…「てのひらの春」&「氷華の節」・番外…

狭霧誕生、秘話???

 

 

 土地が変われば、流れる気の色までも違って見えるのかと今更ながらに気付く。
  まだ灯りも借りずに外を歩ける明るさの宵、だが肌の上を心地よく流れていくそれは夏の宵とは思えぬほどに涼やかであった。
  程よい熱さの茶が喉を潤し、長旅の疲れを癒していく。さあ、もう一杯いただこうか。ああ、窓辺で揺れる簾とその向こうに覗く夕顔の何とも風流なこと。知らぬ間に和歌のひとつも口に出来そうである。

 しかし、至福の時もそこまでであった。

「まあっ、まだこのようなところにいらっしゃって!」

 次の瞬間。

 ばたんと次の間の戸が開いて、そこから飛び出してくる黒髪の女子。同じ色の瞳を持つ彼女は、一目見ただけで「北の集落」の民だと言うことが分かる。きりりと首の後ろでひとまとめにされた髪、たすきがけにされた衣もすでに仕事着に改まっていた。普段から見慣れているその姿、だが今日はその背に鬼気迫るものが見え隠れしている。

「満鹿様、お願いしたお湯の準備は整いまして? 仕事はあとにいくらでもございますから、手早くお願いいたしますね」

 他にもいろいろ言いたげな様子であったが、どうも省略したようだ。すでに口を開くことすら時間の無駄だと分かっているのだろう。

「ちょ、ちょっと待ってよ、瑠璃さん―― 」

 このまま引き留めなければ、夫である自分の前を素通りしてあっという間に戸口から飛び出してしまいそうな勢いであった。慌てて声を掛けると、彼女は振り向く間も惜しいと言わんばかりに眉をひそめる。

「まだ到着して、一刻足らずだよ。もう少しだけ休ませてくれよ、頼むから」

 多少情けない発言だと言うことは、彼自身も承知の上であった。だが、心の底から出た本音なのだから仕方ない。
  馬を使っても数日、ましてや徒歩(かち)ならば大人の足でも辛い道のりをはるばるやって来たのだ。その上、このたびは子連れの旅である。生まれて半年の一番下の子は妻が負ぶっていたが、そのほかのふたりは自分の足で歩かせるほかにない。里に置いてくることも考えたが、本人たちが「どうしても」と行きたがったのだから仕方なかった。

「そのような寝言を仰っている状況ではないことはご承知ですよね? わたくしとて、夢にも思いませんでしたわ。まさかこうして到着したその日に、柚羽様のお産が始まるだなんて」

 では、お願いしますと話を打ち切って、彼女はそそくさと出て行く。両手に抱えきれないほどの洗い物をまずは済ませてしまおうと考えているのだろう。とりあえず手の掛かる子供たちは旧知の仲間のところに預けてきたが、どんな騒ぎになっているのやらあちらの方も気がかりである。まあ緊急事態なのだから、向こうも事情を分かってくれることを祈るしかない。

「ただいま、すまないね満鹿。留守番をお願いしてしまって」

 瑠璃が出て行ったのと入れ替えに入ってきたのは、この居室(いむろ)の 主であった。やはりこちらも彼女ほどではないが、いつになく慌てている様子である。

「いや、気にしなくていいよ。それより、産婆さんは? 連絡付いたの?」

 外歩き用の衣を手早く改めながら、彼はこちらを振り向いた。

「うん、あと半刻足らずで来られるって。助かった、間に合わなかったらどうしようかと思ったよ」

 そう答えながらも、未だに呼吸が治まらない様子だ。
  まあ、無理もない。昨日の診察ではまだ七日以上は後だろうと言われていた彼の妻が突然産気づいてしまったのだ。そしてその一因は、満鹿たち一行の到着にあると言っても過言ではない。送ったはずの文が何かの手違いで届かず、突然の来訪となってしまったのだから。あれだけ驚けば、お腹の子もさぞ慌てたことだろう。

「悪かったね、突然騒々しいことになってしまって。でも正直、助かったよ。俺たちふたりじゃ、きっと途方に暮れていたと思う。頭では段取りが分かっているつもりだったけど、いざとなると全然駄目だね。瑠璃さんと満鹿が来てくれたら、鬼に金棒だ」

 この場合、妻と自分のどちらが「鬼」で「金棒」なのだろう……などとまた余計なことを考えてしまう。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく今は言われたとおりに湯の支度をしよう。鍋は仕掛けてあるから、そろそろ煮立つ頃に違いない。

