本編「てのひらの春」だけは読破されることが望ましいかも?
新年まで、あと一月。 もうここに来て何年にもなるので、御領地での年納めの色々も心得ていた。順序立ててこなしていけば、そう難しいことではない。とはいえ、いつもとは違う喧噪、せき立てられるような雰囲気にどこか心が先走りしている気がする。 何をしているわけでもないのに、疲れているみたいな。少しぼんやりした自分に気づいて、余市(ヨイチ)は小さく吐息を付いた。 奥の居室(いむろ)は御館の一番奥まった山際にある。ここの主は御館様のお世継ぎ・雷史(ライシ)様の正妻様。身分の高い方にありがちなおごったところなどは全くなく、物静かでおっとりとした御気性の御方だ。元は都でお仕えしていた方であり、この縁組みには西南の集落の最大の権力者・大臣家の働きかけがあったと聞いている。 裸足に草履。下男の装いは夏も冬も大差ない。もちろん、この温暖な地では、真冬でも寒さで身の縮むことは少ない。どちらかというと夏の暑さの方が堪えるくらいだ。浅黄色の小袴をぬるりとした気に漂わせながら、彼はその場所を目指していた。
柔らかい歌声が途切れ途切れに聞こえてきた。そっと、気づかれないようにのぞく。常緑の枝の向こう、大きな岩に腰掛けた娘が見えた。朱色の髪を腰まで伸ばして、それが水色の上掛けの上に綺麗な流れを作っている。輪郭の横からピンと張りだしたのはこの地特有の「エラ耳」で、彼女はそこがオレンジ色。丁度夕日で染め上げたようなやわらかい色だった。 冬の初めの暖かい日和に、ひなびた風景を眺めながら彼女は唄っている。それは誰でも知っている懐かしい調べだった。
――おまえのお里を、鳥に聞く。遠いお山のまた向こう。赤いお山のその先に、……。
ふつ、と声が途切れて。それから、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。 「あら、余市。何かご用?」 「え……あ、うん……」 「どうしたの? 柚がお守りさんしてるの?」 正直、理由なんてなかったのだ。気が付くと足がこちらに向いていた。他の誰も疑わない。自分のご主人様がいらっしゃる居室なのだから。多分、目の前の人もそう思っているだろう。 自分だけのために曖昧に話をはぐらかしながら、彼は娘の隣に腰掛けた。 「うん」 初めての御子、しかも男君であったため、御祖父様になられた御館様も大変お喜びになった。畏れ多くも大臣家から、たくさんのお祝いまで頂き、それも権力や派手なことの好きな御方のお気に召したらしい。 もっとも……柚羽の膝で眠る赤子に、そんな大人たちの思惑など分かるはずもない。鮮やかな髪の色も長いまつげも通った鼻すじもやはりご主人様によく似ていらっしゃる。血を分けた親子なのだから当然だと言えるが、兄弟のない余市にはそんな縁のつながりもどこか謎めいたものに感じられていた。 「乳母(めのと)様が、里の薬師(くすし)様の所へお出かけになっていらっしゃるの。お戻りになるまで、私がお世話の申しつかったのよ。お方様はお正月のお支度でお針を使っていらっしゃるので、危ないし……」 そう言いながら、小さな手で赤子の衣を直す。ふたりの顔の大きさなど、あまり大差ない気もして可笑しい。もっとも1年半前、初めて会った頃には彼女はもっともっと幼く見えて、10にも届かない女の童(めのわらわ)かと思ってしまった。 「お休みになられたのなら、重いでしょう? 俺が少し代わろうか」 余市が腕を差し出すと、彼女はにっこり微笑みながら、でも頭を横に振った。 「ううん、今寝付かれたばかりだから。余市に渡したらお目覚めになっちゃうわ。大変だったんだから、たくさんぐずられたの」 指先もおぼつかなくて、何をやるのにも時間が掛かるこの娘も、幼子の扱いには驚くほど長けている。生まれたての赤ん坊を湯浴みさせるその手つきも、まるでお産婆様のようで舌を巻いてしまった。 「それに」 「若様、このごろよく分かっていらっしゃって。お好みが出てこられたんですもの、知ってる? 余市がそばに来ると急にむずかられるのよ……不思議ねえ」 柚羽がそう言うのも無理はない。余市もこの言葉に対しては困った笑顔で応えるしかなかった。 赤子には人見知りをする者とそうでない者がいるという。これも柚羽に教えてもらったことだ。彼女にはたくさんの兄弟がおり、里にいた頃にもよく小さな弟や妹の世話をしていたという。ひとりを負ぶって、あとのふたりの手を引く、なんて様も日常茶飯事であったらしい。 今、彼女の膝にいるのは生後半年になるかならないかの赤子だ。それなのに、自分ではまだ何も出来ぬこの存在が、好き嫌いを唱える。生意気だと思う。立場的には赤子様の方が身分が上なので、表だってそんなことを言えるものではないが、面白くないのは本当だった。 「お休みになっていらっしゃれば、本当にお可愛らしいのになあ……」 指先で、やわらかな頬をつついてみる。ただそれだけのことで、ぴくんと眉をつり上げるのが可笑しい。もちろん目はしっかりと閉じられたままだが。 「あら」 「お目覚めになっていらっしゃっても、お可愛らしいわ。本当、こんなお美しい赤さまは初めてだもの。私、もう嬉しくて。ずっとお抱き申し上げていたいくらいよ」 ……まるで、乳母のような言い方になっている。妹のような年頃の娘がこんな風に言うのが微笑ましくて、余市は顔を背けると彼女に気づかれないように苦笑した。
