真っ青な冬空に、はためく洗濯物。
三日続きの乾燥注意報で、ぱりっぱりに仕上がったそれらを両手に抱えて取り込む。
「……ふううっ、重っ!」
リビング脇の和室にすべてを投げ入れただけで、息も絶え絶え。冗談じゃなくて、マジに額に汗かいてる。
そのまま、どっこらしょとばかりに縁側に座り込んだら膝のあたりがふっと温かくなった。
「ままーっ」
それは冷たいお日様の仕業じゃなかった、くりくりの大きな目がこちらを見つめてる。
「おちてた、くーした」
ちっちゃな手にぎゅっと握りしめられていたのは、彼女が履くこれまたちっちゃな靴下の片方。あれれ、きっちり抱えてたつもりだったのに、こぼれ落ちちゃったのか。
「うわっ、ありがとう、羽月」
赤と白の縞々靴下を受け取る。まだ日の高い時間に取り込んだのに、冬の洗濯物はやっぱりひんやりしてた。
「えへへ」
近頃の羽月はいつもご機嫌だ。あたしが年明けから産休に入って、保育園も行ったり行かなかったり。のんびりペースで毎日を過ごしているからかな。本当は親の都合でお休みさせちゃ駄目なのかもだけど、通勤に便利なようにと駅の近くの園にしたら、家から徒歩で通うにはどうにも面倒。
「さ、羽月。そろそろ、おうちに入ろうか」
フリース素材のワンピースに薄い上着を羽織っただけのあたしに対し、羽月はもこもこダウンに帽子・マフラー・手袋の三点セットを装着。
本当はこれくらい着込むべき気候なんだけど、今年の冬は全身がポカポカしていて、いつでもおなかに湯たんぽを抱いているみたい。人間製造中の身体って、やっぱどこか違ってる。二度目だけど、前のときのことはほとんど忘れちゃったから、すっごく新鮮なんだ。
「うん、わかった!」
縁側でサンダルを脱ぐあたしに並んで、羽月も器用な手つきで靴のマジックテープを外す。それから、片方ずつ手に持って靴の裏をコンコンと合わせた。どうも、くっついた砂を落としているよう。綺麗になったことを確認したら、そのまま自分の靴を玄関へと運ぶ。
すっかり逞しくなった背中をうっとりと眺めたあと、あたしは縁側のガラス戸を閉めた。その上からレースのカーテンを引く。
新婚当時に借りていたアパートからこの家に引っ越したのは、羽月が生まれるちょっとだけ前。岩男くんとふたりでがっつり働いてたら、いつの間にか頭金がたっぷり貯まってた。お陰で現在は月々の支払いが控えめにできて、とても助かってる。
あたしの会社と岩男くんの研究室のちょうど真ん中に位置する閑静な新興住宅地。同じ頃に建てられた家が多いから、羽月と同年代の子供もたくさんいる。近くの公園にはいつでも賑やかな声が溢れてた。さすがにこれだけ寒い今は、日中でも閑散としているけど。
「洗濯物、たたまなくちゃー。でも、その前にちょっとだけ休憩!」
「きゅーけいっ!」
すっかりぐーたらな生活が身についてしまったあたしがソファーの背もたれに倒れ込むと、戻ってきた羽月も真似して同じポーズを取る。
「きゅーけいっ、きゅーけいっ!」
絶対に単語の意味を理解していないであろう羽月が、あたしにぴたっとくっついてきた。正確には、あたしの「おなか」に。
「あーちゃん、いる? ……いる?」
出産予定日は一月近く先なのに、すでにスイカのおなか。あたしはコンパクトサイズだから、おなかも前にせり出すほかない。ふたりめはひとりめのときよりも大きめになるって聞いたけど、本当みたい。このままおなかの皮がしっかりもちこたえてくれるか、かなり不安だ。
