歴史のぺーじ
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  81: 忠臣蔵
     江戸時代 1603〜1867

       1701年(元禄14)3月14日
      勅使饗応役・播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのり
      江戸城中・松之大廊下にて、典礼指南役・高家筆頭
      吉良上野介義央きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷(にんじょう)。

       浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介は負傷するも一命をとりとめ、お咎めなし。
      赤穂藩は取り潰しとなり、この幕府の裁決に異議を唱えた赤穂浪人47人が
      1702年12月15日未明、江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、吉良を討ち取り
      江戸高輪泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を捧げる。

       1703年2月4日、本懐を遂げた赤穂浪士46人は、預かり先にて切腹。
       (寺坂吉右衛門は討ち入り前後に出奔?

       人気の高い忠臣蔵赤穂事件)の概略は、おおまかに書くとこのようになります。
      仇討ち・忠義の物語として、数多くの映画などが作られていますが
      三国志などと同じで、物語と史実との間には数多くの相異があります。


       普通思い浮かべる 「忠臣蔵」 のストーリー・エピソードなどは
      事件の直後にこれに熱狂した庶民などが作り出した
      読み物や浄瑠璃などで創作されたもので、もっとも有名であるのが
      1748年に初演された浄瑠璃の 「仮名手本忠臣蔵」 かと思われます。

   <1 仮名手本忠臣蔵>
       赤穂事件というものは、お上の裁決に対して異議を申したてた義士たちの
      仇討ちの物語として庶民の人気をはくしましたが、江戸幕府の執政下において
      いかに人気のある事件とはいえ、実名を出して演じることははばかられました。

       そこで用いられたのが、足利尊氏室町幕府初代将軍)の譜代の家臣で
      実質的に軍の実権を握っており、
太平記でも悪役とされている
      
高師直こうのもろなお)を吉良上野介、高師直に陥れられる
      
塩冶高貞えんやたかさだ)を浅野内匠頭に見たてて上演することでした。
      実名を伏せていても、それが誰を示すのかは周知のことであったようです。

       もっともかぶき者の武人・高師直と、有能な吏僚であった吉良上野介とでは
      その実像に大きな隔たりがあるのですが。

   <2 吉良上野介>
       吉良氏というのは、足利義氏足利尊氏の5代前)を祖に仰ぐ鎌倉以来の名家で
      14代義安の時に今川氏にいったん滅ぼされたものの、吉良義安の養父と
      徳川家康の祖父が義兄弟であったことから、再興されました。

       吉良上野介を 「高家筆頭」 と言います。室町時代には足利氏を ”公方” といい
      その一門を ”公家(こうけ)・
高家” と呼んでいましたが ”公家(くげ)” と
      混同することから、のちに ”高家” の文字のみを使うようになりました。


       徳川の時代になると、高家は儀式・典礼を司る職名となり
      室町以来の名家をこれに任じて、世襲の職としました。

      高家の中でも、吉良上野介は家格・経歴・実績の上でも郡を抜いており
      まったく別格の扱いをうけていました。

       詳細は省きますが、吉良上野介は信心深く有能な吏僚で、領民に対しては
      善政をしく名君であり、忠臣蔵で描かれている悪役としてのイメージとは
      かなりのギャップがあるので、戸惑いを覚えるかもしれません。

   <3 上杉家>
       上杉謙信以来の名門・上杉家豊臣秀吉の天下、上杉景勝の時代には
      五大老・会津120万石の大大名でしたが、関ヶ原の戦いで西軍に与した為
      1601年には徳川家康により、米沢30万石に移封されてしまいました。

       1664年、藩主上杉綱勝が27歳で急死してしまいました。
      後継ぎのいない綱勝の急死に、上杉家の家臣たちは慄然とします。
      それは上杉30万石の廃絶を意味した為でした。


       藩主に後継ぎがいない場合、藩主の臨終に際して養子縁組をして相続者を立てる
      末期養子まつごようし)という手を用いるのですが
      綱勝の死があまりに急であった為、末期養子は立っていませんでした。

       上杉家はこの危機を脱する為に、縁戚であり幕府の実力者でもあった
      保科正之に相談しました。保科正之は、名門上杉の存続の為に奔走します。
      その際に白羽の矢が立ったのが、吉良上野介のもとに嫁いでいた
      綱勝の妹・
三姫富子)の子で、生まれたばかりの三之助上杉綱憲)となりました。

       上杉はたしかに名門であるが、吉良も清和源氏の流れを汲む名家。
      その嫡子を養子に出せば、吉良家の後継ぎがいなくなる。渋る吉良上野介に対し
      保科正之は、まだ若い吉良上野介には、これからも子に恵まれるであろうと説得し
      三之助を上杉家の養子に出させることを承知させました。

       しかし先回りして言ってしまうと、吉良上野介は後継ぎを得ることが遂にかなわず
      吉良家の後継ぎは、三之助(上杉綱憲)の次男・春千代吉良義周・よしちか)を
      養子に迎えるまで待たなくてはならないことになります。

       上杉家は存続することはかないました。しかし石高は30万石から15万石に
      減封されることになりました。減封されたものの、本来なら取り潰されているところ。
      上杉家は吉良上野介に感謝し、高家という職柄上費用のかさむ吉良家に対して
      惜しみなく援助することになります。

