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『清宮万太郎くんの事情』
…6…

 

 

「……あれ? どうしたの、万太郎くん」

 もしもし、と言う声が余りにもせっぱ詰まっていたのだろうか。電話の向こうで、愛美花ちゃんが驚いた声を上げた。

「家……じゃないね、もしかして車の中? なあに、この時間までお仕事してるの? 今日はお休みでしょ……?」

 ああ、いつかもこんなことがあった気がする。慣れない場所で道に迷ったとき、愛美花ちゃんが道案内をしてくれたんだ。どうしてだろう、いつもこんな風に困ったときに、ふんわりと手を差しのべてくれる。

 僕は情けないことに今にも泣き出しそうだった。色々な思いがせめぎ合って、もう口惜しくて情けなくて仕方なかったんだ。このまま、一晩中ひとりでいたら、発狂してしまうかも知れない。どうしたらいいのか分からない。

「しゅ……周五郎様がご自宅にお戻りにならなくて……で、僕……」

 これ以上は言えない、言うわけに行かない。大好きな愛美花ちゃんなのに……ごめんっ、本当にごめん。

 

 しばらく沈黙が続いて、それから彼女は「今どこにいるの?」と聞いてきた。本社の脇に車を止めているというと、ホッとしたように吐息を付く。

「それなら……ウチおいでよ。どうせアイドリンク防止とかいって、エンジン切ってるんでしょ? アルコールは駄目だけど、温かい飲み物でもごちそうするわ」

 


「とりあえず、ココアにしてみたんだけど……」

 リビングで毛布にくるまっていると、愛美花ちゃんがペアのカップを持ってやって来た。ホカホカと湯気が上がっている。電子レンジなんかは使わずに、熱湯で練ってから、温めたミルクを注いで作ってくれたんだ。そんなちょっとの心遣いが嬉しい。

「あ、ありがとう。……ごめんね」

 出迎えてくれた愛美花ちゃんはパジャマ姿だった。もうお風呂に入って寝るところだったんだ。

 いつも言ってる、受付嬢は体調管理が大切って。お肌の調子が悪かったりすると、何となく荒んだ気持ちになる。そんな風にしてカウンターに座っていたら、「ナカノ」という企業そのものが鬱陶しい感じに見えてしまうって。出来るだけ11時には寝るようにしてるんだって。お風呂上がりの愛美花ちゃんは髪の毛がくるんくるんしていて、すごく可愛い。

 玄関まで出迎えてくれた彼女は僕の手を取って「こんなに冷えちゃって……」とか悲しそうな顔をした。僕のためにそんな風に胸を痛めてくれるなんて、申し訳ないけど嬉しい。本当ならお風呂を使って欲しいけど、湯冷めしちゃうといけないからって、毛布を持ってきてくれたんだ。

 肩からガウンを掛けてる彼女は僕の隣にちょこんと座った。重みを感じないほどにふんわりと寄り添ってくる。それだけで胸がいっぱいになった。

「万太郎くん、働き過ぎだよ。そんなに無理しないで。運転手さんだって、体調管理は大切だよ。周五郎様を待つんなら、お家だって良かったのに……」
 決して責め立てる感じではない。本当に僕のことを気遣ってくれているのがよく分かる優しい言葉で慰めてくれる。もう、涙が出そうだった。

 

 カップが空になるまで、ぽつんぽつんと全然関係のない会話をしながら、ふたりで肩を並べていた。

 芸能人の恋愛話とか、政治や経済の話とか。ナカノに勤務してる女性って、すごく綺麗な人ばかりだけど、ちゃんと一般常識を身に付けているんだ。お偉いさんと対するときにも臆しないようにって、新聞はきちんと目を通して、ヤフーの速報とかもちゃんとチェックするんだって。

 愛美花ちゃんが僕のことを考えて、出来るだけ話をそらしてくれている。それが分かるから嬉しくて、また泣きたくなった。本当は聞きたいんじゃないかな? 僕が彼女に内緒で何をしているか。黙っていてくれるから嬉しいけど、でも心からゴメンって気分になる。

「私の誕生日、水曜日で良かった。万太郎くんはもちろん知ってるでしょ? 木曜日のパーティー、私も会場に行くんだ。何たって『ナカノ・マスコットガール』だもんね。万太郎くんも、行くの?」