「……まあっ! 今度は殿方がおふたりでくつろいでいらっしゃって……! 余市様、お戻りになったならすぐに産所の方においでくださいませ。まだしばらく時間がかかります、柚羽様は今一番お辛い時ですから出来るだけお側について励まして差し上げてください」

 早口でここまで言い終える間に、彼女はどこから集めてきたのか新しい敷布やら肌着やらを手早くたたみ上げる。その手元の鮮やかなこと、我妻ながら惚れ惚れしてしまう。

「……満鹿様!」

 また動きが止まってしまっていたらしい。ああ、両肩が重いこと。まるで鉛を入れているようだ。大所帯での移動だったために手荷物も多く、全てを任されたのだからたまらない。いや、でもこれ以上のんびりしているわけにもいかないか。お産というものがこちらの思惑通りには進まないことを、妻の三度の経験で知っている。

「はーい、桶はこれでいいんだね?」

 配膳台に手をついてやっとのことで立ち上がると、すぐ背後にいた余市が「相変わらずだねえ」とのどかに微笑んでいた。

 

◆◆◆


 まさかこんなに早く都に舞い戻るとは思わなかった。

 妻の出産に余裕を持たせて間に合うようにと、里に下がったのが昨年の秋。満鹿はすぐに集落に幾つか点在する「分所」の周辺警護の元締めを命じられ、日々追われるように過ごしていた。「分所」とは都が直接管轄する機関で、地域のお目付役としてその存在は大きい。

 彼の故郷である「南峰の集落」は他の土地に比べて、民の感覚がひと世代くらい古いと言われている。決まり事などもいちいち堅苦しく現代の習わしにそぐわないところばかりだ。これではことあるごとに中央の役人とやり合ってしまうのも無理はない。都でのお務めの経験を元に修正を加えようとしても、一体どこから手を付けたらいいのか分からない有様であった。

 瞬く間に年が改まり、妻が無事に三人目の子を産み上げる。すると今度は、地元ならではの赤子関連の行事が目白押し。まあ何というか節目節目に親戚縁者が集まっては宴会をするだけのような気もするが、その席に赤子の父親であり家の跡目である満鹿が顔を出さぬ訳にもいかない。分所の方でも新年の行事がいくつもあり、首が回らないほどの忙しさであった。
  こんなことなら都に残っていれば良かった。そうすればこのような地元のしがらみの煩わしさとも無縁でいられたのに―― 誰にこぼすわけにもいかないが、ふとそう考えてしまう時もあった。

 すると今度は、いきなり都への出仕要請である。

 何でも今年都に上がることになっていた若者の家で不幸があり、喪が明けるまで出仕を見合わせることになったという。しかし集落ごとに割り当てられた人数を今更減らすことは出来ず、その者がやってくるまでの三月の間だけ満鹿が代理を務めることになった。
  幸い与えられたお役目は以前彼が受け持っていたのと同じ表庭の警護であり、その点でも適任といえよう。だが話を聞いた当初は気が重かった。たった三月ならば単身での出仕が当然。妻や子供たちと離れて暮らすのが寂しくて仕方ない。どうにか理由を付けて断れないものかと思いを巡らせていると、相談した妻の方が即座に言った。

「満鹿様が都にいらっしゃるなら、わたくしもご一緒いたしますわ」

 産後の肥立ちはすこぶる良好とはいえ、まだ生後半年の乳飲み子を抱えた身である。それなのに夫である自分に付き添い献身的に尽くしてくれようとするのか。その真心に満鹿の胸には熱いものがこみ上げてきた。しかし感動の夫を置き去りにして、妻はさっさと本音を口にする。

「今からすぐにお支度すれば、柚羽様のお産に間に合うかも知れません。産後のお世話もして差し上げたいですわ。ああ、とにかく急がなくては。満鹿様もお父様方にご報告をお願いします」

 ―― やはりそんなところか。

 そう言いながらも、早速あちこちの行李を開けてどんどん衣やら道具やらを取り出している。その妻の表情は里に戻ってから一番輝いており、何とも複雑な思いがした。そして出仕の話が来てからわずか三日後、彼らは都へと旅立っていたのである。

