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桶狭間の戦い (2) 〜兵どもが夢の後〜

昔々、ウチの近所で大変な出来事がありました。
折角なので、信長が辿った(であろう)道のりをなぞってみることにしました。

【地図】


【熱田神宮】
清州城をたった5人の家臣だけを引き連れて飛び出した信長は真っ先に熱田神宮へやってきて、遅れて来る他の家臣を待つと共に、必勝祈願を行ったそうです。
桶狭間の戦いの後、祈願成就のお礼として奉納したこの塀は『信長塀』と呼ばれ今も現存しており、三十三間堂の『太閤塀』、西宮神社の『大練塀』と並び、日本三大塀の一つとして数えられていると、塀の脇の立札に書かれていた。
それにしても、どうして"塀"だったのだろう。
恐らくは宮司に何が欲しいかと聞いたのだと思うが、実用的な物を奉納する所が合理主義の信長らしいと思った。
ちなみに、僕は高校受験の合格祈願を行ったが、合格のお礼は何もしていない。
神様、ごめんなさい。


信長は熱田神宮の中にある「上知我麻神社(かみちかまのやしろ)」から南の空を見ると2本の煙が見え、大高城を包囲している鷲津・丸根の両砦は「もはやこれまで」と考え、鳴海城へ向かっている。
現在では周りを樹木覆われているが、今から約450年前はそれほど木も大きくは無かったのだろう。
しかも、当時は海を隔てての眺めとなるので、直線で6kmくらい離れた砦が見えなくとも、煙くらいは見えたと思う。
今は大きく育った木々のお蔭で、神社の外を見ることもままならない。


* * * *
【鳴海城跡】
東海道五十三次の宿場町のひとつ、鳴海[なるみ]。
今ではすっかり内陸になっているが、昔はこの近くまで海が迫っていたらしく、「鳴海」という地名はその名残なのだろう。
鳴海城は東海道(国道1号線から少し北側にあった)から少し北にあり、今は公園になっている。
ここの地名はズバリ、名古屋市緑区鳴海町"城"!
そのまんまやないか!
回りを住宅に囲まれ、子供たちの楽しそうな声が聞こえるこの公園に当時の面影はなく、ただ城跡だった事を告げる立札と公園の名前(鳴海城跡公園)でそれを知る事できるのみだった。



* * * *
【善照寺砦跡】
鳴海城も高台にあったが、そこから東へ1kmほど、更に坂を登った所に善照寺砦はある。
ここは信長がありったけの旗を立たせた所で、砦の名前からお寺があるのかと思っていたら公園だった。
その名もズハリ、『砦公園』!
緑区のみなさん、もう少し良いネーミングは無かったのでしょうか。
ここも周りは閑静な住宅街で、近くには小学校もある。
鳴海城は善照寺砦よりも低い所にあったので、信長が中島砦に向けて移動を開始しても、善照寺砦の様子が掴めなかったという事はこの場所に立つってみると、とても良く理解できる。
今では砦の代わりにジャングルジムがある。

* * * *
【中島砦跡】
中島砦は扇川と手越川に挟まれ、つまり、自然の堀に守られていたと言うことらしい。
この砦跡の場所はとても分り難い。
一応、案内の看板は有ったのだが、それでも分り難い。
何故なら、民家の庭にあるのだ。
「所有者のご厚意により、見学することが出来きます」と書かれてあったので、勝手に入って写真を撮らせてもらった。
でも、昔、多くの人が死んだこの場所で生活しているのはどんな気分なのだろうか。

* * * *
【大高城跡】
信長は大高城方面へは向かいませんでしたが、僕はついでに寄ってみました。
JR大高駅の西500mくらいの所にありましたが、かつては城下町だったのだろうと思わせる様に、城址の回りは細い道ばかり。
大高城跡へは民家と民家の間の細くて急な坂道を登っていく。
僕はこれまで城と言えば大阪城や名古屋城ぐらいしか知らず、城とは平地に建てられるものという先入観があったが、鳴海城や大高城の様に山の上にあった方が守りやすく、攻めにくいのだろう。
急な坂を登っていくと(狭くて車は入れません)、ちょっとした展望が待っている。
大高周辺を見下ろすその眺めは、一国一城の主になった様な気分で気持ちいい。
城跡は公園になっているが、もったいないくらい何も無い。
でも、何も無いと言うのがいい。

* * * *
【鷲津砦・丸根砦】
大高城とはJR東海道線を挟んで反対側に鷲津砦跡・丸根砦跡はある。
こちらも大高城の急な坂以上の道を登っていかなくてはいけないが、僕は車で来たのでスイスイ上って行けたけれど、自転車だったら押していかなければダメだっただろう。
馬だったらどうなんだろう。
この辺りは新興住宅地で、道幅が広いのは車の運転がヘタな僕には助かりる。
鷲津砦跡の一部は公園になっていたが、ほとんどは雑木林に包まれている。


丸根砦跡も雑木林に囲まれ、石碑だけが忘れ去られた様にポツンと建っていた。
* * * *
【桶狭間古戦場】
『信長公記』では今川義元は"桶狭間山"で昼食をとっていたと書かれている。
確かにこの辺りは小さな山が幾つもあるが、"桶狭間山"という山は昔も今も無く、桶狭間にある山と言う意味で"桶狭間山"と書いたのだろうと言うことが一般的な見解らしい。
しかし、桶狭間古戦場伝説地は山の中ではなく、ずっと下った国道1号線から少し西へ入った所にある。
面積は狭く、野球で言えば内野くらいの広さしかない。
ここには義元の墓もあり、道路を挟んだ所にも墓があるが、これらが建てられたのは義元が死んでから数百年が経ってからの事。
慰霊碑的な意味合いのもので、本当の墓は、首は静岡県静岡市の臨済寺に、胴体は愛知県豊川市牛久保の大聖寺に葬られている(らしい)。




以前、丸根砦の近くに住んでいた事があったのだが、その頃は丸根砦の事は全く知らず、ただ、会社へ行く途中に『砦前』と言うところを通っていて、「昔、この辺りに砦があったのかなぁ」と思っていただけだった。
「桶狭間の戦い」は実際にあった歴史上の出来事なのだが、その出来事と『今』が繋がっているという実感は全く無い。
でもこうして今回、城跡や砦跡を巡ってみて感じたのは、450年前と今は確かに繋がっていると言うこと。
特に顕著なのは地名で、どうしてそこが『砦前』と言う地名になったのか、;歴史とは奥が深いものですね。


2007. 12.15



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