 気が付いたように、彼女がふと今週の予定を口にした。そうなんだ、まだ外部には内密になっているけど(写真誌の取材とかが来るとうるさいから……という理由らしい)、周五郎様の婚約披露パーティーはもうすぐだ。だから……愛美花ちゃんに内緒にしている僕の仕事もあとちょっと。そう思うとホッとする。

 もしも、愛美花ちゃんの誕生日がこのパーティーに重なってしまったら。別の日に変えなくちゃならないところだった。前日は周五郎様もオフで、一日お家で過ごされると聞いている。愛美花ちゃんも担当部署じゃないから、早退しても大丈夫。別に他の日になったっていいんだけど、こういうのはタイミングだから。滞りなく済ませた方が格好いいしね。

 木曜日。僕は周五郎様を会場までお見送りして、そのあとパーティーでも側近の方々に混じって参加することになっていた。ただの下っ端の僕なのに、周五郎様のお声が掛かって。それに頭取が僕に会いたいと仰って下さっているんだって。すごく畏れ多いことだ。

 会場がどのくらいの大きさだとか、実はどれくらいの経費がかかるらしいとか、他愛のない話をして。そのあとふたりの言葉がどちらからともなく途切れた。

 

「ベッドに行く?」って、聞かれて。もちろん、特別の意味があってそう言ったんじゃないって分かってるけど、僕は静かに頭を振った。とてもじゃないけど、愛美花ちゃんと同じ布団に寝ていて、静かにはしていられない。絶対にしたくなっちゃう。今の僕は不安で気が狂いそうだから、そうなったときにどんな風になっちゃうのか怖かった。

 愛美花ちゃんは必死で首を横に振る僕を見て、くすっと笑う。それから、自分も毛布を持ってきてそれをかぶると僕にさっきよりもしっかりと抱きついてきた。

「じゃあ、私もここで寝る。携帯が鳴ったら、ちゃんと教えてあげるから。万太郎くんはゆっくり休んでいていいよ」

 

 ――そんなこと、絶対に無理だよ。そう思ったのに。

 ふかふかの毛布と愛美花ちゃんに包まれていたら、何だかそれだけでホットしちゃって。結局は夜明けに周五郎様からの連絡が来るまで、ぐっすりと寝入ってしまったんだ。

 


「清宮、頼みたいことがあるんだ」
 周五郎様にこっそりと呼び出されて、直々に調査を依頼されたのはある女性の捜索だった。人捜しなんてしたことがないけど、それを引き受けてしまったのには訳がある。

 だって……僕にこっそりと打ち明けてくれた周五郎様の目がとても真剣で、そしてとても綺麗だったから。

 ものすごい名家のお嬢様とお見合いして、でもって、その話はもう最初から決まっていたようなものだって田所様に聞いていた。今まで周五郎様は庶民の僕たちからは考えられないほどの出会いの場を提供され、それでもなかなかお眼鏡に適う女性に巡り会えなかったらしい。でも、今度は大丈夫だって。あの慎重な田所様がそこまで断言するのだから、そうなんだろうと思っていた。

 お話は一日経つごとに、どんどん進展していく。1月のお正月明けに出会ったはずなのに、もう2月の頭に婚約披露のパーティーまで内定されていた。

 そんなときに……どういうことなんだろう? これって、もしかしたらすごくやばいことなんじゃないの!?

 躊躇しなかったと言えば、嘘になる。でも、僕を揺り動かしたのは周五郎様の中にあるお気持ちを、何となく察してしまったから。

 誰かを、恋しく想う気持ち。それが、僕にはよく分かった。愛美花ちゃんと出会って、どんどん惹かれていって。僕は何ひとつ上手に出来なくて、いつでも彼女を怒らせてばかりだけど。それでも、ちゃんと付いてきてくれて。すっごく優しくて可愛い愛美花ちゃん。そんな彼女と一緒にいられる、満たされた気持ち。

 ――この気持ちを、味わって頂けたら。ひとときでもいいから。

 あんなに思い詰めた周五郎様を見たのは初めてだった。だから、叶えて差し上げたくなった。どう見ても、実ることなんてあり得ない、きっと行き先の決まっている恋。調べを進めるに従って、信じられないような事実がどんどん発覚して。でも……動じるどころか、かえってしっかりと揺るぎなくなってくる周五郎様に僕はますます惹かれていった。

 

 調べる、と言っても僕は素人。ひとりで何もかもが出来るわけはない。それくらいは分かっていらっしゃったのだろう。周五郎様は前もって、数名の人間の連絡先を教えてくれた。

