TopNovel「赫い渓を往け」扉>月のひとひら


「赫い渓を往け」番外編

…本編終了から約1年後の朔也と咲夜のお話です…


 周囲を木々で囲まれたドーム型の建物。冬の終わりの日差しに照らされて、ガラス張りの外装が反射する。遠目に見たらプラネタリウムかと思ってしまうここに足を踏み入れたのは今日が初めて。いつも通学で車が通るルートからは外れているものの、自宅からそれほど離れていない一角にこんなものがあったなんて。
 木漏れ日の落ちている細道は、夏の盛りには素敵な涼みの場所になるに違いない。とはいえまだまだ吹き抜けていく風は冷たくて、思わずコートの襟元を押さえた。

「朝の9時半に待っているから」――そんな短いメールが届いたのは昨日の晩のこと。
 昼間出先でちらっと会ったときにはそんな素振りはなかったのに、どうしたのかなと不思議に思った。進学先が決まって一息ついてる自分とは対照的に、彼の方は国立二次試験の追い込み。表面上は何気ない様子でも、かなりのプレッシャーだと思う。こちらとしてもどう接したらいいのか分からなくて、ついつい距離を置いてしまっていた。
 高等部3年生は2月の始めから自宅学習に入っている。数回の登校日はあるものの、あと制服に袖を通すのもわずかになった。「部活を引退したら、身体がなまっちゃってさ」……そんな風にぼやいて彼はマウンテンバイクでどこまでも出かけていく。さらに、最近はジョギングも始めたというのだ。よくもまあそんな余裕があるものだと呆れたが、彼にとってはそれも息抜きのひとつだという。
 この建物を見つけたのも、その途中だったらしい。ここは彼が居候している東城家の屋敷からは10キロ以上は離れているのではないだろうか。しかも結構アップダウンがある道行きで、想像しただけでうんざりしてくる。こんな風に体力の差を見せつけられると、やっぱり敵わないなと思ってしまう。

 体育会系と言う言葉にはほど遠く見える彼。すらりとした外見で肌も白くて、どうかすると軟弱っぽい印象を受ける。だが、実は着痩せをするたちだったらしく、初めて夏服から覗いた腕を見たときにはどきりとした。
「恋人」と認識される距離にいても、産まれも育ちもかなり違っているふたりだから始終新しい発見がある。咲夜にとっての彼はそろそろ出会って一年になろうというのに、未だに謎の多い人物だ。こんな風に予期せぬ誘いを受けたりすると、さらにそんな気分が高まる。

 ――なんだろう、一体。

 まあ、思い当たることが全くないわけではない。こちらとしても、ふたりきりで会いたいと思っていた。だから、ちょうど良かったのかも知れない。大きめの紙袋を下げて、彼女は建物の扉を開いた。

 

「……お邪魔します」

 もともと一般に開放されてる場所だからと言われていたが、ついそうやって声を掛けてしまう。ドアの向こうは虹色のグラデーション。ここがどんな建物であるかは教えられていたが、これほどのものだったとは。一段下がったところに奥の方まで一面のバラが咲き誇っていた。ガラス越しに注ぎ込む日差しにくすぐったそうに揺れながら、露を含んだ花弁がまるで囁いているよう。
 空調のためのファンが回るかすかな微動の他は物音ひとつしない。平日の朝だから訪れる人もいないのだろう。彼はもう来ているのか。だったら、声くらい掛けてくれてもいいのに。

 建物の壁に沿うようにぐるりと通路が設けられていて、花を一段上がったところから観賞出来る趣向だ。さらに花の間にも道が造られている。趣味がこうじてとうとう造ってしまったという素人の所有物だと言うが、とてもそうは思えない。やはり世の中には自分の想像を超える者がたくさんいることを思い知らされた。花の盛りにはアルバイトを雇って摘み取り出荷もしているそうだが、その跡も見えないほどの美しさである。
 どれくらいの高さがあるのだろうと、つい天井を見つめてしまう。確か一籐木の本社ビルのエントランスが5階までの吹き抜けだと聞いていたが、それよりはいくらか低いだろうか。建物の内部は想像していたよりも広々としていて、小さな野球グラウンドがすっぽり収まってしまいそう。口コミで近所の密かな人気スポットになっているというのも頷ける。灯台もと暗し、とはこのことか。

