彼はどちらかと言えば寝起きのいい方だ。あまり夢も見ずにぐっすりと眠れる(…ただし、見ても忘れているという可能性は大)。 しかし、そんなことは言ってられない。 大きな邸宅らしく、自分の寝室には専用のパウダールームが備え付けられている。髪も洗える大きな洗面台にお湯を張ると面倒だから頭を突っ込む。ふわふわの猫っ毛は毎朝必ず爆発している。濡らさないと整わないのだ。洗い立てのタオルがストックされているので1枚出して、頭に被る。 その後、チェストの上の位牌に手を合わせる。毎日の日課だ。 咲夜などは朔也のこんな古風なところを笑っているが、彼にしてみればお互い様だ。
「おはようございます!!」 ダイニング、と呼ぶにはあまりに大きな部屋に転がり込む。 シルバーグレイの薄手のスラックスと開襟シャツ。学年によって異なる細身のネクタイは最高学年を示す濃紺だ。開襟シャツの襟から前あきにはシルバーグレイのラインが入っている。このシャツだけでもデザイナーズブランドの特注品であるため、1枚1万円だと聞いてびっくりした。怖いのでスラックスの値段は聞かないことにした。 「…滴が落ちてます。きちんと整えてからここへ来るようにと、いつも言っているでしょう?」 白い湯気の向こうで眉間にしわを寄せた男がじろりと一瞥した。 「…何で。今日は僕の番だろ? どうして惣哉がこんな早くに支度しているんだよ」 不機嫌そうに言いながらも、素直にタオルで髪を拭う。 「おはようございます、朔也様。朝ご飯は生活の基本、ちゃんと召し上がってくださいね…」 幸さんは朔也のことが可愛くて仕方ないらしい。朔也にしてみても自分の亡くなった祖母・梓と同年代である幸さんにはどうしても弱い。生粋の「おばあちゃん子」なのだから仕方ない。 「リサーチ不足ですね…今朝は始業前に役員会があるんですよ。聞いてませんでしたか? お嬢様はいつもよりも30分早く出られないとなりません…今から君がお迎えに上がっても…間に合いませんよ」 「う…」 「なら、いいよ! 今からチャリを飛ばせば間に合う!! 言ってるだろう、月木金は僕が咲夜と登校するんだ、決めたじゃないか…」 がばっと席を立つ。 こうしてはいられない。とにかく髪を整えて、…マウンテンバイクを飛ばして咲夜の家まで30分。そこからは歩いて駅へ向かって登校。徒歩と電車で50分ぐらいだ。ギリギリ間に合うはず。 頭の中でざっと計算する。しかしそんな朔也を、馬鹿にしたように惣哉は眺めている。 「送迎のことは…君が勝手に決めたことでしょう、私は納得していませんからね。そんなにムキになることもないじゃないですか? 君は今日はこのまま一人で、ゆっくりと登校すれば…」 惣哉の視線が窓の外を向く。そこには学園の校庭と遙か向こうに校舎が見える。 …そうなのだ、この惣哉の自宅である東城家が一籐木グループから管理を任されている学園…校舎と棟続きに東城の邸宅がある。徒歩0分の登校だ。 「やだ!!」 昨日は12時帰りだった、と初めに書いた。 「一籐木の後継者としてふさわしい教養を…」 目の前にいる憎っくき惣哉はつい数ヶ月前まで、実質上は咲夜の恋人だった。その人間に今、家庭教師をしてもらっている。 「私は…理数系はあまり得意ではなくて」 よって、咲夜と放課後帰宅することは出来ない。学園理事長のさしがねか、しっかりとクラスも違うのだ。登下校でしか一緒にいられない。受験生なのだから仕方ないとしても、横暴だ。今日は金曜日、何が何でも咲夜と一緒に登校したい。 惣哉は咲夜のボディーガードだ。学園への送迎は小等部の頃から続いていると聞く。 でも、気に入らない。…車の中は密室じゃないか。あんな事やこんな事だって出来ない訳じゃない。何しろつい最近までは…。 「もう、今日は誰が何と言おうと僕が咲夜と登校するんだ! …ああ、こうしちゃいられない…」 朔也がドアの方へと走り出そうとした瞬間、ぐいっとシャツを引かれた。 「ぎゃあ、離してよ。幸さん〜頼むよ!!」 しかし、どこにそんな力があるのか。70歳に手の届くという幸さんは信じられない力で朔也を制する。 「駄目です!! …朝ご飯は食べていただきます!!」 「今日は許してくれよ〜緊迫した情勢じゃないか〜」 「なりません!! 幸は朔也様の健康管理をご主人様から申しつかっております…」 さすがに2度の戦争をくぐり抜けた女性は強い。朔也は渋々とテーブルの前に戻った。 「…降参ですね…」 「ぐううう〜〜〜」 「…箸づかいがなっとらんな、美しくないぞ…10点減点」 背後から声がする。振り向くとガウン姿で寝起きのままの姿で学園理事長…惣哉の父が立っていた。
