戻りの風・扉>空のとなり・番外 |
そらがゆれて。くもがゆれて、きのえだがゆれて。それをみてると、ゆうがたになる。からすがなくから、かえろう。おうちにかえろう。 …わたしが、かえるのは…どこ?
◇◇◇
上を向いているといろんな「青」が頭の上を行ったり来たりする。
…ああ、そうか。いつもこうやって待っていた。久しぶりにブランコなんて乗ってみたけれど、あの頃と少しも変わらない空の色が頭の上に広がっていた。 これから、どうしたんだっけ。 はるかな記憶を辿っていく。空がだんだんピンク色に染まってきて、赤々と燃える夕陽が山の向こうに沈んでいく。春のお彼岸過ぎの夕暮れは駆け足で、さっきまで明るかったと思ったらもう日暮れになっていた。周りで遊んでいた子供たちがひとり、またひとりと家に戻っていく。いつの間にか誰もいなくなっていた。 気がつくと街全体が赤い水の底に沈んでしまったようで、急にもの悲しくなってくる。 ひたひたと胸に満ちてくる赤。自分の腕が手のひらが、真っ赤に染まっていく。胸の奥がきゅーっと締め付けられるみたいに、痛くなって。そして、そのギリギリの時間に耐えていた。 「…唯子」 ハッとして振り返る。次の瞬間、ブランコを飛び降りていた。嬉しくて、声のした方向に駆けていく。 「ごめんね、お待たせ。さあ、戻りましょう」 こぼれるような笑顔。だから、思っていた。この人は幸せなんだと。周りの大人たちは色々言うけど、この人はきっととても満ち足りた気分で過ごしているんだ。繋いだ手、手のひらから感じ取るぬくもり。確かに生きていることを証明する体温。
――つい、と風が吹いて。頬をかすめていく。流れていくその方向に振り向いていた。公園の出口に人影はない。ただ、車止めの影だけが長く長く伸びていた。
お迎えは、来ない。
それはとっくに分かっていたから、ぴょんとブランコから飛び降りた。噴水の脇に置いてあったボストンバッグを手にする。誰も来てくれない。ここから先に導いてくれる人はいない。…だから。 今、自分の一番行きたい場所に戻ればいいんだと思った。
◇◇◇
息を切らせて階段を一気に駆け上がった人。ドアを開けて飛び込んできたその表情は「嘘だろ?」と言う感じ。目の前にいる存在を何度も瞬きして見つめて、でも玄関先で靴も脱がずに立ちつくしてる。よく見たら、ドアのノブも握りしめたままで。 「宅急便やさんに聞いたら、荷物が今日届くって言うから。じゃあ、ついでに人間も届けちゃおうかなって」 それまでは部屋の小さなテーブルの前で、ゆっくりとお茶していた。ポストに突っ込まれていた不在通知を見て電話したから、とりあえず一服しようかなと。公園からここまでは歩けると聞いていたので、電信柱の住所表示を見ながら、てくてく進んでみた。思ったよりも時間が掛かって、45分。早足だったのでウォーキングしたあとみたいに心地よく疲れていた。 「思ったよりも散らかってないから、驚いちゃった。結構、掃除とかきちんとしてたんだね」 ひとり暮らしの部屋にはポットというものがなくて。お茶を入れるにはいちいちお湯を沸かし直さないといけない。これまではそれで良かったのかも知れない。でも…これからはふたり分。不経済だし、明日にでもポットを買いに行こうと思った。 「…母さんがこの前の休みに来てさ。もうすごい勢いで掃除していったんだ。新築のアパートをどうしたらここまで汚せるのかって、息巻いていて正直怖かったよ」 狭い玄関、そこを上がると短い廊下があって、右手にキッチン。そして左手に水回り。ゆったりした造りのウォークインクローゼット(どう見ても納戸という感じだが、アパートの管理人は断固としてそう呼んでいるらしい)と奥にベランダに面して二間。 「来るんなら、連絡くらいしてくれよ。携帯にかけてくればいいじゃない。もう、どうして部屋の灯りが点いているのかと、焦ってしまったじゃないか。唯子がいるって知っていたら、バイト早退してきたのに。俺、夕飯だって向こうで済ませて来ちゃったんだけど」 この部屋は通りからもよく見えるから、そこからダッシュで来たらしい。