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桶狭間の戦い (1)

病気の診察や治療の為に東京へ時々行っているのだが、東京は江戸時代から日本の政治や文化の中心だったので、歴史上の出来事があった場所に行ってみると
「おお、ここがあの場所か」と、妙にミーハーな気持ちになる。
例えば井伊直弼が暗殺された桜田門では、「この辺りが殺人現場か」と思ったり、赤穂浪士のお墓がある泉岳寺では、「赤穂浪士って本当に実在したんだ」と思ったりした。
それでは僕の住んでいる街での歴史上の出来事って何か無かっただろうかと考えたら、『桶狭間の戦い』があった事を思い出した。
織田信長が今川義元を討ち破った戦いなのだが、実はどんな戦いだったのかを知らないのだ。
いや、地元で起こった歴史上の大事件なのだから、小学校や中学の授業で習っていたと思うのだが、何も覚えていない。(先生ごめんなさい)
そこで、『桶狭間の戦い』とはどんな戦いだったのかを調べてみた。



【当時の状況】 《地図1》
時は室町時代の末期。
(もちろん、当時の人達は今が室町時代だという事は知らなかっただろうし、その末期だという事も知らない)
室町幕府の中心だった足利家もその権力が弱まり、甲斐[山梨]では武田信玄が、越後[新潟]では上杉謙信といった面々が新たに日本の覇権を狙っていた。
中でも次の将軍と目されていたのは駿河[静岡]の今川義元。
義元は天文6年(1537年)にこれまで敵対していた武田信虎の娘と結婚し、武田家との関係を深めた事から、兄の代まで友好関係にあった相模[神奈川]の北条家とは険悪となり、富士川の東、河東をめぐって争うが、甲斐の武田、及び今川に同調した武蔵と共に河東を今川家の領地にするという有利な条件で停戦に持ち込むことに成功する。
これで東は安泰になったので、次は西を目指すことになっていく。
何故、西なのか。
西には京がある。
京の天皇を自分のものにすれば天下統一にとってこれほど有利な事はないのだ。



【戦い前夜】
とは言うものの、一気に西へ駆け上がる様な事はせず、まずは三河[愛知県東部]の侵攻を考える。

当時、父松平清康の死に伴う謀反(森山崩れ)により岡崎城を追われ、伊勢方面へ逃げていた松平広忠(徳川家康の父)に、「岡崎城に戻れる様にしてやる」と言って協力させ、その頃、岡崎城主だった石川甚右衛門兄弟を討ち、広忠は岡崎城に戻ることになる。
岡崎城に戻った広忠は天文16年(1547年)、忠義の証しとして嫡子、竹千代(5歳:のちの徳川家康)を義元のいる駿府へ人質として送り出すが、その途中、田原城の戸田に竹千代奪われ、尾張の織田信秀(信長の父)の元へ送られてしまう。
信長(13歳)は父の信秀や竹千代(5歳)の居る古渡城ではなく、那古野城(名古屋城の二の丸付近にあったが、今は無い)の城主であったが、この頃に竹千代と対面している。
天文18年(1549年)、広忠が暗殺され事を期に、広忠の家臣が竹千代のいる織田へつく事を恐れた義元は安祥城(愛知県安城市)を攻め、信秀の子である信広をさらって竹千代と交換する。
そうして竹千代(7歳)は岡崎城へ戻るが、直ぐに義元の居る駿河へ送られる。

天文21年(1552年)に信秀が死去(41歳)すると、信長が家督を継いだ"うつけもの"として評判だった信長が継いだことにより、これまで織田についていた鳴海城主:山口教継、教吉父子、沓掛城主:近藤景春、大高城主などが今川家に寝返ってしまう。
これに激怒した信長は、「山口父子はいざとなると裏切るに違いない」との噂を流し、それを真に受けた今川義元は二人に釈明の機会の与えずに切腹させてしまう。
また、信長は同様に、仕組んだニセの書状を信じた義元は今川に寝返った笠寺城主:戸部新左衛門も同様に切腹させている。
実は、これには伏線があり、義元が子供の頃には教育係を務め、後に軍師を長く務めてきた太原雪斎(たいげんせっさい)が病により弘治元年(1555年)に死去した事が大きく影響する。
歴史に『もし』がゆるされるなら、雪斎であれば信長の謀略を見抜いていたかもしれない。
少なくとも、山口父子と戸部新左衛門の運命も違っていたのではないだろうか。
そして、桶狭間でも・・・



【そして、桶狭間の戦い】 《地図2》
三河をほぼ平定し、名実ともに駿河・遠江・三河の支配者となった義元は、永禄3年(1560年)5月12日、2万5千人の大軍を率いて尾張に向け動きだす。
この大軍による行軍によって、信長(織田軍は5千人)の戦意を失わせることが第一の狙いだった。

