その時、あたしの耳は外部の音を全て遮断していた。 頭の中が徐々に霞がかっていく。岩男くんがあたしに触れているから。十本の指の先が輪郭を捉えて包み込んで、耳たぶをかする中指。どこで傷つけたんだろう、新しい絆創膏が貼ってあった。それだけで、もういっぱいになってるのに。 あたしの唇をふさぐもの。これ、本当に岩男くんなんだろうか? もっとがさがさしているのかと思ってた。こんなにしっとりして暖かくて…優しい。でも、目を開けて確認することなんて、恥ずかしくて出来っこない。微かな震え、ぴくぴくっと伝わってきて、くすぐったいよ。あたしが震えているの? それとも岩男くん? 内側から心臓の音が響く。頭の中で反響する。首に回した腕から伝わる体温。思ってたよりも熱い。 どこか、遠いところに沈んでいくのかな。ふたりきりでどこまでも行くのかな。嬉しいな、岩男くんと一緒なら。
「菜花ちゃん…?」 「…どうして? 息を止めてるから、苦しいんでしょう? 鼻で呼吸するんだよ、こう言う時は」 「え…?」 それを。数学の公式を読み上げるみたいに、冷静に指摘しないでよ。 「そんなこと…頭、回らなかったもん」 「いっ…岩男くんこそっ…。どうしてそんなこと、知ってるのよ…」 言いかけた時にまた、唇が触れ合う。やだ、目を開けたまんま。もう恥ずかしさは最高潮だ。あたしは顔も耳も真っ赤になっていたと思う。当たり前みたいにリードしてくる岩男くんが信じられない。 「そりゃあ…ちゃんと勉強してるから」 「女の子と違ってね、男はきちんとしてないとみっともないだろう? それくらいのことは誰でも知ってるの…もしかすると、こんな風にいきなり迫られたりすることもあるんだから」 「うっ…」 あたしの知らないところで、岩男くんはもうとっくにハッピーでらぶらぶで。だから、あたしのことなんて、迷惑以外の何者でもなかったの? …それなのに。ああん、あたしってば、馬鹿馬鹿っ!
「今度は、ちゃんと途中で離してあげるから…おいで」 「ん…っ」 くっついたり離れたり。上の唇と下の唇を交互についばまれて。岩男くんが器用に動く。うなじと背中に回された手のひらがあたしを確かめるみたいに動いて。そして、だんだん呼吸が合ってくる。気が付いたら、岩男くんのリズムに合わせて上手に反応出来るようになっていた。 …もう、余計なこと、何も考えられない。あたしは自分の身体が透明な繭になってしまった気がした。そして、身体の中を徐々に満たしていくもの…岩男くんの存在。あたしはもう全身が岩男くんになっちゃう。されるがままって…こんなことなんだなと思った。
腕が解かれて、岩男くんの熱さが目の前から遠ざかる。その時に初めて、あたしの耳に夏の音が戻ってきた。鳴き始めのひぐらしの声、遠くの車のクラクション。自転車のブレーキ。…じんじんと熱を残したあたしの唇。もう、岩男くんの顔は見られない。きっと、見たら泣いちゃう。我慢出来ない。 あたしは触れ合った岩男くんを少しでも長く感じていたくて、両手で口元を覆った。 「岩男くんっ、…あのっ…」 きちんと呼吸を整えて、出来る限りの笑顔で。岩男くんを最後に見つめるなら、そんな風に特上のあたしでいたい。岩男くんの中に綺麗な姿で残りたい。膝に下ろした手でスカートをぎゅっと掴んで、それからせいの、で顔を上げた。 「岩男くんっ…ありがとう。あたし、嬉しいよ…お願いを聞いてくれて、本当に嬉しい…」
好きだったから、ずっと好きだったから。一緒にいたかった。岩男くんの彼女になって、公園でデートしてボートに乗って、駅前のソフトクリームショップでクリームチーズのソフトを食べるんだ。指を絡めて、表通りを歩く。もちろん学校の行き帰りだって一緒。図書館で勉強して、お昼は手作りのサンドイッチで。 …そして。 いつか、港の見える公園の観覧車に乗って、夕日に照らされるてっぺんまで来たら、キスするんだ。そうやって出来た恋人同士は永遠に幸せになれる。そんなの迷信だよって…きっと笑うだろうけど、やってみたかった。ずっと側にいたかった。
あたしの言葉を聞いてるのに、岩男くんは無言だ。何にも言わないで下を向いてる。どんな顔をしているのかももう分からない。その輪郭が、だんだん滲んでいく。泣いちゃいけないと思うのに、涙がまた溢れてくる。 「ご、ごめんっ…今日はもう帰るねっ…! ほんと、もう、こんなことしないから、安心して。好きだけど…もう、迷惑、絶対にかけないから。すぐには出来ないけど…あたしだってきっといつか…」 新しい恋が出来るのだろうか? 岩男くんのことを忘れられるほどの素敵な人が現れるのだろうか? …無理だと思う。だって、岩男くんは…あたしの全てだったから。安心させてあげたいけど、きっと無理だと思った。
「な、菜花ちゃんっ!!」 ふすまの方に歩き出そうとした時。いきなりスカートを引っ張られた。…え? ちょっとっ! これ、ウエストゴムなんだよっ!! そんな力一杯引き合ったら、伸びて…。 「きっ! きゃあああああああああっっ!!」 「うわっ!」