 手帳を一枚破り取ったメモ用紙。それは電子端末に証拠を残さない唯一の手段。周五郎様は電子手帳を使われていない、そして「ナカノ」社員も出来るだけスケジュール等は手帳に手書きで書き込むようにと指導されていた。

 個人データを扱う胡散臭い事務所。外装の朽ち果てた感じとは対照的に、中はすっきりと整っていて、パソコンだって全部XPになっていた。大手の企業でも未だにWin98が主流だと聞いているのに。
 やくざのたまり場みたいな飲み屋に、赤提灯のおでん屋台。そこで次々に僕の前に現れる人間たちは、今までの「ナカノ」専務の周五郎様のイメージからはほど遠いものだった。

 もちろん、昼間は周五郎様の運転手として仕事をこなす。ほとんど田所様もぴったりと僕たちに寄り添っているから、新しい情報が入ってもすぐにお伝えすることも出来なかった。やっぱり田所様は怖い。あの、少しも笑ってない顔の下にどんな色の血が流れているんだろう。緑だったら嫌だなあ。

 愛美花ちゃんとだって、今までのようには会えなくなった。仕事が定時で上がったからご飯を食べに行こうとか、そんな風に誘い合ったりも出来なくなったから。彼女はきっと心のどこかで「変だな」と思っていたはずだ。でも僕が「今日は忙しいから駄目なんだ」と言うと「ふうん、じゃあ、お仕事頑張ってね」と引きずることなく電話を切ってくれたんだ。

 ……ごめん、ごめんね、愛美花ちゃん。

 正直、調べものが行き詰まりそうになると、愛美花ちゃんに会いたくなった。もう、何もかもを投げ出してしまいたい。だって、今僕がやっていることは、結局何にもならないんだから。ただ、周五郎様の気が済むように、後悔がないようにするだけの、実を結ばない仕事。もしかしたら、かえって彼を傷つけることになってしまうかも知れない。……だけど。

「彼女に、会いたいんだ」

 苦しそうに呟く周五郎様の言葉。僕はただ、その想いに従うしかなかった。

 僕が愛美花ちゃんが好きで好きでたまらないのと同じように、周五郎様もあの女性が好きなんだ。もしも今、僕の目の前に別の女の子を連れてこられて「この人と結婚しなさい」と言われたらどんな気持ちがするだろう。そんなの、絶対に嫌だ。僕は愛美花ちゃんと幸せになりたい。

 ……けど。僕なら難なく出来ることが、周五郎様には出来ない。あんなに何もかもに優れて、どんなものでも手に入れられるような場所にいる方なのに、一番欲しいものは諦めなくてはならないんだ。「ナカノ」という企業のために。田所様が強引に推し進めていく縁談、それを甘んじて受け入れることになるんだろう。

 僕に出来ることは、ただひとつ。周五郎様の最後の自由を誰からも邪魔されないままに遂行すること。最後まで破れない、あの女性の心の殻をどうにかして突き破りたい。周五郎様のために。

 

 心の中で愛美花ちゃんに両手を合わせて詫びながら、僕は必死に頑張った。ただただ、周五郎様の喜ぶ顔が見たくて、それだけのために。

 


「清宮っ! すぐに車をやってくれ。隣町の例のアパートだ」
 火曜日の仕事上がり。辺り一面が豆まきムードになっている頃、周五郎様は僕の耳元で早口でこう仰った。

 


 実は、愛美花ちゃんのアパートから周五郎様をお迎えに行った朝から、その女性とは連絡が取れない状態が続いていた。周五郎様はご自分の管理されている携帯電話で、いつもメールをしたり時間が空くと直接通話したりして、楽しんでいらっしゃったご様子だ。おふたりの会話まで知るつもりもなかったが、電話を切られたあとの周五郎様はいつも嬉しそうだった。

「爺が……動いたらしい」

 その言葉を聞いたときに、僕は背筋がぶるっと震えた。爺……田所様。田所様に僕たちの動きが知られている。と言うことは僕があの方に隠れて何をしているかも全てご存じで……?

 

 ――私の考えいかんでは、お前の将来などどうにでもなる。それを……分かっているんだろうな?