5月16日、岡崎城
5月17日、知鯉鮒城[ちりゅう:愛知県知立市]
5月18日、沓掛城[愛知県豊明市]に着陣。
この日の夜に今川諸将が集結し、今後の作戦について会議が行われた。
義元は尾張領内にある鳴海城、大高城に多くの兵を入れて信長軍の攻撃に備えていたが、信長はそれらの城を囲むように砦を築き、兵糧などの補給を断つ作戦に出ていた。
その為、義元にとっては兵の多さが逆に足かせとなっていた。
そこで、まずは大高城から助ける事にし、松平元康(19歳・後の徳川家康)に兵糧を運ばせる事にした。

尚、当時は木下藤吉郎と名乗っていた、のちの豊臣秀吉も織田軍の一員としてこの戦に参加していたと思われるが、まだ下っ端だったので詳細は不明である。
(懐に草履を入れて暖めていた逸話があるのくらなので、信長について行動していたのでは無いだろうか)
藤吉郎が信長の家来になったのは6年前の天文23年(1554年)からで、実は、その2年前までは今川義元の家臣の松下長則・嘉兵衛に仕えていた。
しかし、藤吉郎の能力の高さを嫉んだ先輩に苛められて逃げ出してきたと言われている。
今にして思えば、『桶狭間の戦い』とは、この後天下を統一する信長(当時26歳)・秀吉(当時23歳)・家康(当時19歳)が命を掛けた青春の1ページでもあったわけだ。

一方、信長軍も今川軍が大高城の回りに配した丸根・鷲津砦を攻める動きを察知するが、信長は集まった家臣達と雑談をするだけで、どの様な作戦で今川と戦うかについては語らず、
「夜も更けたから、もう帰れ」と言って寝室に戻ってしまった。
信長のその様な行動から、「織田家も尾張もおしまいだ」と言う家臣も居たという。
綿密に計画を話し合った義元とは対照的であった。

しかし、信長が家臣と作戦会議を行わなかったのには訳がある。
信長は数多くの密偵(スパイ)を放って情報収集を行っていたと同時に、情報が洩れることも恐れていた。
その時信長は義元の首を取る事だけを考えていた。
義元の首さえ取ってしまえば、今川軍は総崩れになると考えていたが、その事が家臣から今川方へ洩れてしまわないようにする為、あえてどの様な作戦を取るかを話さなかったのだ。

大高城への兵糧を運ぶ事に成功した元康はそのまま守備をまかされ、5月19日未明<午前3時頃>に丸根砦へ攻撃を開始。
それと同時に共に兵糧を運んだ朝比奈泰朝は鷲津砦へ攻撃開始。

午前4時頃、今川軍が丸根・鷲津両砦への攻撃が始まった知らせが清州城に居る信長の元に届く。
信長は『敦盛(あつもり)』を三度舞い、立ったまま茶漬けを食べた後、5人の家臣(岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎)だけ引連れて出陣し、他の家来たちも遅れて清州城を出発する。
通常、多勢に対しては籠城が常套手段であったが、それに反対した信長は敢えて5人の家臣だけで城を飛び出し、その信長の『決死の覚悟』を見せつけることにより家来達の士気を高め、勝機を見出そうとした。

途中、熱田神宮で必勝祈願をし、遅れてきた家来、千人と合流する。
上知我麻神社(かみちかまのやしろ:熱田神宮内にある社)から東の方を見ると煙が上がっているのが見え、鷲津・丸根の両砦は陥落したと考えた信長は両砦を諦め、鳴海城に向けて進軍を開始する。

信長が動いた事を知った義元は前軍を、鳴海城を囲んでいる中嶋・善照寺砦に向かわせる。
大高城をあきらめた信長を鳴海城で待ち構える作戦だ。
この時の今川軍は前軍に1万人、後軍に1万人、そして、義元がいる5千人の本隊はそれらの真ん中に位置し、蛇の様に細長い隊形となっていた。
この事が、のちに思わぬ結果を生むことになる。

信長は鳴海城を包囲する砦のひとつ、善照寺砦に到着する。
信長の本隊はこの時、遅れて合流した兵達により3千人にまで増えていた。
信長はありったけの旗を善照寺砦に立たせ、守備兵だけを残して全軍を中嶋砦へ移動を開始する。
全軍とは言え、守りを除けば、実動部隊は2千人ほどだった。
鳴海城主の岡部元信は信長が動いたことを知るが、立っている旗を見てまだ多くの兵がまだ善照寺砦に残っていると思い、出陣する事ができなかった。

