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…「11番目の夢」番外…

 

 

 ひんやりと肌を刺す夜風が、暖かなショールから忍び込んでくる。シルエットになった並木。葉を全部落として寒々しい細腕を伸ばしている。ふわふわと白い吐息。

 何となく静寂に身を任せると。どこか遠くから、透き通った歌声が聞こえてきた。

「……あれ?」

 どの方角からだろう。それを確かめたくてバルコニーの手すりから身を乗り出したとき、耳に届いていたはずのかすかな響きが消えている。残念に思って、ふうっとため息をつくと、今度は背後から戸の開く音がした。

「今夜は大変だったでしょう。疲れた……?」
 振り向くとそこには、やわらかな微笑み。先にお風呂を使ってもらったから、厚手のバスローブから白い湯気が上がっている。背後にある部屋の灯りで、頬の辺りの輪郭が金色に光って。

 それを目にしたときに、千雪はくすりと笑ってしまった。やっぱり、似てるから。不思議そうにこちらを覗き込む人に、ゆっくりと呼吸を整えつつ告げる。

「お父様が、あんな風にはしゃがれるなんて。初めて見ました」

 すると、惣哉の方も思い出したらしく、ふんわりと顔を崩す。

「僕だって、30数年付き合っていて初めて見たよ。びっくりしたな……紙製のとんがり帽子をかぶった父上なんて、今まで想像も出来なかった」
 そう言いながら、肩に手を回してくる。濡れた前髪からひとしずくが落ちるのがとても近くで見えて、どきりとしてしまう。吐息が鼻先に掛かって、くすぐったいなと思った瞬間にそっと唇が重なった。

「何を見ていたの?」
 ぬくもりと共に辺りを漂う石けんの香り。腕の中にすっぽりと抱かれてしまえば、もう寒くない。ああ、湯冷めをさせてしまうな……と思いつつも、あまりの心地よさにしばし身を預けていたくなった。

「歌が聞こえてきて」
 もう今は音色は響いてこないが、あの心をすくい取るような心地よさが耳に残っていた。辛いことは全部消えて、安らかな世界にいざなわれるみたいな透き通った歌声。

「ああ……」
 惣哉の腕が、愛おしそうに背に回る。身長差がありすぎるから、会話をするにはこちらが伸び上がり、あちらが身をかがめなくてはならない。そんなふうにしてお互いの距離を近くする行為も、だんだん自然に出来るようになってきた。

「この辺には教会がたくさんあるからね。ミサをやっているのかも知れないな、今夜は」

「そう……ですね」

 車に乗って移動する道すがら。広々とした庭を持つ屋敷の続く道なりに、いくつもの教会の建物を見た。色もかたちも様々で、深い緑の中に佇む姿は、百年前から少しも変わってないんじゃないかと思えるほどに。

 そのひとつで、2ヶ月前、千雪は惣哉の花嫁になった。白いベールの向こうに霞んで見えた幸せをこうして今、きちんと実感している。

「それにしても、賑やかなイヴだったな……」
 感慨深そうに、惣哉が言う。彼の声を聞いていても、本当に久しぶりの事であるらしいのが分かる。千雪はそっと顔を上げた。

「惣哉さんは……いつも、どんなクリスマスを過ごされていたのですか?」

 今夜は、惣哉の父である学園理事長の政哉とお手伝いさんの幸さん、そして居候の朔也も加わって、東城家のダイニングは始終暖かい笑い声に包まれていた。毎晩変わりないこんな団らんの風景も、年に一度の特別なイベントに、少しばかり浮き足立っていたのだろうか。

 もともと朗らかな性格の惣哉の父は、クリスマスツリーの前で、さらに陽気になった。カラオケマイクを握って離さなくなって、ひとりで何曲も唄う。おしまいには千雪もデュエットの相手にかり出されて。
 高校3年生、受験のまっただ中の朔也も、そんな席でうるさがる様子もなく楽しそうだった。センター試験が近いと言うことで、今年は恋人とのクリスマスを断念したらしい。でも、一足早く贈られたらしいペンダント型の時計が、彼の首に掛けられていた。

 長いこと父親とふたり暮らしだった千雪だ。こんな賑やかなクリスマスは遠い昔に忘れていたが、よくよく考えてみれば昨年までは自分も朔也もこの家にいなかったのだ。今ではもう、自分もしっくりとこの空間に馴染んでいる気がするが、ほんの半年前には想像も出来なかった事だし。