「ええと……突き当たりの柱のところだって言っていたわよね?」

 入り口から見て反対側になる場所は、すぐに確認出来る。天井から放射状に伸びたシルバーの柱が、あちら岸を示していた。香りの絨毯は、赤から橙。黄からクリーム、さらに淡いグリーンへ。自宅にもバラ園はあるし、そもそもこの花はゴージャスの代名詞のようなものなので、式典会場などにはいつも置かれている。たくさんの種類があることも知っていたし、咲夜にとってはそれほど珍しいものでもない。
 そうは言っても、これだけのボリュームをいきなり見せられたら参ってしまう。むせかえるほどの香りに目眩を覚えつつ、グリーンとクリームに配色された煉瓦敷きの通路を進んでいった。

 

◆◆◆


「……やあ、ようこそ。さすがだね、時間通りだ」

 彼は咲夜の姿に気付くと、こちらに向き直って微笑んだ。
 歩道の隅に腰掛けて花を眺めていたらしい。彼の背後にあるのは淡い紫の花で、あまりにも似合いすぎていて気味が悪いほどだ。バラを背中に背負って登場する男なんて気色悪いと普通は思うが、日本人離れした彫りの深い顔立ちにはしっくりと溶け合ってしまうから侮れない。

「だ、大丈夫なの? こんなところで油を売っていて。また、惣哉さんに叱られるわよ?」
 まさかその姿に見とれていたなんて、悟られるわけにもいかない。素っ気ない風にそう呟くと、彼女も彼の傍らに腰掛けた。花壇の方にせり出した縁側のようになっている通路なので、足を伸ばすことが出来る。座ってしまえば、目の前は緑色で染まってしまうが、それでもいいと思った。

「だって」

 くすくすと笑いながら、髪をかき上げる。額に落ちた前髪も柔らかなウェーヴで、ミルク色の肌色とよく似合っているブラウン。目鼻立ちの整い方もさることながら、とにかく全体的にバランスのいい姿なのだ。
 幼い頃から、賛辞の言葉には慣れきっていた咲夜も、この男と出会ってからは自分の価値観が変わっていくのが否めない。並んで歩けば、彼の方に視線が集まる。知らず、嫉妬してしまうほどに。

「咲夜に渡したいものがあったんだ。そりゃ、明日はまた会えるけどさ、あまりに人間が多いところだと嫌だったし。後回しにするくらいなら、先に出しちゃおうかなって」

 明日からは3月。その初日に、ひな祭りのお祝いを兼ねてちょっとした食事会を咲夜の自宅で催すことになっていた。あまり仰々しいものではなく内輪だけの集まりだが、そこに彼も招待している。東城家の人間を残らず呼んでいるからという理由もあるが、何よりふたりにとっては特別の日であるから。

「ふうん、そうなの」
 こちらも何気ない振りで答えるが、やはり鼓動が早くなっている。

「私も持ってきたから。ここで交換しちゃう?」
 大切な用事は先延ばしにせずにさっさと済ませてしまいたい性格だ。咲夜は紙袋から包みを取り出すと、両手で差し出した。中身よりもかさばるラッピングなのがちょっと恥ずかしい。

「一足先に、お誕生日おめでとう。……気に入って貰えるといいのだけど」

 彼もこんなシーンを予想していたのだろうか。それを感慨深そうに受け取ると、今度は自分の脇に置いてあった包みを取り出す。驚いたことに、ふたつの箱は偶然にも同じような深紅の包装紙で飾られていた。大きさはかなり異なるが。

「じゃあ、僕からも。誕生日おめでとう、咲夜。……って、女性はギリギリまで歳は取りたくないって言うか。ゴメン、まずかったかな?」

 照れ笑いを浮かべつつ差し出された箱。それを受け取ると想像していたよりもずっと軽いことに驚いた。大きさも何となく中途半端。アクセサリーにしては大きすぎるし、スカーフやバッグには小さすぎる。ティッシュの箱を二回りくらい小さくしたような感じだ。
 不思議そうに彼を見上げると、恥ずかしそうに目をそらしてしまう。

