…「匂やかに、白」・番外…

 

 

 

 たくさん、人がいる。広い広いお屋敷の中、きらきらした衣をまとった人たち。男も女も、入り乱れて数え切れないほど。行き交う人たちの衣擦れの音を聞いているだけで、身体が震える。とても前を向く勇気はない。怖い、とても怖い。

「あら、まだこのような場所に。……早く控えの間にお出でくださいませ、姫様」

 知らない人ばかりの中で、小さくなっていた。ようやく耳に馴染みのある声がして、ホッとする。お姉様みたいな人、双葉様というお名前。いつも傍にいてくれる。
 手を引かれて立ち上がる。頭にたくさん付けた飾りが重くて、首が痛い。頬をかするのは、髪に結びつけた色の紐。たくさんの綺麗な石が付いている。姿見に映ったのは、あたしじゃない別の人だった。

「……あちらに、ご主人様がいらっしゃいます。騒ぎなど起こされてはなりませんよ、お分かりですね」
 あたしにしか聞こえない声で、双葉様が耳元に囁く。

 思わず、身震いした。渡りの向こうのあの部屋に「鬼」がいる。

 お屋敷の中も広いけど、お庭もどこまでも広くて垣根がはるか遠くに見えた。白い花がびっしりと咲いている樹がたくさん植えられている。知ってる、これは白鴎(はくおう)の花。とてもいい香りがする。母さまのとても好きな花、このひと枝でも枕元に活けてあげたらどんなにか喜ぶだろう。でも、母さまは遠くにいる。しばらくは会えない。

 あたしは頑張らなくちゃならない。もしも鬼に喰われたら、もう母さまに会えない。だからしっかりしなくちゃ。約束、だから。

 

◆◆◆


 母さまの病は重くて、だけど薬は高くて買えない。このままだと、母さまは死んでしまう。身を寄せていた長屋のあるじ様がそう言った。ずっと、母さまとふたりきりでいたのに、どうしたらいいの。母さまの看病をしながら、夜になると身体が震えた。寒くもないのにガクガクとして、涙がたくさん出てきた。
 綺麗な糸や珠を編んで、飾りの紐を作る。それを売ると少しのお金になった。そしてまた、新しい糸と珠を買う。ひとつの場所には長くいられなくて、あたしたちはいつも村から村へと渡り歩いていた。でも寂しくなんてない、母さまがいたから。他の大人も子供もみんな怖かったけど、母さまだけは優しかった。

「ごめんねえ、お前には苦労をかけて」
 痩せこけた手を合わせて、母さまは言った。ううん、あたしは何の苦労もない、大変だったのは母さまだけ。だから、ご恩返しがしたいの。でも、どうしたらいいのか分からない。母さまを治す薬はとても高くて、どんなに飾り紐を売っても買えない。母さまの咳、どんどんひどくなる。
 母さまは働きすぎて、身体が壊れた。飾り紐を買ってくれるお店のあるじは、時々、夜になると母さまを連れて行ってしまう。それはどこの村でも同じだった。そんな時、母さまは朝まで戻ってこない。だから、部屋の戸はきちんと閉めて開かないようにしておくようにと言われた。夜になると、長屋の外は鬼でいっぱいになるから。
 何度か、あたしも一緒に来ないかと誘われることがあったけど、母さまは絶対に駄目と言った。あたしは人がたくさんいるところは嫌だったけど、母さまと一緒なら大丈夫だったのに。

 母さまが床につくようになると、長屋のあるじ様はここから出て行って欲しいと言った。そんなことを言っても行く当てなんてないのに。でも、あたしひとりが紐を編んでも部屋代が払えない。それでも必死で仕上げた分だけ届けに行くと、お店のあるじはいきなりあたしの身体をべたべた触ってきた。怖くて思わず悲鳴を上げたら、近くの人たちがたくさん駆けつけて来る。あるじはとても怒って、あたしを追い出した。
 それきり、仕事を回して貰えなくなって。あたしはもうどうしたらいいのか分からなくなった。長屋の人たちもあたしが通りに出ると、すごく嫌なものをみる目で見る。怖くてすぐに部屋に戻った。

