広瀬もりの著

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 春のおだやかな日差しが誰もいない校庭に降り注いでいます。
 校長先生は手を後ろに組んで背筋を伸ばし、窓の外を眺めていました。校長室のすぐ前に植えられたこぶしの花が今満開です。真っ白な汚れのない花びらが少し強めの南風に踊っていました。さやさやと心地よい音がします。
 学校の中は不思議なくらい静まりかえっていました。今日は卒業式です。校長先生の背広もこの日のために新調したもので、胸の所に職員みんなで付けるカトレアの花が付けられていました。とてもいい香りがします。

 60歳になった校長先生にとって、今年が教員生活最後の卒業式になります。今まで数え切れない程の子供たちを見送ってきました。平の時代は中学校で教鞭を執り、管理職になってからは小学校に移り…たくさんの出会いと別れを経験しました。校長先生はもともと子供が大好きで、特に小さな子供には知らない子でも思わず話しかけてしまう程でした。だから小学校の仕事はとても楽しくてやりがいがありました。本当に過ぎてしまえば夢のように素晴らしい幸せな日々でした。
 どこかの教室から「仰げば尊し」のメロディーが聞こえてきます。きっと6年生が最後の練習を担任の先生としているのでしょう。優しい心にしみ通るような歌声を聞きながらふと、あの春を思い出していました。胸の奥が痛くなって、目のフチが潤んできます。校長先生は胸の前でぐっと握り拳を作ると、静かに目を閉じました。

 それは。校長先生が初めて管理職となって教頭として赴任した小学校での出来事でした。

 

………

 

 新しい年度を迎えたばかりの学校は戸惑いと喧噪に包まれていました。昼休みの校庭に出て、はしゃぎ回る子供たちを目を細めて眺めます。数年間、県の教育委員会に勤務していたので現場は久しぶりです。更に慣れない小学生。聞き分けがそれなりにある中学・高校の子供たちと較べて、まっさらの飾り物のない心で飛び込んでくる子供たちは新鮮であり、驚きでありました。叫び声が校舎に反響して、学校の敷地内全体が賑わいのある空気の中にすっぽり覆われていました。
 ふと、目を留めます。校庭脇の植え込みの所に座り込んでいる子供を見つけたのです。
「どうしたの? みんなと遊ばないの」
 具合でも悪いのかな? と話しかけるとぱっと顔を上げたのは男の子でした。6年の名札を付けています。青いシャツがズボンからはみ出ていました。
「あ、…ええと…」
 しどろもどろの男の子。赴任してきたばかりの先生の名前が分からないのでしょう。くすりと微笑んで、校長先生も同じように植え込みに向かってしゃがんでみました。
「男教頭先生だよ、覚えておいてね」
学校にはもう一人、女の教頭先生がいました。だから子供たちにはその様に呼ばれていたのです。
 そう告げると、男の子は「ああ!」と気付いたらしく、ひとつ頷きます。優しいおとなしい目をしていました。
「で、何を見ていたの?」
「この樹を見ていたんです。これ、沈丁花ですよ。花は終わりかけてますが、まだいい匂いがするでしょう?」
 校長先生も思わず鼻をくんくんしてしまいました。そう言われてみれば、何となくいい香りがします。
「君は…花が好きなんだね?」
 そう訊ねると男の子は少しはにかんで笑いました。
「花を好きなのは僕のお母さんなんです。先生、僕の家はお花でいっぱいなんですよ。色々な樹がたくさんあります」
「ふうん…」
 そう答えながら、男の子の姿を改めて見つめました。表情に陰りもなく、いじめにあっていると言うようでもありません。大人しい子で今日はたまたま遊び相手がいなかったのでしょう。さっきからシャツの裾がだらしないのが気になっていましたが、よくよく見るとボタンもひとつ取れかかっています。
「ちょっと、おいで。そのままだとボタンが取れてしまうよ…先生が付けてあげよう」
 時計を見るとまだ15分くらい休み時間がありました。男の子には昇降口から上がってくるように申しつけて、自分も職員室へと戻りました。
 男の子が不思議そうな顔をして職員室をノックしたとき、校長先生は女の先生から借りた裁縫箱を開けた所でした。顎で促して中に入れ、シャツを脱がせます。
「…家庭科で、今年はボタン付けもするでしょう?」
 そう言いながら、器用に針を動かします。男の子の瞳がキラキラと輝きました。
「男の人でも…ボタンを付けるんですね」
 校長先生はおやおや、と言う顔になって男の子を覗き込みました。
「男でもボタン付けくらいは出来ないとね。…君のお父さんはやらないの?」
「僕のお父さん、お料理と洗濯はするけど…ボタンは付けないよ。だから、ボタンが取れてしまうと服が着られなくなっちゃうんだ」
 それから、一息ついてこう言いました。
「…僕のお母さん、入院していていないから」
「そうなのか」
 校長先生は心の中で、合点がいったと思っていました。男の子の服装がどことなくだらしないのも、ボタンが取れかかったままなのも、父親の目が行き届かないのでしょう。妻が入院していて、仕事をしながら子供の世話をしているのですから、当たり前です。きっと、お父さんも一生懸命なはずです。
「それじゃあ、君がお父さんを助けてあげないといけないね」
 校長先生がそう言うと、男の子は素直ににっこりと微笑んで大きく頷きました。

