Back  Index / Next 

おらぁ、東京さ行ぐだぁ的闘病記
   〜番外編I〜



■東京医科大付属病院〜アゲイン〜
2004年3月18〜19日 ・ 4月4〜7日


■3月 18日
早朝、5時30分起床。
まだ日の出前の窓の外は薄暗い。
いつもなら東京へ診察に行くときは7時頃に起きているのだが、今回は診察の前に10時から東京の江東区で行われる特許の検索方法に関する講習会に参加しなければならず、その為こんなに早く起きているのだ。

僕は去年の10月からそれまでの開発部署から特許関係の部署へ異動となった。
これは自分が希望したもので、異動の理由としては病気の事も有るのだが、それよりも長く同じ部署にいた為、飽きてしまったというのが一番。

そんなこんなで、つまり、業務出張と言うわけ。
よって今回の交通費は会社持ちで、ラッキーなのだ。

しかし、そんなに早く起きた割には、講習会では居眠りする事もなく、又、講師のお姉さんが美人と言うこともあり、しっかり夕方4時まで受講をした。
受講後はこれといって行くところも、やる事も無いので、いつものビジネスホテル「バン」へ直行する。
いつもは日曜日にチェックインするので料金は7350円(税込み)なのだが、今回は平日という事もあり、8820円と2割ほど高い。
そうか。ビジネスホテルの稼ぎ時は平日なのかと勝手に納得しておいた。

部屋で一休みしてから「いつもの」寿司屋「すし好」へ行く。
一人で寿司屋へ行くのも、もう3−4回目になるのだが、やっぱり慣れない。
どういう訳かカップルの隣に案内される事が多く、一人でしかも常連でも無いワカゾーが回りからどんな風に見られているのだろうかと思うと自意識巨大気味な僕は全然落ち着かない。
もちろん、周りの人は僕の事なんて全然気にしてはいないのは充分承知しているのだが、落ち着かないものは落ち着かない。

たらふく食った後は、そのままホテルへ。
腹ごなしに銀ブラでもと思ったのだが、お天気の具合が今ひとつで、途中で雨に降られてもと思い、やめておいた。



■3月 19日
ホテルの喫茶店で軽く朝食をとって、8時ごろ出発。
道は出勤途中のビジネスパーソンと市場の人やその他いろいろな「働く人」で一杯。
地下鉄丸の内線で西新宿まで行き病院ヘ。
自動受付機で受け付けをを済ませ、2階に上がり、眼科の受付で金子先生に書いて頂いた紹介状を渡す。
眼科前の待合で座っていると割と早く呼ばれた。
まずは眼圧や視力検査などを行ない、それらが済むとまた待合で待機。
それから程なく再び呼ばれ、後藤先生の診察を受ける。
後藤先生は簡単に僕の眼を診たあと、
「一年たったので、もう一度検査をしましょう」と言った。
前回の検査では問題は見られなかったのだが、どうも100%OKという訳では無かった様だ。
後藤先生が言うには、本来、治療をした腫瘍の痕は平らになるらしいのだが、僕の場合はそのまま残っていて、それが気になるとの事。
もちろん、残っていても腫瘍は死んでいる場合もあるので、必ずしも問題があるとはいえないのだが、念のために検査をしましょうと、前回に比べ随分とお気楽な入院となる。
時期は4月5〜7日。
前は3ヶ月待ちであったが、今回は半月で検査が受けられる。
これも医学の進歩か?

会計を済ませ、入院の予約手続きをした後、向かった先は靖国神社。
何故、靖国神社なのか。
それは前日のテレビで東京の桜の開花宣言のニュースを見たのだが、東京ではこの靖国神社にある桜で開花を宣言しているとのことだった。
それはどんな桜なのか、一度見といてやろうと思い、やってきたわけだ。
靖国神社は初めてで、辺り一面、桜の木だった事には驚いた。
そしてそのほとんどの木には「○○戦友会」などといった札が付いている。
さすが、戦没者を祀っているだけのことはある。
「♪貴様と俺とは同期の桜〜♪」なのである。