 ある日、えらい人の使いが長屋に来た。えらい人があたしに会いたいのだという。えらい人はお金持ち。お目通りすると、えらい人は初めとても驚いた顔をなさって、そのあとにっこりと微笑まれた。男の人はみんな怖くて嫌いだったから、えらい人のお側に行くのもとても嫌だった。でも、えらい人は母さまを助けてくれるという。えらい人しか持っていない貴重な薬を母さまに下さるという。

 えらい人がくれた薬湯はとても苦くて、その上喉が焼け付くように痛くなった。熱がたくさん出て、なかなか下がらなくて、ようやく起きあがれるようになったら声が出なくなっていた。

「少し効き目がありすぎたかな」
 えらい人はそれでもにこにこと笑っていた。

 

◆◆◆


 双葉様は「ご主人様」と言う人を「鬼」だと言った。粗相をすれば怒って頭から喰われてしまう。だから、大人しくしていればよいと。困ったときには双葉様が助けてくださる、あたしは黙って下を向いていればいい。

「そなたが、涼夜姫か」

 それなのに、現れた「鬼」はとても美しかった。花と見紛うほどの綺麗な鬼もこの世にはいるのだと初めて知った。鬼なのに角もない、尖った牙もない。キラキラとした金色の髪はまばゆくて、前髪の奥の菫の瞳がとてもお優しそうだった。でも、この人は「鬼」、怒らせたら怖い。
 美しいばかりではない、「鬼」はとても温かい声をしていた。長旅をしてきたあたしのことを色々と気遣って言葉をかけてくださる。そのひとことひとことが、胸にしみいるようでたまらなかった。
 時々、声を立てて笑う。その時に白い歯が綺麗に並んで口元から覗く。あんなに綺麗な並びをあたしは見たことはなかった。えらい人もお金持ちだと思ったけど、この人はきっとキラキラした衣がなくても美しい人だ。こんなにも胸がときめいてしまうのは、やはり「鬼」だからなのだろうか。

 見たことのない広いお屋敷も、たくさんの人も怖くて。傍らにいる「鬼」も怖くて。長い長い宴の間、早く双葉様があたしを連れに来てくれないかと思い続けていた。

 

 最初はお優しいと思った「鬼」は、やはり恐ろしい存在だった。母さまが夜が更けると鬼がたくさん出てくると言ったように、あの「鬼」も夜になると本物になるのかも知れない。

 酒宴のあと。あたしは双葉様と長い渡りを通って隅の方にある部屋に入った。そして白い衣に着替えて、一番奥の部屋の蚊帳の中で朝を待つようにと言われる。

 しんとした夜の奥は夏の初めなのに寒くて、あたしは震えが止まらない。そしたら、「鬼」が来た。お出迎えをした双葉様と激しい言い争いをしている。荒々しくて別の人のように聞こえるけど、あれは昼間会った「鬼」の声。
 蚊帳の外の様子はよく見えない。昼間はまばゆいばかりの外の光が差し込んでいたのに、今は足元を照らす程の明るさもない燭台が揺れるだけ。鬼が騒いでいるから、辺りの気が揺れる。蚊帳が波打って、怖い。そのうちに、一番表がばさっとまくれ上がって、ぞっとする。「鬼」が――立っていた。

「何だ、そこにいるのか」

「鬼」があたしに向かって話していると知って、もう恐ろしさは頂点に達していた。本当に来た、「鬼」があたしを喰らいに来た。どうして、大人しくしていれば大丈夫だって言われたのに。えらい人は嘘を付いたの? すべては双葉様にお任せしておけばよいと言ったじゃないの。

 お願い喰わないで、喰われてしまったら母さまに会えなくなる。それは嫌、あたしはお役目を終えて母さまの元に戻るの。嫌、嫌よ、みんな「鬼」だから、嫌。大きな声をたてないで、頭が割れそう。叫びたくても、声が出ない。どうしよう、怖い、怖い……!

