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おらぁ、東京さ行ぐだぁ的闘病記
   〜番外編P〜


大出血
2006年2月6〜8日

■2月 6日(月)

それは突然だった。
朝起きると左眼に痛があり、そして光を感じる事がなかった。
内出血の為、左眼が見えないのは以前から続いている事で、正確に言うと目の中が濁っていて白く見えている状態。
それでも光を感じる事は出来たのだが、今回はそれもない。
痛みはキューっと眼球が押しつぶされる様な感じがする。
鏡を見るとかなり充血している。


■2月 7日(火)
翌日になると幾分痛みは和らいだが、光を感じる事はないまま。
充血もまだ続いている。
眼の中がどうなったのだろうかと色々と考えてしまう。
ついに来たかという事も頭をよぎる。
以前、金子先生に「徐々に見えなくなっていきます」と言われていた。
しかし、これまでは出血を除けば特に変わった事も無く、それに今回は突然だったので、“徐々に”には当てはまらないかも知れない。
もう1つ思ったのは、網膜剥離。
過去に網膜剥離を起こした事が無いので、その場合にはどの様な症状が出るのかは分からないが、そんな事も考えたりした。
更に最悪なのは、死んでいると思われていた腫瘍が実は生きていてそれが破裂したという事。
そんな事は有り得ないかも知れないが、患者は心配し始めるとキリがない。
アレコレと考えると、仕事をしていても、眼が気になって集中出来ない。
スッキリする為には病院へ行って見てもらう事が一番と思い、突然では有るけれど、仕事を調整して診てもらいに出かける事にした。



■2月 8日(水)
起床は5:10。
まだ日の出前で、辺りは暗い。
眠気で朦朧(もうろう)とした状態で名古屋駅へ向かう電車に揺られていると、次第に夜が明けてくる。


新幹線に乗るや否や、動き始める前に眠ってしまった。
品川辺りで目が覚めたのだが、その時、有る事に気が付いた。
昨日までまったく光を感じなかった左眼が、少しではあるが左下の視野に感じる様になっていた。
以前、本当は人間の目(網膜)には上下逆さまの絵が映っているのだが、それを脳で反転させていると聞いた事がある。
そんな事から僕は出血した血が眼球の下部へ沈殿し、その為、眼球の上には若干、血が薄まった部分が出来、そこが光を感じているのだと推測した。(ちょっとヤヤコシイ)
しかし、まったく光を感じない部分も依然としてあり、これは一体どういう事なのか、謎が深まるばかりだ。


築地に着いたら腹ごしらえの為、いつも行く築地本願寺前のドトールコーヒーで、お気に入りのミラノサンドとコーヒーを注文する。
今日は予約無しなのでいつ診察が終わるか分からないから、長期戦を覚悟して予めエネルギーを補給しておくのだ。


病院へは9時少し前に到着。
再診受付の窓口で受付を済ませる。


ここで、注意して頂きたい。
これまでは、予約なしで来ても診察をしてもらえたが、2006年4月からは完全予約制となる。
予約なしで来ても、原則的にその日は次回の予約だけで診察してもらえないので、予約が無くても診察をしてほしい場合は事前に電話で予約をしておく事をお勧めする。
(詳しくは国立がんセンターのホームページをご覧下さい)

受付を済ませた後は眼科へ行く。
おっと、その前に長期戦の為その2。
売店で時間潰し用に雑誌を購入。
これで準備万端、眼科の受付に診察の為の用紙を出す。
するとすぐに呼ばれて、検査室へ入る。
木村先生に「あれ、次は3月じゃなかったっけ」と言われ、よく覚えているなぁと驚いた。
いつもの通り、眼圧などの測定を行なった後は、暫く待合室のソファーに腰掛けて待つ。


1時間半くらいした所で名前を呼ばれて、診察室へ入る。
まずは例の眼底を見る機械で目の中を覗いたあと(眼底が見えていたのかは不明)、エコーで眼の中の様子を撮影する。
鈴木先生の診察によると、出血がひどく、それが虹彩(いわゆる“黒目”の部分)の外側まで出ているとの事。
その為、眼が酷く充血していたのだ。
その出血場所は網膜の裏側からと言う事だが、網膜剥離にはなっていない。
また、一番心配していた「死んだはずの腫瘍が破裂したのでは」という事は、出血の画像と腫瘍の画像が明らかに違う事から、それは否定された。
しかし、目の中にはかなりの血があり、それが黒く大きな影になっている。
出血の量が多かった為、一時的に眼圧が上がり、目が痛かったのだろうと先生は説明してくれた。
今のところ痛みは少ないが、今後痛くなる様なことがあれば、近所の眼科で眼圧を下げる薬を貰って下さいといわれた。
今日の所は、薬はなし。