 

 担任の先生にそれとなく聞いたところ、男の子の家はお父さんと小学3年生の妹と3人で暮らしているとのことでした。お母さんは長期入院です。男の子はおとなしい性格ですが特に困った行動もなく、クラスの中にもしっくり溶け込んでいると言われました。昼休みも注意してみるといつもいつも花壇の所にいるわけではありません。友達と走り回ったりドッチボールをしたりしている元気な姿も見かけました。それでも校長先生が校庭に出ると時々話しかけてきてくれました。あちらの樹に花が咲いたとか、虫が付いているから消毒したほうがいいとか、そう言う他愛のない話です。 小さな友達が出来て、校長先生はとても嬉しく思いました。

 

 修学旅行から帰ると、男の子が恥ずかしそうに校長先生の所にやって来ました。そしてお土産ですと言って、鉢植えのサボテンをくれました。子供の手のひらに乗るほどの小さなささやかなものでしたが、男の子がたくさんの鉢の中から必死に選んでいる姿が思い浮かんできてとても嬉しくなりました。

 

 

 その年の暮れが押し迫った頃のことです。
 真夜中にいきなり電話が鳴りました。眠い目をこすりながら出ると学校の連絡網でした。児童の家が火事になっている、と電話口の女の先生が言います。慌てて、着替えると現場に向かいました。
 それは、あの、男の子の家でした。校長先生が駆けつけたときには火の手が回って、小さな一戸建て全体が炎に包まれていました。細い路地の中にあって消火作業が手間取っています。青い顔をした担任の教員に尋ねると、男の子はもう救急車で病院に運ばれたと言うことでした。近所の人達のバケツリレーに加わり、先生方も必死に火を消しました。
 どうにか数時間後、消し止められてみると、奇跡的に周りの家屋には被害がありませんでした。それは男の子の家の庭に所狭しと植えられた木々のために火が遮られたからだったのです。

 男の子のお母さんは心の病気でした。時々、発作的に何かを起こすことがあり、普段は入院をしていましたが、その晩はお正月前なので一時帰宅をしていたそうです。何が原因かは分かりませんが、真夜中に石油ストーブをひっくり返し、それが元で火が上がりました。男の子のお父さんがパチパチという音に気付いて目覚めたときには、辺り一面が火の海に包まれていました。傍らで泣いていた娘を抱えて、死にもの狂いで庭に飛び出しました。お母さんはそのまま火に包まれて亡くなりましたが、部屋の中で逃げ遅れた男の子は致命傷とも言える大やけどを全身に負いました。
 翌日、病院を訪れた校長先生は涙ながらに語るお父さんの話に自分も涙が止まりませんでした。

 

 数回に渡る皮膚の移植手術を受け、男の子はどうにか一命を取り留めた状態で病院のベッドにいました。忙しい仕事の合間をぬって、校長先生はこの小さな友達の元に通い詰めました。包帯でぐるぐる巻きになった身体は痛々しくて、気を張っていないと本人の前で泣いてしまいそうです。だって、男の子は何も悪くないのです。お母さんのいない生活の寂しさにひたすら耐えて、妹の面倒を見てお父さんを助けていました。命が助かったのも、きっとどこからかこの姿を見ていた神様が助けてくれたのだと思うくらいです。

「先生、僕の家の樹、見てきてくれた?」
 男の子は無邪気に訊ねます。窓の外はそろそろ3月に色づき始めていました。学校も卒業式の準備に入っています。
「門の脇に大きな梅の木があるでしょう? あれは僕が産まれたときにお母さんが植えてくれたんだ。その隣が妹が産まれたときに植えた桃の木、その隣が僕が小学校に入るときに植えた桜の木…もう、桃は咲いたかな?」
「うん、今5分咲きぐらいかな…」
 燃え尽きた家屋は地元の消防団の人達が撤去作業を行い、後には真ん中にぽっかりと穴の開いた家の敷地が残されました。木々は火事の炎で枯れてしまったものもありましたが全体としては元気で、新しい芽吹きの季節を静かに迎えていました。お父さんと妹は親戚の家に身を寄せているそうです。
「お母さんは、本当に花が好きだったんだね…」
 男の子の家の庭は手入れをする人がいなくなってから荒れ果てていました。でもバラや沈丁花やクチナシや…そしてその木の根元には水仙やフリージアがもう野生化して生えています。きっと元気だった頃のお母さんがせっせと植えたものだったのでしょう。
「じゃあ、今度は。君の卒業記念に先生が樹をプレゼントしようね…」
 そう告げると、男の子の顔がパッと輝きました。
「そうなの! …だったら…いい香りのする花がいいな。西洋クチナシでもいいし、花桃でもいいし、それこそ沈丁花でも。そうしたら、天国にいるお母さんが香りで気付いてくれるかも知れないから…」
 校長先生は思わず涙が溢れそうになりました。男の子はお母さんが何をしたかを知っています。それなのにお母さんを少しも恨んではいないのです。それどころか、自分がもう少し早く気付けばお母さんを助けられたのに、とまで言います。
「でも…僕、卒業式にはやっぱり出られないんでしょう?」
 男の子が寂しそうに言いました。実は今日もこのことを主治医の先生に聞きに来たのです。男の子は卒業式に出ることを希望していました。でも、彼の身体は2ヶ月が経過しても未だに危ない状態です。とても院外に出せないと言われました。
「君の分もちゃんと席を用意する。君の証書もちゃんと友達が貰ってくれる。当日はここからその場面を思い描いていてごらん、そうすれば式に参加している気分になれるよ」
 出来るだけ、明るく言いました。でも校長先生の心はちくちく痛んで、悲しくて仕方がありませんでした。それでも、そう見せないのが大人です。必死に堪えました。

