TopNovel「赫い渓を往け」扉>くすぐったい日曜日

    


「赫い渓を往け」番外

 

 

「おはよう! 朔也、起きてる!?」
 ぱたぱたと軽やかな足音が広いホールに響いていく。呼び鈴を鳴らすが早いが滑らかな黒髪をなびかせて、「一籐木のお嬢様」こと一籐木咲夜は勝手知ったる他人の家、東城家ご自慢の広い階段を上がっていった。


 まだ朝仕事が始まったばかりのメイドたちは、一斉に振り返り、戸惑いつつ頭を下げる。そんな対応を軽くかわしながら、余裕の笑みを浮かべている。闇色の輝く瞳、陶器のような柔肌。彼女は今年の春大学を無事に卒業して、一籐木グループの首脳陣の仲間入りをしたばかりだ。
 そこにいるだけで辺りの空気までが華やいで見える……そんな妖艶さを彼女は子供の頃から身につけていた。だがしかし、それは年を経るごとにさらに匂やかに香しくなる。22歳になった彼女は正面から臨まれると大の大人でも気後れしてしまうほどの気高さがあった。

 一籐木グループの次期後継者とされる娘――いくら亡き祖父が先代の頭取、父親が現頭取であるにしても、彼女にはふたりの兄がいる。年上の従兄も何人もいる。それなのに他でもない彼女に白羽の矢を立てた者こそ「鷹の目」を持つ前頭取・一籐木月彦だった。

 彼の亡き後、その決定に異論を唱える者が全くないとは言えない。だが、この彼女をひと目見たなら…その艶やかさと人を引きつけて放さない存在感を目の当たりにしたら、誰も頷かぬ訳にはいかないだろう。


「朔也!? 何よ〜、まだ寝てるの?」

 階段を上がり終えると、くるんと右に折れる。屋敷の中の間取りだって心得てる、ゲストルームの隣にある部屋が朔也の部屋だ。アメリカに海外赴任した両親と離れ、ここ東城家に居候して早5年――彼も無事に大学を卒業して(朔也的には「優秀な成績で」という言葉を付け足して欲しいらしいが)、表向きは咲夜の補佐役だ(しかも10人くらいいるブレーンの下っ端)。要するに、今となっては仕事上でもプライベートでも彼女に頭が上がらない状態である。

 咲夜は重厚な造りの扉を開くと、ずんずんと中に進んでいく。奥の壁際にはベッドの上にこんもりと盛り上がった布団の山があった。

「朔也! ねえ、せっかくの日曜日なのに。今日は遊びに行こうって、約束したでしょ」

「う〜……」
 山がもそもそと動く。咲夜は腰に手を当てると、アイボリーとブラウンの縞々の山を睨んだ。

「ねえ、時間がどんどん過ぎるわよ! 無駄な1日を過ごしたらもったいないでしょう? 時は金なり、よ。もう、どんどん行動する!!」

 シーツのはじっこを掴んで、ぎゅーっと引っ張ると、ものすごい抵抗を感じた。どうもあっちからも引っ張って防御しているらしい。往生際の悪いことだ。

「朔也!!」

 咲夜が叫ぶと、山がまたもぞもぞと動く。やがて、一番遠い、ベッドヘッドの辺りが少しだけまくれて、そこからものすごく眠そうな顔が覗いた。

「あのさあ……咲夜?」
 引っ張られることを警戒してか、シーツの裾を顎の下できっちりと握りしめている。

「昨晩、君をお屋敷に送り届けたのって……何時だった?」

「何よ、忘れたの? 深夜2時半よ。パーティーが盛り上がって遅くなったんじゃないの」

 咲夜はけろっと答える。彼女はベイエリアからの帰りの車の中ですやすやと眠っていたのだ。だから、そんな風に言える。

 一方、朔也の方はその車を運転していたわけで。その上、助手席にはこの道40年とかいうベテランの運転手が座っていた。ウインカーの出し方や、ブレーキの踏み方、車線変更まで事細かに指示されて、それはもう教習所の教官よりも酷かった。その上、咲夜を無事に送り届けると、72点という点数が下され、レポート提出の憂き目にあったわけである。
 ここに戻って、疲労度はピーク。すぐにでもシャワーを浴びて寝たかったが、こういうのは一晩寝ればすっかり忘れてしまう。朦朧とした頭で10枚に及ぶレポート「ベイエリア帝国ホテルから一籐木邸までの運転記録」を仕上げ、ようやく横になったのはもう4時過ぎ。空が白んでいた。

