〜2002年お正月Presents〜 By.広瀬もりの
「見て! 惣哉さん、雪よ!」 嬉しそうに叫ぶ少女が軽い足取りで駆けていく。 真っ白なドレスはバラの花をモチーフにデザイナーが趣向を凝らしたもので、袖もスカート部分も幾重にも重ねた薄い生地がかすみのように少女の華奢な身体を包み込む。年齢に合わせて大人びすぎないようにと膝丈に作られたため、彼女のすらりと伸びた脚が動く様が分かる。 …辺り一面の雪化粧の中で薄いパーティードレス姿は寒々しく思える。しかし、この場はいささか特殊なため「寒い」という感覚はないのだ。 (全く、贅沢な造りにしたものだ…) そう思う惣哉の表情には素直に感嘆の色だけが浮かんでいた。 眼鏡の奥の瞳が硝子越しに外を見る…そう、ここは全面が硝子張りになった通路だ。ペア硝子になっているため、曇ることなく外がすっきり見渡せる。道は長く伸びていた。 一籐木グループが主催する毎年恒例の新春年越しレセプション。 今年はグループが一大事業として企画・建設され、完成したばかりの見本市会場で行われていた。大晦日の夜7時から明くる元旦の朝の5時まで…施設の中央に建てられた記念ビルのワンフロアーは今、政財界の「顔」が所狭しと集っているはずだ。その数のべ数千人…誰もが一籐木の恩恵にあやかろうと我先にと群がってくる。客人が印象を良くするためにと自分の持てる最高の装いで訪れるので、ファッションをウリにする女性誌が取材に来るほどだ。招待状を持つ者はもちろん、人目でも一籐木の上役にお目通りを叶えたいという野心家まで雑多な者たちの欲と見栄の渦…。 灯りが煌々と輝くその会場は今の惣哉と少女の場所から見ると斜め上空にあった。50階建てのビルを2階から4階までぶち抜いた贅沢な会場だ。 そのビルから四方八方にここと同じような硝子張りの通路が伸びる。その先は20近い大小のパビリオン会場に繋がっている。これから様々な催し物が開催される時はこの道も「動く歩道」となる。今もセキュリティーにひとこと連絡すれば、すぐに動き出すのだが…少女がそれを望まなかったので、惣哉はその意に従っていた。 通路は1本ずつ、様々な装飾が施され、それに合わせた名前が付けられている。 この道は「パラダイス・ロード」…その名の通りに南国の島々をモチーフに作られ、通路の両側には椰子の木やバナナの木、その根元にはパイナップルが茂り、ハイビスカスを始め色鮮やかな南国の花々がその美しさを輝かせる。植物の生態に合わせてここは始終、熱帯の気候に合わせた空調になっていた。もわんとした空気がタキシードでは汗ばむくらいだ。 「足元にお気をつけ下さい、転ばれると大変ですよ?」 背中に優しく声を掛けると、それに促されたように彼女がくるりと振り向いた。 後ろ姿から想像する美しさをはるかに超える…美少女。 いつも接しているはずの惣哉ですら、改めて息を呑んでしまうほどだ。屋内の暖かさのため、頬が紅潮しているのがますます愛らしい。煩わしさから解放された嬉しさで瞳もキラキラと星を浮かべたように見える。足元からのライトで浮かび上がった姿は人間離れした神々しさすら感じさせる。 こぼれるほど大きな瞳がまっすぐに惣哉を捉えた。口元に笑みが浮かぶ。 「素敵ね! …ホワイトクリスマスもいいけれど、こうして雪の中で新年を迎えるのもいいわ」 「…御気分も…良くなられたようですね、咲夜(さくや)様」 ここにいる少女は日本を代表する総合企業として右に出る者のないと言われている「一籐木グループ」頭取・一籐木月彦の孫娘である。10人以上の孫の中で月彦が誰よりも目を掛けて慈しんで育てた少女は、いつか「一籐木の次期後継者」と称されるようになった。彼女の父親の幹彦は月彦の総領息子であり、かつ現在の立場上の最高権力者であるグループ総元の社長である。そうは言っても、2人の兄を始め、幾多の有能な従兄たちをさしおいて彼女に白羽の矢が立ったことで、親族の内部はもちろん身内以外からも驚愕の声が絶えない。 この強く抱きしめれば折れてしまうような少女が、この施設を何十も何百も合わせた一籐木の企業の頂点に立つのだ。