ネパール東部サガルマタ県山村トレックにおける農村考

さて、私も、任期の半分が終わったということで、任国外旅行へ行ってきました。ネパール東部サガルマタ県を、シェルパ族の友人と2人で歩きました。友人のいたおかげで、ツーリストの歩く地域ではない普通の農村である、彼の故郷を歩くことができました。今回はそんなことを中心に、ネパール紀行です。

1●中国にて

久々の(といっても、まだ2年と経ってはいないのですが。)愛しのねぱーる。でも、出発までにはいろいろとあった。山の良く見える2月に行こうと思っていたのだが、仕事の都合で延期、そして5月3日出発に決定。その1週間前に南寧へ再入国ビザをとりに行き、準備万端…と思ったところで、急に下腹が痛くなってきた。水にでも当たったかと思ったが、一向に良くならず、出発の4日前についに来賓県人民医院へ。この段階で、最悪、「急性虫垂炎で入院、旅行中止」というシナリオを覚悟し、加徳満都の友人当てのFAXも作成した。検査の結果は、「多分急性腸炎で、虫垂炎ではない。」とのことだったが、様子を見る為に1晩病院に泊まることになってしまった。いやはや、入院体験も生まれて初めてならば、点滴体験も初めてである。「こーんなぶっとい打針をする」といわれてぞっとしたが、打針って、点滴のことだったのだね。でも、この日に点滴6本、翌朝また6本で、びっくりした。結局翌朝の超音波検査(?)の結果もシロ。無事薬を持たされて退院となった。旅行もOKだが、辛いもの、油の多いものは避けるようにとのこと。それでは来賓料理はたべることができないではないか。もっとも、こちらもそんな元気はなかったので、その後はひたすらお粥を食べてすごした。なんだか、加徳満都へ転地療養に行くみたいだ。しかし、一体何が原因で、急性腸炎などにかかったのだろうか。

しかし、私がネパール行きを計画すると、以前から時々邪魔が入る。車で事故ったり、飛行機が遅れたり。

邪魔が入っても、結局ネパールへ行ってしまうところが、私とネパールとの関係の強さ(というか私のネパールに対する片想いなのかもしれないが)で、今回も無事出発となった。やれやれ。

南寧―昆明は、あっという間。昆明に近づき、雲が切れると、下は大きな海。一瞬、機長が方向を間違えたと思った。あんな、海みたいに大きな池があるとは思わなかった。昆明の空港はとてつもなく大きくてびっくりした。おまけに花博が始まったばかりということもあり、とても賑やかだった。国内線空港はとても大きいのだが、国際線はほとんど目立たない。何とか捜し出したが、チェックイン開始まで、入口の前(なぜ6人分のベンチしかない!)で待たされた。でも、今日1日で、バンコク行きが3本もあるのはすごい。雲南と東南アジア(というか、タイ国)との強い結びつきがうかがわれる。

2●中国〜ネパール

旅券にぽんとスタンプが押される。無事、居留証も戻ってきたし、安心して出国である。何かあるたびにどどど…と移動し、押し合いをする人たち、やはり中国人旅遊団ご一行だった。チェックインはまだだって言うのに飛行機に向かって突進しようとして、空港職員に止められている。でも、彼らの持っている塔乗券は、おとなりの雲南航空のものだった。この馬鹿騒ぎとも、しばしおさらばできるかな。私の飛行機はタイ航空だし。

飛行時間が短いのに、ちゃんとあったかいタイカレーが出てきたのは立派。辛いものは厳禁?でも、おいしくいただけたし、まあよいか。機内でやっていた映画「A Bug’s Life」も良かったし。映画が終わるとすぐにバンコクドンムアン空港に向かって着陸体勢に入った。タイも、1泊で去るのが惜しいくらい好きな国ではある。でも、いつも乗り換えの為の訪問なのだけど。田んぼの中に、空港の前を通る広い道と線路が見えてきた。

バンコク着。ムワッとした空気が熱帯である。これと比べたら、どう考えても小平陽は熱帯ではない。確かに湿度はあるが、なんだか肌寒い日があったりするのだから。

ここで、ひとつ有益な情報。バンコクで空港から町の中心へ出ようとする時、タクシーを使う人はまあ、それでもいいけど、列車を使うというのは手である。私が列車好きだからすすめる、という面もあるが、渋滞がないから。バンコクの道路の渋滞はかなりおめでたい状態なので、便数こそ少ないが(1時間に1〜2本)、私は列車を使うわけ。以前と違って、駅もきれいになったし、切符も買いやすくなっていたし。