診察は思いのほか早く終わり、まだ11時を少し回ったところ。
左眼の見えない原因が分かると気分も晴れ晴れし、腹も減る。
昼飯は前回行けなかった、「矢場とん」でヒレかつ定食を食べる。
もちろん、味噌カツで、赤味噌ベースなのだが、味噌汁はどうした訳か白味噌だった。
名古屋でもそうなのだろうか。


余談だが、ここで味噌に関して少しウンチクを。
赤味噌は大豆100%の豆味噌。(「赤だし」と言うものあるが、これはは赤味噌に味付けをしたもの)
一方、白味噌はそれに米麹を加えたもの。
赤味噌の有名ブランド、「八丁味噌」と言えば名古屋が本場と思われているかもしれないが、本当は少しはずれて愛知県は岡崎市。
その岡崎出身の超有名人、徳川家康が幕府を開いたのが江戸、つまり今の東京。
では、その東京でナゼ、赤味噌が主流に成らなかったのか。
元来、江戸には白味噌や赤味噌を初め、色々な種類の味噌があったらしい。
それもそうだろう、参勤交代で全国から武士が大勢やってくるのだから、彼らの口にあった味噌があっても不思議ではない。
では何故、赤味噌が消えていったのかと言えば、実は二つの災禍に原因があるらしい。
一つは関東大震災で、もう一つは東京大空襲。
この二つの災禍により、東京の味噌蔵は壊滅してしまった。
そこに現れたのが、米味噌の信州味噌。
赤味噌は熟成するまでに早くても1年は掛かるが、白味噌の中には週間で熟成する物もある。
この熟成までのスピードの差が東京征服の決め手となった。
味噌蔵を失った東京に白味噌が即座に供給され、甘い口当たりの良さも手伝いスタンダードとなる。
首都東京を攻め落とせば、後は全国制覇など火を見るより明らかである。
・・・と言う事が、「赤味噌、非主流説」の一つらしい。


昼食の後は皇居へ行く。
先日、紀子さまが御懐妊したのとの報道があり、それならば皇居はどんな様子なのだろうかと、野次馬根性120%で出かけた。
皇居へは中学の修学旅行で来て以来2回目。
ウン十年も前の話だ。


皇居へは桜田門から入った。
ここは幕末、大老の井伊直弼が水戸藩士に暗殺された、いわゆる「桜田門外の変」があった場所。
今でも、そんな事件が起こらないように警察が見張っているかの様にバトカーが止まっていた。
坂本竜馬が好きで、幕末の歴史に興味のある僕にとっては、感慨深い場所でもある。
聞くところによると、水戸藩士が井伊直弼の乗った籠を呼び止めるとき、「ちょっとイイですか?」と声を掛けたとか、掛けなかったとか・・・。
ところで、桜田門には門しかなかった。
当たり前と言えばそうかもしれないが、門があって小さな広場があって、また門がある。
敵が一騎に攻めて来られない様にする為の工夫だったのだろうか。


桜田門を通過して次に向かうのは「東京だよ、おっかさん」で有名な二重橋。
♪あれが、あれが二重橋、記念の写真を撮りましょうね〜(by島倉千代子)
と言うわけで、外国から来た皆さんが二重橋をバックに写真を撮っていた。
東京名所のひとつだけあって、海外からの観光客も結構多い。
中でも中国人が多く来ている様で、彼らにとって靖国神社はダメだけれど皇居は


皇居はご存知の通り、その前は江戸城。
今でも所々に石垣が残っていて、それが背景の高層ビル群と見事なまでにミスマッチ。
まるで江戸時代の一部が平成のこの世にタイムスリップしてきたみたいだ。
人類はまだタイムマシーンを完成させていないが、頭の中では勝海舟や徳川慶喜、あるいは名も無き古(いにしえ)の人々とすれ違う事もできる。
人間ってすごい。


ところで、突然思い出したのだが、紀子様が暮らしいるのは皇居ではなく、赤坂だった様な気がする。
人間はすごいけれど、僕の方はそうでもない様だ。


2006.3.8記

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