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…番外編「いつもの朝の風景」…



 目覚まし時計が鳴っている。
 ごそごそと毛布から身体を伸ばして止めた。そして起きる。

 彼はどちらかと言えば寝起きのいい方だ。あまり夢も見ずにぐっすりと眠れる(…ただし、見ても忘れているという可能性は大)。
 そうは言っても昨日は家に辿り着いたのが12時…今の時刻が6時15分。7時には家を出ることを計算するとギリギリの起床時間だが、身体に若干のだるさがあった。

 しかし、そんなことは言ってられない。

 大きな邸宅らしく、自分の寝室には専用のパウダールームが備え付けられている。髪も洗える大きな洗面台にお湯を張ると面倒だから頭を突っ込む。ふわふわの猫っ毛は毎朝必ず爆発している。濡らさないと整わないのだ。洗い立てのタオルがストックされているので1枚出して、頭に被る。

 ガシガシと頭をこすりながら、今度はクローゼットだ。

 今までの彼の朝は「パジャマのままで朝ご飯→それから着替え」であった。しかし、自宅ならいざ知らず、居候のみではそうも行かない。濡れた頭なのでタオルは被ったままだが、とりあえず制服に着替えた。

 その後、チェストの上の位牌に手を合わせる。毎日の日課だ。

 祖母と暮らしていた小さな1軒屋はもう人手に渡っていた。持ち物はほとんど両親の元か、コンテナのロッカールームに預けられたが、この位牌だけは自分の手元に置きたかった。

 咲夜などは朔也のこんな古風なところを笑っているが、彼にしてみればお互い様だ。
 彼女が仏壇へのお茶を毎朝、自らの手で上げているのを知っている。あんなにたくさんの使用人がいる家で彼女がその役目を他の人にさせないのは、やはり祖父に対する格別のこだわりがあるからだろう。

 

「おはようございます!!」

 ダイニング、と呼ぶにはあまりに大きな部屋に転がり込む。

 シルバーグレイの薄手のスラックスと開襟シャツ。学年によって異なる細身のネクタイは最高学年を示す濃紺だ。開襟シャツの襟から前あきにはシルバーグレイのラインが入っている。このシャツだけでもデザイナーズブランドの特注品であるため、1枚1万円だと聞いてびっくりした。怖いのでスラックスの値段は聞かないことにした。

「…滴が落ちてます。きちんと整えてからここへ来るようにと、いつも言っているでしょう?」

 白い湯気の向こうで眉間にしわを寄せた男がじろりと一瞥した。
 
 こちらはきちんと身支度の全てを整えて、もちろん髪もセット済みだ。ナチュラルなムースでも使っているんだろうか? 自然に後ろに流れるテクをいつか盗み見て研究したいと思っている。

 片手にミルクティーのカップ。彼の朝はイングリッシュ・モーニングスタイルなのだ。湯気が当たっても曇らない眼鏡、曇り止めの加工がされているらしい。その向こうの眼はきらりと光っている。

「…何で。今日は僕の番だろ? どうして惣哉がこんな早くに支度しているんだよ」

 不機嫌そうに言いながらも、素直にタオルで髪を拭う。
 自分の椅子に腰掛けると同時に、目の前にさっと純和風の朝ご飯が並んだ。惣哉のおむつも取り替えたという年季の入ったお手伝いさん・幸さんが真っ白な割烹着姿で整えてくれたのだ。

「おはようございます、朔也様。朝ご飯は生活の基本、ちゃんと召し上がってくださいね…」

 幸さんは朔也のことが可愛くて仕方ないらしい。朔也にしてみても自分の亡くなった祖母・梓と同年代である幸さんにはどうしても弱い。生粋の「おばあちゃん子」なのだから仕方ない。
 今まで彼女にとってはこの家の一人息子である惣哉が唯一の愛玩物だったが、30を過ぎた彼では無理があった。そこに朔也の登場だ、彼女は楽しくて仕方ないようにあれこれ世話を焼いてくれている。

「リサーチ不足ですね…今朝は始業前に役員会があるんですよ。聞いてませんでしたか? お嬢様はいつもよりも30分早く出られないとなりません…今から君がお迎えに上がっても…間に合いませんよ」
 そう言いつつナフキンで優雅に口を拭う。彼の食事の皿はほとんどが空だった。

「う…」
 不敵な笑みに言葉を失う…図星だった。知らなかったぞ、役員会か…。

「なら、いいよ! 今からチャリを飛ばせば間に合う!! 言ってるだろう、月木金は僕が咲夜と登校するんだ、決めたじゃないか…」

 がばっと席を立つ。

 こうしてはいられない。とにかく髪を整えて、…マウンテンバイクを飛ばして咲夜の家まで30分。そこからは歩いて駅へ向かって登校。徒歩と電車で50分ぐらいだ。ギリギリ間に合うはず。

