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9月5日(火)


いじめについての報道が多くて、暗い気分にさせられる。



今まで見ただけでも、いじめを苦にして自殺してしまった子供たちは

数人にも及んでいて、子供を死なせてしまったにも関わらず、教員達は

どうもピンと来ないような言葉を発している。

ま、いうなればお茶を濁す、というか、責任転嫁、というか、ハッキリ言って

ピンと来ない、というか、怒りすら覚えるわけである。



このHPを見る人で、いじめに悩んでいる中高生はいないかも知れない。



いじめに悩んでいる大人はいるかも知れないが、アレだ、そもそも俺が

いじめどころか迫害されているわけだが、そもそも我々は自殺などしない。



幼稚園の幼児も、それなりの大人も、いじめを原因に自殺する人が少ない

ってことはよ、多分多感な時期に学校と家庭に閉じ込められている中高生が

いじめを苦に自殺するってことはよ、



ある程度、自分で考えることが出来て、この先いいことないから死んじゃお、

って思う中高生がいるってことはよ、



どう考えても学校と家庭に原因があるんじゃねーかよ、って思う。



逆もしかりでさ、いじめっ子も、学校と家庭に原因があるんだよ。



いじめっ子といじめられっ子は表裏一体で、どっちも病んでんだよ。



そしてその原因は、学校と家庭にあるはずなんだよ。





このHPにしてはありきたりだと思うでしょうが、そのありきたりなことを

なぜ認めない、なぜ誤魔化そうとする?





「いじめはありませんでした」 ないわきゃねーだろうが。



人間なんてさ、5人集まればいじめがないはずないんだよ。





「100人から生徒がいれば、いじめなんてあって当たり前じゃないか!

 何をくだらないことを聞いてるんだこのレポーターは!ばか者!」



そんな記者会見をする校長がいれば、かえって信用できるね。





まずいじめがあることを認識して、それを対策するのが学校だろ?

なかったことになったら、対策なんてしようがないじゃないかよ。



「ドラえもん」の素晴らしいところは、まずいじめの環境を設定して、

それに立ち向かうことを描いているところなんだよ。



ジャイアンを、大抵はドラえもんの道具を使って小突いて、ストレスを

発散するけど、肝心なところでは道具を使わず、正々堂々と勝負して

コテンパンになったのび太を「道具を使わないで、エラい!」なんて

ドラえもんに言わせて、戦うことを尊さを教えてくれるだろ?



ジャイアンにしたって大抵は理不尽だけど、彼が暴力を振るう理由は

野球のチームが負けたとか、自分がリーダーであるべく強さを誇示し

たり、とか、ガキ大将としてあるべき姿を顕著に示してるわけでしょ?



