地面の高さを走る電車って、あたしの日常にあまり馴染みがない。 こうして窓際に立っていると、線路沿いの家並みが目に飛び込んでくる。何だかすごくリアルな無声映画を見てるみたいだ。 カンカンとだんだん大きく甲高くなっていく踏切警報機の音。何とも言えない短調の響きが、いつもどこか切ない。赤い点滅を通り過ぎると、今度は次第に小さく遠のいていく。 見慣れない風景、見慣れない人並み。 それを受け入れられないでいる自分。何だか、とても疲れている。頭の中に、色んな感情が湧き上がってきて、また消えていく。このまま、電車は二度と駅に着くこともなく、永遠に走り続けるんじゃないだろうか。あたしの気持ちにたどり着く場所がないように、車輪の動きも止まらなくて。 この路線を使ったのは初めてじゃないけど、何度来てもこの街は他人顔をしてる。そんな声が聞こえるわけもないのに、「帰れ」って言われてる気がして。
人の心が分からない。「会いたい」って気持ち、同じじゃないの……?
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その日はクリスマス・イヴ。 受験生だからそんなに特別なことは出来ないけど、岩男くんの家でちっちゃなケーキでお祝いした。おばあちゃんは気を利かせたのかお出かけしてくれて、とってもらぶらぶムード。「願掛けなんだ」って言って、最後まではしてくれなかったけど、お洋服とかはだけちゃってかなりすれすれ。どうしてこんな状況で我慢できるのか不思議だった。 「オレ、大学はあっちに行くことになるかも知れないんだ」 まるで謀ったような突然の告白に、愕然としてしまったあたし。でも、岩男くんは全然悪びれる様子もなく言う。 「……あ、でも。受かるかどうか、分からないし。もちろん、こっちの大学もいくつか受けるから」 ただでさえ、推薦組と一般受験組は、心のどこかで見えない一線を置いている気がしていた。優しい岩男くんがあからさまな態度を取ることはないけれど、それでもあたしとしては気を遣う。私の中では受験は終わってるけど、岩男くんの中ではまだまだ続く。だから、彼女としてはその辺をきちんと理解して、我が儘なんて言わないようにしなくちゃ。 でもでも、やっぱ、これって「裏切り」じゃないの。
あたしと岩男くんが出会ったのは、ずーっと昔。まだ幼稚園の頃。パパが庭付き一戸建てのマイホームを購入して、あたしたちはこの街に引っ越してきた。 大人しくて、いるかいないか分からないほどの男の子。声を掛けても真っ赤になって俯いちゃって、何も言ってくれない。お友達は「放っておきなよ」って言うんだけど、何故だかとても気になった。 あれやこれやあって仲良しになって、あたしのパパと岩男くんのおばあちゃんがガーデニング友達になったから、家族ぐるみのおつき合いが始まった。 ちっちゃい頃はそんな感じで一緒にいたのに、小学校の中学年くらいから何となく疎遠になって。岩男くんが意識してあたしを避けてるってことに気付いた。学校の登下校もわざと時間をずらす。何か気に障るようなことをしちゃったのかと、すごく落ち込んだっけ。 それでも。 どうにか同じ中学校に進学できて、そこは高校もくっついてたから、また一緒にいられることになる。その頃には、あたしは本当に岩男くんが好きで、他の男の子にはときめいたりしなかった。 中三の時にめでたく両想いになって、あたしたちは誰から見てもお似合いのらぶらぶカップルになった。足かけ10年近かったあたしの恋がようやく実ったんだもの、そりゃあ嬉しかった。中には「すぐ別れるだろう」とか嫌なことを言う人もいたみたいだったけど、そんなはずもない。これからはずっと一緒、あたしは岩男くんの隣にいるんだから。 岩男くんが18歳のお誕生日を迎えたその日に、これまためでたくロスト・バージン。かなり痛くて身体は縦半分に裂けちゃうかと思ったけど、それでも愛する人とひとつになった喜びは言葉では言い尽くせなかった。それにそれに、岩男くんはあたしのことをとても気遣ってくれて、その後もしばらくは体調のこととかすごく心配してくれた。 えっちした途端に、冷たくなる彼氏も多いって言うじゃない。あたしはもちろん初めてだったし、上手いとか下手とかのレベルじゃなかった。岩男くんもとっても大変だったと思う。良く覚えてないけど、大声で叫んじゃったような気もするし。ロマンチックムードなんて全然なかった。それでも岩男くんは言ってくれたよ、「菜花ちゃんは世界一、可愛い」って。 可愛いとか、綺麗とか。そう言う言葉は誰彼構わず言われていいってもんじゃない。やっぱり、大好きな人から告げられるときが一番嬉しい。心がふわふわっとして、とっても幸せな満ち足りた気分になる。
それなのに、どうして。 あたしたち、今までもこれからも、ずっと一緒にいるんでしょ? あたし、岩男くんと離ればなれになる自分なんて想像付かない。何でそんな平気そうな顔が出来るの?