 蚊帳の奥で震えていたら、そのうち「鬼」は出て行った。まだ双葉様と激しく言い争いをしながら、表の方にいる。早く出て行って欲しいのに、何故留まっているの。「鬼」なんて嫌い、怖い。

 でも――二度と「鬼」は蚊帳の内に来なくなった。ホッと胸をなで下ろす。きっと気付いてくれたんだ、あたしは喰らっても美味しくない。
「鬼」はその日から三晩だけやって来て、その後は来なくなった。朝、「鬼」がいなくなると、蚊帳の隅に白い紙が挟んである。手にしてみても、あたしは字が読めない。仕方なく双葉様に預ける。向こうが透けそうな、綺麗な紙だった。

 

◆◆◆


 変わり映えのない退屈な日々が過ぎていった。あたしに与えられたのはお屋敷の渡りをずっと奥に入った対の、そのまた一番端にある部屋。夏の盛りには鈍色の蚊帳が一日中張ってあって、だから昼間でも薄暗かった。何もすることがないなら、こんなところ早くおいとましたい。でも、えらい人からの文がないとそれは出来ないと双葉様が言う。
 双葉様は以前からえらい人の御館でお仕えしていた侍女様だったらしい。時折つま弾く琴の音も、書き散らす墨文字もとてもお美しくて、うっとりしてしまう。もしかしたら、双葉様は本当はどこかの高貴な方の姫君なのではないかと思うほど。そう言ってみたいのに、声が出ない。あたしの気持ちは、双葉様に届かない。

「鬼」は数日に一度、ひょっこりと顔を見せる。でも、御簾の内には入らない。まるで渡りの向こうのお美しい庭を眺めにいらっしゃるのかと思うほど。双葉様と一刻ほどお話をして戻られる。そのやりとりをあたしは傍らの御簾の内で黙って見つめていた。
 お金持ちの御館のしつらえなんて知らなかったから、ここに来てから双葉様に色々教えて貰った。天井の梁からつり下げられた御簾は、奥から表の様子は驚くほどよく分かる。でも表からはこちらのことが影のようにしか確認できないらしい。それが分かって、心底ホッとした。あたしが何か粗相をしても、「鬼」にはそれが見えない。だから平気、ここにいれば。

 昼間の「鬼」は恐ろしくない。裾の乱れを整えながら、敷物の上に腰を下ろすお姿などは本当にきらめくほどにお美しくて目がくらむ程。金糸の髪は渡り歩く村々でもよく見ていたけど、この方のはそれとは全く輝きが違うのだ。
 毎回こちらに来るたびに、違った色目の美しい装束を身につけている。一体どれだけの衣を持っているのだろう。身に付けている一枚を洗濯したあとは乾くまでぼろを着て過ごさなければならなかったあたしや母さまとは、全然違う暮らしをしている。

「こちらは変わりないか」

 ちらと視線を向けられると胸が高鳴る。「鬼」からはあたしのことなんてよく見えないって分かってるのに。わずかにほころんだ口元、にこやかな笑顔。思わず唇が震えて、そして我に返る。あたしには声がない、いつになったら戻るのかそれも知らない。えらい人のくれた気付け薬はあたしには強すぎたから、身体がおかしくなってしまったんだ。
 お返事を出来ずにいると「鬼」はすぐに視線をそらしてしまう。双葉様があたしの代わりにあれやこれやと言葉をかけて、「鬼」もそれに応える。あたしはそれを眺めているだけ、でもそれで十分。双葉様とふたりきりの暮らしでは、時折やってくる「鬼」だけが目新しい存在なのだから。

「鬼」は本当はとてもお優しい方なのかも知れない。だって、この広い御館のあまたの人たちの中で、ただひとりだけあたしに会いに来てくれる。もちろん、「鬼」は本当のことを知らないのだけど。
「涼夜姫」と言うのはえらい人の姫君のお名前なんだと聞いた。その方がご病気で、すぐにこちらに上がることが出来ない。だからそれまでの間、あたしが代わりを務めるんだ。西の対での暮らしが始まってしばらくしてから、双葉様が教えて下さった。その頃には一緒に来ていたえらい人ももういなくなっていた。