ところで、どうして日本人は桜が好きなのでしょう。
パッと咲いて、パッと散るところが日本人の心情に合っていると一般に言われているのだが、実は、昔の日本人はさほど桜好きな人種ではなかったらしい。
どうやら、パッと散るのがいさぎ良すぎたのでしょう、特に武士には受けが良くなかったそうだ。
それが、みんなの支持を得るようになったのは歌舞伎で「忠臣蔵」を演じる様になってからの事。
あの浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が辞世の句

  風さそう 花よりもなほ 我はまた
  春の名残(なごり)を いかにとやせん

 
を詠み、切腹するシーンで桜が散る演出をしたところ、これが受け、以来、日本人は桜好きになったそうだ。
(ちなみに、浅野内匠頭が切腹したのは3月14日で、桜が散るには早い時期だった)

普通の神社とは違い、ここは「靖国神社」なので、他の神社とはちょっと雰囲気が違う。
どこが違うのかは具体的には説明出来ないが、例えば神殿に向かって最敬礼する人がいたりする点なんかは他の神社では決して見る事が出来ないところだ。
「天皇陛下万歳」と叫んでいる人はいなかったが、あちらこちらにチラホラと愛国心の炎をメラメラ燃やしている人が見られた。

神殿脇の社務所の横の掲示板には太平洋戦争でレイテ島へ出征する青年が母親へ宛てた手紙が掲示されていた。

母上様へ
母上、正二は畏(おそ)れ多くも大命を受け今将に何回に征かんとして居ります。
黒髪長き二十三才迄の御世話と御心配を無限に感謝いて居ります。
日本男児として又家門の名誉にかけても恥ぢない意気で居りますから決して御心配下さらぬ様に。
在天の父上も遥かにに見守って下さることを信じて居ります。
(後略)

この戦争では一部の人間の為に世界中の多くの人が亡くなっている。
もちろん、この青年も人を殺したかも知れない。
そんな事をこの母親は望んだのだろうか。
日本男児として又家門の名誉の為に人を殺してくることを、死んでくることを望んだのだろうか。

幸い、あの戦争以来、日本は戦争をしておらず、そして僕は「もはや戦後ではない」と言われた時代に生まれたのだけれど、いつの日にか、今日のこの日が「戦前」と呼ばれることの無いようにしなくてはいけないと感じた。



■4月 4日
今回の入院は5日の12時40分までに東京医大へ行けばよいから、わざわざ前日から行かなくても良いのだが、せっかく東京へ行くんだし、ちょっとは遊ばなきゃと、前日もゴルフへ行って散々遊んでいたにも関わらず、まだまだ遊びたい年頃なんです。(その前の週はスキーへ行っていました)

今回の目的地は2つある。

まずは一つ目のお年寄りの原宿、巣鴨へ向かう。
本当は東京で遊びたいと思っても、行き尽くしてしまって、他に想い浮かばなかったのだ。
まずは東京駅の改札の中にあるコインロッカーに入院道具一式が詰まったバッグを預け、山手線で巣鴨まで。
駅から出ると今にも降り出しそうな空模様。
名古屋からずっとこんな感じで、いつ降り出してもおかしくは無い。
とにかく、降り出す前に巣鴨神社を目指す事にする。
巣鴨神社は巣鴨商店街の中にあるのだが、どっちの方向に商店街があるのかは分からないが、人の流れに付いていくとありました。
お年よりの原宿と呼ばれている割に、思ったほど年寄りばかりではない。
なぜなら、お年よりだけだと危ないので、若い人も付き添いでやって来る為だ。
それに今日は天気も悪く気温も低いので、やはり自宅待機組も多くいるのだと思う。
今日は縁日のある日で、屋台も出ていたが、ここんな天気なのでいつもよりも少ないそうだ。
商店街を歩いていくと途中、春日三球の店を発見。
地下鉄をどこから入れるのかを考えると夜も眠れないで一世を風靡した、あの春日三球がやっている健康下着の店で、本人も青い法被を着てなんだかヒマそうに商店街の人の流れを見ていた。
そのままズンズンと歩いていくと商店街を突き抜けてしまった。
アレ?巣鴨神社はドコ?
地図を取り出して見てみると、商店街に入ってすぐの所にあった。
Let’s Go Back!
巣鴨神社はおばぁちゃんでテンコモリ状態。
名物のとげ抜き地蔵は長蛇の列で、50人くらい並んでいた。
僕は巣鴨へ来た唯一の目的である、手作り耳掻き屋台へ直行。
ミミカキストでもある僕は、数種類の耳掻きをもっているのだが、角張り過ぎて掻くと痛かったりで、どれも今ひとつ、しっくりこない。
以前、テレビで手作りの耳掻きを巣鴨神社で売っているというのを見た事があり、機会があれば欲しいと思っていたのだ。