「…で、どうして朔也が私の車に乗るんです?」 ハンドルを切りながら、惣哉が嫌そうに言う。酔っぱらってくだをまいたお客を乗せたタクシードライバーだって、こんな表情は見せないだろう。 「2人きりになって欲しくない…」 後部座席でふてくされた顔の朔也。あれから朝ご飯を全部平らげて、身支度を整えて…こうして車に揺られている。 「嫌ですね〜、全く。ガキに付き合っていられません…余裕がないですよ、朔也には」 …面白くない。 「ほらほら〜そんな顔して。お嬢様をお玄関までお迎えに行ってもらうのに、そんなふてくされた顔しちゃあ…また、印象が悪くなっても知りませんよ」 そうなのだ、面白くないのは一籐木家の人間たちにしても同じ事だ。 自分は。一籐木月彦の若い頃に瓜二つだと言う。咲夜がそう断言した。 少しぐらいは自分を見て驚いたり、もしやと思っても良いじゃないか? でも彼らはあくまでも三鷹沢の息子として見ている。使用人までが、いきなり現れて 咲夜に馴れ馴れしい朔也に不審な目を向ける。当たり前と言えば当たり前だが、面白くない。一籐木の家では惣哉の扱いの方が数段いい感じだ。 「…惣哉、お前ってさあ…」 「…何でしょうか?」 朔也は広い後部座席のシートでごろごろしながら言った。 「僕のこと、嫌いだろう?」 すると惣哉は、信号待ちでサイドブレーキを引いた後、不思議そうな表情で振り向いた。 「当たり前じゃないですか、嫌いですよ。この状況で好きになれと言うのは無理と言うものです。父の言いつけですから仕方なくお世話してるんじゃないですか」 「う…」 信号が青に変わる。滑るように車が発進した。惣哉の運転は安全確実だ。 「面白くないですがね…父は梓様に入れ込んでましたから」 「…へ?」 「梓様って、本当に咲夜様にそっくりでいらっしゃるでしょう? 君が月彦様に似てるのは無理ないとしても、こちらのことは奇跡的ですね…」 「…そりゃ、月彦の奴が画策したんだろ? たとえば、おばあさんの遠縁の人間を息子に縁づけたとかさ。 …とと、何で惣哉がおばあさんの若い頃の顔を知っているんだよ!?」 「知りたいですか?」 「実は父は若い頃から写真が趣味でしてね…ほら、父の書斎に鍵のかかっている本棚があるでしょう?」 「うん…」 惣哉の父親の蔵書は半端じゃない。調べものがあるときは図書館代わりに使わせてもらっているのだ。だから朔也も勝手を知っている。 …でもそれがどうしたというのだろう? 「あそこにあるんですよ…お若い頃の梓様のアルバムが…」 「え…!?」 「父は後藤家にお世話になっていた頃から、梓様には特別の感情を抱いていたらしいんです…もちろん身分が違いますからわきまえていたらしいんですが。でもあんな事になって…色々お世話していて、求婚したこともあったみたいですよ」 「…はあ?」 「もちろん、きっぱりと断られた様ですが…父の結婚が遅れたのはそのこともあったんですね」 朝から悪い夢でも見ているようだ。でも惣哉の話は作り事にしては生々しい。 「ま、これは私の憶測ですがね…そう言うこともあって、梓様に瓜二つに育たれた咲夜様に対する父の思い入れは半端じゃないんです。君は梓様の孫であり、そのこともあって父はこうして君に荷担しますが…咲夜様のお相手としては…どうでしょう…」 「…どういうことだよ?」 バックミラーに映る涼しげな顔を思い切り睨んでみる。でも惣哉は朔也のガン付けなど何でもないようだ。 「そのくらい、ご自分で考えなさい。経営者としては相手を見極めることも必要なのですからね…何と言っても君は『鷹の采配』と称された一籐木月彦の血を引くものなんでしょう…?」
車の窓の外はすっかりと夏の景色になっている。目の前を鮮やかに晴れ渡った住宅街が流れていく。
「…どうしました?」 面倒くさいので無視していると、惣哉にしては珍しく急ブレーキを踏んだ。くるりとこちらを振り返る。
「…何だよ?」 「リタイヤする気になりましたか? …アメリカ行きのチケットならすぐに手配しますよ?」 眼鏡の奥の眼が細くなる。…やはりこいつの事が一番分からない。
「…やだ、もっと頑張る」 朔也が上目遣いにぼやくと、惣哉は納得したように車を発進させた。
終了(020110)
|