◆◆◆
幼い頃の彼はとても裕福な糸問屋の跡取りとして何不自由ない幸せな暮らしをしていた。だが、両親が相次いで亡くなってしまうとその立場が危うくなる。父に代わって店を任された叔父は遺言を破って、余市の従弟に当たる自分の息子に店を継がせるようにと取り計らった。 気づけば叔父家族のみならず、店の使用人までもが余市をないがしろにするようになった。まるで小間使いのようにあれこれと用事を申しつけ、いくら言うことを聞いても冷たい反応しかもらえない。しまいには店の金に手を付けたと、ありもしない言いがかりまで付けられてしまった。 家は余市にとって唯一守られる空間でなくてはならなかったはずだ。それなのに、少しの安息も与えられない。北向きのじめじめした部屋に押し込められ、食事も満足に与えられなかった。 薄暗い部屋には灯り取り用の小さなのぞき窓しかなかった。そこに顔を押しつけるようにして、彼は外を伺った。家の者たちは余市が表で色々と話すのを恐れて、外遊びもさせてくれなかったのだ。ほとんど幽閉のような暮らしが続いた。 ――もう、おしまいなのだ。 絶望の中で何度そう思ったのだろう。両親がいるその場所に、自分も導かれたい。だが、何も得ることもなくただ、こんな悲しいままで生涯を終えていいものか。 光を、掴みたいと思った。円い窓から見えるあの鮮やかな色彩の空間に、きっと自分が追い求めている幸福はある。死ぬのはそのあとでいい、一度くらい、もしかしたら。
しかし。外に飛び出したあとも、彼には休息などなかった。 仕事を探そうとしても、何もない子供では相手にされない。しかも無愛想な陰気くさい姿では、憐れみさえ浮かんでこないらしいのだ。どうにか今日一日の食い物だけを調達しようと、ありとあらゆる仕事をした。どこへ行っても罵声を浴びせられ、冷たく突き放された。
とうとう流れ着いたのは、女たちを囲っている遊女小屋。そこで客引きをする仕事を手に入れた。そこで必要なことはただひとつ。色に狂った男たちを見つけることだ。他の兄貴分たちのようには上手くできないが、それでも追い出されることなくいられたのは幸いだったのだろう。 汚いやり方もたくさん覚えた。客に安くて回りやすい酒を与えて、潰れた頃にお銚子を何本も多く並べておく。その中身は兄貴分たちが飲んでしまったものだ。そう言うことも涼しい顔でやってのけ、店主に報告するときも顔色ひとつ変えない。そんな所だけが、有り難がられた。 道ばたで呑んだくれている男から財布や赤い薄ものを奪うという盗人のような真似もした。騙される方が悪いのだ、自分は何も悪くない。そう思いながら……余市の心はどんどんすさんでいった。 とうとう、あんなに愛していた両親の顔さえ思い浮かばないほどに、彼は底のない泥沼に沈み込もうとしていたのだ。
この地を治める領主のお世継ぎ様とひょんなことから馴染みになった。それが雷史様である。幾度となく余市の居た店を訪ねてくれ、そのたびに大金を落としてくれるので、店主はそれは喜んだ。ただ、あまりに余市の手柄として誉めたので、今まで可愛がってくれていた兄貴分たちから疎んじられるようになる。結局、ここでも余市は行き場を失いかけていたのだ。 いつものように、店の女をあてがわれる。自分のような身分の低い男でも、金さえ払えば女たちはきちんと仕えてくれる。安っぽい香油の匂いにむせかえりながら、ひとときの夢に酔うことも楽しめるようになった。 ――同じことなら、上手くやって。こうして快楽に溺れる生活も悪くない……放浪の日々を続けて、余市は自分が堕ちるところまで堕ちていく未来の姿が見えていた。 そんなとき、先の貴人が彼に告げた。自分の身の回りの世話をしてくれと言うのだ。そんなこと願ってもないことでとても信じられず、最初はからかわれているのだとばかり思った。今まで、欺かれ、罵られ、地べたに叩き付けられるような扱いばかり受けてきた。今度もそれに違いないと思ったのだ。 「楽をさせてやる、こんな風に遊ぶときも連れてきてやるぞ。俺に付いてくれば、お前は今よりもずっと恵まれた生活が出来るんだからな」 上から見下ろされている言葉。女の中に全てを吐き出したあとの、あの空虚な気分が漂う中、どこまでも冷めた視線を見つけた。
――あれは、誰のものだろう……?
