くたらしたままの髪が少し遅れて動きに従っていく。 そこに立っていたのは、お務め帰りの姿のままの人。かなり急いで道を進んできたらしく、軽く息が上がっているのが少し離れた場所からでも分かった。 「驚いたよ、こんなに先まで辿り着いているなんて。もう少し待っていてくれれば良かったのに、本当にせっかちなんだから」 口惜しそうな素振りは見せるが、そこに非難めいたものは感じられない。足場の悪い水たまりもあっという間に飛び越えて、彼はすぐに間近までやって来た。 「だって、……静かな場所でゆっくりと文を読みたかったんだもの」 まずはそう告げてから、胸元に忍ばせていたそれを取り出す。華やいだ色目の薄様紙、そこに並んだ懐かしい文字。 「瑠璃様、女の赤さまだったって」 遙か南峰の地より届いた文には、三人目の子を無事産み上げた友の喜びに満ちた言葉が綴られていた。 「へえ、……今度は瑠璃さんに似ているのか。それじゃあ、きっと今頃満鹿は大はしゃぎだろうな。あちらではしかるべき役職を与えられたと聞いているけど、あいつ無事にこなしているのかなあ」 彼らが南峰に戻ってしまうと聞いたときは、本当に悲しかった。いつかはそんな日が来るとは覚悟していたが、まだ今少しは一緒にいられると思っていたのに。だが実家では家族が待ちわびているのだと聞けば、無理に引き留めることも出来ない。それまで決められた任期を何度か延ばしてもらっていたのだから、今度こそは覚悟を決めなくてはならなかったのだろう。 「うん、でも面白いね。生まれてみないと、どちらに似ているかも分からないのだから」 異民族の交わりは、最近ではそう珍しいことではなくなってきた。以前に比べ人々の考え方も柔軟になっていたし、だいぶ年配でも理解を示してくれる者が多い。 彼女は今、きっと様々な想いを抱いているのだろう。届けられた文に書き留めた言葉以外にも、まだいい足りぬたくさんのことがあるはず。その瞳が眺める庭には、今どんな花が咲いているのだろうか。 「そうだね、こちらまでドキドキさせられるくらいだから。……でも、結局はどちらでも構わないんだよ。無事に健やかに生まれてさえくれたら」 きらめく袂(たもと)が、ふんわりと自分を包み込んでいく。 表の侍従見習いとして任に付いてからわずか一年で、遠征団の団長に抜擢された彼。その功績を認められ、周囲の者たちが目を見張るほどに出世街道をひた走っている。本人には何の欲もなくても、やはり優れた人材は周りが放ってはおかないのであろう。身内としては誇らしい反面、取り残されたような一抹の寂しさも感じてしまう。 「余市……苦しいよ」 しっかりと着込んだお務め用の装束、逞しい腕にきつく抱かれては身動きも取れなくなる。軽く身じろぎすれば、彼はハッとしたように力を緩めた。 「あ、ごめん。少しきつすぎたかな?」 心配そうにこちらをのぞき込む瞳に微笑み返す。軽く背伸びをすると、頬にそっと触れる手のひら。 どちらも西南の血を引く自分たちは、他の地の者たちからみるとまるで兄妹のようにも見えると言われる。背格好もかなり違い、さらに自分の方はそろそろはたちを迎えようとする今でもまだ女の童(めのわらわ)にも間違えられかねない外見であった。 「ううん、そんなことはないんだけど……」 この続きを言うか言うまいか、一呼吸の間に思案する。 「あんまりくっつきすぎると、余市の顔が見えなくなるの。……何だか、残念だなって思って」 互いに忙しい共働き、しかも同じ御館勤めとはいえ任されている場所が異なる。表の侍従である彼は、時間が空けば柚羽のいる「南所」まで足を伸ばして顔を見せてくれるが、それもすれ違うほどのささやかな間合い。戻る居室が同じこと以外は、独身の頃とあまり変わらない生活をしている。 彼はこちらから視線を動かすことはなく、喉の奥で低く笑う。にわかに色が変わる表情、艶めいた目尻が細くなる。 「……あ……」 静かに重なり合う唇。何かを探るように、そして導くように。 しばらくは夢中でお互いを確かめ合っていたが、全く別の場所で「ことり」と音がして我に返る。背に回した腕はそのままに、柚羽は軽く首を振った。 「……ごめん。柚があんまり可愛かったから、つい」 束縛を解いたあと、彼は恥ずかしそうに呟いた。 「誰にも見られてないからいいかなと思ったんだけどね」 すらりと長い指、何でもこなしてしまう器用な手のひらがそっと触れる場所。そろそろ衣の上からもはっきりとそのかたちをうかがえるようになった膨らみがあった。
年末年始の忙しさに追われて、この子を身籠もったことを知るまでにはだいぶ時間が掛かってしまった。 身体を覆うぼんやりとしただるさも疲れが溜まっただけだと思っていたし、月のものが遅れるのもよくあることであったので特に気にも留めていなかったのである。多分間違いないと薬師様の元に連れて行かれたときにはかなりの月数になっていて、皆をたいそう驚かせた。 空いた時間には仕方なくこのように野歩きをしたり、慣れない縫い物をしたり。この数ヶ月の間に、行動範囲はかなり広がったと思う。何年過ごしていても知らなかった発見はそこここにあり、楽しくて仕方ない。また子が産まれればしばらくは忙しく何も考える暇がなくなると思うが、それまではしばしの休息を楽しみたいと思っている。