「こっちにだって、いっぱい大学あるじゃない。岩男くんが志望する学部があるところだって、あっちよりも多いくらいでしょ? ……何で、わざわざ」 うん、分かったよって言えばいいのに、それが出来なくて。感情を抑えたつもりだったけど、もう鼻の先がつんと痛くなった。 「……菜花ちゃん」 「おばあさんが、そろそろきついんだって」 夕陽が沈んで、部屋の中が暗くなってきた。あたしもそろそろ帰らなくちゃいけない時間。パパの「五時半」は健在で、今日はウチでもクリスマスパーティーやるし、きちんと戻らなくちゃ。 「……え?」 「おばあさん、元気そうに見えるけど……もう75だし。田舎の叔父さんたちも心配してるんだ」 岩男くんと一緒に住んでるのは、亡くなったお母さん方のおばあちゃん。お母さんが病気で入院してる頃からお世話に来てくれていて、その後はここの家で暮らしていた。たしかその頃にはもうおじいちゃんはいなかったはず。働き者でしゃきしゃきしていて、とっても若々しく見えた。 でも……そうかあ、だよねえ。あたしたちがこうして大きくなれば、おばあちゃんも一緒に歳を取る。この頃では腰が痛いとか、お家のちょっとした段差が億劫だとかぼやいていた。 「そっかあ……」 亡くなったお母さんの弟さんになる叔父ちゃんが、田舎でおばあちゃんを引き取りたいって言ってるんだって。そんな風に、お家の事情を聞かされちゃうとあたしは何も言えない。でも、……でも。なら、こっちでこのまま暮らすことは出来ないの? そりゃ、東京はちょっと遠いけど、通えない距離じゃないよ。お家は貸家だって言うけど、このまま住んでればいいじゃない。 あたしの考えることなんて、岩男くんにとってはとっくの昔に通り過ぎた場所なんだろう。またひとつ、ふううって辛そうに息を吐く。こんな風に岩男くんを悲しませてるのがあたしだって思うと、こっちまでじわんと悲しくなる。 「……父親が、呼んでるんだ」 ひとこと、ぽつり。それきり何も言わなかった。上着を手にして立ち上がる、送るよって顎で玄関に促された。
岩男くんの、お父さん。実はあまりよく知らない。 何度かお目に掛かってるけど、岩男くんと体格とか結構似てるはずなのに、どうしても親しみを感じることが出来なかった。岩男くん自身もお父さんに対する気持ちはかなり複雑みたい。病気のお母さんを看取ったあと、お父さんは岩男くんをこっちに残して単身赴任した。そこで今の奥さんと知り合って結婚したんだ。 仕方のないことだよって、岩男くんは笑う。それはあたしにも何となく分かる。いくら愛し合って結婚したって、死んじゃえばもう会えない。思い出の中に生きている人は直接触れることも出来ないし、話しかけても答えてくれない。残された人にとっては、とても辛いことだと思う。 それは分かってる、岩男くんも長い時間を掛けて理解した。でも……それでも、新しい奥さんとふたりの間に生まれた子供たちと暮らすその人は、もう岩男くんの知ってる「お父さん」じゃないんだ。 でも――、お父さんにとっては。岩男くんはやっぱり大切な息子なんだと思う。離れて暮らしていても、愛情は変わらない。出来れば引き取りたい、傍にいて欲しいって、何度も言われたって聞いた。そのたびに頑なに断り続けていたらしいけど。 一緒に住まなくてもいい、同じ街にいて欲しいって。そう言ったお父さんの頭がほとんど白髪になっていて、岩男くんももうこの辺が限界だなって思ったみたい。