祖父の月彦がそう決めたことなのだから、絶対であると知りながら、咲夜自身も未だに戸惑っている。彼女が7歳の時からずっと身辺警護を務めてきた惣哉には、その心痛が痛いほど分かっていた。 今日のレセプションも彼女にとってはもう毎年の当たり前の行事だ。慣れているとはいってもそこは16歳、高校2年生の娘だ。その美しさと共に将来をも輝かしい姿に、多種多様な思惑の瞳たちが無数に張り付く。にこやかに祖父の隣りで微笑んで客人と談笑しながらも、彼女は自分が始終物言わぬ視線にさらされ、その声までが感じ取れるほど繊細であった。3時間が経過する頃には、顔色も優れなくなってきた。 しばらく、会場内を散策しながら体を休めるようにと言われて、躊躇しつつもその言葉に従った咲夜であった。
「…こういうお席…慣れなくちゃいけないと分かっているのだけど…駄目ね、人がいっぱいいると酔っちゃうみたい」 「ごめんなさいね、惣哉さんまで中座させてしまって…お客様の接待もあったでしょう?」 そう告げる姿があまりに愛おしくて、惣哉は傍らまで寄ると静かに抱き寄せた。 「御心配には及びませんよ…私の一番大切な仕事は咲夜様の警護、そのことは皆さんがご存じなのですから」 「…大丈夫? 誰かに見られたら…」 「通路のキーはロックしてきました。誰もこの中には入れないんですよ。硝子も外からは見えない造りになっているんです」 彼女の顎に軽く手を添えて、惣哉はゆっくりと唇を重ねた。
名残惜しそうに優しいぬくもりを解放すると、少女は尚も惣哉の腕にするりと巻き付いてきた。 そのまま、ゆっくりと歩みを続ける。
「…嬉しいわ、こうして惣哉さんと一緒に新年を迎えられることが一番嬉しい。惣哉さん、ずっと側にいてね…」 甘く囁く声。それだけで、アルコールを今夜は一切摂っていないはずの身体がほんのり上気する。 この少女こそが、自分を酔わせる者なのだ。…惣哉には分かっていた。身も心も…全てか捕らわれている…なのに咲夜の放った言葉に応えられない自分がもどかしい。頼りないぬくもりが左腕から伝わってくる。そっと身体を抱き寄せたが、惣哉は言葉は発せず、そのまま歩み続けた。 (…咲夜様は…私に対して、本当に恋愛感情をお持ちなのだろうか…?) 確かに「好きだ」とは言われる。一心に慕ってくれるその瞳の輝きに嘘も偽りもない。そんなことは分かっている。…でも。 時々、心をよぎる感情。この手の中でゆっくりと育んだ蝶はいつか大空に羽ばたいて行くのではないだろうか…? 兄と妹のような関係だった2人が、こうして人目を憚りつつ寄り添うようになってから2年が経過していた。自分たちの関係を疑う者も多い。咲夜の警護役が年若い男だと言うことだけで、偏見の目が向けられるというのに、惣哉と咲夜の姿があまりに自然でそう言う関係にしか思えないからだ。 一籐木の身内には惣哉のことを快く思っていない者も多い。何故なら、惣哉は一籐木の親族ではないのだ。惣哉の生家・東城家は一籐木とは縁の繋がりがない。ただ、惣哉の父と咲夜の祖父であり、グループ頭取である月彦が旧知の仲だったと言うことで、惣哉の父は若い頃から一籐木の事業に深く関わってきた。今では高齢を理由に第一線を退いているが、一籐木の事業のひとつである学園の理事を任されている。 惣哉の父と月彦の仲を考えれば、この2人の関係を公にすることは何の支障もないだろう。惣哉はそれだけの器のある人間でもある。月彦の命により咲夜の警護が任務になっているが、懇意にしている企業との取引のいくつかは惣哉の担当になっていたし、月彦や咲夜の父の幹彦の秘書として、海外出張に出向くこともある。 …しかし。 惣哉の心には鉛のような固まりが鎮座する。この間から、徐々に大きさを増していくこの心の重みは更に惣哉の物思いを深くしていた。 一籐木グループの娘との縁組みなら、何ら支障はなくとも…咲夜は次期後継者、なのだ。彼女がその椅子から身を引かない限り、2人の関係が成就することはない。このことはまだ年若い咲夜にはよく分からないことのようであったが彼女より10歳以上年長の惣哉には打ちのめされるくらい身にしみている。 でも、愛おしい。どうにかして永遠に我がものに出来ないものか…心のどこかで恐ろしい感情すら浮かぶ。そんな自分がいつ傍らの少女に悟られるのか、怖かった。
