え…? それって、どういうこと? 岩男くんのものすごく緊張した目があたしを見ている。そうか、おばあちゃんがお出かけなんだね、それは分かった。あたしの質問に答えてくれたのか。うんうん。 「あの〜、岩男くん…」 ちょっと、この中腰の体勢は辛い。岩男くんは柔道で鍛えているから平気かも知れないけど、あたしは高校では家庭科部に入っていたの。やってることはほとんどが調理実習。どうにかお料理の腕を上げようと思って。 …あ、話がずれた。 とにかく、あたしが顔をしかめたら、岩男くんははじめて気付いたみたいにぱぱっと手を離した。汗ばんだ手をごしごしとズボンでこすると、立ち上がる。それから、無言でちりとりと箒を持ってきて、割れた欠片を集めた。
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「朝にはそんな話、してなかったんだよ。今日、菜花ちゃんがケーキを持ってきてくれるって言ったら、3人で食べましょうねとか言ってたし。それが…戻ったら、メモ書きがあって」 『木村さんのおばあさんから、誘われたので出かけてきます。高尾の奥の方まで行きますので、戻りは夜になります。干してあるお布団はそのままで行きますから、いれてくださいね』 木村さんはあたしも知ってる。パパや岩男くんのおばあちゃんのガーデニング仲間だ。とてもアクティブなおばあちゃまで、趣味はハイキング。綺麗な野草を写真に納めるのが好きで、一年中山歩きをしている。 「そしたらね、さっき、戻った頃に電話が来て。どうも、今年は紅葉が早いらしくて、本当は来週の予定だったんだけど急遽、早くしたんだって。お天気もいいしって、朝、いきなり決めたらしくて」 「ふうん…」 「おばあちゃんが好きだから、レアチーズにしたのに。ハッピー・バースディもみんなでやりたかったよね」 「そ…そうだねっ…」 「あの…岩男くんっ…?」 「なっ…、何っ!?」 「どこか、具合でも悪いの…? あしたから、中間テストなのに、大変じゃないの」 そうだよ〜岩男くんは一般受験だけどさ、それでもやはり内申点は大切だと思う。それに今の勉強は定期テストのものでも模試のものでも、それが全部受験勉強に繋がっていくのだ。だからこそ、緊張の連続で気が抜けない。 「ちっ…違うよっ…! 別に、そのっ…熱があるとか、具合が悪いとかそんなじゃなくて――」 「あの、菜花ちゃん?」 「なあに?」 「おばあさんが、いないんだけど」 「うん、そうだね。ケーキが一緒に食べられなくて残念だね。…どうする?」 「…じゃなくてっ」 「今、ここにはオレと菜花ちゃんしかいないんだけど」 「うん、…だね?」 「今日、オレ、誕生日なんだけど」 「うん、…だから、おめでとうって…」 そこまで来て、岩男くんは困ったように大きく肩で息をした。それから、がしがしと頭をかく。もちろん、きれい好きの岩男くんの頭からフケなんて落ちてこないけど…。 それから、もう一度しっかりあたしの方に顔を上げる。そして、ぬっと長い腕が伸びて、がしっと両手で肩を掴んできた。 「今日で、18歳なんだ。…だから、その…その、欲しいんだけど。菜花ちゃんが」
「――へ…?」 「欲しいって…何が?」 すると岩男くんが、言いにくそうに口を開いた。 「ええと…、全部」 あたしはもう、どうしていいのか分からなくて、ばばっと飛び退くと、そのまま反対側の壁まで後ずさった。 「ち、ちょっとっ…、待ってっ…、あのっ…」 「駄目なの…?」 「だだだだだだっ…だってぇ〜!」 だって、だってっ! 岩男くん、今まではふたりでいたって、全然そんな風じゃなかったよ? まるでお坊さんか仙人か!? …って言うくらい潔白だったじゃないの。いきなり豹変しないでよ、びっくりするじゃないのっ…! 「そうなら、そうと言ってよっ! そしたら、ちゃんとお風呂に入って、きれいに洗って…でもって、とっときの下着も付けて…準備万端で来たのに。今日なんて、本当に何でもないふつうのだし、お風呂は昨日の夜に入ったきりだし、…ああん、駄目なの〜!」
