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おらぁ、東京さ行ぐだぁ的闘病記
   〜義眼編B〜



邦子姉ちゃんとうなぎを食う
2006年12月13日〜14日


■2006年12月13日(水)
午前中は仕事をして、昼食を食べてから出発。
東京に着いたら真っ先に渋谷へ向かう。
今日は忙しいのだ。
まずは渋谷のパルコPart3でウルトラマン展が行われているのでそれを見てから邦子姉ちゃんに会う。
邦子姉ちゃんは母の妹で、本当は叔母なのだが、僕が小さい時はまだ若く、本当にお姉ちゃんだったので今も“邦子姉ちゃん”と呼んでいる。
邦子姉ちゃんは埼玉県の川口市という所に住んでいて、僕が最初に国立がんセンターに入院していた時には見舞いに来てくれて、一緒に聖路加ガーデンへ行ったりもした。
ところが、眼球摘出手術で入院した時は見舞いも無く、「どうしたのかなぁ」と思っていたら、実は母親と喧嘩していて、僕が入院して手術をする事を母は邦子姉ちゃんに連絡していかったのだ。
そんな事を知らない僕は退院した事の連絡の電話を掛けたところ、「えっ、どうゆうこと!!」と言われ、そんなワケで今日会うことになったのだ。

ともあれ、まずはウルトラマン。
(ウルトラマンに興味の無い方は、ここから暫くは読み飛ばして下さい)
僕は初代ウルトラマンも見ていたがそれは再放送であって、どちらかと言えば「帰ってきたウルトラマン」の世代なのだが、巨大ヒーローの元祖はなんと言っても初代ウルトラマン。
やはりこの機会を見逃す訳にはいかない。
ウルトラマンのマスクも展示されていたが、今回のメインはウルトラマンそのものよりも周辺の小道具類で、科学特捜隊の制服やアラシ隊員が使っていた“スパイダーショット”と言う銃(これはレプリカでした)、地味なところではウルトラマンの靴(左だけ)とか、カメの怪獣の甲羅など。
驚いたのは科学特捜隊の基地がベニア板で作られていたという事実。
当時(もちろん再放送)、テレビで見ていた時は何で作られているかなんて考えてもみなかったけど、実際に間近で見るとクギなんかも丸見えで、凄く雑に作られている。
そういった物を一つひとつ丁寧に見ているとオタクの権威、岡田斗司夫を発見。
さすが、オタキングを名乗る事だけあって連れの女性に
「さすがに○※△□がここまで精密に作られているとは思わなかったよね」とか何か語っていたけれど、その女性が理解していたのかは不明だ。

ホテルに着いて直ぐに邦子姉ちゃんから携帯に電話があった。
すぐ近くまで来ているとの事だが、ホテルの場所が分からないらしい。
国立がんセンターの前を通過して交差点を右に曲がって・・・と説明すると分かった様で、また直ぐにホテルの前に着いたと電話が掛かってきたので僕は1階に降りた。
ホテルの前に白い車が止まっていたので中を覗くと邦子姉ちゃんだった。
僕が車に乗り込むと真っ先に、「大丈夫やったんか」と聞いてくる。
邦子姉ちゃんが子供の頃、親戚に眼球どころか眼の周りも取ってしまった人がいて、僕もその様になったのでは無いか、辛い思いをしては居ないかと心配していたと言う。
僕は「眼を取る事によって少なくとも再発の心配は無くなって、良くなるんだから」と説明するが、ひょっとしたら眼球以外の部分も取る事があったのかも知れないと思うと、少し悠長に構え過ぎていたと反省。

ところで車は浅草のうなぎ屋に向けて走っているのだが、丁度帰宅ラッシュで道路は大渋滞の上、邦子姉ちゃんも始めて行く店なのに、その店の場所が今ひとつ分からず、しかもナビは故障している。
そんな三重苦の為か、結局うなぎ屋には2時間以上もかかってしまった。
うなぎ屋は“小柳”と言い、浅草寺の仲見世通りから少し外れた所にある。
店内は満員と言うわけでは無かったがテーブル席は全て埋まっていたので、僕たちはカウンター席に座り、うな重の松と生ビール(僕だけ)を注文した。
ビールは本当に久しぶりだ。
僕はスーパーのうなぎ以外は殆ど食べた事が無いので、この様な専門店でうなぎを食べても、また別の食べ物の様な気がして、美味しいのかどうか良く分からない。
ただ、タレはスーパーのうなぎの様に比べて薄味でその為、うなぎ自身の味が楽しめるのではないだろうか。(グルメでは無いので良く分かりません)

僕がまだ幼稚園へ行く前、一時期、母方のお婆ちゃんの家に家族で住んでいた頃があり、その時邦子姉ちゃんとも一緒に暮していて、随分と可愛がられた様だ。(おバカな僕はあまり覚えていないのだが)
その頃の弟はまだ赤ちゃんだったので、もっぱら僕が遊んでもらっていたのだろう。
そう言えばこんな事もあった。
邦子姉ちゃんが僕をデートに連れて行き(その時の彼と付き合っていたのかは知らない)、僕が彼の車の助手席に座り、邦子姉ちゃんは後ろの席に座ってという、今思えばとんだオジャマ虫だったわけで、それだけでは無く、車に酔ってしまった僕は吐いてしまい車の中を汚してしまったのだ。
つまりそれくらい可愛がられていたワケで、だからこそ今回のことで随分心配を掛けてしまって申し訳なく思っている。