「うん、でも今はお昼寝かな〜大人しいね」
「おとなしいね」
まるで本当の赤ちゃんを可愛がっているみたい。優しくおなかを撫でてくれる羽月は、すっかりお姉ちゃんの顔になってる。同じ頃に生まれたお友達よりもすべてにおいてのんびりペースの子だからちょっと心配だったけど、彼女は彼女なりにこれからのことをきちんと理解しているみたい。
思えば、あたしも妹の梨花とは三歳とちょっと違いだったけど、あの頃のあたしが「お姉ちゃんになる」ことをちゃんとわかっていたか、記憶がかなり怪しい。さすがに樹が産まれたときのことは良く覚えてるけどね。
「あーちゃん、……あーちゃん、きこえますか〜?」
毎月の定期検診に行くと、産まれたばかりの赤ちゃんがいっぱい。その姿を興味深そうに眺めている羽月は、この子が生まれてくることを本当に楽しみにしてくれてる。
「あーちゃん――」
そのとき。
あたしのおなかの中で、ぐるんとひっくり返る気配があった。おやおや、動き出したのかな。
「あーちゃん、おきたーっ!」
羽月はあたしのおなかに嬉しそうに耳を当てる。くるくる巻き毛がちょっとくすぐったい。
保育園では相変わらず引っ込み思案で、いつもお友達の陰に恥ずかしそうに隠れている羽月。でも、この半年くらいで急におしゃべりが上手になった。覚え立ての言葉を得意そうに教えてくれるその顔つきが、あたしに本当にそっくりなんだって。岩男くんが毎晩のように嬉しそうに笑う。
――幸せだな〜……
おなかの中からポカポカ暖かくなって、そしたらすごく眠くなってきた。大きなあくびが口からこぼれ落ちる。
「ちょっとだけ、お昼寝しようか、羽月」
「おひるねー」
ガラス越しに柔らかな日差し。ひなたぼっこをしながら、ついうとうと。
いいのかな、こんなにお気楽で。ううん、いいんだよ、きっと。たまにはね、たぶんね。
***
「……か、ちゃん、 菜花ちゃん?」
どこかであたしの名前を呼ぶ声がする。優しく揺り動かされて、ぼんやりと目を開けた。
「あれ――」
うわわ、いつの間にか薄暗くなってる! やだっ、二時間近く寝ちゃってた?
そして、あたしのことを起こしてくれたのは――
「……え、岩男くん?」
目の前にあまりに意外な顔があったから、夢の続きを見ているのかと思っちゃった。でも、これは本物の岩男くん。元からちっちゃな目がもっと細くなって、唇に一瞬だけキスが落ちてくる。
「ただいま、菜花ちゃん」
目をこすって、もう一度しっかりとその姿を見る。あれ、もう着替えているんだ。そして、隣で寝てたはずの羽月がいない。
「あ、ベッドに運んでおいたよ。ずいぶんとぐっすり寝入っているみたいだね、持ち上げても全然起きなかった」
岩男くんはそう言いながら、ちょっとつまらなそう。
「今日は出張だったから、そのまま帰ってきたんだ。たまにはゆっくりしようかと思って」
それから彼は、テーブルの上に置きっぱなしになっていたあたしの携帯を手にする。
「メールも入れたのに返信がないから。どこに行っちゃったのかと思ったよ」
「うわーっ、ごめんね。全然っ、気づかなかった!」
いつの間にか、山になっていた洗濯物も綺麗に畳まれているし。もしかして、お風呂掃除もやってくれた? ぎゃああっ、このままだとあたしの仕事がなくなっちゃう!