「手造り原田の耳かき」と書かれた屋台を覗くと、半畳ほどの敷地のところで、この商店街には似つかわしい30歳くらいの若い兄ちゃんが耳掻きの先端を紙ヤスリでスリスリと研いでいた。
屋台のテーブル(?)には数種類の耳掻きが置いてある。
材料はサラシ竹とスス竹の2種類。
サラシ竹は普通、よく目にする竹の耳掻きだが、スス竹は竹がコゲた様な色をしていて、買った時にもらった説明書によると200年以上も経った貴重な竹だそうで、当然高い。(多分、使い心地は変わらないと思う)
次に形は耳掻き部分が片側だけに付いたものと両側に付いたものの2種類ある。
耳掻き部分もカリカリと掻くタイプとソフトに掻くタイプの2種類から選ぶことが出来る。
実際には、耳掻き部分の大きさや、使い心地などは調整が効くので、あれこれと気軽に注文すればちゃんと答えてくれる。
更に買ったあとでも持って行けば調整はタダでしてもらえるそうだ。
僕はスス竹で片側だけのものを注文した。
この場合の値段は1550円となり、説明書に書いてあるとおり、「日本一高い耳かき」である。
しかし、自分の耳にあわせて作られていて、使い心地もほどほどに良く、世界に一つだけの耳掻きだと思うと、それほど高いとは感じない。

目的を達した僕は、この天国に一番近い商店街にはもう用はないので、足早に次の目的地へ向かった。

本日、2番目の目的地は「ジュザブロー館」。
ジュザブローとは辻村ジュザブローの事で、昔「新八犬伝」や「真田十勇士」といったNHKの人形劇で使われたあの独特な人形を作った人だ。
別に僕はジュザブローのファンではない。
実は会社でアイデアオリンピックの様な催し物があり、僕の職場ではからくり人形を作る事になっていて、その参考にする為にちょっと覗いてみようと思った。

ジュザブロー館はその名の通り、人形町にある。
通りから少し入った所にあるそれは思っていたよりも小さい。
僕はてっきり美術館の様な立派な建物を想像していたのだが、あまりの小ささに「本当にジュザブロー館なんだろうか」と疑いながら入り口の戸を開けた。
少し薄暗い館内に一歩入るとそこにはあの独特なジュザブローWorldが広がっていた。
館内は二階建てになっていて、一階にはジュザブローが実際に人形を作るための作業机もある。
僕が行った時は遅い昼食とのことで残念ながらジュザブローは不在だった。
作業机の後の部屋には「新八犬伝」と思われるビデオが流れ、周りには作品が壁にかけられていて、薄暗い照明とあの独特の作風から、少しオカルト気味である。
靴を脱いで二階に上がると、そこにも作品が展示してある。
一階の作品に比べ小さく、そしてオカルトチックでは無く、貝殻などを使っている作品もあったりして、少しユーモラスなものもある。
そこには製作途中のサンプルが置いてあり、どの様に人形が作られているのかが分かるようになっている。
今回このジュザブロー館に来た目的とは正にそういった事を知る為だったので、僕が熱心に見ていると一人の女性が近づいてきた。
この館の人(ひっとしたらジュザブローの娘?)で、作り方の説明をしてくれた。
彼女の説明によると人形の顔はまず、木綿の布で小さな袋をつくり、そこへ木クズを一杯に詰め込む。その後、口や目鼻を粘土細工の様に引っ張り出し、その上から「ちぢみ縮緬(ちりめん)」という布を張り、最後に目、口などを描き込むそうだ。
なんだか僕にも作れそうな気がしてきた。
これら作品の他に、ジュザブローの作品集なる本が数種類置いてあり、どうやら販売しているようだ。
僕は一つ一つを手に取り見ていると、人形の作り方が載っているものがあった。
それは先ほど聞いた説明とはまた違った方法で、迷わずこれを買う事にした。
お勘定をしていると「ジュザブローはもう少ししたら帰ってきますので、よろしければサインをします」との事。
僕はジュザブローのファンではないが、ミーハーではある。
有名人のサインが貰えるのなら待ちましょう。
一階でビデオを見ていると、まもなくジュザブローが帰ってきた。
他のお客さんも館内で買ったお土産ものにサインをしてもらっていた。
僕も先ほど買った本にサインをしてもらった。
やはり、どうこどう読めばジュザブローなのか分からないサインだった。
作業机には作りかけの人形が置いてあり、さっきまで作っていたらしい手が置いてあった。
僕はそれもどの様に作っているのかと思い、近くの椅子に腰掛けタバコをふかしているジュザブローに聞いてみた。
「手は手袋のようなものを作ってやるんですか」
「うん、そうね。それからひっくり返してやるのね」
と左耳だけにピアスをしたジュザブローはそう答えた。
有名人と会話した僕は大満足で、ジュザブロー館をあとにした。