 頭の中でざっと計算する。しかしそんな朔也を、馬鹿にしたように惣哉は眺めている。

「送迎のことは…君が勝手に決めたことでしょう、私は納得していませんからね。そんなにムキになることもないじゃないですか? 君は今日はこのまま一人で、ゆっくりと登校すれば…」

 惣哉の視線が窓の外を向く。そこには学園の校庭と遙か向こうに校舎が見える。

 …そうなのだ、この惣哉の自宅である東城家が一籐木グループから管理を任されている学園…校舎と棟続きに東城の邸宅がある。徒歩0分の登校だ。

「やだ!!」
 ここまで朔也がムキになるのも、わざわざはるかな遠回りをして咲夜を迎えに行くのにも理由があった。

 昨日は12時帰りだった、と初めに書いた。
 別に彼は今時の若者にありがちな、夜遊びをしていたわけではない。大体そんなことをしたら、即刻、学園理事長である惣哉の父親から三行半を突きつけられてしまう。

「一籐木の後継者としてふさわしい教養を…」
 それが咲夜の相手としてふさわしいかどうかの見極めだった。馬鹿馬鹿しいレースに参加してしまった様な気もするが、ここは愛する咲夜のためだ、仕方ない。ついでに一籐木の椅子も待っている。猫に小判…ではなくて鴨がネギをしょってくると言う奴だ(まずい、このたとえの引用の間違えでマイナス10点) 。

 目の前にいる憎っくき惣哉はつい数ヶ月前まで、実質上は咲夜の恋人だった。その人間に今、家庭教師をしてもらっている。
 何とも納得いかない…しかし、日本で最高の名をはせる大学を主席で卒業し教員免許すら持っている、頭脳明晰、品行方正、芸術方面にもプロ級の才能のある彼を置いて他には適任者がいるだろうか。朔也が敵うものと言ったら、どう考えても運動能力だけだ。それも年齢的な体力差があるからこそで、もしも同じ17歳に戻った彼と勝負したら勝てるかどうかは分からない。

「私は…理数系はあまり得意ではなくて」
 涼しい顔で彼は言ってのけた。その一言で、朔也は週に3日、放課後に特殊な予備校に突っ込まれる事になった。それが月木金…そうなのだ、この3日は学園が終わるやいなや、幸さんが作ってくれた夜のお弁当を抱えて、予備校に行く。そして何と11時過ぎまで食事時間を省く全ての時間の講義を受けなければならないのだ。

 よって、咲夜と放課後帰宅することは出来ない。学園理事長のさしがねか、しっかりとクラスも違うのだ。登下校でしか一緒にいられない。受験生なのだから仕方ないとしても、横暴だ。今日は金曜日、何が何でも咲夜と一緒に登校したい。

 惣哉は咲夜のボディーガードだ。学園への送迎は小等部の頃から続いていると聞く。

 でも、気に入らない。…車の中は密室じゃないか。あんな事やこんな事だって出来ない訳じゃない。何しろつい最近までは…。

「もう、今日は誰が何と言おうと僕が咲夜と登校するんだ! …ああ、こうしちゃいられない…」

 朔也がドアの方へと走り出そうとした瞬間、ぐいっとシャツを引かれた。

「ぎゃあ、離してよ。幸さん〜頼むよ!!」

 しかし、どこにそんな力があるのか。70歳に手の届くという幸さんは信じられない力で朔也を制する。

「駄目です!! …朝ご飯は食べていただきます!!」

「今日は許してくれよ〜緊迫した情勢じゃないか〜」

「なりません!! 幸は朔也様の健康管理をご主人様から申しつかっております…」

 さすがに2度の戦争をくぐり抜けた女性は強い。朔也は渋々とテーブルの前に戻った。

「…降参ですね…」
 惣哉が嬉しそうに言う。余裕で紅茶のお代わりまで頼んでいるではないか。

「ぐううう〜〜〜」
 うなり声を上げながら箸で焼き鮭を刺した。

「…箸づかいがなっとらんな、美しくないぞ…10点減点」

 背後から声がする。振り向くとガウン姿で寝起きのままの姿で学園理事長…惣哉の父が立っていた。


 

「…で、どうして朔也が私の車に乗るんです?」

 ハンドルを切りながら、惣哉が嫌そうに言う。酔っぱらってくだをまいたお客を乗せたタクシードライバーだって、こんな表情は見せないだろう。

「2人きりになって欲しくない…」

 後部座席でふてくされた顔の朔也。あれから朝ご飯を全部平らげて、身支度を整えて…こうして車に揺られている。

「嫌ですね〜、全く。ガキに付き合っていられません…余裕がないですよ、朔也には」
 ふふん、と鼻で笑う。

 …面白くない。

「ほらほら〜そんな顔して。お嬢様をお玄関までお迎えに行ってもらうのに、そんなふてくされた顔しちゃあ…また、印象が悪くなっても知りませんよ」
 バックミラーを覗き込んだ惣哉が涼しい声で言う。

