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…After Storys, 5…
『ワガママな夏の日』

 

 

2003年8月9日(土)

 どこまでも続く白い海岸線。色とりどりのビーチパラソル。遠く空の上を泳ぐカモメの群れ…。昼下がり、傾き始めた日差しと心地よい浜風。堤防の上、でこぼこのアスファルトを移動する。ガラガラとベビーカーの車輪が回る音。
「だ〜〜〜っ! だっせ〜っ!! 何が悲しくて、真夏のビーチ目の前にしてお預けなんだよ〜〜っ!」
 後ろからずるずるとサンダルを引きずって付いてくる足音。いきなり辺りに響き渡るようなでかい声でわめく。…おいおい、そんなに大声で叫ばなくてもいいだろう。私はレースのふわふわとしたロングスカートをなびかせて、振り向いた。日差しを遮るために被った白い帽子が風に飛ばされないように押さえる。そこには相変わらず、どこまでも暑苦しい風貌の夏男が立っていた。
「あのね、雄王」
 なるべくトーンを下げた声を返した。ベビーカーの中で幼子は眠っている。この状況では私が大声を出せば、この男の音量も上がる。よって、赤ん坊が起きて泣く。悪循環なのだ。コレを何度も繰り返せば、いい加減学習される。普通の人間ならば。
「別に泳ぎたいならおひとりでどうぞ。ほら、ビーチにはあんたの大好きなピチピチギャルがたくさんいるわよ? どうせ、その下に海パン履いてきたんでしょ?」
 スーツやジャージ姿ならともかく、何でもない普段着をこの男に選ばせると世にもおぞましい組み合わせをしてくれる。Tシャツ1枚買うんだって、センスがない。仕方ないから私が見繕ってる。今日もカーキ色のTシャツ(袖口と裾にオレンジ色が重ねてある見た目重ね着風のもの)とチノのハーフパンツ、ああ、どうにかギリギリリゾートだわ。
「おいおいっ! 日和っちゃん、そりゃないだろう…ひで〜、そんな冷たい言い方しなくたって…っ!」
 …でた。チンパンジー以下の男。うっわわ、もうむずかってるよ。いやになるなあ…。私は慌ててベビーカーを前後にスウィングさせて絶妙な「揺れ」を作った。
「見てみろよっ! ほらっ…海だよ、海っ! 浜谷の海っ!! 懐かしの故郷に戻ってきたんだから、思う存分エンジョイしたいだろっ。どうして分かってくんないかな〜」
「はいはい」
 ああ、うるさい。ビーチに流れる安っぽい流行歌の有線よりも10倍うるさい。
「エンジョイでもアンニュイでも、お好きにどうぞ。私、この子とあっちの岬まで歩いてくるわ」
 すたすたすた。厚底サンダルはちょっと歩きにくい。でも、予想外の出来事だったんだもの、仕方ない。ビーチに降りられる靴も持ってなかったわ。それにさ、私はちょっと怒ってるんだけど。しかも、原因は100%あんたにあるんだけどね!? 分かってんのかしら、寺嶋先生?
「日和っちゃ〜ん…」
 また、同情を誘おうという目をして、でかい身体を小さくして猫背になって、しかもがに股で追いかけてきてるに違いない。振り返るまでもない、想像するのは容易い。どこまでもわかりやすくできている男だ。
 ベビーカーの中、赤ん坊はまたすやすやと寝息を立てている。多少重くなった気もするが、騒がれるよりはずっとマシ。ああ、久しぶりの浜風、思う存分吸い込もう…。聴覚のはじっこで、確かに情けないサンダルの音が付いてきているのを確かめながら、私はまっすぐに歩き続けた。

