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おらぁ、東京さ行ぐだぁ的闘病記
   〜義眼編A〜



■はじめての義眼
2007年11月29日〜30日


■2006年11月29日(火)
まだ自宅療養の為、午前中は美容院で髪を洗ってもらってから、昼食を家で食べてから出発。
体力は落ちているものの、体調は90%くらい回復している。

銀座へは5時前に到着したが、今日のところは何も予定が無いが夕食にはまだ時間があるので、一旦、いつものホテルへ寄ってから映画を見る。
ホテルに寄る前にたこ焼きを買って、ホテルで食べてから出発。
映画館は丸の内プラーゼ。
前回、「涙そうそう」を観た時、劇場のど真ん中の席を取ったら周りは女性だらけ(手巻き寿司女や銀杏女)だったので、今回は通路側の席を確保した。
ところが、映画自体が女性向けでは無かったので男性も割と多くいて、取り越し苦労だった。

硫黄島の戦いはアメリカ軍が圧倒的な戦力で日本軍を凌駕したものと思っていたが、アメリカ軍にも多大な被害が出て、またアメリカ国内に於いても英雄に祭り上げられた3人の兵士の人生を狂わせてしまうのは、事の大小の差は有れ、アメリカも日本も同じだったのだと思った。
幸い、あの戦争から日本は「二度と戦争をしてはいけない」と言う事を学ぶ事が出来たが、アメリカは一体何を学んだのだろう。
独立戦争や南北戦争と言った様に、戦争で国を作ってきたアメリカにとって、戦争は政治手法の一つであり、決して「悪」では無いのだろう。
難しい事を考えると腹が減る。
今回も一風堂でラーメンを食ってホテルへ戻る。

■2006年11月30日(水)
眼科の診察時間は11時からだったが、10時過ぎには東邦大大橋病院へ着いた。
他の患者さん達の話しを聞いていると、早く着いたからと言って早く診察をしてもらえる分けではなさそうだが、金子明博先生は眼腫瘍を専門に診ていらっしゃる様で、比較的早く診察室へ入る事が出来た。
今回の診察の最大の目的は抜糸すること。
結膜がはみ出て来ないように、まぶたを縫っていた糸を取る。
どの様になっているのかは見えないので分からないが、パチパチと糸を切っている音が聞こえて来る。
抜糸の後、義眼装着証明書と『義眼工房みずしま』への紹介状を書いてもらう。
そろそろどこの義眼屋で作ってもらうかを決めなくてはと思っていたけれど、それが今日になるとは思わなかった。
義眼屋については名古屋にも支店があって、通うのにも便利な『アツザワ・プロテーゼ』にしようか、それとも長屋の掲示板で評判の『義眼工房みずしま』しようか思いあぐねていたのだが、金子先生が何も言わず『義眼工房みずしま』への紹介状を書き始めたので、それも何かの御縁だろうと思い、先生に尋ねる事も無くそのまま書いて頂いた。
診察の終わりに、先生のHPへリンクさせてもらう事について了解を頂いた。

眼科の後の皮膚科の診察も済ませて、会計を済ませてから病院の前の薬局で乾燥肌の軟膏を貰う。
昼食はどこで食おうかと考えながら東急池尻大橋駅に向かっていたら、途中に良さそうな店が有ったので入ってみたらビンゴ!だった。
安いし上手いし量も丁度いいし、だからなのか近くのビジネスマンなども結構食べにきている様子だった。

『義眼工房みずしま』は王子にある。
渋谷から山手線で田端まで行き、京浜東北線へ乗り換えて2つ目の駅。
紹介状に書かれていた地図を頼りに『義眼工房みずしま』のあるコープ野村を目指す。
普通に道から探していては分かり難いし、そもそも自分が地図のどこにいるかも分からないので、まずは歩道橋に上がって周りを観察。
目印になる交番や銀行を探すと、駅からすぐ近くにコープ野村がある事が分かった。