 まあ満鹿としても、久方ぶりに懐かしい都に上がれたのは素直に嬉しい。南峰の新しいお務めでは頭が鋼鉄か玻璃で出来ているのではないかと思われるほどに堅く融通の利かない年寄りたちと格闘する日々に疲れ果て、昔の仲間たちに愚痴のひとつも聞いて欲しいと朝な夕なに切望していた。
  自分たちが去った後の居室もまだ次の者が入らずに空き家のままになっていると聞いている。そこを借りることが出来れば、以前と変わらない生活が送れそうであった。隣の居室の主・余市とは独身寮時代に同部屋で過ごした仲である。久しぶりに酒でも酌み交わしながら思い出話に耽るのもいい。そう思って大荷物の上に、南峰の地酒をいくつか忍ばせてきた。

 しかしこれでは再会の宴がいつになるか見当が付かない。余市の妻が無事出産を終えれば祝い事になるだろうが、自分は明日から早速出仕でしかも宿直である。そのための装束もどこにしまい込んだのやら。妻もお産の支度に大わらわですっかり忘れてしまっている様子である。

「あー、もう。俺はいつでも二番目なんだから、参るよなあ……」

 南峰の里に戻れば、あるいは昇格できるのかとも思っていた。だが彼の地では、彼女は三人の幼子の「母親」であり村でも中堅格の一族の「嫁」である。有能で頭の切れる女性だから、風習の違う異郷でも大きな諍いを起こすこともなく過ごしていたが、その心中はかなり疲れが溜まっているのだろう。ふたりの寝所に戻れば言葉も少なく、何とも寂しいばかりであった。
  生涯を共に過ごそうと決めたのならば、ふたりの関係が次第に変化していくことも受け入れていかなくてはならない。頭では分かっているのだが、やはりやりきれない思いがする。それでもつないだ手を離さずに済んだのだから、その強運のためにも頑張らなくてはならないのだが。

 

◆◆◆


「柚、具合はどう?」

 産所、と瑠璃は言ったが、この場所は普段から夫婦の寝所として使っている奥の間である。彼女は片付けも追いつかずに散らかり放題だったその場所をあっという間に整頓し、その上に周囲の壁に白布を掛けて簡易式のしつらえをしてしまった。都にいた頃から「普通の女子の三倍は働く」との定評があった瑠璃であるが、南峰に下がってからもそれは健在であったらしい。

「……余市?」

 独り寝の寝台の周囲もぐるりと白布で囲われている。これはどうも瑠璃の生まれ里である「青の集落」の伝統であるらしい。余市もここまで正式なものは今までお目に掛かったことがなかったし、柚羽も「まるで王族の御妃様のようで恥ずかしいわ」と頬を赤らめていた。

「今は楽なの、痛みがくると辛いのだけど」

 何重にも張り巡らされた布を分けて進むと、ようやく現れた寝台の上に妻は少しやつれた面差しで横たわっていた。今は楽だと言うが、その額には玉の汗が浮かんでいる。

「これはね、赤さまも頑張ってるって証拠なんだって。だから私も負けずに赤さまを応援しなくちゃ……」

 妊娠中は周囲の理解や心遣いもあり、大きな混乱もなく無事に過ごすことが出来た。夫婦で待ち望んだ初めての子である。五年かかって自分たちの元まで辿り着いてくれた命を、妻はその胎内で十月の間大切に育んでくれた。

「そうだね」

 差し伸べられた手を優しく握り返す。今、自分に出来ることはそれくらいだ。ただこうして「待つ」ことしか出来ない立場がふがいない。たとえば、妻の今の痛みをこの身に共に味わうことが出来たなら。しかし決して分かち合うことの出来ないものならば、必死に感じ取るしかない。

「ふふ、……でも驚いたな。こんな時に瑠璃様がいらっしゃるなんて。里の母上にも遠くてとても出てこられないと言われたし、本当はとても心細かったの」

 重なり合う手のひらに熱がこもる。ふと呟いた言葉が、妻の真実の想いなのだろう。十一の年に里を離れ、それから妻は文字通り「自分で身を立てて」生きてきたのである。生家は変わらずに里にあっても、すでに遠い場所。年に幾度も戻るわけにも行かず、交流も途切れがちになっていた。
  このたびにしても、妻の母親には里に仕事がありあちらの子や孫の世話もある。不義理に心を痛めていることであろうが、どうすることも出来ないのだ。とは言え、山また山を越えた場所までわざわざ身重の妻を里帰りさせることも現実的ではない。春は人事異動で忙しい時期にあったし、余市自身も道中を付き添ってゆけるほどの余裕がなかったのだ。

 瑠璃も上のふたりの子は都に滞在中に生まれていたが、彼女は毎回里に戻って出産していた。女子の足で歩いても一日足らずの道のりならばそう難しくはない。その様子を見ていた柚羽だから、余計寂しく思えたのだろう。