「えと、……じゃあ。最初に僕から開けていい? こっちの方が少しだけ年上なんだよな、これでも」

 そんな風に言いながら、リボンにかかる長い指。爪のかたちまでなんて綺麗なんだろうと見つめてしまった。きっと、彼のそばに行きたいと願う女性は今までもこの先もたくさんいるはず。こうして、ずっとふたりでいられる保証なんてどこにもないのだ。……ああ、駄目。どうして、おめでたい日にそんなことを考えてしまうのかしら。

 ふたりの心にはピリオドを打ったひとつの恋物語が眠っている。誰にも語られることのない密やかな出来事の果てに、自分たちは存在しているのだ。

 ――同じ日に生を受けたふたつの命。ふたりが出会ったのは作為的なものであったかも知れないが、始まりのその瞬間だけは偶然だったと信じたい。きっとあの出会いがなくても、どこかで必ず巡り会っていた。魂が呼び合うように、必然的に。

 2月29日生まれ……、4年に一度しかない特別な日に生まれたふたりだから、今年のカレンダーに自分たちの誕生日は存在しない。今度その日をぴったりに祝うのは、20才のその日まで待たなくてはならないのだ。まあ、だからといって毎年の誕生祝いが行われないはずもなく、家族の予定に合わせて前後することはあっても、忘れられることなどなかったが。
 産まれ時間までは一緒にはならなかったらしく、お互いのそれを示しあったら彼の方が3時間だけ早かった。それだけのことなのに、なにかにつけ年上の顔をするのが可笑しい。

「うわ、……こう来たか」

 悩みに悩んだ末に決めたプレゼントであったが、こうして相手の目にさらされる瞬間とはどうしても直視出来ない。どんな反応をしてくるのか予想のつかない彼が喜んでくれるかがとても不安だった。
 大きめで厚みの少ない箱から出てきたのは、落ち着いた色合いのネクタイと、真っ白なワイシャツ。吟味した内容のはずなのに、周囲の花に負けて何となく貧弱に見えてくるのが悲しい。

「えと……ね、一応シャツもネクタイもオーダーなの。朔也、昨春藤野木学園の制服を作るときに採寸したでしょ? それを元にシャツを作ってもらったのよ。ネクタイは手織り作家さんにお願いして、デザインを考えたの」

一見するとシックな無地に見えるが、使用した布は様々な糸を織り合わせた特注品だ。それを朔也の体型に合わせて、少し長めに仕立てて貰った。ネクタイの長さは市販品はほとんど一緒なので、平均身長よりもかなり高い彼には短すぎる。二本の長さのバランスでそれなりに加減は出来るが、一本くらいジャストサイズがあってもいいと思った。さらにスレンダーな体型に合わせて、微妙に細くしてある。

 ――海のような蒼がいいと思った。光の加減で見えることのある、彼のもうひとつの瞳の色が忘れられなくて。

「大学の入学式はスーツでしょ? だから、上下まとめてプレゼントしてもいいと思ったんだけど……きっとそれは朔也のご両親が準備なさるだろうなと考えたの。だから私は中身だけ。……でも、合格しないと使えないね」

 そんな風に説明しつつも、実は自分の膝に置かれた箱の方が気になって仕方ない。一体何が入ってるんだろう、期待と不安で胸が一杯になっている。

「言ってくれるなあ……、そう言うのが受験生には禁句だってもう忘れてるだろ。ま、……な。見てろよ、期待以上の成果を見せてやるから」

 言葉ほど威嚇する気持ちはないらしい。微笑みがこぼれる口元でそう告げると、箱のふたを元のように閉じた。その声にはいくらかの自信もうかがえる。もう私立の合格通知はいくつも貰っているのだ。

「じゃあ、僕の方も見てよ。こんな金のかかりそうなブツを見せられた後じゃ、ちょっと気が引けるけど……これでもかなりの苦学生だから勘弁しろよな。もうさ、想像もつかないよ。だって、咲夜は何でも持ってそうだし、欲しいものなら何でも手に入る環境だし……。何を贈ったって、駄目かもなとか」

 受験生の彼にはバイトをしてプレゼントの資金を稼ぐ暇などない。学園に通っていた頃は、週に何度かの予備校通いで午前様になることすらあったというのだから。普通の人間なら、とっくに音を上げていると思われる状況で頑張ってきたのだ。その努力が報われないと可哀想だなと思う。