恥ずかしくて、どうしようもなくて。両手で顔を覆ってしまった。ほっぺが焼けちゃうくらい熱くて、くらくらする。それなのに、震える指先が冷たくて。体の中の体温調節がきかなくなったみたいだ。
「やぁ…っ!」 岩男くんはそんなあたしの頭の上でふうっと大きく息を吐いた。それから静かに静かに言う。 「あの…、どうしても駄目なら、今日はしないから。だから、泣かないでよ、菜花ちゃん…」 「…ほんと?」 背中を壁にくっつけて、膝を抱えて。その姿勢でゆっくりと顔を上げた。あたしの頭の脇に手をついた岩男くんは、心配そうにそんなあたしを見つめていた。 「うん、本当。菜花ちゃんが泣いてるのに、無理になんて出来ないから…もう、大丈夫だから」 「ごめん…なさい。あの…」 「ううん、オレもいきなりだったから。そうだよね、女の子は特別なんだから、色々とあるもんね。無理言って、困らせてごめん」 岩男くんは少し後ろに下がると、すっと立ち上がった。そして、あたしの方に手を差し伸べる。 「…え?」 「紅茶、いれ直すから。ふたりでケーキ食べよう? 誕生日のお祝いしてよ」 「岩男くんっ…」 「…でもね、菜花ちゃん。思いつきじゃないんだ、本当は、いつだって菜花ちゃんのこと、すごくすごく欲しくて、でもそんなの駄目だって、ずっと思っていたから。気持ちが走り出して、どうかしてた、…ごめんね」 はっとして見つめると、岩男くんがふっと微笑んだ。消えそうな、頼りない光。どこに行っちゃったの、いつもの岩男くんは。あたしの大好きな逞しくてしっかりしていて、どんなものからも守ってくれる岩男くんはどうしちゃったの?
手を引かれて立ち上がった。そして、その次の瞬間…。 「菜花ちゃん…?」 「ごめん、ごめんねっ…。ごめんね、岩男くんっ…あたし…」 「あたしね、すごく怖いの。怖くて、どうしていいのか分からないの…でもっ…!」 言葉にするのももどかしい想い、それが溢れてきて抑えきれない。あたしの中に確かに満ちている想いはもう、岩男くんじゃなくちゃ支えきれないよ。 「岩男くんが、好きなの、大好きなのっ! …だから、いいのっ…!」 「え…?」 ああん、何て言ったらいいの? 最初の時に、思いっきり引いちゃったから、今更言葉にするのが難しい。どんな風に伝えたら、スムーズに伝わるんだろう? 頭の中が真っ白になっちゃって、気の利いた単語が浮かんでこない。いきなり「メイク・ラブ」とか、英語になっちゃっているんですが…、あああ、どうしよう。 「い、岩男くんっ…あの、あのねっ…」 「せっ…セックスしよ? …あの、いいからっ! 岩男くんにあたしを全部、あげるっ…!」
岩男くんの身体が、いきなり畳の上に落ちた。いわゆる「腰が抜けた」と言う状態なのだろうか? 「きゃああっ!」 「いっ、いいのっ!? 本当にっ…いいの!? 本当にっ…、菜花ちゃんっ!」 あたしがこくこくと頷くと、肩を掴んだままで、は〜っと大きく息を吐いた。それからものすごい力で抱きすくめられる。 「ああ、嬉しいっ! …いいんだねっ? 本当にいいんだねっ、菜花ちゃんっ…!!」 …ぶわっと。何だろう、何かいつもと全然違うものが岩男くんの身体の内側から湧き出てくるのが分かった。その勢いのあるものに、包み込まれて、すごく怖いけど、あたしも嬉しかった。岩男くんが喜んでくれるのならそれでいいなと思ってしまう。
岩男くんは、いきなり叫ぶとあたしを脇に置いて立ち上がる。何だろうと思って見上げると、ちゃぶ台の上からケーキの箱を持ち上げた岩男くんが恥ずかしそうに笑って言った。 「ケーキ、冷蔵庫に入れておかないと。悪くなっちゃうね」