 惣哉の方も、幼い頃に母親を亡くしたと聞いている。兄弟もなく、この広い屋敷に暮らしていたのだから、寂しくなかったと言ったら嘘になるだろう。

 惣哉が生まれる前からこの家にいる幸さんに聞いても、政哉や惣哉がこんなに家で夕食を採ることは今までになかったらしい。
 ここ数ヶ月ですっかり夕方の生活が変わったと言われて、とても不思議な気がした。もちろん、幸さんはそんな「今」を厭うどころか、とても嬉しく思っているはずだ。元から70歳を越えた老齢だとは信じがたかったが、今では更に若々しく見えてくる。生き甲斐があると言うことは、人を明るく変えるのだ。

「そうだなあ……去年までは、クリスマスも仕事が入っていたしね。そんなに普段と変わらなかったな」

 遠い昔話をしているように、惣哉が静かに回想する。言葉がそのまま白い息になって、闇の中に溶けていく。

 ああ、そうだろうなと千雪も思った。惣哉は今年の春まで、一籐木(いっとうぎ)グループの社員として多忙な日々を送っていた。今現在の私立藤野木学園副理事長という役職も、かなりの忙しさだがそれよりもさらに時間的な制約が多かったらしい。何しろ、一籐木(いっとうぎ)グループの次の頭取の椅子を約束されている人の警護を任されていたのだ。
 日本有数の総合企業グループとうたわれる一籐木の頂点に立つことになる人間ともなれば、内外からの様々な危険が避けられない。家には寝に帰るだけだった……というのも嘘ではないのだろう。

 クリスマスともなれば、企業のトップが招かれる席も多くなるし、そのような場では監視の目が行き届きにくくなる。年末年始の混乱で、それこそ息つく暇もなかったのではないだろうか。

「あ、そう言えば」
 何か気づいたようだ。彼は千雪の髪を梳いていた指をとめた。

「去年のイブの夜、確か雪が降ったでしょう? ちらちらと……丁度、都心を走っていて大きなツリーが見えて。それに掛かったから――とても綺麗だった」

 何かをたぐり寄せるように、闇を見つめる瞳。言葉にしない沈黙の部分を、ふと想う。千雪は何かを言いかけた唇を閉じて、もう一度俯いてしまった。

 その……雪の夜に、誰と一緒にいたの?

 答えは改めて訊ねるまでもない。……咲夜様と一緒だったんだ。当たり前のことなのに、何故か胸が痛いくらいに締め付けられる。自分の知らない惣哉の過去、たった1年前のクリスマス。

「そうですね、雪が降っていました」

 そして思い出す、去年の今日。千雪も別の人と一緒にいた。

 少しずつ、歯車の噛み違い始めた恋人。でも……クリスマスの夜を一緒に過ごすことは当然のことだと思っていた。中華料理屋のバイトを早めに上がり、予約してあったレストランでクリスマスのディナーを楽しむ。シャンパンとワインでほろ酔いになって外に出ると、白い輝きが舞い降りてきた。

 あの雪を見た瞬間。もう駄目だって気づいた。ふるさとの冬の色。自分をあの土地に連れ戻そうとする使者。ここにいてはいけない、この人の傍にいては駄目だと強く思った。

 すれ違っていく心を確かに感じながら、どんどん迫り来る終焉を知りながら、それでも離れることが出来なかった。いつか置き去りにされると分かっていても、その瞬間までは一緒にいたいと願った。

 最愛の人を前にして、でもどこまでも満たされない想いを抱いて。自分たちはお互いに、長い時間を過ごしていたのかも知れない。決して重なり合うことのないはずだった時間軸。運命のいたずらが出会いの奇跡をもたらした。

 ――そして、巡り会ってしまったのだ。

「……千雪っ!」

 彼も何かを感じ取ったのだろうか。震える手のひらで、強く強く抱きしめてくる。あまりの激しさに、呼吸が苦しくなるほど。思わず大きく身じろぎしたら、ようやく気づいたらしく腕をゆるめてくれた。