まだ、息が上がっていて、言葉がとぎれとぎれ。でももちろん、こちらを非難している様子はない。ちょっとぐらいの悪戯はふたりの間ではもう日常茶飯事になっていたから。 「別に〜、そんなの初めから分かっていたし。遠慮することもないわ、今まで通りの生活してくれていいから。あんまり気を遣われる方が困るしね」 多分、最初の夜はちょっとおしゃれにレストランのディナーでも…とか考えてくれていたのかも知れない。今月は春休みのこともあって、いつもよりもバイトを多くいれていた。それも資金作りだったのかなとちょっと思う。でも…そんな風に特別に始めるのは何だかとても恥ずかしかった。 …それに。荷造りを済ませて発送してしまうと、あとはもうすることがなくて。片づいてしまった部屋でうだうだしてるのもどうかなと思った。新学期になればあれこれと忙しいのだ、一日でも早く生活を整えておきたいと考えた。 「鍵を渡してあるからってっ…、こっちだって色々準備とかあるんだからさ」 そう言いつつ、カップボードから自分の分のマグカップを出してくる。色違いの同じ大きさのカップが用意されていて、くすぐったかった。もしかすると、これは掃除に来たという佳苗が買ってきたものかも知れない。 「あら、私が一日早く着いちゃ困ることでもあったの?」 目の前の悟史が何とも言えない表情になって、唇を尖らせている。仕方ないなあと許してくれるもうちょっとのところにいるとすぐに分かった。 「まあ、…別にいいんだけど」 湯気の立ったカップを持って、テーブルまで移動する。そのふわふわした白い帯を辿りながら、唯子もあとに従った。
◇◇◇
そんな風に提案してきたのも実は悟史の母・佳苗だった。去年の夏のこと、帰省してきた悟史を家に訪ねた時のことだった。 唯子は軽い冗談かと受け流すつもりだったが、彼女の方としてはかなり本気だったらしい。いつものようにキラキラした目でこちらに身を乗り出すと、嬉しそうに告げた。 「実はね、私とこの人も…最初は籍なんて入れてなかったのよ。若かったし、周りから反対されて。ほとんど駆け落ち状態だったかなあ」 隣に座っている悟史の父親が恥ずかしそうに下を向いているのに、佳苗は全然気にしないで話を続けた。 「ね、唯子ちゃん。いいと思うんだけどな。勢いで結婚なんてする前に、一緒に生活して相手との相性を見るのってとても有意義だと思う。いくらいい人だと思っても、毎日の生活を共にするとなるとかなり大変なの。いいのよ、悟史なんて踏み台にしてやって。嫌ならすぐに捨てちゃっていいからね」 時々、度肝を抜くひとことを言ってくれる。佳苗は何年付き合っても新しい顔を見せてくれる未知の女性だ。唯子もとても憧れているし、あんな風に生きて行けたらいいなとか思っている。悟史に言わせると「それだけはやめてくれ」となるのだが。
もちろん、唯子自身も戸惑った。このまま流されていっていいものか。高校を卒業したら家を出ようとは思っていた。今まで育てて貰った恩はある。ただ、いつまでも甘えているわけにもいかないのだ。 「生野唯子」という名前だけなら、あの家に住み続けるには支障はない。でも、唯子自身が知っているのだ。自分は家族であって家族でないことを。
「ママにもしものことがあったら、おじちゃんとおばちゃんがお迎えに来てくれるからね?」 もしものこと、という言葉の意味は分からなかったが、自分が最後に頼る人間たちなのだと思っていた。ただし、それは扶養して貰う期間だけのこと。自分の力で生きていくことが出来るようになったなら、ひとり立ちしなければならない。
――どうしたらいいのか、何度も自分に問いかけた。どうすれば一番いいのか。正しい答えなんてあるわけない、何を選んでもいいところと悪いところがある。
そして、…最後は自分の心が一番辿り着きたい場所を目指すことにした。
◇◇◇