■4月 5日
少し遅めに起きた僕はホテル一階の喫茶店で朝食をとったあと、他にやる事もない。
東京医大へは12時40分までに行けばよく、仕方がないので国立がんセンターの一階のロビーで本を読みながら時間を過ごすことにした。


東京医大へは12時半ころに到着。
入院受付窓口の予定時間までにはまだ少しあり、前回の経験から早くいっても病棟は13時までは昼休みなので結局待たされると思い、ちょと遅れていく事にした。
入院受付を済ませエレベータで15階の病棟へ上がる。
ナースステーションに来た事を告げると看護士の戸部さんが病室へ案内してくれた。
戸部さんは僕の担当看護士で、案内されたのは前回と同じ病室だった。
ベッド周りの簡単な説明の後は、場所を談話室へ移して病気の状態などの問診があった。
前回と同様にあの難しいアンケート用紙をもらったが、もう真剣に書く気もおこらず結局出さなかった。
一通り終わるともう今日はやる事は何も無い。
テレビを見たり本を読んだり、ブラブラしていると夕方になった。
夕食のあと今回の担当医の鎗田(やりた)先生が来た。
なんと、ラッキーにも女医さんだ。
小柄で、年は24歳くらいといったところだろうか、少し女優の常盤貴子に似ている(少しだけです)。
今回の入院はでは受持ちの看護士の戸部さんを始め、他の看護士さんも皆かわいく、「女運がいいなぁ」と、僕はちょっとご機嫌である。
しかし、この時の僕はこの後、このかわいい女医さんに痛い目に遭わされることを知るよしもなかった。

診察室へ行き鎗田先生の診察を受ける。
視力検査など、一般の検査の後はあの眼底を見る診察。
指でまぶたを無理やり開けさせられて診るやり方は他の先生とは変わらないのだが、熱心に診察をしてくれるものだから、時間がちょっと掛かる。
そうすると眼の表面が乾いてしまいヒリヒリすると言うか、とても痛い。
かといって、まぶたを閉じ様にも指でむりやり開けられているのでどうにもならない。
こうなったら「思い存分、心行くまでしかっり診てもらいましよう」と覚悟を決めるほかない。

ようやく眼底検査か終わった後は、今回の検査について説明をしてもらった。
僕は放射性物質を注射するとい事は後藤先生から聞いていたのだが、正式な名前を知らない。
鎗田先生に聞くと『123I−IMP』とい名前の注射で、123Iの”I”はヨウ素の事で、通常、人の身体の中にもヨウ素という物質はあり、これはガン細胞の所に集まる性質を持っているのだが、普通のヨウ素では検査をしても分からない。
そこで、それに印を付けた物を注射し、CTスキャンなどの検査で印の付いたヨウ素がどこかに偏って集まっていないかを調べるのだ。
ところが、一つ聞くのを忘れたことがある。
それは、どれくらいの大きさのガン細胞まで見つけられるのかという事。
今度機会があったら聞いておこう。



■4月 6日
相変わらず6時の起床で、朝食は8時。
その間は何もする事がなくただボーっと過ごす。
10時からいよいよ注射とCTスキャン。
今回は2度目なので戸惑う事もなく、ベテランの顔をしながら検査を受け、何事も無く終了する。
ただ正しく血管に注射が出来ず失敗してしまい、それがちょっと痛かった。
ちゃんと血管に注射しないと、全身に123I−IMPが回らないので、無意味になってしまう。

