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「おはよう! 朔也、起きてる!?」
一籐木グループの次期後継者とされる娘――いくら亡き祖父が先代の頭取、父親が現頭取であるにしても、彼女にはふたりの兄がいる。年上の従兄も何人もいる。それなのに他でもない彼女に白羽の矢を立てた者こそ「鷹の目」を持つ前頭取・一籐木月彦だった。 彼の亡き後、その決定に異論を唱える者が全くないとは言えない。だが、この彼女をひと目見たなら…その艶やかさと人を引きつけて放さない存在感を目の当たりにしたら、誰も頷かぬ訳にはいかないだろう。
「朔也!? 何よ〜、まだ寝てるの?」 階段を上がり終えると、くるんと右に折れる。屋敷の中の間取りだって心得てる、ゲストルームの隣にある部屋が朔也の部屋だ。アメリカに海外赴任した両親と離れ、ここ東城家に居候して早5年――彼も無事に大学を卒業して(朔也的には「優秀な成績で」という言葉を付け足して欲しいらしいが)、表向きは咲夜の補佐役だ(しかも10人くらいいるブレーンの下っ端)。要するに、今となっては仕事上でもプライベートでも彼女に頭が上がらない状態である。 咲夜は重厚な造りの扉を開くと、ずんずんと中に進んでいく。奥の壁際にはベッドの上にこんもりと盛り上がった布団の山があった。 「朔也! ねえ、せっかくの日曜日なのに。今日は遊びに行こうって、約束したでしょ」 「う〜……」 「ねえ、時間がどんどん過ぎるわよ! 無駄な1日を過ごしたらもったいないでしょう? 時は金なり、よ。もう、どんどん行動する!!」 シーツのはじっこを掴んで、ぎゅーっと引っ張ると、ものすごい抵抗を感じた。どうもあっちからも引っ張って防御しているらしい。往生際の悪いことだ。 「朔也!!」 咲夜が叫ぶと、山がまたもぞもぞと動く。やがて、一番遠い、ベッドヘッドの辺りが少しだけまくれて、そこからものすごく眠そうな顔が覗いた。 「あのさあ……咲夜?」 「昨晩、君をお屋敷に送り届けたのって……何時だった?」 「何よ、忘れたの? 深夜2時半よ。パーティーが盛り上がって遅くなったんじゃないの」 咲夜はけろっと答える。彼女はベイエリアからの帰りの車の中ですやすやと眠っていたのだ。だから、そんな風に言える。 一方、朔也の方はその車を運転していたわけで。その上、助手席にはこの道40年とかいうベテランの運転手が座っていた。ウインカーの出し方や、ブレーキの踏み方、車線変更まで事細かに指示されて、それはもう教習所の教官よりも酷かった。その上、咲夜を無事に送り届けると、72点という点数が下され、レポート提出の憂き目にあったわけである。 「ねえってば! お兄様に特別試写会のチケットを頂いたの。夏公開の新作が5月に見られるのよ。やっぱ、あなたはラッキーよ。こんなにおいしい恋人がいて良かったわね」 見つめる顔はもうすっきりと綺麗にメイクされていて、目の下にクマなんてない。赤いこの夏新色のルージュを引いた口元が動く。咲夜はベッドに後ろ向きに腰掛けると、振り返って朔也の顔をのぞき込んだ。また潜ろうとする頭を押さえつけると、朔也は恨みがましい声を上げた。 「え〜……、僕はパス。だって、咲夜の観たいのって、またラブロマンスだろ? いいよ、きっと寝ちゃうから。他を当たって」 朔也がこういうのにも無理はない。丁度3ヶ月前、ぴったりと同じようなことがあり、クライマックスの大音響の中でぐっすり寝入っていたのだから。いくらののしられたところで、性に合わないのだから仕方ない。出来ることならスプラッタでもいいから、激しいアクションが観たい。