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Scene・1…はじまりの時
真雪Side*『つれない人』

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 …びっくりした。

 私の目の前、50メートルくらいのところを彼が歩いている。背中を向けて。進行方向が同じ。


 彼…「春さん」・本名は鴇田春太郎という人。そのまま「ときた・はるたろう」と読んでね。名前は桃太郎の親戚みたいだけど、でも実はウチの会社の企画部の若手エリートだったりする。
 25歳、入社3年目。身長178センチ・体重72キロ。靴のサイズは27.5センチ。手のひらもでっかい。高校時代まではバレー部のアタッカーだったらしい。そのせいかどうかは知らないけど、結構身が軽くて力持ち。スポーツ刈りをもうちょっと長めにしたオフィス仕様の髪はほんのちょっと明るい色に染まってる。

 …ああ、遠目に見ても結構イケるよなあ。そりゃ、顔は10人並み。童顔に見えるのは目尻が下がっているからだろう。

 学生たちは夏休みの今日この頃。デパートが並ぶ駅前通りは気を付けて歩かないと前から来る人にぼんぼんとぶつかってしまう。土日はここも歩行者天国になるらしいけど、平日だから歩道しか歩けない。春さんと私の距離はなかなか狭まらないのだ。

 今、夕方の5時30分。そう、待ち合わせまであと30分。6時にここから電車に20分ぐらい揺られた駅からちょっと歩いた銀行の前で待ち合わせ。目印は大きな噴水。

 …そう。春さんは私に会うために、歩いているんだ。

 

 同じ会社にいるのに。何故かいつも春さんが指定するのは電車に乗らないと行けないような遠い場所。意識して会社から離れようとしているみたいだ。

 どうしてなんだろう。別にウチの会社、社内恋愛を禁止してないよ? それどころか結婚したって夫婦で勤めているカップルだっている。全然平気なの。だいだい、私たちが付き合っていること、かなり広まっていると思うよ。

…なのにさぁ。


 携帯に連絡して、ちょっと立ち止まって貰おうかな? そしたら、一緒に歩ける。カバンを探って、ふと手を止める。…やめよう、そんなこと。しつこい女だって思われちゃう。

 それに。

 ひとつの考えが浮かぶ。そうだわ、今日はこのまま春さんを尾行しようっ! まあ、辿り着く場所は知っているんだけど、今までは待ち合わせの場所に春さんの方が先に着くことはなかったし。その上、いつも必ず5分くらい遅れて、それなのに全然焦った感じもなく現れる。

 私に会う前の春さん。ちょっと見てみたい。そんな気がした。

 

…**…***…**…


 地下鉄の階段を駆け下りて、自動改札を抜けて。閉まりかけたドアに滑り込む。

 ああ、焦った。もう尾行してるのに、ここで電車を乗り違えたらアウトじゃないの。もう心臓がばくばく。息が上がってる。こんなに急いでいるスーツ姿の私を周りの人は知らん顔して無反応。そんなもんよね、都会だもん。

 …あ、いた。

 隣りの車両の開かない方のドアの前に春さんが立っていた。向こうを向いて、文庫本を読んでいる。きっと今開発中の新しいプロジェクト用の参考になる本なんだと思う。私がここで見てることなんて、全然知らないんだよ。
 今日は見たことのない新しいスーツを着てる。ボーナスが出たから何枚か新調したという、その一枚なんだろうか。春さんは着るものをいつもピシッとしている。ワイシャツやネクタイはマメにクリーニングに出しているそうだけど、毎日のスーツもプレスしてるみたいにシワひとつない。

 どこまでも、どこまでも隙のない人。私に対しても、いつも静かにさっぱりとしてる。ちょっとそれが物足りないなと思ったりするんだ。

 

…**…***…**…


 春さんと私は4歳も年が離れている。同期入社でもない。だから私は入社して1年近く春さんのことをよく知らなかった。ウチの会社はかなり大きな複合企業で、いろんな部署が混在している。私は広報の方にいたし、春さんは開発部。全然、接点がないのだ。フロアだって違うし。

 ただ、ロッカールームでの女の子たちの会話の中で「鴇田さん」という名前は何度も耳にしていた。何でも彼が提案した展示会が成功して、取引先との関係もすごく良くなって。社長賞が贈られたとか。秘書課の人気ナンバーワンの女の子がアタックして玉砕したとか。仕事とプライベートをきっちりと分けているとか。すごく評判も良かった。