「そんな……朔也が想像するほど物持ちじゃないわよ、私は」

 そう切り返しながらも、実は自分の所持品のレベルがどれくらいなのか分からない。通っている学園も良家の子女が集まることで有名な場所で、そこで幼稚部から過ごした。一般的なレベルからはかなりかけ離れた状況にあることに気付いたのは、目の前の彼と出会ってからである。

「またまた。その辺で安売りしてる既製服なんて着たことがないお嬢様がよく言うよ」

 彼は首をすくめると、また笑い声を上げた。本当に不思議な人間だと思う。自分に対して最初から少しも遠慮するところがなかったどころか、誰も踏み込んできたことのない心の内側をどんどん進んでくる。まっすぐな瞳は吸い込まれそうで、「眼力」という言葉を思い出してしまう。
 促されるままに包みを開いて、そこで咲夜の手が止まった。

「ええと、……これは何?」

 深紅の包みから出てきたのは、かなり安っぽく見える純白の化粧箱。オルゴールのように上蓋を開くと、中は左右ふたつに分かれていた。右手にはハート型のペンダントトップのついたチェーン、でも鳥かごのようなトップの中身は空っぽ。そして、左手は……缶詰?

「『ウィッシュ・パール』って、知らない? アメリカでブレイクしたらしいんだけど、世界にひとつだけのアクセサリーっていううたい文句なんだって。すごいよ、何しろそのパールを目にするのは僕たちが初めてなんだから」

 そんな風に説明されても、どんな風に反応したらいいのやら。缶詰を贈られるなんてさすがに初めてだったし、その中身が貝に入った真珠? こんなのって、本当にあるの……?

「中のパールもホワイト、ゴールド、クリーム、ピーチ、ラベンダーの5種類があって、どれが出てくるかは見てのお楽しみとか。確か、それぞれにいわれがあるんだよ?」

 上蓋の中に簡単な説明書きのリーフレットが入っているのに気付いた。それを広げてみて目を通す。何でも古代、南の島で「愛の伝説」とか言われていた話をベースに作った商品らしい。真珠貝の中で3〜5年の歳月を掛けてゆっくりと育ったパール。それを薬品液に浸して缶詰にしたと書いてある。
 ホワイトは「知恵と純潔」、ゴールドは「富」。クリームが「成功」、ピーチが「健康」でラベンダーが「愛」……名前の通り「願いの叶う」真珠と言うことのようだ。

「ふうん……、こんな貝の中で真珠を育てるんだ。外側から見ると、そんな風にはとても思えないわね」

 缶詰の側面は透明になっていて、中が透けて見える。液体の中に沈んでいるのはのっぺりとした薄い貝だった。蛤をいくらか大きくした感じ、二枚貝だ。色は黒に近い。本当にこの中に「世界でひとつ」の真珠が入っているのだろうか、とても想像出来ない。

「まあ、開けてみようよ。さすがにちょっとグロいから、貝を開けるのは僕の仕事にさせて。ほら、ちゃんと道具もついてるだろ?」

 彼が手にしたのは、プラスチックの小さなヘラ。それでぴったりと張り付いた貝の口を周囲から開いていくようだ。かなり原始的な方法……それも粋な趣向だということか。手を汚さないように小さなビニール袋までついている念のいれようだ。

 プルトップに指を引っかけて缶を開けると、何とも言えない独特な消毒液の匂いがした。防腐のためなのだろう、何だか理科の実験をしている気分になる。ぬらぬらと輝く貝を彼は取り出すと、ビニール袋に包んですっとヘラを差し入れた。

「うーん、これって結構難しいかも? 少しぐらいはフチが割れても平気なんだろうなあ……」

 こんな風に貝の口を開けていく様子を、どこかの漁港の風景で見たことがある。もちろんTVの画面の中の出来事であるが。専用の道具を使った熟練たちは鮮やかな手つきで次々に中身を取り出していたが、素人ではそうはいかない。でも慎重に進めていき、ようやく中身が姿を見せた。

「あら、……本当に貝なのね?」

 思わずそんな言葉が出てくる。普通に食事に出てくる貝のように、アイボリーの貝肉が見える。そして、その中から、ころんと小さな輝きが出てきた。

「へえ……白かぁ、それに綺麗な球体だよ。見本に飾られていたのは楕円形だったし、淡水のパールでこんな風に完全な球体にするのは難しいんだって……驚いた」

 初めて見る光景に、彼も子供のように感激している様子だ。真珠のアクセサリーなど見飽きているが、こんな風に最初に貝から取り出すところから自分の手ですることは稀だと思う。思っていたよりも感動的なシーンで、胸が高鳴った。

