「竜王……様」
沙弓は大きく目を見開いていた。
彼女の中で、なにかが大きく動く。それまで、この地が「海底」だと言われても、心のどこかで疑っていた自分がいた。皆が自分を大げさに担いでいるのではないかとも考えていた。
しかし、その想いが今、すべて一掃される。
心の奥深く、一番神聖な場所が、目の前のすべてを受け入れようとしている。紛いものであるはずはない、今あるものこそが真実だ。
「――いかにも。そして、お前が噂に聞く『天からの使者』なのだな」
深い闇色の瞳で見つめられると、心までが透けてしまいそうだ。沙弓が思わず身震いをすると、老人は低く笑った。
「まあ、そこに座りなさい。ちょうどひとりで退屈をしていたところだ、話し相手になってもらおう」
美しい切子のグラスが目の前に置かれる。老人は傍らの瓶を手にすると栓を抜き、器用な手つきでふたつのグラスを満たした。その一連の動作から、彼が視力も指先の感覚もまったく衰えていないことがわかる。深く皺の刻まれた手がグラスを持ち、こちらに緩く傾けてきた。
「どうだ。お前の住まう場所では、こうして杯を交わす習慣があるのだろう?」
屈託のない微笑みを浮かべる口元は、彼の存在をさらに神々しく他に代えようのないものにする。沙弓は導かれるままに目の前のグラスを持ち、彼のものと軽く合わせた。
「おお……良い音だ」
彼は満足そうにそう告げると、グラスの液体を一口含む。沙弓もそれに倣ったが、それは驚くほど強い果実酒であった。
「おや、まだ大人の味に慣れていない様子かな」
老人は興味深そうに沙弓を見守る。学生という身分でもあり、成人したあとも酒はたしなむ程度。それもパーティなどの公の席での乾杯のシャンパンくらいに控えていた。
そのことをあっという間に言い当てられてしまったようで、なんともばつが悪い。
「しかし、美しいお嬢さんだ。これではあの若造も調子が狂うのが当然だな、なんとも愉快なことよ」
あの若造、という言葉が誰を指しているのかはうっすら感じ取れた。
この地に住まうすべての者が、この人にとっては若輩者ということになるのだろう。上背はかなりあるものの身体の線は驚くほど細い形(なり)であっても、彼の内側には他の者を寄せ付けない強靱な意志が感じ取れた。
――それにしても。
沙弓はなんとも落ち着きのない、不思議な感覚を味わっていた。
竜王と呼ばれる人が、このような狭い部屋にひとりきりで籠もっているとはどういうことであろう。南所のあの男ですら、始終大勢の使用人たちに囲まれて過ごしている。
「なにか、気になることがおありかな?」
あたりに視線を泳がす沙弓の目の動きを追いかけるように、彼は静かに迷いのない言葉を向けてくる。
「心配には及ばない、私はひとりが好きなのだ。以前はそうではなかったが、先年に連れ合いを亡くしてからは孤独が楽しめるようになった。……いや、そうではないな。孤独な自分をようやく受け入れられるようになったというべきか」
彼はそう言うと、またグラスを少し傾けた。うす桃色の液体が、小さく波打つ。
「この土地の者たちの寿命は、お前が住む場所よりも短い。それを考えれば、長く連れ添うことができたと感謝すべきであろう。ただ、唯一の心残りは最期のときを共に迎えられなかったことだ。そしてようやく気づいた、人はひとりきりで生まれ、ひとりきりで死んでいくということを。長く生きすぎているようで、まだまだ知らないことが多くある」
地上に残してきた自分の祖父母といくらも歳の違わないように見えるこの人が、ときに大きく、ときに消えそうなほど弱いものに感じられる。ゆらゆらと波間を漂う如く、ふたつの相反する人物像が沙弓の中で交差した。
「お前の中にも、たくさんの迷いがある様子だな」
「……え?」
沙弓は何度か瞬きして、彼の顔をじっと見つめた。そのようなことをしては失礼に当たるのだろうかと躊躇いもあるが、どうにかしてこの人の中から真実を見つけ出したい。しかしどんなに目を凝らしたところで、澄み切った瞳からは穏やかな静寂が伝わってくるだけであった。
「だが、迷いの中から必死で立ち上がろうともしている。なんとも強い女子であることよ」
謎解きのような言葉たちが次々に紡ぎ出され、そのたびに沙弓の心の弦が一本ずつ音を立てる。
「さすがは、百年目の姫君と言われるだけのことはあるな」
「ひゃ、百年目の……それって、どういうことですか?」
『天からの使者』という呼び名には、今だ違和感は覚えるものの次第に慣れ始めていた。だが、ここでまた新たな呼び方をされることになるとは。自分はいったい、どれだけ大層な人物と捉えられているのだろうか。
「ほう、……まだそこまではたどり着いていなかったか。開かずの扉のことは、すでに存じているか?」
「開かずの……ええ、その話は聞きました」
堅く封印されていた扉が、なんの前触れもなく突然外側から開けられた。竜王の結界をも破り、この地に「落ちて」きたことが、救世主として祭り上げられてしまったゆえんである。