「涼夜姫様は、ご主人様のもとにお輿入れなさったのですよ」

 初めてそう伺ったときには、心の臓が止まってしまうかと思うほど驚いた。あの「鬼」が……夫君。ううん、もちろん、あたしの本当の夫君でないのは分かってる。でもあちらは、あたしのことをお姫様だと信じていらっしゃるんだ。
 優しい眼差し、あれはお姫様に向けられたもの。間違ってもあたしが頂くものではない。でも、間近であたたかく感じ取っているのはあたし。「鬼」の長いまつげがゆらゆらして、光り珠のように美しい瞳が動くのを、とても不思議な心地で眺めていた。

 母さまに、会いたい。でもなかなか会わせて貰えない。お元気でいらっしゃるのだろうか、えらい人は母さまの病をちゃんと治してくれただろうか。ううん、大丈夫。えらい人は約束を守って下さる。そのためにあたしも、ここで耐えているのだから。

 不安が募るごとに、何故か「鬼」に会いたくなった。あたしの方から「鬼」を呼び寄せることは出来なかったから、「鬼」が渡ってくるのを待つしかない。お目に掛かりたいというひとことすら、あたしは「鬼」にお伝えする術がないのだ。

 

 どうして夫君なのになかなかいらっしゃらないのだろう。

 その疑問は双葉様のお話を聞いて解けた。「鬼」はこんなに大きな御館の跡目様でいらっしゃる。こちらはこの辺りの土地を治める領主様の御館。それだけの身分の「鬼」だから、正妻である「涼夜姫」様の他にも、たくさんの妻がいる。それだけじゃない、まだまだ「鬼」を夫君にしたいという女子(おなご)は数え切れぬほどある。
 もしもあたしが本物のお姫様ならば、そのお美しさと聡明さで「鬼」を虜にすることも出来るだろう。でも、あたしはただお姫様と姿が似ているだけ。もしも粗相をして鬼に嫌われたら、大変なことになる。えらい人もお困りになるだろうし、それで母さまの病を治してくれなくなったら困ってしまう。

 御簾を挟んだ向こう側、ゆったりとくつろぐ「鬼」をただ黙ったまま見つめる。せめて、お出でくださってありがとうと言うことが出来たなら。その意は双葉様がちゃんとお伝えして下さっているけれど、あたしの口から直接告げることが出来たらいいのに。そしたら「鬼」はどんなお顔をなさるだろう。あたしにまた、新しくお声を掛けて下さるだろうか。……ううん、駄目、あたしなど。ものの数にも入らない。

 

 あまり人の訪れることなどない部屋だけれど、それでもたまに用事があって訪れる方もある。とくに「鬼」の居住まいでお世話をしているという侍女様はちらちらと双葉様の元にお出でになっていた。

「こちらが、……目録にございます」
 などとお美しい巻物を差し出している品の良い方。双葉様もお美しいし、きびきびなさっていると思っていたけど、その方は御館に長くいらっしゃるためか堂々とした風格を感じさせられる。御簾の内からも、きりりと引かれた紅がとても華やかで印象的だった。

「そろそろ衣替えでございます。こちら様からも、何かお出しになるものがあればお申し付け下さいませ。殿は紺や藍の深い色目がお好みにございますよ……?」

 もちろん、あたしからは何もご返事することが出来ない。もともと、正妻である身分の者がそう軽々しくものを申すものではないと言われているそうだから、良いのだけれど。お話は全部双葉様にお任せすればいい。

「今の方は……津根様でございますよ」

 お戻りになったあと、双葉様にそう耳打ちされて合点がいった。津根様……そうだ「鬼」の話の中にも何度もその名前が出てきていた。「鬼」とは乳兄弟で、そして今ではとても深い仲でいらっしゃると聞かされている。お二人が並ばれたらどんなにかお似合いになるだろう。「鬼」も津根様のことをとても信頼しているみたいだった。
 津根様は「鬼」のお側にいる女子様の中でも、ひときわときめいている方だと言う。そうだろう、あんな素晴らしい方がお側にいたら、とても他の方になど目移りしない。こちらにいずれいらっしゃるお姫様は大変だろうと思う。高貴な方は難しいことが多すぎる。