揺れる濃緑は、間違いなく目の前にいる貴人の瞳の色。自分の姿など、水鏡くらいにしか映したことがない。だが、似ていると思った。この御方も自分も、彷徨っている。このように裕福な方が、自分と同じはずもないのに、どうしてこんなに似ているのだろうか。 もしかしたら。 この世に真の幸せなんて存在しないのではないか。自分から見て、どんなに恵まれていると思う境遇の人間も、やはり憂いを抱えている。同じなのだ、誰もが満たされることなんてないんだ。だったら、もしもこの先にどんな地獄が待っていようが構わない。 気が付いたら、頷いていた。
そして、彼が思ったとおり、場所が変わったからと言って、何が変わるはずもなかった。自分を顎で使っていた遊女小屋の兄貴分たちがいなくなった代わりに、雷史様が自分を罵倒する。御父上に注意されたことで腹を立てて、こちらに当たったりするのだ。だが、それにも耐えた。 何故なら――あの瞳の色が、余市を貫いていたから。御領地のあまたの女子(おなご)の中でも、抜きんでて美しいと言われる若い側女(そばめ)を囲い、外にも数え切れぬほどの相手がいる。さらには、この地で誰よりも尊いとされる西南の大臣様からの覚えもめでたい。 そんな御方が、あのような目をされるのだ。だったら、いいじゃないか。こうして生活を保障されているのだ、その代償くらい甘んじて受けよう。
彼はやがて忘れていた。いや、忘れ去ろうとしていた。自分の中にあった、最後の夢……この手に最後に掴みたいと思っていたその存在すらも。
◆◆◆
婚の儀が盛大に執り行われている宴の席から、雷史様が姿を消してしまったのだ。しかも、その行き先は愛妾であられる美祢様の元。三晩の通い……婚礼のあとの三日は何があろうとも、男は女の元にかようのが古来からのしきたりであるのに、正妻様との大切な儀式を疎んじられたのだ。 むろん、御館様は烈火の如く怒り、辺りに当たり散らして憤慨され、聞く耳を持たない雷史様に変わって余市が激しく責め立てられた。 そのむしゃくしゃした気持ちのまま奥の居室にご報告に伺ったのだ。あのときのことは今思い出しても胸が痛む。遠き地より親兄弟から引き離され、誰も知る人のいない土地にやってきた少女に、どうして自分はあんな風にしてしまったのか。 謝ろうと何度も思った。だが、一度出来てしまった亀裂がそう簡単に修復されるわけもない。 雷史様と正妻様になられた秋茜様は不仲であって、それを反映するかのように余市と柚羽も打ち解けることはなかった。こちらが何か話をしようとしても、つんと向こうを向かれてしまう。愛らしいばかりの口元が、必死で悪態を付いている様も可愛らしいのだが、それを言えばなお機嫌を損ねるだろう。 それまでは御領地の女どもになど興味もなかった。何しろ、他人なんて自分を欺き陥れるだけの存在なのである。親しくしてもあとで手のひらを返される。それに普通の女子たちは、この地を訪れる高貴な官僚や、もしくは御館の方々の側女に上がって楽がしたいと思っている。まっとうに暮らそうとしたら、田畑を耕していた方がいい。きらびやかな生活とは無縁でも、幸せになれるのだ。 だけど……どうしたことだろう。 あちらから、ふわふわと髪を揺らしながらやってくるあの娘を見つけると、どうしても声が掛けたくなる。自分たちはそんなに親しげに出来る仲でもないのに、それを承知で。何かからかっては、つっけんどんに返される、そんな会話しか出来なかった。だが、それだけで十分だと思っていた。