一応案内を入れておくと…エアポートホテルの案内にしたがって、空港の2階へ行くと(これがちょっとわかりにくいが)、ホテルへの渡り廊下がある。で、ホテルへ向かって数十メートル行ったところで右側を注意していると、やっぱりわかりにくい鉄の扉がある(さながら非常口みたい)ここから外に出て、左側(ホテルへの渡り廊下の外側)の橋を行くと、右手にスロープで降りる通路がある。これが駅へ直結している。空港から見て手前がバンコク中央駅(ホアラムポーン駅)行き。奥がバンコクから来た列車で、北部、東北部へ向かうもの。例えばチェンマイとかアユタヤとか。だから、バンコクへ行く人は手前のスロープを下る。で、下りきったところに臨時の切符売場(机一つと、駅員一人がいるだけだが)があるから、そこで「ホアラムポ−ン」と言えば、次の列車の切符を売ってくれると思います。空港から中央駅までは、1時間ちょっと。

 バンコクでは、タイ式のマッサージ(いかがわしくないやつ)を受けて、タイ式の甘くて酸っぱくて辛いそばを食って、それでおしまい。ここバンコックで、腹痛はほとんど治ったのだが、今度は腹から背にかけてじんましんがどっと出てきた。来賓人民医院でもらった薬の中に抗生物質らしいものが入っており、副作用の欄に「希に湿疹、じんましん等が発症」とあったので、この抗生物質の服用を停止することにした。翌日はまた列車で空港へ。

空港の出発案内板でKathmanduの文字を見た時には、不覚にも目が潤んだ。またか、という感じではあるけれども、まあ仕方のないこと。今回は、大分雨季が近づいているようで、カトマンズ到着寸前のヒマラヤ山脈のご挨拶は、すこし靄っていた。でも、またレンガ色の街へやってきた。やっとネパール着。

3●ネパールにて

空港での手続きは、小龍に書いてあった通り、Officialで行列に並ばずにできた。これはすごい。なにしろ、入国手続きの窓口が少ない上に(外国人はビザあり1つとビザ無し1つのみ)、お仕事もスローモーだから。でも、荷物が出てくるのがもっとスローモーだった為、結局はあまり意味がなかった。まあ、先にお手洗いに行けたのは儲けものだった。

空港の出口で友人のニマ シェルパ君と再会。彼と会うのも別れるのも、いつもこの空港である。彼は今日ポカラ方面のトレッキングから帰ってきたとのこと(向こうの仕事を途中で切り上げて)。無事ネパールに来ることができて本当によかった。

タクシーでニマの所属先の旅行社へ行き、近くの書店で買った地図とにらめっこしながら旅程を検討。何とか標高3000m以下をつなぐコースを作り上げた。トレッキングのスタート地点、ルクラまでの国内航空と、帰路の香港までの国際線の座席も確保し、準備万端。

翌日はトレッキングパーミットの申請と、JOCVカトマンズオフィスの訪問。昨日作成したコースで了解をいただいたが、選挙期間中の為治安には注意するようにとのこと。同行のニマ君は、ローカルスタッフから諸注意を受けていた。ともかくも、今回の「農村調査」の準備は整ったわけだ。初めての東部ネパール、わくわくする。ネパールに来る前にトレーニングをしておこうと思ったのに、腸炎だった為に運動不足+栄養不良というあまりうれしくない状況だけど、空気もいいことだし、元気を出そう。ニマ君と山に向けて必要物資の買い出しをする。フィルム、チョコレートあたりは普通だけれど、水の消毒剤、そして今回はじんましんの薬も。つけ薬と飲み薬、どちらもインド製である。怪しいといえば怪しいが(つけ薬などはピンク色をしているし)、中国の薬で起こった副作用ならば、インドの薬は最もよく利くような気がする。なにしろ両国は仲が悪いから。実際トレッキング半ばでじんましんは姿を消した。