 

◆◆◆


 ある日の夕刻、双葉様があたしを呼んだ。そっと几帳の影から覗くと、いつになく顔色が悪い。普段はくっきりと肌つやが良くて生き生きと見える肌が、少しくすんでいた。何事だろうと思っていると、目の前に小さな布の包みが差し出された。

「……っ!」

 声など出ないと思っていたのに、その時のあたしは自分の身体を脳天に向かって突き抜ける叫びを聞いていた。すぐに中のものを鷲づかみにして確認する。……間違いであって欲しい、そんなはずない。でもっ……!

 腕の長さほどの、一房のかもじ。薄い銀の輝きがあたしの手を滑り落ちる。懐かしい香り、どこか引きちぎられたような血の臭いが混じる。そして、もうひとつ。瑠璃色の守り輪。

 それはあたしの小さな両手でも掴めてしまうほどの儚さ。でも、こうして突きつけられたら、何が起こったのかは容易に想像が付く。でも、どうして? そんなはずはない。えらい人はちゃんと母さまを助けてくれるって言ったのに、何かの間違いじゃないだろうか。嘘よ、嘘。信じない。

「誠に残念なことではございますが……あちらの御館よりの文によれば、半月ほど前のことだと」

 母さまの首に巻かれていた飾り織りの守り輪は、あたしが生まれてすぐに亡くなった父さまの形見。いつの時も肌身離さず身に付けているのだと仰っていた。亡骸など見るまでもない、これだけで十分。えらい人は、約束を破った。

「……どちらへ、いらっしゃるおつもりですか?」

 ふらふらと縁の方に足が出て、そこで呼び止められる。振り向いては見たが、視界はぼやけて何も見えなかった。母さまがお亡くなりになった、もうこの世にいない。えらい人に任せておけばお元気になると信じていたのに。なのに、どうして。大丈夫って言ったじゃないの。

 えらい人が約束を破ったのなら、あたしももうここにいる理由なんてない。振り切ろうとした腕を、逆に強く引かれた。双葉様は私の耳元に唇を寄せると、凍り付くような声で言った。

「渡りの部屋には、あちらの御館様がよこした手の者がたくさんおります。何か良からぬことをなされば、その時はあなた様のお命も保証は出来ませぬ。結果はどうであれ、母上様には相応のお薬を与えて下さったとのこと。とても普通に払える額ではございませんよ……?」

 つうと、首筋に冷たいものが当たった。見るとそこにはいつの間にか短剣の刃がある。すぐ傍に双葉様の顔、まつげの下の瞳が光った。

「あなた様を、あちらにお戻しするときには、生きたかたちではなくても良いと言われております故……」

 凛と響いていた、その言葉の最後が乱れていた。その時、気付いた。いつもは誰もいないはずの木戸の向こうに誰かがいる。あたしは見張られているんだ。そして――もしかすると、双葉様も。「鬼」よりも恐ろしい者が、ここにはたくさんいる。

「ご案じなされますな。しばし時を待てば、あなた様は自由の身になれます」

 ――母さまがいないのに、もうどこにもあたしの帰る場所などないのに。それなのに、どうしろというの……? もう嫌、何もかも嫌。逃げることも許されないのなら、ここで儚く散ってしまいたい。あたしも、母さまと同じ場所に行きたい……!