「ねえってば! お兄様に特別試写会のチケットを頂いたの。夏公開の新作が5月に見られるのよ。やっぱ、あなたはラッキーよ。こんなにおいしい恋人がいて良かったわね」

 見つめる顔はもうすっきりと綺麗にメイクされていて、目の下にクマなんてない。赤いこの夏新色のルージュを引いた口元が動く。咲夜はベッドに後ろ向きに腰掛けると、振り返って朔也の顔をのぞき込んだ。また潜ろうとする頭を押さえつけると、朔也は恨みがましい声を上げた。

「え〜……、僕はパス。だって、咲夜の観たいのって、またラブロマンスだろ? いいよ、きっと寝ちゃうから。他を当たって」

 朔也がこういうのにも無理はない。丁度3ヶ月前、ぴったりと同じようなことがあり、クライマックスの大音響の中でぐっすり寝入っていたのだから。いくらののしられたところで、性に合わないのだから仕方ない。出来ることならスプラッタでもいいから、激しいアクションが観たい。だいたい、咲夜の兄だって自分が観たくないから回してくるのだろうし。

 しかし、一籐木のお嬢様がこれくらいの断りで聞き入れるはずもない。綺麗にかたち取られた眉をきりりと上げて、睨みをきかせた。

「ちょっと、何てこと言うのよ! 女性の誘いを無下にするなんて、紳士失格だわ。いいわよっ、もう朔也なんて知らない。本気でそんなこと言うなら、もっと素敵な男性を探すことにするわ……!」

 ベッドに腰掛けたままで、足をバタバタする。スリッパから伸びている足には新品のストッキング。服だって、念入りにコーディネートした。1週間も掛かって準備した色々が、素っ気ないひとことでフイにされてたまるもんですか。

 ここにいる朔也と来たら、いつも仕事上のつき合いでは「咲夜様」とか呼んで、とても他人行儀なのだ。誰も入ってこない本社ビルの最上階にある咲夜専用の個室にふたりきりでいても、そのスタンスを崩すことがない。
 立場上は咲夜専属の運転手兼ボディーガード見習い、と言うことになっている。それこそ朝、一籐木の屋敷を出る時から、夜に送り届けられるまでずっと行動を共にしているのだ。……でも。

「せっかくの、オフなのに……」
 そう言いながら、もう一度、朔也の方を見る。でも、すぐに視線をそらしてしまった。

 

 しばらく沈黙が続く。再び話を始めたのは、やはり咲夜の方だった。

「朔也さ、……」
 言わないしようと思っていたけど。ついつい口をついてしまう。

「昨日、お父様の秘書の女性社員に声を掛けられたでしょう? 熱烈に口説かれていたって、もっぱらの噂よ」

 そうなのだ。表向きは咲夜と朔也との関係は秘密にされている。朔也の本当はともかくとして、今の立場は「三鷹沢真之」と言う幹部社員の息子ということになる。縁故入社と言うにはあまりに有能な人材なので誰も何も言わないが、いきなり最上階への入室を認められた彼には羨望とねたみの視線がつきまとう。

「そうよね〜、朔也は将来きっと一籐木の中核に据えられる人間に違いないって。そう言う人に近づけば、おいしいもんね。彼女、美人だし……これでもう、何人目かしら?」
 自分でもどうしてこんなことを気にしてしまうのか分からない。学園で朔也と共に過ごした1年間は、周囲もふたりをそれなりに認めていたから、変な横やりなんて入らなかった。大学は別だったから、朔也の日常など知らずに済んだのだ。

 ……でも。

 社会人になるとそれが変化してくる。朔也は優秀なだけではない。バスケをやっていただけあって、すらっと長身だし、その上日本人離れした彫りの深い顔立ち。甘やかなのに、どこか鋭い眼差し。朔也が社内を歩いていると女子社員が一同に彼を見ているのが分かる。

「おやおや、一籐木のお嬢様らしくもない」

 彼は眠そうな目をしたままふっと微笑んで、腕を伸ばしてくる。咲夜のノースリーブのブラウスの上にかけたレースのカーディガンの裾を、くいくいっと引っ張った。

「こんな美しい人が始終側にいるのに、どうして他の女なんて気に掛けられる? それくらい、分かっているくせに」
 微笑む口元が綺麗なカーブを描く。空いた方の手で伸びた前髪をかき上げた。ばらばらと無造作に落ちてくる様も色っぽい。

「もう……口が上手いんだから」

 思わず見とれてしまったことを悟られぬように、すっと視線を戻した。首筋に感じる吐息が、少し近くなった気がする。でも、そんなことを気にしているように思われるのもしゃくだ。

 朔也が想像以上に女性にモテることは、すごく不安で。いつまで経っても慣れない。表向きは平気な振りしていても、心の中はぐちゃぐちゃになってる。

 それなのに、朔也はそんな自分をくすくすと笑いながら見つめてる。どうしてなの、私ばっかりが不安になるの…?

