Back  Index / Next 




桶狭間の戦い 〜余話にて候〜

『桶狭間の戦い』についてツラツラと書いてきましたが、まだ書き残した事が沢山ありますので、歳末在庫一斉処分といきましょう。

【地図】

【沓掛城】
ここは義元が最後の一夜を過ごしたところで、今川軍の幹部と明日の決戦の作戦を練った場所。
まずは前隊が大高城を取り囲んでいる鷲津・丸根の両砦を陥落させてから今川本隊は大高城に入り、引き続き前隊は鳴海城と交戦している善照寺・中島・丹下砦に向かわせる計画だったらしい。
つまり、ジワリ、ジワリと織田軍を攻めていこうと考えた様だ。
:けれど結果から言えば、5千人の織田軍に対して、今川軍は2万5千人なので一気に清州城を攻めても良かったハズ。
歴史に『もし』は禁句だが、この時、義元の軍師を長く務めてきた太原雪斎(たいげんせっさい)が生きていたなら、どんな作戦をとっていたのだろう。

※雪斎は家康が今川の人質となっている間、家康の教育係りも務めていた。


* * * *
【もうひとつの桶狭間古戦場】
前回紹介した、古戦場跡(豊明市)の他に、名古屋市にも古戦場跡が有る。
『桶狭間古戦場公園』という名前のこの公園にはこの周囲に点在していた石碑などをここに集められて公園になっている。
実際のところ桶狭間の戦いの際、今川軍本隊には5千人、織田軍は2千人の兵だったと言われている。
例えば、必要スペースを1人当たり四畳半(≒7.5u)とした場合、7千人の兵が戦うには5万2500u必要になる。
これは四畳半の部屋を横に並べた場合、7km以上繋がっていることになる。
端っこの人は見えません。
つまり、それくらい広い場所が必要だったわけで、恐らく桶狭間山の上で休んでいた今川軍は織田軍の奇襲により、有る者は豊明市側に逃げ、ある者は名古屋市側に逃げたのでしょう。
そう考えるのが自然です。



* * * *
【戦人塚】
今川軍の戦死者はおよそ2500人余。
曹源寺の快翁龍喜[かいおうりゅうき]和尚が、その大勢の亡骸を供養したとされ、昔は『駿河塚』と呼ばれていたそうだ。
当時は恐らく土葬だったと思われ、それを考えるとかなりの大きさの塚だったはず。
現在の塚は20坪くらいの小山になっているが、この狭い所に2500人もの亡骸は入りきらない。
この辺りは丘陵になっていているが、本当はこの丘の下の全てに亡骸が埋まっているのではないだろうか。
今では『仙人塚』という住宅地になっているが、この回りの家々の下を掘り返すと人骨がザクザクと出てくるのかもしれない。
おー怖っ!


* * * *
【刈谷市今川町】
豊明市の『桶狭間古戦場跡』から国道1号線に沿って南東に5kmほど行った所に『今川町』(刈谷市)という場所がある。
義元が知鯉鮒城[ちりゅう]から沓掛城に向かう途中に通ったと思われ、町名の由来かと思いましたが、元々は『いも川』と呼ばれていのが変化して『今川』となった事が判明。
ちょと、がっかりです。



* * * *
【今川塚 〜東海市〜】
東海市は名古屋市の南にあり、伊勢湾に面した埋立地には製鉄所が軒を連ね、中京工業地帯の一角を占める場所である。
その東海市の高横須賀町に『今川塚』はある。
『今川塚』と呼ばれるものは幾つかあるようだが、この塚もその一つ。
桶狭間の戦いで敗れた義元の家来たち12人が義元の胴体をこの地まで運び、手厚く葬ったと伝えられている。
石碑の文字は「義基」となっているが、これは織田信長の権勢を恐れた為と考えられているそうだが、バレバレではないだろか。
義元の胴体は愛知県豊川市牛久保の大聖寺に埋葬された事になっているので、この塚の下に義元が埋まっている可能性は低いだろう。
昭和3年2月発行の『横須賀町誌』にも「誰の墓かは定かでない」とされ「傍らに、今川義基の墓と刻んだ碑があるが、信じ難い」と身も蓋もない書き方をされている。
僕の想像では、この地に逃げてきた家来たちが、信仰の様なものとして塚を作ったのではないかと思うのだが、どうだろうか。
ちなみに、この辺りは今でも「今川」と呼ばれているそうで、この祠[ほこら]の後ろに見える建物には『今川集会所』と書かれた看板が掛けられていた。