ベランダでぼーっとまどろんでいたら、背中から声をかけられた。カラカラと氷がグラスに当たる音がする。唯子はゆっくりと振り向いた。掃き出し窓のところに立っている悟史がにっこりと微笑む。琥珀色の液体の入った寸胴のグラスを持っていた。 「何? …飲んでるの?」 「うん、ちょっと景気づけ」 悟史は飲んでも顔に出ない方だ。もちろん飲み過ぎればくだを巻くこともあるらしいが、まあ、酒には強い方だという。唯子は知らなかったが、高校時代から父親と晩酌をしていたそうだ。 「飲み過ぎて、潰れたって知らないから」 唯子がそう言うと、悟史のグラスを持っていない方の左手がすっと伸びてきた。狭いベランダ。手すりにもたれ掛かっていても、悟史の指先は夜風にさらされた頬に届く。 「緊張してるの…?」
◇◇◇
奥の部屋を寝室にしていると言っていた。ベッドは置いてなくて布団を畳に敷いている。その方が部屋が広く使えるんだと言う。そこにいつの間にか二組の布団がきちんと敷かれているのを見て、思わず足が止まってしまった。 春先の夜風にいつまでも当たっているわけにも行かない。最初にお風呂を使って、そのあと悟史が入っている間、ずっと外に出ていた。知らずに胸が高鳴ってどうしようもない。待っているって嫌だなと思った。濡れた髪もすっかり乾いてしまって、もうすることがない。 「おいでよ、唯子」 「一日早く来るなんて、唯子も大胆だな…何? 待ちきれなかったとか?」 「違うもの、そんなじゃないわっ…!」 いつもなら、軽く受け答え出来る冗談。でも、今の唯子には余裕がなかった。つい、きつめの口調になってしまう。泣き出しそうに怖いのに、突っぱねるような言葉ばかりが口から飛び出してくる。お揃いのパジャマとかそんな決まり切った小道具も、今は緊張をたかめるばかりだ。 「…唯子?」 思わずくるんと後ろを向いてしまった。もう、この場から逃げ出したい。そりゃ、一緒に暮らそうと決めたのは自分の意志だ。でもっ…だからといって、いきなりこんな風にしなくてもいいんじゃないのか? これからたくさん時間はあるんだから、徐々に…とか駄目なんだろうか? 布団の上、立ち上がる気配がして。この部屋にいるもうひとつの存在がすぐ後ろに来ていた。 「何? …怖いの?」 ゆっくりと、後ろから抱きしめられた。立ったまま…体重を後ろに預ける。あったかい…、この人のぬくもりはいつも心地よい。嫌だと思ったことはなかった。一緒にいるのがとても自然に思えて、だからいいかなと思った。 「うん…、やっぱり。ちょっと、緊張してる」 「馬鹿だな…」 「俺だって、すごく緊張してるんだから。唯子が不意打ちするからさ…」
◇◇◇
布団の上に座る。きゅっと抱きしめられて、当たり前みたいに口付け合って。悟史の鼓動がすごく早くなっているのを感じた。 「何? …もう待てないんだけど?」 絡みついてくる腕を必死で振り解いて、唯子はポケットからチェーンを取り出した。 「これ…いいかな?」 細いチェーンに通されているペアのリング。エンゲージにはとても地味なデザイン。多分マリッジリングなんだとすぐに分かる。
唯子は知っていた。このリングがずっと母・成美の指にあったことを。そして、最後の入院の時、彼女は用意しておいたチェーンにそれを通して唯子に与えた。 「…大切にしてね」 冷たくて細い指先が首筋を辿った。次の瞬間、苦しいくらい抱きしめられて…そう、あのとき、母は泣いていた。泣き顔なんて一度も見せたことがなかったのに、身体を震わせて。 何を想っていたのだろう、何が悲しかったのだろう。
――W to N…N to W。今になればその刻まれた文字の意味も分かる。自分が生まれる前の年の母の誕生日に贈られたそのリングは特別な意味を持っていたはずだ。 何を持って、それは自分の元に届けられたのだろう? 何が言いたかったのだろう? ひとつずつのリングをそれぞれ唯子に託した人たち。受け止めて欲しかったのかも知れない。