そのジャイアンも共通の敵にはリーダーシップを発揮するし、勉強とか

そういう分野ではのび太と気持ちが共有できる部分があるわけじゃん。





教員だって、人間として完成しているとは思わない。

だからこそ、いじめがある、ってことを認めて、それに向き合うべきだよ。



ま、無理だろうねえ。

教員が一緒になって、生徒をいじめてた、ってんだから。



そういう教員は、教員仲間や社会でいじめられてんだよ。

ストレス発散だったんだろ?みっともない。





このHPを見てる中高生、特にいじめられている人はいないかも知れん。

でも、もしいたらちょっとだけ聞いてくれ。



絶対死なないほうがいいよ。



明日からがツラい、とか、身を呈していじめっ子や教員に、一生消えない

傷を負わせてやろうとか思ってるかも知れないけど、



ほとんど病気な今のいじめっ子や、厚顔無恥な教員はね、君が死んだと

しても、何ヶ月かで忘れちゃうよ。



「ウチの学校に自殺しちゃったヤツがいてさあ」とか言って、数年後に

合コンの話の繋ぎネタになる程度だよ。



引きこもったっていい。君がそこまで追い詰められてるのは、学校の

せいであり、教員のせいであり、教員のせいなんだよ。



人のせいなんだから、人のせいにしたっていい。

自分が犠牲になることはないよ。



俺だってね、大していいことないけど、パチスロ打ったり、メシ喰ったり

そんなことだって楽しいからね。



死んでいいのは、ヒーローになれる時と、愛に殉じる時だけだ。





でもねえ、ふと思うんだけど、本当に”先生”って、いないねえ。

ま、いるんだろうけど、やっぱり他人の痛みを自分の痛みのように

感じてくれる友達や先生ってのは、色々な人と会って、自分で探して

いくしかないんだね。頑張れよ、少年。そしてみんな。そして俺。



9月4日(月)


クリント・イーストウッド
という人は、それはもう大した監督で、



「ダーティ・ハリー」に興味がない人にとっても、その監督としての手腕を

疑う人は少ない、そんな人物なのである。



今でもうっかり俳優として映画に出てしまったりしているのだが、

「許されざる者」から監督としての高い評価を得て、最近でいうと

「ミスティック・リバー」「ミリオン・ダラー・ベイビー」など、賞レースを

騒がせたこれらの映画のタイトルを、映画に鈍感な諸兄も、さすがに

耳にしたことがあるだろう。



だが、果たして興行的には、どうなんだろうか?

もっとクリント・イーストウッドです!的な宣伝の仕方をしないと、

ちょっと小粋な映画、的な印象しか与えないのではないか、と

余計なお世話であるが、気を揉んでしまう時がある。



”ダーティ・ハリーで有名な私が、勢いでメガホンを握ってみました”、と

そういう宣伝をするには、あまりにも監督としての実力があり過ぎるわけで

だからこそ、自分の俳優としての名前に頼ることなく、内容で勝負したれ、と

そんな気概が、かえって作品群を地味な印象にさせているような気がする。



そんな彼が、新たな試みの映画を発表するらしい。



アメリカと日本が激戦を繰り広げた「硫黄島」という島を舞台に、

アメリカ側から見たあの戦争、日本側から見たあの戦争について

各々1本ずつ、計2本の映画として公開するらしい。



とある映画批評によると、アメリカ側を描いたほうは、日本人を顔のない

単なる戦争の相手側として描いており、アメリカ側の苦難であったり、

アメリカ側の病弊、つまり自国への戦争批判を淡々と、シビアに描く、と



まあ、オリバーストーンや、我らが日本が誇るアニメのように



戦争やったらダメだよお!的な、冷静になって考えると

(当たり前じゃねーか!)ということを、アツく勢いよく語りかける映画とは

何気に一線を画しているつくりのようである。



確かに、戦争には各々の正義と各々の言い分があるはずで、

勝戦国であるアメリカが自虐的に描いていても、敗戦国である日本が

戦争の悲劇を嘆いていても、反対から側からみれば(何言ってんの?)

な感覚は否めないだろう。



各々の立場から淡々と描き、見るものに考えさせる、という意図の下

このような映画を撮ったのであれば、イーストウッド、やはり単なる

タレント監督とはわけが違うのであろう。



ただし、いかに興味を持たせても、監督として鋭い演出をしたとしても、

観客を動因できないようでは、やはり映画人としては大したことはない。



大体、見に行く気が起きないでしょうよ・・・







父親たちの正常位って言われたって・・・え?違う?