「そんなこと言わないで、俺がここにいるだろう?」

 心許ない我が身を呪いながらも、必死に告げるしかない。自分の両親も年少の頃に亡くなっている。実家はすでに自分の戻る場所ではなくなり、根無し草のままで過ごしていた。そう、―― この人と巡り会うまでは。

「うん、……そうだね。ありがとう、余市……―― っ!」

 愛らしい妻の顔がにわかに歪む。じっとりと汗ばんだ手のひらを余市に預けたままで、彼女は小さな身体をくの字に曲げた。

「なっ、……なんか今までと違ってきたみたい。ごめんっ、余市……瑠璃様を呼んできて! 早くっ、お願い……!」

 白い多い布をかき分けてようやく外に出たとき、足がもつれて床に転がっていた。すぐに体勢を整えたが、そんな姿を妻に見られなくて本当に良かったと余市は思った。

 

◆◆◆


 そして、さらに数刻後。

 夜半の輝きが天を美しく染めている下で、満鹿はぼんやりとまどろんでいた。窓辺には一体いつの間に活けられたのだろう、一輪挿しの夏草が揺れている。懐かしい居室も昔通りとは行かないまでも、当座の生活には支障がない程度には片付けられていた。
  荷ほどきもままならない様子で隣の応援に出掛けたのに、あの目の回るほどの忙しさの中でどうしてこちらを掃除する時間があったのだろう。次の間の寝台もすっかり支度が整っていた。

 あのあとは、とにかく大変だった。産婆の到着も間に合わないほどの早いお産で、慣れない面々は上へ下への大騒ぎ。三軒先の居室に住む年配のご婦人にまで助けを借りて、どうにか無事に赤子が誕生した。その現場まではさすがに男たちが立ち入ることは出来なかったが、すぐ隣の間にいれば騒々しさまで丸聞こえである。

「……ただいま戻りました」

 静かに戸口が開いて、妻が安堵した面持ちで入ってきた。このように帰宅する姿は何とも懐かしい光景である。この地に住まっていた頃は日常的にかいま見ていた様子であるが、久方ぶりに目にすると思いがけず新鮮であった。

「とても愛らしい赤さまですわね。柚羽様も思いの外ご安産でホッとしましたわ」

 多分片付けも全て終えてきたと言うところか。妻もさすがに疲れたのだろう、今まで張り詰めていたものがぷつっと途切れたかのように隣の椅子に座り込む。衣も改めないままでこのように腰を落ち着けてしまうのはとても珍しいことだ。

「余市、泣いてたね。……奴のあんなに嬉しそうな顔、初めて見たよ」

 その言葉に瑠璃は声に出しては答えず、ただ小さく首をすくめた。艶やかな黒髪が肩を流れ落ちる。都の天の光の下で見るせいか、それはいつもより甘やかな仕草に思えた。

「俺もあんな風にしみじみした方が良かったのかな? 最初の時なんて、ちょっとはしゃぎすぎだったよね。青のお母さんが驚いていらっしゃったもの」

 まあ、それは今からもう五年ほど前になるのだし、あの頃は自分も若かったと思う。でも我が子の誕生を静かに噛みしめるように迎えている友の姿を見て、あんなやり方もあったのだなと今更ながらしみじみ悟った。

「ふふ、そうでしたわね。でも、あの方が満鹿様らしくて良かったですわ」

 瑠璃は今度は声に出して笑うと、そのまま静かに夫の方に身体を預けてきた。しっとり寄り添うその仕草が、いつになく艶めかしい。思わず肩に腕を回して引き寄せたが、彼女がそれに抵抗する素振りはなかった。

「……わたくしも、もっと満鹿様に甘えてみたくなりましたわ。柚羽様がとても羨ましくなってしまいました」

 久しぶりにしっかりと抱きしめるその柔らかい身体からは甘い花のような香りがした。永遠を誓い合ったあの日に、心が後戻りしていく。そう、何もなくても、そして何が起ころうとも、ふたりで寄り添って歩いていこうと決めたその日に。

「瑠璃さん……」

 もうすでに寝の刻を越えた夜半。子供たちを迎えに行くのは明日の朝でいいかなと思った。

 静かに重なり合う唇、漏れ出でる吐息。申し合わせたかのように、妻の重ねが細い肩から落ちていく。今宵だけは恋人同士のあの日のように抱き上げて寝所に向かう。

 その先のことは、ただ夏の夜のとばりの中に。

 

了(070713)

 

Copyright(c) Kara 2002-2008, All rights reserved.