中国鉄道の旅 第6回 来賓〜猛洞河(504次直快 677km 17時間46分173元)
猛洞河〜吉首(203次特快51km1時間1分
5元)
吉首〜懐化(819次普客103km3時間3分
7元)
懐化〜来賓(503次直快523km 11時間12分)
この地域、時刻改正の影響が大幅に見られます。504次は2012次普快に、503次は2011次普快に変更、ただし時刻の大きな変更はありませんが、短距離列車に影響が出ています。203次の時間帯には5305次普快、K505次快速の2本がありますが、いずれも猛洞河には停車しません。819次は8407次普客となり、お昼頃猛洞河発に時刻が早まっています。(2000.10月現在)
旅の初めはいつもの通り来賓駅の切符売場。自由席の切符もいつも通りすぐ買えた。でも、切符はマイナーな行先らしく補充券である。今日は12月31日、紅白でも聞きながら猛洞河への列車の旅を楽しむつもりである。切符売場では身勝手な清算業務のため10分ほど待たされたが(客を待たせてでも引継ぎのための残金確認をやる国鉄職員の貴方、労働者のかがみである)、そのあとはすぐに切符を売ってくれた。定刻の18時過ぎに張家界行きは到着。今回も、駅ホームで交渉成立、すぐに寝台車に招き入れてくれた。今日はガラガラのようだ。ラジオのスイッチを入れると、ラジオジャパンがかすかに入り、紅白をやっているらしい事はわかった。年越しそばは望むべくも無いので、ビールで汽車旅に乾杯し、さっさと寝てしまった。翌朝、もちろん元旦である。でも、ここ中国では、特に祝賀ムードというわけではない。車内放送でも、淡々と「今日は1999年元月1日です」とやっていた。列車は懐化で進行方向を変えたようだが、まだ薄暗く、外の景色はわからない。でも、山の中を走っているらしく、トンネルが多い。この辺りの中心地吉首の手前で、景色が見えるようになった。吉首はそれなりに大きな街のようで、半分以上の乗客が下車した。ここでは乗客だけではなく、たくさんの柚(メロン並みの大きさがあり、結構甘くておいしい)達も下車していった。昨晩遅く服務員達が大量に車内に運んでいるのを目撃していたので、これは多分彼らの副業なのではなかろうかと推測した。何しろ、ベットの下から網棚、上段中段のベットまで、柚だらけになったのだ。9時前に崖にへばりついたような猛洞河駅着。外に出るとそのまま急な石段がついていた。石段を下りきると湖となっており、ここから船で王村へ行く事になる。この船、今にも沈みそうな木造の木っ端船である。こんな船の中で火をたいて大丈夫かと思うが、ともかくまだ客が集まりそうもないので、火鉢の近くの席を勧めてくれた船頭さんと一緒に、煙草でも吸いながら待つ事にする。この煙草、体に悪いし煙いのだが、こういう場では最も有効なコミュニケーションの道具となるのが、ここ中国である。そのうち、2人連れの中国人が乗ってきて、話をする。彼らの顔は丸顔、そしてどこか日本人に似ていると思ったら、この辺りの少数民族、土家族との事だった。どうやら里帰りがてら民芸品を仕入れて、商売にでもするようである。そのうち、王村行きの別の船が着いたらしく、そちらへ乗って出発。船はボロいが、視点が水面に近く、そこから見る景色は新鮮である。湖の回りのあふれるばかりの緑の木々、来賓とは違う環境であると感じる。この地域は水が豊富であると感じた。岩陰をまわるたびに新しい景色が広がる。視野が広がると王村に到着した。ここ、王村は中国映画の名作、「芙蓉鎮」を撮影したところである。船着き場からすぐに石段となっている。その石段の両側には、木造の情緒あふれる家々が続いている。この街並みにも、日本を感じさせる。木造の家と豊かな木々、これは無関係ではないと思う。土家族のお二人とはここで別れた。別れ際に記念にと、民芸品の手織りの鞄をいただいた。
ホテルは、船着き場から真っ先に目につく猛洞河賓館。オフシーズンのためか、扉が半分閉まっており、フロントには誰もいない。2階に上がって服務員をつかまえる。掲示されている宿泊費が高いのでどうしようかと思っていると、半額近くに割り引いてくれた。窓から見下ろす景色は良いのだが、ともかく寒い。街を散歩する事にした。石段を登っていくと、芙蓉鎮の舞台となった米豆腐屋があったりする。米豆腐は当地の名物らしく、店がたくさんあるのだが、オフシーズンのためか全て休業中。残念であった。土家族文物陳列館を見学する。館長自ら展示物の案内をしてくれる。その後館長に誘われて近郊の見所を見に行く。油を絞るための小屋だの、そこへ行くための渓流上りだの、ミニ石林、大岩の笛だのと、結構楽しんで、3時間以上も歩き回った。