 

 

* * * *
【義元の首塚 〜西尾市〜】
義元の首は鳴海城主だった岡部元信が駿河へ持ち帰ったとされているが、胴体同様に別説がある。
当時は梅雨時であった為、腐乱が激しかったので、現在の西尾市(当時の地名は調べきれなかった)にある東向寺に葬られたという説がそれだ。
東海道を通って駿河に向かうと岡崎を通過しなくてはいけないが、家康(岡崎出身)を長く人質に取っていたので、反今川の気運が強いと考えて別ルートで駿河に向かったとされている。
西尾市はその途中にあった。
そして、この西尾市こそが、今川姓の発祥地だった事も『義元の首塚』伝説に繋がっているのだろう。
足利義氏の子、吉良長氏[おさうじ]の次男の国氏[くにうじ]が父から土地や館を与えられてこの地に移り住んだ時、既にこの辺りを今川荘と呼ばれていた事から今川国氏と名乗ったそうだ。
ちなみに、吉良とは忠臣蔵に出てくる吉良上野介の吉良の事。
(西尾市隣には吉良町がある。)

僕が東向寺へ行った時は午後4時半ころ。
ここはこれまでの様に石碑がある所とは違い、正真証明にお寺で、普通に墓地もあるので、『義元の首塚』と言われると妙に生々しく、周りを木々で囲まれたこの場所は空気が他よりも冷たく感じられ、夕暮れ間近だった事も手伝って、ちょっと不気味だった。
「義元の墓」は墓地から細い坂道を登った所にある
義元の墓の傍らに数基の小さな墓があり、これらは、義元の家来たちの墓と言う。
死しても尚、親方様を守るかのように並んでいた。


* * * *
【織田有楽斎】
『桶狭間の戦い』とは関係ないのだが、ついでに書いておこう。
信長の年の離れた弟で、一般的には茶人として有名らしいが、茶道の様な高尚な趣味を持ち合わせていない僕は当然知らない。
有楽斎は信長とは違い、温厚な性格であったとされ、秀吉や家康に仕えていた。
彼が住んでいた事から、「有楽町」と名付けられた街は、マリオンのある東京都千代田区有楽町。
そして住んでいた屋敷が数寄屋造りだったので、その近くにあった橋を「数寄屋橋」と呼ぶようになったという。
ただし、有楽斎が江戸に住んだ確証は無いと言うことも付け加えておこう。




『桶狭間の戦い』を調べていると、どんどん知らない事が出てきて、限が無いのでこれで終わりにします。
これまで調べてきて不思議に思ったのは義元に関する事が多かったこと。
今川姓発祥の地とはいえ、地元の武将ではないのにあちらこちらに伝説が残っている。
一方、信長の『桶狭間の戦い』に関する言い伝えの様なものは熱田神宮の信長塀以外にはあまり無かった。
義元にとって『桶狭間の戦い』は終焉の地だったけれど、この後天下統一の直前まで駒を進めた信長には通過点に過ぎなかったのだろうか。
そう言えば、信長も『本能寺の変』で戦死した事が有名だが、その事も合わせて考えてみると日本人が持っている『滅びの美学』の様なものが影響しているのではと僕は思うのだ。

人は死して名を残す


2007. 12.29



 Back  Index / Next