 久しぶりにこの地を訪れたから。ここに来るまでも何十人の顔なじみに声をかけられたか分からない。しかし、そのほとんどが…こんな感じで。
「きゃあああっ! 日和先生っ! いつの間に産んだのっ!? 早業〜〜〜!」
「すげ〜、さすがっ、雄王センセの子っ! 半年足らずでこんなにでかくなってるっ!」
 …という、誤解が誤解を生んだ様な雄叫びだった。でも、もっと許せないのは、今、後ろから追いかけてくる男の反応だ。丸々と太った赤ん坊を抱き上げると、剃り残しの無精ひげに彼女(赤ん坊は女の子だ)がいやいやをしているのも構わず、大袈裟に頬ずりする。
「だろ〜、何しろ俺たちの愛の結晶だからな〜。ほら、目元の辺りが日和っちゃんそっくりで…」
「――雄王っ!!」
 広い背中に現役時代の寺尾ばりの張り手をかます。
「あんたね〜、もういい加減にやめなさいよねっ! 本気にされたらどうすんのよっ!!」
 私たちを「先生」と呼んだのは3月まで働いていた県立高校の教え子たち。そんな人たちに妙な誤解をされたら、半日後には街中に広まってしまう。狭い田舎町なのだ、情報伝達の素早さは半端じゃない。
「ええ〜、違うの〜?」
 …違うのって、あなた。教えたでしょう、家庭科の時間に。赤ん坊は生まれてから1年で身長が1.5倍、体重が3倍になる。新生児は約50センチ・3キロで生まれてくるんだから、ここにいる身長80センチ・体重11キロもある巨体の赤ん坊が私の産んだ子であるわけない。
 だって、3月には産んでないどころか、おなかだってぺったんこだったでしょうがっ!  どうやって、たった4ヶ月で作って産んで、ここまで育つのよ〜〜〜っ!!
「だってぇ〜、日和先生…」
 高校3年生、確か彼女たちは受験組だ。こんなところで油を売ってないで、さっさと図書館にでも行って勉強をしろと言いたい。そんなスケスケの服を着て、ばっちりメイクして、リゾート気取ってると3月に泣くわよ?
「あたしたち、向こうの通りからずっと見てたけど。どっから見ても先生たちは仲のいい親子だったわよ〜」
 すると天然チンパンジーはすぐさまその言葉に反応する。
「だろ〜? 何しろ、らぶらぶだからなあ〜。何しろ、日和ちゃんはもうしつこくてさ。毎晩、なかなか解放してくれなくて…」
 ――ばしっ!!!!
 もうっ! 何言ってるのよ〜、いくら今の生徒じゃないからって、一応相手は高校生でしょうがっ!! そんなシモネタ披露してどうすんのよ。しかも、とんでもないガセネタでしょうがっ!!
「…しつこくて嫌なら。すぐにでも別の部屋、借りて引っ越しますけど。私、その方が楽だもの。ひとりで3人前平らげるあんたのおさんどんも大変だし、掃除だってキリないし…」
「うわん、日和ちゃん…っ! 俺を捨てるのかっ、そんな〜愛してるよ〜〜〜」
 全く、こんなやり取りを何度繰り返したことか。生徒たちだけじゃない。雑貨屋のおじちゃんや食堂のおばちゃん、はたまた消防署の職員のお兄ちゃんまで、同じように反応してくれる。私たちの会話を聞いたあとの「相変わらずだねえ」と言う呆れ顔も判で押したようにおんなじ。
 もう、地元の人間なら赤ん坊の顔くらい覚えなさいって言うのよ。この子は浜谷高校の近くの交番にいる中須治巡査のお嬢さん・咲ちゃんじゃないの。このつぶらな瞳、ぷくぷくのほっぺ、どう見ても彼の子供だわ。人の子を預けられただけでも結構プレッシャーで精神力を使うのに、この緊張感を突き破る脱力系のリアクションは何なんだ。
 私は恋人に裏切られた、傷心の女なのよ。怒りで脳細胞が爆破されて、でもって、吹っ飛んだからもう何も考えられない状態なのっ。もうこれ以上、混乱させないでくれないっ!?

 ――はあああああああっ…!! 荒んだ心に染み入るような潮風。私はやっぱり、人生の選択を間違えているのかも知れない。ぐるっと振り返って睨み付けると、サンダルの音がぴたっと止まって、ざざっとのけぞりながら後ずさる。
「…日和っちゃ〜〜〜〜んっ…」
 あああ、本当に涙目だよ。いい大人が涙と鼻水を一緒に出して、だらだら泣いてていいのかい? …いいんだろうなあ…、この男の場合は。
 もう一度、前を見て歩き出す。私の頭の中では、この数ヶ月のこの男がらみの出来事がいくつもいくつも渦巻いていた。