 

 あのときの田所様の射るような瞳がフラッシュバックして、そのすぐあとに愛美花ちゃんの笑顔がぶわーっと浮かんできた。足元の全てが崩れ去る瞬間、手のひらの内側にじっとりかいた汗。

 顔面蒼白になってしまった僕に、周五郎様は「お前は何も心配しなくていいから」と微笑んでくださった。きっと周五郎様のことを案じてのことだと誤解してくださったんだろう。その笑顔が胸に染みこんでくる。

 ……こんなにも、こんなにも信頼して下さっているんだ。

 

 頼りないばかりの僕だった。

 何の取り柄もなくて、大学だって何度も滑って。友達の間でも合コンの頭数合わせにくらいしか考えてもらえなかった。いてもいなくても同じ人間だって、面と向かって言われたこともある。

 だから、愛美花ちゃんが彼女になってくれても、不安で不安でいつ振られるかって、あなたなんて嫌いって愛想を尽かされるかって、びくびくしてた。自信なんて欠片もなかった。

 

「大丈夫ですよ、周五郎様」
 気が付いたら、そんな風に勝手に口が動いていた。

「有泉様だって、必ず周五郎様を思っていらっしゃるはずです。信じて、待ちましょう。何かこれには理由があるはずです。もしも、周五郎様のお気持ちが本当であれば、必ずそれが伝わっているはずですよ?」

 不器用だっていいんだ、格好悪くったって。一番大切なのは、相手を想う気持ち。それさえ本物なら、どうにかなる。愛美花ちゃんとの恋愛の中で、僕が学んだこと。

「ありがとう、……清宮」
 そう仰った周五郎様の目に、光るものがあった。この人に最後まで付いていこう。僕は強く強くそう思っていた。

 


「いきなり……大丈夫なんですか、踏み込んで。かなりたちの悪い男だと思いますけど」

 抜け道を使いながら、その場所を目指す。でも、有泉様……周五郎様のお心を捉えているあの女性が関わったという男は、とんでもない奴だった。いくら周五郎様が見た目に似合わず腕っ節がいいとはいっても、敵う相手じゃない。僕だって加勢できるほど、自信ないし。

「大丈夫だ、武藤から逮捕状を取ったと連絡が入った。あっちの方が早く着いているはずだから」

 バックミラーに映った周五郎様は額に手を当てて、目を閉じられていた。かなり憔悴したご様子だ。

 そうだろう、この二日、ずっとあの女性の連絡を待っていたんだ。携帯という繋がりしかなかったから、待つしかない。そりゃ、仕事場に直接訊ねていけばいいんだろうけど、そうするには彼は目立ちすぎる。なにしろ、二日後は婚約披露のパーティーが控えているんだ。周囲の目が光っている。

「武藤さん……それじゃあ……」

 赤提灯で出会ったのが、県警のお偉いさんだと聞いて、僕は仰天した。何だって、そんな人と知り合いなんだよ、周五郎様は過去に何かやばいことをしたのだろうか? とにかくよくサスペンス劇場とかに出てくる、ひとことでたくさんの人間がざざざっと動くようなすごい人。そんな人物までをも周五郎様は手中に収められているのだ。一体、「ナカノ」とは周五郎様とはどんな存在なのだろう。

「あとは……私が、しっかりするだけだから」

 その言葉の意味する本当の理由に、僕は数時間後、打ちのめされることになる。

 


「申し訳ない、明日は確か年休を取っていたんだったよね?」

 あのあと、しばらくして戻ってきた周五郎様は、女性を同伴していた。何度か遠目には見たことがある、有泉様という僕たちよりはいくらか年上の方だ。ただ、女性なんて日々の手入れやメイクでいくらでも年齢の衰えを阻止できる。
 僕も愛美花ちゃんから色々聞いて、いつの間にか詳しくなっていた。年齢は首や手の甲を見るとよく分かるとか。ニュートンの引力の法則には逆らえずに、年齢が進むにつれて顔はほっそりしてくるのにおしりや太股が逞しくなっていくとか。

 有泉様はそんな観点から拝見すると、実際の年齢よりは幾分若く見えた。周五郎様が落ち着いていらっしゃるから、並んでいてもどちらが年上か分からないほどだ。まあ、お送りする間は始終俯いて無言だったので、よく分からなかったが。

 指示された警察署まで車を走らせる。そこで周五郎様は武藤さんに女性を引き渡すと、さっさと引き上げていらっしゃった。きっと最後まで付き添われるのだと思っていたので、とても意外な気がした。