「な、菜花ちゃんっ…」 「な、…何っ?」 「あの…出来ることなら、諦めないで欲しいんだけど…」 …へ? ひぐらしの方が大きい声で、消し飛んでしまいそうな言葉。大好きな岩男くんの声じゃなかったら、聞き取れなかったと思う。 「岩男…くん?」 「オレも…菜花ちゃんが好きだから。ずっと…ずっと、好きだったから。多分…菜花ちゃんより前から。初めて逢った時から」 「うっ、嘘っ!!」 「岩男くんっ、あたしといるの嫌そうだったじゃないの。学校だって一緒に帰らなくなったし、声を掛けても嫌な顔してあっち行けって感じだし。…いつもいつも、避けてたじゃないっ!」 そうそうそう! あれは「照れ隠し」何て言う可愛いレベルではないわっ!! 楽天的なあたしですら、打ちのめれるくらいのすごさだったわ。 「だ、だって…」 全然、はっきりしない態度。何なのよ〜あの道場で見せる、精悍な態度はどこに行っちゃったのっ! あれくらいピシッとしてご覧なさいよっ!! でもって、しっかり説明してちょうだいっ! 「菜花ちゃんは、目立つんだ…側にいると、みんながこっちを見て、恥ずかしいんだよ」 「…へ…!?」 何言うのよ、こんなでかい身体で。岩男くんの方が百倍は目立つわよ。あたしなんてちびだし、岩男くんと比べたら、ゾウとアリみたいよ(…ちょっと、オーバーか?)。 あたしが非難がましく睨み付けると、岩男くんは言い訳するように呟いた。 「菜花ちゃん…気付かないから。菜花ちゃんってね、すごく可愛いから、全身からオーラが出てるんだよ。それも、下手なアイドルよりすごいと思う。だから、道を歩いていても、学校でも…テニスコートでも、菜花ちゃんだけはすぐに分かるんだ。それは嬉しかったんだけど…でも、一緒にいると、オレまで見られるから、それが嫌で…」 岩男くんは辛そうにはあっと息を吐いた。なんじゃそれ、そんなことであたしを避けていたの? そもそも、そんなオーラなんて、あたし持ってないよ。何言ってるのよ。 「菜花ちゃんが、俺の名前を呼ぶと…みんなが『何だ、コイツ?』って、顔でオレを見るんだ。そりゃ、小さい頃はさすがに気が付かなかったんだけど、小学校の3年生くらいになったらさ、男たちは菜花ちゃんの争奪戦に明け暮れてるし…あの中で一緒に戦うのは勝負ないなと思っちゃったんだよなぁ…とくにさ、あの政治家の息子、おっかなかったし」 「え…?」 「中学に入れば、またすごいだろ? 今度は高等部の先輩まで出てきたし。菜花ちゃん、毎日のように呼び出されるし、下駄箱手紙は掃いて捨てるほどだし…」 「…岩男くんっ!!」 あたしは、猛烈に腹が立ってきた。黙って聞いてれば、何言ってるのよっ!! 「どうして? 周りがどうしたとかこうしたとか。そんなことで、諦めちゃえるの? 岩男くん、自分の都合ばっかりじゃないのっ! あたしの気持ち、ちょっとでも考えてくれた? ずっと、岩男くんが大好きで、いつも辛い思いをしてたのにっ…今日だって、もう命がけで…玉砕覚悟で来たんだよっ!?」 「な、菜花ちゃんっ…」 「おっ、女の子に…こんな風に言わせるなんて、最低だと思わないのっ!! あたし、もう一生分、恥かいたからねっ…」 うえええええんっ、もうやだよぉ…恥ずかしかったんだから、口惜しかったんだから。こんな風にしないと、何もしてくれない岩男くんが。それなのに。あのとき、あたしはすごく幸せで…うっとりして、溶けちゃいそうだった。どうしても岩男くんのことを嫌いになれない、どんどん好きになっちゃう、自分が情けない。 「うわあああっ、菜花ちゃんっ! だから、もう泣かないでよっ…。オレさ、頑張るからっ…これからはみんなにどんなに白い目で見られたって、平気だよ。それに、今すぐには無理だけど、何年かしたら、きっと菜花ちゃんの彼氏にふさわしい立派な男になるから。そうしたら、もう誰にも何も言わせないよっ…!」 「岩男くん…?」 「しばらくはさ、あんな彼氏どうして選んだんだって陰口叩かれても…我慢してくれる? オレ、菜花ちゃんのこと、やっぱり諦められないって、思い知ったよ」 「ほ、ほんと…?」 ひとつひとつの言葉が真珠のようにころころと輝きながら心に転がり込んでくる。そして、さらに岩男くんはもごもごと口の中で何かを話し出そうとした。 「あ、あのさっ…」 「恥かきついでに言わせてもらうと…実は、今日、会長の携帯を鳴らしたのはオレなんだ」 「え…」 「本当ならさ、さっき菜花ちゃんが言ったように、あいつのことはり倒してやりたかったけど…もう自分を抑えられる自信がなかったし。夏の大会前にバスケのレギュラーをボコボコにしたらちょっとまずいだろ? もちろん、あれで埒があかない時は、出て行くつもりだったけど――ごめんね、怖い思いさせて…」 「…そんな…」 どうしよう、信じられない。こんなことって、あっていいのだろうか。岩男くんの目が、すごくやさしくてまっすぐにあたしを見つめてくれる。あたしだけの岩男くんに、本当になってくれるの? もうこれからはこの想いを隠さなくていいのっ…!?