◆◆◆

 2年間の臨時任用講師を終え、晴れて正式な教員として採用された寺嶋雄王。彼が赴任したのはここ浜谷から4、5時間も北に車を走らせた山奥の高校だった。海なんて、どこまで行けばあるのかと悩みたくなるほどの山間、しかも何故か野球の強い進学校だった。
 雄王はとにかく野球馬鹿で、野球部の顧問になりたいから教師になったような男。学校にだって、部活に行っているのか、授業しに行ってるのか分からないくらいだ。
 私としてはナイター設備のある高校だけには行って欲しくないと思っていた。浜谷にいた頃だって、真っ暗になるまで戻らないハードな練習だったから、もしも照明の点くグラウンドだったらどうすんのかと思っていたのだ。
 それがそれが…行った先の高校はナイターはもちろん「屋内練習場」まで完備されている。更に県下から集められる優秀な人材を確保するための寮まで。あ、もちろん、普通科の高校だから、住民票を移したりと結構「裏」工作をするそうだけど。
 そりゃあさ、私も迂闊だったとは思うわよ。彼の「一緒に来てくれ」と言う台詞にまんまと乗せられて、くっついていっちゃったんだから。浜谷に残ったって、ちゃんともう1年、非常勤の口はあったのに。
「日和っちゃん〜、俺、駄目っ。日和っちゃんがいないと生きていけないっ、絶対にやだからな、遠恋なんてっ…!!」
 何せ、骨の髄まで体育会系。もう台詞も熱いのなんのって。ついついほだされてしまうわよね。こんなに愛されていて、何て幸せな自分、とかさ。
 ああん、これでも私は家庭科講師。自慢するけど、そこら辺にいる若いお姉ちゃんたちよりは、断然お料理も上手だし、掃除だって完ぺき。さらにアイロンかけも繕い物もちゃちゃちゃ、よ。だから、目を皿のようにして探せば結構いる独身の若い男性教諭、引っかけるのは容易いと思う。気がついたらむさくるしいこの男とばっちり同棲生活していて、身動き取れないけど。
 浜谷からあたしの実家のある地方都市を通り抜け、更に北上。周りに山しかない「郡」に着く。電車の便が悪くて、実家に戻るには浜谷にいた頃の3倍も掛かるのだ。もしかしてとてつもないところに来てしまったのかと最初は落ち込んだ。コンビニが街に2つしかなくて、どちらも7の数字のつくあのお店。私の好きなソフトクリームをその場で食べさせてくれるコンビニは一体どこまで行けばあるの?
 まあ、そこに引っ越す前に私は3月までの上司であった同じ家庭科教員(ま、私はしがない非常勤講師だけど、こちらはこの道何十年の超ベテラン教諭)大岡先生に頼んで、新しい仕事の口を見つけて貰った。家庭科は男女必修になってから万年的な教員不足だ。でも生徒数が増えたわけではないので、正規採用を増やすわけにはいかない。どこの高校も非常勤の講師で埋め合わせをしている状態だ。
 先生が紹介してくれたのは、雄王の赴任する高校のすぐ隣にある工業高校。それを聞いた途端に、奴は目を三角にして反対した。
「駄目っ〜〜〜〜! 日和っちゃん、ひとりくらい、俺が養うっ! そんな野郎共がうじゃうじゃいる恐ろしい場所に行かせられるかって言うのっ! 工業高校ったら、ほとんど98%男じゃないかっ! その上、教員も男だろうがっ…、駄目駄目っ、そんなところに行って、もしも日和っちゃんに何かあったら…」
 自分が意に反して女子が男子の30%しかいないという高校に行ってしまったため(しかも制服が今時膝下でダサイとわめいていた)ただですら機嫌の悪かった男は、手足をバタバタさせて駄々をこねた。
「日和ちゃん、飢えた野獣たちに襲われたらどうするんだっ! 『女教師のアブナイ課外授業』とかの世界だぞ〜〜〜っ!」
 …それはねえ、あんた。いつも見ているAVのタイトルでしょう!? 本当に制服ものとか巨乳とか好きなんだから、嫌になっちゃう。どう考えても高校生よりあんたの方が100倍危ないわ。