「古い…ものだけど。綺麗だね」 不思議そうに眺めている悟史の前で、唯子はふたつの輝きをチェーンから抜いた。 「これ…はめててくれるかな? 今夜だけでもいいから」 恐る恐る訊ねると、悟史はふっと目を細めた。そして、小さい方のリングを手にすると、唯子の左手にそっと通した。そのあと、当たり前みたいに、自分の左手を差しだす。唯子は息を潜めて、そろそろと指にリングをはめてみた。 「すごい、ぴったりだね。俺たちのために作ったみたいだ」 寝室の蛍光灯にライトアップされて、それはキラキラとさらに輝きを増した。まるで、この時を待っていたかのように、意志を持っているみたいに。 かつて、この輝きを見つめていた人たちがいた。きっと許された夜ではなかったのかも知れない。ただ、…ひとつだけ、言えることがある。 「ママは…きっと、幸せだったんだと思う。とても素敵な恋をしたんだわ…そうじゃなかったら、いくら自分のためだからって、命をかけて子供を産むことは出来なかったんだと思うもの」 知らないうちに涙が溢れてくる。泣き顔は見せたくなくて、唯子は悟史の胸にそっと寄り添った。 「そうだよ、唯子は幸せのかたまりなんだから。だから、自分も幸せになるんだ…ね、ずっと一緒にいよう、約束する。唯子のこと、ずっと守るから――」 今は泣いてもいいんだ、そう思った。だって、この言葉は長い長い時を越えて、ようやく自分に戻ってきたのだから。 涙が収まるまで、ずっと背中をさすっていてくれた。ずっと一緒にいると言うこと、ふたりで幸せになると言うこと。当たり前のようだけど、それはとても難しいことの様な気がする。でも…叶えたいと思う。 「…もう、大丈夫?」
◇◇◇
指先からつま先まで、染め変えられていく。ふたりの鼓動がひとつに重なる。生々しくて、人間と言うよりも動物みたいで。お互いの口元からは言葉もいらないくらいの呻きしか聞こえない。もう…余計なことは何もいらない。 いくつもの小さな山を越えて、そのあとにふっとしばしの静寂が訪れた。急に心細くなって、瞼を開くと、準備を終えた悟史が少し照れた笑顔で鼻先にキスした。 「もう、いいよね? …いくよ」
身体をひとつに繋ぐ時の痛みは想像していたよりもずっと鋭かったけれど、それよりも満たされた気持ちの方が大きかった。ぴったりと胸を合わせて、お互いの熱さを感じ取っていく。ここに来るまでに、悟史の呼吸がとても荒くなっていた。 「あっ…、いやっ…、そんなのっ…!」 身体の一点に集中していく激しさ。揺れる身体全体の熱がそこに集まっていく。男の人って、こんなに動くんだなと頭の隅で考える。どうしてそんな風に冷静になれるのか自分でも分からなかった。沈んで、また浮き上がる。引きずり込まれて、どこまでも堕ちていきそうになって、引き上げられる。 どこかで、自分を呼ぶ声。耳ではなく、脳に直接流れ込んでいく音。 「唯子…愛してる…っ!」 ひときわ大きな波が来て、知らずに身体が弾ける。こんな風に愛されるために生まれてきたんだと、気付いた。
◇◇◇
汗ばんだ胸に額を押しつける。ゆっくりと抱き留められて、ふたつの鼓動がひとつの音に重なり合っていく。 「うん…?」
この人にあんな風に激しい内側があったなんて知らなかった。受け止めきれないほどの熱を持て余していた自分。いつか、一緒にあの波を越えられるようになるのだろうか? 今の唯子には想像が付かない。
「私…いいのかな、こんな風に…ママの分も幸せになっていいのかな…?」 何気なく口をついて出てきた言葉が、鼻先をつんと痛くする。溢れ出てくるものが止まらない。こんな風に自分の存在をしっかりと受け止めて貰えるなんて、まだ信じられなくて。 「唯子は、いくらでも幸せになっていいんだよ。だって、唯子から俺はたくさん分けて貰うんだから、吸い取っても吸い取っても大丈夫なくらい、幸せになってくれなくちゃ」
…ここから始まるのだ。これは終点ではない。それは分かってる。幸せを紡ぎ出す勇気を絶えず胸に抱えて生きていくんだ。 何もまとっていない身体はとても心細い。でもお互いのぬくもりを確かめ合うには余計なものは何もいらないのだ。
暗闇に浮かび上がったデジタルの数字が、23時の時を告げる。 それを気にすることもなく、唯子はけだるい身体でとろとろと心地よい眠りの世界に入っていった。 おわり (030925)
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