 そんな私に偶然というものがやってくる。

 取引先との合同会議のお茶出しの要員が足らず、借り出されることになったんだ。イマドキの会議と言ったら、ペットボトルのお茶をぼんぼんと並べる企業もあるそうだけど、ウチはきちんとひとりひとりにお入れする。しかもお代わりもする。女中奉公のようにたいへんな作業だ。私は湯飲みを乗せたお盆を持って、テーブルのあちこちを歩き回っていた。

 

「…では、説明に移ります」

 そんな声がして。前のスクリーンのところに男性社員がすっと立った。100人以上の内外の人間たちを前にしても堂々とした態度。口元に笑みまで浮かべて、資料を提示しながら、新しい企画のことをとても分かりやすく説明していた。

 その姿を見た瞬間、身体に電撃が走った。びびびっとくる、というあの有名歌手の言葉が脳裏に蘇る。すごくステキな人だと思った。ウチの部署にだって、若い男の子はたくさんいる。お茶とかに誘われたりする。でもっ…何だかピンと来なかったのよね。みんな学生のノリの延長みたいで落ち着きがなくて。

 でも、彼は違った。本物の企業マンだ。ああ、こんな人がいるんだ、何てしっかりしてるんだろう。

 説明は10分くらいで終わったのに、そのあとも彼から目が離せなくなった。もう、自分でも訳が分からないほど、ぼーっとしてしまって。「鴇田」というネームプレートで、やっと彼が「時の人」だと気付いた。

 

 きっかけはもちろん私から。彼は私のこと何て全然知らないんだから、どうにか印象づけなくちゃ。そう言うわけで、ここはリサーチから入ることにした。彼の日常のスケジュール、好きなタレント・女性の好み。今興味を持っていること…などなどなど。
 ここですごいオトナの女性が好みだったらどうしようかと思ったけど、幸い彼は若い女性タレントのファンだった。まあ、ちょっといいなと思う程度らしいけど。これは同期入社だという、ウチの部署の男の子にしつこく聞いたんだから間違いない。いいよな、同期なら飲み会とかあるもん。1年違うだけで、彼との距離がこんなに違うなんて。

 美容院に行って、そのタレントと同じ髪型にした。色も似せてみた。目元ぱっちりのくっきり二重までは無理だったから、ここはマスカラとビューラーに出動願う。うすピンクの上着に小花模様の女の子らしい膝丈のスカートをはいて、彼の退社時間に会わせて待ち伏せした。我ながら、古典的な方法だ。
 もちろん、その前に、例の同期入社の男の子を通じて、なんとなく私の存在をほのめかして貰った。別に、意識してるとかそんなじゃない。ただ、会話の中に何度か名前を出して印象づけるように。

 そんな努力もあって、恐る恐る夕食に行きませんかと言うと、快い返事が貰えた。彼はひとり暮らしで、飲み会や接待のない日はひとりで外食する。そこまで調査済み。以前は彼女がいたらしいけど、今はフリー…らしいということも。食事の席では聞き役に徹した。彼の仕事の話はちょっと難しかったけど、それなりに予習してあったので、受け答えもばっちり。すごく気の利いた質問とか出来たと思う。

「また、ご一緒させて頂けますか?」と聞くと、じゃあ、と携帯のナンバーを教えてくれた。もちろんプライベート用の方だ。仕事には会社名義のものを使っていることも知っていたから、ここはちょっと好印象だと思っていいのかも。私のナンバーも教える。第一段階、突破だと思った。

 

 それからはもうひたすらに彼の連絡を待つ日々。その日のために新しい服を揃えていた。彼からの連絡が入ったのはきっちり1週間後。それまでに、一度も連絡なんてなかった。でも、嬉しくて嬉しくて、待ち合わせの場所に30分も先に着いて。一体どこから出てくるのだろうと、360度見渡して、待っていた。
 彼がやってきたのは待ち合わせの時間から15分も経過してから。急いだ様子もなく、髪も服も乱れてなかった。ちょっと、哀しいなあと思う。だけど、帰りがけに上司に呼び止められたという彼を責めることも出来ないし、来てくれただけでも嬉しいから、にっこり微笑んで応えた。