コープ野村に入るとそこは普通のマンションで、本当にこんな所にあるのだろうかと思いながらも406号室へ向かう。
そこはやはり普通のマンションの普通の玄関で、表札にはただ『水島』と書かれているだけ。
チャイムを鳴らすと、扉を開いて細身で初老の男性が立っていた。
水島先生だろうか。
「higanです。東邦大の大橋病院の金子先生から紹介されて来ました」と言うと
「ええ、先ほど金子先生から電話がありました」と言われ、中へ案内された。
どうやらこの人が水島先生の様だ。
先生以外には誰も居らず、部屋はワンルームマンションで診察室兼作業場といった感じ。
「こちらに座ってください」と椅子を出されて腰を下ろしたと同時に先生の携帯が鳴った。
先生が折りたたみ式の携帯を開き見ると、「まてちゃんからだ」と言うところから推測いるとメールだった様子。
「まてちゃんに電話してみますか」と先生がまてさんに電話をかけて、僕に渡してくれた。
まてさんには眼球摘出手術の前から色々と相談に乗って頂き、義眼屋についてもアドバイスを貰っていて、水島先生にも名古屋まで出張して診てもらえるかを聞いてくれていたので、メールではしていたが、これまでのお礼を言っておきたかったのだ。
まてさんとは会ったことも話しをした事も無かったが想像した通りの声で、何故だか安心した。
「higanです。たった今、水島先生の所に来たところです」と言うと、最初は何の事か分からなかった様子のまてさんもようやく僕の事が分かったらしく、「傷の具合はどうですか」と気遣ってくれる。

暫くまてさんと電話で話した後、いよいよ水島先生の診察。
まず初めに義眼台のサンプルを見せてもらった。
現在一般に使われている義眼台は、「ハイドロキシ・アパタイト」と「メドポール(Medpor)」の2種類の様で(他にもあるかもしれない)、「ハイドロキシ・アパタイト」は一見したところ軽石みたいだ。
どちらも白くて丸くて沢山の微細な穴が一杯あいていて、この穴に眼球を動かす筋肉がガッチリ食いついて、動きを伝えるようになる。
僕の場合、直径が22mmのメドポールが入っていて(紹介状にそう書かれて合った)、後日インターネットで調べてみたら、どうやら一番大きいサイズの様だ。
水島先生の話では、大きい方が義眼の動き良くなるとの事。
理由は
@大きいと義眼が薄くなる→軽くなる→動き易い
A小さいと眼の奥の方で動くので、義眼に動きが伝わりにくい(大きいと動きが伝わり易い)

イメージ図 (多分こんな感じ。違ったらゴメンチャイ)
大きい義眼台 小さい義眼台


日本での一般的な義眼の作り方は、義眼師が患者の眼の中を見てそれに合わせて作られるそうだが、水島先生の義眼の作り方は眼の中に印象差材を流し込んで型を取って、それを元に作られる。
(印象材は歯の型を取る時に使われるものと殆ど同じもの)
日本では水島先生だけが行っているやり方だが、先生が日本義眼研究所を退職される時に若い技師に教えてきたそうだが、今ではやられていないらしい。
やはり『型を取る』という作業が増える事が問題なのだろう。
海外では型を取る方法が一般的らしいが、見ただけで作ってしまう方法もこれはこれで凄いと思う。
どちらの作り方が良いのかは分からないが、患者に合った義眼が出来ればどちらでも良いと思う。

今日はまだ、抜糸したばかりで眼の中が腫れているので型取りは行わず、病院で入れてもらっている有窓義眼と呼ばれる、透明で穴の開いた義眼を取り出して、仮の義眼を入れてもらう。
いくつもの箱に入った貝殻の様な形をした沢山の義眼の中から僕に合いそうなものを先生に選んでもらい嵌めてみる。
合わない義眼は眼の中が窮屈だっり、眼の向きが変だったりする。
鏡を見ながら嵌めるのだが、初めての事なので最初はスムーズにいかない。
上まぶたと結膜の間に義眼を滑り込ませて、次は下まぶたを下に引っ張って義眼に被せる様な感じで行う。
まだ借り物の義眼だし、腫れていると言う事もあってか、まぶたがしっかり開いていないが、鏡に映った義眼の入った自分の顔を初めて見て、手術後ずっとガーゼを貼っていた頃から比べると随分人間らしい顔になったと思った。
と同時に、やはり義眼なので、どうしても死んだ様な眼に見えて、これは仕方がないのだろうかとも思った。

今日付けて帰る物の他に、腫れがもう少し引いた時の為にもう1つ借りて行く。
有窓義眼は水島先生に研磨してもらい、今度病院へ行った時に返却し、また別の患者さんに使われるのだそうだ。
 ←有窓義眼

それから、義眼を外す時に使うスポイトの様な物(正式名称は何と言うのだろう)も貰う。
これを義眼にくっ付けて引っ張ると、義眼がカポっと外れると言うスグレモノだ。
 ←スポイト

壁にはピーコと一緒に写っている先生の写真が掛けられている。
先生の日本義眼研究所時代に撮った写真で、ピーコの義眼も先生が作られたと言う事だ。
もちろん、印象材で型を取ったのだが、その時ピーコに
「先生、私の眼に変な事しないでちょうだい」と言われたというエピソードをコーヒーを飲みながら聞かせて頂いた。

こうして、まだ自前の義眼では無いが、ついに義眼ライフが始まった。

2007.1.7記


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