 そんなこんなでまあ、すったもんだあったけど、新しい土地での暮らしが始まった。それに先立ち、学校側からの要請もあり「とりあえず籍くらいは入れてくれ」と言うことになった。やはり、公立高校の教師が堂々と同棲しているのはヤバイだろう。まあ、そんなのありがちとはいえ、多感なお子様相手の仕事場だ。妙に刺激してはいけないし、PTA黙っちゃいないだろう。
 …まあ、私もね。こんなどうしようもない男でも半年以上一緒に暮らしていれば情が移るのよ。別にそんなに悪い人間じゃないし。色々と面倒なことはあるけど、結局のとこ愛されてるし? 
 だから、雄王の内内定が出て、私の実家に挨拶に行くことにした。お正月に一応、「お嬢さんを僕に下さい」攻撃はしてあったのだが、その時は具体的な話が出なかった。すぐに挙式披露宴は無理でも、戸籍上の夫婦になるくらいは出来るかな…とか思ったのだが、これには私の母親が断固反対した。
 間の悪いことに(と言ってはいけないが)母方の祖母が2月に他界したのだ。挨拶に行った時は四十九日も明けてなくて。母親は自分の親を亡くしたわけだから、ただですら沈んでいたのよね。
 でもって、また雄王がまずい。奴は持ち前の人なつっこさでいつの間にか私の実家の家族をみんな「友達」にしていたのだ。父や兄は元より、母とそりの合わない兄嫁まで。雄王とは10年来のつき合いみたいに和気あいあいとしている。
 そうなれば面白くないのが母親。しかも自分が可愛がっている弥七(柴犬)とお銀(三毛猫)までが雄王にべったり。今までは何があろうと母親が一番だった彼らが、今では雄王を見ると一直線だもんね。ああ、さすがチンパンジーな人間。動物にはひときわ情が通うらしい。
 すっかりへそを曲げてしまった母親は私たちにこう言った。
「お祖母ちゃんの新盆が終わるまでは、絶対に入籍をさせません」
 その上、その場で親戚中からかき集めていたお見合い写真をどどどんと積み上げたのには参った。
「日和、今時、同棲なんて何でもないの。だから、あんな男は踏み台にして、もっとグレードアップした男を選びなさいっ!!」
 …何だか生命保険の補償額をどうにかして上げようとしている保険外交のおばちゃんみたいだ。男共はみんなうろうろしているだけだし、正直疲れたわ。
 そんなわけで「やんごとなき理由」の為、私は小此木日和のままで新しい地に乗り込んだ。ま、不経済になってはいけないし、部屋はひとつ。2LDKだからお互いの部屋にリビングダイニングもある。お風呂だってとても広い。浜谷はリゾート地で物価も高かったから、前の部屋と同じ金額で借りようとしたら庭付き一戸建てだと言われて参った。そんなとこ、管理維持出来ないし。
 雄王は4月1日から新しい職場での生活が始まった。でも、私は講師だから仕事は授業だけ。高校に打ち合わせには行ったが、4月10日の授業開始までは暇だった。雄王の方はやれ歓送迎会だ、やれ教科の親睦会だと連日の飲み歩き、それで済めばいいけど怪しげなお店に誘われたりして、万札を落として帰ってきたりする。2日で5万も使ったと聞いた時はさすがに爆発した。