 退社後の食事を何度か繰り返して。初めて休日のデートを実現させる。それも私からの働きかけ。彼が見たがっている映画の新作の試写会チケットを手に入れたのだ。それも特別に主演男優が挨拶に来る日。友達の友達のツテを当たっての必死の努力のたまものだった。でも、偶然手にしたみたいに、あっさりと差し出す。OKの返事を聞いた時は本当に夢心地だった。

 彼が意外にもスピード狂で、ジェットコースターみたいなのに目がないこともリサーチ済み。試写会は夕方からだったから、その前に近くにあるテーマパークに行きましょうと誘った。その日、チェックのシャツにブラックジーンズ、スニーカーという見たこともない格好で現れた彼にまた感動する。正直走りものは苦手だったけど、そこは愛の力で乗り切った。少年みたいな笑顔の彼をまた好きになる。

 季節がひとつ過ぎて、彼の好きなタレントが髪型を変えた。だから、私もそれに合わせてイメチェンする。彼は「似合うよ」と言ってくれた。嬉しかった。


 きっちり、1週間に一度のデート。前の日に、時間と場所の確認だけの連絡。社内ですれ違うことなんてほとんどないし、もしも遠目に見つけても他人のふり。

 そんな風に過ごして。もうそろそろ、もうちょっと進展してもいいのになあと思って。でも春さんは何もリアクションを起こしてくれない。もともと私が奇襲して始まった仲だから、いつまでもそんな風なのかなと思ったら、何だかとても虚しくなって。

 

 夕ご飯デートのあと。最寄りの駅まで歩きながら、酔った振りして彼の胸にもたれ掛かった。

「…まだ、帰りたくないな…」

 このひとことを言うことがどんなに大変だっただろう。体中から汗が噴き出して、抜け殻になってしまうくらい、精神力を消耗した。どうにかして、彼にもっと近づきたかった。こうして一緒にご飯を食べたり、たまに出かけたりしてる。でも、この関係を「恋人同士」と言うのは苦しい気もして。

 もしかしたら、彼は私が誘うから仕方なく会ってくれるんじゃないだろうか? だから、待ち合わせに遅れても涼しい顔して、私がすごく会いたかったよと言う視線で見つめても、当たり前みたいにしてる。しっかりと堂々と振る舞う姿に憧れていたけど、出来ればちょっとだけでもうろたえたり焦ったりしてくれないだろうか?

 身体の関係が出来れば、なんてずるい考え方だと思う。でも…これは男の人の自然な欲求に従うことだもん。それによって少しでも彼が変わってくれたら。私のこと、必要にしてくれたらいいのに。

「駄目だよ、もう帰らないとお家の人が心配するよ?」
 彼は私の肩を軽く支えて、そっと引きはがした。そして、当たり前のことを言う。優等生の発言だ。でも、恋人としては最低の落第点の発言だと思う。

 …春さん。

 私はもう泣き出しそうだった。必死の想いを込めて見つめるのに、春さんはやっぱり涼しい顔だ。そして、静かに言う。

「おやすみ、気を付けて」

 

…**…***…**…


 駄目なのかも知れないなと、このごろ思うようになった。そして、昨日、とうとう見たくないものを見てしまった。

 書類を届けるために、いつもは行かない春さんの部署のフロアに足を向けた。仕事を終えて戻ろうとすると、どこからか聞き慣れた声がしたのだ。

「…だから、ここはね。ああ、そうじゃないでしょう…?」

 そっと覗いてみると。そこにいたのは新入社員の女の子にパソコンの操作を教えている先輩社員…の、春さん。彼女は椅子に座っていて、春さんはその背後に立っていた。何故か不器用な子らしく、何度も操作ミスをする。とうとう、春さんが彼女のマウスを持つ手に自分の手を添えて、手順を説明しだした。

 …嘘。

 もう、それ以上は見ていられなかった。その部屋にはもちろん、他の社員もたくさんいたし、ごくごく普通の光景なんだろう。でもっ…でも。

 春さんは私の手をあんな風に握ったりしない。キスだってしてくれない。まあ、たまに必要に応じて身体が触れることもあるけど、そんなときもあっさりとかわされた。

 あんな優しい笑顔で、あんなに丁寧に。女の子に接するんだね、春さん。すごい、口惜しいよ。

 

 …もしかして、もしかして。私じゃ、駄目?