「ふふ、いいって、いいって。オレもこのところ残業続きで忙しかったし、家のことも羽月のことも全部菜花ちゃんに任せっきりだったからね」
「え〜っ、そんなの。岩男くんは仕事なんだから当然じゃない!」
忙しいときはお互い様っていうのが、あたしたち夫婦のスタンス。こっちの仕事が詰まったときには、岩男くんにSOSを出すことだってある。しかもかなりの頻度で。
はーっ、産休と育休の期間くらいは、素敵に完璧な奥さんになろうと思ってたのにな……。開始早々に躓いてたら、先が怪しい。
「今手がけている研究も、あとちょっとで片がつくと思うから。そうだな、もう少しの辛抱かな?」
そんな風に言う岩男くんも、さすがにお疲れモード。
そうだね、この半月くらいは三日に一度のペースで午前様だったもの。それも接待とかじゃなくて、研究室に籠もりっきりで。あんな不規則で緊張した毎日を送ってたら、さすがの岩男くんだって参ってしまうだろう。
「そっかーっ。じゃあ、今夜はおいしい夕食を作らなくちゃ! 久しぶりにお鍋にする? 羽月の好きな肉団子をたくさん入れて。えっと、材料は揃ってたかな……」
「あ、オレも手伝うよ」
立ち上がるあたしに、さりげなく手を貸してくれたりして。こういうところ、昔からずっと変わらない。きっとこれからも、岩男くんはこのままだと思う。
てのひらの温もりを共有したまま、彼はにこっと笑った。
「でもその前に、お茶にしない? まだ作り始めるのは、少し早いでしょう」
ああ、そうかな。お鍋ならそんなに時間掛からないし。お言葉に甘えてふたたび腰を落ち着けてしまうあたり、駄目だなと思う。こんなで本当に職場復帰できるのかな。まあいいや、そのときがきたらきっとどうにかなるはず。羽月のときだって、そうだったし。
「……ねえ、岩男くん」
低めの家具で揃えたリビング。テーブルの前のラグに直接座ると、ちっちゃい頃にお邪魔した岩男くんの家を思い出す。仏壇のある、純和風のしつらえ。あの頃のあたしにはすごく新鮮だったっけ。
お正月にお目に掛かったお祖母ちゃん、また小さくなった気がした。今は遠くに住んでいて、なかなか会えないのがすごく残念。この子が産まれたら、出来るだけ早く見せに行きたいと思ってる。もちろん、羽月も一緒に四人でね。
「なに?」
こういうときにすぐにテレビをつけたりしないのが、岩男くん流。ふたりの時間を大切にしてくれてるんだなって嬉しくなる。
「そろそろ、名前を考えなくちゃ。あーちゃんの」
おなかの子は、たぶん男の子。大切な部分がばっちり見えたから間違いない。「赤ちゃん」だから「あーちゃん」、羽月はずっとそう呼んでいた。でも、そろそろ本物の名前も考えてあげなくちゃ。我が子にあげられる、一番最初のプレゼントだもんね。
「そうかー、……そうだね。そろそろ考えないと、こういうのは時期が早まることもあるんだし」
「うん、羽月のときもそうだったしね」
産院の先生は「臨月に入れば、いつ産まれても大丈夫ですよ」って言ってくれてた。そしたら、羽月は本当に三十六週に入ってすぐに産まれてきちゃった。あまりに早すぎて、入院の準備も全然してなくて、だから名前だって当然決めてなかったんだよね。
そりゃ、お産はそれなりに大変だったけど、ちっちゃな赤ちゃんのぶん、少しは楽だったのかな。岩男くんばりの大きな赤ちゃんだったってことも可能性としては十分考えられたもん。その場合、下から産めたかかなり微妙。
立ち会い出産で、あたしの三倍くらい疲れてしまったように見えた岩男くん。「ちょっと出てくる」って外に行ったかと思ったら、慌てて戻ってきた。
「菜花ちゃん、決めたよ!」
そのとき、あたしのベッドのそばにはパパとママもいたんだよ。それなのに、そんなことは全然お構いなし。岩男くんはいつになく動揺した感じで言った。
「子供の名前、羽月にしよう! ねえ、いいでしょう。あの子にぴったりだよ!」
あのときは本当にびっくりした。だって、いつもの岩男くんと全然違うんだもの。
あとから聞いた話。
産院の玄関から外に出てふと見上げたら、暮れかけた空にぼんやりと浮かんだ上弦の月。その姿が、透明な羽根みたいに見えたんだって。岩男くんがいきなり詩人になっちゃったのかと驚いたよ。
あのとき、ちっちゃくて軽くて、本当に羽根みたいに頼りなかった羽月が、今ではあんなにしっかりして。三年半ってあっという間なのに、すごいなあと思う。あたしなんて、その間全然成長していないよ。我が子に負けるなんて、ちょっと悔しいかも。
「やっぱ、男の子なら岩男くんみたいに勇ましい名前がいいかなー。今度はきっと、岩男くんにそっくりの子になると思うし」
「えー、見た目がオレで性格が菜花ちゃん? それって、かなり危険だと思うけど」
「ええっ!?」
うわわっ、そんなこと言われたら、ついつい想像しちゃうじゃない! 駄目だよ、それってヤバイ。
「そ、それは置いておいて。まずは、名前だって!」
弟の樹なんて、あたしのことを「ミニラ」とか呼んでるのだよ。チビなのに、破壊力は怪獣並みだとか。岩男くんの体型で賑やかな性格だったら……本当にすごい子になってしまいそうだ。
「うーん、名前か。……名前かあ……」
実はね、岩男くんはすでに女の子の名前をいくつも考えていたらしいの。でも教えてくれないんだよ、いったいどんなだったのかなってすごく興味ある。それが知りたいがために、ついつい三人目を作りたくなってしまうけど……さすがに無理かな?