だいたい、咲夜の兄だって自分が観たくないから回してくるのだろうし。 しかし、一籐木のお嬢様がこれくらいの断りで聞き入れるはずもない。綺麗にかたち取られた眉をきりりと上げて、睨みをきかせた。 「ちょっと、何てこと言うのよ! 女性の誘いを無下にするなんて、紳士失格だわ。いいわよっ、もう朔也なんて知らない。本気でそんなこと言うなら、もっと素敵な男性を探すことにするわ……!」 ベッドに腰掛けたままで、足をバタバタする。スリッパから伸びている足には新品のストッキング。服だって、念入りにコーディネートした。1週間も掛かって準備した色々が、素っ気ないひとことでフイにされてたまるもんですか。 ここにいる朔也と来たら、いつも仕事上のつき合いでは「咲夜様」とか呼んで、とても他人行儀なのだ。誰も入ってこない本社ビルの最上階にある咲夜専用の個室にふたりきりでいても、そのスタンスを崩すことがない。 「せっかくの、オフなのに……」
しばらく沈黙が続く。再び話を始めたのは、やはり咲夜の方だった。 「朔也さ、……」 「昨日、お父様の秘書の女性社員に声を掛けられたでしょう? 熱烈に口説かれていたって、もっぱらの噂よ」 そうなのだ。表向きは咲夜と朔也との関係は秘密にされている。朔也の本当はともかくとして、今の立場は「三鷹沢真之」と言う幹部社員の息子ということになる。縁故入社と言うにはあまりに有能な人材なので誰も何も言わないが、いきなり最上階への入室を認められた彼には羨望とねたみの視線がつきまとう。 「そうよね〜、朔也は将来きっと一籐木の中核に据えられる人間に違いないって。そう言う人に近づけば、おいしいもんね。彼女、美人だし……これでもう、何人目かしら?」 ……でも。 社会人になるとそれが変化してくる。朔也は優秀なだけではない。バスケをやっていただけあって、すらっと長身だし、その上日本人離れした彫りの深い顔立ち。甘やかなのに、どこか鋭い眼差し。朔也が社内を歩いていると女子社員が一同に彼を見ているのが分かる。 「おやおや、一籐木のお嬢様らしくもない」 彼は眠そうな目をしたままふっと微笑んで、腕を伸ばしてくる。咲夜のノースリーブのブラウスの上にかけたレースのカーディガンの裾を、くいくいっと引っ張った。 「こんな美しい人が始終側にいるのに、どうして他の女なんて気に掛けられる? それくらい、分かっているくせに」 「もう……口が上手いんだから」 思わず見とれてしまったことを悟られぬように、すっと視線を戻した。首筋に感じる吐息が、少し近くなった気がする。でも、そんなことを気にしているように思われるのもしゃくだ。 朔也が想像以上に女性にモテることは、すごく不安で。いつまで経っても慣れない。表向きは平気な振りしていても、心の中はぐちゃぐちゃになってる。 それなのに、朔也はそんな自分をくすくすと笑いながら見つめてる。どうしてなの、私ばっかりが不安になるの…? 「おはよう、咲夜」 「……何よ」 「や、やだっ! どうして何も着てないのよ、変態!」 ゆっくりと身を起こす朔也の身体からシーツが滑り落ちる。朝日に輪郭を綺麗に照らされた肩のラインより下をとても見ることが出来なくて、真っ赤になってしまう。やだ、どうしよう。見慣れてるはずなのに、どうしてこんなにどきどきするんだろう。 「ん〜? だって、シャワー浴びて、もう服着る気力もなかったしさ……」 「う……んっ!」 「……えっ! きゃあっ!!」 「ち、ちょっと……!」 「あ〜、気持ちいいかも。咲夜の胸が当たる」 「ち、ちょっと……やあっ! いきなり何するのよ!」 「いいじゃん〜、久々だしさ。