曇ってはいたが、ルクラ行きの飛行機は無事に飛び立った。航空券にはYA107ともっともらしく便名が書いてあったが、塔乗券には便名はなかったし、案内の時もルクラ行きといわれただけ、おまけに今日はYA(イエッテイエア)のルクラ行きは何便も出ていたので、果たして私の乗った便が本当に107便だったのかどうか。自由席の早いもの順だし、航空券の時刻よりも40分も早く出発したからあやしいものである。まあ、墜落でもしない限り何便でも構わないわけだけど。カトマンズから15分は雲の中。大きなジェット機ならば不安でもないだろうけど、19人のりの小型プロペラ機ともなるとかなり不安である。後半15分は雲が切れてくれたけれど、雲があったらとても飛べないところだ。峠をすれすれに飛び越えて、谷へと下っていく。左右の丘がせりあがってくる。丘の上に見えるヒマラヤは確かにきれいだけれど、パイロットの手元が狂ったら一巻の終わりである。谷がせりあがってきて、このまま山腹に突っ込むか…といったところにルクラ飛行場があり、上り坂の滑走路に助けられるようにして飛行機は止まった。

標高2804mのルクラはさすがに涼しい。でも、今日は晴れているので、心地よい高原の雰囲気である。丘の上には雪山が少し顔を覗かせている。轟音が響いたと思うと、もう1機イエッテイエアが降りてきた。本当に、田舎道に飛行機が降りてくるみたいで、砂埃を立てながらの着陸である。

とりあえず近くのロッジで荷物の整理と朝食。初めて見るシェルパ族の故郷に、ミルクテイで乾杯した。

ここルクラは、エベレスト方面のトレッキングの起点となる村だが、僕らはここから反対の南へ向かうことになる。エベレスト方面に比べると外国人は少なくなるが、飛行機を使わずにここまで入るメインストリートなので、荷物の行き来(つまりポーター)はとても多い。バスの終点からルクラまでは6日間とのこと。ポカラ方面ではロバが荷物を運んでいるが、ここ、ソルクンブー地方ではほとんど人が運ぶとのことだった。

標高が高い為、米は作られておらず、ジャガイモ、トウモロコシ、小麦、豆、蕎麦などがつくられているとのこと。また、面白いのは混作の習慣で、1つの畑にジャガイモ、トウモロコシ、豆をいっぺんに植えている。農作業が大変そうだが、豆科の植物とそれ以外の植物を一緒に植えることは、窒素の補給という意味で面白いと思った。でも、作業効率を考えると、作ごとに作物の種類を変える輪作の法が現実的だと思うが、ここの場合1つ圃場面積がそれほど大きくなく、全部手作業だからこれで良いのかもしれない。少なくとも単作よりも土にやさしいことは確かだ。このあたりでも米はあるが、全て2000m以下の地域から運んでくるとのこと。

今日は飛行機が何度も往復している。合計で10便は飛んでいるだろうか。お昼を食べたバッテイ(茶屋)で聞いたところ、昨日まで3日ほど飛行機が飛ばなかったという。それほど天気の影響を受けるということに驚いた。

昼食はネパールの一般的な定食であるダルバード。ニマ君がいつも野菜のダルバードなので、結局それに付き合うことになり、僕も山ではベジタリアンになる。ダルバードも3日くらいはうまいのだが、それをすぎるとちょっと飽きてくる。この日は8km(ニマ君の万歩計による)歩いて、外国人向けのきれいなロッジに泊まる。シャワーからお湯が出たのはうれしかった。ラジオをつけると、中国からの人民広播電台が入った。別に中国が恋しいとは思わないが、ネパール語も英語もお手上げの私にとっては、情報として利用できる情報源という意味で貴重だ。

翌日は3000m近い峠を越えた後、1500m近くまで下り、その後少し登ってロッジに泊まり。食事はダルバードでもいいけれど、このあたりではまだ外国人向けのスープやピザ、コーラなども手に入る。この日が15.5km、翌日は10kmと、コンスタントに距離を稼ぐ。体調も幸い良く、腹痛も完全に治っていた。調子が良いのは、腸炎騒ぎで体重が少し減ったおかげか?と思うほどだ。ただ、メインのトレッキングルートから外れた為、食事はダルバードかジャガイモか、と選択肢が減ったが、今のところ苦にならなかった。距離も予定していたより稼いで、ちょっと自分の足に自信が出てきた時、ニマ君が相談してきた。