・・・ああ、”星条旗”ね。いいじゃない、似てるんだから。



9月3日(日)


番号ポータビリティ
・・・って、携帯の番号はそのままに

キャリアを移行できる、って制度が始まりましたね。



そういう意味では私も、チンポの大きさはそのままに

小顔で男前な速水もこみちの身体に移行したいものだが、



いやいや、うそですよ。





もし叶うなら、
全部でいいですよマジで。

チンポもろとも乗り換えたいものですよ、彼の身体に。





さて、妄想はさておき、

10台の頃から携帯を携帯しているこの私は、たとえ数は少なくとも

合コンなどでゲットした女性の携帯番号を、

それこそ思い出フォトアルバムのように、大切に大切にとっておいて

おりますので、また、もしかすると何かの拍子に連絡があったりするかも

しれないので(あるわきゃねーか)、同じ電話番号で、じーっと待ってる

わけである。なんというか、
「昔の名前で出ています」状態であります。



番号ポータビリティっつーのは、電話番号はそのまま移行できても、

メールアドレスは移行できないわけじゃないですか?



秋の夜空を見上げ、ふと寂しさを感じトチ狂ってしまったハニーが思わず

「抱いて・・・」と私宛にメールを送ることがないとも限らず(ねーよなあ)、

だから今のところ全くキャリアを変更するつもりはないのだが、



それを聞いた、大局観のある友人の一言。





「”携帯変えました”って、入ってるすべてのアドレスに送ったほうが、

 かえって”どーしてる?”系の返信があるんじゃね?」






この一言二言で、今、猛烈にキャリア変更を検討中です。



9月2日(土)


秋の夜長のセンチメンタル・ジャーニー。



9月最初の更新は、何故か私の初恋の話で更新してみたのだが、

甘く切なく、ニガく苦しい恋を繰り返し…というより一方的な恋を

余儀なくされてきた私であるから、思うところや経験は、それは

先天的な男前と比較になるわけもなく、



まあ、30過ぎても改善されないと、単なるアブない人、ということを

重々承知してはいるが、若い頃は、同性の間でも異性の間でも、

恋愛に関しての相談役として適任であったようである。



おかげさまで大学3年の時には「二代目寅さん」の内定を得たのだが、

最終的には不採用。

その理由は
「男前過ぎる」という、その一言だった。



今となってはお腹にたっぷりの脂肪を蓄え、

ルックス的にもすれ違い人生的にも二代目として遜色のないキャラだと

内心自負しているのであるが、



この日記を更新している日から遡って2日間、

私の仕事で回った土地は鳥取〜米子〜島根の山陰地方と

そこから岡山に渡って、福山、広島と渡り歩いて帰路についた、という



なんというか生活自体も
フーテン化していて、なんだか

ほとんど同化してるんじゃないか、と、そんな気がしているのである。



おい。松竹&山田洋次。



そろそろ俺に目を向ける時が来たんじゃないだろうか?



9月1日(金)