       しかし赤穂事件に際して、赤穂浪士を討つ為の準備中に、幕府より
      「親の仇と称して騒動を起こさぬよう固く申し付ける」 と釘を刺されてしまった為
      動くことがかなわず、庶民から冷笑を浴びせられることになってしまいました。


       忠臣蔵では、出馬しようとする上杉綱憲の前に 「上杉家の御為!」 と
      家老が立ちふさがる名場面がありますが、これは完全な創作となります。

   <4 浅野内匠頭>
       「この間の遺恨、覚えたるか!
      この突然の怒声と共に、浅野内匠頭は小刀を抜き放ち、吉良上野介を
      背後から斬りつけました。誰もが目を疑うこの突発事に、殿中は騒然となりました。

       この突然の刃傷・遺恨の原因としては、いろいろな説が出ています。
      一番有名であるのが、吉良上野介の意地悪説となります。
      浅野内匠頭が賄賂を贈らなかったことに対する嫌がらせである
      「式服の違い・増上寺の畳替え・料理や衝立の間違い・出迎え位置の違い etc・・・」

       これらのことは、実は全て作り話になります。勅使を迎えるといった
      幕府の重要な儀式において、万が一饗応役の浅野内匠頭が大失態をしたりしたら
      それは当然指南役である吉良上野介の責任にもなり、信用の失墜にもなる。

      そのようなことを、吉良上野介が浅野内匠頭に対してするはずがないのです。

       浅野内匠頭は勅使饗応役を命じられた時、再三に渡り辞退を申し出ています。
      赤穂藩の財政はけっして良いものではなく、財政立て直し中の内匠頭にとっては
      経費がかかり、無礼な勅使たちの接待をしなくてはならないことなど
      ご免こうむりたい役目であったと思われます。

       苦しい財政の中からはじき出した総費用は700両(もちろん藩の負担)
      しかし今ではどう見積もっても1500両はかかる。
      700両と聞いて驚いた吉良上野介は、再三にわたり再考するように忠告するが
      浅野内匠頭は自説を曲げず、強引に700両の予算で行事を押し進めてしまいました。

       役目上、吉良上野介は再三にわたり忠告を繰り返す。
      苦しい財政の中から捻出した費用に対する何度もの忠告と、馬鹿馬鹿しい饗応役。
      こんな馬鹿らしい饗応役を押し付けた幕府に対して文句の1つでも言いたいが
      それは口が裂けても言えない。次第に幕府の代理人である吉良上野介に対して
      憎悪がつのっていく・・・。


       事件よりも10年も前に浅野内匠頭について評した記述というものがあり
      それには 「利発」 とあった後 「小気にして(手際がよく)律儀なりと云へども短慮」
      などとあったりします。

       そして浅野内匠頭にはつかえ)という持病があり
       (
胸がつかえて息苦しくなり、癪などで胸がつまる症状。尋常でない苦しさを覚えます
      饗応費の問題などの吉良上野介とのトラブルから憂鬱状態にあり
      持病の癪が発生したことから、もう自分を押さえることができなくなった・・・。


       もちろん推測の域を出ません。明確な刃傷の原因については謎です。
      ちなみに ”賄賂” と書いてしまうと語弊があるのですが、饗応役の者は
      その指南役に対して多大な進物を贈ることになっていました。

      これは賄賂ではなくて、慣習、つまり常識ということになります。

       浅野内匠頭は 「多大な進物は無用」 として贈らなかったので
      様々な嫌がらせにあった・・・というのが忠臣蔵の俗説ですが
      これがもし本当であるならば、むしろ浅野内匠頭の方にこそ非があったことになります。

   <5 徳川綱吉>
       1646年、徳川綱吉は将軍・徳川家光(在・1623〜51)の四男として生まれました。
      家光の死後、嫡男・徳川家綱(在・1651〜80)が将軍となりましたが
      家綱はなかなか世継に恵まれませんでした。このまま家綱が没することになれば
      次の将軍は三男の綱重(次男は夭折)となるところでしたが
      1678年、綱重は病死してしまいました。

       そしてその状態のまま、1680年には家綱が重病に陥ることになります。
      ここで次の将軍として、綱重の嫡男・綱豊(後の6代将軍・徳川家宣)を推す派と
      家光の四男・綱吉を推す派、鎌倉幕府にならって、
皇族将軍を迎えるといった派に
      分裂することになりました。
大勢が皇族将軍になりかけたところ
      老中・堀田正俊がこれに激烈に反論し、家綱の病床に参じて
      綱吉を世継とする遺言状を書かせました。
      こうして5代将軍・徳川綱吉(在・1680〜1709)が誕生することになります。

   <6 側用人>
       綱吉は、天和の治と呼ばれる名君振りを見せることになります。
      ところが1684年、大老・堀田正俊が江戸城本丸御用部屋付近で刺殺されるという
      大事件が起こりました(※綱吉が殺させたという説有り)。

       この事件をきっかけとして、将軍の御座の間の近くから
      御用部屋は遠くへ移ることになり、間を取り次ぐ役目として
      御用取次役側用人)が設けられることになりました。そして側用人として
      綱吉にもっとも信頼を置かれることになるのが、柳沢吉保よしやす)となります。