「実は、僕の村は、ここからそんなに遠くないのだけど」それは知っている。君の村の話しは何度もしているから。見てみたいよねえ。「で、予定ではオカルドウンガに出て、ルムジェタールから飛行機で帰ることになっているでしょう。でも、最近、天気があまり良くないし、選挙期間中は飛行機、飛ばないかもしれないよ」おいおい、そんなことなんで今更言うのだ。飛行機が飛ばなかったら、私は中国に帰れないでしょうが。それに、飛行機が飛ばないことも考えて、予備日を3日もとったではないか。それで、君は何が言いたい。「ジリからのバスは天気が悪くても絶対に走るし、ジリは選挙が終わっているから何も問題はないでしょう。僕の村を通って、ジリまで行かない?」そういうことか。でも、JOCVの規定で、標高3000m以上の場所へ行ってはいけないことは知っているでしょう。僕は、決まっていることは守る主義なんだ。…でも、ちょっとまてよ。改めてカトマンズで買った5万分の1の地図を見ると、ルクラから直接ジリヘ向かった場合、3000mを越える峠が2つあるのだが、いま僕らが通っている南側のコースを進むと、その峠を回避できることがわかったのだった。問題は大きな街へ行かないとJOCVへ、計画変更の連絡もできないこと。最も近い大きな町というと、オカルドウンガになってしまう。オカルドウンガへ行ったら、ジリまで行くのは無理である。明日の夜までに決めてくれればいいとのことだったが、さて。ひょっとしたら飛ばないかもしれない飛行機を当てにして計画どおりに歩くか、事後報告になるが確実な徒歩+バスという手段を選ぶか。

  翌日は小雨〜雹というあいにくの天気。ニマ君の万歩計が作動しなかった為,歩行距離不明。結局この晩、ジリを目指すことに決定する。一番大きな原因はもちろん飛行機の問題だが、かなりの田舎らしいニマ君の村を見てみたいという気持ちがあったことは否定できない。でも、ひょっとしてニマ君、最初から村へ帰る予定でいたのかな。2年ぶりの帰郷だといっていたし。

この日は宿屋がなく、ニマ君が一軒の民家にお願いして、民宿を作ってしまった。びっくりしたが、シェルパ族の世界ではこれもありだという。そこでごちそうになった夕食がきのこと豆のダルバード。きのこのカレーがとても美味かった。ここでははじめて塩味のバター茶(中国で言うところのチベット茶)と、農村のどぶろく、チャンもごちそうになり、翌朝は麦焦しのツアンパも初体験。一気にシェルパ文化をいろいろと体験した。彼らも家の中でお香(線香)をたくようで、日本の田舎の家と同じ香りがした。

  翌々日、ニマ君の故郷のとばくちであるパタレの村へたどりついた。昼食はニマ君の友達の実家へおじゃまして。ニマ君が平気で上がるので、てっきり食堂かと思ったが、ベットのある部屋で食事をするのは妙だ。で、聞いてみたら友人の実家とのこと。いやはや。でも、知人の家でも、泊まったり食事をしたり、お世話になった時はお金を渡しているようで、これはかえってはっきりとしていていい習慣だと思った。要するに、一般の家を宿や食堂にしているわけだから。もっとも、現金収入の少ない村に対して、村と比べたら破格の現金収入を得ているニマ君が還元しているとも言えるのだろうが。

この辺の村は、みんな深い谷の縁にへばりついているよう。日本の場合行政区分の境は尾根筋(分水嶺)にあることが多いが、ネパールでは谷筋()を境にしていることが多い。これも、ネパールの村が高いところから谷に向かって発展していることを考えれば納得がいく。役所、学校等の主要施設はみんな尾根の上である。

「友人の実家」では、ニマ君は話したいことがたくさんあったようで、すっかり出るのが遅くなってしまった。雨も強くなってきて、今日の宿泊地、「いとこの家」に着く頃にはずぶぬれとなってしまった。やれやれ。おまけに村に入ってからの道は、段々畑を結ぶ小道に変わってしまい、かなりスリルがあった。ニマ君に言わせれば、それでも「公道」とのことだったが。

いとこさんのご主人もカトマンズでトレッキングガイドをしているとのことで、家にいたのはいとことその子供、家事の手伝いに来ている近所の娘さんだけだった。このあたりの家は、家の中は暗いが窓の向こうに谷の対岸が見渡せて、1枚の絵の様に美しい。もっとも、いくら景色のよいことを誉めてみたところで、ここでの暮しは、電気無しガス無し(水道は、山の斜面を利用した自家水道がある家もあるが)坂だらけの地形と、厳しいものであることは間違いないのだが。

夕食はさすがにダルバードはちょっと飽きてきたと思っていたら、「マッシュポテト」だという。でも、作り方も見た目も、餅そっくり。臼と杵でポテトをつくと、こんなに粘るものだとは知らなかった。餅つきは、ニマ君も手伝っていた。