彼女は小さな日だまりだった。 そのいたいけな身体に不似合いな大きめの衣装を重たげに身につけ、よろよろとなれない足取りで歩いていく。たどたどしい歩み。しかし彼女の周りにはいつでも暖かな空気が満ちていた。それに気づいたとき、余市は自分が遠い昔に置き去りにした大切なものがすぐに近くまで訪れている錯覚を覚えた。 「余市っ!」 振り向くと、柚羽が手を振っている。そんな風に自分の存在を主張しないと、御館様の丹精した植え込みに紛れてしまうほど、彼女は小さくて頼りなかった。触れれば折れてしまうほどの存在が、余市を満たしはじめる。雷史様が秋茜様の居室に留まるようになって、ふたりの関係も急速に近しいものになっていった。 嬉しいことも悲しいこともみんな報告してくれる。雷史様に付いてしばらく留守にしたあとなどは、まるで子犬が駆け寄るように嬉しそうに出迎えてくれた。こんな風に、自分を待っていてくれる人がいるなんて、知らなかった。戻りたくなる場所が出来るなんて、思っても見なかったのに。
「余市は器用だね。やっぱり指が長いからかなあ……どうして私の手って、こんななんだろう?」 いつだったか。いつものように飾り結びを頼まれて、それを施していると、柚羽がぽつりとそう言った。 「見てみて……ほらぁ、こんなに違うの。嫌になっちゃう」 どきり、と心臓が跳ね上がった。おもむろに手が取られ、そこに暖かくて柔らかいもう一つの体温が押し当てられる。 「余市は身丈もあってすらっとして、指も細くて長いわ。それに髪もつやつやでとても美しいんですもの、男なのにずるいわ。女形になれちゃうくらいよ?」 急に恥ずかしくなって俯いたのに、更に下から覗き込まれてしまった。どうしたらいいのか分からないほど心臓が波打ち、無邪気な微笑みが、その時だけは憎々しく感じられた。 「余市は……下男の身なりをしているよりも、大臣様のお屋敷に上がるときの高貴な衣装が似合うわね。ご主人様と並んでいても、後ろから見たらあまり区別が付かなくなったわ。あちらの女子様方にも色々言われるんでしょ?」 くすくすと無邪気に笑う。どうして、そんな風に普通にしていられるんだろう、当たり前の関係で過ごせるのだろう。余市はだんだん分からなくなってきていた。髪が伸び、娘らしい体つきに変わっていく彼女が、どんどん遠くなっていくような寂しさを覚えるようになったのだ。
その夜、下男の部屋に戻ると、冷たいしとねにごろりと横たわった。何となく手のひらを頬に当ててみる。あのとき感じたぬくもりが、まざまざと思い出されるようであった。 その瞬間、余市の中から、何か熱いものがこみ上げて来る。いびきをかいて深い眠りについている同僚たちに気づかれぬように、身を固くしてこらえた。だが、固く閉じた瞼の奥に、花のような笑顔がくっきりと浮かび上がってくる。 思わず、腕を伸ばし、触れるはずもない身体を思って宙を抱く。
何度か抱きしめたことはあった、彼女は感情の赴くまま、余市の前では涙を流すこともあったから。気丈なたちで、普段は笑顔をたやさない娘が、ふと見せる儚げな仕草。崩れ落ちないように抱き留めてやるのは、当然の行為だと思っていた。 「ありがとう、余市」……彼女はそんな風に言ってくれる。「余市がいてくれて、本当に良かった」と、にっこり微笑みながら、告げるその仕草が愛おしい。
――自分だけのものにしたい。そう願うのは叶わぬ夢なのか。 触れれば暖かい、この上ない安らぎを与えてくれる。だが、繰り返すごとにそれは、当然のこととなり、更にもっと深いものが欲しくなってしまう。柚羽の一番奥にある、暖かい場所……誰も辿り着いたことのないそこまで行きたい。彼女の心の一番深い部分に沈み込んでしまいたい……! ――刹那。 湧いてきたただならぬ感情に、余市は猛烈な吐き気を覚えた。ねぐらから跳ね起きて、闇に飛び出す。川の水で顔を冷やしながら、自分の中にある魔物を呪った。なんて口惜しいのだ、こんな風に彼女を辱めることなど、あってはならないのに。他の女子とは違うのだ。心から、何よりも大切にしなければならなかったのにっ……どうしてっ!