   <7 桂昌院>
       綱吉の生母は桂昌院けいしょういん)といいます。
      彼女がごく普通の女性であったならば、綱吉が ”犬公方” などと呼ばれることは
      なかったかもしれません。ところが桂昌院は、負けず嫌いの野心家でした。

       桂昌院がもっとも敵視していたのは、自分よりほんの少し早く男子(綱重)を生んだ
      順性院でした。綱重は没してしまいましたが、綱重には嫡男の綱豊がいる。
      なかなか世継をもうけることのできない綱吉が
      もしもこのまま没するようなことがあったら
      将軍職をにっくき順性院の孫、綱豊にもっていかれるのは間違いない。

       焦った桂昌院は、もっとも信頼していた僧の亮賢りょうけん)に相談をもちかけ
      亮賢のすすめで大和の僧・隆光りゅうこう)を招きました。隆光曰く
      「将軍様にお世継が授からぬのは、前世に殺生した報いである。
       綱吉公は丙戌(ひのえいぬ)のお生まれ、わけても犬を大切になされよ」

   <8 生類憐れみの令>
       儒教を熱心に学んだ綱吉は 「親孝行」 に心酔するあまりか
      母の言葉にそのまま従い、1685年を端にして悪名高い
      「生類憐れみの令」 を出すことになります(1687年以降極端化する)

       極端な動物保護令として悪名高い生類憐れみの令ですが
      その本当の狙いは、他にあったと言われています。
      戦乱が遠い昔のこととなり、経済が著しく成長し、平和を謳歌する時代になると
      戦乱の時代に活躍した武功派の武士たちは、その存在意義を失うようになり
      かわって行政手腕に長けた吏僚派の武士たちが力を持つようになっていきます。

       武勇以外に持つところのない武士たちは、現状に不満を持ち
      反抗的な態度に出るようになります。彼らを 「
かぶき者」 と呼びますが
      彼らは戦国の野蛮さを殊更強調する為に 「犬食い」 をすることを常としていました。


       幕府は秩序の安定の為にかぶき者の取り締まりに全力をそそぐようになり
      生類憐れみの令によって、かぶき者の象徴とも言うべき 「犬食い」 を
      大罪として押さえこむことで、戦国の世が完全に終わったことを
      印象付けようとした・・・とも言います。


       泰平の世というのは、武辺者にとっては満たされない時代となります。
      そこに発せられた生類憐れみの令は、更に不満をつのらせ
      武芸の技を廃れさせることにもつながりました。そして信じ難いことですが
      赤穂浪士たちは誰1人、切腹の作法ですら知らなかったとも言います。

       背後からの不意打ちにもかかわらず、浅野内匠頭が吉良上野介を
      討ち果たせなかったのは、その武芸の廃れのあらわれの1つであるとも言います。
      赤穂浪士の義挙の裏面には、武辺者の満たされない心情が動力となって
      彼らを討ち入りに駆り立てた・・・という面があるのも見逃してはいけません。


   <9 裁決>
       浅野内匠頭の刃傷の報告に対して、綱吉は激怒しました。
      江戸城中、それも清浄であるべき儀式場を血で汚されたのだから
      綱吉の激怒も当然のことでした。更に綱吉を激怒させたのが、取り調べに対する
      「上へ対し奉り、いささかのお恨みこれなく候へども、
私の遺恨これあり・・・
      という、浅野内匠頭の言葉でした。


       私の遺恨をなぜ大事な儀式の場で果たそうとしたのか。場所柄もわきまえず
      刃傷に及ぶは不届き至極。綱吉は、即座に切腹の裁決を下しました。

       一方、吉良上野介に対しては、不問にしました。
      殿中における刃傷事件というものは、過去にも例がありました。
      そのいずれもが、刃傷を受けた側には不問としていました。
      なぜならば、いずれの場合においても刃傷を受けた側は、即死または無抵抗で
      一方的な刃傷であったからでした。


       浅野内匠頭の場合においても、吉良上野介は無抵抗でした。
      つまり綱吉の裁決は決して片びいきなものではなく、赤穂藩士の主張した
      「
喧嘩両成敗」 には該当しないものとなります。

       浅野内匠頭は 「かねてから知らせておくべきだったが、その余裕がなかった。
      今日の件はやむをえずにやったことである。さぞかし不審に思うことであろう」
      としか遺言を残していません。これで家臣たちに何を伝えたかったのか
      残念ながら私にはさっぱりわかりません。

        風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

       映画などでは、この辞世の句を伝えられた大石内蔵助が、仇討ちを決意する
      名場面となるのですが、残念ながらこの辞世の句は、後世の創作となります。

   <10 討ち入り>
       忠臣蔵を見ていて最高に盛りあがるところは、当然吉良邸討ち入りのところと
      なるのですが、同時にある種の違和感も覚えるものと思います。

       47人もの武装集団が集結するのを何故察知できなかったのか?