「そんなに綺麗なおねーちゃんと仲良くしたいならっ、お好きにどうぞっ! 私だって、この新天地で新しい出逢いを求めるわよっ!」
 そう啖呵を切ったら、次の瞬間には、もう泣き出しそうな情けない顔。
「そんな〜、日和っちゃん…捨てないで〜。俺さ、別にやましいことはしてないぞっ! そりゃ、おねーちゃんのおしりはなでなでしたかも知れないけど、断じてそれ以上はっ! だって、俺は身も心も全て日和ちゃんに捧げてるんだから。こんな純真な男を見捨てないでくれよ〜〜〜っ!」
「別に…捧げてくれなくていいから。雄王だけが男じゃないからね」
 その夜はそんな感じで、奴の腕を振り払い、さっさと自分の部屋に入って鍵を閉めた。そして、近所迷惑におんおん泣いている声も聞かず、すやすやと眠りについたのだ。
 明けて木曜日・4月の10日。私の初出勤の日。自分用のお弁当だけ作って、雄王のカバンの上に1000円札を置いて、さっさと家を出た。車で送られるまでもない、徒歩10分だ。
 高校に着いて朝の職員会議の時に一応職員一同に挨拶をする。私の他にも5人ほどの講師の先生がいて、ひとことずつ言って頭を下げた。でも、何だか気のせいだろうか? 皆さんの目が私の方をちらちらと見ている気がするのは。変だなあ…別におかしな格好はしてないぞ。一応膝丈のスーツを着てきたし、髪も地味にしたし。
 腑に落ちない気持ちで1時間目の授業の教壇に立つ。一面真っ黒な学ランの海。ひょえ〜とのけぞりつつも、とりあえずの自己紹介をする。何か質問は…と訊ねると、後ろの方の男子生徒が立ち上がった。何が「飢えた野獣」よ、とても素朴な男の子たちじゃないの。丸坊主のニキビ面の彼は、恥ずかしそうな笑顔でこう言った。
「あの〜、先生。北川高校の寺嶋先生と同棲してるって本当ですかっ!?」
 ――は!?
 私がいきなりの言葉に驚いていると、他の子たちも口々に言う。熱烈恋愛で、後を追ってきたのか、とか。ロミオとジュリエット並みに両家の反対にあいながら、なおも燃え上がる純愛劇とか。酷いのになると、もう妊娠3ヶ月とか、3歳になる子供がいるとか、もう滅茶苦茶。
 絶対変だ、だって私は誰にも雄王のことを言ってない。シークレットだったはずだ。どこをどうしてこんな風に知れ渡ってるのっ!?
「先生〜朝、エスティマの窓から、でかい声で『日和ちゃん、愛してるよ〜!!』と校舎に向かって叫ばれてましたよ?」
 …それか。やはり。
 聞いたところによると、雄王は赴任先の高校でも、練習試合で来たここの高校でも、もちろんそのほかの学校でも、べらべらとまくし立てていたらしいのだ。違う学校に行けば、仕事中は邪魔されなくていいと思っていたのに、どういうことなんだ、まったくもう。
 お陰で、結構イケメンの独身男性教員もいたのに、私は全くの対象外にされてしまった。誰だって熱愛真っ盛りのカップルに触れてやけどしようなんて思わないだろう。まあ、都会ではそう言うのもゲームのひとつとしていいかも知れないが、ここはのんびりした山奥。そんなことを考える輩もいない。
 八百屋さんでも肉屋さんでも魚屋さんでも「ダンナは元気?」と聞かれる始末。狭い田舎町が災いして、もうすっかり古女房にされてしまった。