「知恵と純潔……ねえ。本当に咲夜にぴったりかも。どう、付けてみる?」

 彼はチェーンからペンダントトップを外すと、それをふたつに開いた。中にパールを入れると、元通りに戻してチェーンに通す。たった今完成した、真新しいジュエリーだ。

 後ろの髪を上げて、と言われて、慌てて垂らしたままのウェーヴヘアをかき上げる。今日は胸元の開いたニットを着てきて良かった。鎖骨の上に、それはちょうど良く収まる。

「綺麗……、どうもありがとう」
 他に何も言葉が浮かばずに、何ともありきたりな反応になってしまった。辺りにはバラの香りが広がって、ムードも満点。誕生石ではないけれど、やはり人の手を加えられていないこの天然のジュエリーはいいなと思う。……ううん、彼から贈られたものだからこそ素敵だと思えるのかも知れないが。

 肩に置かれた彼の手。その片方がそっと外れて、咲夜の顎に掛かる。顔を上げるとそこには、まぶしいばかりの笑顔。

「……いい?」

 そう訊ねられるたびに思う。何故、確認するんだろう、こちらの答えなど分かっているはずなのに。月の聖人に魅せられた人間が、その誘いを断れるはずはない。

 静かに目を閉じると、柔らかく唇が重なり合った。

 

◆◆◆


「ここ、夜の庭って言うんだって。綺麗な色だよね、淡いラベンダー色なんて、洒落てる」

 そっと肩を寄せ合って、しばしまどろむ。彼にあまり時間がないことは分かってるから、あまり引き留めることは出来ないだろう。だけど……もう少しだけ、こんな風にしていたい。鼓動が重なり合って、まるで心臓がひとつになってしまったようだ。

 バラ園がいくつかのエリアに分かれていると言うことは、通路を進みながら気付いていた。奥に進むごとにその色は落ち着きを見せ、そのまま静けさの中に沈んでいくよう。そうか、花の配列は夜明けから日没、深夜までを意味していたのだ。

「うん……、綺麗ね」

 重ね合った手のひらが、永遠にほどけることがなければいいのにと願う。でもそんなことは無理。それに春が来れば、ふたりは違う学校に通うことになり、今までよりもずっと共有する時間が少なくなる。そんな状況に自分は耐えきれるのだろうか、想像すると怖くなってしまう。
 出会えただけで、奇跡だった。それならば、その先は何と表現したらいいのだろう。長く長くどこまでも続いていくふたりの道が、いつまでも離れることなくぴったりと寄り添っていればいいのに。今はそれを深く願うことしかできない。

「あのね、咲夜。実はもうひとつ、プレゼントがあるんだけど……ちょっと右手を出してくれる?」

 差し出した上に、しゃらんと銀色の鍵が置かれた。どこかで見たことがあるような、ないような……何とも古めかしいかたち。

「春になったら、渓に行かない? ……もちろん、僕の試験がすべて終わってからだけど。それまで、これは咲夜に預かっていて貰いたいんだ」

 緊張しきった声でそこまで言い終わると、彼は咲夜の肩を抱き寄せた。耳元に響く鼓動が、どくどくと高鳴っている。熱い音色がそのまま彼の心を示しているようで、覚えず胸が震えた。――それって、もしかして。

「……惣哉さんが許してくれるかしら? 絶対に無理だと思うけど」

 さりげなくそう切り返すと、彼は喉の奥でくすっと笑う。でも、それ以上の言葉はない。その代わりに、柔らかく指を絡めてきた。

 

 心の中に降り積もっていく、期待と不安たち。まるで空からこぼれた花びらのように。きっと、それは月が落とした溜息。届かない遠い場所から、今もふたりを見守っている。大丈夫だよと、背中を押してくれるように、優しく。いつも背後から注いでいた忘れられない眼差しが、目の前の彼の瞳の色に重なる。

 ――始まるんだ、と心の内側から声がした。ぬくもりに身を預けたままで、瞳を閉じる。今はまだ春の浅い山裾の風景が瞼の裏に浮かんできた。


 

 

Fin(050113)

 


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