さて、その翌日は「おばさんの家」まで。深い谷へ下りて川を渡り、坂を登っていくと、いよいよニマ君の故郷、キジ村である。もっともキジ村といっても広くて、そこから故郷の集落、キジフェデイまでは、3時間以上もかかった。なにしろ谷が深く、2時間以上かかってやっと対岸の同じ高さの場所へ上がるといったありさまなのだ。ここでは、ポップコーンをいただく。別にアメリカから輸入された習慣ではなく、このあたりでは昔からトウモロコシをはじかせて食べていたとのこと。

この谷に入ってから、チャンの「もっと飲め攻勢」がはげしくなる。このあたりの人は主食代わりにチャンを飲んでいるのではないかと思うほどで、朝おきがけから、昼、夜と時間を問わずに飲む。おまけに私(とニマ君)がお客さんということもあってか、訪問した家では必ず飲むことになる。小平陽のもっと飲め攻勢を思わせるが、救いは中国の米酒と違ってアルコ−ル度数の低いことと、ちゃいまー(じゃんけんのようなゲームで、負けたほうが飲む)がないので一応自分のペースで飲めること。それに、各家で味が違うのが興味深く、独特の酸味も気に入ってしまい、いつしか好物になっていた。「シエシエ」は中国ではありがとうだが、シェルパ語では「どうぞ」の意味になる。そこで、家の人は「シエシエ」と言ってチャンを注ぎ、客は「トウチェチェ」と言ってそれを受ける。うっかり「謝謝」といってしまい、その理由をニマ君に説明してもらって、大笑いとなった。折角「トウチェチェ」と言っても、ご主人はもっと注ごうとしてそこをどかない。少し口をつけて、もう一度注いでもらい、やっとOKというのが習慣のようだ。ニマ君の話しだと、飲み干してしまっては行けない、少し残して、次に注がれるのを待つとのことで、これも乾杯乾杯の中国の習慣よりものんびりしていて、私好みではあった。チャンは子供でも飲んでいるようで、おばさんたちも大好き、このあたりは専ら酒飲みは男の仕事という来賓とは違うところだった。

そして翌日、村のお寺を見た跡、ついにニマ君の実家へ。お寺の近くにはニマ君のおばあさんが住んでいた。ここでも、当然の如く茶とチャンが出る。お寺のお坊さんは、ニマ君のお父さんの弟とのことだが、今、韓国に勉強に行っており、不在とのこと。韓国、てっきりキリスト教徒の多い国と思っていたが、そんな一面もあったのだろうか。フェデイ集落は7軒の家があり、そのうち6軒はシェルパ族で全部ニマ君のご親戚であり、残りの1軒はタマン族。お寺のお祭りの時には周辺の村からも人が集まるとのことだった。

ニマ君の実家には現在、お兄さん夫妻とその子供、そして妹が住んでいる。「おばさんの家」から「実家」まで、ニマ君の話しだと2時間以上かかるとのことだったが、実際は1時間の距離。村の暮らしを見ることができるので、文句はないのだが、これは親戚回りをしたいと言うニマ君の策略に完全にはまったようであった。それとも、雑談、チャン飲みの時間も含めて2時間ということだったのか。まあ、靴ずれが大分ひどくなってきたので、ここいらで休むのも悪くはないが。

目の前に見えていたニマ君の実家へは、もう一度谷川へ下りなければならなかった。隣の家まででも10分以上の山道。これは、足が丈夫になるわけである。ニマ君のお兄さんは家の前で畑仕事をしていた。いかにも田舎暮らしといった風情で、ニマ君の何倍も純朴そうな人だった(ニマ君も純朴には違いないのだが、今回の策略?等、都会暮らしで頭の回転が速くなっているように思う)。弟の急な帰郷に(というよりも、弟がつれてきた客にか?)ちょっと戸惑っているようだったけれど。家は今までで一番こじんまりしていたが、なんだか落ち着けた。

そうしているうちに山羊をつれてニマ君の一番下の妹が帰ってきた。上の妹は結婚しており、2時間ばかり離れた村に住んでいて、真ん中の妹は今日はそこへ手伝いに行っているとのこと。帰ってきた下の妹さんがまた、兄貴に輪をかけて純朴そうで、初めて見る私に、何の警戒心もなくスマイルを見せてくれる。あいにく私のネパール語会話能力はお粗末なものなので、「私の名前は○○です。あなたのお名前は?」とか、「お元気ですか」とか、「お会いできてうれしいです。」とか、「この牛は黒いです」といった会話(?)しかできないが、私はちょっとハイになっていた。彼女は、ジャガイモ掘り、家畜への餌やり、乳搾り、チャン作りと忙しそうだった。村の暮らし(特に女性)は、そういうものなのだろう。家畜へやる為の葉っぱを一緒に運んだが、重いこと!それを持って、急坂を駆け下りるのだから、大したものである。