 それでも新学期が始まれば、慌ただしく忙しい日々になる。浜谷にいた頃とあまり変わらない感じで毎日が過ぎていった。男の子たちの多い学校では授業の進め方とか迷うこともあるが、そこは先輩教員の助言もうけてどうにか乗り越えていく。男の子だって器用な子は多いし、変に突っかかって来ない分、扱いやすいかも知れないと思った。ただし、でかくて臭い。夏なんて牢獄のようだけどね。
 雄王は野球の盛んな高校に行ったとは言え、第三顧問、監督はおろか部長でもない。と言うわけでもうひとつ応援部という部の顧問もして、それでも「新婚さんだから」7時半頃戻ってくる。かなり間違っている、私たちは結婚なんてしてない。ま、晩ご飯食べて、それと前後してお風呂に入って、TV見て。お約束みたいに、時々仲良くして。そんな感じにしているうちに夏休みがやってきた。
 7月の10日前後、期末テストが終わらないうちに夏の全国高校野球選手権の地方予選が始まる。いわゆる県大会だ。雄王は球場の仕事に借り出されることになり、ここから車で2時間も掛かる県営球場に連日出かけることになった。そして戻ってきて学校に行って成績付け。今年は1年目でクラスがない分楽だが、それでもさすがの常夏男もふらふらしていた。
 県営球場での仕事が終わると、そのまま野球部は1週間の合宿。実家に帰ろうかとも考えたが、また母親の愚痴とお見合い写真攻撃に遭うと思うと嫌になる。丁度酒屋さんのバイトの仕事があったのでそれを受けることにした。ほんのちょっと、きっと雄王が一度パチンコに行けば数時間ですっからかんになってしまいそうなお給料だけど、どうにか現金も手にした。
 昨日…8月8日。隣町の高校との練習試合からもどった雄王を玄関で出迎える。おニューのキャミソールドレス。藤色でちょっと大人っぽい奴。
「へ…?」
 靴も脱がずに立ちつくした男は泥だらけのユニフォーム姿で呆然とこちらを見ている。私は何だかとてもおかしくて、くすくすと笑い声を上げながら、小さな紙袋を差し出したのだ。
「どうぞ」
 がさがさがさ。出てきたのは、完全防水加工の時計。さすがにローレックスとかそんなのは手が出なかったけど、国産品でそれでも39800円もした。
「…何で?」
 クリスマスでも誕生日でもないのに、いきなりプレゼントを渡されてびっくりしてる。テーブルの上には腕によりをかけたちょっとおしゃれなメニューが並んでいた。
「日和っちゃん…?」
 何が何でどうしたんだ、一体何があったんだ…と言いたいのかも知れない。でも余りのことにいつもは滑らかに動く舌も硬直しているみたい。
 私は窓のところまで歩いていくと、ガラスに額をくっつけた。外に広がるのは百万ドルの夜景じゃなくて、夜間照明に浮かび上がる雄王の勤務する高校だったりするけど、まあいい。
「…一年目」
 我ながら何とも乙女チックだと思った。そんなこと雄王が覚えているわけもないと知っていた。でも…やはりお祝いしたかった。私たちが暮らし始めた記念日。それはふたりで決めた特別な日ではなかったけど…それでもやはり大切だと思ったから。
「あっ…ああっ…! そっか〜〜〜っ…!」
 雄王はそれきり、いつもの元気が嘘のように大人しかった。黙ったままでご飯を食べて、いつもよりもゆっくりとシャワーを浴びて。ナイター中継も見ないで。それでもまあ、大人しいながらもやることはきっちりやって、そのあと私をぎゅうっと抱きしめて言った。
「あ、あのさ。明日と明後日連休なんだよ…だから、日和っちゃんの家に行こう?」
 きちんと承諾して貰って、籍を入れようって、そう言った。いつもは振り払いたくなる暑苦しい腕の中で、それでも私は溶けてしまうくらい幸せだと思ったんだ。…その時は。