その結果、ガイド料を半強制的に支払う形となったが、それなりの価値はあった。オフシーズン時の館長さんの副業だろうか。さらにバスで2時間も行ったところに温泉があるという事も教わり、翌日出かけてみる事にした。近郊の旅の後、文物陳列館の隣の食堂でこたつに当たりながら、ミカンなど食した。こたつにミカン、やはり日本的である。王村の住民はほとんど土家族との事で、顔も丸顔が多く、私が歩いていてもあまり違和感がない。ちなみに小平陽では面長の人が多く、私など結構目立ってしまう。小平陽以上に寒いのが欠点だが、のんびりした気分になった。今日は町全体が停電中との事。一度ホテルに戻ったが、部屋の中も寒く、近くの食堂へ夕食に行く。食堂の人は、寒いだろうと言って炉端に座らしてくれたので、家の人と一緒にろうそくの灯の下で食事をする事になった。部屋に戻ると、一応自家発電装置が働き、電灯はついていた。でも、暖房、風呂は無し。せっかくホテルに泊まっているのに、風呂にも入れないのかとがっかりしていると、宿の人が魔法瓶3本分の熱湯を持ってきてくれた。これに水を足せば、お湯で体を拭く事ができるという寸法である。なるほど。おまけに布団をもう一枚持って来てくれたし、本日唯一の客に対して、精一杯のサービスをしてくれた。今はこんな状況であるが、シーズンには観光客であふれるらしい。電気も切れたので、ラジオを聞きながら就寝。
翌1月2日は、10日に3回(2,5,8の日)開かれるという市場を見たあと、予定通り永順県城の温泉へ。王村の町を抜け、水田地帯を抜けると、バスは渓谷沿いの危なげな山道に入る。バスとは言っても日本のお古の右ハンドルのバン、追い抜きの度にひやひやする。そんな所でも植林は進んでおり、この地域ではいかに木を大切にしているかがうかがわれる。永順についた後、温泉探しに一苦労。温泉は不二門風景区という森林公園の中にあった。この公園も、暖かい時期ならばピクニックにぴったりな所。その一番奥にある温泉は、河原に半露天(天井が半分くらい無い)で存在していた。個人用風呂と大浴場があり、大浴場は男女に分かれている事から、水着の必要がないのがありがたい。日本の温泉と同じように楽しめる。しかし問題点が一つ。こちらの人は浴槽の中で体を洗うのだ。最初白濁した温泉かと思ったのだが、良く見るとそれは石鹸。泉温はほど良いし目をつむっていればいい気分なのだが、これには参った。でも、かなり感覚が中国化していた私は、外が寒い事もあって1時間以上もつかっていたが、正常な感覚の日本人ならば意地でも個人風呂を選んだ方が良いと思う。
久しぶりのシャワーではない風呂を楽しんだ後、崖にへばりつくような永順の街を散歩し、再びバンバスで王村へ帰る。文物陳列館の前で館長に声をかけられ、「土家族のかまど」でつくった夕食をごちそうになった。民族文化の展示物がそのまま実用品に早替りである。帰りに昨日の食堂で米粉を食して、ホテルへ戻る。食堂の兄ちゃんには、気候の良いときに絶対にまた来るようにと言われた。今日も王村は停電、おまけにホテルの自家発電もストップ。でも、お湯は持ってきてくれた。
1月3日、今日も朝から極めて寒い。湖面から大量の霧が発生するため、朝は一面真っ白。これがまた必要以上に寒さを感じさせてくれる。布団の中で中国語の勉強などをして霧が晴れるのを待つ。11時、意を決して船着き場へ向かう。しかし一体いつ船が出るのやら。着いたときには気がつかなかったが、様々な行先表示をつけた船が並んでいる。ここでは船が重要な交通手段なのだ。米粉屋のおばちゃんに、駅へ行く船はどれかと聞くと、そのうち出るから待っていなさいという。こちらものんびりした気分になって、米粉を食べながら待つ事にする。うわさ通り湖南の人は辛いもの好きである。辛さにも2通りあって、中国語では麻(まー)、星(らー)と表現される。らーは唐辛子の辛さ。まーは痺れるような山椒の辛さ。来賓菜のらーはかなり強いが、ここ王村では、らーとまーを共に多用する。しかしこの2つの辛さのハーモニーが気に入ってしまった。私の前世は土家族なのかもしれない。