おやつに食べた茹でたジャガイモがうまかった。また、ジャガイモにつけた玉ねぎと唐辛子と岩塩をすりつぶしたソースが素朴で、これまたとてもうまかった。(中国には、生の野菜を使う習慣はあまりないので、余計にそう感じたのかもしれない。)

その夜は昨日お世話になったおばさんをはじめ、キジ谷のニマ君の知人が集まって、またまたチャン飲み大会となってしまったのだった。

翌日、後ろ髪を引かれる思いで出発。ニマ君の上の妹の家へ。そこからは、この谷の中心地、キジバザールが良く見下ろせた。学校、郵便局といった主要施設や、店などが、夕日を浴びて輝いていた。キジバザールの少し上の緩やかな丘に、現在滑走路を建設中で、これができればカトマンズからは20分で着くことができるようになるらしい。そうなれば私も再訪できる…かどうかはともかくとしても、村にとっては随分助かる話しである。今の状況では、急病人が出ても(ヘリを呼ぶほどの経済力はないだろうから)徒歩2日のオカルドウンガの病院へ行くほかはなく、手後れになりかねないだろう。ニマ君と、キジに空港ができたら、2人でロッジでも作るかと冗談を言い合った。

集落の丘の上には、現在お寺を新築中で、目下、お堂内の仏画を描いているところだった。そこで絵を描いていた坊様のうちの1人が、いとこに似ていて親近感を持った。また、絵師の一人が日本語で話しかけてきた。何でも、10年近く前に犬山のリトルワールドにネパール式の仏教寺院を建てた時、そこの仏画を描く為に1年ほど日本にいたとのことだった。まさかここで日本語を話す人に出会うとは思わず、僕もびっくりだったが、彼もまさかこんな所で日本人に出会うとは思わなかっただろう。

翌日は、いよいよこの谷ともお別れ。歩行距離が長い為、朝の7時に出発。キジバザールは、朝日に照らされて、やっぱりきらきらと輝いていた。

途中、ヒマラヤの望める丘の上のお寺を見て、谷へ下る。ここまでずっと一緒だったシェルパ文化も、これで一応終わり。チェットリ族の文化圏に入る。といっても、家の建て方が全く変わってしまった以外には、生活に変化は見られない。同じように家の周りでジャガイモやトウモロコシを栽培し、山羊や水牛、鶏などを飼う。家の形は、シェルパ族が白壁に大きな窓が一般的だったのに対し、チェットリ族は、赤と白半分づつの壁に小さ目の窓である。でも、チェットリ族はアーリア系の民族なため、顔はインド系。一目で分かる。それにシェルパと違いヒンズー教徒である。もう、シェシェやトウチェチェではない。ニマ君の言葉も自ずとネパール語に変わる。このあたり、日本人にはなかなか理解できないところではあるが。

このあたりに来ると、面白いように住み分けがされていて、谷沿いはチェトリ、山に上がるにしたがって、タマン、さらに上はシェルパ、比較的大きな村は混住と行った按配である。ニマ君は、やっぱりシェルパ族の経営する宿に泊まりたいようで、別にこちらも異存はないのでそのあたりは任せた。

再びエベレスト街道の幹線に合流し、コーラやピザ、フィルム、トイレットペーパーといった品物が手に入るようになると、まもなくバス道路の終点、ジリである。ジリに着いたのは、カトマンズへの飛行機が飛ぶ予定の日。改良した予定どおり、明日のバスでカトマンズへ戻れそうである。ジリにもニマ君のおじさんが住んでいて(乾麺工場へ勤めているらしい)、そこではじめてアラック(ネパール語だとロキシー)という、チャンから作った焼酎を飲んだが、これは中国の白酒並みの強い酒であった。ジリは、この奥の全ての村の生活物資の供給点であり、村の中にはいろいろなものが山のように積まれていた。

翌日の急行バスでカトマンズを目指す。道路は舗装はされているものの、舗装の幅はバスの幅ぎりぎり(両側に路肩はあるが)、今まで見たバス道路の中で一番狭いと思った。ちょうど公園の中の遊歩道やサイクリングロードと似たような感じであった。そのためスピードが出せず、ジリを7時に出たバスがカトマンズに着いたのは、16時であった。ただ、小平陽のバスと違い、乗り心地はよかったが。

