難しいことを考えるのはやめようって決めた。 私の悪いところは、あとのあとまで思いを巡らしてしまうところにあるのかも知れない。それで、今までたくさんの場面で上手くいっていたけど、その反面、どうにもならない失敗もしてきた気がする。
解放の鍵を、聖矢くんは持っている。彼だけが、私を解き放してくれる。だから今日一日に賭けてみよう。明日のことは考えないで、今のことだけ楽しめばいい。
*** *** ***
遠目に見て、それにはすぐに気づいた。中途半端に伸びていたのが、すっきりとしてる。襟足も綺麗に刈り込んで、ああ、断然この方がカッコイイ。シャツも見たことのないチェック。新しく買ったのかな? なんか嬉しい。 人待ち顔の横顔を見れば、彼が何を思っているのかすぐに分かった。全身からにじみ出ているためらいの気持ち、そして心からの「ごめんなさい」の気持ち。別に今日一日、このすっきりと晴れ渡った空の下で私と楽しもうなんて思ってない。ただ、ひとこと詫びて、引き上げようと思ってる。 ……でも、駄目。そんなの絶対に許さない。 自分がとっても意地悪になってしまったような気がする。聖矢くんが何を望んでいるのか分かっているのに、それでも……従いたくなかった。
「聖矢く〜んっ!」 出来る限りの明るい声で叫んだ。いつもの私では考えられないくらい、大袈裟に手を振る。右手のランチボックスだけは気を付けて。もう、これを作るのだけですごく大変だったんだから。
……でも、違うんだな、ピクニックのお弁当って。 遠足や運動会のお弁当がいつもと違うのと同じように、ランチボックスに詰める今日のお弁当は想像以上に難しかった。それによく考えたら、聖矢くんは私の手料理を食べるのって、初めてなのよ? まさかそこで「冷凍コロッケ」とか「お弁当用スパゲッティ」とか使いたくない。全部自分の手で作りたいと思った。 ああ、早起きしたのに。犬の散歩のバイトが終わって戻ると、立ちっぱなしのフル回転で頑張ったのに、時間がぎりぎりになっちゃった。その間「誰も台所には入らないでください」状態。ぎりぎりいっぱいでやってるから、もしもお鍋の位置を動かされたりしたら、とたんにパニックになっちゃう。 「ええ〜、じゃあ俺たちって、飢え死に?」 小憎たらしいことをぼやく弟の樹の目の前に、どんと爆発のコロッケを置いた。彼は「ひーっ!」とひとこと叫ぶと、その皿を持って、すごすごとダイニングテーブルに引き上げる。まだまだたくさんあったわ。皮をむきすぎたジャガイモのおみそ汁、サラダ、ポテトフライ。聖矢くんはどんなものが好みか分からないから、思いつくままに作り続けた。 ただ、こんなときでもママは、いつもと変わらずににこにこと笑っていた。 ママにはとても大変なこととか難しいことってあるんだろうか。いつでも悠然としていてさ、確かにパパの行き当たりばったりのちょっと突飛な行動には少し困っているみたいだけど。正直、ママの「大変」って、それくらいよね。
やだよ、せっかく楽しい一日にするのに。お弁当だって、ここで戻られないための保険みたいなものだったんだし。お弁当をわざわざ作ってきたんだよ、って言えば、あまり乗り気でない相手も昼食まではどうにか付き合ってくれる……って、雑誌の読者コーナーに書いてあったわよ。 「あっ、あの〜。梨花ちゃん…」 ようやく、意味をなした彼の言葉。でも私はそれを振り切った。 「ねえっ! 早く行こうよっ!! 私、ぎゅうぎゅうに過密スケジュール組んできたから。…ねっ!?」 考えないように、考えないようにって、呪文のように唱えながら。私は聖矢くんの右側にすすすっと寄っていった。そして、何でもない感じで、するりと左腕を彼の右腕に絡める。