「この子はいいなあ、朝も晩も片時も柚と離れずにいるのだから。こんな時にまで見張られているのでは、本当にやりにくいよ。多少は目を瞑ってくれてもいいのにな」 仲間内では「切れ者」で通っている彼がこぼす信じられない言葉に、思わず笑みがこぼれてしまう。 「そうね、こうして景色を眺めていても自分ひとりでいるような気がしないの。赤さまがおなかにいるって、本当に素晴らしいことなのね。ただ普通に過ごしているだけでも、幸せな気持ちが二倍にも三倍にも膨らむ気がするんだもの。見るもの全てがキラキラして、心躍る気分よ」 懐妊とはもっと辛く煩わしいことばかりだと思っていたが、我が身に限って言えばそうではないらしい。つわりもほとんどないに等しいくらいであったし、皆が訴えるような苦痛は今のところ全く味わったことはなかった。実は多産向きの体質であったのではないかと考えてしまうほどである。 自分だけがこの楽しみを味わうのは申し訳ないなと思う。 大好きな季節の訪れを、今年はおなかの子とふたりで眺めている。山間の生まれ故郷や大好きな家族と別れ、初めての奉公先で彼に出会ったのも春であった。それから数えきれぬほどの季節を共に過ごしてきた、永遠を誓い合ったのも忘れもしない花の夜。 「全く柚の心をがっちりと掴んで、またとない強敵だよ。必死に張り合おうとしても最初から勝ち目がない気がする、柚を想う気持ちなら誰にも負けない自信があるのに口惜しいな」 そろそろ戻ろうかと、腕を引かれる。ふたりの隣を花の香を乗せた気が通り過ぎた。
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こちらの歩みに合わせて、歩幅を狭めてくれている。 注意深く見守っていないと見過ごしてしまうほどに、彼の優しさはさりげなく奥深い。愛する気持ちも相手を思いやる気持ちも、みんなこの人に教わった。しっかりと包まれるときの満たされた心地、それに負けないくらい想い続けたい。 ひとつひとつ積み上げてきたささやかな幸せ。お互いをいつも確かめ合い、信じ合ってここまで来た。特別なものを何も持たない自分ではあるけれど、与えられたこのときを大切に過ごしていきたいと思う。 辺りがすっかり春めいて皆がその存在を忘れきった頃に降りてくる名残の霜。同じように少し遅れて授かったこの子が教えてくれる、幸せとはゆっくりと味わうからこそ良いのだと。 周りに合わせて急ぎ足になる必要などない、世界にただひとつのかたちを造り上げていけばいいのだ。
「……あ、そうだ」 御館の屋根が見えるほどに戻ってきてから、ようやく思い出す。急に足を止めたので、彼が振り向いた。 「お方様からね、半端な丈の布がたくさん残っているから縫い物にどうかしらと言われていたの。今日は荷物を持ってくれる人もいるし、丁度いいわ。少し遠回りして、あちらの居室に寄っていきましょうよ。余市がなかなか顔を見せないと、ご主人様も仰っていたわ」 そう提案すれば、彼はとても分かりやすく不満の表情を浮かべる。決して強く否定することはないが、あまり乗り気ではない様子だ。 「えーっ……、でもなあ。この時間だと、春霖様と鉢合わせしてしまうよ。この頃では、やたらと稽古の相手をせがまれるから参るんだよな。下手に力を抜くとやられてしまうし、その加減がとても難しいんだ」 まあ仕方ないかと苦笑いする仕草は、何年経っても少しも変わらない。この頃では身丈も伸びてすっかりとご立派になられた跡目殿は、未だに彼にしつこく食い下がっている。 全く困ったおふたりだことと微笑みを返すと、少し遅れておなかの子がぽこぽこと元気に動き出した。 「あら、春霖様のお名前を聞いたら喜んでいるわ。この子も早く若様にお目に掛かりたいみたいよ?」 そう告げると彼も確かめるようにおなかに手を当てて、そのあとうーんと首をひねる。 「違うよ、これはきっと俺を応援してくれてるんだ。こうなったら、今日は手加減なしで行くしかないな。格好悪い父親にはなりたくないからね」 大好きなこの微笑みを、いつまでも大切にしたいと思う。ふたりで歩む道がどこまでも続いていくといいのに。ささやかなやりとり、短い会話の中にも幸せの欠片が散りばめられている。 「あまりムキにならないで、頑張るのもほどほどにね」
淡く霞んだ天の下に広がる風景。きらめきのひとひらが、胸に静かに舞い降りる。分かれ道を右に折れて、なだらかな坂道をふたりはゆっくりと上り始めた。 了(070112)
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