結局は雄でしかないのか。女を組み敷くことでしか、己を満たすことを知らない愚かな自分にしかなれないのか……否。 違う、違うのだ。
荒々しい呼吸を鎮めつつ、何度も自分に問いかける。それだけではない、それだけではないはずだ。愛おしい女子が欲しくなる、だがそれだけで終わりではない。さらにもっと、深いものが欲しいから。 ――あの日に手放してしまった夢を、もう一度だけ願うことが出来るなら。
◆◆◆
そう言いながら、取り出す、ささやかな彩り。西南の大臣様の御領地なら、もっと高価な品を携えた物売りがたくさん出ている。だが、そのようなものは、おいそれと余市の手には入らない。雷史様に付いて出仕したところで頂ける給金など、一夜の酒にしかならない。もちろん、そんなときの銭も、彼は惜しげもなくささやかな贈り物に使っていた。 「え……いいのに、そんな。だって……」 「いいんだ」 「さっき、聞いていたんだけど」 赤子を抱いたままの姿勢では辛いだろう。あまり手の込んだ結びはやめて、簡単なものを選んだ。ついついと手早く片方を結い上げると、場所を移る。 「柚の唄、俺が知ってるのと違う……同じ唄なのに、節回しが違うんだね」 「え〜っ……、そう?」 彼女自身が気づかないうちにすっかりと変わっていくのか。その変化に気づくのが自分だけならいいのに、今に芳しい花は己の存在を秘めておくことなど出来なくなる。その日が……恐い。
遠い日に聞いた、子守歌。自分の母が唄ってくれた懐かしい調べ。それを思う日が再び訪れるとは、あの深い絶望の日々には決して願えなかったこと。思い出させてくれたのは、全て、ここにいる小さな存在なのだ。変わらない笑顔のために、自分は何が出来るであろう、どうしたら、もっと彼女を幸せにしてやれるのだろう……? それがもし……自分の幸せと、重なり合う日が来るのなら。
「でもぉ……赤さまって本当に可愛いなあ……」 柚羽は膝の上の赤子を愛おしそうに眺めて夢のように呟いた。ほんのりと染まった頬。今なら、言えるかも知れない。 「柚は――赤さま、欲しい?」 「へ……?」 いきなりこんな質問をされて、驚くのが当然だろう。大きな目が不思議そうにこちらを覗き込んだ。 「う〜ん、そうねえ」 「こんな……美しい赤さまだったら、欲しいかな。ずっと眺めていたくなりそうだもん」 そこで。余市の幸せな時間は止まった。 突然、現実の中に突き落とされる。……そうなのだ、そうに決まっているじゃないか。どうして、確認するようなことを聞いてしまったのか。
――柚羽は……雷史様の御子が欲しいのだ。そう思っているのだ。わざわざ確信するために、聞いたわけではないのに。どうして、こんな風になってしまうのか。 自分以外の人の幸福を心から望むことが、こんなにも痛みを伴うものだなんて。
「余市は? ……余市は赤さま欲しい?」 答えたい、そのひとことが口から出てこない。 曖昧な微笑みの裏側に、泣き出しそうな感情が宿る。これを言ってしまえば、この人はどんなにか辛い思いをするだろう。そう思うから、言えない、言いたくない。思いの丈を吐き出すことが出来たら、どんなにか楽なのに……っ! 暖かい場所に導いてくれるたったひとつの希望を目の前に置いたまま、彼の心だけが遠く漂っている。伝えたい言葉を飲み込むことだけが、今できる全てであると自分に言い聞かせながら。
「――ほら、貸してごらん」 生命の営みとは摩訶不思議なものだ。こうして命を繋いでいく、過去から未来へと。遙かな時の流れは自分たちをかすって通り過ぎていくだけ。 はらはらしてる視線を感じながら、ゆっくりと歌い出す。遠い日のあの調べを。
――おまえのお里を、鳥に聞く。遠いお山のまた向こう。赤いお山のその先に、あかあか燃える……。 「……あ」 柚羽が急に立ち上がって、こちらに駆け寄る。そして、少しむずかりかけた小さな身体にそっと腕を添えた。ふたりで赤子を挟んで寄り添うかたちになる。 「余市……節回し以前に、音が外れてる。何でかなあ、余市は何でも出来るのに、お歌はダメなのよね」 無邪気に微笑む瞳。元のように静かに寝息を立てる赤子。もうしばらくだけ、こんな風にありもしない夢が見たい。 そう思っていると、傍らの柚羽が不意にくすくすと笑った。恥ずかしそうにこちらを見上げる。胸が震えるくらい、呼吸が近い。 「苦手なものがあった方が、安心するけど。ひとつくらいは私の方が得意なものが欲しいわ」 余市は言葉にはせずに、ただ微笑みだけ返した。
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