いつか、私たちとすれ違ったラブラブカップルがやっていた格好だ。すごく身体が密着してるな〜とかどきどきした。 ……どくんっ、どくどく。 心臓の音が振動になってこちらに伝わってくる。うわ……っ、想像していたよりもだいぶ密着するわ。なんか、こんな事を人前でやるのって、勇気がいるな〜。抱き合っているのと大差ない気がする。 聖矢君の腕、がちがちに緊張してるよ。うわ、筋肉の筋が見えてるっ……! 「あああ、あのですねっ…あのね、梨花ちゃんっ…!」 聖矢くんの身体が大きく揺れて、まるで「もういいだろ〜、放してくれよっ!」と言ってるみたいだ。 私は絡めた腕に力を込めてそれを阻止しようとする。もうちょっとで、勇気が弾けちゃいそう。こんなに身勝手な自分に初めて出会った。 「ん〜?」 わざとしらばっくれて、鼻を鳴らした。 分かってるんだよ、聖矢くんの気持ちは。私といたって、そんなに楽しくないんだよね。周りばかりを気にして、早くふたりの時間が終わらないかな〜とか思っている。彼にとって、私は障害物でしかないんだ。「たいせつなもの」にはしてもらえない。 「どうしたの? …恋人って、こうするんでしょ? 私、色々勉強してきたからね、今日はバッチリだと思うわ」 そう言って、彼を斜め下から見上げる。大きく声を立てて笑った。途中から、そんなはしゃぎすぎの自分が情けなく思えてきたけど、やめようとは思わなかった。多分、今の私の姿を誰かが見たら、きっとこんな風に思うのだろうな。
――あ、今日の梨花ちゃんって……なんか菜花ちゃんの真似してるっぽい――
お姉ちゃんの妹って言われるのが嫌だった。 「あ、菜花ちゃんの妹がいる〜」って、指をさされるのは情けなかった。だから、出来る限り、同じにならないようにしてきた。何をするんでもお姉ちゃんがやってないことをやった。同じことをしても同じように誉められる訳じゃない。周囲の人にとっては何もかもが「二回目」になってしまう。その分、初めてよりも点数が辛くなるんだ。 どんなことをしても、お姉ちゃんに敵うわけはない。お姉ちゃんは特別なんだから。私がいくら頑張っても、たとえ不眠不休で走り続けても、それでも追いつけないのがお姉ちゃんだ。3歳の年の差も確かにある、でもそれ以上の大きな壁が、私たち姉妹の間には存在した。
……選ばれた人間。 岩男くんがお姉ちゃんを選んだこと。それが私の敗北を決定的なものにした。お姉ちゃんのようになれば、振り向いてもらえるのだろうか? いくらタイプは違うとはいっても、私たちは姉妹なんだから。それなりに似てるし、何よりも私の方がずっと岩男くんとの共通点が多い。 でも……岩男くんには。私にしかない「何か」を好きになって欲しかった。そのためには、お姉ちゃんとは全く違う人間を演じ続ける必要があったんだ。
聖矢くんが、こっちを見てる。じーっと。すごく不思議そうに。楽しいなあ、いつもと違う自分になっただけなのに、どうしてそんなに驚いた目をするの? どう……かな? 今日の私、いつもよりも可愛い? 好きになれる? ――あ、駄目。 そんなこと、期待したら駄目なんだから。期待すると、それが壊れたときにすごく辛い。だから最初から、考えないようにしなくちゃ。今日一日を楽しもうって、そう決めたじゃないの。 持ってきたのは、ひとつだけの心。私は、聖矢くんが好き、大好き。だから、それを一生懸命表現するの、自分の全てを使って。
中学の時の。 創作ダンスの授業で演じた自分は偽物だった。でも、今日は違う。私は、私。これが自分に一番近い私なんだ。回した腕、こうして近く近く寄り添って、まるで聖矢くんの所有物みたいになる。自立しない女は嫌いだったのに、どうしちゃったんだろう、私。ねぇ、今だけ、いいよね? こうしていてもいいよね?