       綱吉の治世下に断絶・減封となった大名の数は、50近くにも及びます。
      失職した浪人の数もかなりのものとなるのですが、彼らが新しい仕官先を求めて
      江戸に来るのは別段不思議なことではありませんでした。
      そして彼らが騒動を起こすようなこともありませんでした。

       武士の世界の主従関係においては 「御恩と奉公」 という契約関係によって
      成立することになります。赤穂藩の場合は、主君の側からの
      一方的な契約不履行となるので、奉公の義務から解放された家来には
      吉良上野介を討たなければならない理由など、どこにもないことになります。

       (あるとすれば、逆恨みになりますか

       赤穂浪士四十七士の討ち入りは
      「永年の君恩に報いる証として、主君・内匠頭の仇を討つ」 というものを
      根拠としているのですが、仇討ちに参加しなかった者が不忠にあたるのかというと
      そのようなことはなく、むしろ四十七士の方が突出した異端集団であったことになります。

       幕府・上杉・吉良にしてみれば 「被害者にあたる吉良上野介が狙われる」
      と予想する方がムリなことでありました。むしろ武装集団が吉良邸に討ち入るまで
      それを察知できなかった町奉行側にこそ、落ち度があったことになります。

       忠臣蔵では、吉良上野介は赤穂浪士に怯え、剣客を雇ったり屋敷を改造したりして
      討ち入りに備えていますが、実際にはそのようなことはなく
      突然の討ち入りに驚愕することになります。


       炭小屋に隠れていた吉良上野介が発見され、47士が取り囲む中
      大石内蔵助が 「吉良上野介殿か?」 と礼儀正しく確認するのが
      討ち入りのクライマックスとなりますが、これも創作となります。

       実際には、吉良上野介は台所で見つけられ
      浪士たちに滅多切りにされてしまいます。検死では、28ヶ所の傷があったといいます。
      吉良側の剣客として一番に名のあがるのは、清水一角であると思いますが
      清水一角のモデルは清水一学といい、剣客などではなく、ただの中小姓になります。

   <11 義挙か暴挙か>
       赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、幕府首脳陣を驚愕させました。
      赤穂浪士の行動の意図が理解できず、さらに将軍のお膝元である江戸市中で
      徒党を組んで高家の屋敷に夜襲をかけ、大量殺戮事件を起こすなど
      幕府の威信にかかわる大事件であった為です。

       本来ならば、謀反の罪で簡単に処罰できるところなのですが
      赤穂浪士が 「主君の仇討ち」 と称していることが問題となりました。
      しかし、浅野内匠頭は吉良上野介に対して一方的な刃傷に及び
      その結果幕法によって処罰されたのであって、吉良上野介が
      浅野内匠頭を殺したのではないから、仇討ちとする理由は成り立たない。


       幕府は評定において赤穂浪士を 「武士道にあるまじき夜盗の輩の所業」 として
      真向から否定しました。ところが江戸の庶民をはじめ、諸大名・旗本までもが
      赤穂浪士の行為を 「
忠義の仇討ち」 として喝采しました。
      息詰まるような綱吉の悪政に対する、不満の現れかもしれません。

       動揺し慌てた幕府首脳陣は、一転して ”真実の忠義の所業” であると
      考えるようになります。君臣の絆が希薄となってしまった泰平の世において
      今回の事件は支配者層にとって 「忠義」 の教化をする
      格好の手本となりえるからでした。


       しかし将軍も幕府も諸大名も、赤穂浪士の忠義を救おうとしても
      天下の仕置き(法律)は曲げられない・・・という矛盾に突き当たることになります。
      浅野内匠頭の刃傷においては即決した綱吉も
      今回は慎重にならざるをえませんでした。

       2ヶ月半にも及ぶ評議の末、柳沢吉保は荻生徂徠おぎゅうそらい)の説を入れて
      「切腹」 という武士の体面を尊重することで、世間の批判をかわすことにしました。

   <12 吉良家の断絶>
       1703年2月4日、赤穂浪士46人は切腹の刑に服しました。
      同日、討ち入りの際に奮戦して負傷していた吉良家当主・吉良義周が
      評定に呼び出されました。そこで吉良義周に言い渡されたのは
      「赤穂浪士が吉良上野介を討った際、その方は仕方不届につき領地没収
       諏訪安芸守へお預け
」 というものでした。

       これにより吉良家は取り潰しとなり、吉良義周は罪人の身となりました。
      この吉良家の罪を進言したのは、町奉行・保田越前守宗易やすだむねやす)。

       「刃傷事件で浅野家は断絶したのだから、吉良家は赤穂浪人の討ち入りを
        警戒していなければならぬのに、何も準備していなかった。
        だからむざむざと討たれたのである。これは武士としての怠惰である。
        それに親の恥辱は子も逃れざるもの。義周の処罰は当然である

       保田は自分の失態を吉良家にすり替えており、幕府が吉良義周に申し渡した
      「仕方不届」 についても、はなはだ疑問に思えるところがあります。

       赤穂浪士に襲われる理由など何もないのが吉良家であり、そもそも深夜に
      突然武装集団に襲撃を受けた人が 「仕方不届」 にならないはずがない。

      この処分は、赤穂浪士を異常に喝采する世間におもねるため
      何がなんでも吉良家を断絶させようという、幕府の政治宣伝かと思われます。

   <13 最後に>
       これが赤穂事件の全てで、これをもって全てが終わった訳では当然ありません。
      書ききれない説や人物・経緯・その後などがまだまだたくさんあります。
      どちらかと言うと、今回の内容はかなり吉良びいきのような気もしますが
      赤穂浪士が正義で、吉良は悪である」 という ”常識” は
      一方的な見解であると思いますので、あえてアンチテーゼ風にしてみました。


