ある愛の詩 〜SMは進化する 1〜
ご存知の通り、SMの語源とされるのは「サド・マゾ」。
マルキ・ド・サド著「悪徳の栄え」の登場人物、サド公爵と奴隷マゾッホから採られたものである。
二人の間にはかなりの身分の差がある。公爵と奴隷なのだから。
しかし男と女の関係に理屈はいらない。サド公爵の中には愛情に似た感覚が芽生えただろうし、
マゾッホも主従関係以上の感情を抱いたに違いない。
しかし「月9」のドラマのようには物語が進まない。
「愛こそすべて」「愛こそ正義」といった風潮はこの時代には存在しないのだ。
サド公爵にしてみれば「何でこんな女好きになるのよ?」ってな感じなわけです。
それが歪んだ「愛の形」で表現される。
「コイツめ。コイツめっ!」ってな感じでシバく、シバく。
「お前なんかいなけりゃこんな気持ちになんなかったのに・・・」ってな気落ちでシバく。
それでマゾッホはそんなサド公爵の行為を、「愛があるからこその行為」として、
むしろその行為を受けることを喜びだす・・・
人間とは悲しい生き物で「パブロフの犬」のように、虐待でサド公爵の愛を感じる体になっていくのだ。
ここで描かれるSMというのは、紛れも無い「愛の形」である。
かなり歪んだ形での愛の形ではあるが。
思うに「S」は愛した相手を慈しみつつも、その表現が稚拙なヒューマニスト。
「M」は身分を越えた成就しがたい愛でさえ、夢を抱くロマンチスト、なのである。
・・・SMは「ロミオとジュリエット」のコインの表裏。純愛なのである。
「私ってSかも?」なんていってる女の子へ。それは貴女がワガママであることを示すだけ。
「私ってMかも?」なんていってる女の子へ。それは貴女がインランなだけ。
しかし「SM」は、日常のエロ行為に刺激を与えるべく、エロプレイとして進化していくのである。
エロプレイとしてのSMについては、またの機会に・・・
(2001/6/9)