「早く行こっ! ぼさぼさしてると、すぐに日が暮れちゃうわっ!」 ――想いがこぼれてきそうになる。ぬくもりを感じているだけで、どうしてこんなに胸が痛いの? 全てを振り切るように、私はわざと明るくそう言った。
*** *** ***
誰から見ても、私たちは恋人同士に見えていたと思う。聖矢くんは相変わらずどこか落ち着かない感じで、時折「信じられないなあ……」と言う眼をする。それでも、戸惑うそんな姿をかき消すくらい、私ひとりでふたり分も三人分もはしゃいだ。
「おいしい……?」 芝生の上にランチを広げて。 やっぱり不安になる。いつもだったら、そんなこと、考えても口にはしないんだけど、今日の私は違うから。祈るような気持ちで、聖矢くんの返事を待った。
港のそばに広がる自然公園。女の子たちが口をそろえて言う、「彼が出来たら、最初にあそこに行きたい」って。そうよね、人口海岸に続く遊歩道、潮風と波の音が心地よくて、咲き乱れる花にも優しい気持ちになれる。ミニ動物園に子供だけじゃなくて大人だって楽しめる遊具もあって。 ……でもなあ、思ってたよりもテイクアウトが充実してる。美味しそうなホットドックやハンバーガー。弾けるポップコーン。うどんだってラーメンだって、なんか食べてみたくなる。その上、値段も手頃と来てるし。 やだなぁ。急に自分のランチボックスの中身が心配になってきた。 外で食べるし、サンドイッチがいいかなと思った。色々な具を挟めば、多少の好き嫌いがあっても大丈夫だし。野菜をたくさん入れて、ひとり暮らしの食生活を改善してあげようとか。志は我ながら素晴らしかったと思うわ。ただ、それがしっかり実行できているかと言えば、保証の限りではない。
「うんっ! うまい!」 そう言って、ぱくぱくと頬張ってくれる。次から次から手が伸びて、全部の種類をちゃんと食べてくれた。中身が爆発しなかった貴重品な成功コロッケも、スパゲッティーのサラダも。
……ああ、駄目。そんな嬉しそうにしないで。胸が詰まって、どうにかなっちゃいそう。
「あっ……、やだっ。マヨネーズが付いてるよ?」 え? と振り向いた口元を、お手ふきで拭ってあげた。私の差し出す腕、少しこちらに伸びてくる彼の上体。そんな自然な行為も綺麗に呼吸が合って。その後、何だか嬉しすぎて、声を立ててまた笑った。笑っていないと、すぐに不安になるから。 「梨花ちゃん、どうしたの? ……あんまり進んでないじゃない?」 そう言いながら、またひとつサンドイッチを取る。お日様の下だから、彼の髪の先が金色に光るのとかすごく綺麗に見える。
いいよ、気にしないで。今日の私は聖矢くんを見ているだけでいいの。たくさんたくさん、見ていたいの。自分の中の想いを確かめるために。……解放されるために。
*** *** ***
そのあと、園内にあるゲームセンターで少し遊んでから。出口のところで足を止めた。いわゆる「ガチャガチャ」と言われる子供向けのもの。コインを入れて、プラスチックの中に入っている商品をひとつもらうのだ。100円、200円のものが、そう高級品に思えるわけもないが、それでもきらきらと輝くそれらはなかなか素敵だった。 「…こういうのって…、なかなかいいものは出てこないんでしょ?」 そう言いながらも、心がそこから離れなかった。ああ、どうしよう。子供っぽいって思われちゃうかな? 幻滅されちゃうかも知れない……でもっ。 「分からないよ? …やってみる?」 聖矢くんは何気ない感じでそう言うと、さっさとお財布を取り出した。100円玉を二つ、入れる。ダイヤルレバーを回したら、軽やかな音を立てて、中のカプセルが少しだけ崩れた。そして転がり出てきた「夢」。
……あ。
「…可愛いっ…! これ、貰っていい? 私のものにしていいよね?」 神様って、本当にいるのかも知れない、そんな気がした。お金を払ってくれたのは聖矢くんだから、これは彼からの贈り物なんだよね。きらきら光る、透明な水色の硝子玉。それが付いたリング。 一目で安物だって分かるけど、私にとってそれは、どんな高価な宝石よりも貴重なものに思えた。 「え……、別にいいけど」 聖矢くんがそう答えるよりも早く、私はそれを指にはめた。どう思われるのか、ちょっと不安だったけど、左手の恋人の指に。だって、聖矢くんがくれたんだよ。初めて、私に。だったら、特等席に置いてあげなくちゃ。 「見てみて〜っ! 綺麗〜!」 彼の鼻先まで、手の甲を近づけて。私は得意げに言った。聖矢くんは微妙な眼差しで、ぼんやりとこちらを見てる。きっと、もうとっくに呆れてるよね。こんなおもちゃ、喜ぶ彼女なんて、彼のそばにはいなかっただろう。 当たり前みたいに、また腕を絡める。彼からは手をつなごうとか、腕を組もうとか、そんな働きかけはなかった。みんなみんな私の主導で行われていく。ひとりだけ空騒ぎしているみたいで、また胸が痛くなった。
……けど、あと、ちょっとだけ。 時計をちらっと見る。あ、丁度いいかも。移動時間を頭の中で計算しながら、なんと言って切り出そうか思案した。