「今を遡ること、百年前。ちょうど、お前と同じように落ちてきた女子があった。その者もまた、陸の住人だったのだよ」
「そう……だったんですか、そんなことがあったなんて」
「当時はずいぶんと噂になったものだが、今では誰からも忘れ去られてしまった出来事だ」
そこまで告げると、竜王は少し細めた目で沙弓を見つめた。
「お前はその女子とゆかりのある者なのだろうか」
「え?」
「いや、ふと思っただけだよ」
彼はまた、グラスの中の液体に目をやった。
「皆が忘れ去った、……と言うよりは思い出さないようにしているうちに記憶から転げ落ちていったのかも知れない。肖像画のひとつも残っていないのだから、今となっては確かめる術はないがな」
胸の奥に刺さった言葉をひとつひとつ引き抜くような、押し殺した声であった。沙弓は今まで、誰かがこんな風に話すのを見たことはない。どこまでも秘密めいていて、だからこそ目をそらすことができない。
「私の――祖母であった御方なのだよ」
どこか遠くで鳥の啼く声がする。しんと静まりかえった部屋で、ふたりはしばらく押し黙ったままでいた。
「あなたの、……お祖母様?」
「左様、もっとも私の母がまだ幼い頃に亡くなってしまったのだから、一度もお目に掛かったこともない。私は末子であることもあり、祖父の顔も知らない。早くお目に掛かりたいと思っても、なかなかお迎えが来ないのだ」
ただ静かに命を長らえ、終焉の時を待ち続ける。このくらいの年齢になった者なら、抱いてもおかしくない感情なのだろうか。だが、沙弓には彼の考えも、その老いた身を取り巻く環境も、自分の想像し得ない不可思議なものに感じていた。
「この世界は壊れかけている。このまま終わりを迎えるのか、再建の時を迎えているのか、それも定かではない。疫病が蔓延し、民は苦しんでいる。だが、私ひとりの力ではもはやどうすることもできないのだ」
「そんな……」
「まあ、弱音を吐いたところでなんの解決にもならないが。……これもまた、老いぼれの戯言だ。聞き流してくれればそれでいい。それに一番辛いのは私ではない、皆の期待を一身に背負っているあの若造なのだからな。それと比べたら、私の苦しみなどたいしたことはない」
沙弓の胸にもまた、なにかが強く突き刺さっていた。その鈍い痛みが、やがて身体全体に広がっていく。
「私は……戻らなくてはならないのです。元いた場所へ、必ず」
膝の上で、握り拳を作る。自分の意識を強く持つためには、それくらいの方法しかなかった。
「そうであろうな、……まあ戻りたい場所があるということは幸いなことだろう。そしてその気持ちがお前自身を支えることになるのだ。強い意志がなければ、人は立ち続けられない。希望の火は決して絶やすことがあってはならないのだよ」
竜王の言葉は、まるで自らに対して話しかけられているように思えた。
「今まで、この国の荒廃ぶりを憂い、あまたの知識人がその原因究明に乗り出してきた。だが、大切なのはすでに起こってしまったことについての検証ではない、そんな風に犯人捜しをしたところで埒があかない。この先をどうしたらいいか、勇気を持って踏み出そうという者はなかなかいない。皆、苦しむことに慣れすぎて、そこから抜け出す手だてを考える気力もなくなってしまったのだ」
「……あなたご自身は、どこかに突破口があるとお考えなのですか?」
「さて、……どうであろう」
老人は呟くようにそういうと、眼差しを窓の外に移した。
「この地が病んだ原因を、百年前の出来事につなげようとする輩も多い。しかし扉は再び開かれた、だから私はそこになにか意味があると思っている。……そうだな、あの者なら私よりも多くのことを見知っているかも知れない」
「あの者?」
「お前も数日前に出会っているであろう、東の祠の守り人に。行き詰まっているなら、ゆっくり話を聞いてみてはどうだ。書物から得る知識だけでは限界があるだろう。なによりもお前には時間がない」
彼の言うことはもっともだった、だが沙弓は力なく首を横に振る。
「でも、あの場所までの道のりは私ひとりで歩くことはできません」
空気の薄い街道では、あの男と少し離れただけで息苦しくなった。ひとりで向かうことを考えたら、気が遠くなってしまう。
「その時のために、このようなものがあるのだよ」
竜王は傍らの小引き出しのひとつを開けると、そこから小さな布袋を取り出した。綺麗に編まれた組紐で口を閉じ、それを長く伸ばして首からかけられるようになっている。
「これは特別の手法で作られる護り石と呼ばれるものだ。道中、お前を助けてくれるだろう。陸の人間はこの地では生きながらえるのが難しい、だがいくつかそれを乗り越える方法もあるのだよ」
それから彼は、元のように引き出しを閉じながら付け加えた。
「このことは、あの若造には内密にして欲しい。老いぼれが余計なことを入れ知恵したと思われては面倒だからな」