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自分の部屋に飛び込んだ岩男くんは、まず押入のふすまを開けた。でも、そこにはお布団が入っていない。お天気が良かったから、今朝干してそのままなんだ。 そんな汗水垂らして「そのための」セッティングをしている岩男くんを、あたしはどうしていいのか分からずに部屋の外から呆然と覗いていた。やっぱさ、まずいよ。こういうのって、やはり彼氏の部屋がベッドでさ、ムードが盛り上がったところで、何となく押し倒し! とかが定番なんじゃないかしら? 最初から、えっちのためにお布団を敷くなんて…すごい、いやらしいんだけど。 そんなことを考えているあたしなど全然構わず、岩男くんはさっさとお布団に新しいシーツを付けた。旅館の仲居さんになれるのではないかと思うほど、手際が良くて。それから、ちょっと手を止めてから、掛け布団と毛布を足元に畳んで置いた。 「あ、…ええと、菜花ちゃんっ…」 「あっ…は、はいっ!!」 「準備、いいから…入っておいでよ」 …う。やはりベッドじゃないと、何だか変だわ。岩男くんも広いお布団のどこに陣取ったらいいのか分からないのだろう、ど真ん中に正座してる。まるでお客さんを待っている女郎さんのようだ(そんなのよく分からないけど、前にTVでそう言うシーンがあった気がする←確か、水戸黄門)。 「うっ、うんっ…」 「な、菜花ちゃんっ…」 「あ、あのっ…もしかして、岩男くん」 「ものすごく、緊張してない? 身体がガチガチに堅いよ?」 「そ、そりゃあ…っ、そうだよっ、決まってるじゃないかっ…!」
「あ?」 あたしが急に大声を上げたので、岩男くんがびっくりして腕を放す。あたしは慌てて、ちゃぶ台の部屋まで戻ると、ママがくれた紙袋を手にして戻ってきた。 「あのね〜、ママがね。これ、岩男くんちに着いたらすぐに開けなさいって、くれたんだった。なんだろ? 食べ物でも入ってると大変じゃない? …ええと…」 がさがさがさ。 「…何? これ…」 最初に出てきたのは、紺色の分厚い生地のジャンボタオルだった。岩男くんが寝っ転がれるくらい大きいの。ああ、こんなものが入っていたからかさばっていたのね。そのあと、…ええ!? あたしの着替え一式…!? しかもロングのタイトスカートとハイネックのTシャツだ。首が苦しいくらい上まで覆われるやつ。…で、最後に出てきたモノを見て、唖然とする。 「…ママ…」 「な、何なのっ…コレ…」 食べ物なんて、最後まで出てこなかった。絆創膏と軟膏が入っているのもよく分からない。ふたりして当初の目的も忘れ、腕組みしてうーんと悩みこむ。でも、岩男くんの方が先にはっとして、ジャンボタオルを手にした。 「も、もしかしてさ。最初って、人によると言うけど、かなり出血する人もいるって言うし。コレを下に敷いて置いたら、あとが楽かも知れない。血だらけのシーツとか、おばあさんに見つかっても大変だし…」 「…は、はあ…」
出掛けのあのママの過剰な干渉と、意味深な笑いを今更ながら思い返す。ママって、時々、分かんないのよね。何にも知らないようにのほほんとしてるのに、何もかも知っている感じもして。パパに翻弄されているように見えながら、実はしっかりと操作しているような気もしちゃう。
あたしがそっと寄り添うと。岩男くんがほっぺに手を添えて口づけてくる。ふうっと口を半開きにするとその隙間からなめらかに舌が滑り込んで、くちゅくちゅっとあたしの口の中を泡立たせる。大きな手のひらが首筋を伝って、ノースリーブのボタンに辿り着いた。 ぷつぷつっと、小気味のいい音を感じながら、あたしは岩男くんの首に腕を回してしがみついた。
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