       「忠臣蔵」 というものに対して、なんだか否定的な文章のような気が
      しないでもないのですが、忠臣蔵は好きで、決して否定している訳ではありません。
      ただ忠臣蔵はあくまで ”ドラマ” として楽しみ、そこからその人なりに
      何かを感じるのが良いのではないかと思います。

        ※ 最後の文章は、平成11年のNHK大河ドラマ 「元禄繚乱」 で
           吉良上野介を演じた石坂浩二氏の言葉を参考にしています

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  82: 平将門
     平安時代 794〜1192   「源平系統図」
 
   <1 延喜・天暦の治>
       藤原摂関政治が全盛を迎える (1016〜67) 約1世紀前
      醍醐天皇 (在897〜930) 村上天皇 (在946〜67) による天皇親政が行われた時代
      後世、延喜・天暦の治えんぎ・てんりゃくのち) と呼ばれ、王朝政治の盛時として
      理想の世と回顧されることになるのですが、まさにこの時期に日本の東西で
      承平・天慶の乱じょうへい・てんぎょうのらん) と呼ばれる
      2つの大乱が起こることになります。

       1つは瀬戸内海の海賊を率いて、一時的に大宰府をも占拠することになる
      藤原純友 (ふじわらのすみとも) の乱 (939〜941)
      もう1つが、一時的に坂東八ヶ国を制圧することになる
      平将門 (たいらのまさかど) の乱 (939〜940) となります。

   <2 律令体制>
       7世紀半ばの新羅(しらぎによる朝鮮半島の統一と、による朝鮮半島への進出。
      危機感と防衛の必要に迫られた朝廷は、唐にならった律令制度を導入して
      それまでの日本では考えられないほどの
      強大で組織された軍事体制を作り上げました。


       ところが朝鮮半島の動乱が終息し、国際的緊張が弛緩してくると
      貴族たちは他国の侵略を現実の課題とは考えなくなっていきました。

       そうなってくると、経費のかかる軍団などを強力な統制下に組織しつづける
      必要性が後退し、朝廷による軍団編成能力も低下してくるものとなりました。
      軍団の空洞化・兵士数の削減・防人 (さきもり) の廃止など
      8世紀末から9世紀にかけて、一連の動きが加速していくことになります。


       一方で、朝廷の支配領域は東へ東へと拡大していくことになります。
      国家防衛の為に編成された軍団は、蝦夷(エミシなどに対する武力として
      導入されていくことになります。

   <3 東国>
       東国は、古来から朝廷に良質な鉄や優秀な馬、騎馬や弓射の技術に長けた兵など
      軍事力をもたらす地域として存在していました。

       「東国」 という言葉には、近江 (滋賀県) 以東を指すものと
      「坂東八ヶ国 (
武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)」 を示すという
      2通りの解釈がありました。


       また 「関東」 という言葉も、本来は近江よりも東の地域を意味していましたが
      時代と共に東へと移動し、現在では 「坂東八ヶ国」 とほぼ同じ領域を
      指すようになりました。時代と共に東国の示す範囲は変化していっても
      「軍事力をもたらす地域」 という認識は、長く維持されることになります。


       軍事力の対象が 「新羅」 から 「蝦夷」 に変わると
      東国は 「軍事力をもたらす地域」 であると同時に 「最前線」 にもなりました。

       一方、中央では政治闘争を勝ち抜いた藤原北家を頂点とする身分秩序が成立し
      中央政界での上位官職を占める一族が固定され、そこから排除された
      多くの貴族たちは、新たな栄達の場を地方社会に求めざるをえなくなりました。


       地方の国を受領した貴族は、任国に向った後
      大規模な土地の開発による所領経営を展開するようになり
      次第に土着し、その拠点を地方社会に移していくようになります。

       また、中央の直接的な権力の及ばない地方は、盗賊などの襲撃が
      頻発することになります。とくに最前線である東国ではこれが激しく
      治安を維持し、朝廷への納税の義務を果たさせ、反乱者たちを取り締まる為
      軍事面での高い能力を持つ者の受領が東国では望まれることになります。

   <4 桓武平氏>
       地方に土着した貴族たちは、自らの生活の基盤としての荘園の設立に
      積極的になり、公地は減少する一方となりました。
      地方官は任地において私腹を肥やすことに専念し、租税体制は崩れ
      土着勢力は、所領の支配などをめぐり武力抗争を繰り広げる。
      これが 「延喜・天暦の治」 の実態となります。

       土着勢力は所領をめぐり争い、旧来からの在地勢力なども
      中央からの干渉・圧迫に対して反抗を繰り返す。
そうした土着勢力の中で
      次第に棟梁として仰がれるようになるのが桓武平氏になります。
      源氏・平氏誕生のいきさつなどは 「源氏と平氏」 を参照してください。

   <5 平将門>
       高望王たかもちおう) は武芸に秀でた人物で
      889年、貴族反乱討伐の功として平姓を賜り、上総介に任じられて関東に下り
      土着して現地勢力を従えるようになりました。