……あ、もしかして。 前の彼女さんのこととか、思い出しているのかも知れない。近場で一日楽しめる場所と言ったら、ここしか思いつかなかったけど、よくよく考えたらちょっとメジャーすぎたかも。きっと聖矢くんは前の彼女ともここに来てる。そして……「伝説」を実行してるはずだ。 「聖矢くん…」 ああん、また暗くなっちゃう。あとちょっとなのに、どうして上手に進められないのかしら? やっぱり「恋愛」って難しい。「彼女」って、私には遠すぎるポジションなんだ。 けど。勇気出さなくちゃ。 「あのね、付き合って欲しいところがあるんだ。…これから、いいかな?」 いきなりのお願いに、戸惑いの視線が応える。私は絡めた腕にぎゅっと力を込めて、必死に「大好き」の笑顔を作った。
*** *** ***
全部全部、上手くいくはずだった。 私の作ったシナリオは完璧だったんだ、……それなのに。またしてもお姉ちゃんが出てくる。もうふたりの姿を見ても胸は痛まなかった。岩男くんは私にとって、やっぱり特別だけど、それでも……今までの辛い想いは消え失せていたから。
ふたりのキスの現場を見てしまって。それから後、道場に行けなくなった。 たまには練習を見に行かなくちゃ、稽古を付けてあげなくちゃ、と思う。自分よりも体の大きな高学年の子たちだと、ちょっと躊躇することもあるけど、低学年の可愛い子たちの手ほどきをするのは楽しい。みんな目をきらきらさせて、必死に飛びかかってくる。 あの瞬間に、燃え上がってしまった嫉妬の炎と、はっきり見えた絶望の淵。このまま突き進んだら、自分がどうなってしまうかも分からなかった。お姉ちゃんがいないって分かっているから、もしかしたら私はとんでもない行動に出てしまうかも知れない。それこそ……取り返しの付かないような。
私の意地っ張りな心を、聖矢くんはあっという間に溶かしていった。岩男君に対してずっとくすぶらせていた想いを、綺麗に昇華させてくれたんだから。 もう、怖くない。私は、大丈夫。……って、思ったのに。
なんで、お姉ちゃんが来るのよ。
聖矢くんにお姉ちゃんを見せたくなかった。もしも、お姉ちゃんの存在を知ってしまったら、その瞬間に私は「二番目」になっちゃう。もともと、聖矢くんの中では、たいした存在価値もなかった私だけど、そこにお姉ちゃんまで出てきちゃったら、もう……おしまいなんだよ。 「お姉ちゃん、…可愛いでしょ?」 それなのに、私は笑っていた。全然普通だよ、平気なんだよって感じで、笑っていた。振り向いて見つめる聖矢くんが、私の代わりに呆然としてくれる。 「…え?」 優しいね、聖矢くん。とぼけてくれるの? 私が、本当はショックでショックで崩れそうでいるって、知ってるの? だからそんな風に、訳が分からないって顔をしてくれてるんだね。
お姉ちゃんのこと、ぽつんぽつんと話した。思ったほど、辛くなかった。聖矢くんは事実を確認してしまったんだから、もう……逃げることもないんだなって思ったら、楽になったみたい。 私の中にある、お姉ちゃんの気持ち。 いつでも目の前に立ちはだかっていて。私が何をしても、みんなお姉ちゃんの輝きの中で霞んでしまった。いつまで経っても、越えられなかった。お姉ちゃんみたいになりたかったよ。憎らしいって思ったけど、それは羨ましさの裏返しだったと思う。 朝、目覚めたら、お姉ちゃんになっていないだろうか。そう言うの、ドラマとか映画で良くあるじゃない。人格が入れ違っちゃう奴。たった1日でも構わない、お姉ちゃんになって生きてみたかった。
「そっ…そんなことないよっ!!」 私の言葉を遮るように、聖矢くんが叫んだ。こんな風に強引に割り込まれたのは初めてかも。普段の彼からは想像も付かないほどの激しさだった。 「梨花ちゃんが、一番可愛いよ? 一番素敵だよ…っ。世界中で一番、もちろんお姉さんよりも、梨花ちゃんの方がずっとずっと…っ!!」 「…え…?」 聖矢くんはまるで、体の中にある感情を全部押し出すみたいに、必死になって訴えてくれた。私をまっすぐ見て、彼の言葉で、私が一番欲しかった言葉をくれた。
――梨花ちゃんが、一番だよっ…!
それを聞いて、こみ上げるものを押さえるのに精一杯だった。駄目だよ、聖矢くん。そんな風に言わないで。私、信じたくなっちゃう、戻れなくなっちゃうよ。もうこれ以上、辛い顔は見たくない、だから今日でおしまいにするつもりだったんだよ。最後の我が儘のつもりだったのに、どうしよう。 ……大好きが、溢れて来ちゃう。
西の空が目に見える早さで、どんどん染め上げられていく。それが眩しくて、目を細めた。 この人について行きたい、離れたくない。何度振り払われても、すがりつきたい。……そんな私の心を表すように。
――でも。キスから始まる物語は、やっぱり私には訪れてくれなかった。
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