検査が終わったらもう今日は何もすることが無いので外出しようと思っていたのだが、眼底写真を撮ったりエコーでの診察をするとの事で、外出は断念し、病院内をブラブラしていた。
エレベータホールの横にある談話室の窓から外の様子を見ていたら、前回の入院では気づかなかったのだが、都庁がすごく近くにあることを発見。
地図で近い事は知っていたのだが、これほど近いとは思ってもみなかった。
前回の入院の時、新宿駅から歩いて病院まで行こうとして失敗してのだが、都庁を目印にすればよかったのだ。
しかし、以前、都庁に来たときと同様に、ほとんど人が見られなかった。

結局、検査は夕方になってから行われた。
ベッドでゴロゴロしていると鎗田先生が呼びに来て、一緒に2階にある外来の診察室へ向かう。
エレベータに乗っていると、途中の階から数人の白衣を着た先生が乗り込んできた。
そのうちの20代後半くらいの1人の若い男の先生に向かって鎗田先生は軽く会釈をし、その先生も「やぁ」といった感じで軽く片手を挙げた。
その後、二人は会話も無く、男の先生は途中の階で降りていったのだが、降りる際、鎗田先生は「お疲れ様です」と言葉を掛け、男の先生は後ろ手に、密かに手を振っていた。
それまで、美人なのだがどちらかと言えば無表情だった鎗田先生はその後、どことなく、柔らかい表情に変わったのを僕は見逃さなかった。
そして僕は思った、「この二人は出来ている」と。
決して、大学や病院内の先輩後輩といった感じではなく、明らかに恋人同士で、だけれどまだ付き合い始めて間もないといった匂いがプンプンする。
病院ってヒマな所なので、ついつい想像が暴走しがちなのかも知れない。

検査ではまず眼底写真を撮る。
前回の入院では撮らなかったが、その前の外来で来た時に撮った。
眼底写真は瞳孔を開かせる目薬をさし、その瞳孔が開いたところで、カメラで眼底=網膜の状態をカメラで撮る。
ところで、この眼底写真を撮ると言うのはある程度テクニックがいるらしく、鎗田先生はなかなか上手く取れない様で、当然、撮っている間はまぶたは開きっぱなしで、例のごとく眼の表面はヒリヒリ。
そう言えばと思い出した。
初めて東京医大へ外来で来た時に眼底写真やエコーをやってくれたのは、この鎗田先生だった。
あの時も全然上手く撮れなくて、結局、別の先生に代わって撮ってもらった。
今回も途中から別の先生に代わって撮ってもらったが、すぐにまた鎗田先生に戻り、撮影は続けられた。
あれから1年以上経って、少しはではあるが上手く取れる様になっているみたいだ。
エコーも他の先生よりは少し時間が掛かったけれど、無事終了。
検査の後、鎗田先生は僕の眼底の様子を説明してれたり、前回の123I−IMPの検査結果を見せながら、
「特にヨウ素が偏っている部位は見られないので、特別心配することはありません」と説明をしてくれた。
鎗田
先生は未だ半人前だけれど、熱心に患者に接してくれるので非常に好感を持てる。
僕はこれから先、鎗田先生が百戦錬磨のベテランの医師になっても、その一所懸命さを無くさないで欲しいと、鎗田先生のおでこを見ながら思った。




■4月 7日
10時少し前に核医学科へ行きCTスキャンを行う。
撮影は昨日と同じ30分ほどで
終わり、その後は退院する為に、身の回りを片付ける。
2泊3日なので、そんなにはちらかって居ないのだが、一応僕ももういい大人だし、ひっくり返っている掛け布団くらいでも少しは見栄えよくしておく。
ナースステーションでお世話になった看護士の戸部さんに挨拶をし、後藤先生の診察を受ける為、2階の外来へ行く。
外来の受付で後藤先生の診察をお願いすると直に呼ばれ、薄暗い診察室へ入る。
後藤先生の話では今回の検査結果が出るのは2,3週間後になるとの事で、国立がんセンターの金子先生へ結果を送っておくから、電話で確認してくださいとの事だった。
僕は先生の話を聞きながら頭の中で
「という事はゴルデンウイーク明けくらいに電話スっかな」と計算をしていた。


2004.5.4記

 Back   Index / Next