「おはよう、咲夜」
 咲夜様、ではなくて、咲夜と呼ぶ。ふたりの難しい関係がリセットされて、素に戻る瞬間だ。

「……何よ」
 まだ少しばかりへそが横を向いている。そんなふくれっ面の頬を大きな手のひらが包んでしまう。でも、次の瞬間、ぎょっとして叫んでいた。

「や、やだっ! どうして何も着てないのよ、変態!」

 ゆっくりと身を起こす朔也の身体からシーツが滑り落ちる。朝日に輪郭を綺麗に照らされた肩のラインより下をとても見ることが出来なくて、真っ赤になってしまう。やだ、どうしよう。見慣れてるはずなのに、どうしてこんなにどきどきするんだろう。

「ん〜? だって、シャワー浴びて、もう服着る気力もなかったしさ……」
 下は履いてるけど…? とか不謹慎なことを告げた口元が、そっと咲夜の唇に吸い付いてきた。

「う……んっ!」
 たかがキス、そんなの慣れっこになっているはずなのに。咲夜の身体からはとろとろと力が抜けていく。でも、いつ振りだろう、こんなの。先週は土日も出張で潰れたし、その前は…入社以来、ほとんどプライベートに過ごしていなかったことに今更気付いた。

「……えっ! きゃあっ!!」
 いきなり、支えがなくなる。体勢を整える間もなく、咲夜は横たわった朔也の上に覆い被さっていた。

「ち、ちょっと……!」
 こちらは服を着ている。でも、朔也の方は…あの、何て言うか、すごい格好。上に掛けていたシーツがみぞおちの辺りまではだけて、そして、舞台はと言えば…どこをどう見てもダブルベッドで。慌てて起きあがろうとしたら、背中にぎゅっと腕を回されてしまった。

「あ〜、気持ちいいかも。咲夜の胸が当たる」
 そんな不謹慎なことを言いながら、髪にキスする。何か言ってやろうと首を持ち上げたら、すぐに口をふさがれてしまった。そうしながら、さわさわと右手がブラウスの上から胸を触る。

「ち、ちょっと……やあっ! いきなり何するのよ!」

「いいじゃん〜、久々だしさ。咲夜も欲求不満なんだろ? ちょっと顔がきつくなってるもんな〜」

 いくら細身とはいえ、それなりにウエイトはあると思う。そんな咲夜をおなかの上に乗せたら、重いはずだ。それなのに朔也はそんなことにはお構いなしに、もうスタンバイの状態で。いや、これはまずいだろう…いくら何でもまずいだろうと、咲夜は慌てて頭の中を引っかき回した。

「ね、ねえ……! こういう時に、普通だったら惣哉さんが飛び込んでくるはずじゃない? どうして来ないの? 確か今朝、出張から戻ったはずでしょう?」

 惣哉は学園のデイケア私設の運営が本格化したことで、一籐木の仕事からは完全に手を引いていた。咲夜のボディーガードではないのだ。とはいえ、一籐木は惣哉の副理事長をしている「藤野木学園」にとっては大切なグループだ。学園そのものが傘下のひとつなんだから当然のことで。
 だから、相変わらずふたりに対する執拗な干渉は続いていた。でもそれもこのごろでは、やんごとなき理由から少し手抜きになっているのかも知れない。

「うん?」
 朔也は咲夜の首筋から唇を離すと、面倒くさそうに言った。

「惣哉は、戻るなり部屋に籠もりっきり。何しろ1週間ぶりだからな〜もう朝から盛り上がっているんじゃないの? あそこがお盛んなのは、既成事実を見れば明らかでしょう……?」

「は、……はあ」

 まあ、確かに。

 屋敷に入った時に、リビングの方から赤ん坊の泣き声やら、子供の走り回る音やら奇声やら聞こえた。本来ならあちらにまずは声を掛けるべきだろうが、あのギャングたちに捕まってはたまらない。長男の春哉は4歳で悪戯盛りだし、下の兄弟たちも兄を見て育つのだから、たまらない。
 だいたいあの夫婦は子供を放って何楽しんでいるんだ。親としての自覚が足りないんじゃないかと不安になる。そんな男が自分の元恋人だと思うと咲夜は内心複雑になった。

「いくら、惣哉が年だからって、あんなに急ぐことないのになあ。ちゆ先生、結構辛そうだけど? あんなに立て続けに産まされちゃ、身体がもたないよ」
 そう言いながら、自分は何をしているんだ。ブラウスのボタンを器用に外していく。別にそんなことを期待して、前あきの服を選んだわけではないのに。だんだん、抵抗しようと言う意識が薄れていく。朔也のけだるさが伝染して来るみたいだ。