「ああ……ごめん。大丈夫だった?」

 千雪は黙ったまま頷いた。そこに笑みが浮かぶ。ふたつの手のひらを合わせて、指を絡め合う。たったそれだけの仕草で気持ちが直に注ぎ込んで来るみたいに満たされた。

「……初めて、ふたりで過ごすイヴだね」

 感慨深そうに、見つめられる。双の柔らかい瞳。この視線に捉えられるのが好きだった。好きだったけど……怖かった。だって、いつかこの人なしでは生きていけなくなりそうだったから。

 いつでもやがて来る終焉を感じ取る、そんな自分がいた。心のどこかで諦めていなければ、その先にある落胆に耐えきれないと知っていたから。それなのに、諦めることが出来なかった。自分の身体が限界を叫ぶその瞬間まで、共に生きたいと願っていた。

「ふたりじゃ……ないです。もうひとり、います」

 千雪の言葉に。惣哉は、一瞬「え?」という表情になり、そのあとふっと笑った。

 胸の下、千雪は自分のおなかのふくらみにそっと手を添えた。そこに、包み込むようにもうひとつの手のひらが重なる。

 まあるい幸せのかたちをふたりで感じ取っていた。

 必死でしがみついてくれた命。今、ここに存在できる自分。包み込んでくれる暖かい腕。

「ここは冷えるから……もう中に入ろう。千雪の身体に触っては大変だから」

 やさしく促されて、千雪は彼のあとに従った。広い背中を見つめながら、ふと思う。

 傍に……いられるのだろうか。今このときだけではなくて、来年も、再来年も……十年後も。そんなこと、分からない。誰にも答えられるはずもない。ただ、願うことは出来る。自分がこうありたいと、強く心に訴えることは可能だ。信じる力になるまで。

「……あ」

 ガラス戸の中に入ると、そこは空調の効いた暖かな部屋。やわらかな毛足の長いカーペットに足を置いたその時、千雪は小さく叫んだ。

「どうしたの?」
 前を行く人が振り向く。戸惑いの表情のまま、彼女は顔を上げた。唇が何度も空を切る。なかなか言葉にならない。

「今……動いたかも……知れないです」
 ようやくそれだけ言うのが精一杯だった。ふくらみに手を当てて、もう一度確かめてみたが、うんともすんとも言わない。でも……確かに一瞬、ぽこぽこっとあぶくが弾けるような感覚を自分の内側で感じた。

 まるで心を素手でノックされたみたいに。くすぐったくて、思わず顔がほころんでしまうような感じ。
 
「えっ……、本当?」
 惣哉も驚いた顔で、こちらに向き直り歩み寄る。そして、妻のジャンパースカートの上から、ふくらみに手を当てた。

 しばらくふたりとも微動だにせず、じっとその時を待った。しかし、部屋に置かれた大きな振り子時計の音だけが妙に大きく響くだけ。やがて、どちらからともなく笑い出してしまった。

「――もう、寝ちゃったのでしょうか」

 自分の中の気まぐれな住人に呆れながら、それでも愛おしくて仕方ない。愛されることを当たり前だと信じている存在が、羨ましくも思える。こんな風に……なんのためらいもなく明日を信じることが出来たなら。その気持ちをいつまでも摘み取ることなく育んで行けたなら――。

「そうかもしれないね。誰に似たんだろう……この子はかなりの、のんびり屋さんなのかもしれないよ」

 やわらかく包んでくれるもうひとつのぬくもりに寄り添って、そっと瞼を閉じる。千雪の耳元に、先ほどの歌声がもう一度響き始めていた。


 星が遠く瞬く夜。その輝きのひとしずくが、今宵は全ての人の心に降りてくるのだろうか。

 

おしまい(20031224)

 

……*****……

イヴは終わってしまいましたが、クリスマスのちいさなお話をUPします。千雪と惣哉、初めての聖夜を迎えました。去年の今頃にはお互いの存在すら知らず、ましてやこうして今、最愛の人となろう事など想像できるはずもない。少し胸の痛む感傷も心に残しながら、それでも共に生きようとするふたりを書いてみたいなと思いました。まさか、このようにクリスマスのお話が書けるなんて、昨日までは思っていなかった私。書き上げて不思議な気分になってます。多分、神様が私にくれた、クリスマスの贈り物なんじゃないかな?

前作「やわらかな鼓動」で「名前も出てこなかったっ! 生まれたって、記述があっただけ」と嘆いていた某友人もこれで満足してくれるでしょうか?

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