 

「清宮に……大切な話があるんだ。もう、お前にしか、頼めない。他の人間では無理だと思う。僕に全てを託してくれるつもりで、明日は付き合ってくれないか?」

 


「……ごめん、愛美花ちゃん」

 周五郎様をご自宅までお見送りしてから、僕は彼女に連絡を入れた。こんな風に謝るために電話をすることがもう何度目だったのか、自分でも数え切れない。ただただ、申し訳なくて、自分が情けなくて、仕方なかった。

「え? どうして……? だって、明日はお休みなんでしょう? 周五郎様は明後日のお支度で一日お休みを取っていらっしゃるんだし。何があったって、予定は入らないって。万太郎くんもそう言ってたでしょ?」

 電話の向こう側。愛美花ちゃんの声はうわずっていた。

「急に都合が悪くなったって……万太郎くんの話、よく分からない。きちんと理由があるなら、私に分かるように説明してくれたっていいじゃない。私っ……ずっと、我慢してたんだよ? 会えなくて、寂しくても我慢していたんだよっ……なのにっ……!」

 僕もすぐには声が出なかった。それくらい、ショックだったんだ。

 

 周五郎様が、仰った。

「私は、沙和乃さんに最高の一日をプレゼントしたいんだ。女性として生まれてきて最高に幸せだと思える一日を。誰にも邪魔されたくない、もちろんそのための手はずは整える。でも……やはり、成功のためには清宮、お前の存在が不可欠なんだ。私からの最後の我が儘だと思って、どうか承諾して欲しいんだ」

 そんな風に言われたら、断りようがないじゃないか。今まで、周五郎様のためを思って、周五郎様の幸せを願ってご一緒してきた。そりゃ、心許ない存在だったと思う。でも、僕にとっては今までの人生の中で一番必死になった数週間だったんだ。

 でもっ……愛美花ちゃんとの約束だって。彼女の誕生日に、思い出のあのホテルで過ごす。この前のクリスマスは僕の勇気がなくて最高の夜には出来なかったけど、今度は大丈夫。僕に出来る精一杯で、最高のバースディーにしてあげたいと思った。

 愛美花ちゃんと、周五郎様と。

 どっちも大切なんだよ。同じくらい、大切なんだよ。そして、どちらにとっても、明日は特別の一日なんだ。正直、選べない。選ぶことなんて、僕には無理なんだ。でも……。

 ごめんね、愛美花ちゃん。今の僕には周五郎様を裏切ることなんて、出来ない。

 僕は、愛美花ちゃんと一緒にいて、今までにたくさん幸せなことがあったよ。愛美花ちゃんみたいな可愛くて、僕にはもったいないほどの彼女を手に入れて、当たり前みたいに恋人同士みたいにしていて。胸一杯にふわっとふくれるあったかい気持ちでいつも満たされていた。

 僕にだって、頑張れば出来ることがあるんだって分かったから、こうして田所様がどんなに恐ろしくても周五郎様のために尽くすことが出来たんだ。僕の中の勇気は、全部愛美花ちゃんがくれたんだよ。だから、どうか最後まで、頑張らせて。

 

「ディ、ディナーはキャンセルするけど。でもね、日付が変わるまでには絶対に行けるから。ごめんっ、何にも聞かないで、でも待っていて欲しいんだ。僕、愛美花ちゃんにきちんとおめでとうが言いたい。だから……!」

 自分でもひどいことを言ってると分かっていた。勝手に約束をキャンセルして、せっかくの予定をフイにして、それでも待っていてくれなんて。理由も言わないで、それでも我が儘を聞いてくれなんて。

 長い沈黙が続いた。そして、そのあと。電話の向こう側で、はあっと小さな溜息が聞こえた。僕はもう、胸がぎゅーっと絞られるみたいに痛くなって、酸欠寸前。苦しくて苦しくて、仕方ない。

「分かった……待ってる」
 震える声が、かろうじて僕に届く。たくさんの電波に阻害されたみたいな、ちっちゃなかすれた声。

「ねえ、万太郎くん」

 僕が答える前に、彼女は更に問いかけてきた。傍にいたら、すぐにでも抱きしめたくなっちゃいそうな、切ない響き。

「私のこと……好き?」

 

 当たり前だよ、世界で一番大好きだよ――そう言って、通話を切る。僕の頬が、涙で濡れているのに気づいたのはそのあとだった。


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