皆様のご想像通り、いや予想を裏切って、というべきか。

私にも初恋というものがあり、私の初恋もまた、甘くほろ苦いものだった。



私が高校生の頃、通学のために乗る地下鉄東西線の木場駅で、

遅刻気味の時間に発車する中野行きの車両の中でしばしば会った、

笑顔の素敵なあの娘。彼女が私の初恋であったのだろう。



高校自体が茅場町乗換え、東横線直通日比谷線に乗らないとつかない

神奈川県の田舎にあったため、甘いひと時は木場〜門前仲町〜茅場町の

ほんの5分程度に留まっていたのであるが、青春真っ盛りの私は、その

会えるかどうかもわからない明日の5分のために何を話すかの予行練習を

2時間も3時間も頭の中で考えていたことを思い出す。



この行為が、とめどなく溢れる現在の日記の更新の表現方法に生かされて

いるのには疑いがないのであるが、残念ながら、あの頃の私の恋愛成就に

至ることためには生かされておらず、せっかく話す機会があっても



「おう」とか「へ〜」の相槌と、「それじゃ、また会ったら」と、一人背を向けて

茅場町にて電車を後にするのみの逢瀬であった。



今思うと、彼女のほうから色々話のきっかけを与えてくれたように思う。



今の私なら、そのネタを引っ張った挙句に発展させ、なんらかの笑いや

ウンチクに繋げることができるのだろうが、その時の私にそんな経験はなく

仮にあったとしても

(笑いに走れば軽いと思われそうだし、ウンチクは頭でっかちそうだし)と

寡黙であることを良しとする風潮であったと思うので、いずれにせよ

会話が弾むことはなかっただろうと思う。





「昨日の東京ラブストーリー見た?」



「あんまりトレンディドラマには興味ないから・・・」






年端も行かぬ高校生同士の会話である。

それ以上発展させる努力のない私の受け答えによって、

彼女の二の句は告げられなかったのであるが、前日のそのドラマよろしく



「SEXしよっつ!」と彼女が発言するはずもなく、万が一あったとしたら

経験のないながらもマングリ返しの一つも披露する準備があったとはいえ

所詮は織田裕二とは月とスッポンであるこの私。



まずはこの醜く太った体型を何とかしよう、と考えたのに違いない。



思えばその頃から、主食をウーロン茶として、カロリー摂取を極限まで抑え

笑顔の素敵な彼女に釣り合うべく、自分自身を変身させようとしていた。



その想いをあらわすことになるだろうと思うが、私は1年足らずで20kgの

ダイエットに成功。苦しい時も(あの娘に釣り合うような男に)という気持ちと

達成した折には告白できるようにと、その一念でダイエットに臨んだわけだが



皆様の初恋と同じように、その恋の結末はほろ苦く、

私がダイエットに成功し、自分自身が鏡に見とれて思わず5分が経過したり、

周りで歩いている私を見つめている年増の女性の股間から

ジュワンという湿った音が聞こえるのを意識するようになってようやく

「機は熟した」と思った刹那、その娘はどこぞのウマの骨と交際を始めており、

それから私は、高校のバッグに私服をつめ、どこぞのホールの新装開店に

足を伸ばす、立派なスロッターになっていった・・・ と、そういうわけである。



時が過ぎ、リバウンドというにはあまりに酷い
30kg増量を成し遂げた、

松田凡作 90キロ。

西田敏行のような表情で初恋を懐古して思うことには、概ね次のようなこと。





そのタイミングで。

機を見るに敏な男なら、タイミングを違えずチャンスをものにするだろう。

それが初恋であっても、センスのある男なら、そのタイミングを逃さないはず。



しかし
「男はつらいよ」の中で、寅さんも言っている。



「今度あの娘に会ったら、こんな話しよう、あんな話もしよう。

 そう思ってね、ウチを出るんだ。いざその娘の前に座ると、

 全部忘れちゃうんだよ。で、馬鹿みたいに黙りこくってんだよ。

 そんなてめぇの姿が情けなくて、こう、涙がこぼれそうになるんだよ。

 女に惚れてる男の気持ちって、そんなもんなんだぞ」





煮え切らないジュリーに対して、業を煮やしている田中裕子に語るシーン。

まっすぐに堂々と口説ける男よりなんぼか、誠実で真剣だ、ということを

これは田中裕子に言っているんではなくて、

いわんやジュリーに言ってるのでもなくて、





おメーらに向かって言ってんだよ!

女ども!






・・・さ、幾分、冷静さを取り戻したところで、なぜこんな話になったかというと

その娘の10有余年経過後、つまり本日、私の初恋の女性にばったり出くわし

相変わらず笑顔は素敵であったが、なんというか、



・・・体型が私と同じになっていた。





あの頃と同じく「じゃ、また会ったら」と早々に背中を向けて、そそくさと

あまりにそそくさと家路についたが、その理由はあの頃とは少し違った。



いや、何も経年変化を起こしていた彼女に、興味が失せたわけでもなく、





「初恋は 遠くにありて 思うもの」



有名な石川啄木の詩にあるとおり、私の想い出は、私の初恋は、

私の心の中でのみ、永遠に生き続けるべきであると思ったからである。



え?”初恋”じゃなくて、”故郷”?





いいんだよ。

いくつになったって男にとって、初恋は故郷(ふるさと)なんだから。




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