 それがそれがっ…!
 明けて翌日の今日。実家に向かう途中、高速のパーキングエリアで一服してる時、雄王の携帯が鳴った。かけてきたのは私の兄。このごろでは雄王に直接連絡を取ってるらしい。全くもって、腹立たしい。妹をきちんと通しなさいっていうのよねっ!
 んで、兄が言うには。母親は今日は兄嫁と孫のことで大げんかをして低気圧に入っている。こんな時に来たらまとまる話もまとまらなくなる。だから、ちょっとほとぼりが冷めるのを待った方がいい――というものだった。
 雄王はそのまま私の実家に降りるインターを通り過ぎ、一路ここ、浜谷まで南下してしまったのだ。

◆◆◆

「あっ…あのさっ…!」
 雄王が後ろからおどおどと声をかけてくる。ああ、鬱陶しいっ…! いつも暑苦しいけど、今日はひときわそれを強く感じる。
「まだ、怒ってるの? …ねえ、もういい加減に機嫌直してくれよ〜。これから、ミチ代先生のところにも行くんだろ? 日和ちゃんがそんな仏頂面していたら、俺、哀しい…」
 さわさわさわ。潮風に吹かれて。ああ、傷心な女の私、黙って海を見てる。
 ここに辿り着いて、まあまずは、と中須治巡査・香夫妻のアパートに行ったら。これから親戚の法事に出かけなくちゃならないのに、子供を預ける場所が急に駄目になって途方に暮れていると言われた。夕方までには帰るからと、咲ちゃんを渡されて、こうして子守をしているのだ。
「な〜、機嫌直せよ〜」
 ずりずり、少し近寄ってくる。でも私は振り向かない。はるか水平線を見つめている。
「…母親の機嫌が悪いくらい、何だって言うのよ…」
 私は堤防の上におしりで座って、膝を抱えていた。スカートの裾がゆらゆらと揺れてる。
「お兄ちゃんだってね、お父さんだってねっ…みんなおどおどしちゃってさ、面白くないのっ! ご機嫌取りをするよりもがつんと言ってやればいいのにね、いつも母親の顔色ばっかり窺ってさ」
 ついっと風が吹き上がってくる。ベビーカーの中、咲ちゃんは寝ていた。
「本気で私が欲しいなら、10発でも100発でも殴られる覚悟がなくて、どうすんの。この先、絶対にやっていけないよ? そんなだったら…もうやめた方がいい」
 薬指、雄王がクリスマスにくれたエンゲージリング。すごく幸せだと思った。なんだかんだ言っても、やっぱりこの男といるのが楽しい。出来ることなら一生側にいたいと思う。でも、心許なくて、いつでも逃げ腰だから哀しくなる。強気のようでいて、肝心の時にしっかりしてくれない。たまにはがつんと誠意のあるところを見せて欲しいのに。そんなこと、望んじゃ駄目なの?
 胸がじんじん痛い。宙ぶらりんの自分が嫌。…もう、ここら辺で、どうにかしてくれないかなあ。
「そ、そんなことっ…」
 臆病者の男はそれでも必死に食らいついてくる。何回も咳払いして、呼吸を整えて。
「あのさ、別に、俺、日和ちゃんのお母さんに殴られたって平気だぜ? でもさ、やっぱ、嫌々じゃ良くないじゃん。気持ちよく、日和ちゃんとの結婚を許して欲しいよ。ちゃんと行くからさ、今夜、夕食のセッティングしてあるんだ。ちゃんと浜谷のホテルを予約して、お父さんとお母さん、呼んであるからっ…!」
「へ…?」
 聞いてないよ、そんなこと。初耳だよ? ひとことも言ってくれなかったじゃないの。
「本当は来ながら車で拾おうと思ったんだけど、何だかお母さんは美容院の予約が上手く取れなかったとかで。お兄さんがちゃんと送ってくれるから、大丈夫なんだよっ。でね、ミチ代先生夫妻に仲人を頼もうかと思って…」
 私は黙ったまま、振り向いた。雄王が真っ赤な顔して、でもまっすぐにこっちを見てる。
「今年中に、きちんとしたいんだ。…やっぱさ、今のまんまはまずいし。お兄さんがさ、きちんと場を設けて話を進めた方が、お母さんも素直に聞いてくれるだろうって。これでも、みんなで知恵を絞ったんだぞ。な…いいだろ?」
「ん…」
 もっと気の利いたこと言って、ロマンチックになれればいいのに。私も馬鹿だなと思う。口のはじっこでちょっとだけ笑って、そして立ち上がった。

◆◆◆

「あのさ、日和ちゃん…」
 戻り道は夕焼け。人気のまばらになったビーチに波の音が響く。
「こうしているとさ、俺たち本当に親子みたいに見えるかな? こんな風にいつか本当の親子で、浜谷の街を歩けるようになるかな…」
 長い影が伸びていく。ガラガラとベビーカーの車輪の音、響いて。
 最初の赴任地はとんでもないところになったけど。雄王はいずれこの地に戻ってきたいと言っている。そして、浜谷でこの自然の中でずっと生きていきたいって。その風景の中に、私がちゃんと組み込まれているのだとしたら、やっぱり嬉しいかも知れない。
「あのさ、雄王…」
 言おうか、言わないしようか、ずっと迷ってた。こんなこと言って、もしも嫌がられたらどうしようかと思ったし。でも、今なら言える。
「私ね、先月からピル飲むの、やめたんだ。もうね、いいかなと思って…だから」
「へ…?」
 隣を歩く男を見上げる。夕日に染まって赤いのか、顔が赤くなっているのか判別出来ない。
「もし、赤ちゃん出来たら…産んでいいよね?」
 固まった表情に投げかける笑顔は泣き笑いの複雑な表情。たくさんの想いを乗せて、私は歩いていくんだ。絶対に雄王は認めてくれる、そう信じてる。だから、今はびっくりして何も言えないままでもいい。
 雄王の手が、私の片手を取る。ベビーカーが押しにくくなって立ち止まる。そのまま、指を深く絡めて、痛いくらい握りしめて。そして、ちょっとかがんで、耳元に囁いた。
「…愛してるよ」
 歯の浮くような台詞も、涼やかな浜風に吹かれて、ちょっと素敵に響く。お互いの指先が同じ微動を描いて、今日最後の朱に染まった。

 

おしまい (030609)


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