カトマンズ到着後、JOCV事務所に電話を入れると、「昨日はルムジェタールからの飛行機は飛ばなかったそうですね。ご苦労様でした。」とのこと。計画変更の事後説明をしようと思っていたのだが、僕が今日帰って来たことに対して何の疑問も持っていないらしいカトマンズ事務所の調整員さんに、私は黙ってしまったのだった。さて、この日はルムジェタールからの飛行機は飛んだのであろうか。(ごめんなさい。遅まきながら、この場で計画変更の事後報告をします。)中国へ帰国後、ニマ君からのEmailで、彼の友人が3日間ルムジェタール空港で飛行機が飛ぶのを待っているという情報を得た。やれやれである。確かに、一番正確なのは自分の足…というお国なのだ。

カトマンズでの2日間は、買い物と散歩で終わった。出発前に来賓県科技の人にお手数をかけてしまったので、何か買って行かねばならないし、ネパール国王の写真でも、自分の部屋に飾ってみようかとも思っていた。トレッキングの途中で食べたチーズが美味しかったので買って帰りたかったが、検疫が面倒くさそうなのと、中国の暑さでいたんでしまいそうなのとで断念した。

カトマンズでは、JOCVのドミトリーに泊まった。ネパール隊員の方がかなりたくさん滞在しており、熱気にあふれていた。中国の連絡所(北京にあり、我々が上京した時には無料で宿泊できる)の閑散とした様子とは大違いであった。これは国の規模が違う為、当然のことではあるが。ネパールと中国では状況もかなり違うようで、ネパールではマラリアやアメーバー赤痢などの患者もよく出るようだった(中国の隊員でこういった病気になった人の話を、聞いたことがない。考えてみれば中国中で一番その可能性が高い(?)来賓で、誰もかかっていないのだから、やはり中国は比較的安全な国なのだろう)。

ネパール隊員の方のお話を聞くと、被援助大国となっているネパールでは、「○○をください」コールに悩まされるようである。それはそうだ。面子が大事な中国ですら、やはり「○○がほしい」という話はよく聞くのだから。

山の中では健康を保っていたのに、カトマンズに着いてすぐに下痢。一日の半分は出歩き、半分はドミトリーの図書館で本を読んでいた。ネパール隊員曰く、「カトマンズの水は村と違って悪いから」とか、「村では人間も栄養状態がよくないから、細菌とうまく共生しているんですが、カトマンズでいいものを食べると、腹の中で暴れ出すんですよ。」とか。確かに、山の中ではほとんど穀物と野菜だったのに、小平陽に帰ったら食べられなくなると思い、卵丼、とんかつ定食、韓国焼き肉と、贅沢をしていたから。で、またまたインド製下痢止めのお世話になったのだった。

4●さよならネパール

5月22日、ロイヤルネパール航空の香港行きで帰国である。朝早いのでいいといったのだが、ニマ君は結局空港まで見送りに来てくれた。いつものシェルパ式見送り布を持って。別れ際にニマ君に、妹への英語、日本語教育をお願いしたことは言うまでもない。

あいにく雨季、ロイヤルネパールのB757ジェット機は、トリヴバン空港をぴょんと飛び立つと、たちまち雲の中へ入ってしまった。今回は、レンガ色の街が遠ざかる余韻に浸ることさえ許してもらえなかった。あーあ。

と思っていると、機体は雲をつきぬけた。右窓にはヒマラヤがずらりと並んでいた。さすが偉大な(?)ネパール、雨季ではあっても、ちゃんと見送りに出てきてくれていたのだった。ランタン、ガウリサンカル、エベレストをはじめとするクンブーの山々、多分あのオカルドウンガ郡の上空を飛んでいるのだろう。そしてカンチェンジュンガ。ネパールの果ての山である。フェリベトウンラ。再見ネパール。

そのあとはずっと雲の上。ロイヤルネパールの機内食は、中国国内線よりは上であったが、やはり雰囲気の点でタイ航空にはかなわなかった。隣に座ったネパール人のおじさんは、日本語が話せた。日本で働いていたことがあるらしい。今度は香港で働くつもりらしいが、初めてなので少し不安だといっていた。