このまま、いつまでも2人きりでいられたらいいと彼女自身が思っている。しかし、年の変わる深夜12時丁度から新春を祝うイベントがある。会場に戻らねばならない。 「あと、1時間ですね。もう少し大丈夫です」 「惣哉さん、ちゃんと身に付けてくれているのね。嬉しいわ…」 「とても気に入っておりますよ、嬉しいです」 惣哉の言葉に嬉しそうに首をすくめる。その後、ふいに腕に力が加わった。 「…どうしました?」 「私も、身に付けるものが…欲しいな…」 「何を、おっしゃいます…」 「お嬢様はなんでもお持ちでしょう? …今更、私が何か差し上げることもないですよ? それに今日のドレスだって一緒に見立てたものでしょう、そう言うのでいいのではないですか」 「違うわ!」 「ドレスはデザインの中から選んだだけでしょう? 惣哉さんからのプレゼントって、画集とか音楽集とか…当たり障りのないものばかり。…身に付けて、いつでも一緒にいられるものが、欲しいの…」 「…そんなこと、おっしゃらなくても…私はお嬢様の学園への送迎から何から、始終ご一緒にいるではありませんか?」 「でも…」 口惜しそうに見上げる瞳に微笑み返す。今の惣哉には、こうすることしかできない。 丁度、その場所に到着したので、彼は咲夜の肩を抱いて、右の通路に折れた。
「…なあに? この場所は…」 建物の前できょろきょろと辺りを見回す咲夜を背中で感じながら、惣哉は慣れた手つきでセキュリティー操作をした。彼が所有しているカードキーはVIP待遇のものだ。それを差し込んだ上で指紋の鑑定を行う。照合されれば入場が可能となるのだ。全てのデータはセキュリティールームに届いている。前もって届け出もしてあるので、審査は瞬時に完了した。 「…さ、どうぞ。咲夜様が最初のお客様ですよ…」 不思議そうな咲夜が足を踏み入れたのは、小学校の体育館ぐらいの広さがあるドーム状天井を持った空間だった。突き当たりに舞台が作られている。 「アコースティックライブを行うことを考えてデザインされた、小音楽堂だそうですよ。…ほら」 何が起こっているのか分からずに呆然とする咲夜に微笑みかけながら、惣哉は隠してあったバイオリンケースを取りだした。
「…惣哉さん…?」 驚く咲夜を後目に、彼は慣れた手つきで愛用の器を取り出す。 「せっかくですから…かたちにはならないものですが、時計のお礼にここで一曲、ご披露いたしましょう? 生演奏ですよ」 きょとんとした彼女をその場に残し、惣哉はさっさと小山のように設置された舞台に上がった。 惣哉は。 自分の心の中に、ある感情を流し込む。ひたひたと満ちてくる波が、やがてうねりを持って彼自身を支配し始めた。 自分の手が、自らの支配を放れて、動き出した。 良く設計された音楽堂は咲夜を包み込むように音を響かせる。悲しい…愛おしい…何かが降り注ぐような不思議な旋律…。今まで耳にしたことがないのに、とても懐かしいメロディーだった。惣哉の産み出す音は彼の立ち振る舞い同様、深く優しい。 ものの5分もかからない曲が静かに終わっても、暫くぼーっとしたまま、ひとことの言葉も発せられない咲夜であった。 「如何でしたか?」 「…きれいな、曲ね。初めて聴いたわ…何という題名なの?」 「題名ですか?」 「ムーン・プリンセス…、和名だったらかぐや姫、と言うところでしょうか?」 「かぐや、姫…?」 惣哉は何かを心に隠している。それが分かっていて、咲夜はその顔を覗き込んだ。 彼は愛おしそうに少女を見つめる。そして静かに言った。 「お嬢様の…咲夜様のイメージで…私が作りました。あなたの曲です」 「私の…? 惣哉さんが、作ってくれたの?」 「そうです、…時計のお礼に。お気に召して頂けましたか?」 話しながら辺りを整え、出口へと向かう。少し歩いてから、彼は咲夜の足音が付いてきてないことに気付いた。 「…お嬢様…?」 振り向いた惣哉は驚きの表情になった。 