 

…**…***…**…


 がくん。

 何があったんだろう? 突然、電車がストップする。ざわめく車内に、線路の点検のアナウンスが流れた。


 駅に到着して。どどどっと人が降りていく。その波に従うように私も続いた。いくつかの路線が交差する大きな乗換駅。だから、ものすごくたくさんの人間が入り乱れる。

 …あれ?

 そして、気がつく。春さんが、いない。もちろん、彼は私の存在になんて気付いていなかったから当然だ。きっと先に行ってしまったんだろう。時計は待ち合わせの時間を過ぎていた。


 慌てて地上に駆け上がる。ロータリーをぐるりと見渡して、進行方向の歩道を見る。でも春さんはいない。私だって、こんなに急いだんだもん、そろそろ追いついてもいいのに。それとももしかして、どこかで追い抜いてしまったの?

 ざわざわざわ。

 夜に向かう人の波。かき分けないと進めないほど。それでもわずかな隙間を縫って、私は走った。何だかとても不安になって。

 こうして、はぐれてしまうの? 私と春さんはそんなに縁が薄いの? だから、尾行しても見失ってしまうのかな?

 赤い糸で結ばれていれば、遠くにいても通じ合うもの。こちらが見つめれば、遙か向こうの彼も気配に気付く。他の誰が気付かなくても、…もしも、本当に大切な人なら。

 私は、こんなに春さんが好きなのに。

 この想いは報われないのだろうか? いつかもっとステキな女性が彼の前に現れたら、その時は月の変わったカレンダーのようにあっさりと切り取られて捨てられてしまうの…?

 

 ―― 一度でいいから、まっすぐに見つめられてみたい。心を溶かすほどの熱い視線で。「君のことを、誰よりも愛してるよ」って、力強く抱きしめられて、息が出来ないほどの幸福に浸りたい。

 

 どうしたら春さんの好みに近づけるか、春さんの気を引けるか、必死だった。でも、もう駄目…エネルギーが切れちゃった。心が張り裂けそう、元気になれない。

 

…**…***…**…


 全速力で、走って走って。何度も人にぶつかって。そしてようやく待ち合わせ場所のすぐ側まで辿り着いた。

 …あ。

 春さんを、見つけた。銀行の…待ち合わせ場所とは死角になっているウインドに手をついて、ぜいぜいしてる。

 呼吸を整えてるの? 動けないままその姿を離れた場所から見守る。やがて、顔を上げた春さんが、ガラスに映った姿で、全身を確認してる。ちょっと曲がった襟を整えて、手櫛で髪を整えて。大きく深呼吸したのが遠くからでも分かった。

 私だって、すごく頑張って走ったんだから。コンパスの差を考えても、春さんだって相当に急いだはず。息だって上がっただろう。そして、彼は何でもない感じで歩き出した。ちょっと歩いて、ぴたっと足が止まる。辺りをきょろきょろ見渡して。

 …私が、いないからだろうか?

 待ち合わせの時間に遅れたことなんてなかった、それくらいいつも必死だったから。遅れそうになったとき、電車をやめてこっそりタクシーを飛ばしたこともあった。

 春さんは噴水の周りを一周してこちら側に戻ってくると、今度は携帯を出して確認してる。あれは、プライベート用のものだ。何度か操作して、それを手にしたままもう一度辺りを見回す。髪をくしゃくしゃっとかき混ぜて、もう一度携帯を見て。そのあと何かやりかけて、止まる。はあ、と息を吐いた。


 すぐに出て行きたくて。遅れてごめんねと、駆け寄りたいのに。何となくその場に立ちつくしていた。


 同じ気持ちを抱いた私と春さんの間を、急ぎ足の人の波が、行ったり来たりする。泣き出しそうだった空から、ぽつんぽつんと落ちてきて、白いコンクリートに丸くて灰色のシミを作っていく。春さんは相変わらず、噴水のフチに座ったまま。同じ動作を繰り返す。綺麗な色のスーツの肩が色を変えていく。それにも構わずに。

 

 折りたたみの白い傘をゆっくり広げて、私は一歩踏み出した。



…おわり…(030723)

 

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