■2006年12月14日(木)
今日の金子先生の診察ではまだ少し腫れているとの事。
昨日のビールが不味かったかな。
「腫れを抑える軟膏を出しておきましょう」との事だったがこの軟膏が曲者で、家に帰ってから結膜に塗ろうと思っても中々塗れない。
綿棒を使っても、指でやってもダメ。
軟膏が結膜にくっ付かないのだ。その為、1回塗るのにかなりの量を使う事になってしまい、1週間くらいで無くなってしまった。
今度からは目薬にしてもらおう。

ちょっと気になっていた事なのだが、実はまぶたがちゃんと開かない。
金子先生に聞いたら「そのうち良くなるんじゃないですか」とのこと。
なんだかちょっと、他人事の様な回答である。

先回の診察の際、先生のホームページへのリンクの了解を頂いたのだが、今回は金子先生から「higanさんのホームページのURLを教えてもらえますか」と言われ、紙に書いて渡したが、ちゃんと伝わったか自信が無く、特に”~”を勘違いされている様子だったので、これも家に戻ってから先生へメールを送らせて頂いたが見て頂けたのだろうか。

眼科の次は皮膚科の診察。
今回は男の先生で、「ちょっと質問していいですか」と言われ、「お風呂は熱いのが好きですか」とか「どんな風に洗っていますか」とか、何でこんな事を聞かれるのかと思っていたら、「熱いお風呂は肌を刺激して良くないんですよ、それにタオルで強くゴシゴシ洗うというのも刺激が強いし、皮脂を必要以上に落としてしまうから良くないですね」と言うことだ。
「病気を治す事も大事ですけど、病気にならないと言う事の方が大事ですね」と、全くもってその通りです。
家に帰ってから先生に言われた通り、いつもより少しぬるめの湯船にじっくり漬かり、タオルでは洗わず、手に石鹸をつけて身体中をまるで手を洗う時の様に撫で回したところ、随分乾燥肌による痒みが改善されてびっくり。
診察では一応、乾燥肌用の塗り薬を出してもらったのだが、結局、ほとんど使う事は無かった。
どんな病気でもそうですが、やはり『病気にならないと言う事が大事』ですね。

昼食を前回見つけた店で取った後、王子の水島先生の所へ向かう。
先生の診察によれば、少し腫れている以外に結膜を縫った糸がまだ残っているとの事。
このまま型を取る為に印象材を流し込むと糸を巻き込んでしまい、印象材を取り出すときに糸を引っ張って具合が悪い。
無理をすればやれない事はないが、そもそも無理をする必要もない。
その為、型取りは次回にやる事になった。(もちろん、その時に腫れていなければだが)

前回よりは腫れが引いているので義眼を交換する。
すると、これまでまぶたが少ししか開かなかったのが、全開とはいかないまでもかなり開く様になった。
どうやら、まぶたの開き具合と言うのは義眼に左右されるらしい。
金子先生に聞いた時、ちょっとムッとしたけど、何だそう言うことか。
だったら、そう言ってくれればいいのに。
ところが、今度はちゃんと閉じなくなってしまった。
軽くまぶたを閉じても2−3mm隙間が開くのだ。
痛し痒しだね。
借り物の義眼だから仕方がないか。
水島先生の話によれば、ちゃんと開く様にすれば閉じなくなる場合もるし、その逆に閉じる様にすればちゃんと開かない場合もあるとの事。
もちろん、どちらも問題ないという場合もあるが、それは作ってみないと分からないらしい。

診察の後は先生とコヒーブレイク。
僕の義眼台に使われているのはメドポール(Medpor)だが、これは厚生労働省では認可されていない。
その理由は金子先生のHPに書かれているが、簡単に言えば、そもそも認可の為の申請をされていない。
申請するためには沢山の資料を集めたり、多額のお金が掛かるが、その反面メドポールを必要とする患者の数は日本では少ない。
つまり多額のお金を掛けて認可をしても、そのお金を回収できないと言うのがその理由。
水島先生によればアメリカでは$650(7万8000円[@120円/$])で購入できるが、もし認可されればその3倍(23万4000円)になるだろうとの事。
それが僕の場合は未認可のお陰で研究費と言う名目で国から補助があって、タダと言うのはもちろんうれしい事なのだが、その一方でメドポールを使用できない人に対しては申し訳ないという複雑な心境。
でも日本でメドポールが一般的に使用されていないのは未認可という理由以前に、医師がメドポールを使う技術を持っていないからだろうと僕は考える。
アメリカに注文すれば1個、$650で買えるのだから手術費用を入れても恐らく20万円もしないのではないだろうか。(健康保険が適用されたとして)
20万円くらいで動く義眼が手に入れる事ができるとすれば患者はどちらを選ぶか、おのずと答えは見えてくるのではないだろうか。
(注:メドポールを使えば必ず義眼が動くというわけではありません)

その他、水島先生には沖縄での苦労話しを聞かせて頂いた。
『よってたかって眼の勉強・7年後 I 愛 Eye』(ピーコ・永六輔共著)によれば、沖縄は太平洋戦争では激戦地で、その為に義眼の方が多いらしい。
水島先生は倉庫の片隅で、今でこそクーラーが付く様になったそうだが、数年前までは汗にまみれながら義眼の製作や調整をされていたという。
そんな苦労をされ、しかも日本中を飛び回って義眼を作っている水島先生は本当に凄いと思う。
その反面、もし水島先生が引退してしまったらどうしたらいいんだろう・・・・
スペアを沢山作っておいてもらおうか。

次回は1ヶ月半後だが、流石にその時は腫れも引いている事だろう。
そうなるといよいよ型を取ってMy義眼の製作がされるわけだ。
どんな義眼が出来るのだろうか。
ちゃんと動いてくれるのだろうか。
ワクワクとドキドキが入り混じって、今から少し複雑な気分だ。


2007.1.20記



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