立ち尽くしたままの咲夜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。 「あの…如何致しました? お気に障りましたか…」 「咲夜様…?」 「ありがとう、惣哉さん。…嬉しかったの」 その言葉が惣哉の胸に染みこんでいく。強く抱きすくめてしまいたい気持ちをかろうじて抑えて、彼は静かに言った。 「あまり、お泣きにならないようにして下さい。お嬢様が泣きはらした目をしていらっしゃったら、皆様が何と思いますか?」 咲夜は必死で涙をこらえているようだ。でもこればかりは自分の意志でどうなるものでもない。暫く、惣哉の胸で嗚咽を上げていた。
「感激しちゃった、本当に惣哉さんはお上手ね。久しぶりに腕前を披露して頂けて嬉しかったわ…」 「…以前、申し上げたでしょう? 学生時代は学内の楽団に在籍していたって。卒業時にプロの交響楽団からスカウトされたって言うのも、嘘じゃないんですよ?」 ハンカチを取り出すと、そっと涙の後を拭った。きめの細かい白い肌が吸い付いてくる。 「それが、私のお守り役じゃ、申し訳ないわね?」 涙の後の消えた咲夜の微笑みは花のようだ。ガラスのケースに入れて、ずっと取っておきたい愛らしい微笑み。それが今は自分だけに向けられている。不安やとまどいはあれど、それに上回る喜びがあるのも事実だ。 「…そろそろ、参りましょうか」
通路に出ると、海岸の方で花火が上がったのが見えた。どこかで爆竹のはじける音もする。新年へのカウントダウンが近づいているのだ。 「…来年も、良いお年になるといいですね」 彼女は、何かを考えていたようであったが…やがて惣哉の方を向き直って、静かに話し出した。 「…あのね、惣哉さん。お願いがあるの…」 「何でしょうか?」 「私…早く大人になるわ。もっともっときれいになるわ…だから、待っていて欲しいの…」 「咲夜様…」 ああそうか、と合点がいく。知っているんだ、この人は。惣哉自身の口からは告げていなかったが、どこか他から耳に入れてしまったのだろう。 半月ほど前。惣哉の元に縁談の話が舞い込んだ。初めてのことではない。穏やかな物腰で年齢よりよほど若く見える彼も実は30を超えている。東城家の一人息子として、周囲が心を砕くのも当然だった。 しかし、今回の話はいつもとは勝手が違った。…月彦からの…直々の話だったのだ。もちろん、相手が咲夜のはずはない。一籐木の…咲夜の従姉に当たる娘がとの縁組みだった。 (…頭取の、真意は何処にあるのだろう…?) 大学を出たての惣哉を咲夜の警護役にと任命したのは、他ならぬ月彦だ。その命に反しないように今まで頑張ってきたつもりだ。咲夜と恋仲になったことは公言しないまでも、月彦の目には明かであろう。でも何も言われないことで黙認されているのだと信じていた。 「私には…咲夜様だけです。今までも…これからも」 たとえこの身を犠牲にしても、守り抜きたいと思う。…ただ一つの愛おしい存在。咲夜以外の人間を心に住まわせることなど永遠に出来ないと思う。 一籐木の本社ビルの最上階。一面が硝子張りになった頭取・月彦の部屋で咲夜に紹介された。 深紅のドレスを着て、クマのぬいぐるみを抱えた小さな少女を一目見たときから、惣哉の心は決まっていたのだ。あの時、あの瞬間から、咲夜以外の人間は見えない。 「…私もよ…」 硝子越しにますます雪が激しく降りしきる。 「来年の…お正月も、こうして一緒に迎えましょうね。約束よ、惣哉さん…」 「はい、必ず…」 惣哉の腕時計が正確に時を刻んでいく。いつまでも変わらない心が何処にあるのだろうと、それを模索する自分がいる。 ためらいの心を抱え込んだまま、惣哉は新しい年の扉を開いた。
終わり(011226) ◇あとがき◇ 今年一年、どんな年になるのでしょう。個人的には「大イベント」が久々にないので、ぬくぬくと楽にやって行けたらなあと思います。各種、役員さんはなるべく引き受けないで済みますように…! 「赫い渓を往け」扉>君の夢音
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