 そうなのだ、面白くないのは一籐木家の人間たちにしても同じ事だ。

 自分は。一籐木月彦の若い頃に瓜二つだと言う。咲夜がそう断言した。
 祖母である梓が一生涯をかけて守った秘密である。今更公言しようとは思わない。…しかし。

 少しぐらいは自分を見て驚いたり、もしやと思っても良いじゃないか? でも彼らはあくまでも三鷹沢の息子として見ている。使用人までが、いきなり現れて 咲夜に馴れ馴れしい朔也に不審な目を向ける。当たり前と言えば当たり前だが、面白くない。一籐木の家では惣哉の扱いの方が数段いい感じだ。

「…惣哉、お前ってさあ…」

「…何でしょうか?」

 朔也は広い後部座席のシートでごろごろしながら言った。

「僕のこと、嫌いだろう?」

 すると惣哉は、信号待ちでサイドブレーキを引いた後、不思議そうな表情で振り向いた。

「当たり前じゃないですか、嫌いですよ。この状況で好きになれと言うのは無理と言うものです。父の言いつけですから仕方なくお世話してるんじゃないですか」

「う…」

 信号が青に変わる。滑るように車が発進した。惣哉の運転は安全確実だ。

「面白くないですがね…父は梓様に入れ込んでましたから」

「…へ?」
初耳だ、何だそれは。

「梓様って、本当に咲夜様にそっくりでいらっしゃるでしょう? 君が月彦様に似てるのは無理ないとしても、こちらのことは奇跡的ですね…」

「…そりゃ、月彦の奴が画策したんだろ? たとえば、おばあさんの遠縁の人間を息子に縁づけたとかさ。 …とと、何で惣哉がおばあさんの若い頃の顔を知っているんだよ!?」

「知りたいですか?」
 ふふん、とまた鼻で笑う。そしてもったいぶったように言う。

「実は父は若い頃から写真が趣味でしてね…ほら、父の書斎に鍵のかかっている本棚があるでしょう?」

「うん…」

 惣哉の父親の蔵書は半端じゃない。調べものがあるときは図書館代わりに使わせてもらっているのだ。だから朔也も勝手を知っている。

 …でもそれがどうしたというのだろう?

「あそこにあるんですよ…お若い頃の梓様のアルバムが…」

「え…!?」
 何なんだそれは? と言うことは…つまり?

「父は後藤家にお世話になっていた頃から、梓様には特別の感情を抱いていたらしいんです…もちろん身分が違いますからわきまえていたらしいんですが。でもあんな事になって…色々お世話していて、求婚したこともあったみたいですよ」

「…はあ?」

「もちろん、きっぱりと断られた様ですが…父の結婚が遅れたのはそのこともあったんですね」

 朝から悪い夢でも見ているようだ。でも惣哉の話は作り事にしては生々しい。

「ま、これは私の憶測ですがね…そう言うこともあって、梓様に瓜二つに育たれた咲夜様に対する父の思い入れは半端じゃないんです。君は梓様の孫であり、そのこともあって父はこうして君に荷担しますが…咲夜様のお相手としては…どうでしょう…」

「…どういうことだよ?」

 バックミラーに映る涼しげな顔を思い切り睨んでみる。でも惣哉は朔也のガン付けなど何でもないようだ。

「そのくらい、ご自分で考えなさい。経営者としては相手を見極めることも必要なのですからね…何と言っても君は『鷹の采配』と称された一籐木月彦の血を引くものなんでしょう…?」

 

 車の窓の外はすっかりと夏の景色になっている。目の前を鮮やかに晴れ渡った住宅街が流れていく。
 朝からげっそり疲れてしまった朔也はそれを呆然と眺めていた。

 

「…どうしました?」
 惣哉は何気ない感じで、言う。

 面倒くさいので無視していると、惣哉にしては珍しく急ブレーキを踏んだ。くるりとこちらを振り返る。

 

「…何だよ?」

「リタイヤする気になりましたか? …アメリカ行きのチケットならすぐに手配しますよ?」

 眼鏡の奥の眼が細くなる。…やはりこいつの事が一番分からない。

 

「…やだ、もっと頑張る」

 朔也が上目遣いにぼやくと、惣哉は納得したように車を発進させた。

 

終了(020110)


◇ひとこと・ふたこと◇
…はい、おまけの小説です。あくまでもおまけです。作者が自分でパロディーを書いたようなものではないでしょうか? 昨日、「赫い渓」本編を書き上げたところで「で、朔也は惣哉の家に居候なんだよな〜一緒に生活しているんだなあ」と思ったらあっという間に妄想が広がってしまいました。
本編の開始当時は「朔也びいき」だったんですよ、マジで。それが気付いたら…何なの? この低落…惣哉さんに良いように遊ばれちゃって。書いていて楽しいやら、情けないやら。今構想中の他の番外編はきちんとシリアスに恋愛ものですから、ご心配なく〜(…あ、誰も期待してなかったりして)。


「赫い渓を往け」扉
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