咲夜も欲求不満なんだろ? ちょっと顔がきつくなってるもんな〜」 いくら細身とはいえ、それなりにウエイトはあると思う。そんな咲夜をおなかの上に乗せたら、重いはずだ。それなのに朔也はそんなことにはお構いなしに、もうスタンバイの状態で。いや、これはまずいだろう…いくら何でもまずいだろうと、咲夜は慌てて頭の中を引っかき回した。 「ね、ねえ……! こういう時に、普通だったら惣哉さんが飛び込んでくるはずじゃない? どうして来ないの? 確か今朝、出張から戻ったはずでしょう?」 惣哉は学園のデイケア私設の運営が本格化したことで、一籐木の仕事からは完全に手を引いていた。咲夜のボディーガードではないのだ。とはいえ、一籐木は惣哉の副理事長をしている「藤野木学園」にとっては大切なグループだ。学園そのものが傘下のひとつなんだから当然のことで。 「うん?」 「惣哉は、戻るなり部屋に籠もりっきり。何しろ1週間ぶりだからな〜もう朝から盛り上がっているんじゃないの? あそこがお盛んなのは、既成事実を見れば明らかでしょう……?」 「は、……はあ」 まあ、確かに。 屋敷に入った時に、リビングの方から赤ん坊の泣き声やら、子供の走り回る音やら奇声やら聞こえた。本来ならあちらにまずは声を掛けるべきだろうが、あのギャングたちに捕まってはたまらない。長男の春哉は4歳で悪戯盛りだし、下の兄弟たちも兄を見て育つのだから、たまらない。 「いくら、惣哉が年だからって、あんなに急ぐことないのになあ。ちゆ先生、結構辛そうだけど? あんなに立て続けに産まされちゃ、身体がもたないよ」 「あんっ……、駄目よ。こんなところでっ……」 「咲夜、声が響くから、抑えてよ? …ふふ、何緊張してるの? 久しぶりだから? …可愛いなあ、お嬢様は」 朔也の手がするすると下に伸びていく。そして、その表情が、あれ? と言う色になった。 「え? 何……これ、どこ?」 「ここ、腹の辺りだろ? どうしてこんなに毛が生えてるの……で、すごいぷにょぷにょしてるけど。太った?」 「し、失礼ね!! …っていうか、朔也、私に触ってないわよ? ……??」 ムキになって言い返してようやく気付く。さっきから、何だか変だなと思っていた。おなかの辺りに感じていたこのぺっとりとした感触、どう見ても朔也じゃない。……じゃあ、何? 「……え?」
「ば〜〜〜〜っ!!! さっくやあ〜〜〜〜!!!」 「げっ!! 秋っ!!」 「あそぼ〜〜〜、ちちうえとははうえ、だめなの〜〜〜」
いつからいたんだ、これ。 咲夜のあとに部屋に入ってくる物音はしなかった。じゃあ、最初から? ずーっと潜って聞いていたのかっ!? もしかして、一部始終……、それはやばいような気もする。自分たちがどこまでの台詞を言っていたか、考えてみたが、頭の中は真っ白で何も浮かんでこない。それにしても惣哉に似ている赤ん坊だ。 「これ、秋? じゃあ、三番目?」 「うんっ! あきのりですっ! あそぼ、ちゃーちゃまっ!!」 「はあ……まさか、全てを予測して送り込まれていたんじゃないだろうな。さすが、惣哉……う〜〜〜〜っ!」 「先に下に行っていて、咲夜。僕、支度するから」 「分かったわ」
シャワールームに消えていった朔也のいない風景に、窓越しの木の枝が影を落とす。気持ちいいほどの上天気だ。 ……それにしても。 一体、この続きはいつになったら出来るんだろう? なかなかムーディーにはならないものねえ……。 そんなことをふと考えて。咲夜はドアのレバーに手を掛けた。
おしまい(030527) ★ちょっと、ひとこと★
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