 

 

 ふわふわと暖かい風が開け放した窓から、吹き込んできます。まぶしい廊下を歩いて、病室のドアを開けたとき、男の子はベッドの上で大きく目を見開いていました。
 その日は小学校の卒業式の翌日でした。当時の校長先生と女教頭先生、男の子の担任の先生、そして教頭だった校長先生は連れだってその病室に入りました。その後から男の子のお父さんと妹、病院の院長先生に手の空いている先生方や看護婦さんが…狭い病室に入りきれないほど集まりました。
「さあ、君の卒業式を始めよう…」
 詰め襟の真新しい学生服を男の子の肩に掛けて、校長先生がそう言い終わる前に、もう、彼の目からは涙がどっと溢れてきました。
「一同、起立!」
 本当の卒業式と同じように校長先生が号令を掛けると、もう涙目の担任の先生が男の子の名前を読み上げます。白髪の校長が優しい笑顔でベッドの所まで歩み寄り、卒業証書を手渡しました。
 先生方とクラスのみんなで書いた色紙、全校生徒が折った折り鶴。記念品は小さなラジカセです。校長先生は目録を渡しました。そこには男の子のお家の庭に花桃の木を贈る、と書いてありました。
 たくさんの笑顔と拍手に送られて、たったひとりの男の子のための卒業式が和やかに行われました。涙の中でも嬉しそうに微笑む男の子の顔がまぶしくて、校長先生は涙が止まらなくて困りました。
「今日は、本当にありがとうございました。僕はきっと、元気になります。そして困っている人を助けてあげられる、立派な大人になります!」
 男の子は急に大人びた表情になってしっかりした口調で病室に集まった人々に語りました。その言葉にさざめくような拍手がいつまでも続きました。

 

 優しい目をした男の子が天に召されたのは…その年の6月のことでした。

 

………

 

 あの日と同じような暖かい日差しに照らされて、校長先生は静かに瞳を開きました。小さくため息を付きます。そして机の上にそっと視線を移しました。そこにはあの男の子がくれたサボテンの鉢が置かれています。あれからの学校生活では大変なことがたくさんありました。荒れる現場、教員の親の資質が問われる中、がんじがらめの人間社会の縮図の中にあって、それでも校長先生は必死に生きてきました。辛いこともありました。打ちのめされたこともありました。でも…どんなときにもまっすぐに生きて行こうと思っていました。そうしないと、命を散らした小さな友達にいつか天国で出逢ったときに恥ずかしいと思ったからです。

「校長先生、お時間です」
 背後から声を掛けられて、ゆっくり振り向きます。口元に笑みをたたえて。

「ああ、ありがとう。今、行くよ」
 そして。もう一度、振り向いて空を見上げました。優しい春の空がゆったりと微笑んでくれる気がしてきます。向き直った校長先生の真っ白な髪の毛を優しい日差しがキラキラと照らしていました。

 

Fin(20020319)
◇あとがき◇
この話は実際にあった出来事を題材に書かせて頂きました。とある元校長先生が現役時代に実際に経験したひとつの卒業式です。「学校」と言う場は社会の縮図です。そこに存在するのもは大人も子供もおのおのが自分の主張を必死に通そうとあがき、傷ついていきます。心根が優しい人は先生になれないそうです。精神的に参ってしまうから。
「いつか、子供たちの前で話したい、ひとりきりの卒業式の話だ」と彼は言ってましたが、口べたで話し下手のこの人が実際に壇上でこの話を出来たのか、私は知りません。実際に経験したわけではない私がこうして発表するのは本当におこがましいと思います。でも、誰かに聞いて欲しくて、書かせていただきました。読んで下さって、本当にありがとうございました。
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