中国時間に戻して15時すぎ、「間もなく香港」との案内と共に高度が下がる。下にマカオを見た後、いやに時間がかかって、香港新空港に到着した。ピカピカの上にともかく大きな空港で、旅客ターミナルを結ぶのに地下鉄が走っているのには恐れ入った。負けるな関空、成田。ただ、大きすぎて一体いつになったら空港から出られるのか、不安になるほどだったが。何しろここまで来てしまえばあとは小平陽に帰るだけであり、そうなると一刻も早く帰りたかった。ネパールネパールと騒いではいるが、私にだって小平陽への愛着はあるのである。入国審査はあっという間だったが、税関が曲者だった。カトマンズからの便は差別的扱いを受けているらしく、並ぶべき列が指定されていた。麻薬を心配しているらしいのだが、前で審査を受けているネパール人は、大きな荷物を全部開けさせられて、その上匂いまでかがれている。かれこれ1人当たり20分である。僕の前にはまだ3人もいるというのに。前に並んでいた白人のバックパッカーが、税関係員に文句を言っていたが、この列で待てと言われている。前のネパール人君、今度はポケットのチェックである。さすがに僕も頭に来て、税関係員にパスポートを見せ、今日中に中国に入りたいのだがというと、「ジャパニーズ」とつぶやきながら空いている別の検査台へ案内してくれた。日本人だったからよかったのか、公用旅券だからよかったのか。まあ、世界的に日本人は無害と思われているようで、そういった評価を作ってきた同胞には、心から感謝であった。結局僕の検査は、手提げ袋をちょっと覗いた上で、口頭で「申告するものはないですね(ちなみに日本語)」と言われただけでOKとなった。その間20秒。後ろを見ると、ネパール人君はまだ審査が続いている。国籍でこんなに扱いが変わってしまうのは、ちょっと気の毒に思えた。ネパールにいる間かぶっていたトピー(ネパールの帽子)を、カンチェンジュンガが見えなくなった段階で脱いだのだが、もしあれをかぶっていたら、僕もまだ行列に並んでいたのかなあ。

5●ただいま中国

空港からはこれまたピカピカの空港快線で九龍へ。九龍駅へ行ってみると、広州直通の最終列車はすでに出た後だったので、まずは国境の羅湖まで近郊電車で。駅でカトマンズから戻ったらしい女性に、深せんへの列車はここでいいのかと普通語で聞かれる。普通語がこんなに分かりやすいとは、再発見ではあった。羅湖から歩いて深せんへ。人は多かったが、中国人でもなく香港人でもない人間は多くはなく、比較的スムーズに中国へ戻った。香港滞在2時間、1晩くらい香港で泊まるか、とも思ったが、やはり小平陽へ急ぐことにした。

深せんから広州までは高速列車が次々に出ている。すぐに次に出発する列車の切符も購入でき、広州へ。わずか1時間である。この列車は軟座しかついていなかった為、初めて軟座を体験する。車体には「1等車」と書かれている。社会主義の国では、その表現がよくないということで軟硬とかソフトハードと言った言葉を使っていたはずなのに、やはり深せん、広州は、資本経済化していると思った。でも、考えてみれば資本主義国家であるどこぞの国では、1等車という言葉を廃して「グリーン車」などという怪しい言葉をつかっているが。

懸念していた広州―柳州の切符も、硬臥こそいっぱいだったが軟臥が手に入った。切符売場にもがらのよくない兄ちゃん達がたむろしており、「切符を買ってやる。俺じゃないと買えないぞ。なぜ俺の親切を受けられない」と喧嘩腰であったので、とりあえず今回はさっさと退却できてほっとした。そんな、本当に親切な人ならば、喧嘩腰にはならないし、顔を見ればいい人か怪しい人かは6割方見当がつくって。実際広州の治安の悪さは、うわさではかなり広まっているのだから。

初めての軟臥だったが、同室になったのはごく普通のお兄さん2人組み。軟臥に乗れるのは党幹部か軍人、警察官、外国人等と聞いていたのだが、意外だった。もっとも、僕が切符を買う時も、外国人居留証すら確かめなかったし、中国もお金さえあれば誰でも軟臥に歓迎光臨といった風潮になりつつあるのだろうか。

この列車で柳州まで行けば、小平陽行きの普通列車に乗り継げるはずだったのだが、中国国鉄の私への歓迎によって、2時間半の遅れ。乗り継ぎ不能となり、その日は来賓まで。翌日、科技局へ挨拶に行った後、小平陽へ帰ったのだった。

来賓では、病院の請求書、4百元強也が待っていた。

 小さい字で長々と書きました。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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