       その三男の平良持(良将よしもち(よしまさとも言う)) も
      武者としての名声が高く、鎮守府将軍 (対エミシの長官) に任じられました。
      良持の根拠地は下総にあり、その地で多くの所領を経営していました。

       良持が没すると、その所領は子の平将門まさかど) に
      引き継がれることになりました。将門は藤原北家嫡流で、摂政・太政大臣を務める
      藤原忠平ただひら) と主従関係を結び、忠平の家人となっていました。

       将門は父・良持の遺領問題や女論などをめぐって
      叔父の平国香平良兼平良正くにか・よしかね・よしまさ) らと
      長く勢力争いを続けていました。
      (女論・・・平良兼 (または常陸掾・源護ひたちのじょう・みなもとのまもる)) の娘との
            結婚の問題をめぐるトラブル)

       この争いは年を追って激化していき、935年に至り将門は
      平国香および源護の子息を殺害してしまい、常陸で平良正の軍をも破りました。


       平国香の子で、当時京都にいた平貞盛さだもり) は
      父の仇を討つべく関東に下り、これに呼応した平良兼・源護と共に将門を攻めますが
      936年、逆に下野で大敗を喫してしまいました。

       武力では将門を打ち負かせない源護は、将門の所行を朝廷に訴え
      将門の処罰を要求していましたが、936年10月に上洛した将門は
      一連の行動に関する弁明を行い、936年には無罪判決の獲得に成功しました。
      藤原忠平との結びつきが功を奏したのは、言うまでもありません。

       ここまでの将門には反乱などという要素はなく、単なる私的利害の衝突という
      「私戦」 にすぎず、そのようなことは当時けっして珍しいことではありませんでした。


       ところが将門の武威が増すにつれ、それに依存しようとする者が現れるようになり
      939年になって、事態は急展開をすることになります。

   <6 乱の勃発>
       939年、武蔵国権守・興世王おきよおう) は
      正任国守・百済貞連くだらさだつら) の着任を前に
      足立郡内へ租税徴収の為の巡検を強行し、これに土着の豪族である
      武蔵武芝むさしたけしば) が反発しました。これに対して興世王は
      武力を備えて足立郡内に入り、百姓の資財や家屋を没収してしまいました。

       武蔵武芝はこれに抗するも敗れてしまいます。それを知った将門は
      在地 (武蔵武芝) の側に立って両者の調停をしますが
      これは興世王を、百済貞連や武蔵介・
経基王(源経基)つねもとおう) と
      対立させることになり、在地の側に立って行政の強化に抗したということが
      「平将門・興世王・武蔵武芝に謀反の企て有り」 という密告を
      経基王にさせることになってしまいました。


       将門は事実無根であることを藤原忠平に上申。
      これに対して父の仇に執念を燃やす平貞盛は
      将門を朝廷に召還する内容の命令書を得ると、それをたずさえて関東へ下りました。

       そのような時に、常陸国の土豪で、国守に従順でなかった
      藤原玄明はるあき) に対し、常陸国守・藤原維幾これちか) は
      実力行使に訴えて、藤原玄明追捕の行動を開始しました。

       追われた藤原玄明は、将門の庇護を求めて下総に逃げ込んできました。
      939年11月、これに応える形で将門は軍を起こすと、常陸国に攻め入り
      国府を制圧しました。この時常陸国府には、平貞盛がいました。将門の行動は
      まぎれもない 「国家権力に対する武力反抗」 となってしまいました。

      そして平良盛は 「反逆者・平将門を追討する」 という大儀名分を得ることになります。

   <7 うたかた>
       その時将門に対して 「常陸で朝廷に背いた以上、坂東全てを虜掠しても同じこと」
      と、そそのかす者がいました。興世王となります。

       この興世王の言葉を受けて将門は下野・上野へと兵を進め
      坂東四ヶ国を制した時点で 新皇 と名乗りました。 (事実ではないという説有り
      将門は、京都の天皇とは別の新たな権威を主張する必要に迫られただけで
      究極の権威としての天皇を否定した訳ではありませんでした。
      しかし朝廷からしてみると、それは坂東を独立させる行為にしか見えませんでした。


       940年正月、朝廷は藤原忠文ただふみ) を征東大将軍に任命。
      2月にようやく藤原忠文は出発することになりますが、その軍勢は貧弱なものでした。

       これまで坂東の土豪たちは、将門を公権力からの解放者として協力してきました。
      ところが将門が新皇を自称し、新たな公権力となってくると
      とたんに彼らは将門のもとから去っていくことになりました。


       朝廷が将門討伐に報酬を出すよう宣言すると
      土豪たちはとたんに将門に反旗を翻しました。
      この頃にはまだ後の源平のような強い主従関係は形成されていませんでした。

       下野では 「追討使」 に任じられていた平良盛が
      土豪の藤原秀郷ひでさと) と共に兵を挙げ、将門は敗走を重ねることになり
      2月には討ちとられてしまいました。この藤原秀郷の6代子孫が
      奥州藤原氏の祖、藤原清衡きよひら) となります。