詩人な岩男くんは、あの場限りだったのかも。すっごい真剣に悩んでくれてるけど、なかなか「コレ!」というものが閃かない様子だ。
「あたしはねー、豪太くんとか厳太くんとか、がつんとした名前がいいんじゃないかなと思うんだよね。とても強そうだし!」
思いつくままに提案したら、岩男くんは華麗にスルー。どうも、彼のセンスにはまったく合致しなかったみたい。
それからもしばらく押し黙ったままでいたけれど、岩男くんが不意に口を開く。
「――あらた、とか、どう?」
「あらた? 改める、の?」
「ううん、新しい、で」
まったく頭に浮かんでいなかった漢字をぽんと取り出されて、とても不思議な気がした。まあ、そうなんだけどね。子供の名前って、最初に決めたときは似合ってるんだかそうじゃないんだか、実はよくわからないものだ。
「羽月がずっと『あーちゃん』って呼んでるでしょう? だから、そのまま呼び続けられた方がいいかと思ったんだ。『あ』から始まる名前にしようって。だけど、そこから入るとなかなか難しいね。あー、こんなに真剣に悩んだの、久しぶりだ」
岩男くんは、まるで大仕事を終えたようにそう叫んだあと、大きく伸びをする。その清々しい表情に、こっちまで嬉しくなってしまった。
「そっかー、新か。いい名前だね、この子は羽月と岩男くんのふたりが名付け親なんだ」
その声がおなかの子にも聞こえたのかな、嬉しそうにぽこぽこと蹴り返してくる。すごくくすぐったくて、思わず笑いがこみ上げて来ちゃった。
「そう言えば、梨花や樹のとこはどうするんだろ。まだ先だから、のんびり考えるのかなー。梨花の方は性別も聞かないつもりだって言ってたし」
同じ年に三姉弟宅でおめでたなんて、よく考えたらすごい話だ。しかもこの子が、新がほんのちょっとでも予定日よりも遅れたら学年も一緒になるんだよ。それも楽しそう、でもあと一月以上なんて絶対に無理っ。
「これからのことを考えると、本当にわくわくするね」
岩男くんも嬉しそうに首をすくめた。
昨日と今日と明日。
それが順に繋がって、長い長い年月になる。
あたしと岩男くんが初めて出会ったのって、今の羽月よりもちょっとだけ大きくなった頃なんだよね。それからずっと長い間、こうして一緒にいられて、これからもずっと。
これって、当たり前みたいだけど、全然当たり前じゃない。
「これからもよろしくね、岩男くん」
いきなりこんなことを言ったら、誰だって驚くよね。もちろん彼はびっくりした顔で私に向き直る。
だけどそれも一瞬。
すぐに目を細めて大好きな笑顔になってくれた。
「こちらこそ、これからも末永くよろしく」
窓の外はすっかりと日が暮れたのに、あたしたちの周りには日溜まりができてるみたい。いいなあ、こういうのって。特別なことはなにもなくても、岩男くんと一緒にいるととてもあったかい。
「じゃ、そろそろ夕食の支度を始めようか?」
先に立ち上がった彼が、あたしに手を差し伸べる。指先から、一足早い春がふわりと伝わってきた。