「あんっ……、駄目よ。こんなところでっ……」
 必死に身をよじるが、だんだん声に力が入らなくなっていく。

「咲夜、声が響くから、抑えてよ? …ふふ、何緊張してるの? 久しぶりだから? …可愛いなあ、お嬢様は」

 朔也の手がするすると下に伸びていく。そして、その表情が、あれ? と言う色になった。

「え? 何……これ、どこ?」
 明らかに動揺が見える。咲夜も訳が分からず、その顔を見つめた。

「ここ、腹の辺りだろ? どうしてこんなに毛が生えてるの……で、すごいぷにょぷにょしてるけど。太った?」

「し、失礼ね!! …っていうか、朔也、私に触ってないわよ? ……??」

 ムキになって言い返してようやく気付く。さっきから、何だか変だなと思っていた。おなかの辺りに感じていたこのぺっとりとした感触、どう見ても朔也じゃない。……じゃあ、何?

「……え?」
 咲夜が慌てて身を起こして、はだけたブラウスの前を押さえると。朔也は自分の下半身に掛けていたシーツをばっと開けた。

 

「ば〜〜〜〜っ!!! さっくやあ〜〜〜〜!!!」

「げっ!! 秋っ!!」
 朔也がそう叫ぶ前に、まん丸な肉弾が飛びついてきた。

「あそぼ〜〜〜、ちちうえとははうえ、だめなの〜〜〜」

 

 いつからいたんだ、これ。

 咲夜のあとに部屋に入ってくる物音はしなかった。じゃあ、最初から? ずーっと潜って聞いていたのかっ!? もしかして、一部始終……、それはやばいような気もする。自分たちがどこまでの台詞を言っていたか、考えてみたが、頭の中は真っ白で何も浮かんでこない。それにしても惣哉に似ている赤ん坊だ。

「これ、秋? じゃあ、三番目?」
 思わず聞き返してしまった。何しろ、この東城家の孫たちは年子で、並んでいれば微妙に体格が変わるものの、ひとりずつ出てこられたら区別が難しい。居候している朔也ならとにかく、たまにしか来ない咲夜にはお手上げだ。顔だって、判を押したようにそっくりなのだし。

「うんっ! あきのりですっ! あそぼ、ちゃーちゃまっ!!」
 無邪気な笑顔で咲夜の手を引く。呆然としていると、背後から大きなため息が聞こえた。

「はあ……まさか、全てを予測して送り込まれていたんじゃないだろうな。さすが、惣哉……う〜〜〜〜っ!」
 がしがしと頭をかいて。それから観念したように呟く。

「先に下に行っていて、咲夜。僕、支度するから」
 まぶしい日差しの注ぎ込んでくる大きな窓をバックに、情けない顔で朔也が笑った。

「分かったわ」
 そう言いながら、立ち上がって。肉の塊を抱き上げる。うわ、重いぞっ! でも幸さんは、右手と左手にふたり抱えて、逃げる子を追いかける、何て言う荒技もしてる。さすが、スーパーお手伝いさん。全然衰えというものを知らない。

 

 シャワールームに消えていった朔也のいない風景に、窓越しの木の枝が影を落とす。気持ちいいほどの上天気だ。

 ……それにしても。

 一体、この続きはいつになったら出来るんだろう? なかなかムーディーにはならないものねえ……。

 そんなことをふと考えて。咲夜はドアのレバーに手を掛けた。

 

 

おしまい(030527)

ちょっと、ひとこと
こそこそこそっと…20万打記念です(笑)。見事GETして下さいました柴崎まつり様(サイト☆Man and Woman)ご贔屓のふたりを書いてみました。いやあ、キリ番なんて設定してなかったのですが、2周年アンケートでもいくつかリクエストが来てましたし。お友達と言うことで、つい…。
本当はこれ、惣哉さんサイドの話で…出張帰りのだんな様と育児疲れの奥様のほんのりあまあまの話だったんですよね。でもまあ、名前しか出てこないのに、何故にすごい存在感。
久々に咲夜の視点で書いてみましたが(…もしかして、本編のシリーズ以来でしょうか?)、彼女も随分と俗人になりましたね。あの気高いお嬢様はどこに行っちゃったんだろう(苦笑)。今度はこのふたりの高校生バージョンの話が書いてみたいなあとか思いますが、今のところネタはなし。そのうち、何か思いつくといいのですけど…。
ああ、私もどこかでキリ番踏んでみたいなあ〜綺麗に並んだ数字、気持ちよかったろうな。ではでは、柴崎さん、本当にありがとうございました☆ 申告嬉しかったです。


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