岩男くんの家から、あたしの家まで。坂道を登る。子供の頃はとても遠く感じたけど、今では何となくおしゃべりしてる間に着いてしまう。もうちょっと離れていたら、あと少し一緒にいられるのに。そんな我が儘な気持ちさえ、湧いてくる。 なだらかな坂道を登りかけて、岩男くんが振り向いた。横顔に夕陽の名残の赤がうっすらと色づく。海の方までずっと続く風景も、昼と夜のはざまで不思議な紫の色合いに染まっていた。ちらちらと、灯り始めた灯り。 「離れていても、きっと大丈夫だと思うんだ。オレ、菜花ちゃんと一緒にいて、たくさん勇気を貰った。だから試してみたいんだ、自分の夢を。菜花ちゃんも……あるでしょ、なりたい自分。お互いに、それを目指してみようよ」 どこかで遠く、汽笛の音がする。あたしはしばらく、岩男くんの顔をじっと見ていた。 「――なりたい……自分?」 まるで、初めて聞いた言葉のようだなって思っていた。今まで、進路指導とかで色々言われていて、何となく分かってる気がしていた。どんな大学に進みたいか、将来就きたい職種は何か。なれるもの、ではなくて、まずはなりたいものを目指せって言われたのを覚えてる。 でも、こうして改めて訊ねられると、ぱっと浮かんでこない。あたしは……将来の夢とかあったんだろうか。
岩男くんとずっとずっと一緒の人生だった。だから、岩男くんの夢はあたしの夢だった。高等部に進学して、ますます柔道を頑張る岩男くんのために家庭科部に入って、ただの調理だけに留まらず栄養価計算とかそう言うのまでしてみた。そうしているうちにお料理も楽しくなって、短大も家政科を選んだ。 妹の梨花は、ちっちゃい頃から「動物のお医者さんになりたい」って言っていた。そのためにはたくさん勉強しなくちゃならないって知って、今も頑張ってる。どうしてあんなに努力できるのか不思議だ。 ――岩男くんにも、夢があるんだろうか? 大学は農学部を目指している岩男くん。農作物の品種改良とかそういうのを手がけてみたいって言っていた。 でも……あたしが知ってるのはそこまでだ。岩男くんが将来どんな道に進みたいかとか、具体的なことまではしっかり話し合ったことがなかった。あたしは自分の夢がおぼつかなかったから、きっとそこまで頭が回らなかったんだ。 推薦に合格したばかりのあたしの頭は、春からの新生活に向けての楽しいことばかりで詰まっていた。岩男くんが目指している学部はかなりの倍率のところが多かったから、最悪の場合では一浪とかあり得るかも。でも、そうなったって地元の予備校に通うんだから、あたしたちの関係に何ら変わりはないと思っていた。 でも、違う。その先のこと――あたしの、未来。 ちっちゃい頃から岩男君が大好きで、どうしたら嫌われないか側に行けるかと、そんなことばかりを考えていた。他のお友達と遊んでいるときも、頭の隅っこには岩男くんがいて。岩男くんの近くに行けるにはどうすればいいかと、いつも最初に考えてた。 あたしの未来の予想図には、岩男くんがいる。でも……あたしが何をしているかとかそう言うのは分からない。何となくこのまま行けば、岩男くんのお嫁さんになれるかなとかそう言うのは考えたけど。「お嫁さんになりたい」が最終目標の女の子なんて――もしかして、すごく他力本願で良くないのかな? 岩男くんはどんな未来を夢見てるんだろう、どんな職業について自分の可能性を活かしていきたいんだろう。岩男くんはとっても器用で、日曜大工のようなことからお料理から簡単なボタン付けなんかのお裁縫まで難なくこなす人だった。おばあちゃんのお手伝いをして、野菜やお花も上手に育てる。 柔道部ではかなり活躍していて、インターハイにも出場した。予選落ちしてしまったあとも「将来性がある」って言われて、色んな大学から勧誘を受けたらしい。でも、それは全部断ってしまった。あんなに柔道に入れ込んでいたのに、すっぱりと辞めて。まあ、まったく身体を動かさなくなると筋肉が落ちて全部脂肪になったりするから、最小限の筋トレとかは続けてるみたい。 きっともう、岩男くんの頭の中には、新しい自分の道が出来上がっているんだ。だから迷いがない。それは何なんだろう、知りたい。岩男くんの夢はあたしの夢。