〜松田凡作、教育を語る〜 (第一夜)
筆者はよく地下鉄を利用するのであるが、
腰痛になると空いている席のありがたみが文字通り骨身に沁みる。
30の坂をちょうど越えたあたりにて、優先席に座るのはいささか
抵抗があるのであるが、それでも立ちっぱなしの状況が
ギックリ腰の人間にとってどれだけ苦痛な状況であるのか
これはなったものでないとわからないだろう。
地下鉄には、様々な人間が乗り入れし、
だからこそルールがあり、マナーがあり、それが必要である。
よく「お年寄りには席を譲ろう」というマナーがあるが、
仮にそれが標語でなくとも、相手の立場になって考えれば
自然、席を譲ろうとする気持ちになるはずである。
恥ずかしながら筆者は、腰痛という難儀なものとお付き合いするまで
お年寄りの辛さというものを考えたことがなかった。
壮健なお年寄りもいるにはいるだろうが、歩くこと、立ち続けることが
難儀な行為であるお年寄りも多いだろう。
同じ料金で地下鉄に乗せてもらっている以上、
出来るだけ等しく快適に、地下鉄を利用する権利が、
お年寄りにも身体が不自由な人にもあるはずなのである。
しかし悲しいかな、人間というものは、自分がその立場になって
みないと、その人の気持ちにはなれないものである。
そこでルールやマナーが必要になってくる。
大人には常識人の振る舞いとして、
そして判断能力の乏しい子供には、標語や教育として。
先日、所用があって筆者が地下鉄に乗ると、
下校途中なのであろう、めがねをかけた利発そうな小学生が
同じ車両に乗り込んできた。
筆者が小学生の頃は、下校途中に駄菓子屋によったり、
河川敷で友人と遊んだりと、いかにな下校風景だったのだが
その”ペンと剣が交差”している制帽を被った小学生は、
かわいそうに地下鉄で下校である。世知辛い世の中である。
しかし、同情していたのはそこまで。
目の前には年寄りも、筆者のように腰痛で油汗をかいている者も
いるのに、空席を見つけるとぴょんぴょん跳ねるようにそこに向かい
何の躊躇もなく、着席したのである。
「親の顔が見てみたい」と、その心境である。
ある程度常識のある親であれば、子供料金で乗っている子供には
病人お年寄りを差し置いて、席に座ることの恥ずかしさを教えるだろう。
そしてその判断力のない子供に、標語として
「席を譲ろう」と教えるべきなのである。
相対的に高度な学校教育を受けているかも知れないが、
そういう「常識」、それを教えてもらっていない彼のような子供。
数十年後には、彼に向かって、筆者はこういうであろう。
「部長。部長はいつも素晴らしいですなあ」
・・・いい世の中だね。
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