       藤原忠文がようやく坂東に到着したのは、既に将門誅殺後のことでしたが
      興世王や将門の兄弟などの残党は一掃されることになり
      将門の乱は完全に終息を迎えることになります。

       平貞盛と藤原秀郷に功を奪われた形になった藤原忠文は
      恩賞を与えられないという屈辱的な体験をすることになりましたが
      続けて瀬戸内海での藤原純友の乱鎮圧を命令され、これを平定することになります。

       ただしそれも、将門の時と同じように純友軍からの造反を促すという形で
      反乱鎮圧も造反者の力によるものとなり、朝廷には反乱を鎮圧するだけの
      実質的な力のないことを露呈してしまうことになります。


   <8 武士団の台頭>
       将門の乱は、天皇や貴族たちに強い衝撃を与えることになり、これ以後貴族たちは
      東国の武士の動向に対する過度の憂慮の念にとらわれることになります。

       反乱への恐怖から、貴族たちの神仏への依存度が高まることになり
      同時に、朝廷に歯向かった将門に対する、恐怖と畏敬の念の交わった
      崇拝の観念が生まれ 「志なかばで無念の死を遂げた将門の怨霊」 の
      祟りを鎮めるための信仰が生み出されていくことになります。


       将門の乱に強い恐怖感をおぼえた朝廷支配層は、東国をはじめとする
      辺境での反乱に対応しうるだけの強力な体制作りに乗り出しました。

      朝廷は謀反人などの追捕に武士を動員するようになり
      朝廷より権限を与えられた武士は、自らの家人を駆使して任務の遂行にあたると共に
      国内の 「武勇の輩」 に対する動員権を持つことになりました。

       国家身分としての武士というものが、こうして確立することになり
      主従制に編成された武士団は、朝廷の地方支配機構の中で
      ますます重要な位置を占めることになり
      武士団台頭の基盤が固められていくことになります。


       しかし国家権力と社会が認知して発展していく武士は、一部に限られました。
      それは 「将門・純友の乱」 で功績をあげた者、およびその子孫のみで
      当面その役割を担うことになるのは、桓武平氏となります。
      源氏が台頭してくるまでは、まだいましばらくの時間が必要となります。

   <9 追記>
       東京都千代田区大手町 1丁目1番1号

       ここにあるのが、有名な 「将門の首塚」 となります。
      首塚・怨霊伝説などは、貴族たちの将門の反乱に対する過度の恐怖感と
      畏敬の念から出た産物であると思うのですが、詳しく知りたい方は
      そういったことを扱っているサイトを見てみるのがよろしいかと思います。

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  83: 賢者の石

   <1 錬金術>
       13世紀から 17世紀にかけてヨーロッパでさかんに研究された錬金術
      ところが西洋錬金術のベースとなったテキストというものは
      実はアラビア錬金術のテキストをラテン語に翻訳したものとなり
      更に言うと、アラビア錬金術のもととなったのは、ギリシア錬金術となります。

       更に遡ると、エジプトやバビロニアにまでも辿り着くことになります。
      この辺、天文学と同じ流れかもしれないですね。

       ところで 「錬金術」 というと、どのようなものをイメージされますでしょうか。
      怪しげな科学者が金を作り出そうと熱心に研究している・・・といったところでしょうか。

       ところがこれは、錬金術の一面を言い当ててはいますが
      それが正しい解答ということにはなりません。まじめな錬金術師にとっては
      卑金属の金への変成というものは、単なる研究の手段にしかすぎず
      そのような研究を卑しいものとして蔑む研究者もいました。

       錬金術の究極の目的、それは金を生み出すことなどではなくて
      
”賢者の石 (生命の錬金薬・エリクサー)” の秘密を解明することにこそありました。

        ※ ただし ”賢者の石” の秘密の解明だけが錬金術ということにもならず
           
ホムンクルス・・・すなわち ”神の手によらぬ生命の創造”
           などといったことも錬金術となります。なんだかイヤなイメージがしますが
           これはれっきとした白魔術の領域になります。
           むろんそこから足を踏み外して、死霊術、つまり黒魔術の領域へと
           踏み込んでいってしまう者もいたそうです。
           フランケンシュタインなどがわかりやすい例えになるでしょうね。

           ホムンクルスは現在甦りつつあります。何のことかというと
           クローン技術によって生み出された人造の生命のことです。
           唾棄したいですが、これをホムンクルスと言わないで何と呼びます?

           少々脱線いたしますが
           白魔術というのは 「自然の力を扱う魔術」 のことで、黒魔術というのは
           「この世のものならぬ存在(
主として悪魔)の力を借りて行う魔術」
           のことになります。だから死霊術というのは 「死」 という
           自然の現象を扱っているので、必ずしも黒魔術になるわけではありません。
           必ずしも ネクロマンサー (
死霊使い) =黒魔術 という風にはならないのです。

           逆に神の力を借りて行った奇跡が、考え方によっては
           黒魔術になってしまったりします。ゾンビ使いの白い僧侶・・・だなんて
           イメージダウンもはなはだしいんですけれどね。


   <2 賢者の石>
       錬金術師は 「世界が創造主によって作られた」 ということを当然のことと考え
      「全てのものは創造される前は主の内にあった」 と考えていました。
      「全ては一であり、また一は全てである」