聞いてみたい、……だけど。 菜花ちゃんの夢は何? って聞かれたら、今のあたし、答えられない。 幼稚園の先生、看護師さん、フライトアテンダント、アナウンサー。女の子の憧れる職業っていっぱいある。この頃では料理研究家とか、そう言うのも人気ね。あたしのパパは喫茶店の付いているちっちゃな雑貨屋さんを経営してるんだけど、そこにも「ケーキを卸したい」とか売り込んでくる人がいるんだって。 あたしはお料理、好きになってきたけど。好きなだけでそんなに上手じゃない。未だにパパの方がずっとオムレツは上手。まあ、ママだってパパには敵わないんだから、あたし如きが太刀打ちできるはずもないんだけどね。おしゃれも好きだけど、お洋服のセンスはママの方がずっと上。あたしがどんなに考えてコーディネートしても、ママのひとことでぐっと素敵になったりするんだ。 こうして、改めて考えてみると。あたしって、ちっちゃくて薄っぺら。何とも実のない人間だったんだ。今までそんなことにも気付かずにいたなんて、我ながら情けなくて悲しくなってしまう。
「そうだね。頑張らなくちゃ、いけないね……」 寄っかかりすぎていたのかも知れない、重かったのかも知れない。だから……岩男くんは離れていくのかな。あたしは今まで、岩男くんの支えがあって立っていた。岩男くんがいなくなったら倒れちゃうような自分じゃ、情けない。彼女として、ふさわしくないかも知れないね。 空気の張りつめた冬の坂道。広い岩男くんの背中。見えなくなっても、追いかけていく。 心が見失わないように。あたしが、あたしの「夢」をきちんと掴んだときに、やっと対等になれる。そしたら、岩男くんの隣で岩男くんの夢を願うことが出来るようになる。
春が来て、第一志望の大学に合格した岩男くんは、お父さんの住む街に行ってしまった。今まで当たり前だった、すぐ隣のぬくもりが消えたこと。それに慣れるまでに長い時間が掛かった。 自宅通学だったから、もちろん今まで通り家族は一緒。ひとり暮らしの人に比べたら、そんなには寂しくなかったと思う。新しいお友達もすぐに出来た。 毎日じゃないけど、時々は連絡を取り合って。最初はGWに岩男くんがこっちに帰ってきて、その後も連休や長いお休みの時に、お互いが行き来した。新幹線に乗り込んで岩男くんの元に辿り着くまでには、長い長い時間が掛かる。でも、それはあたしがあたしに戻るための大切なひととき。 そのための時間もお金も惜しくなかった。他大学のサークルに入ろうと友達に誘われたけど、それは断ってバイトを始めた。まあ、パパが「その辺の喫茶店とかは危ない! もしも、柄の悪い輩に目を付けられたらどうするんだ!」とかいきり立つのはお約束。面倒なのでお任せしたら、パパのお友達のデザイナーさんの事務所で雇ってくれた。 その関係もあって、就職した会社もアパレル関連。スーツ姿が全然似合わないとか言われるけど、これでもきちんとOLしてるんだよ。今着てるコートだって、冬のボーナスで買ったんだから。
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一泊分の荷物の入ったバッグを手に、あたしも吐き出される人並みに流されていく。いつもの改札口、出たところの柱。何の目印もなくても大丈夫、大きな岩男くんはその存在そのものが目印になる。遠くからでもすぐ分かる。 岩男くんの方は、あたしのことをすぐには見つけられないと思う。人垣の中に埋もれてしまうチビだから。それでも、ちらんちらんとこちらをうかがっていた視線がようやくぴたっと止まる。その瞬間、岩男くんはあたしだけに分かるほどの淡い微笑みを浮かべて、手にしていた文庫本を閉じた。
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