更に信長は300人ほどの兵を今川軍の前軍に突入させる。
これは今川軍の軍勢をそこに引き寄せる事により義元本隊の守りを手薄にさせる事を狙った陽動作戦だった。

この頃、義元軍の本隊は桶狭間山で兵を休ませ、昼食をとっていた。
鷲津・丸根砦を攻め落とした戦勝気分で少し浮かれていたのかもしれない。
あるいは、鳴海城・大高城を結ぶライン辺りまでは既に今川領になったと思い、安心していたのかもしれない。
「義元の矛先は天魔鬼神(悪魔や鬼)も防げぐことは出来まい」と言って、謡を3曲歌ったそうである。
それくらい義元はご機嫌だった。

今川の前軍と戦闘中の信長の元に梁田出羽守(やなだでわのかみ)が駆け込んでくる。
「申し上げます。ただいま、今川義元は桶狭間山にて昼食をとっております」
「何、桶狭間山か。直ぐにそこへ案内せい」
梁田出羽守の案内で信長の全軍は桶狭間山へ向かう。

午前中は晴れていた空が一転して、大雨になった。
5月19日は現在の暦では6月の下旬。
梅雨の真っ只中で、いつ雨が降ってもおかしくない。
『信長公記』(しんちょうこうき)では大木が倒れるほどの嵐の様な雨だったと書かれている。
そしてその時、既に信長は桶狭間山にいる義元の本陣を見上げる太子ケ根まで来ていた。

雨が止み、雲が切れゆく様子を見た信長は「いざ、かかれ!かかれ!」と号令を出し、義元を目指して一気に駆け上っていく。
さきほどまで休憩していた今川軍は、突然現れた信長軍に防戦一方。
内乱が発生したと思った者も居た様で、味方同士で斬り合ったりもしていたらしい。
それ程、今川軍は混乱していた。
弓・槍・鉄砲・のぼり・指物があたりに散乱し、義元が乗っていた朱塗りの御輿さえも打ち捨てられていた。
しかも、蛇の様に間延びした軍形のうえ、もともと深田で通行が困難な一帯が大雨でぬかるみ、義元本陣へ援軍が辿り着くのが遅れてしまった。
義元が討ち取られた報により今川軍は総崩れとなり、各城は開城をし、敗走した。



【戦いの後】
各城が次々と開城していく中、鳴海城主・岡部元信は抵抗を続けたが義元の首と引き換えに開城を決意し義元の首を持って駿河に向かった。
(その後、義元の嫡男の氏真によって建立された義元の菩提寺、天沢寺に葬られた。後に天沢寺は臨済寺に吸収される。)
胴体も駿府へ持ち帰ろうとしたが、思いの外、腐敗が早く、現在の愛知県豊川市牛久保の大聖寺に埋葬することになった。
現在では『義元の胴塚』と呼ばれている。

この合戦での今川側の死者は2500人余りだったと言われている。(織田側は800人ほど)
これら多くの死者を悼み、曹源寺の快翁龍喜和尚[かいおうりゅうき]と村人は塚を作って供養をした。
当時は『駿河塚』と呼ばれていたが、これが今に残る『戦人塚』である。

松平元康は今川軍が退却し、カラになった岡崎城へ戻り、今川家とは絶縁する。
のちに徳川家康となり、天下を統一したことは誰でも知っている。

信長は翌20日に清須で今川武将の500人分の首実検(誰の首かを確認)を行った後、須ケ口(現西春日井郡新川町)に義元塚を築いてその霊を弔った。
この塚は今川塚・駿河塚とも呼ばれ、現在はその位置を示す石碑が建っている。
また、必勝を祈願した熱田神宮に塀を奉納し、『信長塀』と呼ばれるそれは日本三大土塀として今も残っている。



今回『桶狭間の戦い』を調べて知ったのは、家の近所で昔々、すごい事件が起こっていた事だ。
しかも、鳴海や大高、沓掛は子供の頃からの遊び場所だったところ。
なのに今まで知らなかったとは・・・・
それから、次に天下を取ると目されていた今川義元を、まだ単なる地方の武将の一人に過ぎない織田信長が討ったこと。
(事実、桶狭間の戦いの時でさえ、まだ尾張を平定していたものの、反感を持つ者も多くいた)
そして、この狭い地域に、その後天下を取る3人の若者たちが正に命を賭けて戦っていたことだ。
『戦国青春グラフティ』としてNHKの大河ドラマしてもらいたいけど、無理かなぁ、無理だろうなぁ。



【参考文献】
豊明市史(豊明市史編集員会/豊明市)
信長公記(太田牛一原著・榊山潤訳/教育社)
今川義元(小和田哲男/ミネルヴァ書房)
その時歴史が動いた(NHK取材班・編/KTC中央出版) その他色々


2007. 12. 4



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