       つまり
      「あらゆる存在の内には共通する要素、すなわち神の ”” (第一原質と言う) が
       含まれており、神が世界を創造する以前のカオスは、この第一原質から成っていた」

      ということになります。

       物質からあらゆる特性を取り除いた後に残るこの第一原質は
      いかなる特質も持たないが、同時にあらゆる特質を持ちうる可能性を秘めている。

      先回りして言ってしまうと、この 「もっとも完全な不変不滅の物質」 であり
      「不完全なものを完全な姿に変容させる効果を持つ」 とされたもの・・・
      それが賢者の石となります。

       賢者の石は、石とは言いますが、これが正解などという形状はありません。
      石・軟膏・液体・粉末・・・いろいろな説がありますが、多くは透明で淡い硫黄色をした
      ガラスのような固体と考えられていたようです。琥珀のことでしょうか?

   <3 四大元素>
       錬金術師たちは、第一原質を物体から還元して取り出し
      新たなよりよい特性を与えたり、あるいは物質の中の第一原質に
      影響をおよぼすことができれば、どんな変化も思いのままになる・・・と考えました。

       この考えを補強したのが 「地水火風」 の四大元素理論となります。
      「世界のあらゆるものは、地水火風という四大元素の組み合わせで成り立っている」
      という、17世紀頃まで一般的だった考え方です。
      つまり、四大元素は第一原質のもっとも基本的な発展形態ということになります。

       たとえば粘土。

       粘土はどのような形状にも加工できるし、焼いて硬くすることも
      大量の水に溶かして液体にすることもできる。
      でも加工後の結果がどんなに違った形態に見えても、もとをただせば粘土である。

       新たな形態の差は、単に四大元素の混合比率と
      基本的性質の違いによるものにすぎない。
      もし加工のプロセスを逆行させることができたなら、最後には粘土が残る。
      そしてこの粘土を別の手段で再加工すれば、以前とは違う加工物にすることも
      可能なはずである・・・。


       これが錬金術の基礎となる考え方になります。
      錬金術師らのこのような考え方は、自然の理に反するものではありませんでした。
      何故ならば 「自然は常に完全を目指す」 という思想があった為です。

       胎児は成長して大人となり、種は芽吹いて草木になる。
      だから鉱物もまた、大地の懐に抱かれてだんだんと完全な状態へと成長していく。
      完全な鉱物・・・つまり、もっとも安定し、もっとも錆びにくい金属・・・です。


       錬金術師の考え方によると、卑金属を金に変成させるということは
      「完全を目指す」 という自然の動きを、加速させてやるだけのことになるのです。

   <4 大いなる幻想の遺産>
       賢者の石には、卑金属を純化し金へと成長させる力があり
      人間に使用すれば、万病は癒え、若返り、やがては不死の肉体を獲得できる。

      人間の完成した状態とは、エデンの園にいた頃の、神に創造されたばかりの
      純粋で不死の状態のことになります。だから、金の変成などという俗物的なことが
      錬金術の本当の目的などではないのです。

       賢者の石は、ある者には富をもたらす金の種、またある者には不老不死の万能薬
      またある者には神の英知の象徴・・・・。

       賢者の石は、神と人と物とを1つの仕組みの中で説明しようと試みた時代の
      大いなる幻想の遺産ということになるのかもしれませんね。
      それは大宇宙のルールを解明しようとする今の科学者たちと
      同じようなものなのかもしれません。

   <5 錬金術の落とし子>
       錬金術師たちの追い求めた賢者の石とは
      「あらゆる特質を持ちうる可能性を秘めている」 というもの。
      結局それは徒労に終わりました。 (現在進行形ですが
      ですが、外に見出すことのできなかった賢者の石というものは
      実は人の内にこそあるものなのかもしれないですね。ちょっとキザにすぎますか?(笑)

       錬金術の研究は無駄なことであったのかと言うと、実はそうでもなく
      その研究の過程で産み落とされた様々な技術が、現在役に立ったりしています。
      酢酸・硫酸・エタノールの発見、蒸留の技術の発達など
      これらは皆、錬金術の落とし子になるのですから。


   <6 もう1つの錬金術>
       13世紀から 17世紀にかけてのヨーロッパでは、もう1つの錬金術が
      猛威を奮うことになります。「人血から金銀を作る」 と言われたこの錬金術
      実は 「魔女狩り」 のことになります。

       魔女狩りについては 「アナーニ事件」 と 「ヴァンパイア」 をうまーく読めば
      ある程度わかるものと思うのですが、魔女の焚殺が最初に行われたのは
      13世紀フランスのトゥールーズとなります。
      そして 15世紀末に魔女裁判が確立し、魔女狩りが猛威を奮うことになります。

       魔女とされた者の財産は全て没収となるので
      魔女狩りは教会にとって大いにもうかる事業となりました。しかし時代が進むにつれて
      富裕な者が少なくなると、かえって経費倒れになってしまい
      魔女の処刑数は、ぐんと少なくなりました。
      そこで目をつけられたのが、莫大な富を有するユダヤ人。

       宗教に名を借りた 黄金を生む錬金術魔女狩り
      これこそ本当に、黒魔術の領域になるのかもしれないですね。

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