「なっ…ななななななな、菜花ちゃんっ! 駄目だってっ…離れてっ…!」 「どうして…? だって、あたし、岩男くんの彼女でしょ? 彼女は、きゅーって抱きしめて貰えるんじゃないの?」 「それは…だなあ…っ!」 「何で? 照れなくたって、いいじゃない」
「い…岩男くんっ…?」 「あ〜、だからっ!! あのねえっ、ここはまずいんだからっ! もう舞台も小道具も揃ってるんだから、やばいんだよっ!! 分かってくれよっ…こっちだって厳しい状態なんだから…!!」 「へ…?」 …ちょっと? それは…あの、もしや、…そういうこと? あたしはさすがにちょっとひるんだけど、でも別にいいやと言う気にもなった。どうせ、おばあちゃんいないし、なんだかふたりとも盛り上がってるし。 「いいよ〜? このまましても。だって、あたし…はじめては岩男くんだって決めてるから。岩男くんになら、いつでもあげるよ?」 「だ〜〜〜〜めっ!?」
それなのに。岩男くんはきっぱりとそう言うとあたしを強引にお布団の中から起きあがらせた。そして、ぐいぐいと背中を押して、ちゃぶ台の部屋の方に追い立てる。ふすまをぴっちり閉めると、怖い顔でこちらを向き直った。 「菜花ちゃんっ!! 性行為はね、そもそも、子孫を残すために行うものなんだからっ!! こんな中学生で、まだ自分に責任が持てない年齢の人が安易に行っていいものじゃないんだよ、分かるねっ!」 「は…はあ…」 「あの〜…でも、そう言う時のために、避妊具があるんでしょう? この前、授業で配ったじゃない、コンドーム、あれを使えば平気じゃないの?」 「…馬鹿っ!!」 ひ〜、いきなり愛しの彼女を馬鹿呼ばわり? どうなってるのよ、あたしは本当のことを言っただけじゃないの。そんなに真面目な顔して、怒らなくたっていいじゃないのっ! 「あのねえ、菜花ちゃん。コンドームの失敗率は12%、安全だと言われている低用量ピルだってね4%は失敗するんだっ、完ぺきな避妊なんてあり得ないよ。もしも、今、菜花ちゃんが妊娠したら、その子をどうやって育てるの? これから高等部に行って、大学にも行くんだよ? 菜花ちゃんの将来のことを考えたら、あまりにもダメージが大きすぎるよ!」 「は、はあ…」 「菜花ちゃん、結婚出来るのは法律で、男が18で女が16だったよね? だから、万が一のことを考えたら、オレが18になるまでは絶対駄目っ! 妊娠して困るのは菜花ちゃんなんだからっ! オレ、中絶とか絶対に反対だからねっ!」 …今度は民法ですか。ああん、もう、話がとんでもない方向に〜〜〜〜。 仁王立ちになって、真っ赤になって、必死であたしに訴えてる。でも、そんな岩男くんが可愛くておかしくて、思わず吹き出してしまった。 「…菜花ちゃん、ちょっと、真面目に…」 「じゃあ、…岩男くんの18歳のお誕生日になったらいいんだね? …だよね?」
「彼女、送っていかないと…いけないんじゃないの?」
「男には男にしか分からない、やんごとなき理由があることもあるの」 その何だかとっても辛そうな顔に、また吹きだしてしまう。岩男くんはちょっとむっとした顔をして、そのままぴっちりとふすまを閉めてしまった。 おしまい♪(030429)
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