11時50分、とりわけ古そうな船の船頭が、石段を登りながら「ロイシー」と叫んでいる。ゞ袋卆露〃これが駅のある船着き場の名前である。数名の客を乗せて出発。来たときと違ってすいている。角度を変えながらこじんまりとした王村が遠ざかっていく。船で去るときはいつも感じる事だが、船の速度というのは人の感情の速度に最も近いと思う。もう一度ここへ来たいという気分にさせられる。直線区間に入ったとき、船頭さんは曲芸を見せてくれた。船を自動操縦にして運賃を集めに来たのだ。自動操縦といえば聞こえはいいが、要するに船に進路を任せて客室(?)をまわったという事である。前方に現れた橋脚に激突しないかとひやひやした。料金は4元。何故か来た時よりも1元安かった。予想よりも早く駅に着いたため、12時47分の懐化行き203次特快に間に合った。この列車は特快といいながら、来た時に乗った直快の車両を使っていた。それならば特快料金を取るのは詐欺だと思うのだが、まあ、台所事情の厳しい中国国鉄にけちをつけるのはやめよう。乗車率は100%近い。早めの列車に乗れたので気になっていた吉首で途中下車、街を散歩してみる事にする。吉首の駅は目下新築工事中で混乱していたが、活気にあふれていた。駅前にはバスも止まっているし、大学もある。駅前通を歩いていくと賑やかな公園に出た。たまたま縁日をやっていたらしい。サトウキビをかじりながら覗いてまわる。少数民族の踊りを見たり、お土産の酒、煙草などを買ったりしてから、15時47分発の819次普通列車に乗る。
さて、この列車が奇想天外、広州から来た18両編成の特快列車のうち、最後尾4両の硬座を開放したもので、駅は大混乱であった。列車の到着時間になると、駅員が乗客を最後尾に追い立てるのである。それまで案内板には、ホームの前方で待つようにと書かれていたにもかかわらず、矢印をくるりとひっくり返して怒鳴りたてる。乗客の大群はそれこそ柵に追い込まれる家畜のようなものである。そして列車が着くと、停車する前から窓枠に手をかけ、飛び乗り始める。走っている列車に飛び乗るというのは、さすがに初めて見た。国鉄側も国鉄側なら、乗客も乗客で、お互いの切磋琢磨の跡がうかがえるが、外国人たる私にはとても真似のできない事であった。それでもなんとか席を見つける。中国でも、2人分の席をぶん取っている人はいるが、こちらから言えば席を空けてくれる事が多い。普通列車のため、結構乗客の入れ替わりが激しく、まもなく窓側の席に移る事ができた。吉首駅で購入済の地ビール、武陵源ビールの栓を開ける。窓の外は猫の額ほどの田畑が延々と連なる段段畑である。農家の人の苦労が忍ばれるが、段段畑を見ながら列車の揺れに身を任せるのは悪くない気分である。車内販売のおばちゃんから、らっきょう漬け(これも辛い)と落花生を買う。「どこから来た」と聞くので、「広西から」と言うと、「そうかい、大変だねえ」などと言う。さすがに田舎の普通列車ともなると、外国人が乗っているとは夢にも思っていないので、言葉が下手なのも外地人(地元以外の人)だからだと思うわけで、これは結構気分が良い。同じモンゴロイドならではの特権である。その後も老夫妻、ヤンママ、若者集団と、同席者は変わっていったが、皆外国人が同席しているなどどは夢にも思わずに話しかけてくれる。この区間、のんびり普通列車を選んだのは大正解であり、武陵源ビールの甘目の味も、雰囲気に見事にマッチしていた。老夫妻とは2区間の間同席した。おじいさんは言葉がなかなか通じないのを、自分の方言が強いためだと思ったらしく(確かに訛りはすごかったが)「普通話が苦手で…」と恐縮していたので、こちらから正体を明かさざるを得なかった。「どこから来た」「広西から」「広西のどこだ」「来賓から」「何しに来た」「観光。懐化で乗り換えて家へ帰る」…これだけでは私が外国人である事はわからないわけだ。都市や観光地の人ならば、ここまでで中国人ではない事を見破るのかもしれないが、ここの人はあまり普通話のうまくない田舎の人くらいにしか思わないようだ。まあ、話が込み入ってくればこちらのヒアリング能力には自ずと限界があり、正体を明かさなければいけなくなるのだが。ヤンママの子供と戯れているうちに、2人も降りていった。少ししゃれた格好をしていたが、彼女も農家の奥さんなのだろうか。若者集団とは特に打ち解けた。日本人である事がわかってからは質問の嵐であった。例によって、日本経済に関する難しい質問も飛び出した。懐化に着いてからも、彼らのうちの一人は心配して切符売場まで送ってくれた。
懐化の駅では、奇跡のごとく寝台券がすぐに入手できた。懐化、柳州等の地方鉄道管理局所在地では、比較的簡単に指定券を入手できるようだ。一安心できたので夜の懐化の街を散歩してみた。街の規模はそれほど大きくないが、一通りのものはそろっていそうである。北方餃子なるうまい餃子を食べ、そのあと中国に来て初めて足ツボマッサージ店へ入ってみた。旅の終わりに足の疲れを一気に解消できた。後は503次列車に飛び乗って、寝てしまうだけ。翌朝目が覚めた時には、柳州を出た列車は次の停車駅、我らが来賓へ向かっていた。
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