 

 その日から、双葉様の運んでくる膳に手を付けるのをやめた。無理に食べようとしても身体が受け付けなくて吐いてしまう。空腹も感じない、ただ頭が次第にぼんやりと霞んでくるだけ。これなら、あと何日経てば、母さまの元に行けるのだろう。やはり刃で斬りつけられて死ぬのは怖い。あの世で母さまも悲しむはず。静かに静かに、崩れ落ちるように散っていこう。

 まだまだ残暑の残る頃なのに、奥の部屋は冷たい。あたしの心を満たしたように、よどんでいる。これでいい、母さまと同じくらい苦しめば。看取って差し上げられなかった後悔も薄らぐかも。

 

◆◆◆


「姫様……涼夜(すずや)姫様……! ご主人様がお渡りになりましたよ? さあ、端近までお出でくださいまし」

 幾日が過ぎたのだろう。御簾の表がなにやら騒がしいと思ったら、双葉様があたしを呼んだ。ううん、お姫様の姿をした形代のあたしを。頭が、重くてものが考えられない。でも……消えそうな記憶の隅の方から、「鬼」を思い出した。

 ああ、久しく「鬼」のお出ましはなかった。もうあたしのことなんて忘れたのかと思ってた。あたしも「鬼」なんて思い出すこともなかったし。――どうしたのだろう、今頃。

 声だけは明るく響かせているが、双葉様のあたしを見る目は張りつめている。立ち上がり歩くこともおぼつかない足取りのまま、あたしはゆっくりといつもの御簾の傍の席に着いた。

 

 昼間、だった。もう一日がいつ始まっていつ終わるのかすら思い出せない。

 久しぶりに几帳の表に出たから、あまりのまばゆさに目がくらむ。瞼の奥が真っ白で、どこに何があるのかも確かめられない。ああ、頬に掛かる髪がカサカサしている。母さまがいつも褒めてくださった美しい髪が、こんなにも細くやつれて。

「久方ぶりに、館に戻ってきた。留守中は何か変わったことはなかったか?」

 あたしが落ち着いたのを気配で感じ取ったのか、「鬼」はいつもと変わらぬ声で話しかけてきた。そっと面を上げると、そこには柔らかく微笑むお顔があった。

 

 ――ああ、どうして。

 

 心など、とうに亡くしたと思っていたのに。もうこの世に思い残すことなどないと信じていたのに。あたしは生きて再び、こんなにもまばゆく美しいものに巡り会ってしまった。皮膚の下、血潮が流れ出す音を感じる。あたしの心が「鬼」に会えて喜んでいた。

 母さまの元に行くことばかりを考える日々だったのに。「鬼」があたしを引き留めようとする。ううん、違う。「鬼」が声を掛けているのはお姫様。あたしにじゃない。それは分かってるのに……それでも、嬉しい。

「鬼」が軽く笑い声をあげる、ほころんだ口元。御庭から流れ込んでくる気に、きりりと後ろで結わえた髪が揺れて。そのたびに金の光りが辺りに漂う。
 身体が震えた、こんな美しいお姿をずっと見つめていることが出来たなら。いいえ、もし御簾越しにではなくお言葉を頂けたら。絶望に沈み込もうとしていた身体が、這い上がろうとする。

「鬼」がいるなら……もう少しだけ、この世に留まっていたい。「鬼」のお心に触れてみたい。

 

「では……またそのうち来よう。姫も身体をいとえよ?」

 涼風が吹いて、「鬼」はいつもと同じように静かにいとまを告げる。夕餉の膳を取りに行った双葉様はまだ戻らなくて、あたしには声を返すことも出来ない。そうしているうちに、音もなく立ち上がられた。

 

 ――待って、行かないで。

 もう少しだけ。もう少しの間だけ、ここにいて。何でもいい、あたしに優しい言葉をかけて。母さまはもういない、あたしには何もない。でも……「鬼」を想う心だけがある。恐ろしいけど、お優しい。「鬼」にまた会えるなら、生きてみたいと思う。でも、今は寂しい。だから、もう少しだけここにいて。

 

 あとからあとから涙が溢れる。こんな雫が何になるの、あたしは「鬼」に伝える術が欲しいのに。ああ、駄目、行ってしまう。あたしの想いは「鬼」に届かない。

 

 ゆっくりと背を向ける「鬼」。その逞しい肩から掛かったお美しい衣の端を、思わず握りしめていた。


続?(040615)


(2004年6月15日更新)

 

 


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